ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第23話▶閑話▶剣の魔族HISTORY

 

 

夜が来る。

月明かりが薄雲の向こうで滲み、街道沿いの木々が不気味な影を落としていた。

風が冷たい。北部高原特有の、骨まで染み入るような冷気が肌を刺す。

 

 

だが、魔族にとって寒さは大した問題ではない。

 

 

問題なのは、もう三日も何も食べていないということだ。

 

 

街道脇の茂みに身を潜め、じっと獲物を待つ。

旅人が通りかかるのを待ち伏せる――それが狩りの基本だった。派手な戦闘は避ける。魔法を使えば目立つし、強い相手と正面から戦って勝てる自信もない。

 

 

自分が魔族の中でも弱い部類に入ることを、女は痛いほど理解していた。

 

 

特異な固有魔法も持たず、魔力量も平均以下。腕力だって、人間の屈強な戦士と比べればどうということはない。

 

 

だから、知恵を使う。騙す。欺く。

 

それが女の生存戦略だった。

 

遠くから馬車の音が聞こえてきた。

 

 

車輪が石を踏む音、馬の蹄が地面を叩く規則正しいリズム。耳を澄ませ、その質を分析する。

軽い馬車だ。荷が少ないか、あるいは乗っているのは一人か二人。護衛の気配はない。複数の足音も、金属鎧の擦れる音もしない。

 

商人か、あるいは旅の一般人か。

 

どちらにせよ、戦闘能力は低いと見ていい。

 

 

女は茂みから這い出ると、素早く身なりを整えた。

薄汚れた僧服に、経典を模した古い本。どこにでもいる旅の僧侶の出で立ちだ。この格好が一番警戒されにくいことを、女は長い経験から学んでいた。

 

 

人間というのは不思議な生き物だ。

 

 

神に仕える者を前にすると、途端に心を許し、警戒を解く。

まるで神の名を唱えれば全てが赦されるとでも思っているかのように。

見えないもの、触れられないものを信じて、何になるというのか。腹が満たされるわけでもないのに。

 

 

だが、その信仰心は女にとって都合が良かった。

 

 

僧侶を名乗れば、多くの人間は無条件に信用する。宿に泊めてもらえることもあるし、食事を恵んでもらえることもある。

 

そして何より、油断してくれる。

 

 

馬車が近づいてくる。車体の揺れ、馬の息遣いまで聞こえる距離。

 

女は街道の真ん中でよろめくように倒れ込んだ。

 

 

「おお、大丈夫か」

 

 

馬車が止まり、御者台から誰かが降りてくる足音が聞こえた。砂利を踏む音、布が擦れる音、そして近づいてくる人間特有の体臭。

 

予想通りの反応だ。

 

人間は困っている者を見ると、つい手を差し伸べてしまう。例外もあるが、大半はそうだ。

それが見知らぬ相手であっても、特に僧侶であればなおさら。

 

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

弱々しい声を作りながら顔を上げ、助けてくれた男の顔を確認する。

 

 

中年の商人だった。丸い顔に人の良さそうな笑みを浮かべ、体格は中肉中背。手には武器を持っておらず、腰にも剣は差していない。服装は質素だが清潔で、それなりに稼いでいる様子が窺える。一人旅のようだ。

 

女の唇が、無意識のうちに弧を描く。

 

完璧な獲物だ。

 

 

「どうしたんだ、こんな夜更けに。具合でも悪いのか」

 

「ええ……少し。もう三日も何も食べておらず……」

 

 

嘘ではなかった。

 

 

ただし、女が食べたいものと、商人が想像しているものは全く違っていたが。

 

 

「そりゃいかん。ちょうど今夜は近くの村に泊まるつもりだったんだ。そこまで乗せていってやろう。腹も減ってるなら、飯くらい奢ってやる」

 

「なんと……ご親切な。女神様のお導きでしょうか」

 

 

深々と頭を下げながら、内心では今夜の食事が確定したことに安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬車の荷台に揺られながら、女は商人の話を聞くふりをしていた。

木箱の隙間から覗く荷物、車輪の軋む音、時折吹き込む夜風。商人は御者台から振り返りながら、よく喋った。

 

 

北の港から南の都市へ向かう途中だということ。

荷は主に塩漬けの魚だということ。

妻がいるということ。

 

どうでもいい情報だった。

 

女にとって、それらは全て「この獲物をどう処理するか」という問題に帰結する。

家族がいるということは、行方不明になれば捜索されるかもしれない。つまり、痕跡を残してはいけないということだ。

 

馬車ごと消す必要がある。商人の持ち物も、血痕も、何一つ残さずに。

 

 

「しかし、女の一人旅とは感心だな。この辺りは物騒だと聞くが」

 

「神に仕える身ですから……女神様が守ってくださいます」

 

「そうか、そうか。信仰深いのは良いことだ」

 

 

商人は満足そうに頷いた。

 

その無防備な背中を眺めながら、女は頭の中で手順を組み立てていく。

 

 

深夜になるのを待つ。商人が眠りについたら、部屋に忍び込み一撃で仕留める。

首を断てば、声を上げる暇もない。そして、ゆっくりと食事を楽しむ。

残骸は馬車ごと森の奥で燃やして処分し、馬は逃がしてやればいい。野生に帰るか、どこかの村人に拾われるかだろう。

 

 

商人の行方不明は、おそらく山賊の仕業として処理される。この辺りでは珍しくない話だ。誰も魔族の仕業だとは思うまい。

 

 

やがて村が近づいてきた。

 

小さな集落だった。家は十軒もなく、宿屋らしき建物が一つ、酒場が一つ、あとは農家ばかり。

窓から漏れる灯りは乏しく、ほとんどの住人はもう眠りについているようだ。

 

 

「今夜はあの宿に泊まろう。部屋代くらいは持つから、安心しな」

 

「重ね重ね……ありがとうございます」

 

 

宿に着くと、商人は手際よく部屋を二つ取った。

女は僧侶らしく慎み深い態度を崩さず、部屋に案内されるまで大人しくしていた。

宿の主人に愛想笑いを向け、女神への祈りの言葉を呟いてみせる。

 

夕食は宿の食堂で取ることになった。

 

質素ながらも温かい食事がテーブルに並ぶ。パンとスープ、それに干し肉。湯気が立ち上り、素朴な香りが鼻孔をくすぐる。女は黙々と口に運んでいく。

 

 

人間の食べ物は不味くない。どちらかといえば好きな方だ。

 

 

パンの小麦の香り、スープに溶けた野菜の甘み、干し肉の塩気。それぞれに味があり、空腹を紛らわせる程度の満足感はある。

 

 

だが――満たされない。

 

 

本当に欲しいものとは、決定的に違う。

 

 

商人は酒を飲みながら、相変わらずよく喋った。

商売の話、家族の話、旅先で見た珍しいものの話。女は適当に相槌を打ちながら、頭の中で計画を練っていた。

 

 

スープを啜り、パンを千切る。商人が笑い、女は微笑む。何も知らない男と、全てを知っている獣。食卓を挟んだ奇妙な晩餐が続く。

 

 

「そろそろ休むとしよう。明日も早いからな」

 

「そうですね……今夜は本当にありがとうございました」

 

「なんの。困った時はお互い様だ。それに、神に仕える人を助ければ、きっと良いことがあるだろうからな」

 

 

商人は人の良さそうな、無防備な笑顔で笑った。

女も笑みを返す。僧侶らしい穏やかな笑顔で。

 

 

 

 

 

 

部屋に戻ると、女は荷物の中から剣を取り出した。

 

 

旅の僧侶が剣を持っているのは不自然だが、この剣だけは手放せなかった。

銘は不明で、どこかの集落で見つけた古い剣だ。刃は良く研がれており、月明かりを受けて鈍い銀色に光る。切れ味は申し分ない。

 

 

冷たい金属の感触を確かめるように、指先で刃を撫でる。

 

 

剣が好きだった。

 

 

理由は分からない。

ただ、剣という道具に対して、奇妙な愛着がある。

説明のつかない親しみ。まるで生まれる前から知っていたかのような、根源的な引力。

 

 

これまでに収集した剣は数十本に及ぶ。といっても、放浪生活では持ち歩けないので、各地の隠れ家に分散して保管している。銘刀もあれば、無銘の実用剣もある。装飾過多の儀礼剣から、使い込まれて刃毀れした戦場の遺物まで。どれも女にとっては等しく愛おしい。

 

 

いつか全てを一箇所に集めて、眺めながら暮らしたいと思うことがある。

 

だが、そんな夢は夢でしかない。

 

今の生活では、明日を生き延びることで精一杯だ。弱い魔族には、生き方を選ぶ贅沢など許されていない。

 

剣を鞘に収め、ベッドの縁に腰掛ける。窓の外では月が雲間から顔を覗かせ、また隠れた。

 

深夜を待つ。

 

 

 

 

宿は静まり返っていた。

 

 

階下から聞こえていた酒場の喧騒も途絶え、廊下を歩く足音もない。

夜の帳が村全体を覆い、虫の声だけが細々と響いている。

 

 

女は足音を殺して部屋を出ると、商人の部屋の前に立った。

 

扉は施錠されていない。

 

人の良い商人らしい不用心さだった。この村には犯罪など無縁だと思っているのだろう。

あるいは、僧侶を泊めた夜に何か起こるはずがないという、根拠のない信頼か。

 

 

どちらにせよ、女にとっては好都合だ。

 

 

静かに扉を開け、中に滑り込む。蝶番は軋みもしなかった。

 

商人は寝台の上で大の字になって眠っていた。酒を飲みすぎたのか、いびきをかいている。

口を半開きにして、完全に無防備な姿を晒している。掛け布団は足元に蹴飛ばされ、だらしなく垂れ下がっていた。

 

 

女は音もなく近づき、寝台の傍らに立つ。

 

 

月明かりが窓から差し込み、商人の寝顔を照らしていた。穏やかな表情だ。きっと良い夢でも見ているのだろう。

 

 

剣を抜く。

 

月光が刃に反射し、一瞬だけ部屋を白く染めた。

 

剣を振り下ろす。

 

 

商人は声を上げる暇もなく絶命した。

首を一刀で断ち切られ、切断面から血が噴き出す。真っ赤な飛沫が白いシーツを染め、枕を濡らし、壁にまで飛び散った。

 

鉄錆に似た、けれどもっと生々しい匂いが部屋に満ちる。

 

女は手早く作業を始めた。

痕跡を残さないように、迅速に、効率的に。まずシーツと毛布で遺体を包み、血が床に滴らないように注意しながら持ち上げる。窓から村の外を確認し、人影がないことを確かめてから、闇に紛れて遺体を運び出す。

 

村外れの茂みまで運び終えると、いよいよ食事の準備だ。

 

まずは血抜き。

 

新鮮な血は美味いが、肉に残ると味が落ちる。

首の切り口を下に向けて吊るし、残った血液を流し出す。

したたり落ちる血を器に受けながら、魔法で圧をかけて絞り出していく。血管の隅々まで、一滴残らず。

 

次に解体。

 

剣を使い、慣れた手つきで肉を切り分けていく。

長年の経験で培った技術だ。刃を入れる角度、力加減、切り離す順序。全てが身体に染み付いている。

 

 

肉を傷つけず、部位ごとに丁寧に分ける。

大腿部、上腕部、内臓。それぞれに最適な処理がある。

脂身の多い部位と赤身の部位では、扱い方が違う。筋膜を剥がし、腱を切り離し、骨から肉を外していく。

 

 

内臓は特に鮮度が命だ。

 

 

まだ温かいうちに取り出し、すぐに食べる。

肝臓を一口含むと、濃厚な味が口中に広がった。鉄分を多く含んだ、深みのある旨味。噛むほどに染み出す血の風味が、空腹だった身体に染み渡っていく。

 

心臓も好物だった。

 

弾力のある食感、噛みしめるたびに滲み出す血の味。筋繊維を歯で断ち切る感覚が心地よい。まだ微かに温もりを残した心臓を咀嚼しながら、女は無表情のまま食事を続けた。

 

 

焚き火を起こし、残った肉の一部を炙る。

 

生で食べるのも良いが、火を通すと違った美味しさがある。

表面が香ばしく焼け、肉汁が閉じ込められる。脂が熱で溶け出し、炎に落ちてジュウジュウと音を立てる。

 

塩があれば更に良いのだが、今夜は持ち合わせがなかった。

 

それでも、焼いた肉を頬張ると、生とは全く違う風味が口に広がった。

香ばしさ、凝縮された旨味、外側のカリッとした食感と内側の柔らかさのコントラスト。

 

 

これは、長い放浪生活の中で自然と身についた習慣だった。

 

 

人間の料理を観察し、真似てみたことがきっかけだ。

最初は興味本位だった。人間たちが肉を焼いて食べているのを見て、なぜわざわざそんな手間をかけるのか不思議に思った。生の方が新鮮で、栄養も逃げないはずなのに。

 

だが、試してみて驚いた。

 

同じ肉なのに、こうも違うのか。火を通すことで引き出される旨味、変化する食感、立ち上る香り。それは女にとって、小さな発見だった。

 

 

それ以来、可能な限り肉を調理するようになった。

 

 

他の魔族には理解されない趣味だった。

仲間に見られれば、奇異の目で見られるだろう。

だが、女にとっては食事の楽しみの一つだった。殺伐とした生存競争の中で、唯一心が安らぐ時間。

 

 

食事を終えると、後片付けに取り掛かった。

 

 

残った骨や血痕は、馬車に積んで処分する。

宿の主人が起きてくる前に、この場を去らなければならない。

商人の部屋も確認し、血の跡を拭き取り、乱れた寝具を整える。まるで最初から誰も泊まっていなかったかのように。

 

 

馬車を森の奥深くまで運び、火を放った。

 

 

乾いた木材がすぐに燃え上がり、炎が夜空を赤く染める。

荷物も、血痕も、商人の痕跡も、全てが灰になっていく。パチパチと爆ぜる音が静かな森に響き、火の粉が舞い上がって闇に消えていった。

 

 

馬は途中で解き放った。

手綱を外してやると、最初は戸惑ったように女を見つめていたが、やがて森の方へと駆けていった。

賢い馬だったので、どこかで生き延びるだろう。

 

 

炎を眺めながら、次の獲物のことを考える。

 

 

腹は満たされたが、それも長くは持たない。

数日もすれば、またすぐに空腹が襲ってくる。そしてまた、狩りをしなければならない。

 

 

この繰り返しだった。

 

 

女の生は、ずっとこの繰り返しだった。

 

記憶にある限り、女はずっと一人だった。

 

魔族は群れを作らない。

それぞれが個として生き、個として死ぬ。

仲間意識というものは限りなく稀薄で、同族を見かけても、縄張りを侵さなければ干渉しない。

侵せば殺し合い、あるいは力で強引に従えられることになる。

 

 

それだけの関係だ。

 

 

強い魔族は豊かな狩場を支配し、弱い魔族は残り物を漁る。

女は後者だった。良い狩場は既に強者に占領されている。弱者は、街道沿いで旅人を待ち伏せるか、墓地で死肉を漁るしかない。

 

 

墓地漁りは惨めだった。

 

腐りかけの肉は不味い。土の匂いと腐敗臭が混じり合い、噛むたびに砂利が歯に当たる。

何より効率が悪い。一晩かけて掘り起こしても、得られる肉はわずかで、その大半は食べられる状態ではない。

 

 

かといって、強い魔族と縄張り争いをする度胸もない。

一度だけ試みたことがある。結果は惨敗だった。

片腕を失い、命からがら逃げ延びた。

欠損を再生させるため、大部分の魔力を失い、回復しきるまでに随分な日をようした。あの時の恐怖は今も身体に刻まれている。

 

 

だから女は各地を転々としながら、細々と生き延びていた。

一つの場所に長居はしない。狩りをしたら移動する。痕跡を残さず、誰の記憶にも残らず、影のように生きる。

 

 

魔王軍がまだ存命の頃は、勧誘を受けることもあった。

 

魔王の旗の下に集えば、食料の心配はなくなる。

人類との大規模な戦争に参加することになるが、その分獲物には困らない。

組織的な狩りができるし、強い魔族の庇護も受けられる。多くの魔族がその誘いに乗った。

 

だが、女は断り続けた。

 

理由は単純だ。戦争は危険だから。

 

 

いくら食料が豊富でも、死んでしまっては意味がない。

女は臆病だった。自分より強い存在との戦いを徹底的に避けた。勧誘に来た魔族には低姿勢で断りを入れ、時には逃げ出しもした。

 

プライドよりも命が大事。それが女の信条だ。

 

魔王が討伐されたという噂を聞いた時も、特に何も感じなかった。

 

魔王軍に属していなかった女にとって、それは遠い世界の出来事でしかない。ああ、そうか、死んだのか。その程度の感想だった。

 

 

ただ、勇者が各地の魔族を討伐して回っているという話は気になった。

残党の強い魔族たちが次々と倒されているらしい。

それは女にとって、良いニュースでもあり悪いニュースでもあった。

 

 

良いニュースは、強い魔族がいなくなれば狩場の競争が減るということ。

これまで近づけなかった豊かな土地にも、足を踏み入れられるかもしれない。

 

 

悪いニュースは、勇者が弱い魔族も見逃さないかもしれないということ。

弱いからといって、人間を食べていることに変わりはない。見つかれば殺される。

 

結局、今まで通りの生活を続けた。

 

目立たず、騒がず、細々と生き延びる。

それが女にできる最善の選択だった。

 

季節が巡り、年月が流れた。

 

女は変わらず放浪を続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

その日も、いつもと同じ一日になるはずだった。

 

 

夕暮れ時、街道沿いの森で一人の男を殺したところだった。

旅の行商人だ。大した荷物は持っていなかったが、肉は新鮮だった。

若い男で、筋肉質だが脂肪も適度についている。上質な獲物だ。

 

 

死体を木陰に引きずり込み、剣で手際よく解体していく。

 

 

いつものように、まずは血抜き。首の切り口を下にして木の枝に吊るし、重力に任せて血を落とす。

したたり落ちる血が、枯れ葉の上に小さな水溜りを作っていく。

 

 

それから部位ごとに切り分ける。

内臓は先に取り出し、傷まないうちに処理する。

 

 

焚き火を起こし、肉を炙る準備をしていた。

 

その時だった。

 

 

「おや、お食事中でしたか」

 

 

背後で声がした。

 

女は反射的に振り返り、剣を構えた。心臓が跳ね上がる。気配を感じなかった。

足音も、呼吸音も、何一つ。まるで最初からそこにいたかのように、声の主は立っていた。

 

一人の女だった。

 

白い髪に赤い瞳。シルクハットを被り、黒いコートを羽織っている。

人間のようだが、纏う気配が普通ではない。魔力の質は並程度に感じられるが、何かがおかしい。

 

殺気は感じられなかった。

 

 

だが、それが余計に不気味だった。

こんな光景を目にして、なぜ平然としていられるのか。普通の人間なら悲鳴を上げるか、逃げ出すか、あるいは武器を構えるかするはずだ。

 

 

女は無言で剣を構えたまま、相手を観察する。

 

 

「通りすがりの者ですよ。たまたま血の匂いがしたので、覗いてみただけです」

 

 

白髪の女は、死体と女を交互に見た。

 

その視線には、驚きも嫌悪もない。恐怖の色すらない。

まるで道端で珍しい花を見つけたかのような、軽い好奇心だけが瞳に浮かんでいる。

 

 

そして、白髪の女の視線が焚き火と、傍に置かれた肉に向けられた。

 

 

「ほぉ、調理されるんですか?」

 

「……」

 

「珍しいですね。魔族の方で、肉を焼いて食べる方は」

 

 

女は警戒を強めた。

 

魔族だと分かっている。それなのに、逃げもしなければ戦う構えも見せない。この女は危険だ。直感がそう告げている。

だが同時に、抗うことも逃げることもできないとも感じていた。相手の底が見えない。

 

 

「そんなに警戒しないでください。私、貴女に危害を加えるつもりはありませんよ」

 

 

白髪の女が一歩近づいてきた。

 

女は剣を突きつけた。切っ先が相手の喉元を狙う。あと一歩踏み込めば届く距離。だが、相手は足を止めなかった。

 

 

「近づかないでください」

 

「まあまあ、落ち着いてくださいな」

 

 

白髪の女は苦笑いしながら肩をすくめた。その仕草があまりにも自然で、場違いなほど和やかで、女は困惑した。

 

 

「では、信用してもらえるように、こうしましょうか」

 

 

白髪の女は自分の首に手を当てた。

 

細い指が白い喉に添えられる。何をするつもりだ。女が訝しんだ次の瞬間――

 

ゴキッ。

 

何の躊躇いもなく、白髪の女は自分の首を捻じ折った。

 

骨が砕ける鈍い音が森に響いた。頭が不自然な角度に傾ぎ、身体から力が抜ける。どう見ても致命傷だ。人間なら即死している。頸椎が完全に破壊され、脊髄が断裂したはずだ。

 

だが、白髪の女の身体は倒れなかった。

 

それどころか、ゴキゴキと音を立てながら、首が元の位置に戻っていく。

骨が繋がり、筋肉が修復され、皮膚が滑らかに整う。数秒後には、何事もなかったかのように白髪の女は立っていた。

 

 

「ほら、私は弱くて簡単に首をねじ切れます。貴女からすれば、ただの餌。食べられる側ですよ。だから安心してください」

 

 

言葉を失った。

 

目の前で起きていることが理解できなかった。これは人間ではない。かといって魔族でもない。魔族にも再生能力を持つ者はいるが、これほど速く、これほど完全に回復する存在を、女は見たことがなかった。

 

一体、何なのだ。

 

 

「驚きました?」

 

「まぁ、はい」

 

 

正直に答えるしかなかった。

 

 

「フルーフと申します。まあ、ちょっと普通じゃない人間、とでも思ってください」

 

 

白髪の女――フルーフは、焚き火の傍に腰を下ろした。

 

まるで招かれた客のような態度だ。地面に座り、足を崩し、火にあたりながら寛いでいる。死体がすぐ傍にあるというのに、全く気にした様子がない。

 

 

「ところで、その肉、どうやって調理されるおつもりですか?」

 

「……炙るだけですが」

 

「塩は?」

 

「ありません」

 

「もったいない」

 

 

フルーフは本気で残念そうな顔をした。

 

 

眉を下げ、口をへの字に曲げ、心底惜しいという表情を浮かべている。

この女は何を言っているのだと、女は困惑するばかりだ。

 

 

「せっかく丁寧に解体されているのに、香辛料もなしで炙るだけとは」

 

「十分です。生よりは美味しい。それに塩は……持ち合わせの時はかけています」

 

「それはそうですが、もっと美味しくできますよ」

 

 

フルーフは自分の荷物から小さな袋を取り出した。

革製の袋で、中から乾燥した葉や粉末の匂いが漂ってくる。香辛料だ。

 

 

「香辛料、お貸ししましょうか?」

 

「なぜ、そのようなことを」

 

「私も料理が好きなんです。美味しく食べてもらいたいと思うのは、料理好きの性分でして」

 

 

フルーフの声には、嘘や欺瞞の気配がなかった。

 

本当に、純粋に、料理のことだけを考えているように見える。魔族が人間を解体して食べようとしている現場に遭遇して、最初に気にするのが調理法だとは。

 

 

「それに」

 

 

フルーフが続けた。

 

 

「貴女、珍しいですよね。魔族なのに、肉を調理して食べるなんて」

 

「他の魔族は、生で食べることがほとんどです」

 

「でしょうね。だからこそ、貴女に興味があるんです」

 

「興味?」

 

「ええ。食へのこだわりがある魔族の方なんて、初めて会いました」

 

 

フルーフは、切り分けられた肉を見た。その視線は品定めをするようでいて、どこか敬意のようなものも含んでいる。

 

 

「解体も丁寧ですね。部位ごとにきちんと分けている。肉を傷つけないように気を使っている。これは、長年の経験がないとできません」

 

「……慣れているだけです」

 

「謙遜しなくていいですよ。私には分かります。貴女は食という概念を大切にしている。だから、こうして丁寧に扱っているのでしょう?」

 

 

女は答えなかった。

 

だが、否定もしなかった。この女の言う通りだ。

食べることは、女にとって数少ない楽しみの一つだった。どうせ食べるなら、美味しく食べたい。

その単純な欲求が、女を調理という行為に向かわせた。

 

 

「一つ、提案があるのですが」

 

「提案?」

 

「私が調理しますから、感想を聞かせてもらえませんか?」

 

「……なぜ、そのようなことを」

 

「実は、私の料理を食べて感想を言ってくれる人を探しているんです」

 

 

フルーフは少し困ったような顔をした。眉根を寄せ、頬を掻きながら、言いにくそうに続ける。

 

 

「一緒に暮らしている魔族が二人いるんですが……感想が雑なんですよ」

 

「雑?」

 

「ええ。一人は『美味しいわ』とか『フルーフの作るものなら、なんでも』とか、それだけ。いや、嬉しいんですけどね。もう一人は『もっとオシャレな感じのものが食べたい』『芋っぽい』とか言うんです」

 

「……」

 

「焼き加減や味については二の次なんですよ。一人は見映え重視の年頃の女の子みたいなこと言いますし。味の参考にはならないんです」

 

 

フルーフの愚痴を聞きながら、女は少し呆れていた。

 

この女は、本当に料理の感想が欲しいだけなのか。

魔族を前にして、殺されることへの恐怖はないのか。いや、先ほど見た通り、この女は殺せない。首を折っても死なない。ならば恐怖を感じる必要がないのは当然か。

 

 

「だから、貴女のような方は貴重なんです。食に対する理解がある方」

 

「……私が、貴女の料理に感想を言えば、それで満足するのですか」

 

「ええ。それ以上は望みません」

 

 

フルーフの目が、真剣なものになった。

 

赤い瞳が、焚き火の光を受けて揺らめいている。

その奥に浮かんでいるのは、純粋な期待。嘘偽りのない、料理人としての渇望だった。

 

 

「どうですか? 一度、私の料理を試してみませんか? 気に入らなければ、それで終わりです。無理強いはしません」

 

 

女は考えた。

 

この女の提案を受けるべきか。普通なら断るところだ。こんな得体の知れない相手の申し出を安易に受けるべきではない。

 

だが、この女は自分の首を捻じ折っても死ななかった。殺そうとしても殺せない相手だ。そして、敵意は感じられない。

むしろ、本当に料理のことしか考えていないように見える。

 

 

それに、女自身も料理に興味がある。

自分の調理法よりも美味しいものがあるなら、知りたいと思った。

 

 

「……分かりました」

 

「本当ですか」

 

「ただし、何か企んでいるのでしたら――」

 

「その時は好きにしてください。私、何度殺されても死なないので、遠慮はいりませんよ」

 

 

フルーフは笑った。

 

 

屈託のない、明るい笑顔だった。本気でそう言っているようだ。

自分の命を担保にするなど、正気の沙汰ではない。

だが、この女にとっては、命の重みが違うのだろう。死なないということは、死を恐れる必要がないということだ。

 

 

 

 

 

 

 

その後、フルーフは手際よく準備を始めた。

 

 

まず、自分の髪を一本抜き、それを地面に置いた。

白い髪が枯れ葉の上で揺れる。女がそれを見つめていると、信じられない光景が始まった。

 

 

髪から肉が生成され始めたのだ。

 

 

最初は小さな塊だった。それが、まるで植物が成長するように膨らんでいく。骨格が形成され、筋肉が付き、皮膚が覆っていく。髪の毛一本から、人間の肉体が形作られていく。

 

 

数分後、地面の上には、フルーフと全く同じ姿をした人間が横たわっていた。

 

 

目を閉じ、息をしていない。

死体だ。生きたことのない、けれど完全な人間の身体。

 

 

女は目を見張ったが、それ以上の反応はしなかった。

世の中には七崩賢のように、理解の及ばない魔法が存在していることを知っている。

多少驚きこそするものの、別段魔法に強い探究心もない。詳細を聞くつもりもなかった。

 

 

フルーフは生成された自分の肉体を、慣れた手つきで解体し始めた。

 

 

その技術は、女が見ても見事なものだった。

肉の繊維に沿って、無駄なく切り分けていく。

刃を入れる角度、力加減、どれも的確だ。長年の修練がなければ、この動きは身につかない。

 

 

「大腿部は脂が乗っているので、香辛料をまぶした後、じっくり揉み込み、弱火で丁寧に焼くと美味しいんですよ」

 

 

フルーフが解説しながら作業を進める。

 

 

「上腕は筋肉質なので、薄く切って炙るのがお勧めです。内臓は鮮度が命ですから、すぐに処理しないといけません」

 

「その程度は、勿論知っています」

 

「おぉ、いいですねぇ。こんな話が通じる魔族の方は本当に希少ですよ」

 

 

フルーフは切り分けた肉に塩をまぶし、手の平で優しく叩くように馴染ませていく。

それから香辛料を少量振りかけ、肉の表面に擦り込む。動作の一つ一つが丁寧で、愛情すら感じられる。

 

串に刺した肉を火にかざす。

 

じゅう、と音がした。肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

脂が熱で溶け出し、滴り落ちて炎に触れ、ジュウジュウと音を立てる。

煙が立ち上り、肉の焼ける芳香が夜の森に広がっていく。

 

 

女は思わず唾を飲み込んだ。

 

 

いつも自分が焼く肉とは、匂いからして違う。

より深く、より複雑で、より食欲をそそる香り。

 

 

「もう少しで焼けますよ。楽しみにしていてください」

 

 

フルーフは肉を丁寧に回しながら、焼き加減を見ている。

火に近づけたり遠ざけたり、微妙な距離を調整しながら、全体に均一に火を通していく。

 

 

その姿は、本当に料理を楽しんでいるように見えた。

 

 

「はい、どうぞ」

 

 

焼き上がった肉を差し出され、女は受け取って口に運んだ。

 

噛んだ瞬間、驚きが走った。

 

表面は香ばしく、中はジューシー。

歯を立てると、パリッとした表面を突き破って、熱い肉汁が溢れ出す。

塩が肉の旨味を引き立て、香辛料が風味に奥行きを加えている。噛むほどに味が広がり、飲み込んだ後も余韻が残る。

 

 

これまで食べてきた自分の調理した肉とは、全く別の食べ物のようだった。

 

 

「どうですか?」

 

「美味いです」

 

「本当ですか。良かった」

 

「本当に美味いです。今まで食べた中で……一番美味いかもしれません」

 

 

フルーフの顔がぱっと明るくなった。子供のような無邪気な喜びが、その表情に溢れている。

 

 

「もっと詳しく教えてもらえますか? どこが美味しかったですか?」

 

「……表面の香ばしさと、中の柔らかさのバランスが絶妙です。塩加減も丁度いい。肉の旨味が……私が焼くよりも、何倍にも感じられます」

 

「その部位は、火加減を少し強めにして、表面をカリッと仕上げたんです。中に肉汁を閉じ込めるために。塩は控えめにして、肉本来の味を活かすようにしました」

 

 

フルーフが嬉しそうに説明する。

 

その言葉の一つ一つに、料理への愛情と知識が詰まっている。これは単なる技術ではない。長い時間をかけて、試行錯誤を重ねてきた者だけが持つ深みだ。

 

 

「やっぱり、ちゃんと感想を言ってくれる方は貴重です。他の部位も試してみますか?」

 

「ぜひ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日間、女はフルーフと共に過ごした。

 

フルーフは次々と料理を作った。内臓の炙り焼き、腕肉の薄切り、心臓の串焼き。

どれも、女がこれまで作ったことのない調理法だった。同じ素材なのに、こうも味が変わるものか。

 

 

「レバーは火を通しすぎると硬くなるので、表面だけさっと焼くのがコツです」

 

 

レバーを口に含むと、外側は香ばしいのに、中はとろけるように柔らかい。舌の上で溶けていく食感と、濃厚な旨味が広がる。

 

 

「筋繊維に逆らって切ると、柔らかく仕上がります」

 

 

フルーフが腕肉を薄くスライスしていく。繊維を断ち切るように、斜めに刃を入れる。焼き上がった肉は、驚くほど柔らかかった。

 

 

「心臓は強火で一気に焼くと、外は香ばしく中はレアに仕上がりますよ」

 

 

心臓の串焼きは、外側がカリカリに焼けているのに、切ると中から赤い肉汁が滲み出す。絶妙な火加減だ。

 

 

フルーフは惜しみなく技術を教えてくれた。なぜここで火を止めるのか、なぜこの順番で調味料を加えるのか、その理由まで丁寧に説明してくれる。

 

女も自分の調理法を披露した。

 

 

「私はこうやって血抜きをしています」

 

 

首の切り口から、魔力で圧をかけながら血を絞り出す。より効率的に、より完全に。

 

 

「なるほど、その角度で切ると肉汁が逃げにくいんですね。でもやはり最終的に魔法で血抜き、考えることは似ますね」

 

 

フルーフは興味深そうに頷いた。

 

 

「内臓はこの順番で取り出すと、傷みにくいです」

 

「素晴らしい。長年の経験が生きていますね」

 

 

二人は、料理を通じて奇妙な関係を築いていった。

 

種族も立場も全く違うのに、食に対する情熱だけは共有していた。もっとも、捌かれているのは全て人肉だが、そんなことは二人にとって些細な問題でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、フルーフがふと尋ねた。

 

 

「そういえば、今更ですが、お名前はなんというのですか? ずっと『貴女』と呼んでいましたが」

 

「……ありません」

 

「名前がない?」

 

「魔族に名前など必要ありません。呼び合う相手もいませんでしたから」

 

 

女は淡々と答えた。

 

名前。それは、誰かに呼ばれるためのものだ。

女には、呼んでくれる者がいなかった。生まれてから今日まで、ずっと一人だった。名前など、必要になったことがない。

 

 

「そうですか。でも、これからは不便ですよね。私、貴女のことを何と呼べばいいか困っていたんです」

 

 

フルーフは女の腰に下がっている剣を見た。

 

古い剣だ。銘は不明。だが、女が肌身離さず持ち歩いている。

食事の時も、眠る時も、常に手の届く場所に置いている。

 

 

「その剣、大事にされていますね。いつも離さないでしょう?」

 

「好きなのです。剣が」

 

「では、『ツルギのおばちゃん』というのはどうでしょう」

 

「おばちゃん?」

 

「剣が好きだから、ツルギ。見た目がそんな感じだから、おばちゃん。あ、嫌なら改めますよ。私昔、名前を考えるセンスが無いみたいなこと言われた記憶があるので……誰に言われたんだったかな?」

 

 

呆れるやら困惑するやら、複雑な気持ちになる。

 

剣が好きだからツルギ。見た目がおばちゃんだからおばちゃん。あまりにも安直で、あまりにも適当で、それでいてどこか温かみのある命名だった。

 

 

この女は、本当に頭がおかしいのかもしれない。

 

 

「……勝手にしてください」

 

「では、ツルギさんと呼ばせてもらいますね」

 

「お好きに」

 

 

それが、女が「ツルギ」と呼ばれるようになった瞬間だった。

 

 

名前を得た。

 

誰かに呼ばれる名前を。それは、女の長い生の中で、初めての経験だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、ツルギさん」

 

 

フルーフとツルギが共に過ごすようになってから数ヶ月。

 

フルーフは何かを考えるような仕草をした後、ふと話題を切り出した。焚き火の傍に座り、炎を見つめながら、少し改まった口調で。

 

 

「私、北の方で街を作っているんです」

 

「街?」

 

「ええ。まだ小さいですが、少しずつ形になってきています」

 

「……人間の街ですか」

 

「そうですね。でも、以前言いましたよね、同居している魔族の方がいると」

 

「にわかに信じがたいですが、何名ですか?」

 

「大魔族と、まだ若い……ちょっと頭がおかしい、戦士の魔族の二名ですね」

 

 

ツルギは眉をひそめた。

 

大魔族。その言葉だけで、背筋が凍る。ツルギのような弱い魔族にとって、大魔族は恐怖の対象だ。同じ魔族でありながら、存在の格が違う。縄張りを侵せば、瞬きの間に殺される。

 

 

「大魔族が、人間の街に?」

 

「ええ。色々言いたいことはあると思いますし、魔族の貴女からすれば信憑性もないでしょう。ですが、到底一言で表現できないくらい色々と重なった結果なので、なんとなくで納得いただくしかないですね。勿論一から全部説明も出来ますが……はっきり言って滅茶苦茶長話になるのでおすすめしません。私、よく無駄に話が長いとか言われますので、数日では済まないくらいべらべら喋り続けると思います」

 

「……そう、ですか。私に危害がないのであれば、特に問題はありません」

 

「あ、そこは安心してください。興味のないことには特に関心も示しませんので。余程興味を惹かない限り干渉してくることはないと思います。あとは、人間性を持った魔族の子供たちもいます。彼らは人を食べませんし、襲いません。人間と一緒に学校に通っています」

 

「人間性を持った……魔族?」

 

「少し特殊な方法で育てられた子供たちです。彼らは人間と同じような感性を持っています。……これも、かなり説明が長くなるので、さっきの説明と合わせると、更に長くなりますね」

 

 

フルーフの言っていることが、ツルギには理解できなかった。

 

魔族が人間と共存する。人間性を持った魔族。それは、ツルギの常識を完全に超えていた。

魔族は人間を食べる。それが自然の摂理であり、変えようのない事実だ。

 

だが、フルーフの言葉には嘘の気配がなかった。

 

 

「提案です。ツルギのおばちゃん、私の街で暮らしませんか? 今、絶賛住民募集中なんです。衣食住の面倒は掛けませんよ」

 

「魔族を街に招き入れるなど正気ではありません。罠や策謀を疑わずにはいられません。ですが、同時に私のような弱い魔族を騙す意味などないことも理解しています。大魔族や魔族の子供に対しては興味を惹かれませんが、安住できる場所の提供、という一点にはかなり惹かれるものがあります」

 

「私が命を提供します、そうすれば貴女も街で暮らせます。食に関して並々ならない関心をお持ちのようですので、全面的に協力させていただきますよ」

 

「……」

 

「毎日、美味しい料理を召し上がっていただけます。狩りをする必要もありません」

 

「それは……とても惹かれる誘い文句ですね」

 

 

魅力的な話だった。

 

毎日の食事が保証される。狩りのリスクから解放される。街道で待ち伏せをしなくていい。墓地を漁らなくていい。それは、ツルギのような弱い魔族にとって、夢のような話だ。

 

 

だが、同時に不安もあった。

 

 

大魔族がいる場所に行くということ。見知らぬ人間たちの中で暮らすということ。何か問題が起きた時、逃げ場はあるのか。裏切られた時、生き延びられるのか。

 

 

「すぐに決めなくても構いませんよ」

 

 

気を遣うように、フルーフが言った。

 

 

「気が向いたらでいいです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数週間、ツルギはフルーフと共に再び旅を続けた。

 

 

フルーフは各地を回り、「人材」を探していた。街を作るには様々な人手が必要なのだと言う。行く先々で、困っている人間に声をかけ、移住を勧めている。

 

 

ツルギはその様子を傍で見ながら、考えていた。

 

 

街に行くべきか。

 

 

今のままなら、これまで通りの生活が続く。

狩りをして、食べて、逃げて。その繰り返しだ。明日の食事も定かではない不安定な日々。

いつか強い魔族か、魔法使いに見つかって殺されるかもしれない。

 

 

でも、フルーフの街に行けば、少なくとも食の心配はなくなる。

毎日美味しいものが食べられる。狩りの危険を冒さなくていい。

 

 

そして何より、フルーフとの料理の時間が楽しかった。

 

 

自分の調理法を教え、新しい技術を学ぶ。

同じ「食」への情熱を持つ者との会話。それは、ツルギがこれまで経験したことのないものだった。孤独な放浪生活の中で、初めて見つけた仲間のような存在。

 

 

「フルーフさん」

 

 

ある朝、ツルギは言った。

 

 

「行きます」

 

「え?」

 

「街に。貴女の街に、行ってみます」

 

 

フルーフの顔がぱっと明るくなった。

朝日を受けて、白い髪が輝く。赤い瞳が、喜びで潤んでいる。

 

 

「本当ですか」

 

「ただし、危険だと判断したら、すぐに出て行きます」

 

「もちろんです。それで構いません」

 

「それと……」

 

「はい?」

 

「貴女の料理は、とても美味いです」

 

「ありがとうございます」

 

「だから……これからも、食べさせてください。そして、私にも作らせてください」

 

フルーフは、心底嬉しそうに笑った。

 

 

その笑顔を見て、ツルギは思った。この女は、本当に料理が好きなのだと。誰かに美味しいと言ってもらうことが、心から嬉しいのだと。

 

 

「もちろんです。一緒に料理しましょう。私達、友達ってことでいいですか?」

 

「……魔族のことをよく理解していますか?」

 

「えぇ。十分過ぎるほど。その上で友達ですよね、と言っています」

 

「……はい。友達です。極めて利己的な理由ですが、私は貴女に友好に近い感情を抱いています。魔族の言葉を信じますか?」

 

「勿論。私は、少なくとも魔族に感情があることは知っていますので……価値観は致命的に違いますが、仇討ちだったり復讐心だったり、嫌悪だったり好感だったり、怠い、好調とかの気分とかも普通にありますからね。理解してますよ。それに、私はある程度魔族の言葉が、完全な嘘か、本当かを判断する指標というものを持っていますので。えぇ、はい、私は貴女を信じます」

 

 

友達。

 

その言葉を、ツルギは心の中で反芻した。

 

魔族にとって、友達という概念は馴染みがない。同族でさえ、基本的には競争相手だ。だが、このフルーフという人間は、ツルギを友達と呼んだ。

 

悪くない響きだった。

 

こうして、ツルギはフルーフと共に北の街へ向かうことになった。

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