げほっげほ…げほ
枕元の水を一口含み、荒れた喉を優しく撫でるようにゆっくりと飲み込む。
先生がタオルの入った桶を持って部屋に入ってきた。
「体拭いた方がいいと思って用意したんだけど。どうかな、起きられる?」
「あ、いや、えっと…」
汗かいて…と言葉を言い淀む。今日の昼から寝たきりなのだ。当然お風呂にも入れていないし着替えもできていない。先生の提案はありがたいけど、それを素直に受けられるほど羞恥心が鈍っているわけでもない。
「だからこそだよ。ほら、背中から拭こうか」
「…一応聞くけど、変なこと考えてないよな?」
「考えてないことないけど、私だって時と場合を選ぶ。今はイオリの体の方が大事だよ」
先生はこちらに視線を合わせるとニコリと微笑む。
訝る私に対してあくまで体が大事だと言う。一言余計なのは先生といえば先生らしいか。
正直に言うと、肌に張り付いた服はしっとりと汗ばみ、脱げるものなら脱ぎたかった。
「じゃあ、お願い」
上半身を起こす。少し眩暈がして、ふわふわした感覚が全身を巡る。
「服脱ぐから。あっち向いてて」
「わかった」
先生の視線を確認して、ブラウスに手をかける。体の動きがスローになったように、ボタンを外す手がもたつく。数秒が経ち、数十秒が過ぎ、数分かけてブラウスを脱いで背中をあらわにする。布団の中で蒸れた肌に触れる空気が気持ちいい。
「もう大丈夫だから…こっち向いていいよ、先生」
下ろしていた髪を掻き上げて背中越しに先生を呼ぶ。先生の姿は見えないが衣擦れ音が近づいているのがわかる。
「それじゃ、触るよ」
「うん、お願い」
濡れたタオルが背中を襲う。
「んぅ…」
温い手が肌の不快感を拭っていく。濡れたタオルが上から下へ背骨を伝っている。
同時に触れられた箇所が敏感になり、びくりと肩を振るわせた。神経一本一本に電流が流れるようなくすぐったさを感じてしまい、思わず声が漏れてしまった。あぁ、どうか先生にばれていませんように。
「痒いところはございませんか〜」
「んぁ…それ、聞くのはッ…ちょっ と、デリカシーないんじゃ、あっ ないのか…」
我慢の抵抗虚しく体は素直な反応を示してしまう。
精一杯言葉を紡いだが、溢れ出る吐息がそうさせてくれない。
観念した私は、肩に置かれた大きな手に凭れ掛かり、唇を噛み締めながらただただ時間が過ぎるのを待った。
***
「はい、ボタンも終わったよ。」
「うん、ありがとう…」
あの後先生に体を拭いてもらって(さすがに大事なところは自分で拭いたが)用意された寝巻きに着替えさせられた。シーツの取り替えられたベッドへと再び潜り込む。先生は上着の袖を通してる。
「先生、出かけるのか」
「うん、仕事を残してきたからね。戻らなきゃ。」
「そうなんだ。別に私の相手なんてあとでも良かったのに。」
「そうはいかない。子供が目の前で倒れたら助けるのは大人として当然のことだよ。」
「隣の部屋には居るから安心して寝てるといい」
先生の手が赤ん坊をあやす様にぽんぽんとシーツ越しの胸をやさしくたたく。
「何かあったら電話でもSMSでも。イオリが楽な方法で連絡くれたら顔見にくるからね。」
「…うん」
隣の部屋への扉、1メートルもない。立ち上がった先生の顔はもう見えない。
半径5m以内に近づくなと先生に言ったことがあったっけ、その程度の距離なのに。
この1メートルがとても遠く感じる。
「ゆっくり寝て体を休めて、また元気な姿を見せてね。」
衣類とシーツはクリーニング屋を呼ぶから大丈夫だよーーー籠を持って扉に手をかける。
「あ…」
「ま、待って先生…!」
思わず大きな声が出る。
「先生、あの、その、えっ…と」
「今日は、一緒に…傍にいてほしい」
急に起き上がったせいで頭がぐわんぐわんする。目の焦点がズレる。
でも今は、先生が傍を離れるのが怖かった。隣にいて手を握っていて欲しかった。
もう1人の頃の様には振る舞えない。情けなく項垂れた姿を見られてでも、それが同情であったとしても。ただ自分だけのそばにいて欲しかった。
***
「先生って意外にも無骨な手なんだな。枕には向いてない。」
「それじゃあ私の胸を貸そうか。程よく柔らかくて気持ちいいと思うよ。」
「…バカじゃないのか」
一瞬飛び込みそうになった自分を心の中で諌める。
枕にした先生の手のひらは私の顔の半分を包むには十二分の大きさだった。
先生と私はベッドの上で向かい合って寝ている。先の懇願の結果、寝るまでは一緒にいてくれることになった。その代わり目は開けないこと、という約束付きだけど。
「先生」
「なに?」
「わたし、面倒くさいかな」
「どうして?」
「だって今日の私、迷惑かけてばっかりだったし、先生の仕事の邪魔しちゃうし」
「まさか、むしろ得しているよ。イオリの体の隅々を触診できたからね」
「なんだよそれ、ヘンタイ。」
「そう、イオリはヘンタイに付き合わされただけ」
「だから迷惑だなんて、面倒臭いなんて思わなくていい。全部私の我儘だから。」
そう言うと思った。先生は生徒のために動く人だから。
先生の手のひらに顔を埋める。柔らかな感触、大きくて無骨な手が頬を撫で付ける。
私のためではないだろう。
この優しさは生徒全員に分け隔てなく与えられるものだ。
一時の優しさに甘えてはいけない。体調が悪い時に優しくされて勘違いしちゃいけない。
だからせめてこの時だけ。
この瞬間は私の先生。私だけをみていて先生。
私に手を奪われて、私の傍にしか居られない先生。
頬を通して肌のはり、質感、体温を体に覚えさせようとする。
今だけは、今だけは私のものだ。
私の味方、私の先生。
欲求を満たす温もりに安心感を得た私は、目の前の暗闇の階段へと一歩づつ進んだ。
***
穏やかな吐息が手指を擽る。イオリ—-小声で呼びかけても応えない。ヘイローも消失しているところを見ると本当に寝たのだろう。体を起こしてイオリが顔を埋めている手を引き抜こうとする。が、腕が動かない。
あれ、なんで
ぐいぐいと引っ張っても抜ける気配がない。よくよく覗いてみるとイオリの細い指が上着の袖を捕まえている。
腕を引き抜くか?
—-だめだ、イオリの掴む力を振り解けない。随分と強く握られてしまっている。
服を脱ぐか?幸いにも掴まれているのは袖口だ。
—-だめだ、手を抜くときにショックを与えてしまう。起こしてしまっては元も子もない。
唸りながら時計を見上げる。時針は8を示している。
もう一度彼女の顔を覗く。自分の手のひらですやすやと眠る姿にはある種の庇護欲が掻き立てられる。手を軽く閉めると柔らかい頬を刺激して顔を顰める。
「
端末を枕元へ置き再び横になる。
「こういう誕生日があってもそれはそれで記憶に残るかな。」
プレゼントは明日にでも渡そうか。
「誕生日おめでとうイオリ。」
横で眠る愛くるしい生徒に祝福の言葉をかけて、自分も目を瞑った。