あの日の出来事を左之助さんが語ることはないけれど。錦絵の絵師を辞めると話す月岡津南の顔は何処か晴れやかで陰鬱な雰囲気は綺麗さっぱり無くなっていた。
「えぇ!?錦絵の絵師辞めるんですか!」
「そういうことだからよ。悪いな」
ショックを受ける妙さんと伊庭八の錦絵を貰えて喜んでいる三条燕の態度は対照的すぎて、左之助さんも給仕の仕事をサボらず、真面目に働いている。
まだまだ祝言を挙げるために必要な金額にも新居を買うお金も足りていないから、こうして左之助さんが働いてくれるだけで私は嬉しいです。
「やれやれ。やっと終わったでござる」
「剣心、店前の掃き掃除が残ってるぞ!」
「おろぉ……」
エプロンを脱ごうとする緋村剣心に箒を差し出す明神君に緩んだ表情で従った緋村剣心は渋々と店前の掃き掃除に向かい、開店前の「赤べこ」の前に落ちた枯れ葉やゴミを片付け始める。
「糸色ちゃんも錦絵の絵師でしたよね」
「えっ。ひえ…!?」
いきなり話題が私のものに変わり、なんで?と驚きながら妙さんと左之助さんを見ようとした瞬間、ずずずいっと妙さんが私の目の前まで迫り来ていた。
美人の鬼気迫る顔つき、怖すぎるわよね。
「妙、糸色が怖がってんぞ」
「あら、やだわ。ごめんなさい」
すぐに月岡津南と私から意識を切り替えて、開店前の仕事に取りかかる妙さんの思考回路に少しだけ興味を持つ。が、一度でもそういうものに引き込まれたら、二度と戻れそうにないから私が手を出す分野ではない。
いそいそとテーブルに内蔵できる七輪を置き、火種を七輪の中に用意し、そっと炭を温める。左之助さんがサボらないように監視……もとい見守りのためにいるだけで、私はお客さんのつもりはないんだけれど。
「左之助さんも仕事が一段落したら食べて下さいね。私一人だと食べきれる気もしませんから」
「ん。良いのかよ、妙」
「ええですよ、ツケも完済してますし」
「それなら白米は大盛りで頼むぜ」
そう言うと左之助さんは箒と塵取りを明神君に押し付け、濡れた手拭いで汚れた手や顔を拭き、私の対面に胡座を掻いて座り、熱せられる鉄鍋を見下ろしている。
「赤べこ」は牛の脂身をふんだんに使い、牛肉を焼き、豆腐や他の野菜を一緒に食べる食事だ。現代だと簡易化されたすき焼きも美味しいけど。
こういうお店の高級感を味わえる牛鍋を好きな人と一緒に食べるというのは素敵な事だと思う。まあ、その間も近くで月岡津南の錦絵をおねだりする声が無ければだが、妙さんってば本当に錦絵が好きね。