ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
▼ 第1話▶魂クレメンス
魔王が討伐された翌年――。
千年を超える戦争が、ついに終わった。
魔族と人間、その果てしない殺戮の歴史は、勇者ヒンメル率いる一行が魔王を討ち取ったことで終結を迎えたのだ。
死者の数は劇的に減り、世界は新たな平和の時代を迎えようとしていた。
だが、絶対的な統率者を失った魔王軍の残党は、統制を失い各地へ散り散りとなった。
飢えた獣の群れのように、彼らは無秩序に人間の村や街、果ては国々を襲い始める。
平和への道筋には、新たな火種が燻り続けていた。
ここは、北部のとある漁村。
しんしんと降り積もる雪が、すべてを白く塗り潰していく。
普段であれば潮の香りと威勢のいい掛け声が飛び交うはずの港町は、真昼間だというのに不気味なほどの静寂に支配されていた。
活気ある喧騒は完全に消え失せ、代わりに鼻腔を突き刺すのは錆びた鉄のような濃密な死臭。
家々の壁は、まるで巨大な絵筆で無造作に叩きつけられたかのように、赤黒い飛沫で幾重にも彩られている。それが絵の具などではなく、命が散った証である鮮血だと、嫌というほどに物語っていた。
静まり返った村を、一人の男が堂々とした足取りで広場へと歩を進める。
額から生えた二本の大きな角。人間ではあり得ないその特徴が、彼が魔族であることの揺るぎない証明だった。
整った顔立ちに、隙のない体躯。その手には、ぽたり、ぽたりと雪の上に赤い染みを作る剣が握られており、危険な存在であることは一目で知れた。
「隠れている方々は今すぐ姿を見せて下さい。大人しく出てくれば、見逃すとお約束します」
静かでありながら、雪と静寂を切り裂くように、よく通る声が村中に響き渡る。
角を持つ男の背後からは、むせ返るような死臭が濃密な霧のように漂っていた。
村を守るために雇われた戦士たちは、ことごとく村の入り口で無残な屍を晒している。
魔法使いたちは体の一部が綺麗な円形状に抉り取られるという奇怪な死に様で、雪の上に転がっていた。
敵意がないことのアピールなのか、いつの間にか血に濡れた剣は鞘へと納められる。
男は両手を高く掲げてみせた。
素直に出てくれば見逃してやる――魔族という種について少しでも学んでいれば、誰もが戯言と一蹴するであろう、到底信用できない言葉だ。
しかし、死の恐怖がすぐそこに迫る中で、力を持たない村人が魔族の甘言を無視することなど、ほとんど不可能だった。
民家の物陰から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえる。隠れていた村人たちが、一人、また一人と姿を現していく。
「おい……! ほ、本当に見逃すんだろうな!? 魔族だからって、この人数を相手に無傷でどうこうできるなんて思うなよ!」
甘い言葉に誘われたとはいえ、相手は人を喰らう魔族だ。
村人たちは警戒心を一切緩めることなく、手に手に農具や粗末な武器を握りしめ、威嚇する。
男はその行動にも動じない。ただ彫刻のように整った顔に温かな笑みを浮かべ、申し訳なさそうな声色で語りかけた。
「申し訳なかった。貴方方を怖がらせた上に脅すような真似をしたこと……深くお詫びしよう」
「な、なんのつもりだ……。これだけ村の護衛を殺しておいて、今更詫びだと!? 巫山戯るな! 野蛮な魔族の言葉なんて誰が信じるか!」
「えぇ、確かに私は彼らを手に掛けた魔族です。それは否定しません。ですが、この惨状は種族に対する偏見が生んだ悲しい事故なのです。私にしてみれば、正当な防衛に過ぎません」
「てめぇ……まるでこっちから手を出したみたいな言い草じゃねえか!」
「悲しいですが、その通りです。私は魔族の中でも穏健派でして、無意味な殺生はしないことを信条としています。この村を訪れたのも、貴方方と対話し、戦争で生まれた深い溝を埋めたかっただけのこと……もっとも、そんな私に向けられたのは、殺意に満ちた剣先だけでしたが」
男の言葉に、村人たちの間にさざ波のような動揺が広がる。
「な……!? おい、アイツら、無抵抗の奴に剣を向けて返り討ちにあっただけってことか!?」
「いくら魔族だからって、こんな下手に出てる奴に剣を抜くなんて……こいつの言う通り、アイツらが悪いんじゃないか?」
「そ、そうよ……。全員殺すつもりなら、私達とっくに死んでるわよ」
温和な口調で紡がれる魔族の弁明。村人たちは、警護に雇っていた戦士や魔法使いの行いを想像し、ざわめきを隠せない。魔族が嘘をついているのではないか――半信半疑のまま、彼らの間で議論が交わされる。
しかし、状況は徐々に魔族を擁護する方向へと傾いていく。
その認識は、雪に染み込む血のように、村人たちの心にゆっくりと広がっていった。
凍える者に差し出された焚き火。「助かりたい」という切実な願いが、疑いの心を麻痺させていく。
もしかしたらこの魔族の言うことは本当で、自分たちは助かるかもしれない。そんな希望的観測が入り混じり、男への警戒心は徐々に薄らいでいった。
「魔王が統治していた頃には口にすることすら出来ませんでしたが、私は人間と魔族の争いをなくし、共に歩みたいと本気で考えているのです。だからこそ、共存への第一歩を踏み出そうとしました。ですが、事故とはいえ早々に問題を起こしてしまった私に恐怖を覚え、今すぐ逃げ出したいという皆さんの気持ちは理解できます……こちらを」
「お、おい、妙な真似をするな……はぁ!? な、なんだよ、この金は!」
魔族は懐から取り出したズッシリと重い小袋を、先頭で啖呵を切っていた男に手渡した。
ハラリと小袋の口が開き、中身が見えた瞬間、男の眼には黄金の光が映り込む。
妖しく黄金色に煌めくコインの山。いかにこの漁村が栄えていようと、一介の村人が一生目にすることはないであろう価値を持つ硬貨の山だ。
それを背後から覗き込んだ村人たちは、興奮したように騒ぎ出す。
そこには最早、魔族への疑心も恐れもなかった。ただ黄金に魅了された欲深い人間だけが存在していた。
「これはほんの迷惑料です。幸い金銭に不自由はしておりません。ご家族が他にいる方は、人数に応じた金品を路銀としてお渡ししましょう。証明は、ご家族をここに連れてきていただくだけで結構です」
魔族がどうやって人間の通貨を手に入れたのか。
相手が何者で、今がどんな状況なのか。村人たちは、数分前まで感じていた死の恐怖をすっかり忘れ去り、魔族が語る人格を信じ込み、黄金という目先の欲に完全に心を奪われていた。
「連れてきたぜ! こっちには嫁と子供の四人家族だ、もちろんさっきの四倍はもらえるんだろうな!?」
「うちは六人だ! 六人分の補償を要求する!」
「これで全員ですか。ご迷惑をおかけした分、補償は惜しみません。順番にお渡ししますので……一列にお並びください」
私欲に駆られた村人たちは、先を争うように民家へ駆け戻り、隠していた家族を次々と引き連れてくる。男は満足げに笑みを深め、村人たちに列を成すよう促した。そして、我先にと列の先頭に立った男へ、魔族が無造作に掌を翳す。
「では、お受け取りください……――『
村人が野次を飛ばす中、小さく一言呟いた瞬間、魔族の掌が不気味な光を放った。
視認すら不可能な速度の極光が民家を貫き、雪原にまで迸っていく。その射線上に立っていた村人たちは、あるべき上半身が跡形もなく消え去っていた。
欲に目が眩み、魔族を信用した者たちの末路。
老若男女、列を成した人間たちの亡骸が、バランスを崩し、音もなく雪の中へと沈んでいく。人類であれば例外なく滅ぼす人殺しの魔法。
それを放った魔族は、温和な笑みを消し去り、無感情な瞳で人間の屍を一瞥した。
「人間は単純で良い。警戒心の強い獣を狩るよりも、楽に食料が調達できる」
男は手渡した硬貨を死体から回収すると、何気ない様子で呟く。
人間を騙したことへの悪意も罪悪感も、そこには欠片もなかった。
苦しめる意図すらない。一連の行動は、食料を逃さず一気に確保するための、ただの狩りの技術だ。
罠を仕掛けて動物を狩るのと何ら変わらない。それ以外の感情など微塵も含まれていなかった。
そうして無事に狩りを終え、食料を一箇所に集めようと屍の脚に手を掛ける。
引きずっていこうとした、まさにその時。
背後からザクッ、と雪を踏みしめる音が聞こえた。
何者かが近づいてくる。魔族は食料から手を離し、ゆっくりと振り返った。
「魔族と聞いて期待していたのですが、どうやらハズレだったようですね。私が探していたのは『無名の大魔族』であって、狡猾な詐欺師ではありません。もっとも、人型という点ではアタリですが」
「――何者だ?」
そこに立っていたのは、人間の女だった。シルクハットを被り、仕立ての良いコートを身に纏っている。
雪原をリラックスした様子で、こちらへと近づいてくる。
雪のように白い髪が風に靡き、その瞳に光はなかった。まるで鮮血の沼のようにドロリとした赤い眼球が、魔族を捉えて離さない。本能的な嫌悪感が、男の背筋を這い上がる。落胆を隠そうともしない女を気にすることもなく、男は問いかけた。
「自己紹介ですか……構いませんよ。私の名前はフルーフ。今は擦り切れた遠い記憶へと深く刻まれた『無名の大魔族』に恋焦がれる人間と申しま――
「そうか……死ね。『
無論、魔族に対話の意思など欠片もなかった。
言葉を交わしたのは、魔力探知で魔力の総量を推し量る隙を作るため。
感知した魔力量は、村を守っていた魔法使い以下だ。男は経験則に則り、瞬時に『人を殺す魔法』を放つ。そして、その光の直線は、呆気ないほど簡単に女の心臓部を丸ごと抉り取った。
「――ご挨拶に『
「何故、生きている?」
上着は消し飛び、雪には血の滴った跡が見える。確かに魔法は当たり、臓器すら目にしたはずだ。
しかし、魔族が瞬き一つする間に、白髪の女の胸に空いていた大穴は完全に塞がっていた。平然とそこに立ち、まるで何事もなかったかのように微笑んでいる。
「人間の魔法か……?『
何が起こったのかを確かめるように、再び魔族は魔法を放つ。
しかし結果は同じだった。
円形状にくり抜かれた内臓が見えた次の瞬間には、女はまるでコマ送り映像を逆再生したかのように肉体を再生させる。
何事もなかったかのように、男の魔法について小言を漏らし始めた。
「お持ちの剣は飾りなのですか? それに、少し痛みますね……。世界で一番『
不可解な現象。まるで何度も死んだことがあるかのような物言い。
男の心に、微かな動揺が走る。何かの魔法か。ならばと、今度は手にした剣を構え、女へと歩み寄った。
「これでも無事でいられるか?」
男は魔法で女の両足を抉り取る。すると、今度は再生しない。白い髪を頭上から鷲掴みにし、その首筋目掛けて剣を振り下ろした。刃は肉を断ち、骨を砕き、首を切り飛ばす。
脳を潰せば、どんな魔法使いも終わりだ。イメージなくして魔法は成り立たない――それは魔王軍にいた頃、嫌というほど見てきた真理だった。
魔法による再生や不死身など、魔王軍に所属していれば珍しくもない。男も当然その弱点を熟知している。
「不死か再生かは知らんが、魔族にも似たような奴はいる。脳がなければ魔法も使えんだろう」
男の手に握られた女の頭部。真紅の瞳から生気が失われつつあった。胴体に視線を移せば、切断された首の動脈から血が噴き出し、雪を赤く染め上げている。完全に絶命していた。男は今度こそ、女が死んだと確信する。
目を閉じ、どこか疲れたように深い息を吐く。意識を再び食料へと向けようとした、その瞬間――。
「――良かったですよ、痛くなかった。剣の腕は冴え渡っていますね……。それと、いくら便利でも同じ魔法ばかり使わず、別の魔族の魔法をもっと見せてください」
女の声が聞こえた。
魔族が目を開けると、そこには変わらず五体満足で立ち、語りかける女の姿があった。
急いで手元に目を向ける。先ほど刈り取った頭部が、確かに握られている。ずしりと重く、質量を感じさせる。
脳が移動したわけでも、消えたわけでもない。目の前の女の脳味噌が、確かにこの手の中にあるのだ。
「おや……どうしました? 魂がひどく揺らいでいますが、動揺していますか?」
刈り取られた自身の首がこちらを見つめているにも関わらず、なおも平然としているフルーフと名乗った女。気色悪い。男の内面に、理解不能な嫌悪感が沸き立つ。
魔法ではない。魔族ではない以上、呪いの類でもない。とすれば、七崩賢であった不死なるベーゼが使う結界魔法と同種の何かか?
いや、その可能性も限りなく低い。だとしたら、目の前の「コレ」は一体何なのだ。男は無意識に後ずさり、未知の脅威から距離を取ろうとする。
「いや、考えるだけ無駄か……。目的は何だ? 何が欲しい……金か?」
「ちょっと、君……冷めすぎではありませんか? 以前出会った魔族は、『致命傷以外は治せんと見た、達磨にして地面に埋めてやるぜ』なんて言いながら、元気に斬りかかってきましたよ?」
「どうでもいい。お前に私を殺せはしないだろうが、不要なリスクは避けるべきだ。そんな馬鹿と私を同列視するな」
フルーフの軽口を遮るように、ザクッ、と雪原に剣を突き立てる音が響く。
魔族は「さっさと要件を言え」とばかりに女を睨みつけた。
魔力探知に反応する魔力に変化はない。つまり、今見えている分が女の魔力の総量で間違いないだろう。
自身との魔力差は十倍以上。魔法の撃ち合いになれば、傷一つ付けることすらできないはずだ。
「短気ですね……。魔王が討伐されてから、すっかり魔族の方々と出会う機会も減ってしまいました。私はこの運命的な出会いを、意義あるものにしたいだけなのです」
「回りくどい。結論を話せ」
「少しくらい良いではありませんか。私はお話を通して、貴方たち魔族についてより深く知りたいのです。魔法協会が調べているような魔族の魔法ではありませんよ。人間とどれほど意識に差があるのか、喜怒哀楽は確かにあるのに、共感能力がひどく欠如している。なのに魔族同士で大規模な内戦は起こらない……つまり、仲間意識や同族意識は存在している。しかし、それは利害関係による利己的な関係とも考えられる。ですが、魔王による統治で軍として動ける程度には社会性もありますよね。個体によっては敬意や尊敬の概念すら持っている者もいますし、種の繁栄と未来を憂う心まで……。一方で、度を超えて自己中心的な個体も存在する。一体この違いは何なのでしょう。魔族と一括りにするにはあまりにも雑です。人間におけるエルフやドワーフのように、明確な違いがあるはずです。ああ……いえ、お話したいのはこんなことではなくてですね……。欠如している感情についてはある程度割り出せているのですが、魔族本人がどう感じているのか、そんな主観の情報が欠けているのです。これは将来出会えるであろう伴侶のためにも必要な情報なのです。それに、人肉を食さずとも命に影響はありませんよね? やはり単純な生命活動としての飢えではなく、本能からくる飢えがあるのでしょうか。人肉料理の練習もして――」
魔族から話を振られ、フルーフは嬉しそうに笑みを浮かべる。
そして一度口を開けば、ろくな息継ぎもせずに言葉の濁流が男へと次々と投げかけられていく。
「黙れ。二度は言わん」
男は無表情で女を見据え、垂れ流される雑音を完全に無視する。
最後通告だと言わんばかりに、剣をもう一度強く地面に突き立てて威嚇した。
「まあ良いでしょう。では、シンプルに聞きたい情報だけ聞きます。『無名の大魔族』あるいは『ソリテール』という名に聞き覚えはありますか?」
「大魔族で通り名がない、という意味ならそれほど珍しくもない。ソリテールか……魔王様の友人だという噂以外は知らんな」
「ふむ……居場所に心当たりはありませんか?」
「知らん」
「そうですか。それではお礼に、一回殺して構いませんよ。不意を討つ必要もありません。貴方の研ぎ澄まされた魔法を、私に見せてください」
「……精々、死後に後悔しないことだ」
――ぐぎゃぁッ!!
男の一言と共に、肉と骨が砕ける生々しい音が村に響き渡る。
一瞬の出来事だった。魔族が指を少し動かしただけで、フルーフの体は垂直に圧し潰されていく。
それは重力。
男が魔族として生まれながらに持ち、研鑽を積んだ魔法だった。
女はもはや人間であった原型を留めておらず、肉片から骨の一片に至るまで圧縮され、土に浮かぶ赤黒い染みと化していた。
魔族が魔法を解くと、降り積もっていた雪が潰れ、そこにはフルーフがいた場所を中心に半径10メートルの深いクレーターが刻まれる。もう女はおらず、着ていた衣類だけが虚しく残されていた。
「刈り取った端から再生するというのなら、一度で全身を殺し切るまでだ」
男は最後に、手元に握っていた女の頭を宙に放り投げ、重力で磨り潰す。
クレーターを一瞥して剣を鞘に納めた。
低温とはいえ、食料である遺体を放置すれば虫に食われるかもしれない。
確保した食料を保管するため、今度こそ急いで踵を返し、反対方向へと振り返り――
「やぁ」
「は?」
――ひゅっ。
男の息が詰まり、思考が停止した。
かつて感じたことのない怪奇現象に全身が凍りつく。背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走り、冷たい汗が噴き出した。
「重力操作の魔法、良いですねぇ……。ロマンが感じられる、男の子らしい魔法です。それに、今、私の頭を空中で磨り潰しましたね? 多方面からの重力の奔流……流石は魔族の脳味噌、考えることが違います」
振り向いた先には、全裸の女が興奮した様子で立っていた。
念入りに、人体の一片に至るまで土の染みに変えたはずなのに、五体満足で男の背後に立っている。ペラペラと喋りかけてきていた。
「何故まだ生きていられる。人間はこれで死んでおくべきだろう」
数秒間、呆けたように微動だにしなかった魔族は、正気を取り戻すと同時に指を素早く動かした。最大出力の重力波を女へと放つ。
「お礼に無抵抗で死んであげたでしょう? ――あ、お待ちください。死んで差し上げるのは、お礼の一回だけですよ」
――ボウッ!
先程の焼き直し。またしても人間ミンチが出来上がると思われた瞬間、フルーフの全身から爆発的に魔力が漏れ出す。
その魔力量は、実に魔族の数十倍以上。まるで暴風のように全身から吹き荒れていた。
男が生み出した重力波は、瞬く間に女の魔力に飲み込まれ、掻き消されていった。
「巫山戯るな、私の魔法を魔力だけで掻き消しただと……」
「面白い一発芸でしょう?」
「不愉快だ……。魔力を隠していたのか」
「いえ、これはあくまで一瞬の発散です。小刻みに魔力を高めているだけで、本来の魔力は貴方が見ていた通りですよ」
蜃気楼のように静かに揺らめく魔力の漏れとは明らかに違う。まるで連鎖爆発でも起きているかのように、四方八方に魔力が吹き散らされていた。
男による魔法が絶えずフルーフを容赦なく襲うが、すべてが魔力の暴風に阻まれ続ける。
「……どういうことだ?」
「魔法、魔の法則……この世界に流れる偉大な力の恩恵を授かるには、イメージこそが大前提。しかし、いかに脆弱なイメージから生まれた魔法であろうと、術式にリスクを織り交ぜることで、強力な魔法へと昇華させることができます。……ここで一つ質問しましょう。生物であれば誰もが持ち、最も犠牲にしたくないもの、今を生きる生命にとっての最上級のリスクとは何でしょう?」
両手を広げ、芝居がかった仕草で語りかける全裸の女。
魔法にリスクを織り交ぜることで強力な魔法を構築する。
それはとある七崩賢が使っていた魔法と似ていると、男は思い至る。
「寿命か」
「惜しい。確かに、生命力や肉体に及ぶリスクは並大抵のものではありません……。しかし、まだ取り返しがつく範囲です。凡人の私では、可逆性のあるリスクでここまでの魔力を生み出すことはできませんよ」
肉体によるリスクでも、生命力に及ぼすリスクでもない。となれば、それ以上に重要度が高いものなど一つしかない。
「狂っているな……魂か」
「正解です。一度天秤に掛ければ後戻りは許されない、不可逆のリスク。人の一生は50年以上、その間絶えず魔力を生み出し、人間の複雑な感情を発露し続けるエネルギーの塊、生物の核をなす魂を燃料として燃やすのです……。これくらいの魔力は納得していただけるでしょう」
「ならさっさと自滅して死ね」
魂とは、即ち生命の根源。
魔族と人間の戦争で魔力体系が大きく進化した現代ですら、知覚にすら至らない概念だけの存在だ。
中央魔法協会の魔法使いでさえアプローチの段階にすら至らず、数百年、数千年先にあるかも不透明な分野。その魂を知覚し、利用するなど、正しく革命的な技術と言ってよかった。
しかし、そんなことは男にはどうでもいい。重要なのは、女が魂をどれだけ削ったのか、そしてあとどれくらいで死ぬのか。それだけだった。
「原理は理解できた。それで、あとどれくらいで死ぬ? 命を削っているんだ……貴様は既に死に体だろう」
「少し誤解していますね。こうして言葉を交わしている今この瞬間にも、私の魂は絶えず死に続けていますよ。私の魔法とも呼べない魔法の効果は単純明快、魂を燃焼させて魔力に変換するだけです。魔力探知で見えているでしょう? 私の命が燃え上がる瞬間が」
男の魔力探知には、変わらず爆発を繰り返すような特徴的な魔力が捉えられていた。
(待て……この小刻みに爆発する魔力の波はなんだ。この人間……まさか)
「貴様、本当に人間か?」
「失礼ですね……。えぇ、人間ですよ」
「まさか言葉通りか。その魔力を維持するためだけに、絶えず死に続けているだと? 私は七崩賢、断頭台のアウラの魔法を知っている。奴の魔法は魂を縛る類の魔法だ。一度捉えられれば逃れる術はない、絶対性を持つ。魂とは、それを容易く成してしまうほど大きな意味を持つものだ。だからこそ巫山戯ている。魂が再生するなど……貴様の存在は異常としか言いようがない」
男は七崩賢の一人が扱う魔法を知っていた。それは魂を天秤にかけ、特定の条件下で相手を服従させる魔族の魔法だ。
たとえ首を刎ねられようと、魂を支配されれば永遠に服従し、死すら選べない傀儡と化す。
一度自身の手を離れれば、生物としての尊厳をすべて失い、消えれば完全な消滅を意味する。そんなものを使い捨てた上に再生させるなど、魔族にとっても異常以外の何物でもなかった。
「饒舌で嬉しい限りです。しかし、人を化け物のように言うのは感心しませんね……。あぁ、アウラさん……。勇者ヒンメルに腕を天秤ごと切り落とされて引きこもっているようですが、元気にしていますか? 人間と同じくらい感情豊かな方のようなので、是非一度お話してみたいものです」
「……」
「無視ですか……。まあ、異常なのは認めましょう。とある天才大魔法使い曰く、私の不死性は生まれつきのもので、それ自体は並の不死と変わらないそうです。貴方が気味悪がっているこの不死の原因は、私の魂がこの世界のものではないことに関係しているとか。簡単に言えば、私という生命は独立した一つの世界であり、私だけの法則で成り立っている……らしいです。さっぱりですね」
ようやく会話らしい会話が始まり、ご満悦といった様子で自身について語り始める。
しかし、語りかけられている魔族の方はもはや聞いてすらいないのか、手にした剣を握り直し、構えを変える。
「はぁ……時間の無駄だ。魔法が通じないなら、もう一度首を叩き斬るまでだ」
「魔族の方とお話できて、私は嬉しいですよ」
「魔法が効かないのであれば、物理で殺すだけだ。再生する瞬間に絶えず重力波で押し潰し、私はその間に逃げさせてもらう」
剣を構え、堂々とした逃亡宣言。
ジリジリと摺り足で、剣先がフルーフの方へと近づいていく。
「魔族のプライドというのはないのでしょうか?」
「化け物の相手など御免だ。私は私の命が脅かされなければ、それで良い」
清々しいほど保身に走るその発言と共に、雪が爆ぜ、男が駆け出す。人間離れした脚力で一気に距離を詰め、鋭い剣閃が瞬く間にフルーフの首へと吸い込まれていく。
――ゴツンッ!
「あイテッ」
肉を断つ音ではなく、鈍器同士がぶつかったような鈍い音が鳴り響いた。薄皮一枚切り裂くどころか、剣身がブルブルと震え、弾き返される。
男は驚愕に目を見開き、瞬時にバックステップで距離を取った。
「硬いな」
「不思議ですか? でしたらもう少し私とお話を……。いえ、そういう空気ではないようですね」
「魔力を一点に集中させて防いだのか?」
「困りましたね……。自信を持ってそう言えればよかったのですが。正直に言って、私の魔力に関する技術は三流以下です。これはクヴァールが考案した私専用……というよりはモルモット用の魔法、『身体を強化する魔法』という狂った魔法のおかげです」
ならばと、男は剣に重力魔法をかけ、さらに剣圧を増した剣技でフルーフを滅多打ちにする。しかし、それでも刃が肌に触れるたびに、周囲には虚しい打撃音だけが響き渡った。
「イテッ。ちょっと、痛いッ。ぜ、全裸の女を切り刻むなんて、魔族としての誉れはないのですか……。少し、離れてください」
一心不乱に剣を振り回す男。しかし、フルーフの片腕が一瞬ブレた、その次の瞬間。
――ブチッ!
何かが千切れ飛ぶ音と共に、落下音が響く。それは片腕だった。
男の肩から下の腕が、鮮血を撒き散らしながら地面へと転がり落ちていた。
「なんだ、この巫山戯た膂力は」
「あ、申し訳ありません。この魔法は少々加減が効かないものでして……。謝罪します。まあ、これも至って単純な魔法です。燃費を一切考慮せず、全身の筋肉、内臓、神経、血管、脊椎、脳に至るまで、魔力を流せる箇所すべてに限界を超えて流し込み、無理やり身体能力を強化する魔法です」
「腐敗の賢老クヴァールが、人間にこれほどの魔法を与えていたと?」
「良さげな魔法に見えますが、その用途はクヴァールが開発した魔法のサンドバッグ、ホーミング性能を確認するための『動く的』ですけどね。それに、副作用が酷すぎます。血流は猛スピードで全身を駆け巡り、血管は常に破裂。筋肉は馬鹿げた出力を強制されて常に融解。心臓や脳味噌、眼球は破裂寸前。内臓は細胞分裂を繰り返し、テロメアは限界を迎え、全身は急速に老化していく。神経は一瞬で焼き切れ、骨は圧縮されて激痛が走る……。わかりますか? 数秒で、一瞬で沸騰し融解する肉塊が出来上がる、鬼畜魔法なんですよ、これ」
「なら代価を踏み倒さず、さっさと肉塊になれ」
「死による肉体のリセットを繰り返し、必死に人の形を保っている私に、なんて言い草でしょう。文句があるなら、千年以上前に私をモルモットにしたクヴァールにでも言ってください」
魔族の鼓膜に、ボコォ、ゴポ、と女の全身から不気味に沸き立つ音が反響する。眼を凝らせば、肌には血管が浮き出ては消え、鬱血痕が毎秒のように現れては消えを繰り返していた。フルーフの言う副作用が真実であることが見て取れる。
魔法による斬撃で体内に直接重力波を叩き込むが、一切手応えは感じられない。
まるで魔力の塊そのものだ。男は内心で吐き捨てるが、魔法も斬撃も、その手を一切緩めることはない。
「内部に重力波を叩き込んでも反応なしか。魔法防御、物理防御、高速再生、一体何がどう機能している――ぐッ!?」
なんとか数秒の逃走時間を稼ごうと、あらゆる手法を模索する男。
しかし、その止まることのない猛攻は、胸元に感じた強烈な違和感と共に止まった。
男の胸元。そこにはフルーフの手が深く食い込んでいた。
肋骨を粉砕し、その心臓を鷲掴みにして、愛おしそうに撫で回している。
「ぐがぁ……痛い、痛いっ!!」
「リアクション芸人ですか……。生物である以上、痛覚はあるのでしょうが、実際にはほとんど痛みなど感じていないのでしょう?」
「この人でなしめ! 痛がっているんだぞ、何とも思わないのか!」
胸元から血がドクドクと流れ落ち、壮絶な表情で絶叫を上げる魔族。
しかし、フルーフの反応を見て、スン……と表情が抜け落ちる。
「そろそろネタ切れでしょう。でしたら、今度は貴方の魂と直接触れ合ってみたい。大丈夫、無駄にはしません。将来に備えて、色々研究しておきたいのです。なにせ、魔族と人間の魂には大きな差異がありますから……。より深く、理解しておきたいのです」
「ま、待て……私には妻と息子が……」
「命乞いの段階に入りましたか。ですが、さすがに無理がありますね……。生殖器はある癖に、欲求はないでしょう? 愛という概念も持たない魔族に、子供がいるはずがありませんよねぇ」
フルーフは脅すように心臓を揉みしだき、楽しそうにその感触を確かめる。
「村の人間たちが殺されるのを、黙って見ていたんだろう? 金が欲しかったんだろう?」
「急に三下のチンピラみたいな動きですね、君は……。魔族にしては、欺くのが下手だ。ということは、魔族の中でもかなり強い個体ですね。持論ですが、高位の魔族ほど命乞いが下手なんですよ。まあ……村人を見殺しにしたのは、間違いではありませんよ」
「そうか……なら、私たちは分かり合えるはずだ」
「私も心苦しいのです。なかなかの美形ですし、できれば見逃してあげたい。しかし、現状どうしても魔族の魂、それも人型のサンプルが必要なのです。魔法は不得意とはいえ、将来の伴侶との充実した生活のために、色々と魔法を開発しておかなければなりませんから」
意思の疎通を放棄したかのように、胡散臭いプライベートな内容を独り言のように呟く。
男の脳内は、「意味が分からない」という一言で埋め尽くされていた。
「意味が分からん。見殺しにして、何か得るものがあったから傍観していたのだろう?」
「違いますねぇ……。言っても理解できないでしょうが、罪悪感を減らすため、でしょうか。人間を虐殺する魔族としての姿を見ておけば、人間と同じ姿の生き物を命乞いの末に殺したとしても……心が傷みにくいでしょう? 貴方がキメラのような異形の魔族なら、別に見捨てなくてもよかったのですが……」
「何を言っている……心の痛み? ――ッ!?」
――ぐちゃあ!
「単純に身内以外に興味が無い、というのもありますがね。私、別に善人じゃありませんから」
そうフルーフが一言呟いたのを最後に、男の意識が永遠に途絶えた。
「それでは、おやすみなさいませ……。肉体がなければ思考もままならないでしょう。だから、苦しむこともありません。安心して、私にその魂を委ねてください」
男の遺体は魔力の粒子と化し、世界へと溶けていく。
そこには男が生きていた痕跡は何もかもが消え去り、フルーフに囚われた魂だけが残された。
彼女以外には知覚できず、常人ではその存在すら確認できない生命の核。それが確かに、フルーフの掌の中に握られていた。
「もし壊してしまったら、申し訳ありません。この魔法も完成間近です……。貴方の魂を最後に、完成させるとお約束しましょう」
裸足のまま雪を踏みしめ、クレーターの中央で押し潰された血塗れの衣類を手に取り、それを身に纏った。
コートの装飾は見る影もなく鉄屑と化しており、男が使った重力魔法の威力を静かに物語っていた。
「さて……服は魔法でなんとか修復できそうですね。村人の方々の魂は回収済み……肉体の損傷はひどいですが、問題ありません。今回は一人あたり魂500を目標に蘇生してみましょうか……。安心してください。魔法の練習も兼ねて、きちんと生き返らせてあげますから」
◇◇◇
その日、北部のとある漁村から奇妙な報告が届いた。「魔族に襲われ、村人全員が殺された」――しかし届け出たのは、死んだはずの村人本人たちだった。
不審に思った北側諸国が調査に乗り出したが、村人は全員が無傷で生存している。
暖炉の効いた自室で、なぜか半裸のまま目覚めた以外、誰も何も覚えていなかった。
魔族の襲撃。しかし死者ゼロ。
あまりにも不自然な訴えは取り下げられ、この奇妙な事件は人知れず忘れ去られていった。