ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
シンビオシスの街が穏やかな朝陽に染め上げられ、一日の活動を始める頃。
街の中枢に位置する議事堂では、今日もまた、四半期に一度の茶番会議が始まろうとしていた。
その名も「シンビオシス定例会議」。
街の運営方針を決めるという大義名分を掲げているが、その実態は、街の運営には何ら影響を及ぼさない、形骸化したお喋り会に過ぎない。
議事堂の一室は、その実態を感じさせない、無駄なほど荘厳な空気に満ちていた。
磨き上げられた黒曜石の長机が、窓から差し込む朝陽を受けて重厚な光を放ち、壁を埋め尽くす書棚からは古書の革とインクの匂いが漂い、時折、羊皮紙の乾いた香りが鼻腔をくすぐる。
やがて、この雑談会に見慣れた面々が、いかにも重要人物といった面持ちでぞろぞろと姿を現す。
会議の開始時刻が迫るにつれ、普段のラフな格好とは違う仰々しい正装に身を包んだ重役達と、その補佐役の人間達が次々と入室していく。
革靴が石床を打つ音が規則正しく響き、椅子を引く音が静謐な空間にこだまする。
だが、その実態は日頃街を回している部下たちに「お願いですから、街の重鎮らしくそれっぽい会議くらいはやってください!パフォーマンスで十分なので!」と尻を叩かれ、渋々重い腰を上げた、申し訳程度の義務感だけで辛うじて形を保っている集まりに過ぎない。
神妙な面持ちを崩さないあたり、一応の責任感に似た何かはあるらしい。
しかし、その表情の裏に「早く帰りたい」という本音が若干見え隠れしているのは、気のせいではないだろう。
「本日はお集まり頂きありがとうございます。四半期に一度のシンビオシス定例会議を始めます。進行は私、再教育センターの所長であるフルーフが行いま――あの、なんか人数少ないんですけど……」
笑みを浮かべていたフルーフの表情が、長机に腰掛ける重役の数を目にした途端、ぴしりと固まる。
その声には、隠しきれない困惑と、微かな苛立ちが滲んでいた。集まった重役の人数は、進行役のフルーフを合わせても僅か四人。明らかに、常習犯のサボりが数名いる。
今日のフルーフは、お馴染みのシルクハットとローブ姿ではない。
きっちりと結い上げられた純白の髪に、身体のラインを美しく見せる上質な仕立ての服。袖口のレースが仄かにラベンダーの香りを纏っている。
出で立ちは、彼女がこの会議を真面目に捉えていることを示していたが、その真面目さこそが、この場の異質さを際立たせていた。
彼女の隣には、街唯一の教育機関の校長であり、事実上の領主であるソリテールが座っている。
一体どこの中華マフィアかとツッコミたくなる、厳めしくも優美な漢服姿。
美しく結い上げられた翠色のロングヘアーが、僅かな動きに合わせて絹擦れの音を立てる。
手元の魔導書から一切顔を上げず、会議への無関心さを貫いていた。
そして、リンゴ園の園長であり、街の戦士達を束ねる戦士長、リーニエ。
シンビオシス随一の天性のオシャレ番長である彼女は、漆黒の生地に白いスカーフが映えるシックな装いに身を包み、杖を片手に静かに座っている。
窓から差し込む光がモノクルを輝かせ、そのレンズ越しに手元の資料へと視線を落とす。
その姿は、脳筋人喰いモンスターという彼女の本質を忘れさせるほど、知的で落ち着いた雰囲気を放っていた。
最後に、心理調査委員会の会長を務めるエルフのミリアルデ。
この街に居着いた当初は、無表情、無気力、無関心と、とにかく精気が感じられない抜け殻のようなエルフであった。しかし数年の時を経て、今はどこか妖しげで蠱惑的な雰囲気を纏うようになっていた。
他には、記録と内容を纏める為に控える数十人の人間達が、緊張した面持ちでカリカリとペンを走らせている。
羊皮紙を引っ掻く音だけが、沈黙を埋めるように響いていた。
この街の重役の中で「人類」と呼べるのは、フルーフとミリアルデの二人のみ。
人間の街でありながら、その中枢は致命的なまでに人外で固められている。
しかし、それにしても人数が少ない。
フルーフは内心で青筋を浮かべながら、背後に控える秘書へと視線を送った。
全てを察した秘書がそっと近づき、小さな声で欠席者の名とその理由を耳打ちする。
「えぇっと……まず監獄の所長である愚かなる宗教キチなロリコン幻影鬼は欠席ですね。……誰か理由聞いていますか?」
フルーフの口から、開口一番に飛び出したのは、最早魔族ですらない魔物の名だった。
人間の思念や記憶を読み取り、対象が望む言葉を正確に理解し、幻影として見せる能力を持つ――人類の感情の機微に聡い、特異な怪物だ。
そんな魔物が、現在このシンビオシスの監獄所長を務めている。
フルーフとの付き合いは古く、まだソリテールと出会う遥か昔、彼女の狂気的な探求心に巻き込まれたのが全ての始まりだった。
当初は意思疎通もままならなかったが、暴力と教育、そして餌付けを数百年繰り返した結果。
危険な害獣から、文字での対話が可能な便利な幻影映写機へと進化を遂げた。
フルーフにとって彼は、忘れてしまった記憶を思い出させてくれたり、繰り返し幻影を見せることで対象の精神に揺さぶりをかけたりと、何かと重宝する存在である。
では一体何故、フルーフが彼に対してこれほど当たりが強いのか――それはもう、一言では語り尽くせない程に、色々なことがあったのだ。
ナチュラルに口が悪くなっているが、仲が悪いということではない。
遠慮が必要ないほどお互いを知り尽くしているが故の軽口でもあった。
現在、その幻影鬼は此処シンビオシスの監獄所長として固定給で雇われ、日夜犯罪を犯した者達を更生させるために地獄の幻影を見せる、正義の幻影鬼として君臨している。
「フルーフ様……所長から業務外だから追加報酬を要求する趣旨の手紙が届いています」
しかし、その進化には一点、厄介な問題があった。知能が育ちすぎた結果、彼はまるで人間のように、己の権利を主張するのだ。
職務の定時上がりを自身にも他者にも強要し、感情の機微に聡いせいか、魔物の癖に部下を気遣い、確かな人望を獲得してしまっている。
今や彼を解雇しようものなら、他の看守から猛烈な反対意見が出ること必至――というか、部下の中には、完全な狂信者が混じっていた。
彼がここに来る前に運営していた孤児院の部下に知られれば、即日フルーフの心臓に剣が突き立てられることだろう。
それを理解しているのか、アインザームはフルーフが暴力で解決出来ない問題を盾に、ギリギリのラインを攻めた要求を叩きつけてくる。
部下用の看守服を要求したり、今のように給料交渉をしてきたり――どこか突っぱねづらい、妙に弁えた要求ばかりだ。
フルーフは長年の付き合いから、魔物の言葉の裏を読んでいた。
恐らく追加報酬など、はなから必要としていない。
こんな暇人共のなんちゃって会議に参加して時間を無駄にするくらいなら、仕事をしていた方が有意義――そんなところだろう。
これで職務を碌にやっていない不良看守であれば、髪を引っ張って連行してくるところだ。
しかし何ぶん、仕事はクソがつく程の真面目で、休憩など殆ど取らず働きまくっている。おまけに有能なので手に負えない。
「お、ストライキですか。アイツ、私のこと最近……いや昔から舐めすぎでしょう……ゴホン、どうせ会議に来ても何も言わないので放置で構いません。後は……精肉加工兼魔物解体工場の工場長である剣のオバチャンも来てないようですけど……?」
フルーフは内心の苛立ちを咳払いで誤魔化しながら、次の欠席者の名を口にした。
肉に類する全ての解体や加工を一手に担う施設の工場長。
暇さえあれば剣を眺め、うっとりと悦に浸りながら全能感に酔いしれる変態なので、フルーフは彼女を「剣のオバチャン」と呼んでいる。
ちなみに部下達からはツルギさんと呼ばれ、それなりに親しまれているらしい。
彼女との付き合いはそこまで長くないが、魔物や人間を問わず、その肉の解体技術はとにかく素晴らしく、フルーフがわざわざ外からスカウトしてきた女魔族だ。
人間の肉が大好物で、「街に来ればたくさん喰べられますよ」と唆しただけでホイホイついてきた食いしん坊であり、フルーフとは人肉レシピを共有するクッキング友達でもある。
彼女が作る、骨で出汁を取った肉団子スープは、ソリテールとリーニエも太鼓判を押す程に美味らしい。
ソリテール達とも関係は良好で、彼女もまた、趣味を共有出来る友人がいるシンビオシスでの生活を大層気に入ってくれていた。
ただ――彼女にもやはり問題があった。
「フルーフ様、工場長から言伝があります。"お腹が空いて動けない、だけど、此処を追い出されたくないので人間も殺さないし喰べません、商品にも手を出していません……偉いですよね?なので早くお肉を持ってきて下さい"とのことです」
「それ滅茶苦茶要約してますよね?……あの人そんな直球の図々しいこと絶対書きませんよ。監獄長の次に真面目なんですから……それに、私の知る中で一番社会人してますし」
「はい、挨拶の手紙が30通以上続いていたので、勝手ながらこちらで要約させて頂きました」
「あ、はい。それなら納得です」
その問題とは、とんでもなく喰い意地が張っているということだった。
常に腹を空かせ、とにかく喰う。
普通の魔族の数倍は平然と平らげ、骨まで残さずスナック感覚でボリボリと人間一人を丸々喰いつくす。
時折こうして空腹を理由に部屋に引きこもることも珍しくなかった。
罪悪感もない魔族なら、問答無用で周囲の人間を殺して喰らうだろう。
しかし、彼女は違う。魔族は確かに野蛮だが、人間と同じ様に計画を立て、長期的な視点を持つことも出来るのだ。
彼女にとって目先の空腹はただの欲であり、長期的に安定してその欲を満たせるのはこの街以外に存在しない。
目先の欲を取り、ここでの生活を手放すのは、余りにも釣り合いが取れなかった。
人を殺せば追い出される、最悪の場合殺される。
大魔族であるソリテールが領主を務めているのも、彼女の自制心を保てる一つの要素なのかもしれない。
規律では魔族は縛れない。
魔族に社会性を強制させるために必要なものは、絶対的な恐怖のみ。
毎日どれだけ喰っても供給される人間の肉、それを体験して、今更危険が付きまとう外で暮らせるだろうか。
大魔族の反感を買えばどうなるかなど、考えるまでもない。
生活の不安と死の不安――そんな二つの恐怖が、剣の魔族を人間社会に、ある程度ではあるが適応させていた。
勿論、それだけが理由ではない。
彼女は、ある外的要因により、脳髄どころか魂の根幹まで変質し、魔族という既存の枠組みから完全に逸脱していた。
そうなった理由にはフルーフ自身も関わっているため、大喰いについては特に強く言うつもりはない。
どうせ自分の死体なのだから、好きなだけどうぞ――といった感じである。
「今月で私の身体百体目ですよ……記録更新しましたね。わかりました、工場の地下冷暗所に緊急用の死体のストックの用意がありますので、それを出して上げて下さい。それと、剣のオバチャンには今日中に向かうから安心しておくように伝えてきて下さい」
「畏まりました、それでは失礼します」
部下の一人がフルーフから地下の鍵を受け取ると、深々と頭を下げ、扉から出ていく。
その足音がドタドタと遠ざかっていくのが聞こえた。
どうやら、大急ぎで空腹に苦しむ工場長の元へと駆け出したようだ。
フルーフは自分の肩を揉み、足りるかな……と考える。
それもそのはず、彼女は単純な大喰いなどではない。
なんとあの魔族、某宇宙的恐怖でグレート・オールド・ワン的なナニかとズ友なのだ。
一人ではなく一人と一邪神とでも言った方が正確だろう。当然よく喰うに決まっている。
邪神的なナニとはいえ、フルーフとソリテールとも仲は良く、二人にとっても割とズッ友といっていい間柄にある。
リーニエやミリアルデとは関係に少し距離があるが、露骨に邪険にするほどの仲ではなかった。
「……ソリテール様の所から試験登用している魔族の子も来ていないんですか?変身魔法が得意だから色々任せようと思っていたんですが」
「あの子は今日友達と遊びにいくと言っていたわ」
「そうですか……」
ソリテールからの返事に、フルーフは力なくそう返す。その声には、計算が狂ったことへの微かな残念さと、それを受け入れるしかないという諦観が滲んでいた。
彼女の胸の内には、ささやかな計画があった。
魂に処置を施した、あの才能豊かな魔族の子供たち。彼らに今のうちから社会経験を積ませ、将来は優秀な人材として街を支えてもらう。
そうすれば、自分はもっと楽ができる――実に人間臭い野望だった。
しかし、ソリテールの報告は、その淡い期待を打ち砕くには十分すぎた。
精神的な成長は人間レベルに遅く、情緒に至っては、人間そのもの。
その言葉を聞いた瞬間、フルーフの中で何かが静かに変わった。「魔族」と「人間」という二つの枠組みが意味を失い、目の前にはただ、どうしようもなく「子供」という存在だけが浮かび上がる。
お小遣いの出る仕事よりも、友達との遊びを優先する。
そのあまりにも子供らしい選択に、フルーフはふっと息を漏らし、遠い目をして呟いた。
「そうか、魔族も子供ですもんね。うん、まぁ、子供なら仕方ないか」
ソリテールに頼めば、恐怖によって子供達を従わせることは出来るだろう。
だが、殺意の混じった「お願い」で子供たちの自主性を正面からへし折るなど、教育上、あまりにも悪手すぎる。
表面上優しかった先生がいきなり豹変するなど、子供のトラウマになりかねない。
――あの娘は……もっとしっかりしてたと思うんですけど……。あ、いけません……最後まで思い出さないようにしてたのに。
その思考が引き金となり、フルーフの心臓がきゅっと締まるような息苦しさに襲われる。
言い知れない罪悪感が胸の内から溢れ出し、封印していた記憶が連鎖的に掘り起こされていく。
フルーフは数度深呼吸を繰り返し、無理やり思考を全て外に投げ捨て、再び会議の進行へと意識を戻した。
「はぁ……危ない。――えぇ、それでは半数以上が欠席ですが会議を始めたいと思います」
「馬鹿弟子、この集まり……毎回必要なの?」
そのフルーフの弱々しい声を遮るように、リーニエが心底つまらなそうに口を開く。
手元の資料を机へと投げ捨てると、よほど退屈なのか、魔力で作り出したナイフを手元に出現させ、ペン回しのように器用に弄び始めた。
刃が光を弾くたび、チカチカと眩しい反射が壁を走る。
「いえ、正直必要ないです。私達ってほら……街の管理者みたいな立ち位置ですけど、実質運営してるの住人の人達なので……」
「お話は嫌いじゃないわ。私はフルーフが必要というのなら尊重するよ」
「旦那様が優しすぎて泣きそうです」
「立場上なにかしら方針だけでも示す必要があるんでしょ。私も二、三苦言を受けたわ」
「その通りですミリアルデさん。住人の皆さんは自分で考えてキビキビ働いてくれていますが、やっぱり私達も何かしら案を纏めて街の改善や今後の方針を示さなくてはなりません」
フルーフがそれらしいことを言うと、リーニエは心得たと言わんばかりに、ふん、と鼻を鳴らしドヤ顔を披露する。
「フルーフは街の財布……そして私はその持ち主、いるだけで価値がある」
「なに言ってるんですかリーニエ師匠。私の持ち主はソリテール様ですよ」
「どっちでも問題ない、親の金を継ぐのは娘の私」
リーニエのフルーフに対する態度は、年を追うごとにぞんざいさを増していたが、ここ最近、人間社会に妙に馴染んでからは、その傾向に拍車がかかっていた。
一体どこで聞きかじってくるのか、彼女は生半可な人間の常識や権利意識を盾に、突拍子もない理屈をこね回す。
その度にフルーフは言葉に詰まり、頭を抱えるのが日常茶飯事となっている。
「一体どこで憶えたんですか、その偏った知識……」
「商人」
フルーフの脳裏に、抜け目のない商人たちの顔が浮かぶ。
アイツらか……と内心で毒づき、固く拳を握りしめた。
リーニエが趣味で始めたリンゴ園は、今や街の重要な収入源だ。
その販路は広く、北部高原のノルム商会から、中央、南へと繋がる複数の海運商会に至るまで、名だたる商会と専属契約を結んでいる。
もちろん、社会性という概念を持たない職人気質のリーニエに、狡猾な商人たちとの交渉など任せられるはずもない。
契約関連の一切は、街の財務担当部署が取り仕切り、不当な取引が行われぬよう、常に厳しい監視の目が光らされている。
だが、商人たちもしたたかだ。彼らは正規のルートとは別に、リーニエ本人へと個人的に接触し、機嫌を取ろうとしている。
その事実はフルーフもとうに把握していた。しかし、その内容がまさかこんなにも下らない世間知の吹き込みだったとは、想像の埒外であった。
「後でクレーム入れてやる。ですが無駄ですよリーニエ師匠、私今、無一文ですから」
「は?……空っぽの財布?」
「解釈に悪意がありますね。わざと言ってるんだとしたら悪意を理解出来てるんじゃないですか?」
「ほんとの事を言ってるだけ」
散々、親だの母親だのと言っておきながら、結局は便利な財布としか見ていないじゃないですか――。
フルーフは、あまりにも身勝手で、しかし魔族らしく正直なその物言いに、喉まで出かかった鋭いツッコミを深いため息と共にぐっと飲み込んだ。
この摩訶不思議な精神構造を持つ義理の娘に、今更何を言っても無駄なのだろう。
「あの規模の結婚式だと街のお金じゃ足りなくてですね……ほとんど私財を使う羽目になっちゃったんですよ。後あの美しさを凝縮した黄金像の制作費で全て吹き飛びました」
「ハハ……」なんて呑気に笑うフルーフだが、数ヶ月にして金庫に仕舞い込んでいた各種金貨が半分以下になっていた時は、流石に冷や汗を出し自分自身に引いた。
しかし、刹那主義を極め過ぎているフルーフは、その数日後に「余ったから」という理由で残りの金貨全てを注ぎ込み、黄金のソリテール像を作り上げてしまったのだ。
おかげで負債こそ抱えていないが、フルーフの私財はすっかり空になっている。
「フルーフ……――この、ばかやろうッ」
そのアホ過ぎる理由を聞いたリーニエは、フルーフを睨みつけ、手元のナイフをぶん投げる。
フルーフのモノは自分のモノと思い込んでいるリーニエには、許せない。
あんなクソみたいな像に持ち金を溶かした変態を殺してやらねば、と本気で殺意を滾らせ、全力で腕を振るった。
リーニエは別に、便利な通貨が失われたことに怒っている訳ではない。
元々無い概念への関心は薄く、感情を荒立てることでもないのだ。
しかし、なんだか損した気分にはなる。
それが、あのクソみたいな黄金像のせいだと思うと、無性に苛立ちが湧いてくる。
「野郎じゃないです。まぁまぁ落ち着いて下さい……どうせ私の金が、とか考えているんでしょうけど、経済効果はバッチリあったんで直ぐに回収出来ますよッ」
フルーフは飛んでくるナイフの柄をこともなげに掴むと、リーニエに向かって投げ返す。
「なら、さっさと増税、私のお金を取り戻して」
リーニエは帰ってきたナイフの柄へと軽く指を添え、クルリとUターンさせる。その勢いを全く殺すことなく、進行方向を変えたナイフは再びフルーフへと向かう。
武の極みみたいなことを披露しながら、クズ全開の発言をかます。
「ダメです……私が財務担当の方々に締め上げられます。住民から増税魔族なんて言われたくないでしょ?それに街の収益の大半はリーニエ師匠のリンゴ園ですよ?高収入なのにケチケチしないで下さいッ」
飛来するナイフをズブッと掌の中心で受けながら、再生と同時に高速射出で投げ返す。
掌を貫いた刃が抜ける瞬間、僅かに血が飛沫を上げるも、傷口は既に塞がっている。
そもそもリンゴ園の規模と品質、年中大量に輸出される各種商品から生み出される利益は、フルーフが貴族相手にコツコツと営業して得る金より遥かに多い。
手元の報告資料を探れば、毎月数千単位のシュトラール金貨とライヒ金貨の利益が出ているはずだ。
「リーニエ師匠……まさか知らな――
「煩い」
しかし、その呆れを含んだ指摘は、ソリテールからの氷のような一言と、物理的な一撃によって無慈悲に遮られる。
読んでいた魔導書をまるでハエ叩きのように振りかぶると、フルーフとリーニエの間でヒュンヒュンと飛び交っていたナイフを、ビシッと一発で叩き落とした。
カラン、と軽い金属音が会議室に響き渡る。ナイフは黒曜石の床に落ち、その反響が天井まで届いて消えた。
「………」
「………」
ソリテールは涼しい顔で再び魔導書を読み始め、場は一瞬にして静まり返った。
まさに絶対零度の空気である。
数秒後、ようやく状況を飲み込んだのはリーニエの方だった。
フルーフの指摘が事実だと理解した途端、その態度は見事なまでに豹変する。
「……――え……そうなの?私って凄い――ねぇフルーフ、貧乏人がなに偉そうにしてるの?席代わりなよ」
さっきまでの不満げな顔はどこへやら。
あれだけ金、金と騒いでおきながら、自分の収入を知らなかったことなど棚に上げ、急に自分が世界の中心だとでも言わんばかりの尊大な態度でフルーフにマウントを取り始めた。
「う、わぁ……私に経済マウントとかいい度胸してますね。年がら年中高品質なリンゴ園を維持するのに誰が肥料になってるかご理解頂けてますか園長さん?」
「なに?お金が欲しいの?いいよ、私お金持ちだし。一回いくら?その身体を言い値で買ってあげる」
その瞬間、空気が凍りつく。
黙々と自分の職務を全うしていた人間達の手がピタッと止まり、ペンを握ったまま固まっている。
全員がソリテールの方を恐る恐る窺った。
リーニエが少女のような姿だから許されるが、これが脂ぎった中年オヤジであったなら、即刻監獄にぶちこまれる爆弾発言である。
「リーニエ師匠、言い方……。意味的には通じていますが住民の方々に聞かれたらとんでもない誤解を受けるんで止めて下さい……」
フルーフがこの街で「変態」として認知されていることなど、今更否定するつもりもない。だが、これは流石にまずい。次元が違う。
街の住人から、フルーフとソリテールの「娘」だと扱われているリーニエが、こんな公の場で、母親である自分の体を「買う」などと宣ったのだ。
この発言がどういう意味で受け取られるか、想像するだけで眩暈がする。
これではただの変態ではない。
娘に体を売らせるド級の変態、いや、もはや救いようのないド変態だ。
フルーフが必死に積み上げてきた街の皆からの信頼が、砂の城のようにガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえる。
流石のフルーフでも、街を歩くたびにドン引きされるのは精神的にキツイ。
そもそもフルーフはソリテールと敵に対して以外はかなり常人寄りの感性を持っているのだ。引かれて悦ぶ趣味はない。
「これは、浮気かな?」
一切魔導書から目を逸らさず、ただ耳を傾けていたソリテールが、静かに呟く。
平坦な声で言っているものの、その言葉にはリーニエとフルーフに冷や汗を垂れ流させる程の、重い圧がかけられていた。両者共、途端に黙り込む。
「………」
「………」
「違ったかな?」
パタン、と魔導書が閉じられ、部屋を支配していた重圧からようやく解放される。
結婚式以降、人間の心の擬似的再現を心がけ始めたソリテールは、時折こうした突拍子の無いことを言い始めることが多くなった。
人間相手に独自の理論に基づき出した結論を口に出し、返ってくる反応によって正解なのか不正解なのかを判断しながら、経験を蓄え、常に学習し精度を向上させているのだ。
しかし、今回は会話の前後を初めから聞いていたため、知識で識る「浮気」ではないことは初めから理解していたはずだ。
つまりは、話に乗っかって場を盛り上げるための、魔族なりのジョークでしかない。
もっとも、この場の誰一人として冗談だと理解出来ていないのだが――ソリテール自身はとても愉快なことを言ったつもりでいた。
「違います……あぁもう!今は無いですが、換金出来る彫像品とか絵画とかまだまだあるんで、お金なんていくらでも引っ張ってこれるんで……次行きますよ……次!」
「ならいい。私が不自由なく暮らせる二千年分くらいのお金は貯めておいて」
「自分で稼いで下さい」
「娘が何不自由なく暮らせるように面倒見るのが親の義務。役割は果たすべき」
「はいはい、仰せのとおりに。えぇ、では街の財務に関しては私達は関与しない方針で一貫しているので運営に際しての経済的な要素については口出ししません。街から出た苦情などの意見にどう対処するか考えていきましょう」
「地味ね」
今まで何をするでもなく静観していたミリアルデが、ボソッと面白くなさそうに呟いた。
「私達が街経営に関わったら一瞬で財政破綻することは目に見えていますのでね……。こういう小さなことを私達が真剣に考えているという事実を住人の皆様方にアピールしておく、その程度が丁度いいです」
これが街の権力者がやるべき仕事なのかとフルーフも内心思うが、各種人員の能力が尖り過ぎていて、街を円滑に運営出来る能力を持った存在がいないのだから仕方がない。
各々が突出した能力はあれど、上に立つべき為政者としての才能は全く無い。
故に、そういった政や細やかな財政管理は、街の住人から選抜された人員で構成された部署によって回されている。
時折フルーフが口出ししたりもするが、基本的に経済に詳しい者が誰一人いないので、ノータッチを貫いていた。
幸い、街の住人がソリテールやフルーフへと向ける忠誠心はとんでもなく高く、現状の体制での不利益は一切出ていない。
しかし、一部の外部から雇い入れた人員は、フルーフやソリテールをただの雇い主としか考えていない為、不正行為に手を染めるなどの問題も少なくなかった。
もっとも、裏金や私欲を肥やそうとすれば即刻監獄にぶち込まれる手筈になっている。実際、ソリテールを数字も分からない馬鹿な化け物と舐めて掛かり、街の金を横領した帳簿管理者がいたが、仕事仲間に即時密告され、あっさりすげ替えられた。
監獄で心の底から反省するまで悪夢による刑罰を味わわされ、出所後はフルーフの再教育センター送り。今では「街の為に……ソリテール様万歳……」と繰り返しながら、死んだ魚の目で働き続けている。
「私はなんでもいいわ。この街で退屈しのぎが出来れば、なんでもね」
ミリアルデは目を伏せ、どこか胡乱げな表情を浮かべる。
その大きく開いた首筋と、日に照らされうっすらと透けるシースルーのインナーが、彼女の無気力さとは裏腹の妖艶さを醸し出していた。
フルーフは思う。
なんだか無気力なのに、一挙手一投足に妙な色気がある。この人、こんな雰囲気でしたっけ……?
「………フルーフ」
「アッハイ」
ソリテールからの無言の圧を感じたフルーフは、誤魔化すように咳払いをし、手元の資料を捲りながら再び口を開いた。
「はい、ではまずは一件目。なになに……深夜にフルーフとソリテール様が発情した猫みたいに煩い?……おいリーニエ」
フルーフは、内容を読み上げた瞬間、手元の資料をぐしゃりと握り潰し、丸めてリーニエに投げつける。
街の住人からの声を集計しリストアップされたものが、今この会議室で全員が目を通しているものだ。
一家庭の、それも極めてプライベートな事情に苦言を呈すなど、常識的に考えてありえない。
大方、資料作成者を脅して無理やりねじ込んだのだろう。
匿名とはいえ、こんなピンポイントな内容の苦情を寄せる奴など、一人しか心当たりがなかった。
「は?呼び捨てにするな変態。お前ら夜な夜な煩いんだよ」
否定する気も無いのか、リーニエは手にした杖を振りかぶり、投げつけられた紙の塊をホームランのように打ち返し、フルーフの顔面にクリーンヒットさせる。
鈍い音と共に紙が弾け散り、白い破片が宙を舞った。
「身内からのクレームは受け付けておりませんが……まぁ、今後は防音魔法くらいは掛けるようにします。はい次――なになに……ミリアルデ様がエロ過ぎて困ります?おい、なんですこれ。これが住民の声?男女比半々……意味が分からない」
ペラリと次の資料を捲ると、またしても意味不明な内容と、ご丁寧に年齢比率や男女比率まで数値化された資料が目に飛び込んでくる。
年齢は十代から四十代までとばらばらな上、男女比の偏りも無い。
それが一層、この苦情内容の意味不明さを際立たせていた。
「心当たりがないわ」
名前が挙がっている張本人であるにも関わらず、ミリアルデはシレッと言い切る。
フルーフも、流石に何かの間違いなのではと思う。
ここ数年で少しイメージが変わったとはいえ、彼女の無気力な印象は昔から一切変わっていないのだから。
「馬鹿弟子、そいつは私の弟子を堕落させて酒場を潰して回っている悪魔だ。今直ぐ追い出したほうが賢明」
フルーフが一旦保留にしようとしたその時、リーニエが「待った」をかける。
なんでも、リーニエが戦士として鍛えている男達が、ミリアルデによって堕落させられているらしい。
詳しく話を聞いてみれば、ミリアルデが職務の一環で心理調査に赴いた際、弟子達が鼻の下を伸ばして情けない表情を見せるとか。
おまけに、リーニエの為に大陸中からリンゴを原料とした酒を集める酒場が、一人のエルフと接触した後、暫く休業になっているとか。
「……あの、ミリアルデさん?」
「私はただ退屈しのぎに付き合って貰っただけ。向こうが何を思おうが私の関与する所ではないわ」
ミリアルデは無表情で視線だけを逸らすと、意味深な言葉を口にする。
フルーフは確信する。こいつ、やってんな、と。
フルーフの脳裏に、ミリアルデとの出会いが蘇る。
あれは今から数百年前のこと。何気ない森林で、空を見つめ、一日中ぼーっとしながら酒を飲むエルフと出会ったのが始まりだった。
フルーフは少し人生に疲れていた。
ミリアルデは何をするでもなく、ただ酒を呑んでいた。二人は暫く共に旅をし、他愛無い会話を交わし、酒に溺れ、自堕落に過ごした。
人生をかけて求めるものを探し続けるフルーフと、無気力に生きているだけのミリアルデ――正反対の二人だった。
ソリテールを探し求める為に別れて以降、長らく出会っていなかったが、街を作るための住人集めをしている最中に、偶然再会した。
数百年ぶりにも関わらず、まるで数年ぶりに知り合いとバッタリ出会ったかのような挨拶をするミリアルデに、フルーフはその場で勧誘した。
今後数千年は面倒が見れるから街に来てくれないか。
自身も長命だし、魔族も多い。長寿だからと変に思われたり、煩わしい思いをすることもない――そんな風に誘ったのだ。
あの時、フルーフは一つ問いを投げかけた。
どうして、あんな苦労をしてまで碑文を掘り、結界まで張ったのか。
『
ミリアルデは「そういう気分だっただけ」と答えた。
だがフルーフには分かっていた。
無駄なことは一切しないこのエルフが、あれほどの手間をかけた理由が、単なる気まぐれであるはずがない。
数年後、ミリアルデは街を訪ねてきた。
フルーフは約束した通り、何不自由ない生活と、長いエルフの人生でも体験したことのない「刺激」をミリアルデへと提供した。
魂を原型も残さず改造した魔導具を手渡し、「気が向いた時にでもコレを使って仕事をしてみて欲しい」と言った。
その黒い箱状の物体は、魂の感情を一方的に観測し、住人の内面を監視する為のものだった。何を考え、どのような感情を持っているのか、住人全てに打ち付けられた釘と連動し、いつでも任意のタイミングで覗き見が出来る――最低の代物である。
それを手にした瞬間から、ミリアルデの内に何かが芽生えた。
あるいは、碑文を刻み始めた時点で、既に燻っていたものなのかもしれない。
普通の人間には古エルフ語は読めない。
解読するには専門家を雇うか、独学で学ぶしかないだろう。
保管庫に施された結界は、大魔法使いであろうと数ヶ月はかかる強固な代物だ。
普通の人間には絶対に解けない。
もしそれでも挑む者がいるとすれば――その人間は人生を掛ける程の熱意を持ってして挑むことになるだろう。
そして、辿り着いた先にあるのは『最上の名酒』などではなく、ただの不味い安酒という真実。
『人生をかけて探し求めたものが、なんの価値もないゴミだったとき』――その瞬間を見たかっただけなのかもしれない。
ミリアルデ自身が、かつてその絶望を味わった。
だからこそ、同じ感情を知る者として同情もする。だが、他人が絶望する瞬間を直に感じ取ると同時に、どうしようもなく自身の抱えた感情が慰められている気がするのだ。
深い睡眠をとった後のように、魂が癒やされる。
誰かの不幸を喜んでいる自覚は無い。ただ、心地良いのだ。
フルーフの魔導具があれば、その快楽は容易に得られた。
そこから、ミリアルデは無自覚にとんでもない悪女へと変貌を遂げていった。
彼女の容姿は控えめに言ってもかなり整っており、少女らしい外見に見合わないミステリアスで大人びた目元、更にはエルフということもあり、街に出れば老若男女がその美貌に釘付けになる程だ。
更にここに感情を読み取れるフルーフの魔導具が加われば、まさしく無双状態だった。
男女関係なく喜ぶ仕草をピンポイントで放ち、とにかく人間を悩殺しまくった。
ある時はソリテールの教育機関へと赴き子供たちへ性癖を植え付け。
ある時は街の警備も兼任する戦士の詰め所に訪れ一人ずつ着実に堕としていき。
街中では同性相手に路地裏で壁ドンをかましながら面の良さでゴリ押ししたりなど、やりたい放題である。
そして最後には、思わせぶりな態度で期待を膨らませるだけ膨らませておいて、告白してきた相手を振り、その絶望を肴に酒を楽しむのが日課となっていた。
ちなみに、こんなことをしておいて男女の関係だとか生殖のあれこれなどは一切頭に無い。
ミリアルデにとっては全てが純粋な気晴らしでしかなかった。
そうして彼女は、多種多様な人々が集まるこの街で、今日も人生を掛けた何かが台無しになる瞬間を待ちわびて暮らしている。
――と、ミリアルデはそんな事実を会議室で長々と語った。誤解だと言わんばかりに、さも自分は何も悪いことはしていないかのような口ぶりで。
「え……それって、つまり……」
思わせぶりな態度を取って、告白してきたら振る、とんでもないクズ女ってことですか……?
――とは、流石に言えない。
目の前のこのエルフ、周囲の人間や魔族と余りに認識がかけ離れすぎている。
「そう。彼らは私の気晴らしに付き合ってくれただけ。この報告書には嘘しか書かれていないわ」
いや、"そう"じゃないが。何一つ言葉の先が噛み合っていない。
「そうだったんですね……わ、私はてっきりミリアルデさんがとんでもないク……いえ遊び人になってしまったと誤解してしまいました」
「おい、フルーフ。お前その身内に良い顔するの止めなよ……こいつはクズ」
リーニエはビシッとミリアルデを指差し、堂々とクズ認定する。どうやら魔族から見ても、ミリアルデの性質は相当質が悪いようだ。
「何を言っているの?貴女の意見に意味なんてないわ、フルーフがこう言ってるんだから私に対する噂は事実無根でしょう」
ミリアルデとリーニエの間に、ピリピリとした険悪な空気が流れる。 まるで同意を求めるかのように、ミリアルデが前かがみとなり、妖しく光る流し目をフルーフへと送った。
「エッ!?――ではなく……え?私が決めるんですか?えぇと……取り敢えず悪気が無いみたいなので厳重注意か保留でいいじゃないでしょうか。とんでもない実害に繋がってる訳でもないようですし」
「馬鹿弟子……」
「そういう所は私も好きよ」
なぁなぁで済ませようとするフルーフへと、虫けらでも見下ろすような冷たい視線がリーニエから注がれる。
反対に、ミリアルデは当然と言わんばかりに椅子に深く腰掛け、リラックスした姿勢をとりながら、フルーフへとさり気無くボディータッチをする。
フルーフはこれまでミリアルデに弄ばれた人間達に同情を禁じえなかった。
これはハマる。なんだか食虫植物に誘われるハエになった気分だった。
「最初から、貴女に私を否定する権利はないわ。私に長い人生の目的を見つけて楽しめと言ったのは貴女よ」
「それはそうですが……これはなんか違くないですか?」
「いいえ、私が楽しめるようになんでもすると言ったわ」
「ふぅん……これは、今度こそ浮気かな?」
「違います」
「そう……」
ソリテールがニコッとしながら茶々を入れてくるも、フルーフは即座に否定する。
三者三様の奇妙な感情が渦巻く中、ソリテールは魔導書を開きながら、視線だけをキョロキョロと動かし、その成り行きを面白そうに眺めていた。
その後も二人の仲は険悪なままで、時折リーニエが凶器を投げつけるも、ミリアルデに軽くいなされる。
流石は戦争続きの大陸で千年以上も無傷で生き抜いているだけはあり、迫りくる凶器を難なく防御魔法で弾き返し、その流れ弾から周辺の人間まで守っていた。
フルーフは、そんな殺伐とした会議の空気に癒やしを求めるように、机の下でそっと手を伸ばす。
すると、それに気づいたソリテールが、袖の中にフルーフの手を誘い、その掌を優しく、にぎにぎと握ってくれる。
絹の袖の滑らかさと、ソリテールの冷たくも心地よい指先の感触が、フルーフの心を落ち着かせた。
フルーフは、それだけで元気百倍と言った様子で満面の笑みを浮かべると、会議を一気に進めていった。
現状、街の位置は北側諸国から離れた北部高原に存在するため、実質どこにも属していない状況だ。
なんだかノリだけで領主を名乗っているが、勝手に名乗っているだけで、そこらの山賊の集まりと何ら変わりない。
こればかりは、いくら貴族を脅してもどうしようもないらしい。
幸い、流通はノルム商会がおり、海に面していることもあって海路での交易も問題はない。
食料も自給自足出来るため、現状維持で問題無し、という方向で話はついた。
そうして次々と議題を消化させ、最後の議題も終わらせたところで、会議は無事終了した。
全員が席を立ち、部屋を出ていこうとする。
しかし、フルーフは「待った」を掛け、どこか落ち着きのない様子で再び全員を着席させた。
「み、皆さん、お、おぉ、ぉ、落ちついていて、き、聞いて下さい」
「お前が落ち着け」
「じ、実はぁ……えぇ……結婚式の後、そのぉ……えっっと」
「どうしたのフルーフ。汗が凄いわ」
「む、娘から手紙が来ましてぇ」
ガタッ!と、会議室に集まった全員から、動揺した様子が伝わってくる。
椅子が床を擦る音、息を呑む気配、ペンが机に落ちる乾いた音――静まり返っていた空間に、にわかに緊張が走った。
そんな中、ソリテールだけが落ち着いた様子で口を開いた。
「ふふ……理解したわ……浮気ね?」
「違います」