前回、中庭で私の歌を聞いてからというもの、エースとデュースの様子がおかしい。
前までは、私をどこかの青タヌキと勘違いしているのかと問いただしたくなる程に、問題を起こしては泣き付いてきた二人が、最近は大人しいのだ。
それだけではない。学園長から押し付けられた雑用を代わりに引き受けてくれたり、学食をおごってくれたり、わざわざ寮まで送ってくれたりと、まるで別人になったかのように優しくなった。
理由はなんとなく予想がつく。おおかた、数日前の私の言動を気に病んでの事だろう。彼らはきっと気づいているのだ。私が今、精神的に不安定な状態である事に。
だから少しでもその負担を取り除こうとしてくれているのだと思う。
……でも、そんな優しさが今は辛い。
幼い頃から習慣づいたこの愚かな悪癖に原因なんかない。原因がないから解決する見込みもない。ただ時が過ぎて自然に緩和されるのを待つしかないのだ。
だから、これ以上心配なんてしなくていい。優しくなんてしなくていい。……そんな事をされても、私の面倒な性根は治らないから。
「気にかけるだけ、時間の無駄」
オンボロ寮の自室で一人、呟く。
『監督生は優しいから、いろいろと抱え込み過ぎるんだろうな』。
先日、エースとデュースから言われた言葉を思い出す。
昔から両親や周りの人間から何度も言われた言葉。私という人間の中で唯一価値がある部分。それが『優しさ』だった。
別に誰かに強要されたわけじゃない。ただ、周りに迷惑をかけたくなくてそう振る舞っていたら、いつの間にかそう言われるようになっていただけだ。
それはこの世界に来ても同じだ。
厄介事を押し付けられても、「魔力がない」と陰口を叩かれても、なんてこと無いようにヘラヘラと笑っているのは、別に私が『優しい人間だから』ではない。
魔力がないのは事実だから、言われてもなんとも思わない。
厄介事を引き受けるのも、こんな私に居場所を与えてくれる彼らへのせめてもの恩返しのつもりでやっているだけ。
……いや、恩返しなんて考えはおこがましいか。そうだな。あえて言うなら償い、だろうか。
こんな私のためにボロくはあるが住処を与えてくれて、必要最低限の生活費を与えてくれて、『監督生』などという大層な肩書を与えてくれて、仲良くしてくれている。それがありがたくもあり、同時に申し訳なくもあるのだ。
だから、私に出来る事ならなんでもしようと思った。いや、そうするべきなんだ。そうしなければいけない。
……まあ、その考え自体がただの自己満足に過ぎないのだろうけど。
(気持ち悪い)
鉛のように重い憂鬱も、こんな事を一人で悶々と考え込む自分の脳味噌も、私と言う人間を構築する全てが気持ち悪い。
どうせ時間がたったら何事もなかったかのように元に戻るくせに、鬱々と自己卑下という名の自分語りに酔う自分が心底嫌いだ。
死ねばいいのに、なんて。ああ、こういうところか。
このままだとまたエースやデュースに心配をかけてしまうかもしれない。ただでさえ二人にはここ最近迷惑をかけてばかりなのに、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
こういう時は歌でも歌って誤魔化すに限る。幸いにも今は一人だし、場所はオンボロ寮の自室だ。以前のように誰かに聞かれる事もないだろう。
そうと決まれば何を歌おうか。なんて、考えるまでもなかった。自然と口から出たメロディに合わせて声を出す。
この胸を占める感情を吐き出すように、消し去るように、私は言葉を紡いだ。
*
『最近、監督生の様子がおかしい』。
ある日、部屋で寝る支度をしていた俺のスマホに、エースからそんなメッセージが届いた。
なんとも急な内容に首をかしげながら、とりあえず『何がだ?』と返事を送ってみる。
確かに最近の監督生はどこか上の空というか、心ここにあらずといった感じだ。でもそれはテスト期間だからだろうと思っていたし、監督生自身も特に何も言っていなかったから気にも留めていなかった。
だがエースの話を聞く限り、そうではないらしい。
授業中もボーッとしていたり、昼食もいつもの半分程度しか食べなかったり、終いには一人中庭のベンチで寂しそうに座っていたとかなんとか……。
そんなアイツの様子を見て心配になったエースとデュースが悩みでもあるのかと聞いてみたらしいのだが、「大丈夫」の一点張りだったそうだ。
そこまで聞いて俺は腕を組んだ。確かにこれは心配になるレベルかもしれない。
ただでさえあいつは普段から厄介事に巻き込まれがちだし、魔力がない事を理由に他の連中から馬鹿にされる事も多い。
それになんといっても、元の世界から離れてこの世界にたった一人で来たんだ。ストレスの一つや二つ抱えていてもおかしくはないだろう。
初めて会った時からいつもニコニコと笑っていたあいつが弱音を吐く姿なんて想像もつかないが……それでもやはり不安要素はある。
(少し、様子を見に行ってみるか)
翌日、俺はエペルとセベクと共にオンボロ寮に向かっていた。
なんでも、この二人も昨夜デュースから同じ内容のメッセージを受け取っていたらしく、ならば一緒に行かないかという事で今に至る。
「監督生サン、大丈夫かな?」と心配そうな顔をするエペルに対し「まったく! これだから人間は軟弱で困る!」と大声を上げるセベク。
相変わらず賑やかな奴らだなと思っているうちに、あっという間にオンボロ寮の前についた。
ドンドン、と扉をノックしてみるが返事はない。念の為もう一度強めに叩いてみても結果は同じだったので、俺たちはそのまま中に足を踏み入れた。
談話室に人の気配はなく、奥にあるキッチンの方からも物音一つ聞こえない。
グリムの姿も見えないし、まさかまだ帰っていないのか? と思った時、二階の方から誰かの声が聞こえてきた。……監督生の声だ。
エペルとセベクを連れ階段をあがり、声がする部屋の前まで行くと先程よりはっきりとその内容が耳に入ってくる。
扉の向こうにいる監督生は、歌っていた。
あいつの歌にはあまり良い思い出がない。以前、わけあってサバナクロー寮に転がり込んで来た時、レオナ先輩にふっかけられた喧嘩に勝つためだと言って夜通し歌い続けた事があるのだ。
その時に歌った曲はどれもこれも胸糞悪い内容ばかりで、あまり気分の良いものではなかった。
だから今回もあの時のように不吉な歌詞を歌うのではないかと思ったが、どうやら違うらしい。
扉越しに聞こえる歌声からは、普段の能天気で強かなあいつの雰囲気は一切感じられない。伝わってくるのは、まるで自分の心の内をそのまま吐き出しているかのような、虚しさと苦しみに満ちた叫びのようなものだけだった。
俺たちが今まで監督生の強さだと思っていたもの。それら全てが偽物だとあいつは歌う。
どんな状況でも絶えない笑顔も、お気楽な性格も、全て他人の顔色に合わせて作り上げた仮面なのだと。
それは、今まで俺たちが抱いて来た監督生像を根底から覆すものだった。
だが同時に、なぜか納得してしまった自分もいる。
あいつは確かに普段からエース達とバカ騒ぎばかりして騒々しい印象が強い。だがその一方で、時折見せる表情や物言いは驚くほど大人びていて、どこか冷めた目をしていた事も俺は知っていた。
あいつにとってこの世界は名前も知らない異世界だったんだ。文字も読めず、知り合いの一人もいない場所へ突然飛ばされて、あいつは一体どんな気持ちだったんだろう。
この世界で生きていくために、あいつはどれだけのものを犠牲にしてきたのだろうか。
俺はあいつの本当の姿を知ろうとしなかった。あいつの本心を垣間見る瞬間はいくらでもあったのに、『考えすぎだろう』と勝手に決めつけて蓋をしていたんだ。
……情けない話だ。本当に。
*
デュースクンから監督生サンの元気がないみたいだって聞いた僕は、ジャッククンやセベククンと一緒にオンボロ寮にやって来ていた。
あの監督生サンが暗くなっている所なんてあまり想像がつかないけど、きっと何かあったんだと思う。デュースクンの話を聞く限り昼食も残したりしているらしいし、もしかしたらどこか具合が悪いのかもしれない。
セベククンは相変わらず「軟弱だ!」って言っていたけど、監督生サンは女の子だし、やっぱりNRCみたいな男ばかりの環境はいろいろとしんどいんじゃないかな。
実家から送られてきた林檎ジュースを持ってオンボロ寮に行くと、中には誰もいなかった。
どうやら二階にいるらしい。階段を上がって声をかけようとしたその時、監督生サンの声が聞こえてきた。
いつも明るい監督生サンからは想像もつかないような悲しい歌声。
その口から紡がれる言葉は、まるで彼女自身の独白のようだった。
いつも笑顔を絶やさず、誰に対しても明るく接するのは、自分の弱さを晒して周りに心配をかけないようにしているから。他人に気を遣わせる事なんてしない。つかず離れずの絶妙な距離感で接して、当たり障りのない『優しい人』を装っているだけなんだと彼女は歌う。
"他人の顔色ばかり気にした生き方"……そんな生き方が虚しいと、壊してしまいたいと思うのに、そんな事は出来ない。
結局は『優しい人』であろうとする自分に酔っているだけだ、と自嘲気味に呟く監督生サンの声に、僕は「違う」と言いたかった。「君は本当に優しい人だよ」って。
なのに、一度開きかけた口は震えるだけで音を発さない。
だって、僕はあまりにも彼女について知らなさすぎるから。
家族や友達と離れてひとりぼっちになった時の寂しさや心細さも。
生まれ育った故郷から離れ、右も左も分からないまま魔法が当たり前に存在する世界に放り出された不安や恐怖も。
彼女が今までどんな世界で生きてきたのかも、何が好きで、嫌いなのかも。
何もかも、僕はまだ知らない。
そんな僕が慰めの言葉をかけても、それは酷く無責任で薄っぺらいものに思えて、どうしても口に出す事が出来なかった。
扉の向こうで歌い続ける監督生サンに、かけるべき言葉を必死に探す。だけど、彼女の歌が僕の思考を遮るように次々と流れ込んでくるせいで、どれ一つとしてうまく纏まらない。
監督生サンは一体いつから、こんな思いを抱えながらききて来たんだろう。
この学園に来てから? いや、それとも元の世界にいた頃からずっと、自分を押し殺して生きてきたのかな。
本当は泣きたくて、悲しくてたまらないはずなのに、誰にも頼る事ができず、ただひたすらに自分を偽って生きてきたんだろうか。
……そんなの、苦しいよ。辛いに決まっているじゃないか。
この世界の人たちは、きっとみんな君に救われている。
エースクンやデュースクンはもちろん、ジャッククンやセベククンも。
もちろん、僕も。
グリムクンだって、君の傍にいる時はとても幸せそうに見える。
だけど肝心の君が幸せじゃなきゃ、僕らは何の意味もないんだ。
誰かのために我慢する事はけっして悪い事じゃない。でも、一人で抱え込むのは良くない事だと思う。
今、扉の向こうにいる君は、とても苦しんでいるように見えるんだ。
だから、どうか泣かないで。
いつもみたいに笑っていてほしいよ。
*
人間は軟弱だ。
妖精族はもとより、そのハーフである僕と比べても遥かに脆い体と弱い力しか持たない。だというのにくだらぬ事でいがみ合い、争い、時には命すら奪いあう。
人間とはなんと愚かで浅ましい生き物か!
だというのに、リリア様はそんな人間達の事を『儚くも美しい存在』だと仰るのだ。
理解出来ぬ。
なぜ、脆弱な肉体と精神を持つ下等生物などを愛しく思えるというのだろう。
しかし、この学園で過ごすようになってからというもの、そんな考えも少しは変わったように思う。
以前までの僕だったら、こうして一人の人間のために時間を割く事などなかったはずだ。ましてや見舞いに行くなどと。
あの人間はこの学園の誰よりもひ弱で、優れた魔力も頭脳もない。それなのに、あいつの周りはいつもにぎやかで、自然と人が寄ってくる不思議な魅力があった。
底抜けに明るく、誰に対しても分け隔てなく接する優しさはこの学園は愚か、茨の谷でもあまりいない人種だと思う。……まぁ、たまに空気を読まず暴走する事もあるがな。
僕もそんな人間に対して最初ほど敵意を向ける事はなくなった。
あいつは他の人間達とは違って、僕がする若様のお話も興味深そうに聞いてくれるし、必ず最後まで付き合ってくれる。
たかだか人間風情と侮っていたが、あいつは魔力や肉体が優れていない代わりに、精神的な面で他の者たちよりも秀でていた。
でなければ、丸腰の女ごときが他寮の連中が起こした騒動に立ち向かおうなどと思わないだろうし、そもそもあのマレウス様に関わろうなどと恐れ多い考えに至る事自体が有り得ないのだ。
若様に対するなれなれしい態度は未だ許しがたい行いではあるが、それでもどんな過酷な状況でも笑顔を絶やさないあいつの心の強さは認めるべきところだと僕は思っていた。
それなのに、なんなのだコレは。
オンボロ寮の一室から聞こえてくる歌声は間違いなくあの人間の物だ。だが、その声が紡ぎだす内容はとてもじゃないがあの人間が歌っているとは思い難い代物だった。
まるで己の胸の内を吐露するかのような歌詞。
そこに込められた深い悲しみと絶望は、僕の心に重く圧し掛かった。
自分を押し殺してまで他者に優しくあろうとするあいつの思いや生き方が、僕には理解が出来ない。辛いなら、苦しいのなら、そう言えばいいではないか。
何もかも壊して楽になりたいと望むほどに無理をしているのに、なぜ自分を偽るのだ。そうまでして、あいつは他者に『優しい人』だと思われたいのか?
(……なんて愚かなやつなんだ)
本来の自分を抑圧してまで得た偽りの優美さは、いつか自分自身を殺す事になる。
そんな事にもあいつは気付かないのか? それとも気付いていてなお、そんな生き地獄を続けているのか?
お前がどんな苦しみを抱えているのか僕には全く想像がつかない。どうして、そんな生き方を選んだのかも。
だけど、一つだけはっきりしている事がある。
それは、このままでは近いうちにあいつ自身が壊れてしまうという事だ。
あいつはいつも笑っている。
だけど、それはただ本当の感情を表に出していないだけだ。
どんな過酷な状況でも周りの人間の気持ちを優先し、愚痴や不満や弱音すら一切吐こうとしない。
その心根の優しさは称賛に値すると思う。
けれど、それ故に自分の心を蔑ろにしているのが気に食わなかった。
あの人間は分かっていない。
あいつが自分自身を大切にしないという事は、あいつの事を大切に思っている者達の気持ちをも蔑ろにしているということに。
故郷に帰る術も見つからず、問題児ばかりが集う学園で暮らす事を余儀なくされているのだ。お前ももう少しくらい自分勝手に生きてもいいのではないか?
僕も他の連中も、それに若様だって、お前の自己犠牲の上で成り立つ優しさだけに惹かれたわけではないのだから。
*
ひとしきり歌い終え、胸を巣食っていた憂鬱も少し晴れた監督生が紅茶でも飲もうかと立ちあがった時。突然、背後の扉がバタン! と壊れそうな勢いで開かれた。
「人間っ!!」
「うわっ!?」
直後に響いたクソデカボイスはオンボロ寮中に反響し、監督生の鼓膜を突き破らんばかりの衝撃を与えた。
反射的に振り返った監督生の視界に映るのは、クソデカボイスの主であるセベクと、ジャック、エペルの姿。三人共、なぜかどこか神妙な面持ちを浮かばせているが一体どうしたのだろう。というか……。
「なんでいるの……」
いまだにキンキンと耳鳴りがする頭を押さえながら呟くと、セベクは眉間にシワを寄せてフンと鼻息荒く腕を組んだ。
「なんだその言い草は!! 僕たちはお前を心配して来てやったんだぞ!!」
などとまあ、相変わらずの爆音で喋るセベクの圧に監督生がおされていると、傍にいたジャックが「セベク、声」と苦言を呈してくれる。
おかげでようやく戻った静けさに安堵すると同時に、監督生はおずおずと口を開いた。
「えっと……心配って?」
「エースクンとデュースクンから聞いたんだ。最近、監督生サンの様子がおかしいって」
真剣な面持で語られたエペルの言葉に、監督生は「あー」と納得したような、それでいてバツが悪そうな表情を浮かばせた。
あの日以来、自分を気遣って優しくしてくれるようになったエースとデュース。彼らにこれ以上の迷惑をかけてはいけないと、普段通りに接していたつもりだったのだが……やはり二人にはバレていたらしい。
「お前、なにかあったのか? エースから聞いた話によれば、授業中もボーッとしている事が多いみたいじゃねぇか」
「悩みがあるなら相談しろ」。みなまで言わずとも、彼らの言葉の裏にある思いは痛いほど伝わってきた。
下手にごまかせば、余計に詮索される。いっその事、全て話してしまったほうが楽かもしれない。
だけど、監督生は言わなかった。
「別に何もないよ。ただもうすぐテストじゃん? だから、夜遅くまで勉強しててさぁ。そのせいで授業中も眠くて眠くて……」
嘘ではない。
テスト期間に入ってからというもの、勉強を嫌がるグリムを無理やり抑え込んで、毎晩二人で必死に机に向かっていた。加えて彼女の場合、少ない生活費を増やすためにテスト期間にもかかわらずモストロ・ラウンジでアルバイトをしている。
授業中にもかかわらずボーッとしてしまう事が多かったのは、それが原因だ。
ちなみに昼食の量が減ったのはテスト勉強に向けての気合い入れで慣れないカフェインを摂取し、胃を痛めただけである。
エースやデュースにもその事は伝えていたのだが、前回の一件を経て監督生が病んでいる事を知った彼らには、それすらも自分たちをごまかすための嘘だとしか思えなかった。
そしてそれは、二人から監督生の近況を聞いたジャックたちも同じである。
「こいつは自分たちに心配をかけさせまいと嘘をついている」……そう、疑いようもなく確信してしまったのだ。
「……本当にそれだけか?」
監督生の返答に怪訝そうに眉をひそめたジャックが尋ねる。
彼の瞳からは、「本当の事を言ってほしい」「自分に出来る事があるのならば協力したい」という強い意志が感じ取れた。
しかし、それでも彼女は口を割ろうとしない。
「本当にそれだけ。疑り深いなぁ、ジャックは」
へらりと笑うその顔は、一見するといつも通りだが、やはりどこか疲れているように感じられてならない。
傍にいたエペルが思わず「でも」と口を挟もうとするが、それは他ならぬ監督生自身に遮られた。
「それよりさ、エペル。その手に持っている紙袋ってなに?」
そう言って彼女が指をさす先にあったのは、紙袋に入った林檎ジュース。監督生の様子がおかしいと聞いたエペルが、少しでも元気になってもらおうと持ってきたものだった。
「え? ああこれ? ……林檎ジュースだよ。実家から沢山送られてきていたから、監督生サンにも飲んでもらおうと思って……」
「わあ、ありがとう! エペルの家の林檎ジュース、美味しいんだよね。あ、そうだ。せっかくだから皆で飲もうよ。私、用意してくるから。三人は談話室で待っていて」
エペルから林檎ジュースを受け取るなり、そそくさとキッチンへと消えていく監督生。
そんな彼女の姿を見送ったジャックは、隣に立つセベクに視線を向けた。
「どう思う」
「どうもこうもない。あいつは何かを隠している」
セベクの断言するような物言いに、ジャックは「だよな」と小さく呟いた。
まるで、『これ以上この事には触れないでくれ』と言わんばかりに話を逸らす監督生の態度は、普段の彼女とはあまりにもかけ離れている。
先程まであれだけ苦しそうな声で自分の思いを歌っていたというのに、どうしてそこまでして隠し通そうとするのか。その意地がジャック達には全く理解が出来なかった。
「どうする、二人とも? このまま監督生サンを放っておくわけにはいかない……けど」
「とはいえ、これ以上問い詰めても答えはしないだろうな」
「ああ、恐らくは……」
先程の歌の内容から察するに、おそらく監督生は「自分の悩みのせいで他人に迷惑をかけたくない」と思っているのだろう。
他人に自分の苦しみを吐露することによって相手から気を遣われたり、腫れ物に触るような扱いを受けたりするくらいなら、一人で抱え込んでいたほうがマシだと。
……きっと、自分たちの知らないところで、彼女はずっとそうやって生きていたのだ。
他者のために自分の気持ちを押し殺して意見を曲げる。そんな生き方、自我が強くプライドの高いNRC生である彼らには到底理解出来ないものであった。
しかし、今の監督生の状態を見る限り、彼女がいた世界ではそれが美徳として捉えられていたのだろう。
もし幼い頃からそうやって生きてきたのだとしたら、それはもはや一種の洗脳ではないか。
己の意見を言う事すら許されない環境の中で育ったが故に、彼女は無意識のうちに自己犠牲の精神を植え付けられてしまったのではないか。
その事に気が付いた瞬間、ジャックたちは背筋が凍る思いがした。
このまま放っておけば、いつか監督生は壊れてしまうだろう。
彼女の性格上、きっと、壊れる瞬間になってもなお自分以外の誰かの事を優先し続けるに違いない。
そんな事、一体誰が望むというのだ。
「……どうにかしないとな」
ポツリと零したジャックの言葉に、その場にいる全員が無言で首肯した。
――かくして、監督生自身が思っているよりも深刻に彼女の精神状態を危ぶんだ三人は後日、エースやデュースとともに『監督生を救い隊』というグループチャットを発足。彼女の負担を少しでも軽くしようと行動を開始する彼らによって先輩方や教師陣にまで話が伝わり、事態は学園全体にまで広がる事になるのだが……それはまた別の話。
●当話登場人物
・監督生(ユウ)
サブカル好き異世界人。
レオナの部屋に転がり込んだ時には、女子供が辛い目にあう歌を熱唱してSAN値を削ってやった前科者。
定期的に病むが、別に心配されたいわけではない。鬱な時には鬱な歌を聞くタイプ。
幼少期から他人の顔色を窺って生きてきたが、誰かに強制されてやっていた訳ではなく、すべて無意識下での行動であるため自己犠牲をしているつもりなど毛頭ない。
今回の一件を経て、マブダチたちから過保護にされる未来が待っている。
・ジャック
監督生の事は肝の据わった図太い奴だと思っていたのに、蓋を開けてみれば繊細で気付かぬ内に色々と抱え込んでいたのだと知って驚いた。
今回の件に加え、オクタ騒動の時に監督生が披露した歌の内容を思い出し、「もしかして監督生の故郷は男尊女卑的な文化があって、だから監督生も周りの顔色を窺うようになったんじゃないか?」という深読み考察をした。残念、杞憂である。
この後、監督生に何かあればすぐに駆けつけられるよう、常に彼女の動向を気にするようになる。
・エペル
デュースから「監督生の様子がおかしい」と聞いて身体の調子でも悪いのかと思えば、悪いのは身体ではなく心の方でした。
監督生とは今まで親しい関係を築いていたつもりでいたのに、その実、上辺だけの彼女しか知らなかったのだと思い知らされ結構ショック。
監督生は自分の優しさを『他人の顔色を窺って作り上げた偽物』のように形容していたが、「いや、そもそも他人の為に自らを犠牲にしようと思うこと自体、心根が優しい証拠だろう」と思っている。
・セベク
普段は監督生のことを見下しているような発言をする事が多いが、別に嫌っている訳ではない。
むしろ、誰彼構わず平等に接するところや人の心の機微を敏感に察せるところなど、自分には無いものを持っている彼女に対して尊敬の念を抱いている。あと単純にマレウスに関する自慢話をちゃんと聞いてくれるから好き。
他人のことは偏見なくありのままに評価するくせに、なぜ自分自身のことに関しては客観的に見れないのかと疑問に思っている。
・今回使用させていただいた楽曲様
『優.し.い.人 / こ.め.だ.わ.ら』
です。とても素晴らしい楽曲なので、お時間ありましたら是非聴いてみてください。