ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
柔らかな陽光が降り注ぐシンビオシスの教育施設。
石造りの中庭には、子供たちの甲高い笑い声と、元気に駆け回る足音が楽しげに木霊していた。
魔族の子供も、人間の子供も、ここでは何の隔てもなく共に学び、遊んでいる。
穏やかな風が頬を撫で、安穏とした午後の空気が微睡みを誘う。
中庭に設えられたベンチに、一組の夫婦が寄り添うように腰掛けていた。
片方は純白の髪を持つ人間。
もう片方は、翠色の髪と二本の角を持つ魔族。
お互いの指輪が嵌められた掌を静かに重ね、そこから伝わる確かな体温に、二人は安らぎを感じていた。 それは、血と狂気で紡がれた彼女たちの関係性からは想像もつかないほど、ありふれた平和な日常の一コマだった。
二人の間にあるものは世間一般で語られる清らかな愛情で結ばれた夫婦関係とは程遠い、執着と偏愛が粘つくように溶け合った、どこまでも歪な繋がりだ。
分かり合えることは生涯無い。その魂の構造が、本能が、それを決して許さない。
破綻していると知りながら、それでも共にいることを選んだ魔族と人間。
フルーフはソリテールの手によって初めてその命を絶たれた瞬間から、何一つ変わることなくこの人喰いの化け物を愛し続けてきた。
どれほど惨たらしい扱いを受けようと、数えきれない死を経験しようと、その愛は色褪せることなく、むしろより深く……より普遍の輝きを増していく。
対するソリテールもまた、この数十年で僅かに変化していた。
愛情や恋慕といった、人間特有の複雑な感情を真に理解することは生涯ないだろう。
けれど、彼女は魔族が持ち得る他の感情――例えば、獲物への執着や、手放したくないという利己的な独占欲――それらを人間の「愛」という概念に当てはめ、フルーフが捧げる途方もない熱量の感情を、彼女なりに受け止めようと努めていた。
一方は、命の献身すら厭わない、狂信にも似た愛を捧げる人間だ。
その愛はあまりにも歪んでいた。殺され、喰らわれる行為にさえ、幸福と悦びを見出してしまう。
彼女にとって、自己犠牲こそが最も純粋な愛情表現だった。
もう一方は、それを野生の獣が獲物に向ける執着心と、他に替えの効かない利便性としてしか捉えられない化け物。
愛情という人間の感情を知識として蓄えながらも、その本質は決して変わることのない、冷徹な大魔族。
全く噛み合うはずのない二つの感情。
それなのに、彼女たちの関係は時を経るごとに強固に結びついていく。
嫌気が差すことも、飽きることも、熱が冷めることもない。
人間の男女であればいずれ訪れるであろう破綻の芽は、この異質な夫婦の間には生まれる気配すらなかった。お互いがお互いを、それぞれの歪んだ感情の熱で絶えず炙り続けているのだから。
フルーフはソリテールの望みであれば、臆病と自称する彼女の代わりにどんな人道に悖る業も平然と行う。 ソリテールはフルーフが決して逃げられないよう……魔族なりの歪んだ解釈で理解した、けれど確かな重みを持つ愛の言葉を囁く。
片方は純粋な愛のままに、自覚なく献身を捧げ、片方は打算と執着に塗れた、魔族の戯言を紡ぐ。
ほんの些細な切っ掛けで、周囲の全てを巻き込み爆発しかねない危うさを孕んだ、化け物夫婦。
魔族と人間は、その魂の根源からして違う。
喰うか喰われるか、遺伝子に深く刻み込まれた天敵同士。
その抗いがたい事実を誰よりも理解し、相互理解など不可能だと匙を投げて尚、二人の繋がりは日々強く……そして奇妙な形で結びついていく。
フルーフは生涯をかけてソリテールの役に立ち、彼女を愛し抜くと覚悟を決めている。
ソリテールは、自身にとって極上の餌であり、便利な道具であり、そして何よりも堅牢な盾であるフルーフという存在を、人間だろうと、魔族だろうと、果ては女神であろうと、誰にも渡す気はなかった。
不思議なもので、フルーフから一方的に始まった狂気的な執着は、今やソリテールの中にも、それと同等か、あるいはそれ以上に深く、粘り強く根を張っていた。
ズレ切った感情のぶつけ合い。決して噛み合うことのない歯車同士を強引に捻じ曲げ、無理やり嵌め込むかのように。
他の人間から見ても、他の魔族から見ても、どこまでも異質に映る二人の関係。
一体どこの世界に、殺される実感に愛を見出し、痛めつけられ、喰われることを許容する者がいるというのか。
一体どこの世界に、愛を囁き慕う者をその手で殺し、その死に際の言葉を聞いて悦に浸る者がいるというのか。
双方共に、相手からの真の理解など必要としていない。
ただ、そこにいて、それぞれの役割を果たしてくれるだけでいい。
そのはずだった。
けれど、常人ならば吐き気を催すであろう臓物と血液の沼の中で、二人の感情は確かに共鳴し、高まり、確かな繋がりを実感していた。
魔族は人間を徹底的に嬲り殺し、その最期の言葉に期待する。
人間は、生存本能が、その細胞の全てが断末魔を上げる激痛の中で、幸福にも似た充足感を感じていた。
そして、魔族が殺し、人間が死ぬ、その刹那。
血液に塗れてえずきながら、瀕死の人間から愛の言葉が紡がれる、そのたった数秒間だけは――二人の胸の内は、同じ幸福感で満たされる。
この一時だけは、魔族と人間の感情は限りなく近づいていた。
誰もが異常と忌避するだろう。
日常では決して愛情を共有出来ず、それが可能なのは死の間際だけ。
恐ろしく、世界の誰もが認めないだろう。
けれど、魔族と人間の恋人は、確かに夫婦と呼べる、狂おしいほどに強い感情で繋がっていた。
重ねた掌から伝わる確かな温もりに後押しされるように、フルーフは、こてん、と自身の頭をソリテールの肩に預けた。
彼女の翠色の髪がふわりと揺れ、フルーフの嗅覚をくすぐる。
それは血の匂いでも、魔力の残滓でもない、ただソリテールという個が放つ、不思議と落ち着く香りだった。
「……ソリテール様」
「どうしたの?緊張しているね、フルーフ」
身体の構造から血管の一本一本に至るまで、全てを知られているというのに、何を今更恥ずかしがっているのか。フルーフの白い頬に、ふわりと朱が差す。
言って良いものか……それとも胸の内に秘めておくべきか。逡巡するように、言葉が喉の奥でつかえる。
「……街も随分大きくなりましたね。それに魔族であるソリテール様を誰も怖がっていない」
「良い感じね。無害な魔族の子供も関係していると思うけど、フルーフの働きが一番大きいわ。此処の人間なら、フルーフの大事な人である私のことを喜んで守ってくれる。命を捨てて臆病な私の心の支えになってくれるわ」
ソリテールの言葉は、どこまでも魔族らしい、純粋なまでの利己主義に満ちていた。
住民たちの善意や信頼を、彼女はただ自分を守るための「盾」や「己を守る保険」という機能でしか捉えていない。
その冷徹さを、フルーフは痛いほど理解していた。
けれど、不思議と不快感はなかった。
むしろ、その揺るぎない魔族としての在り方こそが、彼女が焦がれ続けたソリテールの本質なのだ。
そして、その計算の中に……確かに「フルーフの大事な人である私」という言葉が含まれている。
ただそれだけで、フルーフの心は温かい幸福感で満たされていく。
「任せて下さい。帝国だろうとゼーリエおばさんだろうと皆で追い返してやります。その……皆喜んで守りますし……口の軽い人間もいません。なので……その……」
「言いたいことがあるんだね。私から逃げ出したい……だなんて巫山戯た戯言以外なら、何時でもフルーフのお願いを聞くのは苦ではないよ。さぁ……言って」
ソリテールの身体に染み付いた濃密な死臭がフルーフの鼻をつく。
それは実際に臭う訳ではない。第六感に直接訴えかけてくる感覚的な香り。
フルーフは彼女の存在そのものである、この死を身近に感じさせる香りが、どうしようもなく好きだった。
ギョロリ、と爬虫類を思わせる不気味な視線が注がれる。
ヴィアベル達であれば、その視線に射竦められ、居心地の悪さに身を捩ったことだろう。
けれど、フルーフはその視線を受けて、まるで恋する乙女のように耳を赤らめ、顔を伏せる。
私の旦那様の顔、美しすぎ……カッコ良すぎ……と、心の中で惚気にも似た感情が渦巻いていた。
その視線から逃れるようにソリテールの胸元に顔を埋めると、フルーフは小さな、けれど決意を秘めた声でボソボソと呟いた。
「……ま……か……」
「今日は随分と大人しいね。私に殺される時は煩いくらいに鳴いてくれるのに……それじゃ聞こえないわ」
「けぇ……け……結婚式挙げませんか?お世話になった人達も招いて……」
「ふぅん………」
ソリテールのエメラルドの瞳が、数度、ゆっくりと瞬いた。
「結婚式」――その言葉を起点に、彼女の思考は瞬時に知識の海を駆け巡る。
人類史におけるその儀式の定義、時代と共に変遷してきた手順、地域ごとの多様な文化的背景。
あらゆる情報が引き出され、完璧な精度で整理されていく。
けれど、その分析が行き着く先はいつもと同じだった。
この儀式を成り立たせるには、『感情』という不可解で予測不可能な要素が不可欠となる。
だが、愛、祝福、誓い――それらの非論理的な要素を、彼女の思考は処理しきれず、理解の埒外にあるものとして切り捨てるしかなかった。
既にこの街の住人には二人の関係は周知の事実だ。
そこに外部の人間を招き入れ、式を執り行う、という行為は、彼女の論理的な天秤の上では、明確なリスクしかもたらさない。
利益と不利益を並べた時、その選択肢が如何に非合理的であるか。
彼女の思考は、その行動の必要性を一片たりとも見出すことができずにいた。
「旅の最中みたいに、認識阻害の魔法や変身魔法を掛けておけば問題ないはずです……。」
「………」
ソリテールにとって、この提案は不可解だった。
ソリテールに対するメリットが何一つ提示されていない。
いつものフルーフであれば、必ず何かしらの合理的な理由をこじつけるはずだ。
けれど……これは、ただの我儘に等しい。
こういう理解不能な言動は、大抵、人間と魔族の間に存在する「感情」という名の深い溝から生じることを、ソリテールはこれまでの経験則で学んでいた。
人喰いの化け物に見切りをつけ、敵意を抱いているのか?
罠に掛けようとでもしているのか?
臆病な心が、一瞬、最悪の可能性を弾き出す。
けれど、意識するよりも早く……その思考は霧散した。
そんな可能性がゼロに近い、下らない予測を導き出した自身にソリテールは微かな苛立ちさえ覚えた。
彼女は目の前で俯くフルーフを観察する。
耳が赤い。声が上擦っている。
これは、人間が「照れ」と呼称する感情の発露だ。
理解は出来ない。
その感情を、彼女は文字情報としてしか認識出来ない。
そこにあるのは、無機質な知識の羅列だけだ。
「……嫌なら断ってくれて構いません。ソリテール様の意思が一番大事です」
ソリテールの知るフルーフなら、いくらでも理屈をこねてこの提案の有益性を説けるはずだった。
けれど、目の前の人間は嘘をつかない。
その瞳に宿るのは、もしかすれば「誠意」や「誠実」と呼ばれる、彼女の理解を超えた感情なのかもしれない。
この場で一言、冷たく拒絶すれば、この人間はきっと、文句の一つも言わずに引き下がるだろう。
そうして、いつものように諦めた笑みを浮かべ、その感情を魂の奥底にしまい込むのだ。
「相手は魔族だから仕方ない」と、諦観に塗れた「悲しみ」に暮れながら。
感情の欠如した魔族の身でも、その程度の予測は立つ。
それだけ、濃密で、溶け合うような時間を、共に過ごしてきたのだから。
無名の大魔族ソリテールとして、この先の永い生をただ生きながらえるのであれば、答えは明白だ。
不要なリスクは徹底的に排除し、拒絶する。それが正解。
永きを生きた大魔族の理性と知性が、迷いなく囁きかける。「この人間は危険だ、殺せ」と。
けれど、どうしたものか。
その囁きに従うには、この人間の雌が傷つく理由として、あまりにも――物足りない。
多少のリスクを冒すことになるだろう。それは拒絶するに足る明確な要素のはずだ。
けれど、その言葉を口にする気が……どうしても起きなかった。
ならば、どうするか。
餌でしかないはずの人間は、かつて言った。「恐怖も、痛みも、本能からくる恐怖心も、全てソリテールの為なら克服できる」と。
ならば、手放したくない愛しい所有物の為に、魔族としての本能を欺く程度はするべきだろう。
生に忠実な本能を納得させるだけの理由を、ソリテールは自らの内から見つけ出そうと試みる。
「悲しみ」は理解出来ない。
けれど、「喪失感」ならば、彼女にも理解出来る。
想像する。
もしフルーフが、何も言わずにこの世界から消えたなら。
それはきっと、とても空虚で、虚しく、耐え難い苦痛に満ちたものになるだろう。
舌に馴染んだ血肉の味、喉を潤す灼けるような血液の熱、藻掻き苦しむ甘美な悲鳴、そして、死に際に必ず囁かれる、あの愛の言葉。
それら全てを失う。
その想像だけで、飢餓感が全身を満たしていく。
この人間は、魔族であるソリテールの所有物だ。誰にも渡さない。
溢れ出すのは、身を焦がすほどの執着心、色褪せた記憶に纏わりつく喪失感、本能がのたうち回る飢餓感、そして、奪われることを決して許容出来ない独占欲。
それらは全て、ソリテールにとって「苦痛」という名の、明確な不利益だった。
フルーフが感じるであろう「悲しみ」と、自分が感じる「苦痛」は、似て非なるものだろう。
けれど、似ているというのなら、それでいい。
魔族として、ソリテールとして……感情で納得できる理由は見つかった。
愛する奥さんが、自分と同じような感情を抱き、傷つくことは断じて許容できない。
同時に、危険と承知でフルーフの要求を飲むことに対しての、論理的な理由も得た。
魔族は本能に忠実な人喰いの獣だ。
臆病な大魔族ソリテールの魂が告げている。
苦痛を味わい続ける生など、耐えられるはずがない、と。
ほんの空想、あり得ない想像の中で味わったそれは、死など生温いと思えるほどの絶対的な絶望だった。
目先のリスクよりも、危険を避け続けた結果訪れるかもしれない損失と苦痛のほうが遥かに大きい……十分だ。
ならば後は、精々捨てられないように……旦那様として「甲斐性」というものを見せなければ。
他者を顧みず、自己愛に塗れた魔族にどこまで出来るかは分からない。
それでも、いずれは、損得勘定を抜きにした判断を出来るようになろうと決意する。
フルーフの提案は、新しい「自分」を発見する、良い機会なのかもしれない。
人間のように、心構えを新たにするという、未知の扉を開く切っ掛けだと思えばいい。
「心構えを改める必要性などあるのか?」と、この期に及んで魔族としての本能が、その変化を拒絶するように警鐘を鳴らす。
それでも、理性は訴える……きっと、意味はあるのだろう、と。
この不可解な提案を受け入れることで、フルーフとの間にある永い停滞に変化が訪れるかもしれないのだから。
目の前の人間の雌を――この上なく美味な「餌」を、万能な「道具」を、何よりも堅牢な「盾」を、そして、永遠にも等しい彩りを与えてくれる唯一の「人間」を、手放すことはできない。
その為に……この提案を受け入れるしかないのだと己の内を説得する。
感情、論理、卑しい本能が逃げ道を探せないよう逃げ道を徹底的に潰す。
納得を得た。
怯え叫ぶ本能が次第に静かになり、漣立つ精神が静寂を取り戻す。
「申し訳ありません……冗談で「いいよ」――へ?」
「日取りは何時にしようか、フルーフ。私は温かい春がいいと思うな」
小さな嗚咽が静かな中庭に響き、ソリテールの服に温かいものがじわりと染み込んでいく。
「フルーフ、泣くんじゃなくて、喜んでくれると嬉しいわ。私のこの苦悩を、意味のあるものとして証明してほしい」
「そ、そぉリテールしゃ、まぁ……あぁ……あ、愛し、てますぅ゛」
「過去の自分が見たらなんて言うかな……無意味で愚かな行動?だけど、魔族である私には理解出来ないだけで、私達の関係にはとても重大で意味あるものだと信じているわ――私も愛しているわ、フルーフ」
魔族は心を込めて愛を囁くことを知らない。
知らないけれど、知識として理解し努めることは出来る。
これまでの経験で、ソリテールは分かっていた。
分かり合えないと言い切っていても、愛情というものを理解しようとする姿勢を見せることには、この人間を繋ぎとめるだけの価値がある、と。
――私は臆病なの。貴女の心が、いつか乾いてしまわないように、私も囁くわ。
なんでもいい。
そう、例えば。 自分好みの美味しい餌を食べた時のような、気分が良くなる、小さな好感の感情。
そんな、魔族にとっても、人間にとっても、些細で気にも留めないような感情から始めよう。
大魔族ソリテールの中にある、人間のそれとは程遠い、けれど確かな親しみや愛着に似た感情を込めて、愛を囁く。
それは、他者を想う重く熱い愛の熱情ではなく、自己愛から滲み出た喜悦。
「――愛しているわ」
「――――――――」
けれど、その感情を乗せた言葉は確かに他者へと向けられていた。
随分と回りくどく歪みきっているけれど……それを受け取る人間は、化物なりの確かな親愛と愛情を感じることが出来ていた。
なんてことのない、ありふれた日常。
子供たちの喧騒が聞こえてくる、暖かな日差しが差す中庭のベンチ。
座席一つ分に身を寄せ合い、抱き合う夫婦の姿。
けれど、その平穏は唐突に破られる。
ソリテールが何の前触れもなく、フルーフの首筋にその牙を立て、鮮血が滴り落ちた。
ブチブチと血管が裂け、動脈から血が勢いよく吹き上がる。
穏やかだった日常は一変し、子供たちの悲鳴と慌ただしい足音が、二人を包み込んでいく。
生温い血液が首筋を伝い、衣服を赤黒く染めていく。鉄錆びた匂いが鼻腔を満たし、視界の端が暗く滲んでいった。
フルーフの意識が、じりじりと熱に焼かれるように途切れていく。
耳鳴りが思考を支配する。それでも、彼女は何時もとは違う、まるで恋する乙女のような、心からの無垢な笑みを浮かべていた。
ソリテールの口が動く。
「死に際の、言葉を教えて?」
「えぇ。勿論……愛しています。ソリテール様」
フルーフの脈が止まり、息絶えた。
死人とは思えないほど、安らいだ女の顔。
彼女にとって、死こそが最愛の安らぎであり、数多の死をその身に纏う彼女の側こそが、一番安らげる場所なのだろう。
フルーフが目を覚ます気配はなく、ただ静かな寝息を立てていた。
最愛の魔族によって与えられる死を享受するように、心地の良い、深い眠りについていた。
施設の職員や子供たちが駆け寄ってくるも、ソリテールは「しーっ」と人差し指を立て、彼らを静止する。 眠った人間を横抱きにしながら立ち上がると、魔族は微笑みながら施設を後にした。
「どんな式にしようか……フルーフの希望を教え欲しいの。私の幸せじゃなくて、貴女の幸せを教えて。フルーフ、起きたら沢山……夫婦としてお話しよう」
何が正しくて、何が間違っているのかなんて、ソリテールには分からない。
魔族なんて、所詮そんなものだ。
――けれど。
二人は、確かに同じ場所にいて、互いに刹那の幸福を感じられる。
たとえ、日常の中で同じ幸せを共有出来なくとも、大事な人が幸せならば、幸福はきっと感じられるのだろう。
血で潤んだ冷たい唇へとそっと唇を押し当て、キスをする。
フルーフの落ちそうになるシルクハットを片手で掴むと、いつの間にか集まっていた住民たちから、歓声が聞こえてくる。
回りから、冷やかすような声と、好意に満ちた視線が向けられる。
ソリテールは辺りを見回し、フルーフの顔にシルクハットを深く被せた。
何故、そのような行動をとったのか、彼女自身にも分からない。
どこかで学んだ知識を、無意識に行っただけかもしれないし……そうではないのかもしれない。
ただ、愛しい奥さんの寝顔を、他の人間に見られたくないと思ったのかもしれない。
そして、にこやかな笑顔を浮かべる住民たちの前で、ソリテールは、一つの重大発表を口にする。
「皆聞いて……。私達、結婚式を執り行おうと思うの」
その一言が、街を覆う強固な結界すら揺らすほどの、割れんばかりの歓声となって鳴り響いた。
「先に謝っておくわフルーフ。私は今の貴女との関係を壊してしまうかもしれない、貴女の心を傷つけてしまうかもしれない。けれどそれは終わりを意味するものじゃない。そろそろ、私達の関係を進めましょう。貴女自身が、私に対して引いた線引を超えられないと言うなら……私の方から迎えに行くわ」
◇◇◇
―――結婚式当日。
その日、魔族と人間が治める街シンビオシスは、祝福を告げる色とりどりの花々に包まれ、街全体がお祝いムード一色に染まっていた。
北部高原への陸路が封鎖されている都合上、フルーフは賄賂で通行可能な一部の関所の陸路を除き、海路を用いて、大陸中の知人をこの日のために招待していた。
港には様々な意匠が凝らされた数隻の船が停泊し、着飾った人々が次々と降りてくる。
突然だが、最強の戦士とは一体何を指すのだろうか。
それは、当然「最高の戦士」を指す言葉に他ならない。
万の軍勢を前にしても一歩も引かない胆力、死の淵に立たされようと、どんな強大な敵が相手であろうと、決して退くことのない不撓不屈の精神力。
弱者を相手にせず、時にはその大きな背中で守り助ける度量を持ち合わせ、万夫不当の剛力と、金剛石の如き堅牢さから織りなされる、美しくも荒々しい戦斧の技。
つまりは、魔王を打倒した勇者パーティーの一員、戦士アイゼンのことだ。
これは、揺るぎようのない事実。
帝国が発行している「戦士アイゼン最強列伝」にも、そう記されている。
その伝説の戦士が……今、一隻の船から降りてきた。
隣には、シュトルツとシュタルクの兄弟が付き従っている。
彼らを港で出迎えたのは、桃色の髪をツインテールに揺らす魔族、リーニエだった。
彼女は変身魔法を使うこともなく、その額に生えた二本の角を隠そうともせず、堂々と立っていた。
シュタルクは、彼女の姿を認めるや否や「姉ちゃん」と呼びかけ、シュトルツは「先生」と呼び、何でもないように挨拶を交わす。
けれど、何の情報も与えられていなかったアイゼンは、その光景に酷く困惑し、咄嗟に背の斧へと手を掛けていた。
シュタルクを鬱陶しそうに片手で払いながら、リーニエは憧れの戦士アイゼンの側へと駆け寄ると、そのごつごつとした手を強引に掴み、両手で握手する。
「会えて嬉しい……私、魔族のリーニエ。戦士アイゼン……ファンです」
「……どういうことだ?どうして魔族が街中にいる。待て……ファン?頭が痛い。シュタルク……奴が何を言っているのか解るか?」
憧れの戦士を前にしたのが余程嬉しいのか、普段は鉄仮面のように無表情なリーニエの口元が、微かに弧を描き、その頬がピクピクと痙攣している。
心なしか、いつもの数段声のトーンが高く、完全に猫を被っていた。
そのあまりにも強い押しに、かの勇者パーティーの盾であったアイゼンですら、思わず後ずさってしまう。
リーニエはそんなことなど知ったことではないとばかりに、更に追撃をかける。
手に下げていたカバンから、いつの間にか数冊の本とペンを取り出し、彼の眼前に差し出した。
「暫く手は洗わない。そ……そうだ。サインも下さい」
「――!?」
【戦士アイゼン直伝!最強の戦士への至り方!!】 【【完全版】戦士アイゼンの旅路】 【これを読めば貴女も最強の戦士!アイゼンが教える百の秘訣】
な、なんだこれは!? やたらとゴツい文字で、デカデカと書かれた「戦士アイゼン」の文字。
知らん。自身の名がこれでもかと謳われているというのに、戦士アイゼンには全く身に覚えがなかった。
というか、この表紙の、八頭身以上ある妙に美化されたヒゲ男は誰だ?
もしやと思い、本の隅に記された出版社に目をやれば、そこには「帝国出版」の文字。
やはり帝国か。誇張して神格化するだけでは飽き足らず、こんなホラ吹き本まで出版するとは。
アイゼンは、声に出さず、深く呆れ返った。
「おい……なんだこれ。この表紙、俺か?なに……?まさか、これが本当に俺なのか……」
一目で嘘だとわかる。
けれど、目の前の魔族の少女は、どうやらこの本の内容が、戦士アイゼン本人と本気で関係していると信じきっているようだ。
遠慮することはない。これは嘘八百だと、きっぱり突き返してやるのだ。
戦士アイゼンへと、魔族の少女から、キラキラとした憧れ全開の、あまりにも無垢な視線が突き刺さる。
目が合う。その瞳には、純度120%のピュアな輝きが見て取れた。
まるで顔面に星を物理的に当てられているかのような強い眼力を前に、アイゼンは……そっと、ペンを受け取った。
「……これでいいか」
「あ、ありがとう。戦士アイゼン……流石は最高の戦士。魔族にも優しい、大事にするね」
カリカリ、と、書籍の表紙に、無骨なサインが走る。
最高の戦士は、熱量の高すぎるファンガールの、あまりにも熱い想いの前に、あっさりと敗北した。
「姉ちゃん……師匠のこと知ってるのか?」
「愚弟……戦士アイゼンに何、馴れ馴れしく師匠呼びしてるの?」
声が低い。
アイゼンに対する態度とは一変し、愚弟ことシュタルクに対する態度は、完全に弟に対する姉のそれである。声にはドスが効きすぎていた。
「先生、戦士アイゼンを崇拝しているのは知っていたが。今はシュタルクがその弟子なんだぜ。偶々近くに住んでいることを知って弟子入りさせて貰ったんだ」
「戦士アイゼンに……最強の戦士に……弟子入り?はぁ……構えなよ愚弟。どれだけ成長したか見てあげる」
なんだか物凄い圧を放ってくる姉に、シュタルクは思わずたじろぐ。
それを仲裁するようにシュトルツが二人の間に入る。
けれど、その行動は結果として火に油を注ぐことになってしまった。
リーニエの瞳孔が、猫のように縦に細まる。もはや、彼女は愚弟を体良くボコボコにする気満々である。
「ね、姉ちゃん落ち着けって。そんないいもんじゃないぞ、師匠は根性論ばっかり言うし……」
「ちょっと図体がデカくなったからって……私を煽るだなんて良い度胸してるね。骨の一本で許してあげるよ」
「怖ェ!」
シュトルツは自身の失敗を悟ったのか、これ以上巻き込まれないようにと、そそくさと安全地帯であるアイゼンの元へと避難する。
未だに事態に困惑するアイゼン。
シュタルクから姉と呼ばれる存在がいるとは聞いていたが、まさかそれが魔族だとは思ってもいなかった。
シュトルツは、そんなアイゼンへと、数年前に戦士の村で起こった出来事のあらましを説明し始めた。
「――模倣する魔法か。確かにアレは俺の技が元だろうが……完全に別物だ。形を真似るだけの魔法であそこまで身体に馴染むはずがない」
シュタルクとリーニエが、お互いに同じ姿勢で戦斧を構える。
けれど、その構えには、僅かな、けれど明確な差があった。
斧の角度、姿勢の傾斜、身体の捻り。その全てが異なっていた。
シュタルクは持ち前の圧倒的な腕力と、巨石の如き頑丈さを武器とした、豪快な大振りが多い。
対するリーニエは、魔力強化によって限界まで引き上げられた身体能力からくる、圧倒的なスピードと複合技術。
そして、その柔軟性を遺憾なく発揮し、まるでコマのように回転しながら斧を振り回す。
一撃一撃に遠心力を乗せ、本来ならば重鈍であるはずの戦斧が、まるで鞭のように撓りながら、シュタルクへと襲いかかっていた。
彼女は魔法など使っていない。
最高の戦士の技は、既に模倣などという段階を超え、リーニエの血肉へと完全に宿っていた。
魔法の使用時に時間と共に消費される魔力は、その全てが身体強化へと回され、彼女は戦場を縦横無尽に駆け回る。
「貴方は先生にとっての憧れであり目指すべき到達点だそうです。村にいた期間は短かかったが貴方が最高の戦士だと耳にタコが出来る程聞かされたんですよ」
シュトルツもまた、最高の戦士と名高いアイゼンに敬意を示しているのか、その佇まいには、どこかリーニエと似た気配が漂う。
アイゼンとの修行で、数年前よりも大幅に成長したシュタルク。
けれど、その技の練度の違いは、時間と共に如実に現れてくる。
遠心力はそのままに、リーニエの振るう斧の速度と威力は、徐々に、けれど確実に増していく。
もはや、早すぎて目で追うことすら出来ない斧捌き。
シュタルクの斧が、ついにその勢いに耐えきれず、強く地面へと叩きつけられた。
その一瞬の隙を狙い、リーニエが棒高跳びの要領で斧を地面へと叩きつけ、天高く飛び上がる。
そして、空中でクルクルと数回転を決めながら、シュタルクの脳天目掛けて、強烈な踵落としをお見舞いした。
「ッ゛~~~~ッ!!?」
如何に頑丈なシュタルクであろうと、流石に今の攻撃は効いたのか、彼は頭を抱え、その場にうずくまってしまった。
「一度模倣したなら、老いた俺の状態もよくわかってるはずだがな、失望もせずあそこまで無邪気に憧れられるとむず痒いもんだ」
「シュタルク、そこまでにしておけよ。これ以上続けると本気で先生に骨を持っていかれるぜ」
リーニエは、うずくまったシュタルクに対し、容赦なくゲシゲシっと蹴りを入れる。
それに対し、シュタルクは何が何だかわからない様子で「ゴメンヨ」と連呼し続けていた。
不機嫌な姉にとりあえず謝る弟の図、そのままだった。
「……フルーフに似て変わった魔族だ。今ならフルーフの結婚相手が魔族でも驚かない自信がある。いやまさかな、一度聞いた酒の席での話が本気とは思えん」
「先生の話の中でしか聞いてないが、流石に魔族と結婚は無いでしょう」
数時間後、最高の戦士と村一番の戦士は、普通に驚くことになった。
それどころか、披露宴でソリテールの姿がチラリと見えただけで、その濃密な死臭に当てられて、反射的に武器を抜いてしまっていた。
◇◇◇
――披露宴数時間前の控室
ふわりと広がる純白のプリンセスラインのウエディングドレス。
その美しい衣装に身を包んだフルーフが、控室で、これから式を執り行う神父と顔を合わせていた。
「ハイターさん!いやぁ、きっと来てくれると信じていました」
「既に隠居した私の元に訪ねてきて、こんな北の大地まで呼び寄せるとは……老骨を少しは労って下さい」
その顔に刻まれた深い皺は、彼が生きてきた激動の年月を雄弁に物語っていた。
御年100歳に迫る、元勇者パーティーの一員である僧侶ハイターが、この異質な結婚式の神父として招待されていたのだ。
「それは本当にすみません。大急ぎであちこち回っていて配慮が足りていませんでした」
「反省しているようですね……今は少ない古い知人の頼みです、それに、おめでたい日にこれ以上苦言を呈したりはしませんよ」
「感謝しますハイターさん……あぁそうだ、リーニエ師匠がお酒を沢山用意してくれているんで是非堪能していって下さい」
「えぇ勿論そのつもりです。それと、あの時話した代金はしっかり頂きますよ、フルーフ」
「勿論です……寿命の一年でも十年位でもいくらでも請求して頂いて構いません。しかし意外ですね、昔から不良僧侶ではありましたが、自然の摂理に反するような事はしないと思っていました」
「ヒンメルのように……ですか」
「はい、折角告白できたんですから長生きして欲しかったんですけどね……迷いなくきっぱり断られました。告白したら普通返事を聞きたいと思うものですが……あの勇者様、告白しただけで未練も残さず気持ちよく逝くとか何を考えてるんでしょう」
「断られる前に勝ち逃げしたかったんじゃないですか」
「あの歳までフリーレンのことしか考えていないヒンメルさんの場合、あながち間違いでもなさそうなのが怖いです」
「何百年も魔族のストーカーを続ける貴女の方が相当怖いと思いますよ」
「ゴホン……やっぱり大陸を跨いで呼んだこと怒ってます?それとも魔族と人間との結婚式に反対ですか」
「いえ、聖都の教義や規律にそのような内容は一文もありません。つまり式を執り行ったとしても私に対する落ち度は一つもないということです」
「それはそれで大丈夫なんですか?……ですが屁理屈でもなんでも有り難いものは有り難いです。私に出来うる限りの報酬は支払いますのでそこは安心して下さい」
「頼みますよフルーフ、ヒンメルとは違い私には新しい未練が湧いてしまった。もう少し……ほんの少しだけ先の未来を見たいと考えてしまったのです。おかげで貴女の甘言にコロッと乗せられてしまった。やれやれ、死後は地獄行きかもしれませんね」
「私はまぁ……地獄行きは決まっているようなものですが。謙虚?な信徒で魔王まで倒したハイターさんが地獄行きは無いですよ、精々天国で女神様に叱られるくらいじゃないですか」
「はははっ!でしたらいっそ二十代まで若返ってみるのも悪くありませんね。貴女みたいな地獄行きが決まった方からの取引に乗ってしまった以上……女神様から褒めては貰えなさそうです。この際貰えるものは貰いましょうか」
そんなことを言いながら、僧侶ハイターは隣に立つ幼い子供の頭を優しく撫でる。
それは、フルーフ達が旅の途中で南側諸国で出会った、ソリテールの弟子一号であるフェルンであった。
「……すっかり孫を見守るお爺さんですね。それと、こんにちはフェルンさん。南側諸国以来かな」
「……お久しぶりですフルーフ様。この度はご結婚おめでとうございます。ところでソリテール様はどこですか?」
一見、丁寧な物腰と声色。
けれど、フルーフにははっきりと分かった。前半は、ただの社交辞令。後半の言葉にこそ、この少女の真意が乗っている。
フルーフが推察した通り、フェルンのお目当てはこの変態新婦ではなく、あの性悪な新郎の方らしい。
「本音と建前が分かりやすいですね、この娘……。ソリテール様なら新郎用の服に着替えて此方に向かっている最中です」
「……何故新郎なんですか、ソリテール様は女性のはずです」
純粋すぎる、そしてあまりにも的を射た疑問だった。
そもそも、この世界の常識に照らし合わせれば、女性同士で「夫婦」を名乗ること自体が、十分に異常なのだ。
シンビオシスの住民たちも、もちろん最初からこの関係を手放しで受け入れていたわけではない。
当初は戸惑いの声や、奇異の視線が向けられたこともあった。
けれど、彼らが日々目の当たりにする現実は、そんな些細な常識をいとも容易く吹き飛ばしていった。
なにせ、自分たちの領主の「旦那様」は、人喰いの魔族なのだ。
「女性同士」であることなど、その圧倒的なインパクトの前では、取るに足らない些事へと矮小化されてしまう。
大半の人間は、その衝撃的な事実に感覚を麻痺させ、いつしか何も言わなくなった。
時間が経てば経つほど、その特異な関係に口を挟むこと自体が、この街では野暮なことだと学習していったのだ。
フルーフ自身、もはやこの関係にすっかり慣れきってしまい、何の疑問すら抱かずにいた。
だからこそ、フェルンの質問は、フルーフにとってはなんとも答えづらい疑問だった。
彼女は答えに窮し、顎を擦りながら唸る。
ソリテールとの、血と狂気に満ちた倒錯した馴れ初め。
「捕食者」だから「旦那様」だとか、そんな常人には理解不能な理屈を、この純粋な少女にどう説明すればいいというのか。
極論を言えばなんとなく流れでそうなっただけなので、この聡明な子供を説得出来るだけの理由の言語化など難しいにも程がある。
理解できるはずもないし、万が一理解されたとしても、「変態」の烙印をより強く押されるだけだ。
フルーフは、脳内で高速で言い訳を組み立てながら、決意した。ここはシンプルな結論だけで押し通す。
「私もウエディングドレスを進めたんですが……。ソリテール様の中で夫婦としての立ち位置が旦那様で固定されてしまっていて。全く聞き入れて貰えませんでした」
「何をおっしゃりたいのかよく分かりません」
うん、だろうね。
端折りまくった結論だけで理解出来るはずがない。
フルーフは、フェルンの理解不能といった様子に内心で同意する。 けれど、これは一言一句、紛れもない事実なのだ。
フルーフは、結婚式の本質的な意味などわからない魔族の思考回路を少し甘く見ていた。
ソリテールの思考は、性別などという感性とは無縁の場所で、既に確固たる結論を弾き出していた。
「旦那様は私で貴女が奥さん。この定義は長年続けたもの……だから私達の関係において、とても大事なこと。そうよね?」
彼女は、フルーフとの関係性を「捕食者」と「被捕食者」という、生物学的な力関係で定義していた。
そして、それを人間社会の「夫婦」という概念に当てはめ、最も近い役割として「夫」と「妻」を割り当てた。
故に、彼女がドレスを着るという選択肢は、初めから存在すらしなかったのだ。
「役割に応じた装束を纏うのが、儀式における正しい作法。そうでなければ、この式を正しく執り行うことができないわ」
膨大な知識から導き出された、あまりにも理詰めで、けれど彼女の中では完璧な論理。
その強固な固定観念は、生半可な説得で覆せるものではなかった。
フルーフのあらゆる反論も、ソリテールの完璧な論理の前ではなんの力もなかった。
結果として、最後まで「旦那様」であるソリテールが新郎衣装を着るという決定を、誰も覆すことは出来なかった。
「うん……たぶん私が何を言っても、魔族をまだ余り知らないフェルンさんでは、理解出来ないと思うよ」
「そうですか」
居心地の悪い沈黙が、部屋を支配する。
フルーフは、何とかこの状況を打開しようと説明を試みるも、結局は諦めた。
どう説明したところで、この純粋な少女に、この複雑怪奇な関係が伝わる気がしなかった。
コンコン――ガチャ。
式場スタッフのノックの音と共に、ソリテールの来訪が告げられる。
フルーフとフェルンは、弾かれたように立ち上がると、ゆっくりと開け放たれる扉を固唾を飲んで見守った。
「どうかなフルーフ。服を着飾るだなんて習性は私達には無いけど、そういうのに詳しいリーニエに手伝って貰ったの。気に入ってくれたかしら」
「……う、美し過ぎる」
「ソリテール様……――か、格好良すぎます」
ソリテールは、新郎服というには余りにも優美で、豪奢な純白の衣装をその身に纏い、まるで舞台女優のように優雅なポーズを取りながら、その場で一回転してみせる。
フェルンとフルーフは、その神々しいまでの姿に、同時に両手で口元を覆い、ただただ「格好いい」「美しい」と、感嘆の言葉をボソボソと呟き続けることしか出来なかった。
精巧なヘアアレンジが施された翠色の髪、そして、フリルが幾重にも揺れるその優雅な佇まい。
リーニエがプロデュースしたという新郎バージョンのソリテールに、二人は完全に心を奪われていた。
心なしか、彼女の周りにはキラキラとした輝きまで見えているような気がする。
二人は、その眩しさに目を細めながらも、その姿を一瞬たりとも見逃すまいと、食い入るようにソリテールをガン見する。
これは魔族ではない、王子だ。
そう、白馬に乗った王子様に違いない。
フルーフが、そんなアホなことを口にする横で、フェルンは鼻息を荒くしながら、コクコクと激しく首を縦に振っていた。
「フルーフも綺麗ね。その首筋から血が吹き出たのなら……きっと今までにない鮮やかな赤が見れると思うわ」
激マブなソリテールから、褒め言葉なのか、それともただの食欲の発露なのか分からない言葉をかけられ、フルーフは顔が真っ赤に紅潮するのを感じる。
その破壊力たるや……凄まじい。
このままでは、愛しい旦那様に喰われる前に、幸福のあまり絶命してしまいそうだった。
魔族なのに、人間よりファッションセンスが良いとか、一体どうなっているんだリーニエ師匠。
現在進行系で最高の戦士のファンガールと化している魔族に向けて、フルーフは内心で力強く親指を突き立て、グッドサインを送った。
「今日からリーニエ師匠の二つ名は「ファッションリーダーのリーニエ」に決まりですね」
同室にいるはずのハイターは、いつの間にか部屋に備え付けられていたシャンパンを勝手に開け、既に一瓶を丸々飲み干し、完全に空気と化していた。
もう既に、若返ることを前提として飲酒を解禁してしまったらしい。
ちなみに、その後……リーニエに対しその二つ名で呼んだフルーフは、顔面に強烈なビンタを喰らい、そのイカした名称は即刻却下された。
◇◇◇
酒に酔ったハイターが、上機嫌のフェルンを連れて控室を出ていくと、部屋には、主役であるフルーフだけがぽつんと残された。
コッ、コッ、と壁掛け時計の秒針が刻む音が、静寂の中でやけに大きく響く。
鏡に映る純白のドレス姿の自分を、フルーフはどこか他人事のように眺めながら、着付け員の最後の仕上げを待っていた。
窓から差し込む午後の陽光が、ドレスの繊細なレースを透かし、淡い影を床に落としている。
どこか遠くで、祝福の準備に追われる人々の喧騒が微かに聞こえていた。
全てのチェックが終わり、着付け員が満足げに一礼した、その時。
控えめなノックが、静寂を破った。
係員が扉の外の来訪者と何事か言葉を交わした後、深々と頭を下げて部屋を出ていく。
入れ替わるようにして現れたのは、フルーフにとっては、馴染み深い二人組の姿だった。
「久しぶりだな、フルーフ。相変わらずで何よりだ」
「もう、三ヶ月前に会ったばかりじゃない」
しわがれながらも、確かな威厳を宿した老人の声。
その横から、鈴が転がるように澄んだ、美しい女性の声が木霊する。
フルーフは、鏡越しにその二人組を認めると、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「おやおや、ボケかけのお爺さんと綺麗なお孫さん、お久しぶりです」
「フルーフ、貴様。そのしょうもない出会い頭の一言は、一体いつになれば直す気だ?」
「いやぁ、そんなこと言われましても……三十年、いや四十年?以上続けていることですし、今更直せませんね。古い友人として許してくださいよ、ねぇ……デンケンさん」
フルーフは、椅子にだらしなくもたれかかりながら、老人――デンケンに親しげに語りかける。
彼はとある大国において、その実力一つで宮廷魔法使いの座にまで上り詰めた傑物だ。
魔法使いであれば少なからず、その名を知る大陸でも指折りの実力者である。
そんな人物が、なぜ、フルーフなどという胡散臭い存在と親交があるのか。
その理由は、彼の隣で優雅に微笑む、孫娘にしか見えない女性と深く関係していた。
「落ち着いてデンケン。いつもどおり揶揄われているだけよ。久しぶりフルーフ、突然訪問してごめんなさい、迷惑じゃなかった?」
「全然ですよ。披露宴は省略して適当にお酒と食事を振る舞う時間になっていますので、時間は持て余しています。それより、身体は大丈夫ですか、レクテューレさん」
彼女の名はレクテューレ。
デンケンの隣で穏やかに微笑むその姿は、まるで祖父を慕う孫娘のようだが、真実は違う。
彼女は彼の妻であった。
その出自は、七崩賢マハトによって全てが黄金に変えられたという、あの城塞都市ヴァイゼに遡る。
かの地の領主であったグリュックの愛娘にして、公の記録では、とうの昔に病でこの世を去ったとされる女性。 けれど、今フルーフの目の前にいるのは、歴史の影に消えたはずの紛れもない本人であった。
「ありがとう。そして結婚おめでとう、フルーフ。友人の一人として、こうして顔を合わせながら祝言を言いたかったの」
「嬉しいですね。お隣のお爺さんは、ヨボヨボになるにつれて捻くれていくばかり、しまいには出会い頭に小言を口にする始末です」
「何を人聞きの悪い。だが、そうだな……フルーフ、遅れたが儂からも祝言を贈ろう」
渋々といった体で、けれど、その瞳には確かな親愛の色を浮かべて祝言を口にするデンケンに、フルーフはニッカリと屈託のない笑顔を返す。
ありがとう、とでも言うように、気さくに手を上げて感謝を示した。
「あぁ、そうだ。折角なんで健康診断していきますか?早いですがメンテナンスもしておきましょう、時間もあることですし」
「悪いわ、そんなつもりで来た訳ではないもの。それに彼も呼びつけることになるでしょう?」
「まぁまぁ、ついでですよ。それにもうすぐ打ち合わせにやってくるはずですし、気にしなくても問題ないです。健康診断は時間のある内に定期的にやっておかないと」
遠慮がちに断るレクテューレに、フルーフは、大げさな身振り手振りで「気にするな」と笑いかける。
フルーフとしては本心から、レクテューレの体調を気遣っているだけなのだ。
彼女の健康と、自分の手間。天秤にかけるまでもなく、答えは決まっている。
フルーフは隣に立つ彼女の頑固な夫へと、視線だけで援護を求めた。
デンケンもまた、一瞬、逡巡する素振りを見せたが、妻の顔を数秒見つめた後、深く頷くと、その肩にそっと手を添えた。
「そうだな、レクテューレ。フルーフもこう言っていることだ、敢えて定期検診を遅らせる必要もないだろう。いくら歳をとっていないとはいえ、身体は大事にするべきだ」
その一言が決定打だった。
レクテューレは、暫くの間、黙考するように沈黙する。
過去に起きた、あの悲劇的な出来事を思い出し、胸元で輝くペンダントに、そっと指先で触れる。
そして、フルーフへと申し訳なさそうに微笑むと、夫の手に自らの手をそっと重ねた。
「デンケン……貴方にそう言われると何も言えないわ。フルーフ、申し訳ないけど、お願い出来る?」
その言葉にフルーフは、ふっと自然な笑みを浮かべる。
二人の間に起きた、決して消えることのない悲劇的な過去。
そこに、かつて、自分が救うことのできなかった、誰かの面影を、その姿に重ねながら。
「えぇ、とい言いますかレクテューレさんに倒れられると私が一番困るので、もっと高頻度で診察をしてもいいくらいですよ。前に言ったでしょう……私は悔いを残さない人生を目指しているんです」
「それでもよ。もう何十年も貴女のお世話になりっぱなしだし、何も思わないほど不義理ではいられないわ」
「……お代なら今貰いましたよ。知っていますよね、私にとって何が一番大事か……」
「えぇ。忘れていないわ……」
「……デンケンさん、貴方が一人老いていくからレクテューレさんに心労が溜まっているのではないですか?今なら無料で若返らせて差し上げるんで、はよ頷いてください」
「いきなり話を変な方向に持って行くなフルーフ。儂はまだまだ現役だ。それにだ、広く顔の知れている宮廷魔法使いの儂が突然若返れば騒ぎになろう。そうなれば、原因である貴様の所にいずれは厄介事が舞い込むことになる」
「ガタのきてる爺さんの常套句ですよ、それ。はぁ……配慮してくれてるんですね、ですが私のこと気にしてる場合ですか、デンケンさん。貴方はもう70過ぎですよ、いつ老衰でポックリ逝っても可怪しくないんですから早めに決断してください。私も常に駆けつけられる訳じゃないんです」
「うぬぅ……、だがな……」
なんとも煮えきらないデンケンの態度に、フルーフは、肩をすくめて、大げさにため息を吐く。
そして、何か悪戯を思いついた子供のように、へらへらとした軽薄な笑みを浮かべ、態とらしく芝居がかった声を上げた。
「そうですか。いいですよ別に、レクテューレさんはこんなにも美人ですし、デンケンさんが亡くなった後でも引く手数多でしょうし……きっと告白されまくることでしょうね。デンケンさんよりも優良物件もきっといるでしょうねぇ~……」
「フルーフ、余りデンケンをイジメないで。例え彼に先立たれても私はデンケンだけを「……わかった。」――え?」
「はい。言質とりました。嫌と言っても強引に若返らせるんで、逃げても無駄ですよ」
「儂も男だ、妻によからぬ虫がつく可能性を示唆されて下らん拘りを持ち続けることはせん。だが……時期は選ばせてくれ、宮廷魔法使いとしての任期もそう長くはない、身の回りを整理してからでも遅くはなかろう……」
デンケンはフルーフの薄っぺらい悪役ムーブに、まんまと乗せられた。
彼は深く目を閉じ、諦めたように息を吐く。
初めて出会った時も、この悪癖に散々振り回されたことを、デンケンは懐かしく思い出す。
ニタニタと、満足げにグッドサインを決めてくるフルーフに、眉をピクピクと痙攣させながらも、その内心では、言葉で言い表せないほどの感謝を感じていた。
ただ、それを素直に口に出せば三日三晩、ウザ絡みされることは目に見えている。
デンケンは、賢明にも、努めて口を閉ざすことを選んだ。
「勿論です。私が作った作品の中に瞬時に肉体の再構築を行える試作品があるので、それを携帯型に調整して後ほどお渡しします。時期はいつでもいいので、任意のタイミングで使用して下さい。私が施術するのが一番確実なのですが、老衰でうっかり逝きそうな時とかあると思いますので、そういう時はすぐに使ってくださいね」
老衰、老衰と、やたらと死にかけの老人扱いをしてくるフルーフに、デンケンは半眼で睨みつける。
言うだけ言って、そのくせ老人を労ったり、敬意を払ったりするような言動は、一切見られない。
デンケンは、自分がフルーフから、完全に子供扱いされていることに気づき、もはや、色々と諦めるしかなかった。
「心配しておるのか、馬鹿にしておるのかわからんが……ともかく、わかった。だから余り人を年寄り扱いするな、フルーフ」
「いえ、再三言いますけど歳を考えて下さい。いつまでも若い気でいたら一瞬ですよ。それではレクテューレさん、少し失礼しますね」
死にかけのジジイ扱いをやめる気はないらしい。
フルーフはデンケンの言葉に適当に相槌をうち、レクテューレの胸元、心臓があるであろう部分に、そっと手を触れ、何かに意識を集中させ始めた。
「……フルーフ、ありがとう。借りばかり作ってしまっているわね、私達に何か出来ることがあれば何時でも言って。私もデンケンも、最善を尽くして貴女から受けた恩を返すわ」
「大丈夫ですよ。そこのデンケンさんに生涯分の対価を貰っていますので……よし、終わりです。処置部位は問題なく稼働しています、またいつも通り錠剤を飲んで過ごして下さい」
「対価か……アレの内容を対価と言いはるのはお主ぐらいなものだぞ。損しかしておらんだろう」
「私が対価と言えば対価なんです――ぉ、そうこう言っている内に来ましたね」
何か言いたげなデンケンに、フルーフは半眼でそう答える。
フルーフが、ふと何かに気づいたように足元を見ると、まるで冷気を帯びているかのように、部屋のカーペットが、白い霧に包まれ始めていた。
固く閉じられた扉の隙間から、シュルシュルと白い霧が滑り込み、やがて、二メートルはあろうかという、異形の巨体が形成されていく。
下半身は無く、黒いモヤをその身に纏い、異様に長い腕を持つその姿。
眼球と呼べるものは無く、言語を解するための口も見当たらない。
何か黒い板のようなものを抱え、豪奢な正装を纏っているが、その姿は、紛れもなく、正真正銘の――魔物だった。
――『
青白い肌を持つ長身の魔物は、部屋にいる三人を一瞥すると静かに動き出そうとする。
けれど、それよりも早く、レクテューレの鋭い視線がその魔物を捕らえた。
次の瞬間、身動き一つ出来ず、その魔物は、まるで金縛りにあったかのように、その場に拘束された。
続けざまにレクテューレが掌をかざし、今にも物騒な魔法が放たれようとする。
けれど、少し遅れて、その魔物の正体に気づいたのか、彼女は、はっとしたように腕を下ろした。
「……レクテューレさん。ここでゾルトラークはやめて下さいね」
「あ、ごめんなさい。……つい。申し訳ないわ」
「デンケンさん、年々奥さんに教える魔法が過激になっている気がします……一体自分の奥さんに何を仕込んでるんですか……」
「儂ではない、大方この街によく来る北部魔法隊の小僧に密かに教わった魔法だろう」
「いや拘束魔法ではなく……そっちは寧ろ穏便ですよ……問題はゾルトラークです」
「それは儂だ。今の時代、自衛にはゾルトラーク程度は使えんとな」
過剰防衛極まれり。
魔物や野盗の類であれば、拘束魔法で十分に完封できるだろう。
だというのに、ゾルトラークとは……。本格的に魔族や魔法使いと戦わせるつもりなのか。
フルーフは内心で、この過保護すぎる男にツッコミを入れずにはいられなかった。
顎髭を撫でながら自慢げに奥さんを見つめるのをやめろ、と内心で毒づきながら、フルーフはレクテューレに拘束を解くようにお願いする。
激重感情の愛妻家であることは重々承知していても、流石に、色々と仕込みすぎである。
もはや、そんじょそこらの魔法使いよりも、練度は上なのではないか……と、思うフルーフであった。
「それで、打ち合わせ時間より早いですけど貴方は何しにきたんですか?」
拘束魔法の束縛から逃れた魔物は、懐からメモ用紙を取り出すと、ガラスペンで、達筆な文字を書きなぐっていく。
フルーフは、そのメモ用紙に顔を近づけ、そこに書かれた文字を読み上げた。
「あーなになに。あの……普通に音を発して会話してくれません?面倒なんで」
"……フルーフ、ハイターの手伝いをしろとのことだったが断らせて貰う。式を執り行うのに神父は二人も不要だ。私は観覧席で汝らの行く末を見守ろう"
「ちょい、ちょい……ちょっと、一人だけサボりとか許されませんよ。正当な理由を示して下さい。私を納得させられるだけの、ぐうの音も出ない正論でお願いしますね。それ以外は却下しますから」
フルーフは、責めるように魔物を見上げながら、片腕を上げて拳を作って見せる。
納得できる理由がなければ、殴るぞコラ。その無言の威圧に、魔物は、少しも動じることなく、再びペンを走らせた。
"――彼女と二人で見守りたいんだ。それでも許されないか……■■■"
その文字の最後を見た瞬間、フルーフはペンをふんだくり、その文字をぐちゃぐちゃに書き潰した。
魔物が抱えている板をよく見れば、そこには、少女とも、成熟した女性とも取れる、美しい人物の絵画が嵌め込まれていた。
それを一目見た瞬間、フルーフは手で目元を覆い、盛大に、そして深いため息を吐いた。
板に見えたそれは、自作の遺影だった。
顔の大半が潰れながらも穏やかに微笑む、その人物の絵を見ながら、フルーフは、観念したように、けれど、どこか優しく、しっかりと頷いた。
「…………マジで、ぐぅの音も出ませんね。いいですよ、特等席を用意してあげるんで、二人で見ていてください。それとレクテューレさんの簡単な診断だけしていって下さい」
"承った。汝、三ヶ月ぶりだが体調に変わりはないか?"
「えぇ、大丈夫。それとさっきはごめんなさい、診断も簡単なものでいいから――」
魔物は、懐から金属製の、分厚い本を取り出すと、レクテューレへとゆっくりと近づいていく。
その手に本をかざすと、眩い緑色の光が溢れ出し、彼女の全身を、優しく包み込んでいった。
魔物に襲われているようにしか見えないその光景を前にしても、見慣れた光景なのかデンケンには、一切、動揺した素振りは見られない。
「あの遺影。初めて見るが……あれがそうか」
「そうですよ……私の立場としては、あぁ言われては断れませんね」
「珍しく参っているな。そんな調子で式は大丈夫か?」
「最近は常に参りっぱなしですよ、色々思い出して鬱になるわ、悪夢を見るわで……おまけにあの正義マン、不意打ちで爆弾を投げてくるだなんて。ほんと……参っちゃいますね」
診断が済んだのか、魔物は本を閉じると、「問題無し」と、フルーフにハンドサインを送ってくる。
フルーフもまた、「OK」とハンドサインで返し、手をヒラヒラと振って、魔物に退出を促した。
「儂らがいたままでは気も休まらんだろう、レクテューレの診断が終わったことだ……儂らも退出しよう」
「そんな、別に気を使わなくても……って、言いたい所ですが、そうしてくれるとありがたいです。披露宴会場は今頃宴会状態でしょうし、そっちで楽しんできてください」
「フルーフ、お前は自分自身に無頓着が過ぎる。余り無理はせんことだ」
「ご心配どうも」
少し疲れた表情を見せながら、フルーフは、化粧台に頬を付き、三人を見送る。
律儀に退出の挨拶をする夫婦に手を振り、部屋は、再び、静寂に包まれた。
◇◇◇
披露宴開始まで、あと数十分。
全ての準備を終えた関係者たちは、それぞれ指定された配置に移動し、静かにその時を待っていた。
式の神父を務めるハイターも、豪奢な正装をその身に纏い、先程までの酔いはすっかり覚めているようだった。
「聞きたかったんですが、貴女達が以前から嵌めている指輪には僧侶の祝福が掛かっていますね。本来なら聖徒でも厳正な審査を経た神官同士の夫婦に与えられるもののはずですが……私は見繕っただけで、指輪に祝福を施した覚えなどありません、どういうことでしょうか?」
屋根のない、開放的な野外式場へと招待された参列者たちが続々と入場してくる。
その光景を横目で見ながら、フルーフはハイターからの質問に、無言で、けれど雄弁に答えた。
片手の人差し指と親指で、品のない輪っかを作って見せつけたのだ。
「あぁ……おおよそ解りました。聖都の内部も随分腐敗が進んでいるようですね。それとは別に今回は別の結婚指輪を用意したようですが……これは魔導具ですね、式の最中に爆発なんてしませんよね?」
「しませんよ。ただ非常時に役立つ私の魔法が込められているだけです」
「余計に心配になりますね」
参列者が、次々と用意された席に着席していく。
ヴィアベルを始めとした、北部の魔法部隊の面々。
どうやら、彼の一級魔法使いの婚約者は、今回は不参加のようだ。
戦士アイゼンと、シュタルク兄弟。
そして、何故かその隣に、関係者席に向かう気配を全く見せないリーニエの姿もあった。
それどころか、彼女は他の参列者を威圧で退かし、堂々とその席を占領していた。
その他には、貿易や流通を担う商人達やノルン商会の会長。
彼らの会話内容は、とにかくリンゴとリーニエのことで埋め尽くされている。
そして、宮廷魔法使いであるデンケンと、その妻レクテューレ夫妻も、揃って参列していた。
フェルンとその両親、南側諸国で出会った人間たちの顔も、少なからず見受けられた。
「ところで、フリーレンは呼ばなくてよかったんですか?」
「正気ですか……ハイターさん。フリーレンがソリテール様を見たら何を仕出かすかわかりませんよ?」
「流石に……――いえ……今言ったことは忘れて下さい」
フルーフの、そのあんまりな物言いに、ハイターも苦笑いを浮かべるしかない。
フルーフの奇行など、フリーレンにとっては見慣れた光景だろう。
ならばこの結婚も、いつもの「フルーフの奇行」として、呆れながらも受け入れてくれるのではないか。
ハイターは一瞬そう考えた。けれど、すぐにその楽観的な思考を打ち消した。
相手が魔族であるという一点において、フリーレンは決して妥協しない。
彼女は自ら争いを求めることはない。けれど、その本質は、生粋の魔族スレイヤーだ。
彼女にとって魔族とは、言葉を話すだけの獣。
その存在自体が人類にとっての脅威であり、排除すべき対象。
彼らが紡ぐ言葉は全てが欺瞞に満ちた毒であり、攻撃そのもの。
そんな彼女が、あの濃密な死の気配を纏う、見るからに危険の大魔族を祝福するとは……到底思えなかった。
祝うどころか……この祝福の場が、一瞬にして惨劇の舞台と化す可能性すらある。
舞い散る花びらの向こうから、フリーレンの放つ冷たく鋭い一般攻撃魔法が、ソリテールの心臓を狙って飛んでくる。
そんな光景が、ハイターの脳裏にはあまりにも容易に想像できてしまった。
「もうすぐ時間ですね……ハイターさん。わかっているとは思いますがソリテール様の存在がバレることは何があっても阻止しなくてはなりません」
フルーフは、ソリテールの行動を予測していた。
彼女がこの晴れの舞台に、その真の姿で現れることなど万に一つもないだろう、と。
変身魔法、認識阻害魔法、あるいは、厚いフェイスベール。
何らかの偽装を施してくることは、火を見るより明らかだった。
この会場には、ソリテールの正体を知らない人間も招かれている。
あの合理性を信奉し、自己の安全を何よりも優先する魔族が、何の意味も感じない儀式のために、わざわざリスクを冒すはずがない。
だから、フルーフはハイターに念を押した。
それは、始めからソリテールが姿を偽ってくることを前提とした、事務的で、けれどどこか物悲しい確認作業だった。
フルーフは確信していた。
自身にとって、千年の想いが結実する、これ以上ないほど大事な式典であっても、ソリテールにとってはただのリスクでしかない。
だから……期待などしない。
してはいけない、そう自分を言い聞かせる。
フルーフは自身に対して、あの魔族が特別な配慮をしてくれる可能性や希望など、その思考の片隅にすら存在しないかのように、淡々とした口調でハイターへと念を押した。
「なんだ、きちんと見ているではありませんか――……ふふ、申し訳ありません。ソリテールの予想通りの発言に思わず笑ってしまいました」
「え?ハイターさん、ソリテール様と話をしたんですか?何時?……いえ、それよりも今は笑ってる場合じゃありませんよ。ただでさえ私の我儘で迷惑かけてしまっているのに……」
口元を抑え、笑みを堪える僧侶にフルーフは思わず棘のある視線を向けてしまう。
「わかっています。ですがね……案外心配はいらないかもしれませんよ?人間は集団心理の生き物です。参列者の大半はここの住人であり、ソリテールの正体を知っています。周りが気にしていなければ自ずと気にならなくなるものです。現にリーニエが会場にいるのに騒ぎになる様子もありません」
「元々この場にいる皆さんは結界を素通り出来る方々なので心配していませんが、もしもがあります。披露宴を抜いて先にお酒と食事を振る舞って酔わせているのはその対策の一環です。でも、それでもです……例え結果的になんの問題もなくても……ソリテール様は臆病なので怖がらせるような真似を……私は望みません」
「自称臆病を都合よく解釈し過ぎです。心の準備として一つ覚えておいて下さい……今回の式でソリテールも魔族なりに一つ覚悟を決めたようです。私からのアドバイスがあるとすれば……余り自己評価を低く見積もらず、好意は素直に受取ることが大事ですよ」
「?どういう意味で――あ、ちょっとまだ話は」
「貴女がソリテールを良く理解しようとしているように、案外向こうもそれなり考えているということです」
ハイターは、意味深な一言をフルーフに残すと、自身の待機場所へと移動してしまった。
その言葉の真意を問いただすために追いかけようとするも、披露宴の開始時刻はもう目の前に迫っている。フルーフは、内心にモヤモヤとした感情を抱えたまま、この晴れの舞台に挑むこととなった。
◇◇◇
祭壇へと向かう通路を歩きながら、ハイターは口元に浮かんだ笑みを抑えきれずにいた。
フルーフと話す前に起きた、ソリテールとの会話が脳裏を過る。
「僧侶ハイター。私はきっとフルーフに信頼されていないわ」
「……いきなりどうしたんですか?」
孫のように可愛がっているフェルンが絶賛していた、あの純白の衣装をその身に纏った大魔族ソリテール。
ハイターからすれば、どこが良いのかまるで分からない。
けれど、あの二人の心を掴むには、十分すぎるほどの魅力があるらしい。
魅力どころか、寧ろ、光を宿さない爬虫類のような瞳が一層際立ち、不気味でさえあった。
「私との結婚式は、フルーフにとってはとても大事なものよ。何故なら彼女は心の底から私に惚れているから。彼女から見て私は格好いいの」
「うわぁ、ヒンメルのようなこと言ってますよこの魔族。感情に疎いなりに随分表現方法の学習を頑張ったようですね……。それと私は独り身ですので、惚気話は遠慮して下さい」
「そんな大事な式で……フルーフは私が姿を変えて出てくると考えている。旅の中でもずっとそうしてきたから……きっと今頃臆病な私を理解して心配してくれているわ」
ハイターは心の中で深くため息をついた。
この魔族はこちらの言葉を全く聞いていない。
フルーフやあの物怖じしない弟子のフェルンが相手であれば、まだ対話の形くらいは取るのかもしれない。
けれど、興味の範疇にない「どうでもいい相手」に対しては、意思の疎通を図ろうとする素振りすら見せないらしい。
「彼女の心配は心地良いわ、全て私の身を守る為だもの。だけど……それは私がフルーフより私自身の身を最優先にしていると信じているも同義。彼女は確信しているの……私がフルーフより我が身が可愛いと」
一人ごとのようにポツポツと語るソリテールに、ハイターは無言を貫く。
今はただ、話を聞くことに徹するべきだと、彼は決めたようだった。
「何一つ間違っていないわ。それは魔族の中にある揺らぐことのない絶対の核心よ……。容易く生き恥を晒す生き汚い本能の獣。僧侶ハイター……答えて貰えるかしら」
「何を聞きたいんですか?」
「私は愛情を理解出来ないわ。だけど別の例にたとえて共感を示すことは出来るの……。ねぇ、フルーフにとってはとても大事な私との結婚式。それを偽った姿で迎えるだなんて……――とても失礼な行いだと思わない」
「――ほぉ。どうやってどの考えに辿り着いたかは知りませんが、魔族である貴女からからそんな結論が出てくるとは驚きました。えぇ……人間の価値観に当てるのであれば、一世一代の晴れ舞台で姿を偽る行為は恥ずべき行いでしょうね」
長年、魔族と敵対し、その本性を見続けてきたハイターは感心したように息をつく。
目の前の魔族の本質は、他の魔族と何一つ変わらない。
いや、寧ろ、輪をかけて醜悪だろう。
だからこそ……そんな魔族から、相手を思いやるかのような言葉が出てきたことに、彼はただ純粋に驚いた。
普通であれば、魔族が絶対に考えつかないことだ。
それは、思考回路を意図的に、とんでもない方向へと持っていきでもしない限り、決して出てこない結論だろう。
そして、ハイターのその考えは、正しかった。
魔族に、結婚式というものをシミュレーションさせたとしても、碌な答えが出てくるはずもない。
けれど、ソリテールは、「大事なもの」「一世一代」「一生に一度」「真剣」「向き合う」といった、様々なキーワードを彼女なりの、魔族流の解釈で、何度も、何度も、何時間でも、何十時間でもシミュレーションし、フルーフの感情に「共感」するため歩み寄ろうと試みた。
そして、見つけたのだ。
今はもう、見る影もなく捨て去ってしまった、遥か昔に確かにあった、魔族としてのプライド、魔力への誇りと秩序を。
初心に帰り、連想する。
大事なもの、譲れないものを、汚され、欺かれた時の感情を。
魔族にとって、魔法と魔力は誇りだ。
魔法の真剣勝負であれば、なおのこと。 けれど、それがもし、欺かれたのなら、どうだろうか。
魔力量を隠蔽し、油断を誘うための偽装工作など、侮辱以外の何者でもない。
相手の魔力へと示した敬意は、無慈悲に踏み躙られ、その先で待つのは、怒りに満ちた苛立ちのみ。
今では、まるで湧いてこない感情だが、このやるせない感情の「理解」は、彼女にも出来た。
そうして、ここまでして、ようやく理解出来たのだ。
フルーフが、ソリテールと真剣に向き合おうとしているこの結婚式において、ソリテールが姿を偽るという行為は、恥知らずで、あまりにも無礼な行いだと。
「ありがとう僧侶ハイター……私もそう思うわ」
「それで一体どうするつもりですか?」
「私達は対等な立場の夫婦なのよ。尽くして尽くされることを知らない愚かな奥さんに……私の感情の大きさを知って貰うわ。フルーフが私の為に死も厭わないように……私もフルーフの為なら危険を厭わない姿勢を見せて上げる」
「……」
「だから姿を変えずこのまま行くわ。この行動の意味を私は本当の意味で理解出来ていないと思う。だけど僧侶ハイター……きっと意味のあることでしょう?」
「魔族の頭の中は理解できなくとも……貴女がどれだけ深く考えその答えを出したのか、それを察することは出来ます。えぇ……貴女達二人にとって……きっと、意味のある行動になるでしょう」
「そう願っているわ……きっとフルーフは私の行動を歓迎しないと思うから」
魔族は、魔族なりに考えて生きているのか。
はたまた、フルーフの重すぎる愛情が、ついに実を結んだ結果なのかは分からない。
ソリテールはあまりにも多くの人間を殺しすぎている。
ハイター個人としては、これからも彼女に好感を抱くことなど、あり得ないと断言出来る。
けれど、この一連のやり取りを見て、少なくとも、ただ雇われただけの神父としてならば、この魔族と人間の異質な夫婦を、祝福することは出来るだろう。ハイターは、そう思った。
◇◇◇
その後、式は進行手順通り、問題なく進んでいく。
けれど、何故か本来ならば新郎であるソリテールが入場するはずの場面で、先に新婦であるフルーフが入場することになった。
祭壇に立つハイターは、困惑するフルーフを安心させるように、そっと手振りを送ってくるが、当の新婦からすれば、気が気ではなかった。
やがて……入場の為の重厚な扉が、再びゆっくりと開かれる。
祝福の光が満ちる、レッドカーペットの敷かれた通路を歩く靴音が、静まり返った会場へと、厳かに響き渡った。参列者全員の視線が、その一点に集中する。
開かれた扉の向こう、祝福の光の中に立つその姿に、フルーフは息を飲んだ。
そこにいたのは、紛れもない、彼女が愛した大魔族ソリテールの真の姿だった。
額から伸びる二本の滑らかな角、陽光を受けてエメラルドに輝く髪、そして、見る者の魂を射抜くような、深く昏い瞳。
肌を粟立たせるほどの濃密な死の気配さえもが、フルーフにとっては、彼女の存在を証明する愛おしい香りのように感じられた。
何一つ偽らない、ありのままのソリテールが、そこにいた。
「――なッ!?」
フルーフの全身に魔力が滾る。
このままでは大変なことになる。とにかく、何とかしなければ。彼女の思考は、その一点で埋め尽くされた。
全員を道連れにして殺すか?
記憶を弄れば、あるいは……。
そんな、物騒で、けれど確実な考えが頭を過り、今にも行動に移そうとする。
けれど、ソリテールは、そんなフルーフの動揺を正確に読み取り、視線だけでその暴走を制止させた。
何故、何故、何故。
フルーフの思考は、答えのない問いの渦に飲み込まれ、混乱の極みにあった。
――あり得ない。
魔族が、人間のために、自らの危険を顧みない行動を取るなど。
長年の研究と経験が、その可能性を冷徹に否定する。
けれど、心の奥底で別の声が囁いていた。
ソリテールが、この無謀な行動に及んだのは、紛れもなく自分のためなのだと。
千年の歳月、フルーフはこの魔族のことだけを考え続けてきた。
共に暮らし始めてからは、その魂の機微、思考の癖、僅かな感情の揺らぎさえも記録してきた。
だからこそ……誰よりも敏感に感じ取ってしまう。
あり得ないと頭では理解していても、その行動に込められた、あまりにも人間的な「想い」の意味を、悟ってしまいそうになる。
それは、断じて認められない。 彼女は魔族だ。
狡猾で、自己中心的で、他者を思いやる感情など持ち合わせていないはずの、人喰いの化け物。
だから、これは何かの間違いだ。
フルーフは、胸の内に芽生えた甘い期待を、必死に、自身の都合の良い幻想だと否定しようとした。
ゆっくりと、けれど確かな足取りで、ソリテールが近づいてくる。
その一歩一歩が、フルーフの築き上げた理性の壁を、容赦なく踏み砕いていくようだった。
彼女はその姿から逃れるように、思わず数歩、後ずさっていた。
今以上を求めてなど、いなかったはずだった。
愛した魔族が自分のために、その冷徹な理念を曲げてくれたのかもしれない。
そんな、あまりにも甘い幻想は望むことすら許されないと、自分に固く言い聞かせてきた。
ただ……好きな人を一方的に愛することだけで、幸せだった。
それで、満足だったはずなのだ。
なのに、どうしてだろう。「もしかしたら」という、毒のように甘い期待が、心の隙間から染み出してきて、魂を激しく鼓動させる。
背筋が凍えるような、けれど甘美な戦慄が全身を駆け巡る。
目と鼻の先にある、その温かい希望。
もし、それが……ただの残酷な幻だったとしたら。 その時、自分はこの絶望に耐えられるだろうか。
――無理だ。
だから、初めから期待などしない。
そうやって、自分の心に蓋をしてきた。
期待さえしなければ、失望することもない。自己の中で完結した、ささやかな幸せの箱庭を壊さずに済むのだから。
思えば、ソリテールの変化は、旅の途中から始まっていた。
愛の言葉を囁いてくれるようになり、いつしか、その無機質な声には、確かな感情の熱が乗るようになった。
今でも十分すぎるほど幸せなのに、欲深い心はそれ以上を求めてしまう。
殺されて、喰べられて。
ただ、そんな日常を共に過ごせるだけでよかったはずなのに。 なのにッ!
駄目だ。
この温かい幻想に、一度でも身を委ねてしまえば、もう元には戻れない。
もし、なにもかもが、ただの勘違いだったとしたら、きっと……自分は今度こそ本当に壊れてしまう。
今までの、ささやかな幸せに二度と満足出来なくなってしまうだろう。
だから、これは、ナニカの間違いなのだ。
――そうに、違いない。
「逃げないで、フルーフ。私とお話しよう」
「ソリテール様……どういうつもりですか?こんなことは貴女らしくない、ここの住民はソリテール様を裏切れません、魂に楔を打つ保険も掛けています。ですが他の方々は違います。これは愚かな行為だ」
参列者たちの間に、緊張が走る。
現に、何人かの血気盛んな戦士が、反射的にその腰の剣へと手をかけていた。
ピリついた空気の中、リーニエは無言で剣を抜きそうな戦士の剣の柄を押して戻す、戦士たちは正気を取り戻し徐々に昂りを鎮め、騒ぎは大事になる前に霧散した。
けれど、フルーフにとって、そんなことは些細な問題だった。
騒ぎが起ころうと、どうでもいい。
もし、この場で誰かが愚かにもソリテールに刃を向けるというのなら、その時は……皆殺しにするだけだ。
この祝福の場を血の惨状へと変えることに、フルーフは何の躊躇もなかった。
問題はそこではない。
今、フルーフの心を支配しているのは、ただ一つ。目の前で起きている、この信じがたい現実を、どうしようもなく否定したいという、叫びにも似た衝動だった。
「フルーフ、私の行動を勘違いと決めつけて、無意味なものに変えようとするのは止めてほしいわ」
「違う……そんな筈はないッ。こんな考えは間違いに決まっている!」
「思った通り……一線を引いてきたわね」
「くぅ……クソがッ、ソリテール……私がどれだけ魔族共を研究したと思ってる、お前達魔族に他者を思いやる感情なんて無い。無いんですよ……知っている、知っているんだ……だから期待もしていない。ソリテール……ただ側にいてくれるだけでいい。たまに少しの感情が籠もったハリボテの言葉で満足なんだ。思いやる振りなんてしないでくれ……頼むよ。私は……私はなぁ、ただそれだけを、それだけが望みなんだ……ッ」
フルーフの瞳が、嵐の前の湖面のように激しく揺れる。
長年、魔族という存在を研究対象として分析し続けてきた。
その膨大な知識と経験則の全てが、ソリテールのこの異常な行動を「あり得ない」と断定する。
魔族が、人間のために、自らの利益を度外視するなど……それは、この世界の摂理に反する異常そのものだ。何もかもが理解できず、思考が麻痺していく。
その中で、直したはずの、数百年前の荒んだ口調が制御を失って唇から漏れ出た。
もう、どうなってもいい。
ただ、ソリテールにこれは間違いだと、勘違いなのだと、そう言って欲しかった。
その一心で、フルーフは、必死に言葉を掻き集め吐き出した。
「そうね……これは別の感情や空想を、無理やり繋げたツギハギのものに過ぎないわ。貴女を本気で思いやっている訳じゃない」
「……」
「だけど……ごめんなさいフルーフ。何百、何千と記憶や知識を経由して辿り着いたこの感情。この行動に至る過程は確かに貴女が聞きたくない答えへと繋がったわ」
「やめてくれ、私は貴女を想うだけで幸せなんだ……私を不幸にしないでくれ」
フルーフは力が抜けるように、その場に膝から崩れ落ちる。
純白のドレスの裾が、冷たい石畳の上に花のように広がった。
膝を打つ鈍い痛みすら、今の彼女には届かない。
嫌というほど、ソリテールのことを理解している。
けれど……それでも、否定せずにはいられない。
今ある、このささやかな幸せが、物足りなくなり、決して手に入らない、本当の幸福を求めて、永遠に藻掻き続けるなど……それこそ不幸でしかないのだから。
いつの間にか、目の前にいたソリテールを見上げ、フルーフは場違いにも、こんなことを思った。 "あぁ……今日は、一段と綺麗だな"
彼女は、呪いを受けた人間の幸福の象徴。
そして、唯一、この永い生に死という安息を与えてくれる存在。
離れたくないし、離れられない。絶対に、逃げられない。
「貴女が私の言葉を聞きたく無いことは分かるわ……でも知ってるでしょ。私は魔族で人間のように、他者に対する思いやりや気遣いなんて概念は無いの」
「……嫌なくらい、知っているよ……」
「だから言うわ。貴女を人間のように思い遣って上げることは出来ない……だけど方法はあるの。例えば愛情。魔族にとって最も大事な魔力を意識しながら感情をイメージするの。その感情と共に愛を囁やけば……貴女は何時も嬉しそうに泣いたわ。――……愛しているわフルーフ」
「はは……そう。馬鹿ですね……なんでだよ……そんなの……嬉しいんだから、泣くに決まってるじゃないですか……」
そんな風に、想って言葉を紡いでくれていたのかと知れただけで、フルーフの目頭は、じわりと熱くなる。
その感情の重みを知っている。忘れられるはずがない。
愛情とは少し違う。けれど温かく、心の籠もった……確かな愛の言葉。
王都の空、星が煌めく夜に、初めてその言葉を聞いて、涙したことを今でも鮮明に覚えている。
「夫婦という概念は対等。そこから本当に色々と考えたわ……無意味で無価値だと判断する思考を捻じ曲げて考えたの。始まりは些細なことだけど、貴女から始まった。そうしてこんな行動を起こすまで考え続けた。これはただの思考?いえ、あれだけ苦労させられて、それは勿体ないわ。だから魔族なりの気遣いと考えることにしたの」
「……魔族なりの気遣い?」
「そう……芽生える感情が無いなりに考えついた化け物の気遣い。だから貴女が恐れていることは心配しなくてもいいわ。私を深く理解してくれる人間。貴女の想像通り。私は貴女のことを思って、気遣ったの。私が我が身可愛さで姿を偽装してくると考えていたようだけど……残念。私は臆病だけど愛する奥さんの為に危険を犯せる程度には甲斐性がある旦那様なの」
思いやり?気遣い?きっと、そんな、人間が抱くような綺麗なものではないのだろう。
けれど、似た何かだ。決定的に違うが、部分的に似ている、なにか。
その感情を感じるだけで、胸が熱く沸き立つ。熱くてドロドロに溶けてしまいそうだ。
ここで、そんなものは気遣いでもなんでもない、そう切り捨てることも出来る。
けれど、そんな無粋な言葉を吐くことは許されなかった、フルーフの瞳に映るソリテールの魂の熱がただフルーフ一人を指し示していたから。
もう……これは、認めるしかなかった。
今、この瞬間。フルーフはソリテールに、確かに愛されていた。
魔族なりの歪んだものに違いはない。
けれど、これは、人間に限りなく近い、確かな情だ。
一方的な想いではない。お互いが、確かに、愛し合っていたのだ。
もう、限界だった。後戻りは出来ない。
大好きな魔族に、愛されるという喜びを、知ってしまった。
大粒の涙が、堰を切ったように頬を伝って流れ落ちてくる。
視界が滲み、ソリテールの姿が光の中に溶けていく。
ただただ、胸が暖かく、幸せで、このまま死んでしまいそうだった。
「――ぅ゛……そ゛、ソリテールしゃ、まぁ゛~申し訳ありませんッ゛、ぁ゛、愛し、てますぅ~っ゛」
ソリテールは、嗚咽を漏らし、まるで溺れる者が浮木に縋るように腰に抱きついてくるフルーフを、優しく抱きしめる。
その指先は白くなるほど強く衣装を掴み、離すまいとしていた。
まるで、他者を慮る人間のように、その背中を、そっと撫でて慰めた。
この行動に至るまでの経緯は、きっと、複雑怪奇で、誰にも理解できないだろう。
けれど、これが、フルーフを想っての行動であることは間違いなかった。
式の最中であるにも関わらず、フルーフはソリテールの胸に顔を埋め、その涙が枯れるまで、泣き続けた。
ソリテールの登場によって生まれた緊迫感は、すっかり消え失せ、式場全体から、微笑ましいとでも言いたげな、生暖かい視線が新郎新婦へと突き刺さる。
「さて御二人共……何時までも抱き合ってないでそろそろ立って下さい、まだ式の途中ですよ」
やれやれ、とでも言いたげに、ハイターが肩を竦め、二人を優しく促す。
化粧が涙で崩れ、酷い顔になったフルーフは、それでも、しっかりと立ち上がると、ソリテールの腕に、自身の腕を絡めた。
泣き腫らした目元は赤く充血し、けれどその顔には、生まれて初めて見るような、どこまでも無防備な笑みが浮かんでいた。
人間と魔族の、誓約の儀が今、始まる。
「 それでは……新郎ソリテール あなたは新婦フルーフを妻とし
健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「………………………………………………誓うわ」
((((……なんだ今の間……?))))
会場全体が頭に疑問符を浮かべ、ハイターは、内心で盛大に天を仰いだ。
ソリテールは誓いの言葉の意味を、まるで難解な魔法術式でも解読するかのように、どこか上の空な様子で熟考している。
本当に、言葉の意味を理解して返事をしたのだろうか? いや、絶対に理解していない。
ハイターの長年の経験が、そう断言していた。
あの表情は、ただ、聞こえてきた音を反芻しているだけの、感情の伴わない獣のそれだ。
「……新婦フルーフ あなたは新郎ソリテールを夫とし
健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓いますッ!何度でも誓いますッ!ソリテール様ぁ゛愛してます!!」
こっちはこっちで、感情が乱高下しすぎて、とにかく煩い。
「ゴホン……指輪を交換して下さい」
二人の手袋が静かに外され、双方の左手の薬指に、輝く指輪が嵌められていく。
フルーフは、その指輪が嵌められた自身の左手を見つめ、隣に立つソリテールの掌の温度を感じながら、満面の笑みを浮かべた。
「それでは……誓いのキスを」
お互いの手を重ね、顔を見つめ合わせる。
片方は涙で目元を赤く腫らし、想いが成就する喜びに、まるで子供のように無防備な顔を晒す人間。
もう片方は感情の揺らぎを一切感じさせない、完璧な造形美を描く笑みを貼り付けた魔族。
ソリテールの方が身長は低い。
彼女はフルーフの顔を見上げながら、その肩をそっと抱き寄せる。
フルーフに抵抗など微塵もなかった。
ただ、お互いの視線が静かに、そして深く交差する。
もはや、無粋な言葉は必要ない。二人は、それぞれの孤独な時間の中で、何度も、何度も、心の中で相手と向き合い、その答えを出し続けてきた。
それを、言葉を交わさずとも、確かに理解し合っていた。
祝福の光の中、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
フルーフの潤んだ瞳には、ただ一人、愛しい魔族の顔だけが映り込み、世界の全てが彼女の色に染まっていく。
ソリテールの昏い瞳には、歓喜に打ち震え、幸福に輝く人間の姿が、ただの餌や道具としてではなく、唯一無二の存在として、はっきりと映っていた。
ソリテールの吐息が、微かにフルーフの唇をくすぐった。
そして、そっと唇が重なり合う。
それは、血の味も、殺意の熱も無い、ただ純粋で、どこまでも歪んだ愛情の形。
千年の時を超え、種族という名の絶対的な壁を超え、二つの魂は今、この一瞬……確かに一つに溶け合った。
「どうか末永く……女神様の祝福があらんことを」
風の魔法に運ばれ、色とりどりの花吹雪が、祝福するように舞い落ちる。
参列席から、茶化すような口笛が聞こえてくる。それを皮切りに、住民たちから、割れんばかりの拍手と、祝福の言葉が贈られた。
祝福の鐘が、澄んだ音色で街中に響き渡る。
その余韻が消えぬうちに、楽団が静かな旋律を奏で始めた。
フルーフは、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった気持ちで、口笛なんて吹いた不届き者が誰なのかを、そっと探す。
そして、見つけた。
口元に二本の指を突っ込んで、無表情で指笛を吹きまくるリーニエの姿を。
横でシュタルクがドン引きしているにも関わらず吹きまくっていた。
更に少し離れた場所で金髪のエルフが酒瓶片手に、同じように無表情で……いやよく見れば若干ニタニタしながら指笛を吹き散らすしていた。
レクテューレは自分も指笛を吹こうとするも上手く吹けず、デンケンを困らせ。北部魔法隊の男共は普通に拍手し大人しく座っており、一番常識を弁えていた。
人目から離れた特等席には二つの陰が見える。
遺影を抱えた魔物は、その厳つすぎる外見に似合わず、親指を立てグッドサインを送っていた。
そしてその隣に座っていたサングラス掛けた白髪の女魔族は、SAN値を吹っ飛ばすような肉塊を抱えながら静かに手を振っていた。
フルーフはその光景に、思わず吹き出してしまう。
皆に見守られながら、この永い、永い時の生の中で、一番の笑い声を上げた。
フルーフという、一人の人間の生の中で最も幸福な時間を、彼女は、ソリテールと手を繋ぎ……ただ笑いあった。
そうして、祝福の鐘が鳴り響く中、二人は、再び口づけを交わした。
◇◇◇
街の中で一際高い建築物の、その屋根の上から、ローブを着込んだ黒い影が、眼下の式場を静かに見つめていた。
一人は女。
その毛量が凄まじいのか、深く被り込んだローブが、横に不自然に膨れ上がっている。
そして、もう一人は男。
そのガタイの良さと、腰に携えた二本の剣から、彼がただの人間ではない、手練れの剣士であることが伺えた。
「お母様の探していた人が、まさかあの性悪のソリテールだなんて、趣味が悪すぎるわよ」
「そう言う割には、邪魔立てする気はないようだが?」
「お母様の幸せを邪魔出来る訳ないじゃない……。それに私もお母様のことを言えないわ」
「この人類最強の私を前に酷い言い草だ」
「もう最強じゃないでしょ。そろそろ行くわよ」
「挨拶くらいしていけばいい」
「空気を読みなさい、落ち着いたらまた会いにくればいいわ」
その言葉を受け、ローブの男は、まるでそれが当然であるかのように、女をその逞しい腕の中へと優しく抱き寄せた。
彼女は眼下で繰り広げられる、幸福な光景から名残惜しそうに視線を離すと、男の首にそっと腕を回す。
次の瞬間、二つの影は、屋根から羽のように軽やかに飛び降り、街中に溶けるように消えていった。
「またね、お母様」
別れを惜しむような、けれど確かな再会を信じる響きを乗せて、女が一言、そう呟く。
その声は、誰の耳に届くこともなく、ただ、祝福に満ちた住民たちの歓声の中に、泡のように儚く消えていった。
■■■■■視点。
陽が落ち、夜の帳がシンビオシスの街を優しく包み込む頃、中央広場では二度目の盛大な披露宴の宴が始まっていた。
篝火が赤々と燃え、楽団が奏でる陽気な音楽に合わせて、人々は酒を酌み交わし、踊り明かす。
焼けた肉と香辛料の匂いが夜風に乗って漂い、人々の笑い声と食器の触れ合う音が、祝福の余韻を温かく包み込んでいた。
その遥か上空、闇と一体化したかのような血濡れの黒フードに包まれた蠢く人形肉塊がソリテールとフルーフをジっと見つめていた。
その首元には劣化し血で錆びついた華を象ったリングのようなものが鈍く……月光に照らされ輝いている。 肉塊は掌でそれを握りただジっと二人を眺めていた。
夜風が、その朽ちかけたフードの端を微かに揺らす。
けれど、それは身じろぎ一つせず、ただ眼下の光景を見つめ続けていた。
眼下では、二人の姿が寄り添うように並んでいる。
祝福の光に包まれ、幸せそうに笑い合う二人の姿。
肉塊の指先が、首元のリングを強く握りしめた。
遠くで、祝福の歓声が夜空に響き渡る。
その音は、肉塊の耳にも確かに届いていた。けれど、それに対する感情は、もはや読み取ることができない。
ただ、その蠢く肉塊は、夜が明けるまで、二人を見つめ続けていた。
月明かりに照らされた首元のリングが、再び鈍く光る。
血で錆びついた、けれど確かに美しい、華の形をしたそれは、まるで遠い過去の記憶を留めているかのように、静かに輝き続けていた。