犯罪工学の少女   作:アイダカズキ

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最終話 愚者と愚者

 龍一は決済を済ませ、ロボタクから降りた。黄昏時のマンションは沈みかけた夕日の中、黒く巨大な箱に見えた。

 二度と見向きもしないだろうと思っていた、あのカードキーで中に入った。高級マンションの常で、目的の階まで誰にも合わなかった。

 音もなくドアが開くと、暮れなずむ街と、それを背景に立つ少女のシルエットが見えた。

 本人にしかわからない理由で少女は微笑む。

「……来てくれたのね」

 

「何か飲む?」

「いや、いい。気を遣わないでくれ」龍一は首を振った。そんなことよりも遥かに気がかりなことがあった。「やけにしおらしいな。どうした?」

「……怒られたの。百合子さんにも、滝川にも」

「あの2人からステレオで怒られたのか……」

 思わず神妙な顔になってしまう龍一である。百合子は全くと言ってよいほど声を荒げて怒ることはないが、その分、怒る時は肺腑を抉るのである。滝川についてはまだよくわからないが、何となく怒らせると怖そうだ、という思いはある。

 それでこうもしょげているのか、と龍一は目の前の少女を見やる。もちろん、言いたいことは山ほどあったが──しおれた花のような少女を前にして、ぶつけるものなどどこかへ消えてしまったのは確かだった。

「君は百合子さんとは知り合いだったんだな」

 夏姫は頷いた。嘘など思いつきもしないとばかりのしおらしさだった。「ええ。私がその……詳細は省くけど、進学をしくじりかけていた時に彼女の奨学金プログラムで助けられたの。あの人がいなければ、今の私はなかった」

「なぜそのことを俺に言わなかった?」

 口元を引き締めるようにして彼女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「百合子さんは自分の名前を出していいと言ったけど、私が無理に頼んだの。評価してほしかったの。あなたに。私の力量を……私自身を」

 今度は龍一が黙る番だった。あの喫茶店で彼女の話を聞いた時、自分がどれだけ真剣に受け止めただろうと思い出さずにはいられなかった。代わりに、別の質問をした。「結局、スンシンとはどういう関係だったんだ? いや、答えたくなければいい」

 あなたの方がよっぽど気を遣ってるわね、と彼女は苦笑。「隠すほどのことでもないわ。婚約者よ。正確には、元婚約者」

 天を仰ぎたくなった。「完全に政略結婚5秒前じゃないか」

「でも嫌いじゃなかったのよ」

 龍一は口元を曲げた。確かにスンシンは嫌いになることが難しい男であるし、異性から見ても好いたらしい部分はいくらでもあるだろう。だが恋愛感情を持つ前から今日からあなたの婚約者ですよ、と紹介されたらどうなるだろうか。よほど腹の据わった娘でも消化不良になるのではあるまいか。いや、夏姫の場合はその「腹の据わった」の部類に入りそうだから、なおさら複雑なものもあったのだろう。

「あの頃の私は子供だった。今でもそうだけど、もっと子供だった」夏姫はまたも苦笑する。「自分のお婿さんになる人の実家がどんなところなのかも、私の家族と彼の家族との間にどんな複雑な歴史があるのかなんて思いもしなかった」

 同時に思いつくことがあった。件の誘拐事件、瀬川とイルハングループの同盟強化(胸の悪くなる考えだが、政略結婚とはつまりそうだろう)に罅を入れることが目的なら──黒幕は瀬川の内情にも詳しい人物、とも考えられる。

「ねえ、私からも一つ聞いていい?」

「ああ」

「どうしてあの時、私をかばったの?」

「どうしてって……そりゃ、寝覚めが悪いからな」

 嘘ではない。だがなぜだろう──いつもならそれで済む説明が、今はあの時自分を突き動かしていたものの半分ほども説明できていないような気がした。頭をかきたくなった。

「もう一つだけ聞かせてくれ。『犯罪のない世界』なんて、本当に来ると思ってるのか」

「……わからないわ」

 途方に暮れた幼い女の子のような顔で夏姫は首を振った。「でも考えてみて──百年ほど前は、女が『勉強をしたい』と言っただけで狂っていると思われたのよ」

 龍一はしばしその言葉を反芻した。そして、口を開いた。

「……あれから俺なりにいろいろ考えてはみたんだが、やっぱり君の言う『犯罪のない世界』なんてものは俺には信じられない。空の雲をソフトクリームに変えると言われた方がまだ信憑性がある」

 何か言おうとした彼女を手で制した。「でも、まあ……俺のやりたいことだって、他人から見れば似たものに見えるんだろうさ」

「じゃあ……」

 一転して顔を輝かせた彼女を見て、どうにも照れ臭くなった。「勘違いするな。利害が一致したってだけだ。人をモルモット扱いするのは……まあ目をつぶるとして、そのために俺の生き様(スタイル)を曲げろ、なんて言われても聞かないからな」

「それでもいいわ。──ありがとう。これからもよろしくね、私の」

 彼女は手を差し出し、龍一は苦笑しながらその手を握ってやった。

 犯罪者の世界じゃ、彼女はまだまだ甘いんだろう。

 そしてまあ、たぶん、俺も甘いんだろう。

 

「──かくて彼と彼女は出会う。自ら運命を手繰り寄せたからこそ」

 上下左右どころか、明暗も時間さえ定かではない空間で全身白づくめの青年は微笑む。

「君たちを叩き潰したいと心から願う。

 君たちに叩き潰されたいと心から願う。

 まずは祝おう──我が宿敵の誕生を! 歓喜とともに、心からの歓喜とともに! 乾杯(プロージット)!」

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