ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第22話▶閑話▶ミリアルデHISTORY

 

 

 

 

北の果て、文明の灯火がまだ届かぬ原生林の奥深く。

 

 

数千年、あるいはそれ以上の時を刻んできた巨木たちが、天を覆い隠すように枝葉を広げている。

風が吹けば、葉擦れの音が波のように押し寄せ、また引いていく。

木漏れ日が苔むした地面に斑模様を描き、どこからか湿った土の匂いが漂ってくる。

 

 

その森の深奥にある苔むした大岩の上に、一人のエルフが腰掛けていた。

 

 

名を、ミリアルデ。

 

 

少女のように華奢な肢体。透き通るような白い肌。

そして、長く尖った耳。彼女はただそこにいた。

座禅を組むわけでもなく、瞑想をするわけでもない。

だらりと足を投げ出し、焦点の定まらない瞳で、虚空の一点を凝視している。

 

 

一時間。二時間。半日。

 

 

日が傾き、木漏れ日の角度が変わっても、彼女はピクリとも動かなかった。まるで風景の一部、あるいは精巧に作られた彫像のように、静止している。呼吸は極限まで浅く、心臓の鼓動すら、必要最低限のリズムを刻むのみ。

 

退屈だった。

 

舌の上で言葉を転がすことすら、もう何百年も前に飽きていた。

 

鳥が肩に止まり、彼女を木の一部だと勘違いして囀り始める。小さな爪が服の繊維を掴む感触。羽ばたきが起こすかすかな風。ミリアルデはゆっくりと首を巡らせ、その鳥を見た。

 

何も感じない。

 

可愛いとも、煩いとも思わない。

鳥の囀りは確かに鼓膜を震わせているが、それは「音」として認識されるだけで、美しいとも不快とも感じられなかった。

風が頬を撫でる。冷たいという情報が脳を通過し、それで終わりだ。

世界は確かに存在している。色も、音も、温度も。けれど、それらは彼女の内側に何の波紋も起こさない。水面に落ちた石が、波を立てることなく沈んでいくように。

 

 

「……あぁ」

 

 

不意に、彼女の唇から吐息のような言葉が漏れた。

それは意味のある言葉ではなく、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出すための音に過ぎなかった。

 

 

彼女はエルフだ。

人類という種族のカテゴリに属しながらも、その寿命は他の種族とは桁が違う。

百年が瞬きのように過ぎ、千年が一夜の夢のように流れていく。

そんな悠久の時を生きる彼女たちにとって、「退屈」とは隣人であり、影であり、逃れられぬ呪いのようなもの。

 

 

だが、ミリアルデの纏う空気は、同胞たちのそれとは質が異なっていた。

 

 

多くのエルフは、長い生を持て余しながらも、何かしらの趣味や探求に時間を費やす。

魔法の研鑽、芸術の追求、あるいは世界の観測。

けれど、彼女にはそれがない。喜びも、悲しみも、怒りも。あるのはただ、底なしの虚無だけ。

 

 

かつて、彼女にも情熱があった。

 

 

心臓が早鐘を打ち、瞳が希望に輝き、寝食を忘れて何かに没頭した日々。

あの頃の自分は、今の自分とは別人のようにすら思える。

 

 

かつてのミリアルデは、ある一つの答えを追い求めていた。

それは伝説に語られる秘宝だったかもしれない。失われた古代魔法の真髄だったかもしれない。あるいは、この世界の理を覆すような真理だったのかもしれない。

 

 

今の彼女にとって、それが具体的に何であったかなど、もはやどうでもいいことだった。

 

 

ただ確かなことは、彼女がその「何か」に、人生のすべてを懸けたということだ。

 

 

百年、二百年ではない。人間の歴史が幾度も塗り替わるほどの、気の遠くなるような歳月。

大陸を横断し、秘境を踏破し、幾多の危険を乗り越え、膨大な知識を貪った。

凍てつく山脈の頂で吹雪に耐え、灼熱の砂漠で渇きに喘ぎ、魔物の巣窟で何度も死にかけた。

その過程で得た経験、磨き上げた魔法技術は、大魔法使いと呼べる領域に達していた。

 

 

すべては、その「何か」を手に入れるため。

 

 

それが手に入れば、世界は変わると信じていた。

自分の生に、確固たる意味が生まれると信じていた。

 

 

そして、彼女は辿り着いた。

 

 

世界の果てか、深淵の底か。

幾重もの試練を乗り越え、最後の扉を開けた時。

彼女はついに、追い求めたそれを手にした。

 

 

――ゴミだった。

 

 

比喩ではない。文字通りの、何の価値もない、ただのゴミだった。

道端に転がる石ころの方が、まだ価値を見いだせる。

そんな、救いようのない「無価値」が、彼女の旅の終着点だった。

 

 

その瞬間、ミリアルデの中で何かが音を立てて砕け散った。

 

 

絶望ですらなかった。怒りでもなかった。ただ、色が消えた。

世界から色彩が失われ、全てが灰色の濃淡だけで構成されるようになった。

 

 

彼女が積み上げてきた努力、費やしてきた時間、乗り越えてきた苦難。

そのすべてが、天秤の片側に載せられ、もう片側に載せられた「ゴミ」と釣り合った。

いや、釣り合ってしまった。

 

 

「意味なんてない」

 

 

彼女は悟った。あるいは、諦めた。

 

 

人生を懸けて追い求めたものが無価値だったなら、その人生そのものもまた、無価値であると。

情熱は徒労であり、希望は欺瞞であり、努力は滑稽な踊りに過ぎない。

 

 

それ以来、ミリアルデは立ち止まった。

歩く理由を失い、生きる目的を喪失し、ただ惰性だけで呼吸を続ける、虚ろな器となった。

 

 

鳥が飛び去った。

 

 

枝が揺れ、一枚の葉が落ちる。

ミリアルデは、その葉が地面に落ちるまでの数秒間を、ただぼんやりと目で追った。

葉は苔の上に着地し、微かな音すら立てなかった。

 

 

「……」

 

 

彼女は立ち上がった。

別に、何か用事があるわけではない。

座っていることにすら飽きただけだ。

彼女は杖を手に取り、あてどもなく歩き出した。行き先などない。この世界に、彼女が行くべき場所など、どこにもないのだから。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

季節は巡り、ミリアルデは北へ、さらに北へと歩を進めていた。

 

 

目的地などない旅路だ。

ただ足が向くまま、風が吹くままに。草原を抜け、川を渡り、山を越える。

その全てが記憶に残らない。景色が変わっても、彼女の内側は何も変わらなかった。

 

 

そうして彼女が辿り着いたのは、北部高原のビーア地方と呼ばれる一帯だった。

 

 

ここは、険しい北部高原において、奇跡的とも言える広大な平野が広がる場所だ。

短い夏の日差しをいっぱいに浴びて育つ麦は黄金色に輝き、風が吹けば大地そのものがうねるような豊かさを見せる。

 

北部高原唯一の穀倉地帯。それがこの地の二つ名だった。

そして、豊かな穀物は豊かな酒を生む。ビーア地方は古くから酒造りが盛んな土地としても知られていた。

 

 

ミリアルデがこの地を訪れた時、そこはかつてないほどの喧騒と熱気に包まれていた。

 

 

大陸の大半を支配下に置いた「大帝国」。

その新たな皇帝の即位を祝う祝典が、帝国の版図全てで執り行われていたのだ。

街道には帝国の紋章が染め抜かれた旗がはためき、広場では楽団が勇壮な曲を奏でている。

太鼓の音が腹の底に響き、トランペットの高音が青空に突き抜けていく。

 

 

「皇帝陛下万歳!」

 

「帝国の栄光に乾杯!」

 

 

人々はジョッキを掲げ、声を張り上げていた。

彼らの手にあるのは、この即位式のために帝国全土に振る舞われたという祝いの酒だ。

貴族から平民、果ては路地裏の乞食に至るまで、あまねく民草に行き渡るようにと、皇帝の威信をかけて放出された大量の酒。

 

 

ミリアルデは、その狂騒を冷めた目で見つめながら、一軒の酒場に足を運んだ。

 

 

扉を開けた瞬間、むせ返るような熱気と酒精の匂いが押し寄せてきた。

店内は芋の子を洗うような混雑ぶりだ。誰も彼もが顔を赤らめ、大声で笑い、歌い、そして飲んでいる。テーブルの上には食べかけの料理が散乱し、床には零れた酒が染みを作っている。

 

 

「そこのエルフの姉ちゃんも、どうだい! 今日はめでたい日だ、皇帝陛下のおごりだぜ!」

 

 

酔っ払いの男が、なみなみと注がれた木製のジョッキをミリアルデに突き出してきた。赤ら顔で、息が酒臭い。だが、その目には屈託のない善意が浮かんでいる。

 

 

断る理由もない。ミリアルデは無言でそれを受け取った。

 

 

液体は薄く濁った琥珀色をしている。

香りは酸っぱい。発酵しすぎた果実のような、ツンと鼻をつく刺激臭が混じっている。彼女は一口、その液体を口に含んだ。

 

 

「……」

 

 

眉が、わずかに寄る。

 

 

――不味い。

 

 

酸味が強すぎて舌が痺れるようだ。

コクもなければ深みもない。ただアルコールが入っているだけの、粗悪な液体。

水で薄めた酢に、腐りかけの果実を放り込んで無理やり発酵させたような味がする。

 

 

「酷い味ね」

 

 

彼女がぽつりと漏らすと、酒を勧めた男が苦笑いを浮かべた。

 

 

「ははっ、違いねぇ! 正直言ってゲロ不味い。だがまぁ、タダ酒だしな! 質より量ってやつよ!」

 

 

男たちは不味さを笑い飛ばし、再び喉を鳴らして飲み干していく。

彼らにとって重要なのは「味」ではない。「皇帝が配った」という事実と、「タダで酔える」という現象だけなのだ。

 

 

ミリアルデは手元のジョッキを見つめた。

権力者が己の力を誇示するためにばら撒いた、最低ランクの安酒。

それを有難がって飲み、不味いと陰口を叩きながらも、熱狂に身を任せる人々。

 

 

あれほど気軽に楽しめることを、純粋に羨ましいと思う。

 

 

ふと、店主と客の会話が耳に入ってきた。

 

 

「しかし、これだけ大量の酒、よく用意できたもんだ」

 

「何でも、即位式に合わせて近隣の醸造所から根こそぎ買い上げたらしいぜ。質なんて二の次で、とにかく数を揃えろって、お達しだったそうだ」

 

「おかげで倉庫はこの『皇帝酒(ボースハフト)』で溢れ返ってるよ。配っても配っても減りゃあしねぇ」

 

「余ったらどうすんだ?」

 

「さあな。捨てちまうのも勿体ねぇし、かといって売れるような代物でもねぇ」

 

 

ミリアルデの意識が、わずかに引っかかった。

 

 

余るほどの、大量の安酒。

皇帝の名を冠した、不味い酒。誰もが価値がないと知っている、ただの液体。

 

 

彼女の脳裏に、自分自身が体験した「ゴミ」の記憶がよぎった。

人生を懸けて追い求めたものが無価値だったと知った、あの瞬間。

 

 

そして、不意に思った。

 

 

もし誰かが、この不味い酒を「伝説の名酒」だと信じ込み、人生を懸けて探し求めたとしたら。

そして、ついに手に入れた瞬間、その正体を知ったとしたら。

 

 

ミリアルデの指先が、わずかに震えた。

 

 

自分でも気づかぬうちに、彼女は酒場の喧騒から意識を切り離していた。

脳裏に浮かぶのは、見知らぬ誰かの姿だ。百年後か、二百年後か。その誰かは歓喜に震えながら、ついに見つけた「伝説の名酒」を口に含む。

そして、その顔が――期待から困惑へ、困惑から絶望へと崩れていく。

 

 

胸の奥で、何かが疼いた。

 

 

それは悪意と呼ぶには淡く、計画と呼ぶには杜撰な、ただの衝動だった。

けれど、あの日――人生を懸けた探求の果てに「ゴミ」を掴まされた、あの瞬間。誰にも理解されることなく、一人で抱え続けてきた虚しさ。それを、誰かと分かち合えるかもしれない。

 

 

時空を超えて、その誰かと自分は繋がるのではないか。

「貴方もまた、無意味なものを追いかけたのね」と、心の中で語りかけることができるのではないか。

 

 

それは、あまりにも屈折した、あまりにも冷たい、仲間意識。

他人の不幸を作り出すことでしか癒やされない、精神の病。

 

 

「……その余ったお酒、貰ってあげてもいいわよ」

 

 

ミリアルデは席を立ち、カウンターの店主に向かって声をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

それからの数週間、ミリアルデの行動は奇妙な活気に満ちていた。

 

 

彼女はビーア地方のあちこちを回り、余って処分に困っていた「皇帝酒」を買い集めた。

いや、買うまでもない。ほとんどの場合、人々は厄介払いができたと喜んで、タダ同然で彼女に酒樽を譲り渡した。

 

 

「持っていってくれるのかい? こいつは助かる、倉庫が空くよ」

 

「好きなだけ持っていきな。どうせ捨てるところだったんだ」

 

 

感謝の言葉と共に、次々と酒樽が彼女の手に渡っていく。

その量は、やがて一人で運べる限界を遥かに超えた。

 

 

彼女は集めた大量の酒樽を、魔法で移動させ、人里離れた山奥へと運んでいった。

地面が蠢き、樽が列を成して森の中を進んでいく。もし誰かが見ていたなら、さぞ奇妙な光景に映っただろう。

 

 

そこには、古い坑道があった。

かつては鉱石を掘り出していたようだが、今は放棄され、人々に忘れ去られた場所だ。

入口は蔦に覆われ、朽ちた木の支柱が傾いでいる。

 

 

ミリアルデは、その坑道の最奥部に「石室」を作り上げた。

 

 

土魔法が岩を削り、床を均し、壁を整える。

ゴツゴツした岩肌が、彼女の魔力を受けて滑らかな石壁へと変貌していく。そこに木製の棚をいくつも作り出し、運んできた酒樽から、中身を瓶へと移し替えていった。

 

 

一本、また一本。

 

 

単調な作業が延々と続く。

だが、彼女の手は止まらなかった。

それが数百本以上並ぶ様は、壮観と言えなくもなかった。薄暗い石室の中で、酒瓶が松明の灯りを反射して鈍く輝いている。

 

 

彼女は石室の入り口に巨大な石の扉を作り、そこに魔法を施していった。

 

 

中の状態を保存することに特化した結界。中の空気を淀ませず、温度と湿度を一定に保ち、酒が腐敗することを防ぐ。そして、物理的な衝撃や経年劣化に対して、異常なまでの頑丈さを誇る結界。

 

 

術式を編み上げる指先は、久しく忘れていた確かさで動いていた。

 

 

人間の魔法使いでは解読するのに一生を費やすかもしれない。

結界の専門家である大魔法使いですら、解除には数ヶ月を要するだろう。

それほどの労力を、彼女は惜しみなく注ぎ込んだ。

 

 

守るべきものが、ただの不味い安酒であるにも関わらず。

 

 

彼女は石室の手前にある空間の壁に向き直った。

岩肌に文字を刻み込んでいく。

使う言語は、魔法使いでなくては、ほとんど解読不可能な「古エルフ語」。

 

 

『偉大なる皇帝に捧ぐ。この奥に眠るは、至高の美酒。神々の蜜の如き甘露なり。その名は、皇帝酒(ボースハフト))。選ばれし者のみが、その芳醇なる香りに酔いしれるであろう』

 

 

一文字、また一文字。

彫刻刀のように鋭く研ぎ澄まされた魔力が、岩に深い溝を刻んでいく。

 

 

刻み込まれた文字は、美しく、そしてもっともらしく見えた。

 

 

だが――嘘だ。

 

 

徹頭徹尾、まごうことなき大嘘だ。

 

 

彫り終えた碑文を眺め、ミリアルデは無表情のまま、小さく息を吐いた。

 

 

「これでいいわ」

 

 

満足感はない。ただ、作業が終わったという事実があるだけだ。

 

 

彼女は坑道を戻り、帰り道で時折魔法を放ち、坑道の天井を崩落させた。

轟音と共に岩が崩れ落ち、土埃が舞い上がる。入口付近まで徹底的に埋め尽くし、そこがかつて坑道であったことすら分からぬよう、地形ごと変えてしまった。

 

 

数十年、数百年では誰の目にも止まらないだろう。

森が再生し、地形が変わり、人々がこの場所の記憶を完全に失った頃。

あるいは、何かの間違いで地面が掘り返された時。ようやく、この「遺跡」は発見される。

 

 

百年後、二百年後、この場所をふと思い出した時に、噂の種、期待の断片、適当な伝承をバラ撒いておけば、いずれは誰かが此処に辿り着くだろう。

 

 

未来の誰かを想像する。

 

 

彼らは歓喜するだろう。

困難な発掘作業を行い、古代の碑文に胸を躍らせ、数ヶ月をかけて結界を解く。

そして、ついに扉が開く。

目の前には、大量の酒。伝説の皇帝酒。震える手で瓶を開け、その香りを嗅ぎ、口に含んだ瞬間。

 

 

彼らの顔が、期待から困惑へ、そして絶望へと変わる様が、ありありと目に浮かんだ。

 

 

「……ふっ」

 

 

ミリアルデの喉から、乾いた音が漏れた。笑い声ではない。肺から空気が抜ける音だ。

 

彼女がこの悪戯を仕掛けた動機は、単純な暇つぶしだ。誰かを陥れたいという明確な悪意があったわけではない。ただ、あまりにも長い時間が余っていたから。手元に大量の不味い酒があったから。それらしい場所があったから。

 

 

だが、心の奥底の、彼女自身すら自覚していない内側で、何かが疼いていた。

 

かつて、自分は無価値なものを求めて彷徨った。

その果てに得た虚しさを、誰にも理解されることなく、一人で抱え続けている。だから、彼女は作ったのだ。

 

自分と同じ場所へ辿り着くための、道標を。

 

 

未来の誰かが、あの扉を開け、絶望を味わった時。

その瞬間、時空を超えて、その誰かと自分は繋がるのではないか。

 

 

「無意味ね」

 

 

彼女は呟き、踵を返した。自分の思考すらも、くだらないと感じた。

明日はまた、退屈な一日が始まるだけだ。

 

 

彼女は歩き出した。

背後に、巨大な嘘を埋葬したまま。

その足取りには、生気も、目的も、やはり何も感じられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

それから、数百年という時が流れた。

 

 

大陸を統一していた大帝国は滅んだ。

栄華を誇った皇帝の血筋は分断、広大な版図は無数の小国へと分裂していった。

やがて魔王が現れ、大陸を蹂躙し、人類は絶望の淵に追いやられた。

そして勇者が立ち上がり、魔王は討伐され、束の間の平和が訪れた。

 

 

人間たちの歴史が幾度も書き換えられる間、ミリアルデは変わらなかった。

 

 

森を歩いた。海を眺めた。山を越えた。

 

 

季節が巡り、年が改まり、世代が入れ替わっても、彼女の足取りは同じだった。

けれど、それらは全て「移動した」という事実でしかなく、記憶に残るような出来事は何一つなかった。

百年が過ぎても、二百年が過ぎても、彼女の内側に何かが芽生えることはなかった。

 

 

ただ、あの坑道に埋めた「悪戯」のことだけが、時折、霧の中の灯火のように思い出された。

 

 

いつか、誰かがあの扉を開けるだろう。

 

 

その「いつか」を待つことだけが、彼女を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。

それすらも、確かな期待ではなく、ぼんやりとした執着に過ぎなかったが。

 

 

彼女は相変わらず、世界を彷徨っていた。

目的はない。ただ、一箇所に留まることに飽きたら移動するだけ。

酒を飲み、空を眺め、人間たちの営みを冷めた目で見下ろす。そんな日々の繰り返し。

 

 

そんなある日。

 

 

彼女は北部高原のとある宿場町で、安酒を煽っていた。

 

 

薄暗い酒場の隅。周囲の喧騒から切り離されたように、彼女の周りだけ空気が淀んでいる。

カウンターに肘をつき、琥珀色の液体が入ったグラスを傾ける。酒精が喉を焼く感覚だけが、かろうじて「生きている」という実感を与えてくれた。

 

 

「あ、もしやミリアルデさんではないですか?」

 

 

不意に、懐かしい声が掛かった。

 

 

顔を上げると、そこには見覚えのある女が立っていた。

かつての薄汚れた放浪者ではない。仕立ての良い服を身に纏い、どこか気力に満ちた顔つきをしている。だが、その瞳の奥にある狂気的な色は、何一つ変わっていなかった。

 

 

「……フルーフ?」

 

 

記憶の底から、薄汚れた放浪者の姿が浮かび上がる。

死にたくても死ねないと嘆きながら、それでも何かを探し続けていた奇妙な人間。

退屈しのぎに数年ほど旅を共にしたが、まさかまだ、生きているとは。

いや、死にたくても死ねないと言っていたのだから、生きていて当然か。

 

 

「久しぶりね。生きていたの」

 

「えぇ、相変わらず死ねませんねぇ。それにしても、全然変わらないですね」

 

「エルフだもの」

 

 

フルーフは当然のようにミリアルデの対面に座り込んだ。

店員を呼び止め、自分の分の酒を注文する。その動作には、かつての放浪者にはなかった余裕が滲んでいた。

 

「貴女こそ、随分と身なりが良くなったじゃない」

 

「えぇ! 実は今、愛しの旦那様と一緒に暮らしているんですよ。新しい街を作ろうとしていて、今は移住してくれる住民を集めている最中なんです」

 

 

フルーフは身を乗り出して語り始めた。

 

 

北部高原の沿岸に街を建設中であること。

今後数千年は面倒を見られること。長寿だからといって変に思われたり、煩わしい思いをすることもないこと。話しながら、フルーフの瞳はキラキラと輝いていた。かつての虚ろな目とは別人のようだ。

 

 

だが、ミリアルデの心は動かなかった。どこに住もうと、何を食べようと、結局は同じだ。

虚しさは消えない。退屈は埋まらない。

 

 

「悪いけど、興味ないわ」

 

 

ミリアルデがグラスの中の氷を指で回しながら答えると、フルーフは残念そうに肩を落とした。

だが、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。

 

 

「一つ質問してもいいですか?」

 

「なに?」

 

「どうしてなんの意味もないと断言しておきながら、碑文に『皇帝酒(ボースハフト)は最上の名酒である』だなんて残したんですか?」

 

「……!」

 

 

ミリアルデの手が、わずかに止まった。

 

 

「あれからミリアルデさんが言ってた通りの場所へ、私も実際に見に行ったんですよ。今はもう坑道が埋まっていて、中までは行けませんでしたが」

 

 

フルーフは続けた。「まぁ、ドワーフの人が頑張って掘っているようで、碑文の実物自体は見れたんですが」

 

 

かつて旅をしていた頃、泥酔したミリアルデがうっかり口走った昔話。それを覚えていて、わざわざ現地まで確認しに行ったのだという。

 

 

「貴女も暇ね」

 

「はは、ですね。今はむしろ大忙しなので、暇が欲しいくらいですよ」

 

 

フルーフは苦笑しながら、グラスを傾けた。

 

 

「あぁ、話が逸れました。あの碑文を作るの、大変だったでしょう……石碑は綺麗に整えられた上で、長々とした文字までビッシリ刻んで。その上、保管場所の扉にはとんでもなく複雑な結界まで施したんでしょう?……とても暇つぶしの作品とは思えませんでした」

 

「そういう気分だっただけ」

 

 

ミリアルデは視線を逸らした。

認めたくなかった。あの時、自分が何を感じていたのかを。

 

 

「数百年前に少しの間一緒に旅をした私が思うに……ミリアルデさん、貴女は無気力で無関心な、どこか悟ったような無欲な抜け殻のような人です。無駄なことは一切しない、そんなエルフです」

 

「間違ってはいないわ。もう何もする気が起きないもの」

 

「そんな貴女が態々あんなものまで作ったことには、きっと意味があるはずです」

 

 

フルーフは真っ直ぐにミリアルデを見つめた。

 

 

「私には見当もつきませんが、きっとこれからの人生を少しでも楽しめるナニか、御自身でも気づかなかった大事なナニかが隠れているかもしれません」

 

「……」

 

 

ミリアルデは沈黙した。

 

 

意味? そんなもの、あるわけがない。

あれは、なんの意味もない、ただの悪趣味な暇つぶしだ。

 

 

だが……――本当にそれだけだったのか?

 

 

彼女は思い出す。

薄暗い坑道の中で、黙々と石を削り、結界を編み上げていたあの日々を。

あの時、彼女は確かに没頭していた。

誰に見せるわけでもない、誰に評価されるわけでもない作業に、全霊を傾けていた。

 

 

なぜ? ただの暇つぶしにしては、あまりにも過剰だった。

 

 

「ですからこれからの長い人生を私達と一緒に楽しみましょう! 私は街でニ番目に偉いので、ミリアルデさんが楽しめるようになんでもしますよ。感じたこともない新しい体験を貴女に提供します」

 

 

フルーフが両手を広げた。

その瞳には、ミリアルデの抱える虚無とは正反対の、充実した気力で溢れていた。

 

 

ミリアルデは、手元のグラスに残った安酒を飲み干した。

喉を焼く感覚。それだけが、今この瞬間、確かに感じられるものだった。

 

 

「……タダで面倒を見てくれるのなら、お世話になるわ」

 

 

言葉が口をついて出た。自分でも驚くほど、自然に。

 

フルーフの顔が、ぱあっと明るくなった。

 

 

「本当ですか! やった、言質とりましたよ!」

 

 

こうして、数年後。

ミリアルデは約束通り、シンビオシスを訪れることになる。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

シンビオシスに居を構えてから数年。

 

ミリアルデの生活は、約束通り何不自由ないものだった。

雨風をしのぐ屋根、柔らかな寝床、そして何より、どれだけ飲んでも尽きることのない美酒。

約束を守り、彼女が望むものは大抵手に入った。

 

 

だが、エルフという種族が抱える根本的な病理、「退屈」だけは、衣食住が満たされた程度では癒やされない。

 

 

波の音を聞き、酒を煽り、ただ流れる雲を眺める日々。

窓から見える港には様々な船が出入りし、街の通りには人々の笑い声が溢れている。

それは平和で、穏やかで、多くの人間にとっては理想的な暮らしだろう。

 

 

けれど、ミリアルデにとっては、かつて森の中で苔むした岩のように座っていた頃と、本質的には何ら変わりがなかった。

 

 

場所が変わっただけ。

 

それだけのことだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

ある日、フルーフがミリアルデの部屋を訪れた。

 

 

窓から差し込む午後の陽光が、埃の粒子をきらきらと照らしている。

ミリアルデはいつものように窓辺の椅子に腰掛け、手元のグラスを傾けていた。昼間から酒を飲む。それがここ数年の日課になっていた。

 

 

「ミリアルデさん、最近どうですか? 退屈で死にそうになってませんか?」

 

 

フルーフは部屋に入るなり、そう尋ねてきた。

その手には、奇妙な小箱が握られている。黒い。ただ黒いのではない。光を吸い込むような、底のない闇を凝縮したかのような黒だ。

 

 

「ええ。あと三百年もすれば、このまま椅子と一体化して家具になれる自信があるわ」

 

「それは困りますね。家具に高いお酒を飲ませる趣味はないので」

 

 

フルーフは苦笑しながら、その黒い小箱をテーブルに置いた。

 

 

「……これ、使ってみませんか?」

 

「何これ」

 

 

ミリアルデは眉を顰めながら、その箱を見つめた。

表面には装飾の一つもなく、ただ漆黒の塊がそこにある。

 

 

「魔導具です。中身は……まぁ、私の眼球とか脳味噌の一部、後、私の魂の一部を加工して、術式を組み込んだものですけど」

 

 

さらりと恐ろしいことを言う。

自分の臓器と魂を原料にするなど、正気の沙汰ではない。

 

 

だが、ミリアルデは眉一つ動かさずにそれを手に取った。

 

 

ずしりと重い。

見た目の小ささからは想像できないほどの質量が、掌にのしかかる。

そして、微かに温かい。まるで生きている心臓のようだった。脈打つような振動が、指先から伝わってくる。

 

「この街の住民の魂には、ある種の『楔』が打ち込まれています。この箱は、その楔と連動しているんです。これを使えば、対象が何を考え、どのような感情を抱いているのか……一方的に、かつ鮮明に覗き見ることができます」

 

「悪趣味ね」

 

「ひどい。ですが、長寿のエルフでも、他人の感情を直接知覚したことはないでしょう? 案外最高の暇つぶしになるかもしれませんよ」

 

 

フルーフは立ち上がり、窓の外を見やった。

港に停泊する船、行き交う人々、賑やかな市場。その全てが、この小さな箱を通せば丸裸になる。

 

 

「最後に、気が向いた時にでもコレを使って仕事をしてみて欲しいんです」

 

 

それだけ言うと、フルーフは部屋を出ていった。

肝心の仕事の内容については、何も言わないまま。相変わらず抜けている。

 

 

残されたミリアルデは、黒い箱を見つめた。

 

 

他人の心を覗く。そんなことに興味はなかった。

他人の浅ましい欲望を知ったところで、楽しめるとは思わない。

千年以上生きてきて、人間の愚かさなど嫌というほど見てきた。今更、それを直接知覚したところで何が変わるというのか。

 

 

だが、その箱を手にした瞬間、彼女の心の奥底で、何かが冷たく蠢いた。

 

 

――暇つぶしついでに、危ない思想の人間を見つけたら、報告すればいいかしら。

 

 

恐らく、「仕事」とは、その程度のものだろう。

フルーフのことだ、特に深い意味はないに違いない。

 

 

彼女は箱を持って街へ出た。

 

 

午後の陽光が石畳を照らし、潮風が髪を揺らす。

通りを行き交う人々。商人、職人、船乗り、子供たち。誰もが自分の人生を歩んでいる。

 

 

箱を通して伝わってくるのは、彼らの取るに足らない日常の感情だ。

 

 

「今日の夕飯は何にしよう」「仕事がだるい」「あの子が好きだ」「早く家に帰りたい」「腹が減った」

 

 

雑多な騒音。濁流のように押し寄せる、無数の小さな感情の断片。

 

やはり、退屈だ。

 

人間の内面など、覗いてみたところでこの程度のものだ。

期待した自分が馬鹿だった。ミリアルデは箱を懐にしまおうとした。

 

 

しかし、そのノイズの中に、一つだけ異質な熱を帯びた感情があった。

 

 

焦がれるような「憧れ」。盲目的な「探求心」。

他の全てを犠牲にしても構わないという、狂気じみた一途さ。

 

 

ミリアルデの足が止まった。

 

 

その感情の発信源を探る。

路地を曲がり、人混みをかき分け、やがて一軒の酒場に辿り着いた。

 

 

薄暗い店内の片隅で、一人の男が熱っぽく語っていた。

 

 

「俺は必ず見つけてみせる。皇帝酒(ボースハフト)を」

 

 

中年の男だ。

日に焼けた肌、節くれだった指、擦り切れた旅装束。

長い放浪の跡が、その風貌に刻まれている。

 

 

「あの伝説の名酒さえ手に入れれば、俺の人生は変わるんだ。三十年……三十年探し続けてきた。もう少しなんだ、もう少しで辿り着ける」

 

 

同席している男たちは、半ば呆れたような、半ば哀れむような目で彼を見ていた。

だが、当の本人はそんな視線など気にも留めない。

 

 

ミリアルデは、その男の魂から溢れ出す感情を、黒い箱を通じて味わっていた。

 

 

純粋な、混じりけのない執着。

人生の全てを一つの夢に捧げてきた者だけが持つ、狂おしいほどの渇望。

 

 

「あぁ」

 

 

ミリアルデの口元が、わずかに歪んだ。

 

 

――いた。

 

 

ここにいた。

 

 

かつての自分と同じ、「無意味なもの」に人生を捧げようとしている人間が。

 

 

その瞬間、彼女の中で明確な「欲望」が胸をくすぶった。

 

 

知りたい。見てみたい。彼が、その人生の全てを懸けた夢の正体を知った時。それが「ゴミ」だと突きつけられた時。その魂は、どのような色に染まるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

それからは早かった。

 

 

ミリアルデは一度街を出て、別の場所に保管していた皇帝酒の小瓶を一本だけ回収してきた。

あの坑道とは別に、手元に残しておいた予備だ。

中身は当時のままだ。不味く、酸っぱく、何の価値もない液体。

 

 

彼女は街に戻り、その男――名をガストンという者に声をかけた。

 

 

「貴方、皇帝酒(ボースハフト)を探しているの?」

 

 

ガストンは目を輝かせて振り返った。

 

 

「あぁ! アンタ、何か知ってるのか!?」

 

 

その瞳には、三十年分の渇望が凝縮されていた。

箱を通さずとも、その熱量は伝わってくる。

 

 

「えぇ。これよ」

 

 

彼女は小瓶をテーブルに置いた。何の変哲もない、ラベルすらないガラス瓶。だが、ガストンはそれを宝物のように凝視した。

 

 

「これが……伝説の……?」

 

 

声が震えている。箱を通じて伝わってくる感情は、期待と興奮で沸騰していた。

三十年間、夢にまで見た瞬間が、今まさに訪れようとしている。

 

 

「飲んでみなさい」

 

 

促され、ガストンは震える手で栓を抜いた。

 

 

コルクが抜ける小さな音。漂うのは、饐えたような酸っぱい臭い。

腐りかけた果実と、発酵しすぎた酒精の混じった、不快な刺激臭。

 

 

だが、彼はそれを「芳醇な熟成香」だと脳内で変換し、陶然とした表情で口に含んだ。

 

三十年の夢が、今、叶う。

 

――瞬間。

 

 

彼の顔が、檸檬を齧ったかのように歪んだ。

 

 

「……っ!?」

 

「どう? 美味しい?」

 

 

ミリアルデは無表情のまま尋ねた。

 

ガストンは咳き込み、涙目で瓶とミリアルデを交互に見た。口の中に広がる酸味と腐敗臭。舌を痺れさせる刺激。これが、伝説の名酒?

 

 

「な、なんだこれは……腐ってるのか!? いや、これが皇帝酒(ボースハフト)なわけがないだろう!」

 

「偽物じゃないわ」

 

 

ミリアルデは懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。

 

それは古びて変色していたが、そこに押された紋章は鮮明に残っていた。かつての大帝国の国章。そして、物資買い上げの証明印。数百年の時を経てなお、その権威は色褪せていない。

 

 

「これは当時、私がその酒を買い取った時の受領証よ。日付を見て。即位式の直後。品目は『祝典用余剰酒類』。銘柄の欄にはっきりと『皇帝酒(ボースハフト)』と記されているでしょう?」

 

 

ガストンは震える手で羊皮紙を凝視した。

 

古文書の知識を身に着けていた彼には、その筆跡や紋章が当時のものであることが嫌というほど分かってしまった。

インクの褪せ方、羊皮紙の劣化具合、押印の形式。全てが、本物であることを証明している。

 

 

「そ、そんな……」

 

「貴方は伝承の表面しか見ていないわ」

 

 

ミリアルデは淡々と、しかし容赦なく事実を突きつけた。

 

 

「『皇帝酒(ボースハフト)』という仰々しい名前がついているけれど、要するにそれは『即位式の記念品』よ。皇帝は即位の日、全領土の民に酒を振る舞ったわ。貴族から平民、奴隷に至るまで、何十万人という人間にね。少し考えれば分かることよ。そんな量の酒を、全て極上の酒で賄えると思う?」

 

 

ガストンの顔色が、土気色に変わっていく。

 

 

「質より量。とにかく数を揃えるために、帝国中の醸造所から発酵不足の果実酒や、酢になりかけの失敗作まで根こそぎかき集めて、皇帝のラベルを貼っただけ。それが『皇帝酒(ボースハフト)』の正体」

 

 

夢も希望もない、ただの現実。

特別な秘法で作られたわけでも、選ばれた職人が醸したわけでもない。

ただの「大量生産された記念配布品」。

 

 

ガストンの膝が、乾いた音を立てて床板にぶつかった。

 

彼は両手で頭を抱え、テーブルに額を打ちつけるように突っ伏した。

 

 

「そ、そんな……じゃあ、俺は……俺の三十年は……」

 

 

その瞬間、ミリアルデの握りしめた黒い箱が、激しく脈打った。

 

伝わってくる。彼の魂から溢れ出す、灼けるような熱。

それは怒りではなかった。信じていた世界が足元から崩れ落ちる感覚。

自分が愚かな道化であったと知った瞬間の、身を焼くような羞恥。そして、その奥底に広がる、底なしの虚無。

 

 

三十年という歳月が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

家族を犠牲にし、財産を費やし、人生の全てを捧げた夢。

それが、ただの産業廃棄物同然の代物だったという現実。

 

 

ミリアルデの背筋を、電流のような痺れが駆け抜けた。

 

 

――これだ。

 

 

これこそが、彼女がかつて味わった絶望の味。

他人の不幸を嘲笑う下卑た快感ではない。もっと深く、静かで、暗い共鳴。

 

 

彼女は見たのだ。ガストンの姿に、かつての自分を。

無価値なものを掴まされ、立ち尽くしていた、あの日の自分を。

 

 

その絶望の味は格別だった。

箱を通して伝わってくる、砕け散る魂の残響。

積み上げてきた全てが崩壊していく音。

それは、どんな美酒よりも芳醇で、どんな珍味よりも深い味わいを持っていた。

 

 

ミリアルデは目を細め、その感情の色を堪能した。

 

 

「……辛いわよね」

 

 

ミリアルデは、そっとガストンの背中に手を置いた。

その声は、驚くほど優しく、慈愛に満ちていた。

演技ではない。彼女は本心から、彼の痛みを理解していたのだ。彼と同じ傷を持つ者として。

 

 

「貴方は何も悪くないわ。ただ、当時の熱狂を知らない後世の人間が、勝手に尾ひれをつけて伝説にしてしまっただけ。……でもね、ガストン。これで終わりじゃないのよ」

 

 

彼女は箱を通して、彼が今一番欲しい言葉を選び出す。

砕け散った魂の破片を、一つ一つ拾い上げるように。

 

 

「貴方が費やした時間は、無駄じゃなかった。貴方は真実に辿り着いたの。他の誰もが知らなかった、皇帝酒の味と正体を突き止めた。それは、貴方の執念が勝ち取った結果よ」

 

「……結果……?」

 

「えぇ。貴方は夢から覚めたの。残酷な目覚めかもしれないけれど……これで貴方は自由よ。もう、存在しない幻影を追いかける必要はないわ」

 

 

ガストンが顔を上げた。

涙で濡れた瞳で、ミリアルデを見る。そこには、恨みや怒りの色はなかった。

あるのは、深い悲しみと、そして彼女への縋るような信頼だった。

 

 

「自由……そうか、俺はもう、探さなくていいのか……」

 

「そうよ。この不味い酒を飲み干して、全部忘れなさい。明日はきっと、今日よりマシな酒が飲めるわ」

 

 

ガストンは奇妙な開放感と共に泣きながら、その不味い酒を飲み干した。

そして、ミリアルデに何度も礼を言い、ふらふらと店を出ていった。

 

 

その背中は小さく丸まっていたが、憑き物が落ちたように、どこか安らかでもあった。

 

 

店に残ったミリアルデは、自分用のグラスに高級なワインを注いだ。

琥珀色の液体が、ランプの灯りを受けて輝く。

 

 

一口飲む。

 

 

芳醇な香りが鼻腔を満たし、深いコクが舌の上で転がる。

 

 

美味しい。

 

 

そして、愉悦が、旨い。

 

 

「……ふぅ」

 

 

ため息をつく。彼女の胸の中には、奇妙な充足感があった。

 

かつての自分が味わった孤独な虚無。

それを、他人に再現させ、共有し、慰める。

まるで自分自身が慰められたような感覚を、じっくりと……時間をかけて味わい尽くす。

 

 

彼女は黒い箱を愛おしそうに撫でた。

 

 

――これはいい。

 

単純な暴力や魔法では得られない、魂の深淵に触れる感触。

人が必死に積み上げた積み木を、指先一つで崩す瞬間の儚さと、その後に残る空虚な美しさ。

 

 

「次は、誰にしようかしら」

 

 

ミリアルデの瞳が、妖しく、蠱惑的に細められた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

それからのミリアルデの変貌ぶりは、周囲を驚かせた。

 

 

無気力で、いつも眠たげな目をしていたエルフが、まるで別人のように精力的になったのだ。

朝から街を歩き回り、酒場に顔を出し、市場で商人と言葉を交わす。

かつては部屋に籠もって酒を煽るだけだった彼女が、今では街の隅々にまで足を運ぶようになっていた。

 

 

彼女は、自らの容姿と立場、そしてフルーフ特製の魔導具を最大限に利用し始めた。

 

 

エルフ特有の、年齢不詳の美貌。透き通るような白い肌と、長く尖った耳。ミステリアスで、どこか憂いを帯びた大人びた瞳。

そして、相手が一番言って欲しい言葉を、一番適切なタイミングで囁く話術。

 

 

黒い箱は、彼女に他者の内面を読む力を与えた。

それは、言葉にならない欲望、隠された恐怖、秘めた野心。

人間が必死に隠そうとするものほど、鮮明に伝えてくる。

 

 

彼女は「心理調査」という名目で、街のあらゆる場所に顔を出した。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

ある晩のこと。

 

 

ミリアルデは街の倉庫街を歩いていた。

 

 

潮の香りが漂う夜の港。

積み上げられた木箱の影が、月明かりに長く伸びている。

人通りはほとんどなく、時折、夜警の足音が遠くから聞こえてくるだけだ。

 

 

左に曲がり、右に折れ、やがて一軒の事務所に辿り着いた。

 

 

灯りが漏れている。

中から聞こえるのは、押し殺した笑い声と、硬貨を数える音。

 

 

「これで大金持ちだ。この街の連中はチョロいぜ」

 

 

他国から流れてきた商人だった。

彼は周到に準備を進め、帳簿をごまかし、協力者を買収し、街の金を横領しようとしていた。

計画は完璧に見えた。最後の一線を越えようとした、まさにその夜。

 

ミリアルデは扉を開け、優雅に微笑んだ。

 

 

「こんばんは。乾杯しましょうか?」

 

 

商人は狼狽えた。

椅子から立ち上がり、机の上に広げていた書類を慌てて隠そうとする。

 

 

「な、何だアンタ……! 勝手に入ってくるな!」

 

「何に乾杯するかって?」

 

 

ミリアルデは一歩、また一歩と近づいていく。

月明かりが窓から差し込み、彼女の銀髪を青白く照らしている。

 

 

「貴方の、完璧な計画の……『失敗』に」

 

 

ミリアルデは、懐から書類の束を取り出した。

 

 

それは、商人が隠蔽したはずの裏帳簿の写し、買収の証拠、そして彼の計画の全てが記された報告書だった。一枚一枚、丁寧に揃えられた紙束が、ランプの灯りに照らされて白く光っている。

 

 

「ど、どうしてこれを……!?」

 

「全部見ていたもの。貴方が必死に小銭を隠している姿をね」

 

 

彼女は、彼が計画を練り始めた最初期から、ずっと監視していた。

協力者との密会、帳簿の改竄、買収資金の流れ。その全てを、黒い箱を通じて追跡していた。

 

 

そして、彼が「成功した」と確信し、絶頂に達するその瞬間まで、あえて泳がせていた。

 

 

一番高いところから突き落とすために。

 

 

「な、なんだよそれ……じゃあ、俺が今までやってきたことは……全部、お前の掌の上だったのかよ……!?」

 

「そうね。絶頂に登っていく魂は見ていて楽しかったわ、それを突き崩すのを想像すれば、尚の事ね」

 

 

商人は膝から崩れ落ちた。

 

 

金への執着、成功への渇望、それら全てが、底知れぬ虚無と絶望へと変わっていく。

必死に積み上げてきた砂の城が、波に攫われていく。

 

 

その絶望の味は格別だった。

箱を通して伝わってくる、砕け散る野望の残響。

ミリアルデは目を細め、その感情の色を堪能した。

 

 

ミリアルデは犯人が目の前にいるにも関わらず、懐から取り出した小瓶からグラスに酒を注ぎ、相手を見下ろしながらグラスを傾ける。

心底美味しそうにゴクゴクと喉を鳴らし、酒を飲み干す。

 

 

――お酒が、美味しい。

 

 

溢れ出し、伝わる感情。

絶頂の瞬間から、全てが崩れ落ちた絶品の酒のツマミ。

それを己の魂で味わいながら、酒を飲み干す。控えめに言って最高だった。

 

 

その後、ミリアルデが事前に通報していたのか、フルーフが扉を蹴破り、街を守る警備兵達が流れ込んでくる。

 

 

メソメソ泣く犯人と、その眼の前で酒を呷りまくるエルフ。

 

フルーフと警備兵達は一瞬脳がフリーズした。どっちが犯人だ? と。

 

その後は、ミリアルデが証拠を提出し、事件は無事収束を迎えた。

 

こうした摘発は、一度や二度ではなかった。

 

ミリアルデは「心理調査委員会」の名のもと、街に紛れ込んだ不正の芽を次々と摘み取っていった。

 

 

密輸を企てる商人。横領を画策する役人。詐欺を働こうとする旅人。彼らの計画が熟し、成功を確信したその瞬間に、彼女は現れる。

 

 

彼女の動機は、あくまで「暇つぶし」だ。

犯罪者が絶望する瞬間を見届けることが楽しいだけであり、正義感などとは程遠い。

 

 

だが、結果として街の治安は向上し、不正を働こうとする者たちは「あのエルフに見つかったら終わりだ」と恐れるようになった。

 

「心理調査委員会のミリアルデには気をつけろ」

 

「あの女、何を考えているか分からない。だが、悪事はすぐに暴かれる」

 

「噂じゃ、心を読む魔法を使うらしい」

 

 

囁かれる噂が、彼女の存在を神秘的なものへと仕立て上げていく。

ミリアルデ自身は、そんな評判など気にも留めなかった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

ミリアルデの「趣味」は、犯罪者の摘発だけにとどまらない。

 

 

彼女の興味は、もっと繊細な獲物へと向けられていく。

罪を犯す者だけでなく、純粋な心を持つ者。夢を追う者。希望に満ちた者。

その輝きを曇らせる瞬間にこそ、最も芳醇な味わいがあることを、彼女は知っている。

 

 

ある日、彼女はリーニエが管理する戦士の詰め所を訪れた。

 

 

そこには、強さを求めて血気盛んな若者たちが集まっていた。

剣を振るう音、掛け声、ぶつかり合う肉体の音。

汗と土埃の匂いが漂う訓練場で、彼らは己の限界に挑んでいた。

 

 

訓練の休憩中、一人で膝を抱えていた若手戦士に、彼女はそっと声をかけた。

 

 

黒い箱が、彼の中にある「劣等感」と「承認欲求」を伝えてくる。

同期に先を越され、師匠からは見向きもされず、焦りを感じている魂。

誰かに認めてほしい、自分の努力を見てほしいという、切実な渇望。

 

 

「……頑張っているのね」

 

「え、あ、ミリアルデ様……」

 

 

若者は慌てて立ち上がった。顔が赤くなっている。

街で噂の美しいエルフが、自分に声をかけてきたのだ。

 

 

「見ていたわ。貴方の剣、とても綺麗だった。誰よりも真っ直ぐで、誠実な剣ね」

 

 

嘘である。

ミリアルデは剣術のことなど何も知らないし、彼の訓練を見てすらいない。

だが、箱が教えてくれるのだ。「彼は自分の真面目さを認めてほしいと思っている」と。

 

 

若者の顔が、ぱあっと輝く。誰にも見てもらえていないと思っていた努力を、この高貴で美しいエルフが見ていてくれた。

 

 

それから数週間、ミリアルデは計算された「偶然」を重ねていった。

 

 

訓練場の影から見守る視線。

目が合えば、すぐに逸らす。けれど、その横顔には微かな笑みを残して。

 

 

「……また会ったわね」

 

 

市場で声をかける。彼が買おうとしていた果物を、さりげなく自分も手に取る。

指先が触れそうになり、慌てて引っ込める。その仕草すら、計算されたものだった。

 

 

「貴方と話していると、不思議と落ち着くの」

 

 

夕暮れの港で、肩を並べて海を眺める。

橙色に染まる水平線を見つめながら、彼女はぽつりと呟く。

その距離は、友人には近すぎ、恋人には遠すぎる、絶妙な間合い。

 

 

「私、貴方みたいな人が……いいえ、なんでもないわ」

 

 

言いかけて、口を噤む。

その沈黙が、彼の想像力を掻き立てる。

彼女は何を言おうとしたのか。もしかして、自分のことを……?

 

 

黒い箱を通じて、彼の恋心が日に日に膨れ上がっていくのが手に取るように分かった。

期待と不安が入り混じり、彼女のことを考えない時間がなくなっていく。

訓練中も、食事中も、眠りに就く前も。その魂の色が、最も鮮やかに輝く瞬間を、ミリアルデは待っていた。

 

そして、満月が美しい夜。

 

若者はついに決意し、震える手で花束を持ち、ミリアルデを呼び出した。

 

港の灯台の下。波の音だけが響く静寂の中で、彼は意を決して口を開いた。

 

 

「み、ミリアルデ様! ずっと前から……好きでした! 俺と、付き合ってください!」

 

 

一世一代の告白。心臓が破裂しそうなほどの緊張と、未来への希望。

その魂の輝きは、最高潮に達していた。箱を通じて伝わってくる感情の純度は、ガストンのそれにも劣らない。いや、若さゆえの真っ直ぐさが、それを上回っていた。

 

 

ミリアルデは、月光の下で妖艶に微笑んだ。

 

 

銀色の光が彼女の髪を照らし、その瞳に神秘的な輝きを宿らせている。

 

 

そして、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「……ごめんなさい」

 

「え……?」

 

「私はエルフで、貴方は人間。同じ時間を生きられないわ」

 

 

若者の手から花束が落ちる。

色とりどりの花弁が、石畳の上に散らばっていく。

 

膝から崩れ落ちる。魂が、音を立てて砕け散る。

 

その瞬間、ミリアルデは身を震わせた。

箱を通して伝わってくる、純度100%の絶望。天国から地獄へ叩き落とされた瞬間の、あの真空のような虚無感。

 

 

彼女は、崩れ落ちた若者の隣に座り込み、その肩を抱いた。

 

 

「……辛いわよね」

 

 

さっきまでの冷淡さが嘘のように、その声は慈愛に満ちていた。

 

 

「でもね、これで良かったのよ。貴方は、私なんかに現を抜かしている場合じゃないわ。貴方の剣は、もっと大きなもの……貴方自身のために振るわれるべきよ」

 

「……俺自身……?」

 

「そう。恋なんて、一時の熱病みたいなもの。振られた悔しさをバネになさい。そうすれば、貴方はもっと強くなれる」

 

 

若者は泣きながら酒を飲み、ミリアルデに慰められ、夜明けと共に立ち上がった。

 

しかし、問題が一つあった。

 

彼はその後、以前にも増して訓練に打ち込むようになったが、それは「強くなる」ためではなく、「ミリアルデ様に認められたい」という歪んだ執着に変わっていたのだ。

 

訓練中も、彼女の姿を探す。

ミリアルデが詰め所に顔を出すと、素振りの速度が上がる。

声が聞こえると、技のキレが増す。師であるリーニエの指導も、いつになく真剣に聞く。

 

 

結果として、彼の実力は伸び、他の弟子たちにも影響を与え始めた。

 

 

「あのエルフが来てから、弟子たちがおかしい」

 

 

リーニエは腕を組み、訓練場を見渡しながら呟いた。

いつもより気合の入った弟子たち。その視線が、時折訓練場の隅へと向けられている。

 

 

「あぁ、これはアレです。若い子特有の……思春期のアレです。『性欲』ですね、やっぱり有り余る『性欲』ほど男の子をヤル気にさせるものは、ないんですねぇ」

 

 

隣で見学していたフルーフが、したり顔で頷く。

 

 

「性欲? なにそれ? 若い? なら40超えの弟子は、なんであんなにやる気なの? 腰痛いとか言って、なまけてたのに」

 

「スケベオヤジですねぇ。あれも『性欲』です」

 

「『性欲』すげー」

 

 

リーニエとフルーフはそんな弟子たちを眺めながら、アホのような会話を交わす。

 

リーニエからすれば特に実害もないので、このままでもいいのだが、ミリアルデが来ると必ず弟子たちの集中が途切れ、効率が下がると気づいてからは、ミリアルデを速攻で追い出すようになった。

 

暇人故に、とにかく来る頻度が高いのだ。

弟子たちがミリアルデにデレデレする軟弱っぷりを毎日見せられた結果、キレたリーニエによってミリアルデは詰め所を永久出禁にされた。

 

 

だが、ミリアルデの「趣味」は、戦士の詰め所だけにとどまらなかった。

 

 

ソリテールの学校では、ませた子供たち相手に「大人の魅力」を振りまき、初恋を抱かせた上で、「子供にはまだ早いわ」と優しく、しかし決定的に突き放した。

 

 

ショックを受けた子供たちは勉強どころではなくなり、授業に集中できなくなった。教室の窓から外を眺め、ため息をつく生徒が増えた。

 

 

これを知ったソリテールは、無言でミリアルデを校門の前に立たせ、冷ややかに告げた。

 

 

「そこの初恋ハンター。今後、私の学校に近づくことは禁止」

 

「どうして? 私は子供たちと少しだけ『接して』いるだけよ」

 

「そう。それなら、私も貴女と少しだけ親密に『接し』ようかしら?」

 

 

ソリテールの瞳には、感情らしい感情は浮かんでいない。

だが、その平坦な声には、有無を言わせぬ圧があった。

 

死。圧倒的死の気配。

 

大魔族の放つ威圧が、ミリアルデの肌を粟立たせる。

ソリテールは微笑んでいる。だが、その笑みの奥には、底知れぬ深淵が口を開けていた。

 

 

結果、ミリアルデは学園長であるソリテールの一言であっさり教育機関を出禁にされた。

 

 

だが、数カ所出禁にされた所でミリアルデは止まらない。

 

今日も、明日も、ミリアルデはどこにでも出没する。

 

 

港の酒場で船乗りの恋愛相談に乗り、期待を膨らませた後で現実を突きつける。

市場で商人の野望を聞き出し、その夢の脆さを指摘する。

路地裏で若者の悩みに耳を傾け、的確な言葉で心を揺さぶる。

 

 

いい影響を与えることもあれば、悪い影響しか与えないこともある。

人騒がせなエルフは、楽しげに、今日も人を絶望に蹴落とし酒を飲む。

 

 

「お酒が、美味しいわ」

 

 

グラスを傾けながら、彼女は呟く。

その瞳には、かつてなかった光が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

ある夜、フルーフがミリアルデの部屋を訪れた。

 

 

窓の外には、満天の星が広がっており、波の音が遠くから聞こえ、潮の香りが夜風に乗って漂ってくる。

ミリアルデはいつものように窓辺の椅子に腰掛け、グラスを傾けていた。

 

 

「お疲れ様です、ミリアルデさん。今日も一人、監獄送りにしたそうですね」

 

 

フルーフは部屋に入るなり、そう声をかけた。

その口調には、咎めるような響きはない。むしろ、軽い世間話のようだ。

 

 

「ええ。詐欺師だったわ。老人から金を巻き上げようとしていた。その計画が露見した瞬間は中々楽しめたわね」

 

「相変わらずですね。一応移住の際には魂のチェックはしてますが、住み着いてから心変わりしたり、出来心が芽生えたり、っていうのも最近多いですから。ミリアルデさんが積極的で助かります」

 

 

フルーフは苦笑しながら、ミリアルデの向かいに座った。

 

テーブルの上には、上等なワインと二つのグラス。

言葉を交わさずとも、フルーフは当然のようにグラスを手に取り、ミリアルデが注ぐのを待った。

その仕草には、長年の付き合いから生まれた自然さがあった。

 

 

「えぇ。頼りにしてくれていいわ」

 

 

ミリアルデはワインの栓を抜き、フルーフのグラスに注ぐ。

深い赤紫色の液体が、ランプの灯りを受けて輝く。

 

ミリアルデは、フルーフの顔を見つめながら、ふと思った。

 

フルーフの心は、読めない。

魔導具から楔まで全てフルーフの作品なのだから当たり前ではある。

ソリテールもリーニエも同様だ。街の重要人物である彼女たちは、魔導具の効力が及ばない存在だった。

 

 

最初は不便だと思ったが、今は違う。

 

 

読めないからこそ、彼女たちとの会話には新鮮な驚きがある。

読めないからこそ、彼女たちの言葉には重みがある。

そして何より、読めないからこそ……対等な関係を築けている気がした。

 

 

街の住人たちは、ミリアルデにとって観察対象だ。

箱を通して、心の奥底まで丸裸にされる存在。

だが、フルーフたちは違う。彼女たちは、ミリアルデが推測し、理解しようと努力しなければならない相手だった。

 

 

暇つぶしに最適な、この環境を手放す気にはなれない。

ならばフルーフやソリテールに対して面倒くさがって適当な対応など出来ない。

手放さないよう努力し、頭を回す。

 

 

言ってしまえばただの会話。そんなことは誰もが日常的にしていること。

だが、虚無と退屈で埋め尽くされたミリアルデは、それすらしていなかった。

 

 

だが、気づけばしていた。

 

 

狂人や魔族の思考など理解出来るはずもないのに、真剣に会話し、少し悩んだり、言葉の意味を考えた。

物事に真剣に向き合うことなどなかった心が、気づけば、眼の前の人間と魔族と真剣に向き合っていたのだ。

 

当たり前のように内面が見えるようになったからこそ、以前まで当たり前と思っていたことが当たり前では無くなった。

日常が非日常となり、世界に彩りと新鮮さが少しずつ戻っていくような気がした。

 

 

それは、千年以上の生涯で、久しく忘れていた感覚だった。

 

 

「……フルーフ」

 

「はい?」

 

「感謝しているわ」

 

 

珍しい言葉に、フルーフは目を丸くした。

グラスを持つ手が、一瞬止まる。

 

 

「どうしたんですか急に。熱でもあります?」

 

「ないわよ。……ただ、思っただけ」

 

 

ミリアルデはワインをグラスに注ぎながら、視線を窓の外に向けた。

月明かりに照らされた港町の夜景。船のマストが林立し、灯台の光が規則正しく点滅している。

かつての自分なら、この景色すら灰色にしか見えなかっただろう。

 

 

「貴女がいなければ、私は今もどこかの森で、苔むした岩のように座っていたでしょうね。何も感じず、何も求めず、ただ時間が過ぎるのを待ちながら」

 

「……ミリアルデさん」

 

「この街に来て、貴女の道具を使うようになって……初めて、生きている実感が湧いたわ。歪んでいるのは分かっているわ。褒められたことじゃないのも分かっている。でも、私にとってはこれが唯一の『生きがい』なの」

 

 

フルーフは黙って聞いていた。

 

ミリアルデには、彼女の心は読めない。

だが、その表情から、複雑な感情が渦巻いていることは分かった。

眉がわずかに寄り、唇が微かに動く。言葉を選んでいるのだろう。

 

 

「だから、ありがとう。貴女は私に、長い余生を生きる理由をくれた」

 

「……そう言ってもらえると、嬉しいですよ」

 

 

フルーフはようやく口を開いた。

その声には、安堵のような響きがあった。

 

 

「正直、あの道具を渡した時は、ミリアルデさんがどうなるか分からなくて不安でした。もしかしたら、悪い方向にいくことも危惧していましたので」

 

「心配性ね。問題ないわ、伊達に長生きはしていないもの」

 

 

二人は静かにグラスを合わせた。澄んだ音が、夜の静寂に溶けていく。

 

 

「ところで、フルーフ」

 

「はい?」

 

「リーニエが私のことを『クズ』と呼んでいたわね」

 

「あぁ……それは、まぁ……」

 

 

フルーフは言葉を濁した。視線が泳ぎ、グラスの中のワインを見つめる。

 

 

実際、リーニエからの苦情は日増しに激しくなっている。

弟子たちがおかしくなった、酒場が潰れた、あのエルフを追い出せと。

会議のたびに、ナイフやフォークが飛んでくる。

 

 

「気にしていないわ。むしろ、面白いと思ってるの」

 

「面白い?」

 

「あの子、私のことを本気で嫌っているでしょう? でも、殺しには来ない。会議では凶器を投げてくるけれど、本気の殺意じゃないわ。リーニエなりの『じゃれあい』なのかしら」

 

「それは流石に楽観的すぎません?」

 

 

フルーフは苦笑する。だが、その目には少しの安堵が浮かんでいた。

ミリアルデが本気で気にしていないことが、伝わったのだろう。

 

 

「そうかもしれないわね。魔族の心は読めないから、本当のところは分からないわ」

 

 

ミリアルデはワインを一口含み、どこか楽しげに微笑んだ。

 

 

「でも、だからこそ面白いと思う。相手の感情を読める環境に身を置いているからこそ、読めない相手と接することに新鮮味を覚えるようになった。久しぶりの感覚なの。貴女も、ソリテールも、リーニエも、面白いわ」

 

「えー、なら街の外には心の読めない人達だらけですよ、出ていったら嫌ですよ?」

 

「わかっていないのね」

 

 

ミリアルデはグラスを揺らし、ワインの波紋を眺めた。

 

 

「ゲームは自由過ぎると詰まらないの、少し窮屈に思う締め付けがないといけない。そういう意味でこの街は最適よ。私でも楽しめる報酬で溢れているから、つまらない外に出ていく気なんてないわ」

 

「へー、私普段そういうゲームとかやらないんで、わからないんですが、そういうものなんですね」

 

「えぇ、そういうものよ」

 

 

フルーフはよくわかってなさそうな顔で納得した。

首を傾げながらも、とりあえず頷いている。

 

 

ミリアルデは相変わらず無表情だが、グラスを含む唇が愉快そうに、薄く弧を描いていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日の夜更け。

 

 

ミリアルデはシンビオシスの街外れにある、フルーフの研究室へと足を運んでいた。

 

 

「立入禁止」と大きく書かれた看板を素通りし、重い扉を押し開ける。

許可など取っていない。フルーフは今頃ソリテールと睦み合っているだろうし、仮に見つかったところで「暇つぶしに来た」で済む程度の間柄だ。

 

 

研究室の中は、相変わらず常軌を逸した光景が広がっていた。

 

 

壁に刻まれた謎の魔法陣が、赤黒い光を放っている。

一見すると空のビーカーが整然と並んでいるが、魂を長年感知してきた影響か、その中で蠢く「何か」がぼんやりと感じ取れた。

透明な器の中で、形のない存在がうごめいている。

 

 

壁際には木箱が山積みにされ、赤黒い石が無造作に詰め込まれている。

大量の血液が入ったガラス瓶、臓物のホルマリン漬け、正体不明の標本の数々。

腐敗防止の魔法が施されているのか、不思議と悪臭はしない。

 

 

初めて足を踏み入れた時は流石に眉を顰めたが、今ではもう慣れたものだった。

 

 

ミリアルデは部屋の奥へと進む。

床板が軋む音だけが、静寂を破る。

 

 

地下へ続く階段を降り、さらに重い扉を開けると、そこには簡素な書斎のような空間が広がっていた。

 

 

壁一面を埋め尽くす本棚。膨大な量の魔導書と研究資料が、天井まで積み上げられている。

 

その中央に置かれた机の上で、一体のぬいぐるみが魔導書を広げていた。

 

 

クマのような、あるいはウサギのような、曖昧な形をした古びたぬいぐるみ。

綿が飛び出しかけ、縫い目がほつれ、色褪せた布地が年月を物語っている。

しかし、その中に宿る魂の気配は、どんな大魔族よりも濃密で、禍々しい知性に満ちている。

 

 

「腐敗の賢老」クヴァール。かつて人類を恐怖のどん底に叩き落とした大魔族の、なれの果て。

 

 

「久しいのぉ、ミリアルデ」

 

 

ぬいぐるみの口が動くことはない。

だが、その声は確かに部屋の中に響いた。

魔力で空気を振動させているのだろう。枯れた老人のような、しかしどこか威厳を感じさせる声だった。

 

 

肉体を失い、魔力もほとんど残っていないはずの存在が、それでもこうして会話できているのは、純粋な知識と技術の賜物だった。

 

 

「クヴァール。『万物を黄金に変える魔法(ディーアゴルゼ)』の解析の進捗を聞きに来たわ」

 

「出来た」

 

「……は?」

 

 

ミリアルデは思わず聞き返した。

 

 

「出来たと言うた。解析は終わった」

 

 

クヴァールの声は、あまりにも淡々としていた。

まるで朝食の献立を告げるような、何の感慨もない口調。

 

ミリアルデは絶句した。

 

あの呪いを。魔族ですら理解出来ない、人類の魔法体系では解明不可能とされてきた、七崩賢の呪いを。

本当に解析したというのだ。

 

 

正直に言えば、ミリアルデは半ば諦めていた。

いくらクヴァールが「腐敗の賢老」と名の知れた魔族であっても、呪いは呪いだ。

原理が理解不能だからこそ呪いと呼ばれる。

魔族であろうと人類であろうと、その不可侵性は変わらないはずだった。

 

「本当?」

 

「疑うのであれば、自分で確かめい」

 

 

クヴァールはぬいぐるみの腕をゆっくりと持ち上げ、机の上に散らばった紙束を示した。

ぎこちない動作で、綿の詰まった小さな手が紙の束を指し示す。

 

 

びっしりと書き込まれた術式の解析メモ。

解除のための手順。ミリアルデには半分も理解出来ない専門的な内容だったが、その分量と緻密さだけで、これが本物であることは分かった。

何十枚、いや百枚を超える紙の束。一枚一枚に、細かな文字と図形がぎっしりと詰め込まれている。

 

 

内容の理解をすっ飛ばして、術式だけを利用すれば十分扱えそうだ。

 

 

「どうやったの?私が持ち込んだ黄金化されたリンゴや小石を参考に、一から解析なんて出来るものなの?」

 

「時間があった。それだけだのぉ」

 

 

クヴァールの声には、誇りも謙遜もなかった。ただ事実を述べているだけ。

偉業を成し遂げた自覚すらないかのような、徹底的なまでの無関心。

 

 

感情が稀薄なミリアルデでも素直に感心した。

 

 

これが、腐敗の賢老。

史上初の貫通魔法を開発し、人類を恐怖に陥れた魔族。

その知性は、肉体を失い、魔力を奪われ、ぬいぐるみに押し込められてなお、衰えていない。

 

 

「そう。ありがとう」

 

「礼など要らぬ。良い暇つぶしになった」

 

 

クヴァールはページをめくりながら、何でもないことのように言った。

ぬいぐるみの小さな手が、不器用に紙をめくっていく。

 

 

「マハトのことは、知っていたの?」

 

 

ミリアルデは話題を変えた。

 

 

「知っておる。魔王軍時代、何度も顔を合わせたことがある。……もっとも、儂が知るのは百年以上も前の話だがな。儂は目覚めたら殺され、今はこの有様。奴が今どうしているかなど知らぬ」

 

「貴方から見て、どんな魔族だった?」

 

「争いを面倒がっておった。それだけだ」

 

 

クヴァールの声は、相変わらず淡々としていた。

過去を懐かしむ様子もなければ、興味を示す素振りもない。

 

 

「そう」

 

 

ミリアルデは椅子から立ち上がった。

 

 

「これ、貰っていくわ」

 

「好きにせい」

 

 

術式の書かれた紙束を受け取り、丁寧に折り畳んで懐にしまう。

 

 

「それじゃ、行ってくるわ」

 

「どこへ行く」

 

「ヴァイゼよ。マハトに会いに」

 

「そうか」

 

 

それだけだった。

興味もなければ、止める気もない。ミリアルデが何をしようと、クヴァールには関係のないことだった。

ぬいぐるみは再び魔導書に視線を戻し、ページをめくり始める。

 

 

ミリアルデは階段を上り、研究室を抜け、夜の街へと出た。

 

 

星が瞬く空を見上げながら、懐の紙束を確かめる。

これがあれば、マハトの呪いは解除出来る。あの大魔族が築き上げた「絶対的アドバンテージ」を、目の前で崩してやれる。

 

 

感情を知りたいと言いながら、自分の命が危うくなれば本能的に殺しにかかる。

その矛盾を暴く。彼は一体……どんな顔をするのか。

 

 

「楽しみね」

 

 

魂が見えずとも、あれだけの大物となれば、また違った興味がでるものだ。

彼女はこの機会を逃さない。

自身の命の危険よりも、マハトの目標をへし折って得られる愉悦を優先する。

 

 

ミリアルデの口元が、微かに歪んだ。

 

城塞都市ヴァイゼへ。黄金郷と化したその場所へ。

 

 

彼女は、暇つぶしに出かける。

 

 

夜の街を歩きながら、ミリアルデは思う。

 

 

かつて、森の中で苔むした岩のように座っていた自分。

何も感じず、何も求めず、ただ時間が過ぎるのを待っていた虚ろな器。

 

 

今の自分は、あの頃とは違う。

 

 

歪んでいる。間違っている。褒められたことではない。それは分かっている。

だが、少なくとも、生きている実感がある。明日を待つ理由がある。

 

 

それだけで、十分だった。

 

 

港の灯台が、規則正しく光を点滅させている。

波の音が、夜の静寂に溶けていく。

 

 

ミリアルデは、北へと続く街道を見据えた。その先には、黄金に覆われた死の都市がある。

そして、そこには、彼女の新たな「玩具」が待っている。

 

 

「さて、どんな絶望を見せてくれるのかしら」

 

 

エルフは、夜の闇の中へと歩み出した。

その足取りには、かつてなかった軽やかさがあった。

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