ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第14話▶遠い天秤の記憶▶下

 

 

四年前、世界は二つの訃報に震えた。

 

 

魔王の腹心たる全知のシュラハトと、人類最強と謳われた南の勇者が相打ちとなって果てた――その知らせは、魔族と人類の双方に消えることのない傷痕を刻みつけた。

 

 

あれから四年。

 

 

南の勇者という嵐が去った戦場では、魔王軍が再び勢力を盛り返していた。

彼が血と汗で押し返した戦線は、まるで砂浜に引いた線のように、潮に洗われてじりじりと後退を続けている。

 

 

しかし、人類もただ蹂躙されるばかりではない。

各地で反撃の狼煙が上がり始めていた。

特に北方の帝国は、周辺領土を削り取られながらもその強大な国力で踏み止まり、幾度となく反撃に転じている。

戦火は依然として収まる気配を見せず、泥沼の様相を呈していた。

 

 

ここは、そんな戦乱の喧騒がまだ届かない南側諸国の最南端。

 

 

海からの潮風が街路を抜け、乾いた石畳を優しく撫でていく。

漁師たちの威勢のいい声が港から響き、市場には色とりどりの果物や野菜が並ぶ。

戦争など遠い国の出来事であるかのように、人々は穏やかな日常を営んでいた。

 

 

その辺境の街に、一組の男女が住み着いたのは数年前のことだった。

 

 

遥か北方の高原地帯から、燃え盛る戦火を逃れてきたのだという。

旅塵にまみれ、疲労の色を滲ませながらも、どこか穏やかな佇まいの二人を、街の住人たちは温かく迎え入れた。

 

 

男は寡黙だったが、その腕は確かだった。

森の奥深くに潜む危険な魔物を狩ることを生業とし、これまで街を脅かしてきた獣どもを次々と仕留めていった。

 

 

女は白衣を纏い、優しい手つきで人々を癒した。

その確かな医療技術は街の誰からも頼りにされ、彼女の診療所には連日、体の不調を訴える住人が列をなした。

 

 

そうして二人は、まるでずっと昔からそこにいたかのように、街の風景に溶け込んでいった。

 

 

街に根を下ろして二年。

 

 

時折、彼らが垣間見せる力は、避難民という触れ込みからは、およそ想像もつかないほど規格外なものだった。

男が振るう剣の冴えは、どんな熟練の騎士をも凌駕していたし、女が持つ医療技術は、時に奇跡としか呼べない結果をもたらした。

 

 

住人たちもそれに薄々気づいてはいた。

だが、誰もその過去を深く詮索しようとはしなかった。

 

 

ただ、街に訪れた確かな平穏を守ってくれる二人へ、心からの感謝と敬意を抱き、そっと見守ることを選んだのだ。

 

 

今日もまた、穏やかな陽光が降り注ぐ街の市場に、見慣れた二人の姿が現れる。

 

 

ふわふわとした紫色の髪を左右で丁寧に三つ編みに結い上げ、理知的な厚縁の眼鏡と清潔な白衣を纏った女。その足取りは軽やかで、時折すれ違う住人に気さくに手を振っている。

 

 

隣を歩くのは、農夫のような動きやすい麻のシャツに身を包んだ長身の男。

しかし、その腰には無数の傷が刻まれた古びた剣が提げられており、纏う空気には歴戦の戦士だけが持つ重みがあった。

 

 

二人の姿が、偶然にも街の八百屋の店主の目に入る。

 

 

日に焼けた顔に深い皺を刻んだ老婆は、親しげな笑みを浮かべて声をかけた。

 

 

「あらアウラちゃん。今日はお野菜が安くなってるわよ? 婚約者さんもいかが?」

 

 

アウラと呼ばれた女は、籠に盛られた瑞々しい野菜を一瞥し、少し残念そうな表情を作った。

 

 

「あら、八百屋のおば様……本当に安いわね。だけどごめんなさい、しばらくこの人と遠出することになったのよ」

 

 

そう言いながら、隣の男をちらりと見上げる。

その視線には、隠しきれない親愛の色が滲んでいた。

 

 

「あら……それは残念ねぇ。この辺りはまだ平和だけど、旅先では身の回りに気をつけるんだよ」

 

「ふふ……もう。私たちがそんなに軟弱に見えるかしら? 大魔族が来たって、軽く返り討ちにしてやるわ」

 

 

アウラの言葉には冗談めかした響きがあったが、その奥には絶対的な自信が宿っていた。

それでいて傲慢には聞こえず、むしろ老婆の心を安堵させる頼もしさがある。

 

 

「それもそうだねぇ……本当に二人には感謝してるよ。昔からこの辺りを縄張りにしてた飛竜の群れを追い払ってくれて、畑を荒らす害獣の始末までしてくれたんだ。おかげで農地の開拓も進んで、言うことなしさ」

 

 

老婆の惜しみない称賛に、男は気を良くしたのだろう。

誇らしげに胸を張り、何か言おうと口を開きかけた――その刹那。

 

 

「フッ……何か困ったことがあれば、いつでも言うといい。この人類最強の――ぐッ!?」

 

 

ゴツン、と鈍い音。

 

 

アウラの肘が、寸分の狂いもなく男の脇腹にめり込んでいた。

予期せぬ、しかしどこか手慣れた衝撃に、男は蛙が潰れたような声を漏らしてたたらを踏む。

 

 

アウラは間髪入れず、怯んだ男のシャツの襟を鷲掴みにして強引に引き寄せた。

傍目には仲睦まじく寄り添っているように見えるその姿勢のまま、彼の耳元だけに届く氷のように冷たい声で囁く。

 

 

「ちょっと……その変な癖、いつになったら直るのよ」

 

「……この口上を口にすることで、私は人々を安心させることができるのだ」

 

「あなた、今はもう勇者じゃないでしょう。死んだことになっているのを忘れたの……『南の勇者』」

 

「忘れてはいない……だが、まだ癖は抜けそうにないな。すまない……『アウラ』」

 

「謝らなくていいわ……直したくないなら、直さなくてもいいもの。その度に私が注意してあげる」

 

 

叱責していたはずのアウラの口元に、いつの間にか柔らかな笑みが浮かんでいた。

それに応えるように、呻いていた男もまた苦笑を浮かべる。

 

 

二人の間に流れる親密な空気を見て、店主は堪えきれずにクスクスと笑い出した。

 

 

「あんたたち、本当に仲がいいねぇ。随分と歳が離れているように見えるけど、お似合いだよ」

 

「……否定はしないでおくわ」

 

 

アウラは少しだけ頬を染め、店主へと手を振った。

 

 

「それじゃ……おば様、そろそろ行くわ」

 

「気をつけてね、アウラちゃん。また会えるのを楽しみにしてるよ」

 

 

別れを惜しむ店主を背に、二人は街の出口を目指して歩き始めた。

 

 

市場の喧騒が徐々に遠ざかり、石畳の道が土の道へと変わっていく。

街並みが途切れ、緑の丘陵が視界に広がり始めた頃、アウラは隣を歩く男に視線を向けた。

 

 

「北側諸国までは結構かかるわ……時期的に合ってるかしら」

 

「問題ない。クヴァールの封印は成功し、未来視の通り順調に進んでいる。後は遠回りする彼らを先回りし、予定通り進めよう」

 

 

男の声には、絶対的な確信が宿っていた。

それは、幾度となく未来を見通してきた者だけが持ちうる、静かな力強さだった。

 

 

「いいわ……」

 

 

アウラは前を向き、遥か北の空を見据える。

その瞳には、かつて魔王軍を震撼させた冷徹さの片鱗が宿っていた。

 

 

「それじゃ――新米勇者御一行を出迎える準備開始よ」

 

 

女の名は、アウラ。

 

 

かつて魔王軍に所属し、その名を轟かせた元・七崩賢――【断頭台のアウラ】。

 

 

男の方は、魔王の腹心シュラハトと相打ちになり、この世を去ったとされる人類最強の勇者――【南の勇者】。

 

 

本来ならば決して交わるはずのない二人が、なぜこのような関係に至ったのか。

 

 

その始まりは、今より約四年前――血と硝煙の匂いが立ち込める、あの凄惨な夜にまで遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

「南の勇者! ちょっと、返事もできないわけ……!」

 

 

アウラの声が、夜の闇に虚しく溶けていく。

 

 

腕の中に抱えた巨躯は、もはやぐったりと脱力しきっていた。

シュラハトと七崩賢との死闘を終えた南の勇者の身体は、およそ生きているのが不思議なほどに衰弱している。

全身に刻まれた致命傷からは絶えず真紅の血が流れ落ち、夜風に晒されるたびに、その命の灯火が細く揺らめいていた。

 

 

返事はない。

規則正しかった呼吸は、今や途切れ途切れの浅い喘ぎへと変わり果てている。

 

 

アウラの胸を焦がすのは、焦燥と、ただ一つの執念だった。

 

――貴方以外に誰がお母様を探せるっていうのよ。必ず、生かしてあげる。

 

風を切る速度を上げながら、アウラは腕の中の身体に目を落とす。

 

血が止まらない。

このままでは、国境に辿り着く前に失血死する。

 

 

彼女は空中で勇者のぼろぼろになったローブを引き剥がすと、躊躇なく出血の激しい部位に掌を翳した。

 

 

「……ごめんなさい、少し熱いわよ」

 

 

返事がないことは分かっている。それでも声をかけずにはいられなかった。

 

指先に火の魔力を集中させ、開いた傷口に押し当てる。

 

 

――ジュウッ。

 

 

肉の焼ける生々しい音と、焦げたような匂いが鼻を突いた。

腕の中の身体が苦痛に強張り、微かな呻き声が漏れる。

意識がないはずなのに、本能だけが痛みに反応していた。

 

 

「よく我慢したわ……」

 

 

止血が完了した箇所を確認しながら、アウラは飛行の軌道を修正する。

 

 

当初の計画では、国境付近の人間の砦に駆け込み、然るべき治療を施してもらうつもりだった。

南の勇者ほどの英雄であれば、人間たちは全力で彼を救おうとするだろう。

だが、もはやそんな悠長なことを言っている場合ではない。

 

このままでは、砦に着く前に死ぬ。

 

 

「ルート変更よ……」

 

 

アウラは歯を食いしばり、進路を南へと大きく逸らした。

 

 

「距離的に国境付近に身を隠すのは無理ね。北側諸国の最南端を目指すわ……少し揺れるけど、我慢しなさい」

 

 

燃費など知ったことではない。

 

アウラは己の魔力を限界まで絞り出し、全速力で夜の闇を切り裂いた。

眼下を流れる森も山も、黒い染みのように後方へと吹き飛んでいく。

 

どれほど飛んだだろう。

 

 

腕の中の巨躯が、ふいにダランと重く垂れ下がった。

 

 

首が力なく仰け反り、半開きの唇から血の混じった息が漏れる。

先ほどまで感じていた微かな心音が、消えかけていた。

 

 

「ちょっと……冗談じゃないわよ……!」

 

 

焦りが喉を焼く。

 

 

アウラは周囲を見回し、月明かりに照らされた山の頂に洞窟の入り口を見つけた。

魔族の気配も、人間の気配もない。今は、ここしかない。

 

 

急降下し、洞窟の中へと滑り込む。

 

 

硬い岩肌に勇者の身体を横たえた瞬間、アウラは悟った。

 

 

――間に合わない。

 

 

彼女には治療に秀でた女神の魔法など使えない。

持ちうるのは、魔王軍にいた頃に『不死の軍勢』を維持・強化するために磨いた死霊術と、そのために学んだ人体への膨大な知識、そして魔族としての一般的な魔法だけだ。

 

 

どれも、今まさに死にゆく命を繋ぎ止めるには、あまりにも心許ない。

 

 

洞窟の奥で、勇者の呼吸が止まった。

 

 

アウラは凍りついたように動きを止め、横たわる男の顔を見下ろした。

 

 

血の気を失った顔。半開きの瞳孔。胸の上下動は、もうない。

 

 

普通ならここで終わりだ。

どんな医療も、どんな魔法も、死者を蘇らせることはできない。

 

 

――けれど。

 

 

アウラは唇が、薄く噛んだ。

 

 

彼女は普通の魔族ではない。

魂そのものに干渉し、支配する力を持っている。

 

 

「南の勇者……」

 

 

アウラは覚悟を決めた。

 

「聞こえてないでしょうから、先に謝っておくわ」

 

 

静寂に包まれた洞窟の奥で、アウラは静かに、しかしはっきりと呟いた。

 

 

「――ごめんなさい」

 

『服従の天秤(アゼリューゼ)』

 

 

黄金の天秤が虚空に顕現し、月光を受けて鈍く輝いた。

 

 

アウラは己の魂を片方の皿に乗せ、もう片方の皿へと、今まさに肉体から離れようとしていた勇者の魂を絡め取る。

 

 

天秤が軋み、傾き――そして、均衡を得た。

 

 

その瞬間、南の勇者の魂は、アウラの支配下に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

洞窟の入り口から差し込む月光が、銀色の筋となって岩肌の凹凸を浮かび上がらせていた。

 

 

外から聞こえてくるのは、夜の静寂を縫うような虫の音。

そして、すぐ傍でパチパチと爆ぜる焚き火の音。

火にかけられた鍋がコトコトと穏やかな音を立て、肉と香草が煮込まれた滋味深い香りが、洞窟の湿った空気に溶け込んでいる。

 

 

意識が、深い泥の底から引き上げられるようにして浮上してきた。

 

 

死んだように横たわっていた身体が、もぞりと微かに動く。

錆びついた機械のようにぎこちない動きで毛布を押し退け、やがて力強くそれを引き剥がした。

 

 

「――ッ! ここは……」

 

 

朦朧とする意識のまま、男はゆっくりと身を起こす。

 

 

視界に映るのは、ごつごつとした岩に囲まれた殺風景な洞窟だった。

だが、周囲を見回すにつれて、その奇妙な様子に気づく。

 

 

木箱に整然と積まれた保存食。

天井から吊り下げられ、丁寧に血抜きされた鹿の肉。

場違いなほど手入れの行き届いたカーペットや、積み重ねられた書物の山。

 

 

誰かがここで暮らしている――その痕跡が、至る所に残されていた。

 

 

「私は一体――ぐぁッ!」

 

 

状況を把握しようと立ち上がりかけた瞬間、全身に灼けるような激痛が走った。

 

思わず呻き声を漏らし、己の身体を見下ろす。

 

そこには、焼け爛れた皮膚と、無数に走る生々しい縫合の跡があった。

縫い合わされた傷口が、胸から腹にかけて幾筋も這っている。

 

 

外傷をはっきりと認識した途端、まるで堰を切ったように痛みが押し寄せてきた。

無数の針で全身を刺されるような鋭い痛み。骨の髄まで響く鈍い疼き。

 

 

身動きすらままならない激痛に蹲りかけた、その時だった。

 

 

洞窟の入り口から差し込む月光を遮るように、二本の角を持つ人影が立った。

 

 

「あら……やっと目が覚めたかしら?」

 

 

その声を、男は忘れようにも忘れられなかった。

 

 

弾かれたように顔を上げる。

激痛さえ忘れ、全身から溢れ出す殺気を隠そうともせず、入り口に立つ人物を睨みつけた。

 

 

「ぐぅ……はぁ、はぁ……断頭台のアウラ……ここはどこだ」

 

 

人影の正体は、南の勇者が未来視の中で幾度となくその脅威を目にしてきた女魔族――七崩賢【断頭台のアウラ】。

 

 

無慈悲に人の魂を弄び、服従させた兵士を駒のように使い捨てる、異質な魔法の使い手。

その冷酷さと非道さを、彼は未来視の中で嫌というほど知っていた。

 

 

身構える勇者に対し、アウラは眉一つ動かさなかった。

 

 

その腕には、場違いにも水で濡らした清潔なタオルが、山積みになった籠が抱えられている。

どう見ても看病の準備としか思えないその姿に、一瞬だけ戸惑いが過る。

 

 

だが、警戒を解くには至らない。

 

 

「ちょっと……せっかく縫った傷口が開きかけてたのに、動かないでくれる?」

 

 

アウラは彼の剥き出しの敵意に怯むことなく、むしろ傷を案じるように眉を顰めた。

慌てて籠を地面に置くと、有無を言わさぬ口調で命令を下す。

 

 

「『静かに横になっていなさい』」

 

 

抵抗しようと、全身の筋肉に力を込める。

 

 

しかし、アウラの言葉が脳を揺さぶった瞬間――まるで全身を繋ぐ糸を彼女に握られたかのように、意志に反して力が抜けていく。

 

 

抗うことすら許されなかった。

 

 

身体はゆっくりと、しかし確実に、毛布の敷かれた地面へと横たえられる。

指一本すら、自分の意思では動かせない。

 

 

「言いたいことは分かるわ。だけど、いちいち反応されたら話が進まないじゃない……説明してあげるから、静かにしていなさい」

 

 

アウラの声は落ち着いていた。

 

勇者を見下ろすその瞳には、敵意も悪意もない。

あるのはただ、患者を診る医者のような――冷静で、どこか事務的な眼差しだけだった。

 

 

身体の自由を奪われた勇者は、内心で冷静に状況を分析していた。

 

 

意識を失っている間に、あの忌まわしき『服従の天秤』によって魂を掌握されたのだろう。

この絶対的な支配から自力で逃れる術がないことは、一連の経験が痛いほど教えてくれていた。

 

 

死を宣告された罪人のように、燃えるような屈辱と共に、己の置かれた状況を理解する。

 

自分は今、この魔族の完全な支配下にある。

 

 

「まず言っておくわ……相談なく『服従の天秤』を使ったことは謝るわ。だけど、あなたを助けるにはこれしか方法がなかった」

 

 

アウラは籠を彼の傍らに置きながら、淡々と続けた。

 

 

「今でも……あれが最善だったと断言できる」

 

 

謝罪の言葉を口にしながらも、その声には微塵の揺らぎもなかった。

勇者が抱えているであろう屈辱や怒りなど意に介さず、彼女は手際よく木箱からアルコールの入った瓶を取り出す。

 

 

ツンと鼻を突く消毒液の匂いが、洞窟の湿った空気に混じった。

 

 

「『痛覚が麻痺して、痛みを感じない』……どう、便利でしょう」

 

 

タオルに消毒液を染み込ませながら、アウラはどこか魔法の成果を誇るような口調で説明する。

 

 

「魂の支配権を握るということは、間接的に肉体の主導権を握るのと同じなの。感覚だって、認識だって、操れるのよ」

 

 

染みたタオルが、無数の縫合跡が走る傷口に押し当てられた。

 

反射的に全身が強張る。灼けるような激痛を覚悟した。

 

 

しかし――身体を貫いたのは、予想された痛みではなく、ただ冷たい液体の感触だけだった。

 

痛覚だけが、綺麗に消え去っている。

 

生々しい傷口が丁寧に拭われていく光景は、あまりにも奇妙で、そして不気味だった。

 

 

アウラの言葉には、どこか安心させようとする響きが含まれていた。

 

だが、勇者の心に安らぎが訪れることはない。

 

 

魂を握られ、感覚すらも操られるこの状況は、死よりも深い隷属を意味している。

いつ彼女の気まぐれで『不死の軍勢』に加えられ、心なき骸へと変えられるか分からないのだから。

 

 

その内心を見透かしたように、アウラは小さく溜息をついた。

 

 

「……あのねぇ、貴方が何を考えているのか、私には手に取るようにわかるのよ?」

 

 

傷口の消毒を続けながら、彼女は淡々と続ける。

 

 

「恩着せがましく振る舞うつもりはないけど、あの場所から助け出した私に、その態度はないでしょう」

 

 

何のことだ――一瞬、疑問が頭を過ぎる。

 

だが、徐々に鮮明になっていく意識と共に、死ぬはずだったあの夜の出来事が蘇ってきた。

 

 

そうだ、確かに――

 

記憶の中の女魔族は、シュラハトを裏切り、七崩賢の全てを敵に回した。

そして最後には、瀕死の自分を抱えて戦場から逃げ出したのだ。

 

 

未来視で幾度となく目にしてきた『断頭台のアウラ』では、絶対にあり得ない行動の数々。

それを、彼ははっきりと思い出した。

 

 

しかし、思い出したところで、新たな疑念が次から次へと湧き上がってくる。

 

 

なぜ、魔族である彼女が自分を助けた?

 

なぜ、魔王軍を裏切った?

 

真の目的は何なのか?

 

そして――なぜ、予知の通りにならなかったのか?

 

 

「混乱しているのかしら? まぁ、そうよね」

 

 

使い終えたタオルを籠に戻しながら、アウラは立ち上がった。

 

 

「色々と聞きたいことはあるでしょうけど……まず、あなたにとって一番大事なことを先に話しておくわ」

 

 

石を積み上げて作った竈に歩み寄り、熱せられている鍋の中身をゆっくりと掻き回す。

 

 

そして――振り返ることなく、静かに告げた。

 

 

「南の勇者……残念だけど、貴方。肉体的には、もう死んでいるわ」

 

 

死んでいる。

 

 

その言葉が、理解の範疇を超えていた。

 

 

脈打つ心臓の鼓動を感じる。

身体には確かな温もりがある。

先ほどまで走っていた激痛の記憶も、まだ生々しく残っている。

 

 

生命の証であるはずのそれら全てが、彼女の言葉を否定していた。

 

 

鍋を掻き回す手を止め、アウラは肩越しに振り返った。

 

 

「正確には、生きたアンデッドかしらね。死体は死体でも生きてはいるから、そこは安心してくれていいわ」

 

 

まるで禅問答のような言葉に、眉間に深い皺が刻まれる。

 

アウラは彼の困惑を見て取ると、竈の傍らに腰を下ろし、事の核心を語り始めた。

 

 

「魔王軍にいた頃……『不死の軍勢』を維持したり強化したりするために、死霊術や人間の医療書を読み漁ったのよ。魔法を構築するイメージを固めるために、解剖学なんかも学んだわ」

 

 

焚き火の明かりが、彼女の横顔を照らしている。

 

 

「おかげで、あなたがもう助からないことは一目で分かった。だから――死後、魂が流れていく前に『服従の天秤』で魂の主導権を奪ったの。そのおかげで、できる限りの処置を施すことができたわ」

 

 

致命傷だったことは理解している。

 

だが、魂を支配することが、どうして「生」に繋がるのか。

 

疑問を口にする前に、アウラは説明を続けた。

 

 

「私の魔法は、七崩賢に選ばれる程度には、貴方たち人類の理解からかけ離れているわ。だから、色々なことができるの……さっきみたいに、痛覚だけを麻痺させたりね」

 

 

彼女は自分の胸に手を当て、そこにある何かを確かめるような仕草をした。

 

 

「少しのイメージさえ及べば、心臓や臓器を動かすことだってできるのよ」

 

「……」

 

「そうやって、肉体や臓器――消化器官なんかを意図的に動かして、あなたの身体を生前と同じ状態になるように機能させているの。だから体温もあるし、痛みを感じる神経も生きている」

 

 

アウラは言葉を切り、真っ直ぐに彼の目を見つめた。

 

 

「理解できるかしら、南の勇者」

 

つまり――こういうことか。

 

アウラは『服従の天秤』によって、生命体の「魂」という名の制御権を掌握した。

そして、その魂を介して、本来なら死と共に停止するはずの心臓や肺、脳といった各器官に直接命令を送り、強制的に動かしている。

アウラの特異な魔法を動力源として機能する、極めて精巧な「生きた屍」と化していたのだ。

 

 

確かめるように、未来視の力を行使する。

 

 

しかし――そこには何も映らなかった。

 

 

未来へと繋がるはずの光景が、完全に断絶している。

どれほど意識を集中させても、何も見えない。

 

 

その事実が、アウラの言葉を裏付けていた。

 

 

南の勇者という一個人の運命は、シュラハトとの戦いで確かに終わっていたのだ。

 

 

彼は静かに目を閉じ、自分がアンデッドであるという現実を受け止めた。

 

 

「割り切りが早いのは良いことね」

 

 

アウラは僅かに目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。

 

 

「だけど、悲観する必要はないわ……実際、生きているのとほとんど変わらないんだから」

 

 

立ち上がり、再び鍋の様子を確認しながら、彼女は続ける。

 

 

「そこまで持っていくのに、十日もかかったのよ。致命的に血が足りなかったし……身体を無理やり動かして肉や野菜を食べさせて、血を作って。傷も自然治癒を妨げないよう、毎日消毒して――」

 

 

ふぅ、と小さく息を吐く。

 

 

「本当……色々と大変だったわ」

 

 

「色々」という言葉の中に、彼女の苦労が滲んでいた。

 

意識を失っていた十日間の出来事を、頭の中で推察する。

血を作るために食事をさせ、傷が膿まないよう消毒を繰り返す。

魂を支配しているとはいえ、意識のない人間の身体を維持し続けるのは、並大抵の労力ではないはずだ。

 

 

――待て。

 

 

ふと、ある考えが頭を過ぎった。

 

 

人間として機能させているということは、当然、排泄なども――

 

――まさか。

 

その生々しい想像に行き着いた瞬間、思わず顔を伏せた。

 

 

感謝よりも先に、強烈な気まずさと申し訳なさが込み上げてくる。

敵であったはずの魔族――それも、見た目は年若い少女にしか見えない相手に、そこまでの世話をさせてしまったのだ。

 

 

同時に、彼は確信する。

 

 

この目の前にいる魔族は――シュラハトや魔王軍の全てを敵に回すほどの危険人物でありながら――その本質は、とんでもないお人好しだ、と。

 

 

最初は、魂を奪われた人形として、いいように操られる可能性を考えていた。

だが、彼女からはそんな気配は微塵も感じられない。

伝わってくるのは、こちらを気遣う真摯な姿勢だけだった。

 

 

数多の未来を見通し、実年齢以上の経験を積み重ねてきたからこそ、嫌でも分かる。

 

 

この断頭台のアウラという魔族は、明らかに人間の感情を深く理解している。

そして――人並み以上の情を、持ち合わせている。

 

 

だからこそ、先ほどまで全面的な敵意を向けてしまったことへの罪悪感が、じわりと胸に広がっていく。

 

 

アウラは、そんな彼の様子を見て取った。

 

 

「……気にしなくていいわ」

 

 

鍋から視線を外さないまま、何でもないことのように言う。

 

 

「自分で助けると決めた患者を看病しただけなんだから。自業自得よ」

 

 

その更なる気遣いに、勇者の胸中で申し訳なさが一層募っていく。

 

魂の揺らぎを通じてそれを感じ取ったのか、アウラはもう何も言えず、ただ苦笑いで返すしかなかった。

 

 

しかし、こんな澄ました態度を見せるアウラであったが、実際に南の勇者の看病をしている間は……顔を耳まで真っ赤に染め上げ、それはそれは過酷な表情をしていたのだった。

 

知識として、あるいは死体として実物を見たことはあっても、生きた男の人間に対する免疫は、彼女には全くと言っていいほど備わっていなかったのである。

 

 

「話を戻すわね」

 

 

アウラは咳払いを一つして、表情を引き締めた。

 

 

「これだけなら生きてるのと変わらないわね。だけど私は、あなたが死んだのを確認した後に、魔族の死霊術師が使う魔法を覚えてるだけ全部施したわ」

 

「……」

 

「本来なら、腐敗や損傷を防いだり、欠損部位を修復したり、魔力で自動回復させるためのものなんだけど……」

 

 

彼女は難しい顔で言葉を探している。

 

 

死んでいるのに生きている――その矛盾した状況を、どう表現すれば伝わるのか、本気で悩んでいるようだった。

 

 

「色々と言葉を考えてみたんだけど……そうね、やっぱり簡単に表現するなら『生きた死体』ね」

 

 

アウラは指を組み、膝の上に置いた。

 

 

「身体はしっかり死んでいて、死霊術に関する魔法が正常に機能しているわ。同時に、私が強制的に人間として機能するように動かしているから、生きているとも言えるわね」

 

 

本来なら、彼が意識を取り戻し、生者として活動を再開すれば、死体という魔法の対象条件から外れ、術は自然に解けるはずだった。

 

アウラの想定では、そうなるはずだったのだ。

 

だが――現実は、その想定を裏切った。

彼の身体に掛けられた死霊術は、半分ほどしか解呪されていなかった。

 

「本来なら死体にしか作用しない魔法と、無理やり生きた状態を再現した私の魔法。その二つが複雑に絡み合っていて……」

 

 

アウラは何度も彼の魂を診て、その度に眉間の皺を深くしていた。

複数の死霊術式と『服従の天秤』が、まるで絡まった糸のように複雑に癒着している。

どこから手をつければいいのか、見当もつかない状態だった。

 

 

俗っぽい言い方をすれば、スパゲッティコード。

スパゲッティコードとスパゲッティコードが絡み合った、摩訶不思議状態へと突入していた。

 

 

下手に解こうとすれば、どんな破綻が彼の身体を襲うか――考えたくもなかった。

 

 

「……落ち着いて聞いて、南の勇者」

 

 

アウラは真っ直ぐに彼の目を見つめ、告げた。

 

 

「――貴方の身体、劣化しなくなっちゃったのよ」

 

 

勇者の身体には、アウラが施した死霊術の魔法が今もなお機能している。

 

それは本来、術者の魔力を源として、アンデッドの肉体の損傷を微量ながら自動で修復し続けるための、いわば応急処置に過ぎないものだった。

 

だが、その魔法と『服従の天秤』が絡み合った結果、予期せぬ化学反応が起きてしまった。

 

魂の支配権を握るアウラは、精密な機械の内部を調べる技師のように、魂を通じて彼の肉体の情報をつぶさに観測していた。

 

彼女が戦慄したのは、規格外の身体能力などではない。もっと根源的な部分だった。

 

彼の身体は、細胞レベルで一切の「老化」が行われていなかった。

正確にいえば、死体修復の魔法術式が細胞レベルで機能し、細胞を修復し続けていたのである。

 

呼吸し、心臓が鼓動し、思考するだけで、生物は微細なレベルで常に摩耗していく。

その避けられないはずの損耗が、彼の身体には一切見られなかった。

 

 

「つまり……私の魔法を動力源とした、限定的な不老状態、かしらね」

 

 

アウラは努めて冷静に説明を続けた。

 

 

「大丈夫よ……魔力の消費量は微々たるものだし、突然維持できなくなる、なんてことはないわ」

 

 

もちろん、弱まった魔法では、シュラハトとの死闘で負ったような大きな外傷を即座に修復するほどの力は残っていない。致命傷を受ければ、おそらく死ぬ。

 

だが問題は、そこではなかった。

 

日常的な生命活動による摩耗――それが、完全に停止しているのだ。

 

「望むのなら……時間はかかるかもしれないけど、必ず解除してあげるから」

 

 

アウラは真剣な眼差しで彼を見据えた。

 

 

「だから、絶対に自力で解呪の魔法なんて使うんじゃないわよ」

 

 

黙って話を聞いていた勇者は、ふと思った。

 

――なんだ、この気遣いの鬼は。

 

数多いる勇者たちよりも、よほど気遣いができる。

こちらが不安に思わないよう、説明に対する補足が丁寧すぎるほどだ。

 

 

「もう口は利けるようにしてあげたから……返事をしなさい」

 

「……色々と配慮してくれていること。現状が私にとって、最善であったことは理解できた」

 

 

ようやく声を発し、彼は続けた。

 

 

「これ以上、私に畏まる必要はない……こちらが申し訳なくなる。解呪を心配しているようだが、安心するといい。そのような高度な魔法、私には未来視以外に使えないからな」

 

「……貴方、マハトの黄金化を完璧に防いでいたじゃない」

 

 

アウラは怪訝そうに眉を寄せた。

 

 

「あの黄金は物理法則の外にある呪いよ……魔法じゃなければ、どうやって斬ったっていうのよ」

 

「なんとなくだ。未来視を重ねるうちに、斬れること、耐えきれることが分かったのだ」

 

「……南の勇者。貴方、どれだけ感覚派なのよ」

 

 

アウラは呆れたように肩を竦めた。

 

 

「それなら、ベーゼの結界も破壊できるわけ?」

 

「あぁ、何度か視ているうちに、破壊できる未来が見えるようになった」

 

「魔法を感覚で使いこなすのは、魔族の十八番なのに……貴方、やっぱりおかしいわね」

 

 

半ば感心したように、半ば呆れたように、アウラは首を振った。

 

 

「なら、私の魔法も気合で解呪できるんじゃない?」

 

「完全に服従させられる前……であったならな」

 

「はぁ……さすがは魔王軍の前線部隊を単身で全滅させた化け物だわ。出てくる言葉が、常識から外れすぎているのよ」

 

 

アウラは心底呆れたように溜息をつく。

 

 

つまりは、人知の及ばない七崩賢の魔法ですら、未来視で観測を続けるうちに、感覚だけで対処法を編み出してしまうというのか。

巫山戯た身体能力と、観測を重ねるだけで殺しに来る化け物剣士――怖すぎる。何なのこいつ、魔法使いの天敵じゃない。

 

 

「それで、どうするつもりだ。私の力を使って何かを企んでいるのだろう?」

 

「はぁ? 何を勘違いしてるか知らないけど……あなたの力になんか、最初から興味ないわよ」

 

 

――え、ないのか。

 

 

思わず、そう聞き返したくなるほど虚を突かれた顔をした。

 

 

自惚れでも何でもなく、自分は人類最強とまで呼ばれた勇者だ。

敵である魔族が自分に価値を見出すとすれば、その圧倒的な戦闘能力以外にあり得ないはずだった。

 

 

心のどこかで、彼はアウラを試していたのかもしれない。

 

 

どれほどお人好しに見えようと、所詮は魔族。

いずれはその強大な力を利用しようと企んでいるに違いない――そんな警戒心が、まだ心の奥底に燻っていた。

 

 

しかし、返ってきたのは、予想を遥かに裏切る、何の含みもないドライな否定だった。

 

 

彼の力など全く意に介していない。

興味の欠片すら感じさせないその口調。

 

 

それは驚きを通り越して、まるで自分が自意識過剰であったかのような気恥ずかしさを、全身に駆け巡らせた。

 

 

「なら、一体どうして私を助けたのだ」

 

「それも含めて、全部説明してあげるわ……だけど、その前に食事にしましょう」

 

 

アウラは鍋を火から下ろし、彼の傍らに歩み寄った。

 

 

「ほら、南の勇者。危ないからゆっくり身体を起こすのよ」

 

 

彼女は勇者の身体をそっと支えながら、洞窟の壁に背を預けるように座らせる。

 

滅ぼされた村から持ち帰ったという調理器具の中から、食事用の椀とスプーンを取り出し、鍋の中でぐつぐつと煮立つ液体を椀に注いだ。

 

湯気の立つ食事が、彼の手に渡される。

 

 

「これはまさか、人間の――」

 

「なわけないでしょ」

 

「……すまない」

 

「魚と貝で出汁をとった海鮮スープよ。あなたの身体が回復するまで、まだしばらくかかりそうだから聞いておくけど――嫌いなものはある?」

 

「い、いや……ないが……」

 

 

魔族が、ごく普通に料理をしている。

 

 

その事実に戸惑いながらも、恐る恐るスプーンを口に運ぶと――魚介の豊かな風味が、口いっぱいに広がった。

 

 

「……美味い」

 

「そう……ありがと。お母様から教わったのよ」

 

 

がつがつと食べ始める彼の様子を見て、アウラはクスクスと笑みを浮かべ、水を入れた革袋を差し出した。

 

 

「母親か……魔族に親はいないはずだが」

 

「そうね……だけど、お母様と私は、血よりもずっと濃いもので繋がっているわ」

 

 

アウラは自分の分のスープを椀に注ぎながら、静かに続けた。

 

 

「貴方、私が他の魔族と違うことを不思議に思っていたでしょう?」

 

「あぁ、自分の身体のことよりも、むしろそちらの方がずっと気になっていた……説明してもらえるのか」

 

「えぇ……私が貴方を助けたことにも関係があるし、ゆっくり説明してあげるわ」

 

 

食事を続けながら、アウラは自身の母――フルーフについて、静かに、そして懐かしむように語り始めた。

 

 

自分の魂が半分人間であること。

そのために、魔族としての本能的なものがほとんど残っていないこと。

そして、ある日突然姿を消してしまった母親を、ずっと探し続けていること。

 

 

魔王軍や七崩賢のこと、どうしてシュラハトを殺すに至ったかの経緯も、包み隠さず話した。

 

 

もっとも、全てを話したわけではない。

母が今も魔族相手に実験を繰り返していることは、さすがに伏せておいた。

娘の私までヤバい奴扱いされては堪らない。

 

アウラの過去を聞いた勇者は、ただ神妙に頷き、深い理解を示した。

 

 

見ることも触れることもできない魂の話も、彼は嘘や戯言と切り捨てることなく、真剣に耳を傾けた。

アウラがこれまで見せてきた誠実な態度が功を奏したのか、二人の間には既にある程度の信頼関係が築かれているようだった。

 

 

「なるほど……人間よりも人間らしいと感じたのは、そういう訳か。納得のいく理由だ」

 

 

彼は空になった椀を置き、真っ直ぐにアウラを見つめた。

 

 

「だがアウラ……先ほどの話の通りであれば、私の未来視で君の母親を探し出すことは難しいだろう」

 

「いいえ、探せるわ。お母様が必死に探していた魔族と、もし既に出会えているなら……だけど」

 

 

アウラは椀を傾け、最後の一口を飲み干した。

 

 

「お母様は加減を知らない人だから、喜びすぎて絶対に何かやらかしているはずよ。あなたの未来視で、お母様の痕跡を探してほしいの」

 

 

「私の未来視と現実の差異を辿って、君の母親を探すということか」

 

「そうよ。もちろん今すぐじゃなくていいわ……何十年後でもいいし、とにかく今は生き延びることが最優先ね。これが、私があなたに求めていること」

 

「ふっ……私の力ではなく、もう使い物にならない未来視を求めてくるとはな」

 

 

アウラの要求は、極めて平和的な――ただの人探しだった。

 

そのあまりに気の抜ける内容に、彼は思わず笑ってしまった。

 

 

「何か文句でもある訳? さぁ……私の望みは言ったわ。次はあなたの望みを言いなさい」

 

 

また、理解できない言葉が聞こえてきた。

 

顔を上げ、アウラの真意を問うように、その瞳を見つめる。

 

 

「何だ? ……なぜ私の望みを君が聞く必要がある。好きに命令すればいいだろう、私の命は君が握っているも同然なのだから」

 

「何を言っているの?」

 

 

アウラは呆れたように眉を寄せた。

 

 

「私はねぇ……誰かに利用されるのも、誰かの弱みにつけ込んで利用するのも嫌いなのよ。欲しいものは、正面から堂々と手に入れる。これは対等な取引よ……南の勇者」

 

 

その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。

 

 

シュラハトを殺した瞬間の冷徹さを思えば、彼女が純粋無垢とは程遠いことは分かる。

だがそれでも――控えめに言っても、彼女は相当な善人だ。

 

 

試しに、母親を探し出した後で自分がどう扱われるのかを尋ねてみた。

 

 

「好きに生きていいわよ。寿命で死にたいなら魔法の解呪を急ぐし、そうじゃないなら維持しておくから。死にたくなったら言ってくれれば、その時に考えるわ」

 

 

アウラは何でもないことのように、そう返した。

 

 

そもそも、命の恩人という特大の交渉材料を一切使ってこない上、それを「弱みにつけ込むこと」だと言い切るあたり――目の前の魔族の善良さが、嫌でも伝わってくる。

 

 

「お人好しな上に頑固者とは、難儀な性格をしているな。君のその実直さが引き金となり、シュラハトは死に追いやられたということか」

 

 

彼は少し間を置いて、続けた。

 

 

「ならば、シュラハトと同じ未来視を持ち、これまで数々の変化を引き起こしてきた私も……君にとっては嫌悪の対象なのではないのか」

 

 

自分もアウラが激怒したシュラハトと、同じことをしてきたという自覚があった。

同じ魔法を持ち、最良の未来を望み続けたのだ。

シュラハトに強烈な嫌悪感を抱くのであれば、自分も当然嫌われてしかるべきだろう。

 

 

今更ながら、なぜこれほど友好的に接してくるのか――さっぱり分からなかった。

 

 

「全然違うじゃない」

 

 

アウラは首を横に振った。

 

 

「私が嫌いなのは、他人を自分の都合のいいように駒として扱う奴よ。人間だろうと魔族だろうと、利己的な都合で他人の人生を踏み躙る奴らには虫唾が走るわ」

 

 

彼女は空になった椀を脇に置き、焚き火の揺らめきを見つめながら続けた。

 

 

「なんなら、あなたの過去を全部聞いてから判断してあげる……南の勇者。あなたがどんな道を歩んできたか、この私に聞かせてみなさい」

 

「魔族からすれば面白くもない話だろうが、聞きたいというのであれば――この人類最強たる南の勇者の物語を、君に聞かせよう」

 

 

アウラが自らの母や半生を語ったように、勇者もまた、促されるがままに己の過去を語り始めた。

 

 

しかし、仰々しく語り始めたものの、アウラの数百年という歳月に比べれば、彼の人生の話はあまりにも短く、すぐに終わりを告げる。

 

 

勇者として生まれ、ただひたすらに人類のために戦い、己を鍛え上げ――そして最後には歴史の陰に消える運命だと理解してなお、魔王の腹心へと相打ち覚悟で挑んだこと。

 

 

そんな、ありきたりでありながら、多くの人間が決して実現できない勇気ある者の生き様を、彼は一人の魔族に向けて静かに語った。

 

 

 

 

 

全てを語り終えた勇者は、少し疲れたように顔を伏せた。

 

焚き火の爆ぜる音だけが、静かな洞窟に響いている。

 

 

その時――ぽん、と。

 

 

彼の頭に、何かが優しく乗せられた。

 

 

「そう……頑張ったのね」

 

 

見上げると、アウラが彼の髪をゆっくりと撫でていた。

 

 

「私は、一生懸命頑張っている奴は好きよ」

 

 

その手を、不思議と振り払うことができなかった。

 

温かい。ただ、温かかった。

 

 

慈しみに満ちたその掌から、ずっと昔に感じた何かが蘇ってくる。

まだ自分がただの子供だった頃――不安なことなど何もなく、ただひたすらに安らげた、あの温もり。

 

 

魔族に慰められることへの情けなさなど、微塵も湧いてこなかった。

 

 

この一年間、攻め入る魔族をただひたすらに殺し続ける日々を送ってきた。

多くの人々に感謝されたことは覚えている。

だが――こんな風に、誰かに心の底から労われたことは、あっただろうか。

 

 

勇者だって、人間だ。

 

 

いかに高潔な精神があろうとも、絶え間なく摩り減り続ければ、いずれ必ず限界が来る。

 

 

自分の屍を道標として、後任の勇者が進むべき道を切り開く。

志半ばで死ぬことしか許されない現実――そんなものを、並大抵の精神で受け入れられるはずがない。

 

 

到底納得などできない未来。

 

 

それでも、彼は不本意ながらその結末を受け入れた。

 

 

だからこそ――そんな壮絶な決断を下した自分を、こうして誰かに手放しで褒めてもらえることは、当然の権利であるように思えた。

 

 

死ぬはずだった。

 

 

しかし、結果として、自分は今も生きている。

 

 

ようやく――南の勇者は、「生きている」という実感を、はっきりと感じ始めていた。

 

 

胸の奥で力強く刻まれる鼓動が、確かな安心感を与えてくれる。

これまでの苦悩が全て報われたかのような感覚。

避けられないと諦めていた死からの解放に、魂そのものが歓喜に震えたような気がした。

 

 

「この人類最強の南の勇者を、子供扱いか……」

 

「年の差四百年以上よ……子供同然じゃない」

 

 

アウラは微かに笑みを浮かべた。

 

 

「それに、頑張った奴はしっかり褒めるのが私の方針なの。お母様も、私が頑張った時はいつも褒めてくれたわ」

 

 

魔族に子供扱いされ、勇者としてのプライドが一瞬だけ反発しかける。

だが、彼女の言葉を聞いて「確かにそうか」と素直に納得し、再びその温もりに身を委ねた。

 

 

「家訓でもあるのか?」

 

「そんな肩肘張ったものじゃないわ……」

 

 

アウラは彼の髪を撫でる手を止めず、穏やかに続けた。

 

 

「頑張ったら、誰だって褒めてほしいじゃない……だから私も、自分から頑張った誰かを褒めてあげるの。誰かに優しくするのに理由がいらないように……誰かを褒めることに、大層な理由なんていらないわ」

 

 

ふ、と彼女は微笑んだ。

 

 

「そうでしょう? ……これまで誰かのために、たくさん頑張ってきた勇者様」

 

「そうか……確かにそうだな」

 

 

彼は静かに目を閉じた。

 

 

「頑張った後にしっかりと褒められるのは、嬉しいものだ。……こんなに嬉しいとは、思いもしなかった」

 

 

その言葉を聞きながら、アウラは知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

 

 

彼の魂から溢れ出す感情の色が、暗い海のように深く沈んでいるのが見える。

こんなにも穏やかな言葉を口にしながら、その内側では、ずっと押し殺してきた何かが、今にも決壊しそうになっていた。

 

 

隠すこともせず、弱々しい姿を晒す勇者を見て――アウラは無性に苛立ちを覚えた。

 

 

彼に対してではない。

この勇者に助けられたであろう、人間たちに対してだ。

 

 

人間というものは、弱くて自分勝手な生き物だ。

 

 

危機的状況を救い出してくれた誰かに、一時は心からの感謝を示すだろう。

だが、いずれその状況に慣れ、日常に溶け込んでしまえば、それは「当たり前」になる。

 

 

窮地を救ってくれた一人の人間が、やがて「英雄」や「救世主」という偶像になり果てる光景を、アウラは魔王軍にいた頃に何度も目にしてきた。

 

 

英雄だから。

勇者なんだから。

救ってくれて当然。

 

助けてくれて当たり前。

 

 

そんな内心の弱さ、醜さ、身勝手さを――魂の揺らぎを通じて、彼女は嫌というほど見てきた。

 

 

口では感謝の言葉を並べていても、それは同じ人間に向けられた言葉ではない。

あれは、神を崇める崇拝の感情だ。

相手が自分たちと同じ血の通った人間だということを、完全に忘れてしまっている。

 

 

同じ人間としてではなく――物語に登場する英雄や勇者という、空想上の存在として認識しているのだ。

 

 

物語の勇者や英雄は、弱音も吐かず、崇高な精神のもとで悪しき魔を討つ存在なのだろう。

自分たちとは違い、労われるような弱い存在ではないと、本気で考えているに違いない。

 

 

アウラは静かに、しかし確かな怒りを胸に燻らせていた。

 

 

この男は確かに、人類にとって眩いほどに光り輝く希望だったのだろう。

多くの人間を救い、崇められ、感謝された。それこそ、本当に神様のように。

 

 

だが――神様として扱われたこの男を、一人の人間として労った者が、一体どれだけいたというのか。

 

 

銅像を作って神格化してやれば喜ぶとでも?

 

馬鹿みたい。

 

好んで勇者になるような人間なのだから、祭り上げられることによる歓喜や歓声がもたらす充足感、人々を救い出せたという達成感、そして勇者としての使命感――そういったものは満たされるのかもしれない。

 

 

だが――血に塗れた殺し合いで荒んだ心が、それで癒されることなど、絶対にない。

 

 

たとえ勇者として、そう見られることを本人が望んでいたとしても。

 

 

魂の見える自分からすれば、その関係はあまりにも歪なものに映る。

 

 

魔族の行動一つ、言葉一つで、目の前の男の魂は酷く揺れ動いていた。

その感情は荒波のように唸りを上げ、ひどく落ち着きがない。

 

緊張の糸が、完全に切れてしまっている。

 

あれほど強固だったはずの自制心ですら、もはや歯止めが効かず、感情を抑えきれずにいる。

 

今の彼は――全身全霊で目標を達成し、全てを燃やし尽くした後の、真っ白な灰のようなものだった。

 

 

必要なのは、休息だ。

 

 

何にも煩わされることなく、何も考える必要のない、ただ穏やかな時間。

それだけが、今の彼に必要なものだった。

 

人間たちが、南の勇者というあまりに偉大すぎる偶像に臆してしまい、その心に寄り添うことができないのであれば――

 

 

アウラは心の中で、静かに決意した。

 

 

――ただの人間として、私がたっぷり褒めてあげるわ。

 

 

静かに項垂れる彼を見つめながら、アウラは「ご苦労様」と呟き、念を込めるように、その頭をぽんぽんと優しく叩いた。

 

 

「……あくまで私の基準だけど、シュラハトとあなたは全く違うわね」

 

 

彼女は言葉を選びながら、続けた。

 

 

「シュラハトは、私を含めて大勢の魔族を駒として扱った。だけど南の勇者……あなたは、自分の身だけを犠牲にして、他人を捨て駒にしたり利用したりはしなかった」

 

「……」

 

「だから、嫌悪どころか、むしろ私の好きなタイプよ」

 

 

アウラは微かに笑みを浮かべた。

 

 

「死への恐れも、夢を絶たれる苦悩も抱えながら……それでも馬鹿正直に、自分の魂だけに従う人。そんな人を、私が嫌いになれるわけないでしょう」

 

「はは……私は今、口説かれているのかな」

 

「ふふ……さあね? お母様からは、甲斐性のない男はやめておけって言われてるから……あなたじゃ厳しそうよ」

 

「甲斐性か……覚えておこう」

 

 

勇者は神妙な顔で何事か考え込むと、アウラの掌から逃れるように、ゆっくりと壁際にもたれかかった。

 

 

「それで……南の勇者、何か私に望むことはできたかしら?」

 

「ああ。だがその前に聞かせてほしい。あれから既に十日が過ぎていると言っていたが、世間での私たちの扱いはどうなっている?」

 

「ええ、もちろん。情報収集を怠るような真似はしないわ」

 

 

アウラは指を折りながら、淡々と報告した。

 

 

「私は七崩賢のまま、裏切りの噂一つなし。南の勇者については、シュラハトと相打ちの末、死体は喰われて残っていない――なんて噂まであるわ。驚いたでしょう……魔族全体の士気に関わるとはいえ、あの魔王軍が情報操作をするなんてね。おおかた、グラオザームか、シュラハトの生前の仕込みでしょうけど」

 

「今後はどうするつもりだ? 七崩賢は要所から簡単に動くことはできないだろうが、ここはまだ魔族の勢力圏だろう」

 

「さっき言った通り、身を潜めるわ。死んだことにしてくれるなら、むしろ好都合よ」

 

 

アウラは肩を竦めた。

 

 

「下手に名前を出すのはなし……大魔族の連中からは、お尋ね者同然だし、潜伏した場所が襲われて無関係な人間が殺されたら堪らないわ。少なくとも南側諸国まで行けば安全なのは確実ね」

 

「私も、南の勇者の名を今後明かすつもりはない」

 

「助かるわ。だけど意外ね……治療が済めば、魔王軍相手に喧嘩を売りに飛び出すかと心配していたのに。何か不都合なことでもあるのかしら?」

 

「勘がいいな……」

 

 

彼は一度目を伏せ、それから真っ直ぐにアウラを見つめた。

 

 

「アウラ、私はこの世界が、未来視で予知した通りに進むことを願っている。私では無理なのだ……どのような未来であれ、私には魔王を討つことが、決してできない」

 

「信じがたいわね……」

 

 

アウラは眉を寄せた。だが、すぐに表情を和らげる。

 

 

「だけど、あなたの人生だもの……そう判断したのなら、何も言わないわ」

 

「私がシュラハトと相打ちになった未来、ある青年が旅立つ。彼とその仲間たちは世界を救う……魔王を殺すのは、彼らだ」

 

「それで? ……手助けしろってことかしら」

 

「いや、違う……彼らの旅路に差異が出ないよう……」

 

彼は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

 

「アウラ、君には『断頭台のアウラ』として――一度だけでいい、未来のために危険を承知で汚れ役を買ってほしいのだ」

 

「呆れた……」

 

 

アウラは大きく溜息をついた。

 

 

「それが私に対する望みだなんて。もう勇者として一度死んでいるのに、まだ人類の未来のことを考えているの?」

 

「……いずれ彼の仲間になるエルフに、約束してしまったのでな。道は必ず切り開く、と」

 

 

彼は静かに続けた。

 

 

「ならば、私にできることはしておくべきだ。私の望みを聞いてくれるのであれば……人類の損失に繋がる以外のことなら、どのような命令にも従――

 

 

――ゴツン。

 

 

鈍い音と共に、彼の頭上に痛烈な拳骨が振り下ろされた。

 

呆然とする勇者を横目に、アウラはこれ見よがしに盛大な溜息を漏らす。

 

 

こちらは完全な私用からくる望みを相手に求めているというのに、この男ときたら、他者のために、対価として提示されたはずの願いを使おうとしている。

 

アウラの中の人間性――彼女の青い魂の部分が、それに大いに反発していた。

 

そういう願いは求めていない。

これは公平ではない。

理屈ではなく、アウラの主観として、到底釣り合っていないと判断せざるを得なかった。

 

 

誰かのための望みじゃなくて――あなた自身の望みを言いなさいよ、この大馬鹿勇者。

 

 

「はあ……まったく」

 

 

アウラは額を押さえながら、呆れ果てたように言った。

 

 

「ただの自己犠牲じゃ、格好つかないわよ、南の勇者。……いいわ、受けてあげる。だけど、それはあなたの望みじゃないわ。どちらかと言えば、勇者としての未練みたいなものでしょう。新しい人生を始める門出として、まったく相応しくないわ」

 

「流石にお人好しが過ぎ――

 

 

何か言いかけた彼の言葉を、アウラは遮った。

 

 

ドン、と洞窟の壁に掌を押しつけ、彼に覆いかぶさるように身を乗り出す。

そして、人差し指をそっと彼の唇に添え、その口を塞いだ。

 

 

「しぃ……言ったでしょう、頑張っている人は好きだって」

 

 

間近で見つめるアウラの瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。

 

 

「その願いは、私からのご褒美ってことで、カウントしないであげる。お姉さんからの好意よ……ありがたく受け取りなさい、南の勇者」

 

「……ぶ——ふはは……参ったな」

 

 

一瞬、何を言われたのか分からないといった顔をしていた勇者だったが、アウラの言葉の意味を徐々に理解すると、堪えきれないように噴き出し、愉快そうに笑い出した。

 

 

「アウラ、君は良い女だ……いっそ心配になるほどにな」

 

「あら、まさか私……口説かれてるのかしら?」

 

「かもしれないな。だが、いいのか……君は一応魔族だろう。魔王を殺すことに加担することになるぞ」

 

「同族意識なんて、最初からないんだから今更でしょう」

 

 

アウラは肩を竦めた。

 

 

「貴方たち人間は、エルフやドワーフを人類と一括りにするでしょう……だけど、同種とは考えていないわ。それと同じ。私も、人類や魔族を同種とは思えないの」

 

「魔族が人間性を獲得した副作用のようなものか。私としては都合がいいが……本当に、こんな頼み事をただで聞き入れるつもりか?」

 

「そうね……」

 

 

アウラは少し考え込むように視線を逸らし、それから再び彼を見つめた。

 

 

「だったら、次に私に頼む願い事は――未来や勇者としてのことじゃなくて、今の貴方自身のためになる願い事を聞かせてくれるかしら? それが条件」

 

 

彼女はきっぱりと言い切った。

 

 

「……これでこの話はおしまい。あまりしつこいと、女に嫌われるわよ……南の勇者」

 

「気をつけよう」

 

 

彼は静かに頷き、そして――万感の思いを込めて、言った。

 

 

「それと――ありがとう、アウラ」

 

 

その言葉に、アウラはにこりと薄い笑みを浮かべた。

 

病み上がりでまだ身体がふらつく彼を支え、ゆっくりと寝床へと抱え寝かせる。

 

 

「人類全体の未来だなんて、人間一人が背負うべきものじゃないわ」

 

 

毛布を優しく掛けながら、アウラは語りかけた。

まるで子守唄を聴かせるかのように――しかし、その言葉とは裏腹に、穏やかな声で。

 

 

「一つ、私が貴方みたいな人間の嫌いなところを教えてあげる」

 

「……」

 

「人類の未来……数えることすら億劫になるほど多くの人たちの幸せ。そんな身の程知らずなことを考える貴方みたいな人間は、いつだって自分のことを最後に考えるものでしょう?」

 

 

彼女の指が、彼の額にかかった前髪をそっと払った。

 

 

「他人の大きな幸せを優先して、自分の小さな幸せは後回し。意識もない死ぬ間際ですら、魂の奥底で他人の幸せを考える筋金入り……」

 

 

アウラは、どこか寂しそうに微笑んだ。

 

 

「本当――そういうところは、大っ嫌いなのよ」

 

「……優しいな」

 

 

いつだって自分のためだけに生きてきたアウラには、到底受け入れられない生き方だった。

 

 

助けたいと思った誰かを助けること。シュラハトを裏切ったこと。

突き詰めれば、それらは最終的には全て自分のためだ。

 

 

今まで彼に与えた好意や優しさを、嘘だとは言わない。

それらは正真正銘、本物の感情だ。

だがそれも―― 母親との穏やかな生活の中で築き上げた、自分自身の信念を裏切らないためのものに過ぎない。

 

 

本気で、自分以外の何かのために生きて、命まで捨てるだなんて――考えたくもない。

 

 

しかし同時に、こんな善人が幸せになれないのは間違っていると、憤慨せずにはいられなかった。

 

 

誰かのために生きて、誰かのために人生を使い潰して……最後には人知れず死んでいく。

 

 

そんな姿は、この男には相応しくない。

 

 

だから嫌いなのだ。

 

 

南の勇者のような、底抜けの善人が持つ自己犠牲の精神が。

 

 

頑張った人間は、報われて幸せになるべきだ。

他者のために命まで削って頑張ったのなら、なおのこと。

 

 

頑張ったら報われるだなんて、所詮は綺麗事に過ぎない。

そんなことは、遥か昔に知っている。

 

 

だけど――他人のために死ぬ気で頑張った人間がいるなら、助けられた周りの人間こそが、その人を幸せにしてあげるべきだろう。

 

 

私は赤の他人だけど、あなたの頑張りは知っている。

だから南の勇者――もっと人間らしく、欲張りなさい。

あなたのその生き様に免じて……私も可能な限り、あなたの我儘を叶えてあげるつもりなんだから。

 

 

「哀れんでいるだけよ」

 

 

アウラは穏やかに、しかしはっきりと言った。

 

 

「あなたのことは嫌いじゃないわ……だから、自分のためだけに、自分の幸せを追い求めて生きてほしいの」

 

「それは……難しそうだ」

 

「わかってて言ってるから、別に気にしなくていいわ」

 

「……」

 

 

勇者の瞼が、ゆっくりと垂れ落ちていく。

今にも深い眠りに落ちてしまいそうだ。

 

 

アウラは彼の目元にそっと掌を翳し、瞼を完全に閉じさせると、安心させるようにその額を優しく撫でた。

 

 

「理想を掲げるのは素敵よ……だけど、ずっと上ばかり見ていると疲れるわ」

 

 

彼女の声は、子守唄のように穏やかだった。

 

 

「たまには下を見て、自分が救い上げてきたものを実感して、ゆっくり満足感に浸りながら眠りにつくの。人間なんだから、もっと人間らしくしなさい。自分の功績を聞いて悦に浸りながら散財するくらいの低俗さが、ちょうどいいのよ」

 

 

微かな寝息が聞こえ始める。

 

 

「全部終わって、また勇者として生きてもいいけど……もう少し欲深く生きても、誰も怒らないんだから」

 

「この歳になって、母親のような説教を魔族から受けるとはな……」

 

 

彼は薄く目を開け、かすれた声で呟いた。

 

 

「確かに少し疲れた……今くらい、休んでもいいのだな」

 

「ええ……どうせ動けないんだし、自堕落に過ごしなさい。人間一人の面倒くらい、私が見てあげるわ」

 

 

アウラは立ち上がり、焚き火に新しい薪をくべた。

 

 

「――おやすみなさい、南の勇者」

 

「ああ……おやすみ、アウラ」

 

 

パチパチと爆ぜる炎の音だけが、静かな洞窟に響いている。

 

 

やがて、彼は完全に眠りについた。

 

 

規則正しい寝息を確認したアウラは、音を立てずに静かに立ち上がると、洞窟の入り口へと歩み寄った。

 

 

月明かりが、岩肌を銀色に染めている。

 

 

外の空気は冷たく、澄んでいた。

だが、その静けさの中に――確かな気配が、忍び寄っていた。

 

 

北側諸国は、魔王軍が蔓延る危険地帯だ。

 

 

北部の最南端とはいえ、魔族の追手がいつ辿り着いても、全く不思議ではない場所にいる。

 

 

そして――その追手の影は、既にアウラたちが拠点とする洞窟のすぐ近くにまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

夜の闇に潜む魔族の数は、五十を優に超えていた。

 

 

全身に黒鉄の武装を施した、紛れもない正規軍だ。

月明かりに照らされた鎧が鈍い光を放ち、整然とした隊列が洞窟を取り囲むように展開している。

 

 

大魔族からすれば雑魚同然の個体でも、これだけの数が揃えば十分な脅威となりうる。

 

 

アウラは洞窟の入り口に佇み、その光景を冷静に見つめていた。

 

 

夜風が彼女の紫色の髪を揺らし、どこか遠くで梟の声が響いている。

虫の音は、いつの間にか途絶えていた。

まるで森全体が息を潜めているかのような、不気味な静寂。

 

 

やがて、魔族の群れの中から一人が進み出た。

 

 

「断頭台のアウラ……魔王様より抹殺命令が下っている。命が惜しければ、南の勇者の居場所を吐け」

 

 

その声は、闇の静寂を切り裂くように響いた。

 

アウラは眉一つ動かさなかった。

 

 

「どうせ言っても殺すつもりなのに、吐くわけないじゃない……頭が悪いのかしら」

 

「黙れ。この数を前にして、貴様の魔力量で何ができる。その天秤を使った瞬間、貴様の方が死ぬぞ」

 

 

魔族の言葉には、確かな侮蔑が込められていた。

 

 

断頭台のアウラ。

その名は魔王軍の中でも広く知られている。

 

だが同時に、その魔力量が七崩賢の中でも最低であることも、周知の事実だった。

『服従の天秤』は確かに恐ろしい魔法だが、発動には相手を上回る魔力が必要となる。

この数を相手に、あの程度の魔力で何ができるというのか。

 

 

包囲する魔族たちの間に、余裕の空気が漂っていた。

 

 

アウラはそれを感じ取りながら、小さく息を吐いた。

 

 

「魔王の命令で、こんな辺境まで探し回るだなんて……あなたたちも苦労しているわね。心中お察しするわ」

 

 

皮肉を込めた言葉に、魔族たちの表情が歪む。

 

 

「だけど、悪いわね」

 

 

アウラは一歩、洞窟から踏み出した。

 

 

月光が、彼女の姿を銀色に照らし出す。

その瞳には、これまで見せていた穏やかさの欠片もなかった。

 

 

冷たく、鋭く、そして――どこか愉しげに。

 

 

「私はあの公明正大な勇者と違って、不公平で身内贔屓なの」

 

 

アウラの足元から、淡い魔力の光が立ち上り始めた。

 

 

それは最初、燃え盛るような小さな揺らめきだった。

魔族たちの目には、取るに足らない魔力の発露としか映らなかっただろう。

 

 

だが――次の瞬間。

 

 

その光が、爆発的に膨れ上がった。

 

 

まるで内側から喰い破るかのように、魔力の奔流が荒れ狂いながら天へと昇っていく。

夜空を焦がすほどの輝きが、魔族たちの魔力探知に反応する。

 

 

「な――」

 

 

誰かが息を呑む声が聞こえた。

 

 

アウラの周囲を渦巻く魔力。その密度、その純度、その圧倒的な質量。

大気そのものが震え、足元の土が細かく揺れている。

 

 

服従させる魔法(アゼリューゼ)

 

 

静かな、しかし絶対的な威厳を持った声と共に――虚空に、黄金の天秤が顕現した。

 

月光を受けて鈍く輝くその天秤に、アウラの魂が淡い光となって乗せられる。

 

同時に、もう片方の皿へと、眼前の魔族たちの魂が、濁った黒い塊となって次々と吸い込まれていった。

 

それは大群全てを対象とした、あまりにも無謀な魔法の発動。

五十を超える魂の総量。それが片方の皿に山のように積み上がっていく。

 

 

天秤が軋む音が響いた。

 

 

魔族たちの間に、安堵とも勝利の確信ともつかない空気が広がる。

このまま天秤は敵の方へと傾き、断頭台のアウラの魂は永遠に囚われることになる。

そう、誰もが確信していた。

 

 

だが天秤は、傾かなかった。

 

 

カタ、と小さな音を立てて、均衡を保ったまま揺れている。

 

 

「……馬鹿な」

 

 

最初に声を上げたのは、隊を率いていた魔族だった。

 

 

その目は、信じられないものを見るように見開かれている。

 

 

天秤の傾きが、逆転し始めていた。

 

 

ゆっくりと、しかし確実に、魔族たちの魂が積み上がった皿が持ち上がり、アウラの魂が乗った皿が沈んでいく。

 

 

「倍……いや、それ以上だと……!」

 

 

声が震えている。

 

 

断頭台のアウラの魔力量は、魔王軍の中でも中堅程度。

それは魔王軍の誰もが知る事実だったはずだ。

 

 

なのに――今、目の前で起きていることは、その常識を根底から覆していた。

 

 

「断頭台のアウラ……貴様……百年以上、我々を騙していたのか……!」

 

 

アウラは、薄く笑った。

 

 

「私が何のために、魔王軍の偉そうな魔族どもに見下されながら、我慢してきたと思っているの?」

 

 

その声は、氷のように冷たかった。

 

 

「敵に回った時を考えて、油断させるためよ。おかげで――」

 

 

天秤が、さらに大きくアウラの側へと傾いていく。

 

 

「――その程度の数で私を殺せると、本気で思ってくれたみたいね」

 

「この……魔族の恥晒しが……」

 

「恥?」

 

 

アウラは嘲るように鼻を鳴らした。

 

 

「魔王に怯えて、へこへこ従う働き蟻がよく言うわね。真っ先に数の驕りで得意ぶっていた自分を恥じなさいよ」

 

 

彼女の足元から立ち昇る魔力が、さらに激しさを増していく。

 

 

もはや嵐のような奔流となったそれは、周囲の木々を軋ませ、魔族たちの鎧をガタガタと震わせていた。

 

 

「それじゃ、そろそろ見せてあげる」

 

 

アウラは、静かに宣言した。

 

 

「四百年――いいえ、五百年を生きた大魔族の力をね」

 

 

ぐ、ぐぐぐ――

 

天秤が軋む音が、夜の森に響き渡る。

 

拮抗していたはずの均衡は、もはや完全に崩れ去っていた。

 

アウラの魂が乗った皿が、圧倒的な重さで沈み込んでいく。

 

魔族たちの中に、動揺が走った。

 

逃げようとする者。魔法を放とうとする者。剣を抜いて斬りかかろうとする者。

 

だが、その全てが――遅すぎた。

 

 

 

 

カチン。

 

 

澄んだ金属音と共に、天秤は完全にアウラの方へと傾ききった。

 

その瞬間――五十を超える魔族の瞳から、一斉に光が消えた。

 

 

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