ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
中央諸国グレーゼ森林――
魔族一行の長い旅路も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
木漏れ日がまだらに降り注ぐ。
湿った土と腐葉土の匂いが鼻腔をくすぐる森の道を、三人はどこか気の抜けた、しかし満ち足りた空気を纏いながら歩んでいた。
ソリテールが友人と称す程度には親しい黄金郷のマハト。
彼が封印されている結界の解析に必要な情報は既に集め終わり、あとは懐かしい潮風が待つ北の拠点へと帰るだけ。
そんな旅の終着点を前にした、余韻のような時間である。
フルーフは、隣を歩く自身の旦那様について思いを巡らせていた。
自身で友人と称しておきながら、その友が魔王と同じ過ちを犯し破滅へ向かうであろう道を、積極的に歩ませようとするとは。
控えめに言って性格が最悪としか言えない。
長年の観察から、フルーフはソリテールの内面の傾向をある程度正確に把握していた。
あの美しい翠色の瞳の奥には、人類で言う所の、温かな友愛など欠片も存在しない。
マハトがたどり着くであろう悲惨な末路を、助けることもせず、見届けるに違いない。
無意味に人間に討たれて死ぬのなら、それはそれ。
ソリテールの中で「人類との共存は不可能である」という確信を再度深めるだけの材料となる。
もし仮に、万に一つも有り得ない結末が訪れたなら……それもまた、それはそれ。
彼女の知的好奇心を大いに満たす面白い結果となるのだろう。
フルーフは、そんな性根の腐りきった部分も含めてソリテールを愛していた。
何度目か分からない結論に至り、小さく笑みをこぼす。
ソリテールは道中手に入れた民間魔法の魔導書を片手に、術式の解析と発展性、応用の可能性を模索し、楽しんでいる。
リーニエは、戦士の村での一件以降、自身の未熟さを痛感したのか、以前にも増して積極的に戦闘を行い、その技を研ぎ澄ませていた。
三者三様、のんびりとした足取りで森林に囲まれた道を歩いていると――突如、森の奥から複数の足音が聞こえてきた。
それは、この穏やかな空気を乱す、無粋で野蛮な響きであった。
「またですか……戦争が終わって随分年月が経ったのに、物騒な世の中ですね」
フルーフがやれやれと肩を竦める。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、リーニエが獰猛な光を瞳に宿し、短く呟いた。
「……私が殺る」
リーニエが巨大な戦斧を担ぐと同時に、木々の間から獲物を逃すまいと数十人の男達が姿を現し、一行を取り囲んだ。
身に付けているものに統一性は無く、手には乾いた血痕がこびり付いた錆びた武器が握られている。
その下卑た笑みと淀んだ眼差しは、彼らが絵に描いたような山賊であることを物語っていた。
「今回で三度目です。前衛を買って出てくれるのは嬉しいですがリーニエ師匠、一人旅から帰ってからやけに好戦的ですね」
フルーフは呆れつつも、その背中に確かな信頼を寄せている。
「私はいずれ最強に至る戦士。だけど今の私は愚弟如きに力負けしている……そんなの認められない。足りない箇所は他で補う必要がある」
戦士の村で目の当たりにした、あの未発達でありながらも規格外な膂力。
磨けばどこまでも光る、圧倒的なまでの肉体性能。
それに比べて自分はどうだ。技術はあっても、純粋な力では劣っている。才能という現実を知った今、魔族としての優れた身体能力など、誇りにもならない。
魔力も……膂力も……技術も……心に焼き付いた最強の戦士の憧憬には程遠い。
リーニエの内心では、焦燥にも似た向上心が静かに燃え盛っていた。
へっへっ……と、山賊の一人が下品な笑い声を上げながら、手にしたサーベルを舌なめずりする。
頭上に輝く立派な二本の角が見えていないわけでは無いのだろう。
魔族と理解していながら、その瞳には一切の怯えが感じられない。
人間一名、魔族二名。
そのいずれもが整った容姿をしている。
これまで道中で遭遇した山賊達と同じだ。彼らは、魔族の端麗な容姿を、ただの力の無い女子供と侮り、己の浅はかな経験則だけでその価値を決めつけていた。
リーニエは、そんな愚かな人間たちを冷ややかに見つめながら、手にした得物を手首や首、腰でクルクルと器用に回し始めた。
加速していく鋼の軌跡。それは、これから始まる演舞の前の手慣らし。その滑らかな動きに合わせて、桃色のツインテールがふわりと揺れる。
人類が築き上げた道徳観において、「欺瞞」は紛れもない悪とされる。
ならば、その存在意義そのものが「人類を欺き、捕食するため」にある魔族とは、一体何なのだろうか。
彼らの呼吸、彼らの言葉、その美しささえもが、全ては狩りのための罠。
そうであるならば、魔族とは、その存在自体が悪そのものであると言わざるを得ない。
故に、無知は罪となる。
牙を隠した化け物に、可憐な小動物の幻影を見てはならない。
その皮を一枚剥げば、そこにいるのは紛れもなく、血に飢えた獰猛な獣なのだから。
それを知らずに手を伸ばす行為は、ただの愚行に過ぎないのである。
「おい、死にたくなかったら大人し――
次の瞬間、リーニエの全身で高速回転する刃の一振りが、最も近くにいた山賊の脳天から股下までを左右真っ二つに断ち割った。
男は、死という認識すら及ばない速度で意識を刈り取られ、崩れ落ちる。
手慣らしが終わったのか、リーニエは血振るいもせず得物を構え直すと、噴水のように血が吹き出る前に、その死体を回転蹴りで森の奥深くまで蹴り飛ばした。
「駄目。戦士アイゼンに迫る肉体も技術も心構えも……何もかも足りない。愚弟みたいな馬鹿げた身体は手に入らない……今出来ることは一つ、最強の技を血肉に刻まれるまで振るって、練度を上げ続ける」
「あぁ、前に話していたシュタルクさんですね。生まれ持っての身体的才能に対抗するのは、魔力を鍛えて地道に身体強化を図る他もありません。私のあげた保険を外付けの魔力炉とすることも出来ますが……出力の操作が出来ないんですよね。扱いきれない魔力で強化だなんて、魔力制御を誤って全身が爆発するだけです」
「知ってる、私は楽をするつもりなんてない……魔族として伸ばせる部分を徹底的に伸ばす。そして戦士アイゼンのいる高みへと至る。私の中の最強の戦士アイゼンは斧の一振りで空を割り、海を裂き、概念すら切り裂いている。まさしく最強」
山賊達が何かを大声で喚きながら襲い掛かってくる中、二人はそんなこと意にも介さず、いつもの調子で会話を続けている。
ソリテールに至っては、手元の魔導書に視線を落としたまま、顔を上げようともしない。
「あの……前から言おう言おうと思っていたんですが……。アイゼンさんそこまで化け物じゃないですよ? 超高度から落ちて無傷な化け物ですが……リーニエ師匠の中で神格化された最強の戦士とは絶対別物です」
「違う。最強の戦士アイゼンなら出来る。私の魂が言ってる……最強の戦士アイゼンなら出来たぞって」
出会った頃に比べ、比較にならない程戦闘技術を向上させている魔族リーニエ。
しかし、彼女がどれだけ成長しようと、その心に刻まれた神格化された最強の戦士は、常に更にその上を行く。
リーニエが岩を砕けるようになれば、最強の戦士は山を砕く。
リーニエが巨大な滝を真っ二つに出来るようになれば、最強の戦士は海を割る。
リーニエが刃で斬撃を飛ばせるようになれば、最強の戦士は遥か上空の雲を裂き、天を割る。
もはや戦士とは何かと問われるほどの超常的な存在に成り果てている戦士アイゼンの偶像。
しかし、その絶対的な偶像こそがリーニエの向上心を燃え上がらせる原動力であり、彼女の成長はその偶像が存在する限り、一生止まることがないのだ。
「過去を美化することは、ありがちですが、流石に無理で――のがぁ!?」
リーニエは、心底うんざりしたように、小さく息を吐いた。
最強の戦士への憧れ。
この神聖な気持ちを、この不死身の変態はいつだって土足で踏み荒らす。
それを正すのは、もはや師としての務めであった。
リーニエの振るった刃が、フルーフの首を「またか」と言わんばかりに綺麗に刎ね飛ばす。
ついでとばかりに、状況を理解できず呆然とする山賊たちの首も、面倒事を片付けるようにまとめて切り裂いた。
ポーン、と小気味よい音を立てて、フルーフの首が宙を舞う。
熟練の曲芸師が投げたボールのようにクルクルと数回転した後、ストン、と胴体の上に完璧に着地した。
「なんか芸術的な死に方したような気がします……ぉ、と」
絶命から蘇生したフルーフは、帽子を被り直すかのように自身の首の位置を微調整しながら、何事もなかったかのように口を開く。
眼の前で繰り広げられる、生物の理を根底から覆す光景に、山賊たちの理性は焼き切れた。
「ひぃっ!?」と短い悲鳴を上げ、もはやリーニエという規格外の脅威から逃れるように、彼らは再生したばかりのフルーフへと標的を変えた。
だが、それは更なる絶望への入り口に過ぎなかった。
戦闘技能は魔族二名に及ばずとも、伊達に永い時を生きてはいない。
迫りくるロングソードの突き。
フルーフはそれを避けるでもなく、自らの左腕を差し出した。
ズブゥ、と肉の裂ける湿った音が響く。
剣先は肉を抉り、前腕の二本の骨――橈骨と尺骨の間に寸分の狂いもなく滑り込んだ。
常人であれば絶叫するであろう激痛と機能不全を起こす程のダメージ。しかし、幾万の死で痛みへの感覚が麻痺した彼女にとって、それは些細なかすり傷に等しい。
フルーフは、人体構造を熟知した外科医のような精密さで剣を固定すると、腕を勢い良く捻った。
テコの原理で一点に負荷が集中した刀身は、甲高い悲鳴を上げて呆気なく圧し折れた。
「ふふ……どうですかリーニエ師匠。この天然のソードブレイカー」
「……日に日に戦法が気持ち悪くなっていくねフルーフ」
「酷い」
軽口を叩きながらも、フルーフの動きは止まらない。
腕に突き刺さったままの剣先を武器として利用する。近くにいた山賊の側頭部へと剣の突き刺さった腕を振り抜き、その頭蓋を刺し貫いた。
鮮血が舞い、鉄錆の臭いが鼻を衝く。その瞬間、彼女はソリテールの背後に迫る新たな殺気を感じ取った。
ソリテールの背後まで迫った山賊に対し、フルーフは最も効率的で、最も狂った手段を選択する。
自らの魂を内側から砕き、強制的に「死」を誘発。
疲労、魔力、不調、そして体内の異物。
フルーフの不死性は、死からの再生の過程で、生命活動を害する不純物を全てを体外へと排出する。
その再生過程を利用し、フルーフは自らの肉体を、血と筋肉で稼働する異形の投擲機へと変えた。
再生が始まった肉が、腕に刺さった剣の欠片を異物とみなし、凄まじい勢いで弾き出す。
射出された血濡れの凶器は、赤い軌跡を描きながら、ソリテールを狙う山賊の脳天を正確に貫通し、背後の大木へと深く突き刺さった。
「精度も上々、全身でもやれそうですね」
「だから戦法がキモい……二度と見せるな。目が腐る」
気づけば、辺り一面には物言わぬ肉塊が転がっており、立っているのは魔族一行だけであった。
フルーフは、部屋の掃除でもするかのように、散らばった四肢を掴んでは、森の奥へと無造作に放り投げていく。
「遺体は何時も通り、森にでも投げて魔物の餌にします。あ、リーニエ師匠食べます?」
「また死にたいのフルーフ。そんな不衛生な肉なんて食べれる訳無い」
フルーフが、まだ温かい山賊の脚をリーニエに差し出すが、リーニエは露骨に顔を歪め、鼻を摘みながら後ずさる。
どうやら、温室育ちのシティーガールと化した彼女の舌は、もはや一定水準の品質をクリアした人肉以外は受け付けないようだ。
「ふっふ……嬉しいですねぇ。私の身体は喰べてくれるのに……山賊の死肉は拒否ですか。……本当に嬉しい反応です」
なんだか不思議な気分だった。
弟子として碌に褒められなかったせいか、文句を言いながらも自分の肉体を喰らうリーニエに、フルーフは歪んだ自己肯定感を覚えてしまう。
ニチャリ、と粘着質な笑みを浮かべながら、手にした山賊の脚を森の奥へと投げ捨てた。
ニヤニヤするフルーフを放置してリーニエは彼女の戯言をいつも通り完全に無視。
先程の戦闘から得た学びと改善点を反芻するように、手元の魔力から残像を残す速度で多種多様な武器を高速で切り替え、その感触を確かめていた。
「はいはい無視ですね……いやぁ……気楽に旅するのは楽しいですね」
最後の遺体の処理を終えると、パタン、と本を閉じる音が聞こえてくる。
フルーフが視線を向けると、いつの間にか魔導書を読み終えたソリテールと目が合った。
彼女の唇が、ゆっくりと動く。
「ねぇフルーフ。少し良いかしら」
「なんでしょうソリテール様」
「帰る前に封印された腐敗の賢老クヴァールの所に案内してくれる? 確かフルーフは居場所を知っていたはず、魔族の中でも極めて優秀な魔法使いと知られる彼を一目見てみたいの」
「まぁ、はい……知っています……」
腐敗の賢老クヴァール。
その名前がソリテールの唇から紡がれた途端、フルーフの全身がピタリと硬直する。
それまで浮かべていた上機嫌な笑みは鳴りを潜め、その頬は痛々しいほどに引きつっていた。
「……様子が可怪しいね」
ソリテールの爬虫類のような瞳が、フルーフの内心を探るように細められる。
「い、いえ……お気になさらずソリテール様。お望みとあれば喜んでご案内します」
フルーフにとって、ソリテールの望みを叶えることは、自身の喜びに等しい行為のはずだった。
だというのに、その了承の言葉は僅かに詰まり、これからクヴァールの元へ案内する足取りは、見るからに重かった。
丁度目的地が近場ということもあり、魔族一行は、先程までの和やかな雰囲気とは打って変わった、どこか重苦しい空気の中、嘗て勇者一行が封印を施すしかなかった大魔族の元へと向かっていく。
先導するフルーフの背中を、ソリテールは瞬きすらせず、じっと見つめていた。
その美しい翠色の瞳には、もはや光沢は無く、光すら飲み込むようなドス黒い粘着質な湿りを帯びている。
湖畔を見渡せる小高い丘の上に、それはあった。
人間よりも遥かに巨大な体格を持つ、ツギハギの異形。
――腐敗の賢老クヴァール。
かつて人類を恐怖のどん底に陥れた最凶の魔族が、今は石像と化し、静かに封印されていた。
ソリテールは、クヴァールの石像を静かに見つめた。
そして、その表面を覆う封印の魔力に、そっと掌を触れさせる。
ピリ、と微かな抵抗を感じるが、それは嵐の前の静けさにも似て、あまりにも頼りない。
これが、勇者の仲間である魔法使い、フリーレンが施した封印。
ソリテールは内心でその構築理論に賛辞を贈る。極めて効率的で無駄が一切ない。術式の点検が容易く、機能美だけ追求した合理的な封印魔法だ。
しかし、それはあくまで過去の遺物に対する評価でしかなかった。
八十年という時は、強固な城壁をも風化させる。
術式に込められた魔力は薄れ、かつての輝きは見る影もない。
ソリテールにとって、それはもはや「封印」と呼ぶに値しない、ただの脆い殻だった。
人類の歴史と魔法の進化を傍観し、研究し続けてきた彼女から見れば、この古びた魔法は、子供の作った砂の城のように儚く、指先一つで崩せる玩具に過ぎない。
リーニエは石像の表面を自身の靴底でゲシゲシと蹴りつけ、その強度と感触を確かめている。
「状態は不安定。この調子なら10年も経てば自然と封印が解けるかな。その前に封印を張り替えるだろうけど」
「そうですか。それで……封印を解くんですか?」
「うん。彼は常に前線にいて、名前しか聞いたことのない偉大な魔族。これまで学習した人類の魔法がどれだけ通じるのか……少し興味があるの。それよりも珍しい。フルーフ……怯えているね」
「ご心配なく。初めて魔法で殺された相手なので……柄にもなく昔のことを思い出してしまっているようです。この腐れ爺には昔散々……ぁあ、いえ、コホン……失礼。少しクヴァールのモルモットになっていた時期があっただけです」
ソリテールがフルーフの手元を見れば、その指先は微かに震えていた。
どうやら過去にクヴァールから植え付けられたトラウマは、彼女の魂の奥深くに、今なお癒えぬ傷として残り続けているようだった。
最もそれは肉体面だけであって、精神面では怯えるどころか殺し合い上等と言わんばかりに目が据わっている。
「昔の口調が出る程だなんて……。それは、もう私には抱いてくれない感情。嫉妬してしまうわフルーフ」
相変わらず、ソリテールは常人とはズレた感情を向けてくる。
人間なら慰めや安心させる言葉を掛けるのが普通だろう。
だがフルーフは、そんな愛しの魔族の「らしい」態度に、強張っていた頬を僅かに緩ませる。
「はは、ソリテール様になら何されたって恐がりませんよ……愛の力は偉大なので――ぐ、がッ!?」
ソリテールは、フルーフのその返答を聞き終えるよりも早く、その白い首筋を鷲掴みにし、地面へと容赦なく叩きつけた。
相変わらず、人を安心させるような穏やかな笑みを浮かべ、フルーフを見下ろすソリテール。
しかし、その華奢な腕には血管がくっきりと浮き上がり、彼女が内心で激しい怒りに駆られていることを物語っていた。
「……そう。だけど私の奥さんの中に、腐った異物はいらない。貴女は私のモノ。他人が居座っているだなんて許せない」
その言葉に込められていたのは、人類が「嫉妬」と呼ぶ感情とは似て非なる、もっと原始的で、身勝手な独占欲だった。
フルーフは所有物だ。最も興味深く、最も愛しい餌。
その餌が、自分以外の存在に「恐怖」を向けている。
ソリテールの胸の奥で、名状しがたい何かがざわついた。縄張りに侵入した者の匂いを嗅ぎつけた獣のように、全身の神経が逆立つ。
魔族であるソリテールでも、「恐怖」は理解できる。
それは生存本能に根差した、数少ない人類との接点であり、彼女がフルーフを理解するための重要な手掛かりだ。
だからこそ、許せなかった。
自分とフルーフを繋ぐはずのその繋がりを、クヴァールという別の魔族が横から奪い取っている。
その事実が、彼女の中に抗いがたい怒りを生み出した。
仲間であるリーニエならまだいい。
彼女は既にソリテールの管理下にある、いわばテリトリー内の存在だ。
しかし、クヴァールは違う。未知の外部要因であり、排除すべき異物。
完璧に整えられた純白のカーペットに落ちた、一つの黒い染み。
ソリテールは、その染みを一刻も早く消し去りたいという、制御不能な衝動に駆られていた。
「は、っはは……それは。私を想ってくれているとい――ぐ、ふッ」
フルーフが何かを言い切る前に、ソリテールの拳がその頬に叩きつけられ、言葉が首筋に食い込むようにして中断させられる。
「……自惚れないでねフルーフ。魔族が人間のために動くと本気で考えているの? 私も貴女に恐怖を刻んだクヴァールと変わらない。どう。怖いでしょ? 恐がっていいんだよ」
凄まじい棒読みだ。フルーフは内心で毒づく。
嘘が下手にも程がある。なまじ強すぎると、こういう弊害が出るものらしい。
魔族特有の、他者を道具としか見ない傲慢さが透けて見える。吐き気がする。――なのに、その不器用さが愛おしくて仕方がない自分にも、同じくらい吐き気がした。
「……はは。幸せ過ぎて怖いかも……しれませんねぇ――ぐぁ」
殴りつけられ、視界が黒く染まる。眼球が潰れた。
首筋に牙が沈む。馴染みのある鋭い激痛――熱い、と思った次の瞬間には、その熱ささえ遠のいていく。
血が抜け落ちていく喪失感だけが、ぼんやりと残った。
傷口に、冷たい外気が染みる……どうやら、相当深く噛み千切られたようだ。
更に、反対側の首筋まで無慈悲に噛み千切られ、頸動脈から血が噴水のように吹き上がる。
フルーフの意識は急速に朦朧としてきた。
死に向かうその感覚を、朦朧とする意識の中で感じながら、フルーフはそれでもソリテールを優しく抱きしめ、宥めるようにその背中を擦る。
獣のマーキングのように、何度も、何度も執念深く、歯型がフルーフの全身に刻み込まていく。
「……フルーフ。貴女は私のモノのはずだ。あの時そう誓った。私にソノ感情を向けないなら……貴女を捨てるわ」
「ゲフ…む゛、無理です。ソリテール様から与えられる全ては私にとって恐怖からは縁遠いものですから」
そんなセリフを吐きながらも、フルーフの内面は、論理的に破綻した二つの真実がせめぎ合っていた。
まず、経験則に基づく絶対的な真実。
「魔族は、理解不能な人喰いの化け物である」――他者を顧みない身勝手さ、突拍子もない行動。
それは、産まれた村を魔族に滅ぼされ、魔族のモルモットにされ、人間と魔族双方に殺され、魔族の研究を執念深く続けた彼女の人生が導き出した、揺るぎない結論だ。
その魂に刻まれた、血塗られた恨みは決して消えない。
そして、それに反するもう一つの絶対的な真実。
「ソリテールとリーニエを、心の底から愛している」
この二つの真実は、決して交わることなく彼女の中で並立している。
もしかしたら、擦り切れた前世の記憶が、今世のトラウマという現実を捻じ曲げているだけなのかもしれない。
だが、フルーフにとっては、もはやどちらが真実で、どちらが虚構かなどどうでもよかった。
どんな非道な行いを目にしても、彼女がソリテールを愛しているという事実に揺らぎはない。
なぜなら、彼女は一度、ソリテールに対する「恐怖」を完全に克服したのだから。
その時点で、彼女の心は決まっていた。この人喰いの化け物を、永劫の生涯をかけて愛し抜くと。
「……困った奥さん。私の欲しいものを理解しておいて……与えてはくれないんだね」
「旦那様が素敵すぎて頑張っても嫌えそうにないですね……どれだけ待っても御望みの言葉は出せそうにもありません」
恐怖の感情も悲鳴も出てこない。
フルーフはソリテールを抱きしめ、その髪を優しく撫でながら、彼女が落ち着くのをただじっと待つ。
暫くフルーフに噛み付いたまま動かなかったソリテールは、やがてゆっくりと上体を起こした。
「ごめんさいフルーフ。慣れない感情で衝動的に動いてしまったわ」
「いえ、剥き出しの独占欲。大変心地よかったですよ」
「なら、許してくれる?」
「なら」ってなんだ。
コイツなら絶対許すだろうな、みたいな適当さが見え隠れする前置きだった。
「はい……ソリテール様になら何されたって大歓迎ですよ」
――あれ……なんか。これってDV彼氏を許す彼女みたいですね……。ま、まぁ……ソリテール様は半端な屑と違って優しい所は優しいですし……。いや、それより、この後絶対容赦なく何かしてくるはず。
「ありがとう……――殺すね」
来た、と思うよりも速く。
ソリテールが立ち上がり、フルーフの心臓部を肋骨ごとその華奢な靴底で踏み抜いた。
「さぁ、フルーフ。愛する旦那様に心臓を踏み潰されたんだ。最低だね……人間なら軽蔑するはずだ。傷ついたかな……理解できず恐怖した?死なないで、ほら何時も通り――死に際の言葉を聞かせて?」
「ごっほ゛……――あ、ぁぃ……愛してます」
「良い娘だねフルーフ。どんな時も変わらず従順で安心させてくれる。もうこんな不甲斐ない姿は見せない。その感情ごと一緒にクヴァールを殺そうか」
今世の私が呟く。「やっぱり魔族は糞ったれの害虫だ」と。
前世の私が大声で叫ぶ。「やっぱりソリテール様の攻めは最高ですね!」と。
小さな声は、より大きな声に掻き消される。
どれだけ積もり積もった魔族への恨みが溢れようが、全ての結果は、ソリテールへの愛へと収束していくだけだった。
◇◇◇
数十分後。
生々しいコミュニケーションを経たフルーフとソリテールは、すっかりいつもの仲良し夫婦に戻っていた。お互い血塗れで、しかし満ち足りた表情で手を繋ぎ、クヴァールの石像の元まで歩いてくる。
「なにしてるんですか、リーニエ師匠?」
そんな痴情の縺れを目の前で見せつけられたリーニエは、心底げんなりした顔で、石化したクヴァールの頭上で寝っ転がっていた。
「こっちのセリフだよ。……この色ボケ共」
流石のリーニエも、ソリテールの面倒くさい女ムーブを目の当たりにした後では、遠慮の欠片もなかった。大魔族相手に敬称もつけず、完全に色ボケ扱いである。
「リーニエ降りてきて。クヴァールの封印を解くわ。殺す準備は出来てる?」
クヴァールの石像から軽やかに飛び降りたリーニエは、ソリテールの真横に着地する。
その手には既に巨大な戦斧が担がれており、準備万端のようだ。
「少し待って下さい。細工の一つ程度はしておきましょうか」
フルーフが石像と化したクヴァールにそっと触れる。
数秒後、彼女はソリテールに向け親指を立ててゴーサインを送った。
それを受け、ソリテールが封印を解く。
石化した肌が砂のように崩れ落ち、その下から、生気を取り戻した灰色の肌が蘇り、ゆっくりと立ち上がっていく。
「ほぉ……久しいのぉ……フルーフ」
縫い付けられたかのような瞼が開き、その奥にある黒い瞳が、ソリテールやリーニエを一瞥するも、最終的には昔見慣れた白い髪を靡かせる人間を真っ先にその瞳の中へと捕らえた。
「……反吐が出そうな程懐かしい声ですねクヴァール」
フルーフは、貼り付けた笑顔を浮かべ、クヴァールへと痛烈な毒を吐く。
「ぬ――随分と……性格が変わったようだ。怯えながら魔族も人間も皆殺しにしてやると息巻いておった小娘とは思えんのぉ」
クヴァールは、その変貌ぶりに少し驚いたように言葉に詰まる。
魔法の実験動物として扱っていた頃の彼女は、常に全身を震わせ怯え、無言で殺気を滾らせながら、ブツブツと呪詛を吐くような人間であった。
しかし、今のフルーフには、その頃の面影が全く無かったのだ。
「あはは……まぁ、若気の至りというやつですよ。長く生きてれば血の気も引いてくるものです」
「……今はどうだ? 虎視眈々と儂を殺そうとしておった貴様は今でも健在かのう? それともまた儂の――ぬ!?」
クヴァールが、粘つくような声色で再びフルーフをモルモットとして勧誘しようとする。
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
クヴァールの言葉が終わるよりも早く、世界が音を失った。
漆黒の稲妻が、ソリテールの指先から無音で放たれる。
それは光というよりも、空間そのものを切り裂く闇の断層だった。
黒い閃光は丘の稜線を溶かしながら貫通し、その先に広がる穏やかな湖畔へと着弾する。
次の瞬間、遅れてやってきた雷鳴にも似た轟音が鼓膜を突き破った。
湖水は一瞬にして蒸発し、湖底に巨大なクレーターが刻まれる。
衝撃波が周囲の木々をなぎ倒し、巻き上げられた土砂と水蒸気が天高く舞い上がった。
焦げた空気の匂いとオゾンの刺激臭が鼻を衝く。
「初めまして、腐敗の賢老クヴァール。私の名前はソリテール……余り人の奥さんに馴れ馴れしく話しかけないで貰えると助かるわ」
ゆっくりとした足取りで、ソリテールがフルーフの横に並び、その腰を強引に抱き寄せる。
魔力制限はしておらず、クヴァールとソリテールの膨大な魔力が混じり合い、空気をビリビリと震わせる。お互い一歩も引かず、威圧感に満ちあふれていた。
「ほぉ、随分と殺気だっておる……何故儂に魔法を撃った。など無粋なことは聞かん……フルーフが目的であろう」
「もう貴方の物じゃないの。弁えてもらえるかな」
クヴァールは、何度でも再利用出来る便利なモルモットを欲するが為。
ソリテールは、獣じみた独占欲をこれからも満たすが為。
フルーフという存在を一切尊重しない、あまりにも身勝手な理由で二人の魔族は牽制し合う。
初対面にも関わらず、その場の空気は最悪であった。
「成る程のぉ……なら快く譲って貰うとするかの『
一触即発。
先に行動を起こしたのはクヴァールであった。
ソリテールに向け掌をかざし、ゾルトラークを放つ。
その黒い閃光がソリテールに直撃する寸前、リーニエが担いでいた巨大なタワーシールドに阻まれ、火花を散らしながら四方へと拡散していく。
そして、その盾は魔力へと変換され、リーニエの手元に集束していき、再び巨大な戦斧へとその姿を変えた。
クヴァールの意識が、リーニエへと真っ直ぐに向けられる。
リーニエは戦いの邪魔になる存在を排除すべく、背後のフルーフに短く命令した。
「……フルーフ。ジャンプ」
「了解ですリーニエ師匠。よっ――え、ちょ……」
長年の付き合いで培われた阿吽の呼吸。
フルーフは、その一言だけで、言われるがままにその場でぴょんと軽く飛び上がった。
その無防備な腹部に、リーニエの強烈な回し蹴りが寸分の狂いもなく炸裂した。
「ぐふっ」という蛙が潰れたような声を残し、フルーフの身体は「く」の字に折れ曲がる。
そして、人間大砲のように、風を切りながら森の奥深くへと一直線に吹っ飛んでいった。
遥か彼方で木々が数本なぎ倒される音が遅れて聞こえてくる。
「邪魔だから、暫く離れてなよフルーフ」
蹴り抜いた足を優雅に下ろしながら、リーニエはポツリと呟く。
クヴァールの狙いがフルーフである以上、この戦場に置いておくのは危険すぎる。
ならば、物理的に戦場から強制退場させるのが最も合理的だ。そんな、あまりにもパワープレイが過ぎる判断だった。
その一部始終を見ていたソリテールは、リーニエの実に魔族らしい合理性と容赦のなさに、心底満足したようにニッコリと微笑んだ。
「術式を構築し、盾のイメージを構築……具現化と同時に防御術式も組み込んだか。随分と無駄な工程を経た魔法の扱いかたをするのぉ」
「うるさいな老いぼれ。こっちの方が使いやすいんだよ」
リーニエは深呼吸し、全身の神経を研ぎ澄ませ、大地を強く蹴った。
彼女の姿が掻き消える。
クヴァールの鼓膜にほぼ同時に複数の足音と、防御魔法への衝撃音が聞こえたかと思うと、眼前には既に戦斧を振り終えたリーニエがいた。
「魔法すら使わず……随分と速い」
「魔法? お前らみたいな、魔力お化けと一緒にするな。こっちは魔力が少ないんだよ」
間近で感じ取る、クヴァールが放つ死そのもののような魔力の波動。
それに触れた瞬間、リーニエの全身を、抗いがたい原始的な恐怖が駆け巡った。
指先から急速に血の気が引き、心臓が肋骨の檻を内側から叩きつける。
呼吸は浅くなり、喉の奥がカラカラに乾いて張り付くようだ。
全身の細胞一つ一つが「逃げろ」と悲鳴を上げ、その生存本能が、彼女の足を地面に縫い付けようとする。
しかし、リーニエは屈しなかった。
震える脚に、無理やり力を込める。
恐怖で硬直する筋肉を、意志の力でこじ開ける。彼女は、その震えを否定しない。恐怖を恐怖として受け入れた上で、それを乗り越えるための燃料へと変えるのだ。
恐ろしい……身の毛がよだつ……――だけど、だからこそ……この恐怖には糧とするだけの価値がある。
「生きたい」と叫ぶ本能を、今度は「勝つために、生きたい」という、より高次の闘争本能へと昇華させる。
彼女の意識は極限まで研ぎ澄まされ、恐怖という名の雑音の中で、ただ眼前の敵を打ち破ることだけに、全神経が集中していく。
恐怖を完全に支配下に置いたリーニエの姿が、再び掻き消えた。
大地を蹴る音すら置き去りにする加速。年月をかけて編み出した我流の縮地――呼吸、魔力制御、体捌き、その全てが一つの動作に収束する。
彼女は、クヴァールの認識を置き去りにし、三次元的な軌道で空間を舞った。
右から、左から、そして頭上から――残像を残す幻惑的な動きで死角を突き、巨大な刃が嵐のように叩き込まれる。
ガガガガガガッ!
機関銃の連射音にも似た打撃が丘全体に木霊する。
火花が幾度となく散り、丘を照らす。だが、その悉くが――甲高い金属音と共に弾かれていく。
クヴァールの肌に触れる寸前、不可視の障壁がリーニエの猛攻を完璧に阻んでいた。
一連の猛攻を終え、リーニエは何事もなかったかのようにソリテールの隣へと戻る。
そして、手にした得物を魔力の粒子へと還すと、代わりにその両手に、指先までを覆う無骨なグローブを出現させた。
「駄目。アイツ物理が効いてない」
その声には、一切の焦りも落胆もなかった。
効かないなら次、とでも言いたげな、いつもの調子だ。
「流石は常に前線で人類と殺し合っていた魔族。戦士への対策も万全ね。リーニエ、前にあげた術式を込めた杖はどうかな?扱える?」
「ソリテール様……魔力がキツい。今の動きで脳の負荷もかなり酷い、アレを打つ前に魔力切れで倒れます」
「そう……なら、もう少し手数で攻めてくれる?」
「はい。魔力での切断ならどうかな……。おまけに振動もあげる」
物理攻撃の無効化を悟ったリーニエは、即座に次の一手へと移行する。
彼女は、クヴァールに向かってその華奢な腕を振り下ろすと、人形を操るように、その指先を小刻みに、そして複雑に動かし始めた。
その瞬間――世界に無数の亀裂が走った。
リーニエの指が、ゴキゴキと不気味な音を立てて宙を舞う。
その瞬間、クヴァールの足元に無数の線が走った。目に見えないほど極細の糸——彼女の魔力から紡ぎ出された、超高速で振動する切断の網だ。
巨大な蜘蛛の巣のように広がった幾何学模様が、次の刹那には丘そのものを細切れに刻んでいた。サイコロステーキのように切り分けられた岩塊が、重力を忘れたかのように宙へ舞い上がる。
かつて模倣した暗殺者の技を、己のセンスで昇華させた必殺の絶技。あらゆる物質を原子レベルで両断する、リーニエだけのオリジナルだった。
「――ソリテール様……あれ反則」
「一定の物理的衝撃を完全に防ぐ防御術式というところかな。その上燃費も悪くない。クヴァールの魔力による天然の魔力防壁と戦士対策の物理防壁。格下から付け入られる隙を徹底的に潰しているわ」
リーニエの猛攻を受けたはずのクヴァールには、傷一つ無かった。
悠然と宙に浮きながら、ソリテールとリーニエを見下ろし、その掌を翳す。
ドス黒い魔法の閃光が、二人に向かって降り注いだ。
「面白いのぉ……され、どう対処する?『
「『
ソリテールも一手出遅れる形で魔法を放つ。
二つの黒い閃光が衝突し、凄まじい爆風が吹き荒れた。
同じ魔法名。しかし、ソリテールの扱う魔法は、クヴァールの使用する貫通魔法とは根本から異なっていた。
貫通性をそのままに、只管に「魔力」という事象そのものへの分解を極めた、防御不能の一撃。
それが、古代の人類の魔法体系を学習し、ソリテールが編み出した、彼女だけのゾルトラークである。
一瞬の拮抗。
しかし、ソリテールの魔法は射線上の魔力を尽く分解し、クヴァールの右腕を跡形もなく抉り取った。
「随分と儂の魔法を好き勝手に弄り回してくれたものだのう。確か……こうだったか?」
「リーニエ……防がないで避けて。今ので解析されたわ。アレを打つ準備をしておいて」
右腕を失ったというのに、クヴァールの表情に焦りの色は一つも見られない。
それどころか、その貌を禍々しく歪め、笑みを浮かべていた。
残った左手の掌を翳すと、そこに見慣れた黒い魔法陣が現れる。
早すぎる――ソリテールは内心で、クヴァールの変態染みた解析速度に驚愕し、舌を巻いていた。
いくらベースが『人を殺す魔法』と言えど、有り得ない速度だ。
リーニエは、ソリテールの指示に従い、森の中に潜り込み、木々を蹴りつけながら高速で射程から逃れていく。
ソリテールはクヴァールのいる上空まで一気に飛び上がった。
「驚いた。クヴァール……貴方でもその魔法に組み込まれた術式は完全には理解出来ないはず。まさかそのまま写し取って使うとは思わなかったわ」
「確かにのぉ……既存のどの魔術体系とも違う不可解な術式と構築。儂も知らん、相当に古い時代のものか。じゃが、使用するだけなら問題はなさそうだのぉ」
クヴァールは顎を擦り、何でも無いように言ってのける。
「危険とは思わないの? なにかとんでもないリスクが隠れているかもしれないわ。注意してねクヴァール」
「安い脅しだ。連射性能にも秀でたこの魔法……高頻度で放つことを前提にした魔法にリスクじゃと? そんなものにリスクを掛ける度胸は貴様には無かろうて……」
リスクを掛ければ掛ける程、魔法の効果は底上げされる。
しかし、こんな通常攻撃のようにポンポンと撃つ魔法に、わざわざリスクを注ぎ込んでいればいくら命があっても足りないだろう。
クヴァールの言っていることは極めて正論だった。
「それに……フルーフが側にいたからのう。魔法による安全が保証できるまで散々実験したのであろう……儂ならそうする」
「そうだね……私の奥さんは私にだけ献身的なの。クヴァール貴方にじゃない……早くその薄汚い口を閉じたほうが良い。事実かも知れないけど……酷く気分が悪いわ」
ソリテールが、使い慣れた大剣を一本だけ宙に出現させる。
しかし、その剣はソリテールの制御を離れ、回転しながらソリテール自身に斬りかかってくる。
彼女は、それを掌に集中した魔力の塊をぶつけて塵一つ残さず吹き飛ばした。
――遠隔制御方の物理魔法は駄目か。一瞬で制御を奪われた。
クヴァール本体を魔力の塊で叩くには距離が有りすぎる……なら――
「――『
「選択肢はそれしかないのぉ――『
ソリテールとクヴァールの放った黒い閃光が、互いの存在を喰らい合うようにして対消滅する。
二つの影は高速で宙を舞う。
防御魔法などという生ぬるい概念が一切通用しないこの戦場では、飛来する死を、同じ死で相殺するか、あるいは体捌きで回避し、躱し切るしかない。
漆黒の極光が、秒間に数十発という常軌を逸した密度で夜空を埋め尽くす。
ある閃光は天を衝き、分厚い雲を十字に切り裂いた。
ある閃光は地を走り、穏やかだった湖畔の水を一瞬で蒸発させ、その湖底をガラスのように溶かしていく。
そしてまたある閃光は、遠くに見える山脈の稜線をいとも容易く抉り飛ばし、地形そのものを永遠に書き換えてしまった。
クヴァールは、その光景を、醜悪に満ちた表情で楽しんでいた。
対するソリテールは、一切の感情を排した無機質な瞳で、ただただ純粋な殺意だけを乗せた魔法を、クヴァールに向かって放ち続けていた。
魔力の余波が肌をピリピリと焼き、空気が焦げる匂いが戦場に立ち込める。
◇◇◇
場面は変わり、戦場から少し離れた森の奥地。
頭上では、世界を焼き尽くさんばかりの黒い閃光が絶え間なく交差し、空気を震わせる轟音が木々を揺らしている。
そんな危険極まりない光景を、フルーフとリーニエは、花火でも眺めるかのように、地面に大の字に寝そべって呆然と見上げていた。
「リーニエ師匠……見て下さい。即死ビームが何十も飛び交ってますよ」
フルーフが、他人事のように呑気な声を上げる。
「行ってきなよ馬鹿弟子。何回死んだか数えててあげる」
リーニエもまた、欠伸でも噛み殺しながら、面倒くさそうに返した。
「残念ながら……私にはここで大事な仕事があるんです」
「奇遇だね。私にもソリテール様から頼まれた仕事がある」
その言葉を合図に、二人の間に流れていた気の抜けた空気が一変する。
ゆっくりと、しかし同時に立ち上がった。
ソリテールは常軌を逸した強さをしているが、相手はあの腐敗の賢老クヴァールだ。
戦いが長引けば長引くほど、ソリテールの勝ち目は潰されていく。
あの老獪な魔族なら、今この瞬間にも新たな対抗策を編み出しているかもしれない。
ソリテールの異質な魔法すら、その深淵のような知識と発想で解析し、無力化してくる可能性も否定できなかった。
決着は、一瞬でつけなければならない。
「魔力は回復しましたか?」
フルーフの問いに、リーニエは短く、しかし確信を込めて答える。
「一回分を撃つ位なら平気」
「そうですか……ならクヴァールの動きを止めます。そのまま死ぬかもしれませんがね」
フルーフは、陰湿な笑みを浮かべ、事前に施しておいた細工を起動させる。
隔絶した魔法の才を持つクヴァールには無く、フルーフだけが持つもの。
それは、長い生と死の中で身に着けた魂の魔法。
「魔族が生み出した寄生魔法生物。それを改良した欠陥魔法を……クヴァール。貴方にプレゼントしてあげます」
ソリテールと出会う前のフルーフは、ただ一つの問いに囚われていた。
「どうすれば、この想いを伝えられるのか」。
魔族とは人類とは相容れない異質な感情の器を持った化け物だ。愛だの善意だの、いくらそんな言葉を尽くしたところで、それは無意味で虚しい風の音に過ぎない。ならば――
――無いものは、外から持ってきて、付け足してやればいい。
その日から、フルーフの終わりのない旅が始まった。
各地を転々としながら、出会う魔族を片っ端から狩り、その魂を収集する。
全ては、魔族の魂に人の心を移植するという研究のために。
魔法の才能に恵まれなかった彼女は、その非才を膨大な犠牲で補った。
狩り、殺し、魂を抉り出す。実験台となった魔族は、数えるのも億劫になるほど夥しい数に上った。
初めは単純な『移植』を試みた。
自身の魂の一部を切り取り、魔族の魂へと強引に縫い合わせる。
人間の感情を司る欠片を、空虚な器に埋め込もうとしたのだ。しかし、拒絶反応は凄まじかった。
適合しない歯車を無理やり噛み合わせたように、魔族の魂は悲鳴を上げて軋み、やがて光を失い消滅した。
失敗を重ねる中で、彼女は一つの結論に至る。
魂とは、指紋のように一つ一つが異なる固有の存在。
画一的な手術では、決して成功しない。ならば、アプローチを変えるしかない。
彼女は、自らの魂を「宿主」に合わせて形を変える、悍ましい「寄生虫」へと作り替えた。
その寄生虫は、まず標的の魂に取り付く。
次に、その一部を養分として喰らいながら、宿主の情報を読み取る。自らの形を最適化していくのだ。
最後に、喰らい尽くした欠落部分を――元からそこにあったかのように――補い、完全に一体化する。
結果は、驚くべきものだった。
殺戮本能は薄れ、魔族の魂には、人間らしい感情の揺らぎが芽生え始めたのだ。
フルーフは、ついに神をも恐れぬ禁忌の魔法を、その手で完成させてしまったのである。
「鳥肌が立つ……絶対私に使うな馬鹿弟子。私に近づくな……そんなの禁術として封印しろ」
「いや、絶対使いませんから距離を取らないで下さい。言ったじゃないですか、欠陥魔法だって」
実験は、ある意味では成功した。
しかし、その成功は、致命的過ぎる欠陥という名の代償を伴っていた。
――人の心を得た魔族は、例外なく、発狂し、自ら死を選んだのだ。
魔族にとって、人類を殺すことなど、呼吸をするのと同義の習性だ。
その永い生の中で、人の血に濡れていない者など、一匹たりとも存在しない。
だから、耐えられなかった。
彼らの空っぽだった魂に、突如として流れ込んできた、人並みの感情の濁流。
殺してきた人間の顔、耳に残る断末魔、命乞いの声。
それら全てが、今まで感じたことのなかった「罪悪感」という名の猛毒となり、彼らの精神を根元から腐らせ、その支柱を無慈悲にへし折った。
涙を流し、意味の無い謝罪を繰り返す者。
硬い壁に、狂ったように自らの頭を何度も打ち付ける者。
そして、自らのこめかみに魔法を放ち、その苦しみから逃れるように、即座に命を絶つ者。
フルーフが夢見た、魔族と心を通わせるというバラ色の光景は、血と臓物に塗れた死屍累々の地獄絵図へと一瞬にして変貌した。
魔族に人の心を与えれば、死ぬ。
それが、彼女が幾多の犠牲の果てに得た、唯一の結論だった。
「想像出来ない。人を殺した罪悪感って……何?」
「魔族にはわかりませんよ。人殺しを人殺しとも思わない魂で研究できればまた結果は違ったんでしょうけど。残念ながら……無尽蔵に研究に費やせる研究材料は私の魂しかありませんでした。あくまで人間性の根本は私です。寄生虫へと作り変えたまっさらな私の魂は、人殺しに何も感じない程、人でなしではありません。ですので……被検体となった魔族の性質に関係なく……強制的に色々感じさせてしまう訳です」
「ぺらぺら意味不明なことを語るな。だけど馬鹿弟子、お前の頭が可怪しいことはわかった。――あ、もしかして……」
リーニエの訝しげな声に、フルーフは悪戯が成功した子供のように、無邪気な笑みを浮かべて答える。
「はい。事前にクヴァールの魂にその寄生虫を植え付けておきました。もうすぐ混じり合って人類の感情が理解出来るようになるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、リーニエはぞわりと全身の毛が逆立つのを感じ、思わず自身の身体を強く抱きしめた。
悍ましいどころではない。聞いただけで魂が汚されるような、禁忌の魔法。
遥か上空でソリテールと激しい戦いを繰り広げるクヴァールに、リーニエは生まれて初めて、同族への同情を禁じえなかった。
そして、その予感は的中する。
暫くすると、クヴァールの動きが明らかに可笑しくなった。
全身を小刻みに痙攣させ、口からは止めどなく唾液が滴り落ちる。
彼は、何か見えないものから逃れるように、自身の頭を激しく掻き毟り始めた。
「あぁ……腐敗の賢老ともあろう御方が過去に囚われてはいけません。威厳を損なう前に、さぁ……リーニエ師匠、あの魔法大好き糞爺に最期の慈悲を差し上げてください」
「さぁ」ってなんだ。
リーニエは、出会ってから今日までの間で初めてフルーフに対して……コイツ怖ぇーわ、と思った。明確に、薄気味悪い恐怖の感情を抱いた。
「はぁ……後は殺るだけだし。任せなよ」
リーニエの言葉と共に、虚空から異形の兵器が出現した。
それは、彼女の身長を優に超える巨大な剛弓。黒光りする重金属で構築された本体には、理解不能な幾何学模様がビッシリと刻まれ、不気味な魔力のオーラを放っていた。
「何時見ても厳つい弓……じゃなくて杖ですね」
「魔力が全部持っていかれるから……介護はよろしく」
フルーフの言う通り、それは弓の形をした「杖」だった。
ソリテールがリーニエの我儘な要求に応え、採算度外視で作り上げた、一撃必殺の決戦兵器。
その内部には、複数の魔法を強制的に同時発動させるための複雑な術式が、幾重にも圧縮され組み込まれている。
効率性などという陳腐な概念を捨て去り、ただ破壊力という一点のみを追求した、まさしく「ロマン砲」と呼ぶに相応しい代物だ。
リーニエは、自らの魔力で槍のように巨大な「矢」を生成し、それを杖に番える。
その瞬間、彼女の全身の魔力が吸い込まれるように杖へと流れ込み始めた。
杖に刻まれた幾何学模様が紫電を迸らせながら激しく明滅し、その周囲に幾重もの魔法陣が展開されていく。存在しないはずの弦が、魔力の奔流によって限界まで引き絞られ、杖全体が悲鳴を上げるように軋み、撓る。
「これで終わり――『
解放の呪文と共に、リーニエの指から矢が離れた。
瞬間、世界が破滅の輝きに包まれた。
放たれた矢は、その先端に竜巻を纏い、爆炎を噴き上げ、紫電を撒き散らしながら、黒いオーラを纏った死の流星となってクヴァールへと突き進んでいく。
「フルーフ、魔力切れ。寝るから運べ」
全てを出し尽くしたリーニエは、その言葉を最後に、糸が切れた人形のように仰向けに倒れ、深い眠りに落ちた。
「リーニエ師匠、お疲れ様でした。後のことは、お任せ下さい」
フルーフは、主を失い静まり返った巨大な杖を軽々と拾い上げると、眠るリーニエをその背に負い、ソリテールの待つ戦場へと歩き始めた。
◇◇◇
場面は移り、戦場である遥か上空。
リーニエが放った『
しかし、矢の勢いは止まるどころか、更に勢いを増し、防御壁を突き破っていく。
鏃が高速回転し、高強度の物理障壁を術式ごと抉る。
一枚、また一枚と粉砕しながら突き進む。
ギャリギャリギャリと、甲高い音が止まること無く鳴り響いていた。
「――ぜぇ……ぐ、儂はぁ……なんじゃ……これはぁ」
クヴァールの黒い瞳は、瞳孔が開いたり閉じたりを繰り返す。
自身の顔を掻き毟り、その皮膚が捲れ上がり、その様子は尋常ではなかった。
「そう、クヴァール。貴方でも人殺しによる罪の重みには耐えられないんだね。人間が持つ感情。それらは私達魔族を容易く殺してしまう。私達が何故人類が持つ感情を持ち得ないのか……それは人食いの化け物が正しく進化した結果。きっと生まれながらに魔族にその感情があったのなら、私達はとっくに絶滅している。フルーフはまた一つ、魔族と人類の共存が不可能だと証明してくれた」
「ぐ、はぁ……はぁ……『
数秒掛からず、クヴァールの魔法防御を貫通する矢に、彼は掌をかざす。
頭を抑えながら、高圧縮の魔法を何度も放つ。
「クヴァール、無駄よ。リーニエの『
クヴァールの放った最後のゾルトラークも、リーニエの死の流星の前では、嵐の前の蝋燭の火のように儚く掻き消された。
そして、ついに破滅の矢が、その胴体を捉えた。
着弾の瞬間、まず鏃から発生した竜巻が、クヴァールの肉体を内側から抉り、ミキサーのように掻き混ぜる。肉が裂け、骨が砕けるグロテスクな音が響く間もなく、矢に込められた爆炎が炸裂。
超高温の炎と紫電が、その肉体を焼き尽くし、分解していく。
炭化と蒸発が同時に起こる、まさしく地獄の光景。
クヴァールを構成していた全ての細胞は、一瞬にして黒い塵と化し、衝撃波と共に風に吹き飛ばされていった。
破滅の矢は、その勢いを止めることなく空へと駆け上り、厚い雲を突き破って消える。
その軌跡には、ぽっかりと円形の穴が空き、後には何も残っていなかった。
かつて人類を恐怖のどん底に陥れた腐敗の賢老クヴァール……その命はあまりにも呆気ない、一瞬の閃光と共に、この世界から完全に消え去ったのだった。
「さようなら、クヴァール。――うん?……リーニエの魔力反応が無い、気を失ったのかな。ふふ、まだ実用段階には程遠いね」
同族であり、偉大な魔法使いであるクヴァールが死んだことへの感傷など欠片もなく、ソリテールは優雅に空を移動し、フルーフ達のもとへと向かう。
そうして……見慣れた白い髪が視界に入ると、彼女は静かに笑みを浮かべた。
「もう何も怖がる必要はないよフルーフ。これで貴女の中にあるものは私だけ……。私に恐怖を抱いてくれないというのなら、他の誰にも抱かせない。そんな感情を私以外に向けるだなんて許されない……それは裏切り。浮気だ。安心してフルーフ……私が一生守って喰い殺して上げる。貴女を恐がらせる存在は皆殺しにしてあげる。だからこれからも変わらず、私を愛し続けて」
ソリテールは、上空からフルーフを見下ろし、暗い声色でブツブツと不気味に呟き続けていた。
ニコリと歪んだ笑みを浮かべたソリテールは、リーニエを背負い近づいてくるフルーフに近づき、ソっと抱きしめた。
◇◇◇
その夜から、魔族と人間の歪んだ営みが始まった。
月明かりの下、屋根もない森の中で、ソリテールは三日三晩、飽くことなくフルーフを喰らい続けた。
それは、フルーフの心に刻まれたクヴァールの痕跡を、自らの存在で暴力的に上書きするための、あまりにも歪んだ愛情表現だった。
残虐という言葉では生温い。牙で肉を裂き、爪で内臓を抉り、その命が尽きる寸前に「愛している」と囁かせる。
そして、その言葉を合図に、また殺す。
壊れた玩具で遊ぶ幼子のように、ソリテールはフルーフの生と死を弄んだ。
しかし、フルーフもまた、その歪みきった求愛を心から楽しんでいた。
ソリテールの望みに応えることこそ、至上の愛の証明。
彼女は、この倒錯した情事にすっかり慣れきっており、マンネリを防ぐためと称しては、わざと悲鳴を上げ、涙ながらに命乞いをし、あるいは果敢に立ち向かう勇敢な戦士を演じてみせた。
その度に、ソリテールの瞳は暗く輝き、宴は更なる深みへと堕ちていく。
呆れ果てたリーニエは早々に近場の村へと宿を取り、二人の世界から距離を置いた。
一度だけ、気まぐれに様子を見に来た彼女が目撃したのは、血と臓物に塗れながら恍惚の表情で愛を交わす、理解不能な変態プレイ。
……リーニエは無言で踵を返し、二度と変態どものプレイ場へと近づくことはなかった。
そして、丸三日経った早朝。
何喰わぬ顔をしたソリテールとフルーフが、リーニエの泊まる村へと現れた。
そのスッキリとした、どこか満ち足りた表情とは対照的に、リーニエの顔には、この世の終わりでも見たかのような深い疲労の色が刻まれていた。
「こ、今回は中々ワイルドでしたね」
フルーフが、まだ熱の冷めやらぬ頬を染め、ソリテールの手を強く握る。
「そうだね……。ふふ、もしかしたら発情期かもしれないわ」
「はは。魔族にそんなものがある訳ないですよ、面白い冗談を言う旦那様ですね」
「昨日の夜のフルーフも面白かったわ。今度はもっと嫌がってくれてもいいよ」
「……恥は無いの。この色ボケ共」
リーニエの冷たいツッコミも、今の二人には心地よいBGMにしか聞こえない。
そんな他愛無く、しかしどこまでも歪んだ愉快な笑い声を上げながら、一行は本格的な帰路へとつく。
魔族一行の長い旅は、こうして一旦の終わりを迎えた。
これからまた、あの住み慣れた北の拠点で、自堕落で倒錯した愛の日々を過ごしていくことだろう。
研究報告書:異種族間における魂干渉とその精神変容に関する考察
著者:フルーフ
【序文】 本研究の端緒は、極めて個人的な願望に由来する。すなわち、私とは根源的に異なる精神構造を持つ特定の魔族、との真なる魂の共有である。
しかし、その探求の過程で副次的に編み出された本術式は、魔族という種の精神構造に不可逆的な変容を齎し、同時にその存在意義そのものを問う、倫理的に重大な問題を提起する結果となった。ここに、その研究の全容と、おぞましくも意義深い臨床結果を記録する。
第一章:魂の構造に関する基礎理論
魂とは、単なる生命維持エネルギーに留まらず、思考、感情、記憶といった高次の精神活動を司る根源的な器質である。特に人類の魂には、他者への「共感性」や、自らの行いを省みる「罪悪感」を形成する特有の領域が存在する。
対して、観察対象である魔族の魂は、極めて単純かつ自己中心的な構造を持つ。彼らの魂には、人類における上記の精神領域が先天的に欠如しており、他者を自己の欲求を満たすための手段、すなわち「餌」または「障害物」としてしか認識しない。この根源的な構造差が、両種族間の相互理解を不可能たらしめる第一要因である。
第二章:初期研究 - 魂接合術の試みと限界
初期段階において、私は自身の魂の一部を物理的に切り出し、捕獲した魔族の魂に直接縫合する「魂魄接合術」を試みた。これは、生物学における異種間の臓器移植に類似した発想であった。
結果: 予測通り、被検体の魂は激しい拒絶反応を示した。接合部は瞬く間に壊死し、宿主の魂全体が汚染され、その構造を維持できずに崩壊・消滅した。これは、肉体における免疫系の拒絶反応と酷似した現象であり、魂にも種族間の適合性を左右する根源的な機構が存在することを示唆している。
不完全な成功例(■■■): 唯一の例外として、まだ殺戮経験の無かった魔族の幼体(後の■■■)への施術がある。この時点の術式は、魂の構造情報が未分化であった彼女の魂に、部分的ながらも私の魂の特性を刷り込むことに成功した。しかし、これはあくまで未成熟な魂への「影響」に過ぎず、成体の強固な魂構造を改変するには至らない。この事例から、単純な接合術では成体の魔族の精神を変容させることは不可能であると結論付けた。
第三章:着想の転換 - 寄生生物からの着想
研究が停滞していた折、私は■■■■■■■■■■にて、ある特異な能力を持つ女魔族と遭遇した。彼女は、生物の脳神経に巣くい、その思考や行動を外部から自在に操作する微小な「寄生虫」を使役していた。
この観測記録は、私の研究に新たな光明を齎した。すなわち、「外部からの干渉による精神変容」という概念である。宿主の神経回路に直接作用する寄生虫の如く、魂そのものに寄生し、その構造を内側から書き換える「魂の寄生体」を構築するという着想に至ったのである。この忌まわしくも画期的な発想が、本研究を次の段階へと進める原動力となった。
第四章:魂寄生術式 - 理論と構築
上記着想に基づき、以下のプロセスから成る新たな術式を構築した。
魂の素体(寄生虫)の生成: 術者である私の魂から、人格、記憶、経験といった後天的な情報を全て剥離させる。これにより、純粋な「人間性の器質」のみを持つ魂の素体を生成する。これは、宿主の魂に寄生し、自己を鋳型として新たな精神構造を形成させるための種子となる。
寄生と魂の再構築: 生成した素体を、対象となる魔族の魂に直接侵入させる。素体は、宿主の魂の一部を捕食・分解し、その情報を吸収する。そして、生物が傷を修復するように、欠損した領域を自身の持つ「人間性」の器質で補完しながら再構築していく。このプロセスを通じて、魔族の魂の構造は、人間性の器質を組み込まれた新たな形へと不可逆的に変容する。
第五章:臨床実験の結果と致命的欠陥
本術式を複数の成体魔族に適用した結果、その精神に劇的な変化が確認された。しかし、それは私が望んだ結果とは程遠い、悲惨なものであった。
精神変容のプロセス: 術後、被検体は人間と同様の「罪悪感」や「他者への共感」といった感情を発露し始める。
精神崩壊のメカニズム: 問題は、この後天的に獲得した人間性によって、被検体が自身の過去の行いを「罪」として再認識してしまう点にある。彼らが数百年、あるいは千年以上もの歳月をかけて行ってきた捕食と殺戮の記憶。それら一つ一つが、植え付けられた罪悪感によって精神に許容量を超える負荷を与え、以下の症状を誘発する。
幻覚・幻聴: 殺してきた者たちの断末魔や、命乞いの声が絶えず聞こえる。
自己破壊衝動: 罪の意識に耐えきれず、自らの頭部を壁に打ち付けるなどの自傷行為を繰り返す。
結論:不可避の自壊: この精神的苦痛は、いかなる物理的苦痛よりも苛烈であり、被検体の精神の恒常性を完全に破壊する。結果、被検体となった成体の魔族は、例外なく発狂の果てに自ら命を絶った。魔族に人間性を与えることは、彼らの「生」そのものを根底から否定し、存在を許さないに等しい行為なのである。このおぞましい結果を前に、本研究は事実上頓挫したと言わざるを得ない。
【〆】 本研究は、異種族間の精神的共存という理想がいかに困難であるかを証明する結果となった。今後の課題として、罪悪感の概念を持たない魂、例えば、極めて自己中心的な人格破綻をきたした人間の魂を素体とすることで、この自壊プロセスを回避できる可能性が考えられる。しかし、それは倫理的に許されることではなく…………違う。何より私の本意ではない。
故にッ、この忌まわしき研究に、これ以上の進展はないだろう……。