ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第12話▶遠い天秤の記憶▶上

▼第十二話

 

 

それは、ある晴れの日の朝だった。

 

 

しんしんと降り積もる雪が世界を純白に染め上げる、音のない林の奥で、私は産まれ落ちた。

 

 

冷気が裸の肌を突き刺し、初めて吸い込んだ空気は刃のように肺を切り裂いた。

視界に映るのは、鉛色の空と、音もなく降り続ける白い粒子。

鼻腔を満たすのは、凍てついた大気と、どこか遠くから漂う獣の血の残り香。

だが、不思議と苦痛は感じなかった――いや、苦痛という概念そのものが、まだ私の中に存在していなかったのかもしれない。

 

 

生まれたばかりであること。

この世界には人間と魔族という二つの種族がいること。

そして、人間を欺き、狩るための方法と、魔法の使い方。

まるで遥か昔から知っていたかのように、あらゆる知識が意識の内に明確な輪郭を持って存在していた。

 

 

やがて、本能が腹の底から叫びを上げた。

 

 

――お腹が空いた。

 

 

その原始的な欲求は、思考よりも早く私を突き動かす。

誰に教わるでもなく、か弱い素足で深く積もった雪を踏みしめ、一歩、また一歩と歩き出した。

どうすればいいのか――私の中の何かが、その答えを囁きかけてくる。

 

人間を殺して捕食しなければならない、と。

 

その囁きは抗いがたい衝動となり、頭の中には獲物を仕留めるための具体的なイメージが、次々と鮮やかに湧き上がってきた。

 

 

知識の中の人間は脆い。

幼体である私の力でも、赤子の手をひねるように、たやすく殺せるはずだ。

 

 

雪と静寂だけが支配する白銀の世界を、当てもなく歩き続けていると、やがて遠くに揺らめく一つの人影が見えた。

 

 

「人間ね……丁度いいわ」

 

 

針葉樹の低い枝葉を隠れ蓑に、私はゆっくりと、雪を踏む音すら立てないように獲物へと近づいていく。

これから始まる初めての狩りを前に、昂る心を抑えながら、その姿を注意深く観察した。

 

 

人間で間違いなかった。

雪のように白い短い髪を風に靡かせた女――しかしその様子はどこかおかしい。

おぼつかない足取りで雪原をよろめき、時折、手にした瓶を呷っては、何かをぶつぶつと呟いている。

 

 

都合がいい。

警戒心も無く、魔力も取るに足らない。

これならば、不意を突けば幼い私でも殺せるだろう。

 

 

いける。

 

 

そう確信した私は、背後から音もなく忍び寄り、その首筋に爪を立てようとした。

だが、その指先が獲物に触れることはなかった。

 

 

ふと、別の気配を感じたのだ。

それは、この極寒の大気すら凍てつかせるような、濃密で禍々しい魔力の波動。

私よりずっと強い力を持つ、同族の気配だった。

 

 

残念だけど、あの獲物は諦めるしかない。

しかし、もしかすれば食べ残しにありつけるかもしれない。

私は再び茂みへと身を潜め、息を殺してその様子を窺うことにした。

 

 

後から現れた魔族の一閃が、女の胴を穿った。

声なき絶叫と共に、人間は雪原に沈んだ。

あまりにも呆気なく、あまりにも静かな、死の瞬間だった。

 

 

――やっぱり人間って弱いのね。

 

 

見たところ即死。

あれでは、何が起きたのか理解する間もなかっただろう。

 

 

その時だった。

私の耳に、奇妙な音が届いたのは。

 

 

ぶくぶく、と何かが沸き立つような、生まれながらに持つ知識のどこにもない、不気味な音。

音のする方へと視線を向ければ、雪原に倒れた女の身体から、その音が発せられているのがわかった。

正確には、血が絶えず溢れ出ている傷口から、まるで粘性の高い液体が沸騰するかのように、無数の泡が立ち上っていた。

 

 

――なに、アレ?

 

 

音に気づいた魔族が、警戒しながらも様子を窺うように女へと近づいた、その瞬間――肉が溢れ出した。

 

 

傷口から溢れ出した赤黒い肉の塊が、意思を持ったかのように魔族の腕を喰い千切ったのだ。

 

 

女の全身を覆い尽くすように膨張した肉は、もはや人間の原型を留めていなかった。

それは、湯気を立てて脈動する肉塊だった。

 

 

表面から腕が生えた。足が生えた。無秩序に、際限なく。爛れた眼球が浮かび上がっては剥がれ落ち、鋭い歯がずらりと並んでは砕けて散る。

降り積もる雪が、その熱に触れるたびにじゅうじゅうと音を立てて蒸発していく。

 

 

あれは、生き物ではない。生き物であってはならないものだった。

 

 

――嘘……なにあの化け物……

 

 

肉塊の表面に浮かぶ、ギョロギョロとした無数の目玉が、一斉に魔族の姿を捉えた。

すると、肉塊は大きく裂け、周囲の空気を凄まじい勢いで吸い込み始める。

 

 

言葉にならない絶叫が、肉の裂け目から噴き出した。

 

 

人間の言語でも、魔族の言葉でもない――ただ純粋な怒りだけが、不協和音となって雪原の静寂を暴力的に引き裂く。その中には紛れもない明確な殺意が籠っており、私の本能が悲鳴を上げた。

 

 

叫びと共に、不定形の肉塊が蠢動を始める。

その表面から無数に生えていた腕や足が、まるで意思を持ったかのように一本の巨大な腕へと融合していった。

 

 

魔族は咄嗟に空へと舞い上がり、上空から幾度となく魔法を放つが、肉塊は意にも介さない。

それどころか、魔法が着弾し肉が抉れると同時に、その傷口から新たな腕が瞬時に再生し、空を飛ぶ魔族を捕らえようと天へと伸びる。

 

 

ついに、連結した腕の先端が魔族の足首を捕らえ、抵抗する間もなく雪原へと叩きつけた。

 

 

雪煙が晴れた後も、魔族は必死に藻掻き続けていた。

しかし、その四肢には肉塊から伸びる無数の指が深く食い込み、骨が軋む嫌な音が響き渡る。

やがて、肉塊の中心に巨大な亀裂が走り、鋭い牙が並ぶ顎が開かれると、その全身が容赦なく喰い破られていった。

 

 

最期に、抵抗する意思すら失った魔族の顔面を、肉塊は原型がなくなるまで執拗に殴りつけ、その命脈を完全に断ち切った。

 

 

あれは人間なんかじゃない。

今直ぐこの場所を離れなければ、あの化け物に殺される。

 

 

その時、肉が爆ぜた。

 

 

肉塊の中から、さっきまで死んでいたはずの人間が、その肉を内側から蹴り破って出てきたのだ。

 

 

血で染まった人間は手にした瓶の口を数秒間、口に当てて中身を飲み干していく。

そして、どこから取り出したのか、また新しい瓶を開けて飲み始めた。

 

 

――今なら逃げられる。

 

 

そう確信し、背を向けて一歩踏み出した、その時。

私の身体は、まるで石になったかのように、ぴくりとも動かなくなっていた。

 

 

「動くなよ?」

 

 

声が降ってきた。振り向くことすらできない。

 

 

「なんだ子供か……耐久性が低くて壊れやすいから嫌なんだが。この魔族を殺したのは失敗だったな。まぁ……今日はコレでいいか」

 

 

足音が雪を踏む。近づいてくる。

 

 

ようやく視界の端に、女の姿が映った。

血の沼のようにドロリと濁った、光のない瞳が私を見ている。

 

動けない。

 

身体が震えているのは寒さのせいではなかった。

肌がびりびりと痺れる――さっきまでとは比べ物にならない魔力の圧が、目の前の女から溢れ出している。まるで檻の中で飢えた獣と向き合わされたような、逃げ場のない恐怖。

 

 

「わ、私お母様とハグレちゃって……お願いたすけ——」

 

 

生まれ持った知識の中から、咄嗟に言葉を探し出し、とにかく喋る。

この言葉が、人間にとっての弱点だと知っている。

化け物だとしても、人間の姿をしているのなら通じるはず。

 

 

なのに、女は僅かに動揺する素振りも見せず、ただ人差し指で、私の口元をそっと塞いできた。

 

 

「シぃ~~~……ねぇ、お嬢ちゃん、次口開いたら殺すからね。静かに出来る?」

 

 

本気で殺す気だ。

この人間は正気じゃない。

手にした瓶に何度も口をつけ、焼けるような刺激臭の混じった気怠げな息を吹き掛けてくる。

 

 

「いい子。安心して……お姉さんはとっても優しいんだ。頭に響くから子供の鳴き声が大嫌いでね……だから麻酔もしてあげる。大丈夫……一瞬だ、寝ているだけでいい、もしかしたら十瞬?ぐらいかかるかもしれないけど。痛みは感じないはずさ」

 

 

冷たい雪の中へと、無造作に押し倒される。

背中に染み込む冷気。視界に映る鉛色の空が、女の半身に覆われていく。

 

 

口は開けない、喋れば殺される。

女の手にした飲み物が、無理やり口に注がれる。何?これ……熱い、喉が焼けそうだ。

 

 

「どうかなお嬢ちゃん?度数95%超えのスピリタスだ……魔族には麻酔として丁度良い。私も何度か死んじゃう程気に入ってる。君も気に入ってくれるとお姉さんはとても嬉しい」

 

 

目の前の人間が何かを言っているけど、もう耳には入ってこない。身体に流し込まれた灼熱の異物で、視界がぐにゃりと歪み、揺れ始める。

 

 

「――ぅ」

 

「よかったよ……気に入ってくれたんだ。さぁ……お眠り。次起きた時、君は生まれ変わっていることだろう。ふふふ、安心するといい……お姉さんは責任感もあるんだよ。生まれ変わった君の面倒は見てあげる。まだ君の身体が温かったら……だけどね」

 

 

瞼が鉛のように重くなって、もう開けていられない。

意識が、深い闇の底へと落ちていく。

 

 

「……ふふ。とても黒く綺麗な魂だ……酔っ払いの執刀医で申し訳ないが勘弁して欲しい。さぁ……この無垢で美しい魂から魔族の性を丁寧に切り取っていこう。君はお姉さんにどんな反応をみせてくれるのかな?」

 

 

微睡みの中、胸の内側、身体の一部ではないどこかに、冷たい何かが触れているのを感じる。

肌が粟立ち、どうしようもない嫌悪感が、意識の底から湧き上がってくる。

 

 

「ふむ、子供だからか……ねばり気みたいなものがないな。とてもやりやすい。君はとても良い魂を持っているようだね。私とは大違いだ……――おや。まだ意識があったのかい。子供は寝る時間だよ」

 

 

酷い気分だ。吐き気が止まらない。

舌が痺れて上手く動かない。冷たさも、全身の感覚も、何も感じない。

 

 

不意に、首筋に強い衝撃が走ったのを、確かに感じた。

霞んでいた視界が、急速に暗転していく。

 

 

暗闇に落ちる寸前、女が歯を剥き出しにした満面の笑みで、こちらを見下ろしていた。

魔族なんて比較にならない。目の前のコレは、正真正銘の化け物だ。

 

 

「自己紹介がまだだった。君に新しい生を提供する姉さんの名前はフルーフだ。何時か地獄で会った時は優しくしてね」

 

 

その言葉を最後に、意識は完全に闇に飲まれた。

 

 

この時、私は魔族として、その半分が死んだのだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

「ッ、ぃてぇ……最悪……酔ってたせいで過程が何も思い出せない」

 

 

フルーフは血に濡れた両手を見下ろしながら、舌打ちを一つ。

傍らには、雪の上に横たわる小さな魔族の子供。

その胸は微かに上下しており、まだ息があることを示していた。

 

 

「それにしても困ったな……成功してるんだけど、コレ」

 

 

魂に触れた感触は、朧げながらも記憶に残っている。

人間の魂を魔族に移植する――何度試しても失敗し続けてきた実験が、今回に限って、なぜか成功していた。

 

「はぁ……経過観察と原因の解明も必要だし。面倒見るとか言った覚えもあるし……ハぁ」

 

 

深い溜息が白い息となって立ち昇る。フルーフは頭を掻きながら、眠り続ける子供を見下ろした。

 

 

「いいよ、私は嘘つきな魔族じゃないんだ……約束は守る。そこは、覚えてるからさ」

 

 

そう呟いて、フルーフは小さな身体を抱え上げた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

――十年後

 

 

暖炉の薪がぱちぱちと心地よい音を立て、石造りの家を暖かな光で満たしている。

外は凍えるような寒さだろうが、頑丈な魔族の身体を持つ私にとって、それは些細なこと。

それでも、この揺らめく炎がもたらす温もりは、どうしようもなく心を落ち着かせてくれた。

 

 

私には記憶がない。

 

 

目覚めた時、私の中には名前も、過去も、自分が何者であるかという感覚すらなかった。

ただ、胸の奥に焼き付いた恐怖の残滓だけが――血の匂いと、何か冷たいものに触れられた感触の残像だけが、かつて何かがあったことを囁いていた。

 

 

気がついた時、私はこの家にいて、一人の人間の女性に面倒を見てもらっていた。

 

 

言葉の話し方、魔法の使い方、そして私が「魔族」であり、同時に「普通」ではないということ。

生きていく上で必要な知識の全てを、彼女から教わった。

 

 

「どうして『普通』じゃないの?」

 

 

そう尋ねるたび、彼女はいつも居心地が悪そうに目を伏せ、「私が酷いことをしたから」とだけ、消え入りそうな声で呟いた。

 

 

けれど、私にはその言葉の意味が分からない。

彼女から教わった魔族の本来の習性を聞く限り、人を欺き、殺戮を本能とする過去の私より、今の私の方がずっと良いに決まっている。

 

彼女は私に新しい人生をくれた。

だから、粗暴で、どこか壊れていて、頭の可笑しい彼女のことが、私は大好きだった。

 

 

この胸に溢れる温かい気持ちや、「好き」という感情を知ることができた今の自分を、失いたくはない。

恨むどころか、感謝している。

 

 

その気持ちを伝えたくて、私は彼女を「お母様」と呼ぶようになった。

 

 

初めてその言葉を口にしたのは、彼女が珍しく素面で、暖炉の前でぼんやりと炎を眺めていた夜のことだった。

 

何度も口の中で言葉を転がして、心臓が喉から飛び出しそうになりながら、私はようやく声を絞り出した。

 

 

「お母様」

 

 

彼女の身体が、びくりと強張ったのがわかった。

振り返った顔には驚きと、それから――まるで古傷を抉られたような苦痛が浮かんでいた。

今でもあの表情は、瞼の裏に焼き付いている。

 

 

それでも私が「本当のお母様みたいに大好きだから」と続けると、彼女は何かを堪えるように固く目を瞑り、震える声でただ一言、「ごめん」と謝った。

 

 

なぜ彼女が謝るのか、私には分からなかった。

 

 

お母様を苦しめたくなくて、しばらくその呼び名を封印していたけれど、そんな私の考えは見透かされていたらしい。

ある日、彼女は深く悩んだ末に、私のことを「娘」と呼んでくれた。

 

 

だから今、私は胸を張って彼女を「お母様」と呼んでいる。

 

 

ふと、暖炉の前でギシ、と安楽椅子が軋む音がした。

 

 

視線を向ければ、深く脚を組み、虚ろな赤い瞳で虚空を見つめるお母様の姿がある。

その指には煙草のようなものが挟まれ、もう片方の手には琥珀色のお酒が揺れていた。

来客があったなら、とても紹介できないような自堕落な姿。

 

 

だけど、これが私の親愛なる母、フルーフお母様だった。

 

 

「お母様……また変な薬を吸っているの?お酒もそうだけど病気になるわよ」

 

「大丈夫、心配しないで……我が娘。病気になったら物理的に取り除くから。それとこれは変な薬じゃなくてベニテングタケとマンドレイクの葉っぱを乾燥させて混ぜた嗜好品」

 

 

いや、それ、安全性の欠片もない麻薬。

薬草や植物の勉強の時に、彼女自身が教えてくれたものなんだから、分からない訳がないじゃない。

 

 

「思いっきり幻覚作用のある麻薬じゃない……」

 

「大人には心安らぐ一時が必要なんだ……子供はミルクでも飲んで寝なさい」

 

 

ジリジリと燃える自家製の葉巻を口に咥えながら、紫煙を吐き出すお母様。

その瞳は此処ではないどこか遠くを見つめながら、私の頭を優しく撫でてくれる。

 

 

「毒で妄想に溺れてるだけでしょ……何をそんなに見たいのよ」

 

「う~~ん?私の最愛の人。直ぐ見つかると思ってたのに五百年も過ぎちゃってさ……忘れたくないから、薬で思い出してるんだ」

 

「五百年なんて人間だったら死んでるわよ」

 

「いやいや……魔族だよ。それもとびっきり美人で強くて怖い人」

 

 

お母様の探し求める魔族……でも、こんなに広い世界で、手がかりも無しにたった一人の魔族を探すだなんて、本当に出来るのかしら?

 

 

だけど、その人のことを思い出しているお母様の瞳は、いつもと違ってとても輝いていた。

燻んだ血塊みたいな瞳が、まるで宝石みたいにキラキラと輝いていた。

きっと、凄く大好きなんだと、まだ子供の私でも、はっきりとわかった。

 

 

「お母様、悪いことは言わないわ。諦めなさい」

 

「嫌だね……私はその人と結婚して夫婦になるって決めてるんだ。あ……お酒がない。私の愛しい娘ぇ~お酒を取ってきて?」

 

 

吸いかけの葉巻を無造作に暖炉に放り投げると、グラスのお酒を一気に飲み干す。

また注ごうとしたようだけど、瓶の中からは、もう一滴しか出てこなかった。

 

 

まったく、一体どれだけ飲んでいるのよ……。

 

 

「流石に飲みすぎよ?自重しなさい。そんなダラシない姿をしていると、その魔族と出会えても振り向いて貰えないわよ」

 

「えぇ……私のどこが駄目なんだ。確かに数百年前に比べたら……自暴自棄だし?いい加減なことは認めるけど」

 

 

いくら相手が魔族でも、今のお母様では、近づいただけで逃げられてしまうだろう。

まったく……元の容姿はいいのだから、せめてオシャレくらいしなさいよ。

 

 

「放浪者みたいな清潔感の無い服、ボサボサの短い髪、女性らしさの欠片もない口調に異常者の目つき、薬物中毒、アルコール依存、それに品性も――」

 

「あー待った待った……聞きたくない」

 

「――もう」

 

 

まだまだ言いたいことは山ほどあるのに、お母様は私の口元を両手で塞いでしまう。

子供の私に言い負かされて、駄々をこねるなんて、なんて大人げないのかしら。

 

 

「娘がしっかり者で嬉しいよ。そうだね……あの方へと失礼が無いように少しは改善しようと思うよ。殺して貰えても……喰べられずに捨てられたら悲しいしね」

 

 

お母様は不老不死だ。

それはもう、気の遠くなるような長い時間を生きてきたらしい。

だから知識も豊富で、魔法についてもとても詳しい。私は、そんなお母様のことを尊敬している。

 

 

だけど……時折口にする、この変態みたいな発言だけは、どうにかして欲しい。

聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。

 

 

「もぉ~お母様!そんな変態みたいなこと言わないでっていってるでしょ!娘の私が恥ずかしくなってくるじゃない!!」

 

「ははぁ~私の娘になったのが運のつきだ。でも、まぁまぁ……安心しなさい我が娘、私みたいなクズに捕まってしまいはしたが……君の魔生はこれからだ。今がドン底、後は幸せになるだけだよ」

 

 

ケラケラと屈託なく笑いながら、私の肩をポンポンと叩いてくる。

数百年前は今よりずっとまともだったらしいけれど、今のお母様の様子を見ていると、その言葉が真実かどうかも怪しい。

 

 

「……今でも幸せよ」

 

「いや不幸だ。覚えてないだけで私に出会ったのは間違いなく不幸だ」

 

 

お母様のその顔が、私は嫌いだ。

 

遠くを見つめて、まるで過去の罪を数え上げるみたいに、私を「可哀想な子供」として扱うその顔が。

 

 

「昔の私がどうだったかなんて、もう知らないわ。今の私は、お母様がくれたこの心で、とても幸せなのだから」

 

 

私の言葉に、彼女は決して頷いてはくれない。

その瞳に宿るのは、私への愛情ではなく、私にしたことへの「うしろめたさ」。

それがお母様を縛り付け、私の幸せを素直に受け入れることを許さないのだと、痛いほど伝わってくる。

 

 

はぁ……。本当に、どうしてそんな不器用なところでだけ、普通の人間みたいに罪悪感に苛まれるのかしら。私のお母様は。

 

 

「はぁ……変な所で頑固なのよね、お母様って」

 

「君には約束された幸せな未来があったかもしれないんだ。もしかしたら悪い未来だったかもしれないけど……だけどもうそれも意味がない」

 

 

お母様は虚空を見つめながら、独り言のように呟いた。

 

 

「未来なんて自分の頑張り次第じゃない」

 

「それは間違い。分岐はあっても生まれた時点で一人一人の結末はなんとなく決まっている、過程が違うかどうかの違いだけ。まぁ、それを意図的に引っ掻き回す奴らもいるけど」

 

 

どうしてそんなことを知っているのだろう、と思ったけれど、これだけ長く生きていれば、知りたくなくても色々なことを知ってしまうのかもしれない。

 

 

「寧ろ良いわよ。決められた結末なんて、ごめんだわ、今より幸せな未来が用意されていたんだったとしても……自分の道は自分で切り開くと決めているの」

 

 

これから辿る道が、もしかしたら全て確定されたものだなんて、真っ平ごめんだわ。

私はお母様の娘で、魔法も知識も、これからは自分の手で手に入れて、自分だけの力で未来を切り開いていくんだから!

 

 

「逞しいな」

 

 

お母様は目を細めて、どこか眩しそうに私を見た。

それから、急に真剣な表情になる。

 

 

「あ、後ね……気をつけてね我が娘。何時か君を利用しようとする奴が来るかもしれない……未来が見えるだけの全能感に浸る何者かが君を駒として扱うかもしれない」

 

 

私の角を優しく掴んで、軽々と持ち上げられる。

少しの浮遊感の後、お母様は私を自身の膝元に座らせると、よしよしと頭を撫で回してくる。

 

 

ぅ……お酒の匂いがするわ……。

 

 

「さっき言った、意図的に引っ掻き回す奴ら?気をつけはするけど……そうは言っても、いちいち未来を見られてるんだったら、どうしようもないじゃない」

 

「言っただろう。未来には何の意味もない、奴らが見ている未来も同じさ……変に聞こえるだろうけど私という存在は世界に映ってすらいないの。バグみたいな異物、本来この世界にいちゃいけないし……存在していない。だからなのかな……奴らの能力は私の行動を反映出来ない」

 

「うん?……つまりお母様は世界から見ても、未来の中でも透明人間ってこと?お母様の方がよっぽど引っ掻き回してるじゃない……」

 

「心外だ……」

 

 

お母様は大袈裟に肩を竦めてみせた。

 

 

「確かに私が関わったせいで、色々滅茶苦茶になっているとは思うよ……だけど私は未来が見える訳でも無いし、誰かを操り人形にしている訳でもない。ただ頑張って今を生きてるだけ」

 

「魔族や人間を好き勝手殺しておいてよく言うわ……」

 

「私は別に上から偉そうに、世界の命運だとか考えていない。この世界に生きる他の皆と同じ目線で立って正面から向き合ってるんだ。目的の為に殺しもするし救いもする……まぁ、なんだ。目的の為に手段は選ばないのは同じか……ぅうん~認めたくないけど、行動自体は私も同じ穴のムジナだ。だけど感情的に……うん無理……とにかく嫌い」

 

「なんなのよ……色々言って最後はお母様の私情だらけの感情じゃない」

 

「嫌いなものは嫌いなんだ……口から出る印象も悪くなるさ」

 

 

お母様は盛大に溜息をつくと、またグラスに手を伸ばした。

空だと気づいて、恨めしそうに瓶を振る。

 

 

「はぁ……話を戻そうか……その御大層な能力は私の行動による影響をまったく観測出来ていない。例えば……そうだな、私がどこかの国で盛大に暴れまわろう。そしたらもう滅茶苦茶パニックでとんでもない騒ぎになるじゃない?だけど奴らの眼を通して見た数分後の未来では平和そのもの」

 

「それって……ありもしない全く別の世界を見てるようなものじゃない」

 

「そうそう……」

 

 

お母様は私の頭を撫でながら、どこか遠い目をした。

 

 

「だから百年後……千年後の未来を考えて行動してる奴らを見てると可笑しくて堪らない。馬鹿みたいだ、なんなんだよアイツら……何度も未来を見直して自分の都合で変えようとしやがって」

 

「……お母様?」

 

「はぁ~~~ったく、全能感で上から見下ろしやがってよぉ~……こっちは今を生きてる人間だぞ。舐めやがってよぉ……あとアイツ……魔王軍の……思い出した、何が全知だぁ……お前なんぞ全恥で十分だぁ……全部ブチ壊してやろうかぁ」

 

「……お母様って落ち着いて。誰に言ってるのよ」

 

 

凄く口が悪い。

でも、気持ちはわかるわ。

 

 

お母様の言っている奴がどんな奴かは知らないけれど、そんな奴に好き勝手踊らされていると知ったなら、良い気はしないだろう。

どんなに良い未来を見据えていたとしても、盤面の駒扱いされるだなんて、腹立たしいに決まっているわ。

 

 

「はいはい、全く……君は優しくてお上品で私とは似ても似つかない良い娘だよ。ま、そういう訳だから対処には気をつけてね。私が関わったせいで君も晴れて超ド級の異物確定だ」

 

 

お母様は私の肩をぽんぽんと叩きながら、諭すように続けた。

 

 

「ああいう奴らは、先ばっかりに視線が集中していて足元なんて見えちゃいない。だから何度でも遷ろう過程はそれ程気にしないんだ。現に私も結構魔族を殺してるのにそういう奴らにバレてない。ただ結末に関わることは超敏感……望む未来、そこへ持っていこうと必死なのさ」

 

「……」

 

「チッ……そういう所が嫌いなんだよ。うるせぇタコ、黙って今を生きてろって感じだ」

 

 

今日の酔いは酷いみたいね。

いつにもまして口が緩くなって、暴言ばかりが飛び出ている。

 

 

「お酒で酔ってるのはわかるけど眼が据わってるし、口が悪すぎよ。その口の悪さは絶対直しなさい」

 

「あっはは……我が娘は我が母でもあったかぁ~。そうだねぇ……ママの言うことは聞かないとだね」

 

 

お母様が抱きついてきて、私の頬へとキスをする。

面倒くさい酔い方をしてるわね……全然離れてくれない。

 

 

「ちょ、お母様……――この酔っぱらい!離れなさい!も、もぉ……寝ないでよお母様!」

 

 

何度か肩を叩くけれど、返事じゃなくて、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてきた。

まずいわ、このまま寝るつもりね……そうはさせないわ!何年、お母様の面倒を見てきたと思ってるの。

 

 

「風邪引いても知らないわよ、ほら、ベッドに連れていってあげるからちゃんと寝ましょう」

 

 

腕からなんとか抜け出して、お母様を椅子から引っ張り上げる。

子鹿みたいな危なっかしい足取りのお母様をベッドの方まで連れていく……あっ、転けちゃった。

 

 

「はぁ~~い、あっ……ちょ……フランメ引っ張るなぁ……」

 

 

お母様は泥酔すると、決まってその名前を口にする。

 

 

フランメ。

 

 

魔法の勉強を教えてもらっている時にも、彼女の口からは何度もその名がこぼれ落ちた。

お母様の魔法に関する心得のほとんどは、そのフランメという人物の受け売りらしい。

けれど、その教えを忠実に守っているかと言われれば、首を傾げざるを得ない。

お母様の様子を見る限り、全く言うことを聞く気はなさそうだ。

 

 

魔法に詳しいことと、魔法の扱いが上手いことは比例しない。

 

 

それは、お母様が自嘲気味によく口にする言葉だ。

彼女は自分のことを「才能がない」と断言する。

確かに、彼女が扱う魔法はどれも特異で、正統派の魔法とはかけ離れたものばかり。

もしかしたら、その特異さこそが、彼女がフランメという師の教えに素直に従えない理由なのかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに、お母様はとうとう地面に転がり、エビのように丸まってしまった。

私は深いため息をつくと、そのだらしない身体を無理やり引き伸ばし、温かい毛布で簀巻きにする。

そして、まるで荷物を運ぶように、そのままゴロゴロと地面を転がして運んであげるのだ。

 

 

「う、うわぁ……。助けてくてフリーれぇぇ~~」

 

 

こうなれば後は簡単だ。

ベッドの縁まで転がしたお母様を持ち上げ、ベッドの上に……はい、ゴロン。

 

 

「すやぁ……ぐぅ~……ぐぅ……」

 

 

毛布を被せたお母様から、安らかな寝息が聞こえてくる。

もう夜も遅いし、私も寝ましょう。

 

 

暖炉の火とランプの明かりを一つずつ消して、私も毛布に身を包む。

布団の中でお母様の言っていた未来について考える……だけど、直ぐに考えるのを止めた。

嫌悪感剥き出しの酔っ払いの話を、馬鹿正直に信じるのもどうかと思うし、未来も過去もどうでもいい。

 

 

大事なのは、お母様といられる「今」だ。

 

 

温かい……お母様の体温で温められた毛布に、頭まですっぽりと被り、眠りにつく。

安心できる温もりと共に、私の意識は、静かに、そして深く落ちていった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

――十五年後

 

 

お母様と暮らし始めてから、十五年という歳月が流れた。

 

 

この十五年で、私は多くのことを学んだ。

同族としての習性と文化。

そして、人間社会における格差、階級、金銭といった、生きていく上で不可欠な概念の数々を。

 

 

最初は、命を奪うことさえ躊躇っていた私が、今では襲いかかってくる危険な存在を殺すことに、何の抵抗も感じなくなった。

それでも、意味もなく無抵抗な生き物を手に掛けることは、どうしても出来ない。

だって、何もしていないのに一方的に殺されるだなんて、あまりにも理不尽で、可哀想じゃない。

生きるため、食べていくために命を狩ることを否定する程甘ったれてはいないけど……。意味のない殺しへの忌避感は、どうしても消えてくれない。

 

 

お母様は「それでいい」と笑うけれど、この先、魔族として生きていくのなら、きっとそんな甘えが通用しない時が来るのだろう。

でも、魔王軍に下るつもりもないし、今はまだ、お母様の言う通り、無理に自分を変える必要はないのかもしれない。

 

 

魔力量はまだまだ少ない。この先の長い鍛錬は必須だ。

 

 

それでも、お母様から教わった戦いの教えは、私の中で確かな実を結び、生きる力となっていた。

 

 

お母様のように、自らの命を削ることを前提とした狂気的な魔法は使えない。

けれど、彼女から授けられた「魂」を利用した独自の魔法は、私の大きな武器となった。

 

 

そもそも、魔力による限界以上の強制的な身体強化など、お母様のような異常な不死性か、あるいは自己の肉体への完全な理解と卓越した魔力制御技術がなければ、ノーリスクでの行使は不可能だ。

それ自体が、魔法の威力を高めるための「リスク」として機能しているのかもしれない。

 

 

それを抜きにしても、お母様から教わる魔法は、どれも計り知れない有用性を秘めている。

特に「魂への干渉」は、相手の土俵を完全に無視し、気づかせないまま、こちらの領域へと強引に引きずり込めるのだから。

お母様と私以外は、魂の知覚すら出来ないと聞いた時は驚いたけれど、それは私達だけに許された特権であり、歓迎すべきことだった。

 

 

中でも、他者を支配し、隷属させることに、私の才能は特化しているらしい。

 

 

雪の中で凍え、今にも死にそうになっていた犬がいた。

どうにかしてあげたいと強く願った時、私は無意識に、その犬の魂を服従させていた。犬が息絶えた後も、その魂は私の手元に残り、支配下に置かれ続けた。

動かそうと思えば、いつでも犬の死体を自由に動かせる状態だったわ。

 

 

正直、この魔法はあまり好きになれない。

自分で使っておいてなんだけれど、趣味が悪いとしか言いようがないもの。

 

 

けれど、お母様はそれを「最高に優しい魔法だ」なんて言うの。

 

 

どこが、と聞けば、「痛みや寒さ、恐怖や孤独を私が支配し、コントロールしたから、犬は最期を安らかに終えることが出来た」なんて宣う。

おまけに、魂を解き放ってあげれば「天使確定」だなんて、巫山戯たことを言っていたわ。

 

 

これ以上傷つく必要なんて無い。

 

 

私がそう思うのは当たり前のことだと思っていた。

けれど、お母様はそんな私の当たり前を褒めてくれた。当たり前のことが出来る人間は少なく、その感情はとても尊いものなのだと。

「世界で唯一人の優しい魔族……自慢の娘だ」と言って、彼女は私の頭を、誇らしげな顔で何度も撫で回した。

 

 

だから、その優しさを大事にして欲しいとも言われた。

勿論、敵は例外だ。

殺されそうな時に、黙ってやられる優しさなんて必要ない。

 

 

私の魂は半分が人間で、もう半分は魔族。

命を脅かされた時、魔族としての容赦の無さは、きっと私を助けてくれるはずだ。

 

 

お母様から、命の保証をされた条件下だけれど、もう、自分一人でも生き残れるだけの経験は積んだ。

 

人間の魔法使いたちは、魔族の習性を利用して裏を掻こうとする。

けれど、そのまた裏を掻かれるとは想像もしていないみたい。

だから、本気を出させる前に、簡単に殺せたわ。

 

 

同胞たちも変わらない。

私には無い、無意味な秩序……師匠筋にあたるフランメの言葉を借りるなら「糞みたいな驕りと油断」。

そこにつけ込んで、さっさと殺す。何が正々堂々よ。不意打ちで殺されたら、世話ないわ。

 

 

私も、お母様との繋がりでもある魔法に誇りはあるし、魔族だから、その気持ちも理解出来る。

だけど、慢心なんてしない。

戦場での魔法は、ただの殺しの道具。

自慢するものでも、誇示するものでもない。相手を殺して初めて、意味を持つの。

 

 

まぁ……それを教えてくれたお母様は、常に油断だらけの隙だらけだから、いまいち説得力が無いけれど。

まず、死んでから考える戦略なんて、お母様だけしか出来ないから、教えないで欲しいわ。

最初から本気を出せば凄いのになんで、ああなのかしら。

 

 

ともかく、私は魔法使いとして大きく成長した。

そんな、魔族としても人間としても、難なく社会に溶け込めるまで成長を果たした私が……今は、大きな鎌を手にしている。

 

 

正座したお母様の髪を、私は黙々と刈り取って、箱に詰めていく。

 

 

シャキン、シャキン、と小気味よい音が響くたび、白銀の髪が箱の中に落ちていく。

瞬き一つする間に、切ったはずの髪が腰まで伸びる光景は……うぅ……見ていて眼が可怪しくなりそうよ。

 

 

これは、お母様の変態趣味ではない。れっきとした仕事だ。

 

 

お母様の髪は、雪のように真っ白で、絹のように滑らかだった。

娘の贔屓目を差し引いても、これほど美しい髪はそうそうお目にかかれないだろう。

 

 

それを、近場の村に訪れる行商人に買い取って貰っているのだ。

行商人の魂の様子から、かなり足元を見られているのが分かるけれど、元手が一切かからないことを考えると、信じられない効率でお金が稼げる。

お母様流の「路銀最速調達術」らしい……ほとんど反則でしょ。

 

 

「これくらいで良いよ。さぁ~働いた働いた。昼食は牛肉のステーキでいいかな?」

 

 

一歩も動かず、ただ髪を切られていただけなのに、肩を回して労働アピールをするお母様……なんだか、見ているだけで恥ずかしいわ。

だけど、贅沢させて貰えるなら、大歓迎よ。

 

 

「昼からステーキって……――勿論大丈夫よお母様。レモンはたっぷり掛けて頂戴」

 

「私はお塩だぁ~」

 

 

ルンルン気分で、お母様と手を繋ぎ、くるくると踊りながらキッチンへと移動していく。

魔族も寄り付かないようなド田舎だけれど、生活はリッチそのものよ!

金策に余念の無い、守銭奴のお母様さまさまだわ。

 

 

雪の下に埋めてある壺から、遠出して仕入れたというカット済みの牛肉を取り出し、お母様の手に渡す。『フライパンを加熱する魔法』で温まったフライパンの上で、お肉がジュージューと香ばしい音を立てる。

 

 

脂が弾ける音と、焼けた肉の匂いが台所いっぱいに広がっていく。

お腹が鳴りそうになるのを堪えながら、私は森で採れた山菜を盛り付けて、ナイフとフォークを準備して、完了。

雪を熱して滅菌した水をコップに注いで……さぁ、実食よ!

 

 

「う~~ん、流石は養殖。柔らかぁ」

 

「お母様が森で狩った鹿肉とは全然違うわ。なにこれ臭みをほとんど感じない」

 

 

お母様が「旨ぁ~」と言いながら、肉をパクパクと平らげていく。

私もつられて、肉を切り分けて口に運ぶと、舌の上で脂がとろけて、肉の旨味が口いっぱいに広がる。

 

 

お、美味しいじゃない。流石は、高かっただけのことはあるわ。

 

 

気づけば、お皿は空っぽで、お母様と私は無言になる。お母様からの期待に満ちた視線を感じる……。

 

 

「我が娘……足りないよね」

 

「そうねお母様……私、食べざかりなの」

 

 

私とお母さまは、無言で頷き合い、立ち上がる。

そしたら……あら不思議、気づいた時には、壺の中にあったお肉が、すっかり無くなっていたわ。

 

 

お互いに満腹感で、机に突っ伏して……なんだか、その状況が可笑しくて、二人で笑ってしまった。

 

 

あぁ……たのしい。

 

 

美味しいものを食べて、お母様と過ごす日々は、本当に楽しい。

でも、いつか、この幸せな時間にも終わりは来る……。お母様の本当の幸せは、ここにはないものね。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

更に――九年後

 

 

冗談でしょ。

 

 

週に一度、村へ買い出しに出る、そんなありふれた日常に、なんで魔王軍なんてものが襲ってくるのよ。

 

 

けたたましい悲鳴と、家々が崩れる轟音。

黒煙が冬空を覆い、逃げ惑う人々の足跡が雪原を血で汚していく。

村の人々は一箇所に集められ、怯えきった表情で寄り添っている。

 

 

逃げれば、彼らは皆殺しにされるだろう。

私だけが、この地獄から逃げ出す訳にはいかない。

 

 

けれど、魂の半分が冷徹に囁きかける。

逃げろ、と。あるいは、相手の軍門に降れ、と。

 

 

これが、魔族の本能。

自身の生存だけを最優先する、冷酷な獣の声。

その声を聞くたびに、腹の底から反吐が込み上げてくる。

 

 

私は、私として……自分がしたい行動をするだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐ、がぁ……!?」 「ぅ、゛ッ!?」

 

 

人間への変装、魔力の制限、そして相手の驕り。

お母様から教わった戦術の全てを駆使して、なんとか数人の魔族を仕留めることは出来た。

けれど、多勢に無勢。相手は魔力量において遥かに格上な上に、その数はあまりにも多過ぎる。

 

 

もう油断も、つけ入る隙も残されていない。

倒した魔族の死体を操る暇さえ、与えてくれそうにないわ。

 

 

「ぐぅ……!?」

 

 

不意に、爬虫類のような鱗に覆われた魔族に、首を鷲掴みにされ、無様に吊るし上げられる。しくじった。

 

 

喉を締め付ける力が、じわじわと強くなっていく。

視界の端が暗くなり、肺が悲鳴を上げる。

 

 

「こ、のッ……離しなさいよ!」

 

「■■■■ッ!!」

 

 

人語すら解さないのか、魔族はただ唾を飛ばしながら、獣のような咆哮を上げる。

 

ッ――汚らわしい。

 

あぁ……そう、私の変身魔法が解けて、角が見えているのね。

どうせ「裏切り者」だとか、お決まりのセリフを叫んでいるんでしょ。

 

悪いけれど、私はどちらの側にも仲間意識なんてないの。

好きなら人間でも魔族でも守るし、嫌いな奴は、ただ嫌い……それだけなのよッ!

 

 

「――ぐきゃッ!?」

 

 

靴先で、思いっきり顎を蹴りつけてやった。

硬い鱗越しでも、確かな手応えがある。

一瞬、力が緩んだ隙に、その身体を蹴りつけてトカゲ魔族の手から逃れる。

 

地面に叩きつけられ、腰に鈍い激痛が走った。

 

 

「ぐ■い■ぁッ!■ぎじ■ぃ■!!」

 

「……どうしようかしら、これ」

 

 

地団駄を踏みながら、背後に控える数匹も、同じように雄叫びを上げる。

どうやら、私にコケにされたのが、相当頭にきているみたいね。

 

 

近くに転がる魔族の死体から魂を引き寄せ、不可視の剣へと形成する。

狙うは、眼前の魔族の魂。

この剣の切っ先から、お仲間の魂をねじ込み、捏ねくり回してやるわ。

 

 

これも一種の魔法だから、魔力量に圧倒的な差があれば通じない。

もう私に魔力は殆ど残っていないし……これは、ほとんど賭けね。

 

 

「■ぢ■ぁ■ッ!!」

 

 

来た。

 

フン、私じゃなくて……お前が死ねッ!

 

 

――その時だった。

 

 

背後から、聞き慣れた声が響いた。

低く、静かで、しかし確かな怒気を孕んだ声。

 

 

「おい」

 

 

振り返る暇もなかった。

目の前のトカゲ魔族の頭部が、瞬きする間に消し飛んでいた。

 

 

「この、低能糞カス腐れ脳味噌の蜥蜴野郎。私の娘に、なにしてるんだ?」

 

 

雪煙の向こうに、白い髪が揺れている。

 

お母様だ。

 

 

黒いコートが、私の全身を包み込む。

目の前には、しゃがみ込んで、私を心配そうに覗き込むお母さまの姿があった。

 

 

「大丈夫ですか?はぁ……私なら村の人間なんて見捨てるのに、優しすぎるのも考えものですね。ホントに元が半分私の魂か……コレ?あぁ、大丈夫……直ぐ終わらせます」

 

「お母様……」

 

 

私が何かを言う前に、お母様は、自身の被っていたシルクハットを私の頭に被せて、口を塞ぐように黙らせてくる。

 

 

「■ぢし■しぁッ!!■■!」

 

「煩いわ。折角娘から口の悪さが改善したって合格点貰えたのに……あぁ……もう台無しだよ」

 

 

お母様が、トカゲの集団に、中指を突き立てて唾を吐く。

どういう意味かわからないけれど、凄く下品だわ……お母様。

 

 

私が殺した魔族の死体から剣を拝借すると、その柄を両手で握り、おもむろに、自身の身体へと突き刺した。

 

 

刃が肉を貫く湿った音が響く。

だが、お母様の表情には、痛みの欠片も浮かんでいない。

 

 

お母様が身体から剣を抜き出すと、まるでヘドロでも塗りたくったかのように、赤くてドロドロとした剣身が姿を現す。

滴り落ちる血が、積もった雪をじゅうじゅうと音を立てて溶かしていくのが見える。

 

 

「奇形の魂はいらないんだ。だけど折角こんな田舎まで来てくれたんだし……私の遺伝子をプレゼントしてあげる。嬉しいでしょう?」

 

 

お母様が、地面が抉れるほどの衝撃で、地を蹴りつける。

 

 

舞い上がった雪が落ちてくるよりも早く、お母様の剣が、一人のトカゲ魔族の腹部に突き刺さった。

記憶が正しければ、お母様に剣の心得なんて、無かったはず。

 

 

――あぁ、駄目よお母様……それじゃあ致命傷にならないわ。

 

 

トカゲ魔族を刺した剣を適当に引き抜き、蹴り飛ばす。

そのまま、側にいたトカゲを力技で、二人同時に貫いた。

だけど、剣が掴まれた。あれじゃ……引き抜けない。

 

 

その隙を狙って、トカゲがお母様の腕へと噛み付く。

見た目通り、顎の力が凄いのか、血が噴き上がる程、深く牙が食い込んでいた。

 

 

「――ぉ、ぉぉ~~!君ぃ!?今私のこと美味しそうって思ったの?魔族からみても美味しそうな肉だからこうして喰い付いて来たんだろ。遠慮しないで……味わって」

 

 

噛まれて、腕の肉が千切れそうなのに、何故か嬉しそうなお母様。

剥がすどころか、頭を撫でて……トカゲ魔族が、明らかに混乱しているわ。

 

 

あっ、動揺して、顎の力が緩んだ。今よ、お母様。

 

 

「おい、何離れようとしてるんだ。私は美味しいんだ……巫山戯るなよお前。口を離すな、しっかり咀嚼して味わえ。私のお肉は美味しいと証明しろ……はい、ゴックン。うん、いい子」

 

 

え、えぇ……どうして、自分から膝と肘で上下から圧を加えて、肉を食い千切らせた挙げ句、咀嚼までさせて食べられているの。

 

 

「何見てるんだ、お前らも喰え」

 

 

それを、ドン引きした様子で攻めあぐねるトカゲ魔族にも、お母様は容赦が無かった。

肉をたべた魔族の口を強引に開かせて、牙についた肉片を掴み、他のトカゲに無理やり飲み込ませた。

 

 

「冥土の土産は皆に行き渡りましたね。それじゃ……娘を傷つけようとした罰を受ける時間です」

 

「「「■■ぢぉ■ぃ■が!!」」」

 

 

お母様の一言で、トカゲ魔族達が騒ぎだす。

さっきまでの動揺は嘘のように激高し、魔法を使おうと、お母様へと殺意を向けていた。

 

 

――ドサ

 

 

お母様が、雪の中に、突然前のめりに倒れる。魔法にやられた?

 

 

――そんな訳がない……これは……。

 

 

魔族は、お母様が倒れても、油断することなく魔法を放とうと構える。

 

 

「■ぐ■ぎゃ……!?」 「ぐぐ■ぃ■ぁ!?」

 

 

だけど、どうやら、さっきまでの奇行は、しっかりとした何かの仕込みだったみたい。

ごめんなさい、お母様……てっきり、変態趣味が再熱したのだと、疑ってしまったわ。

 

 

魔族が、苦しみ呻く。

激痛で藻掻く奴、呼吸が出来ず苦しむ奴。

一体、どんな魔法かしら……私の知らない魔法だわ。

お母様の性格からして……たぶん――

 

 

え!?

 

 

ぉえ……ち、ちょっと、お母様!?

 

 

お母様の血が付いた剣で貫かれた魔族の傷口から、赤黒い血の沼のような目玉が、私を覗いていた。

 

同時に、人間の腕や足が、体のあちこちから不自然に生え始めている。

癒着した肉を強引に引きちぎりながら動き、魔族の絶叫が村中に響き渡る。どんどん、元の形から遠ざかっていく。

 

 

その他の刺された魔族も同じように、元の形が保てなくなり、二足歩行だった筈の魔族が、メキメキと音を立てて地面を這う。

人間の身体と爬虫類とが混ざりあった、醜悪な肉塊へと姿を変えた。

 

 

お母様の肉を食べさせられた魔族は、お腹がパンパンに膨れ上がり、その内側では、何かが蠢いている。そして、喉から両腕が飛び出し、トカゲ魔族の口を、無理やり大きく開かせる。

 

 

すると何故か……喉の奥底から、お母様の声が聞こえてきた。

 

 

――『地獄の業火を出す魔法(ヴォルザンベル)

 

 

魔族は、全身の内側から激しい爆炎を撒き散らしながら、絶命した。

 

 

――お母様ぁ……トラウマになるから、こういうのは、あれだけ止めてって言ったのに。

 

 

雪の中に倒れていたお母様が、何事もなかったかのように立ち上がる。

 

 

「『大地を操る魔法(バルグラント)』」

 

 

変わり果てた魔族達を一瞥すると、魔法で大地に裂け目を作り、次々と蹴り入れていく。

全員を裂け目へと蹴り落としたのを確認すると、地割れを閉じて、コートに付いた雪を、パンパンと払っていく。

 

 

「お母様ぁ~~っ!!」

 

「おぉ!?もう大丈夫ですよ我が娘。あぁ……あのしっかり者の娘が涙まで流して私に抱きつくだなんて。こんなに怖がらせていると知っていたら、もっと懲らしめてやったのに」

 

「お母様が原因よ!」

 

「え……わ、私?何故?」

 

「あんな気持ち悪いの、止めてって言ったじゃない!?」

 

「え……ぁ――す、すみません」

 

「どうして忘れてるのよ……」

 

「……いや……だって。娘が殺されそうな状況で自制心なんて働く訳ないし」

 

「口調戻ってるわよ」

 

「申し訳ありません」

 

「許すわ。私のこと大事に思ってやったことだもの」

 

「感謝します。娘が優しくてお母さんは嬉しいですね」

 

 

お母様は、こんなイカれた変態女だけど、昔よりずっと常識的だ。

私が成長するのに合わせて、私が昔言った改善点を、ちゃんと直してくれた。本当に直して欲しかった訳じゃないのに……。

 

 

麻薬は止めて、お酒は嗜む程度。

私が貯めたお金でプレゼントしたコートやシルクハットなんかは、好んでずっと付けて、似たものを何着も買って着回している。

 

荒っぽい口調は完全に治ってはいないけれど、少しずつ、丁寧な言葉遣いが馴染み始めていた。

女らしく髪を伸ばしたまま、清潔を維持することも覚えた。

 

 

「……それにしても、一人で格上の魔族をこれだけ殺せるだなんて。もうすっかり一人前ですね」

 

「まだまだ全然よ」

 

 

最近、お母様はよく「一人前」だと褒めるようになった。でも、全然嬉しくないわ。

 

 

「いやいや、もう私もいらないくらいです」

 

 

本心なのは分かる。

だけど、本音は違うでしょ。そんなこと言って……私の前から消えるための言い訳にしようとしてるくせに。

 

「そうですか……う~ん――そうかもしれませんね。もう少し一緒にいましょうか」

 

 

ごめんなさい、お母様……困らせているわよね。

でも……もう少しだけ、一緒にいて。

 

 

「何か欲しいものはありますか?頑張った娘の為に今ならなんだって買っちゃいますよ」

 

「そうね……なら、名前をくれる?」

 

 

お母様の動きが、ぴたりと止まった。

 

それはそうよね……十九年も一緒にいて、「娘」としか呼ばないだなんて。

意図的に避けているとしか思えないわ……。

 

親として、娘からのこんな簡単なお願いが聞けないようなら、どこにも行かせないわよ。

どうせ、また、はぐらかすに決まっ――

 

 

「考えておきます」

 

 

……え?

 

 

「……いくつか候補を考えてみます」

 

「嫌じゃないの?」

 

「そう思わせたなら申し訳ありません。そうですね……正直困惑してます。私には名前をつける資格どころか考える資格すらもないですから」

 

 

私が母親だと認めているんだから、あるに決まってるじゃない!

いつまで、昔のことを引きずるつもりよ。

 

 

「お母様以外に一体誰が名前をつけてくれるのよ……。私がどんな気持ちだったか考えたことある?」

 

「魔族に親子という概念は無く……名前を自分で付けるものなんです。だから……申し訳なく思いながらも切り出せませんでした」

 

 

何、それらしいコト言ってるの……そんなことが、今まで娘に名前を付けられなかった理由?

お母様なんて、自分が傷つきたくないだけの臆病者よ。

情に脆いから……情が移った私から嫌われそうで、言い出せなかっただけでしょ。

 

 

昔、酷いことをしたっていう魔族は……――昔の私は、もういないじゃない。

お母様の娘は、私……今の私を見なさいよ!

 

 

「お母様……しゃがみなさい」

 

「どうしまし――っ痛ぁ~~~ッ!?」

 

 

しゃがみ込んでくるお母様の頬へ、思いっきりビンタをお見舞いする。

 

 

「それで許してあげる。お母様の都合なんて知らないわよ、私にどんな後ろめたさを感じてるかどうでもいいわ。私は昔の魔族だった頃の私じゃなくて……お母様の娘なのよ。お母様もそれを受け入れたんだから……どんなに苦しくたって親として娘の為に我慢して」

 

「はは……こんな駄目なクズ親でごめんなさい。それにしても君の我儘を聞いたのは初めてですね。……わかりました、出来る限り……頑張ってみます」

 

「そうしなさい。後……今日の夕飯はお肉が沢山入ったシチューがいいわ」

 

「――勿論良いですよ……私の可愛い娘。材料を買いに行きましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

――一年後

 

 

いつも通り、ベッドの中でお母様と毛布に包まりながら、横になる。

窓の外では、しんしんと雪が降り続いている。暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かな夜に響いていた。

 

 

寝ようと目を瞑れば、お母様が、そっと声を掛けてきた。

 

 

「名前を……考えてきました。聞いてくれますか?」

 

 

心臓が、どくんと跳ねた。

 

 

「一年も掛かるだなんて、どれだけ悩んでるのよ」

 

 

軽口を叩いてみせたけれど、声が少し震えていたかもしれない。

 

 

どうやら、長く続いたこの生活にも、終わりが来たらしい。

温かい毛布の中なのに、何故か、背筋が寒くなる。

 

 

「あー……気に入らないなら受け入れる必要はないんですよ」

 

「もうそういうのはいいから……考えてきたんでしょ?」

 

「はい……パープルとかどうで――」

 

「却下」

 

「……そう」

 

 

髪の色じゃない……安直すぎる、却下。

 

 

「適当言ってないで、早く本命を話すことね……さもないとまた私の右腕が唸るわよ?」

 

 

ブンブンと、張り手を空振らせる私を見て、お母様は情けない顔で、自身の頬を擦る。

 

 

「……やはり私と貴女の共通点にするものが良いと思うんです。そう思いません?」

 

「全く関係無い名前よりは良いわね」

 

「私達は魂を形あるものとして感じ取ることが出来ます……なので魂に由来する名前を考えてみました。ですが安直に魂子とか霊子とかは……まぁ、そんな名前は嫌ですよね?」

 

 

ダッサ!?

 

 

「お母様……怒るわよ?」

 

「わかってます……確認ですよ確認。魂を形として捉えられると同時に感情を表す揺らぎも見えていますね」

 

「魔族は見えづらいけど、人間の感情の機敏ならハッキリわかるわ」

 

「そう、それです。魂から漏れ出る感情の揺らぎはオーラと呼ばれます」

 

「私達以外に見えないのに誰が、そう呼んだのよ」

 

「細かいことを気にする娘ですね……。それでは今日から私が命名してそう呼ぶことにします」

 

「いい加減なんだから……もうそれでいいわよ」

 

「そのオーラを少しモジって――『Aura』……なんて如何ですか?」

 

 

アウラ。

 

 

その音が耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。

 

 

一年間、待っていた。ずっと、この瞬間を。

名前というものがこんなにも重く、こんなにも温かいものだとは知らなかった。

 

 

お母様にしては、いや――お母様だからこその、良い名前だと思った。

私達だけに見える、魂の揺らぎ。それを名前にしてくれた。

 

 

「ふーん。それがお母様が私の為に考えてくれた名前?」

 

 

声が震えないように、精一杯の虚勢を張る。

 

 

「中々良いじゃない……気に入っ――

 

「寝ます」

 

「――ちょ、お母様!?」

 

「ぐぅ……ぐぅ……」

 

「ちょっと!私より図体がデカい癖に耳塞いで丸まるだなんて、何子供みたいなことしてるのよ!?返事を聞かずに狸寝入りだなんて許さないわよ」

 

「聞こえない……明日聞く」

 

 

聞こえてるじゃない……!?この……も、もぉ~……びくともしない。

 

 

何度揺すっても、お母様は頑なに目を開けようとしない。

その背中が、いつもより小さく見えた。

 

 

……怖いのね、お母様。私の答えを聞くのが。

 

 

「なんなのよ……絶対明日返事を聞いて貰うわよ」

 

 

私はそう呟いて、お母様の背中にそっと額を預けた。

温かい。この温もりが、ずっと続けばいいのに。

 

 

その夜、私は夢を見た。

 

 

雪の中で、誰かが私を抱き上げる夢。

顔は見えない。ただ、その腕がとても冷たくて、でも不思議と怖くはなかった。

 

 

目覚めた時、その夢の内容は霧のように消えていた。ただ、頬が濡れていたことだけを、覚えている。

 

 

翌日の朝……。

 

 

お母様の姿は、どこにも無かった。

 

 

ベッドの隣は、既に冷たくなっていた。

慌てて起き上がり、家中を探し回る。台所にも、暖炉の前にも、お母様の姿はない。

 

 

机の上に、何かが置いてあることに気づいた。

 

 

過去に私に仕出かしたことの内容と謝罪、そして、これから生きる上での注意事項が書かれた手紙が、何枚かに分けられて置かれていた。

その横の大きなカバンには、お母様の全財産が入っており、何もかもを残したまま、お母様は旅立ってしまった。

 

 

震える手で、手紙を一枚一枚読み進める。

 

 

お母様の字は、いつも通り少し崩れていて、でも丁寧だった。

私が読みやすいようにと、気を遣ってくれているのが伝わってくる。

 

 

最後の一枚に、たった一行だけ、書かれていた。

 

 

"私のことは忘れて幸せに生きて下さい……最低な母親より"

 

 

その一文を読んで、私はそれを、ぐしゃりと握りつぶす。

 

 

「あ、んのぉ……臆病者!」

 

 

声が震える。視界が滲む。

 

 

名前を呼んでもらえなかった。

「アウラ」と、一度も呼んでもらえなかった。

 

 

ハッ……お母様がそのつもりなら、地の果てまで追いかけてやるんだから。

 

 

私は涙を拭って、立ち上がった。

 

 

窓の外では、相変わらず雪が降り続いている。

お母様の足跡は、もうとっくに消えてしまっているだろう。でも、そんなことは関係ない。

 

 

私の名前はアウラ。お母様であるフルーフの娘。

 

 

お母様が否定して逃げようが関係ない。

 

 

絶対に……見つけ出して、名前を呼ばせて、認知させてやる。

 

 

待ってなさいよ、お母様!!

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

――380年後

 

 

荒野に立つ私の前に、一体の魔族が姿を現した。

 

 

「魔族アウラ。魔王様のため人類との戦争に協力してほしい」

 

 

その言葉を聞きながら、私は遥か昔の夜を思い出していた。

 

 

薪の爆ぜる音。酒臭い息。そして、酔った母が吐き捨てるように語った、「未来を見て駒を動かす奴ら」の話を。

 

 

――あぁ、お母様の言っていたのはコイツね。

 

 

口元が、自然と歪んだ。

 

 

未来が見えるだけの全能感に浸る何者か。私を駒として扱おうとする存在。

お母様が、あれほど嫌悪感を剥き出しにして語っていた連中。

 

 

――確かに、嫌いだわ。

 

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