ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第24話▶閑話▶ツルギHISTORY

 

 

 

ツルギがフルーフと共に街に着いて数週間が経った。

 

 

彼女はフルーフの手伝いをしながら、少しずつ街の生活に慣れていった。

毎日美味しい食事ができる。狩りをする必要がない。

それだけで、ツルギにとっては天国のような環境だった。

 

 

朝は鳥の囀りで目を覚ます。窓から差し込む陽光を浴びながら、フルーフが用意した朝食を取る。昼は街の様子を見て回り、夜は食事の話に花を咲かせる。

 

 

かつての生活が嘘のようだ。

 

 

街道で旅人を待ち伏せる必要もない。墓地を漁る必要もない。空腹に耐えながら眠る夜も、もうない。

 

 

大魔族のソリテールは確かに恐ろしい存在だった。

だが、こちらから手を出さなければ危害を加えてくる様子はなかった。

 

 

もう一人の魔族、リーニエは気難しそうだった。

桃色の髪をツインテールに結い、豪奢なロリータ服を纏った少女のような姿。だが、腰に下げた剣を見るなり、指導と称して倒れるまで剣の振り方を矯正させられた。意味のわからない独特な思考をしており、少し苦手かもしれない。

 

 

 

 

 

 

ある日、フルーフがツルギを自分の倉庫に招いた。

 

 

「ツルギさん、剣がお好きでしたよね」

 

「ええ」

 

「実は、旅の途中で遺跡から回収したものがあるんです。ずっと仕舞いっぱなしだったんですが……」

 

 

倉庫は街外れにある古い建物だった。

埃っぽい空気の中、様々な物品が雑然と積み上げられている。

書物、魔導具、正体不明の骨董品。フルーフの長い旅路で集められた品々なのだろう。

 

 

フルーフは倉庫の奥へと進み、棚の一角から布に包まれた何かを取り出した。

 

 

「これなんですが」

 

 

布が解かれる。

 

そこに現れたのは、一振りの剣だった。

 

 

古びた剣だ。刀身は鈍い銀色をしていて、柄には年月を感じさせる風化が見られる。だが、ただの古い剣ではなかった。よく見ると、柄や刀身に奇妙な装飾が施されている。

 

 

いや、装飾ではない。

 

 

肉塊だ。

 

 

柄には灰色がかった肉腫のようなものがへばりついている。血管のような筋が走り、時折ドクン、ドクンと脈打っている。刀身の一部には触手のようなものが絡みつき、そして何より――

 

 

眼球があった。

 

 

大きな、翡翠色の眼球。

それが、刀身の中央あたりに埋め込まれている。瞼が開き、ギョロリとツルギの方を向いた。

 

 

「これは……」

 

 

ツルギは剣を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

 

これまで数十本の剣を愛でてきた。

銘刀も、魔剣と呼ばれる類も、遺跡の奥底で眠っていた古代の逸品も。だが、それらに向けてきた愛着とは質が違う。

 

 

これは恋慕に似ていた。

 

あるいは、飢餓にも。

 

触れなければ死んでしまうような、抗いがたい渇望が全身を駆け巡る。

心臓が早鐘を打ち、指先が震える。額に汗が滲み、呼吸が浅くなる。

 

 

なぜだ。なぜ、これほどまでに惹かれる。

 

 

それは単なる武器への興味ではなかった。もっと生物的で、粘着質な引力。柄の肉腫がドクン、ドクンと脈動するたびに、その鼓動がツルギの血流と共鳴する。冷たい金属のはずなのに、そこからはむせ返るような獣の臭いと、甘美なフェロモンが漂っていた。

 

 

「気に入りましたか?」

 

「これは、何なのですか」

 

「分かりません。遺跡で見つけた時から、この状態でした。ソリテール様も興味を持っていたんですが、詳しいことは分からなかったそうです。ただ魂のようなものを中に感じるので……意思があるような? ないような? 正直私には何も分かりません」

 

「魔剣というものですか」

 

 

気がつけば、剣の柄を握っていた。

 

いつ手を伸ばしたのか、記憶がない。

気づいた時には、もう握っていた。

肉腫の感触が掌に伝わる。生温かく、湿っていて、微かに脈動している。

 

 

そして、鞘を抜き――刃を舐めていた。

 

 

何をしている。

 

 

頭の片隅で、冷静な声が響く。

だが、身体は言うことを聞かない。

完全に正気を失っていた。意思とは別の何かに、身体が動かされている。

 

 

魅入られたのだ。

 

 

そうとしか言いようがない。

 

 

脳の奥底を直接指で掻き回されるような、背徳的な衝動。舌先で刃をなぞる感触。金属の冷たさと、肉の生温かさが交互に舌を撫でる。

 

 

鋭利な刃が、柔らかな舌肉を裂いた。

 

 

痛みは感じなかった。ただ、鉄錆の味ではない何かが口に広がる。濃厚で熱い、鮮血の味。自分の血のはずなのに、どこか甘く、蠱惑的な風味がした。

 

 

「――え?」

 

「あっ」

 

 

フルーフとツルギの声が重なった。

 

ツルギは咄嗟に剣を手から離そうとした。だが、指が動かない。まるで柄に溶接されたかのように、剣はツルギの掌に張り付いていた。

 

 

舌が切れた。熱い血が滴り落ちる。

 

 

その瞬間――世界が裏返った。

 

 

 

 

 

 

 

比喩ではない。

 

文字通りの意味で、ツルギの知覚する世界は、その皮を剥ぎ取られ、醜悪な内臓を晒け出した。

 

 

「……あ」

 

 

喉の奥から、ひび割れた悲鳴が漏れた。

 

思考が白く霧散する。脳髄に直接、焼きごてを押し当てられたような衝撃。視界が明滅する。赤、黒、紫、黄。毒々しい極彩色が、網膜を焼き尽くすように明滅し、渦を巻いた。

 

 

「…………ッ゛っ゛!」

 

 

膝から崩れ落ちる。

 

床に手をつこうとした。だが、そこには床などなかった。

 

ツルギの掌が触れたのは、ぬらりと湿った、生温かい肉の感触だった。

 

驚愕に目を見開く。

 

床板の木目は消え失せていた。代わりにそこにあるのは、赤黒い筋繊維の塊。脈打ち、蠢き、時折痙攣するように収縮する。黄色い脂肪が所々にへばりつき、その隙間から透明な体液が滲み出している。

 

壁も変わっていた。

 

白かったはずの壁は、今や巨大な臓器の内壁のようだ。無数の血管が浮き出し、青や紫に変色しながら蠢いている。時折、ぷしゅりと音を立てて破裂し、黄色い膿を噴き出す。その膿が壁を伝い落ち、床の肉に吸い込まれていく。

 

天井を見上げれば、そこには照明の代わりに、ぶよぶよと腫れ上がった腫瘍が浮かんでいた。病的な燐光を放ち、部屋全体を不健康な黄緑色に染めている。

 

どこからともなく、腐敗した体液が染み出し、滴り落ちる音がする。ぴちゃん、ぴちゃん。規則的に。まるで巨大な生き物の心音のように。

 

鼻を突くのは、強烈な異臭だった。

 

腐った肉の匂い。鉄錆のような血の匂い。そして、排泄物と汚物が混ざり合ったような、鼻腔を焼き爛れさせる悪臭。呼吸をするたびに、肺の中が腐った脂で覆われていくようだ。

 

どこからともなく聞こえる、低い呻き声。

 

それは風の音か。それともこの巨大な肉塊と化した建物そのものの消化音なのか。ぐるぐる、ぐちゅぐちゅ。内臓が蠕動する音。何かが溶かされ、吸収されていく音。

 

 

「な……これ……は――」

 

 

自分の声が、遠く聞こえた。

 

耳に届くのは、歪んだノイズ。自分の声すら、正常に聞こえない。錆びついた鉄板を爪で引っ掻いたような、耳障りな不協和音が混じっている。キィキィ、ギャアギャア。無数の虫が鼓膜の裏で鳴き叫んでいるような雑音。

 

 

「ツルギさん!?」

 

 

その中に、一つだけ澄んだ声が響いた。

 

凛として、鈴を転がすような声。その声だけが、あまりにも鮮明で、清らかで、この地獄のような空間において異質だった。

 

 

フルーフだ。

 

 

心配そうな表情で駆け寄ってくる。

 

 

ツルギの視界に映るフルーフは、いつもの白い肌に赤い瞳の、美しい女性のままだった。髪の一本一本に至るまで、清浄で、穢れがない。

 

 

だが、その姿は、この肉の世界において、あまりにも異常だった。

 

 

腐肉と汚物の海に浮かぶ、一輪の白い花。あるいは、臓物でできた部屋に迷い込んだ天使。フルーフだけが、正常だった。周囲の狂気が、彼女だけを避けて通っているかのように。

 

 

「……フルーフ、さん……」

 

 

救いを求めるように、手を伸ばす。

 

震える指先が、虚空を掻く。

 

フルーフは一瞬だけ眉を顰めた。目の前で友人の様子がおかしくなっていく。何が起きているのか、彼女には見えていないのだろう。だが、ツルギの顔色が尋常ではないことは分かるはずだ。

 

 

「大丈夫ですよ」

 

 

フルーフがツルギの手を握り返してくれた。

 

その手だけは、粘液の感触ではなかった。人間の、温かい体温。柔らかく、乾いた肌の感触。この狂った世界で、唯一信じられる確かな現実がそこにあった。

 

 

周りの空気は腐臭に満ちている。壁は脈打ち、床は蠢き、天井からは体液が滴り落ちている。なのに、フルーフからだけは、日向のような匂いがした。

 

 

「どうしました? ――ツルギさん!? ちょっと、しっかりしてください!」

 

 

フルーフが、ツルギの肩を掴んで揺さぶる。

 

 

その感触だけが心地よかった。だが、視界の端で脈打つ壁が、床から滲み出る体液が、ツルギを狂気へと引き戻そうとする。

 

頭が割れそうだ。

 

脳漿が沸騰し、耳から溢れ出してくるような感覚。思考がまとまらない。何が現実で、何が幻覚なのか、もう分からない。

 

 

「ぐ、ぅ…………ッ!」

 

 

言葉にならない呻き声を上げ、ツルギは意識を手放した。

 

最後に感じたのは、フルーフの腕の温もりだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

目覚めは、最悪だった。

 

 

意識が浮上した瞬間、再びあの悪夢が襲いかかってきた。いや、これは夢ではない。現実だ。

ツルギの五感は、完全に狂ってしまっていた。

 

 

視界に広がるのは、相変わらずの臓腑の檻。天井は肋骨のようなアーチを描き、壁は粘膜で覆われている。所々にある腫瘍のような膨らみが、ぼんやりと青白い燐光を放ち、それが余計にこの空間の不気味さを際立たせていた。

 

 

どこからともなく聞こえてくるのは、巨大な心臓の鼓動のような低い律動。ドクン、ドクン、ドクン。この建物全体が、一つの生き物として脈打っているかのようだ。時折、ぐじゅり、と何かが潰れる湿った音が混じる。壁の肉が蠕動するたびに、粘液が擦れ合う不快な音が耳朶を舐めた。

 

 

頭痛がする。脳味噌をスプーンで直接かき混ぜられているような、鈍く執拗な痛み。身体を起こそうとするが、力が入らない。全身が鉛のように重く、指先一つ動かすのにも多大な労力を要した。脂汗が止まらない。

 

寝台のシーツは、ぐっしょりと濡れている。その感触もまた、不快極まりないものだった。まるで、巨大なナメクジの這った跡に寝かされているような、ぬるぬるとした粘着質な感触。肌に張り付く生温かさが、吐き気を催す。

 

 

「気がつきましたか?」

 

 

近くで声がした。透き通るような、美しい声。この腐った世界において、それだけが澄んだ水のように響く。

 

視線を向けると、フルーフが椅子に座って本を読んでいた。その姿だけが、相変わらず穢れを知らぬ白さで輝いている。

 

 

だが、フルーフが座っている椅子は、脈打つ肉の塊に見えた。フルーフが手にしている本は、腐敗した人間の皮を剥いで作った表紙に見え、ページに書かれている文字は、這いずり回るミミズの群れだ。そんなものを眺めながら、フルーフは平然としている。いや、彼女には普通に見えているのだ。狂っているのは、ツルギの方なのだから。

 

 

「……水を」

 

 

掠れた声で呟く。喉が渇いて張り付くようだった。

 

 

フルーフはすぐに立ち上がり、水差しからコップに液体を注いだ。差し出されたコップの中身を見て、ツルギは息を呑んだ。

 

 

それは水ではなかった。どす黒く濁り、油膜が浮いた、ヘドロのような液体。中には何かの幼虫のようなものが蠢いている。腐敗した卵の臭いが鼻を突き、胃の腑がせり上がってくる。

 

 

これを飲めと言うのか。生物としての尊厳が拒絶している。本能的な嫌悪で手が震えた。だが、渇きには勝てない。喉の奥がひりつき、舌が口蓋に貼り付いて剥がれない。

 

 

意を決して、コップを口に運ぶ。鼻を突く腐敗臭。下水と吐瀉物を煮詰めたような悪臭が立ち上る。口に含んだ瞬間、広がるのは泥と鉄錆と排泄物が混ざったような、強烈な不快感。ざらざらとした異物が舌の上を転がり、喉の奥へ落ちていこうとする。

 

 

「ぇ゛ッ……!」

 

 

堪らず吐き出した。胃液混じりの汚物が、床の肉に染み込んでいく。涙目で顔を上げると、フルーフが心配そうに眉をひそめていた。

 

 

「え……え!? だ、大丈夫ですか!? 顔色が真っ青ですよ」

 

 

フルーフがツルギの背中をさすってくれた。その手のひらの温かさだけが、救いだった。フルーフに触れている部分だけが、正常な世界と繋がっている。それ以外のすべてが、ツルギを拒絶し、汚染しようとしてくる。

 

 

「……大丈夫、です」

 

 

嘘だ。全く大丈夫ではない。

だが、ここで弱音を吐けば、異常者の烙印を押される可能性がある。この街を追い出されるかもしれない。それだけは避けたかった。ここには、食料がある。フルーフがいる。この状況がいつまで続くのかもわからない。一時的だと楽観視もできない。安易な言葉は口にすべきではなかった。

 

 

「お腹が空きました」

 

 

話題を変えるために、そう言った。実際、空腹は限界に達していた。フルーフは少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。

 

 

「分かりました。すぐに用意しますね」

 

 

フルーフが部屋を出て行くと、一人残されたツルギは、肉のベッドの上で身を小さくした。

 

 

怖い。世界が怖い。

 

 

何もかもが敵意を持っているように感じる。

壁のシミが嘲笑う人の顔に見え、床の模様が呪詛の言葉に見えた。天井から垂れ下がる粘液が、ツルギの頬を舐めようと伸びてくる幻覚。耳の奥では、誰かが囁いている。お前はここで朽ちるのだ、と。

 

 

幻聴が止まらない。誰かが嘲笑っている。自分の頭がおかしくなっていくのが分かった。いかに魔族とはいえ、このままでは、発狂して死んでしまう。

 

 

『……しっかりして』

 

 

突然、頭の中に声が響いた。

鈴を転がすような、涼やかで、それでいてどこか妖艶な声。フルーフの声ではない。もっと若く、少女のような声だ。そして、この声もまた、はっきりと「言葉」として聞こえた。周囲の金切り声とは違う、澄んだ音色。

 

 

『壊れちゃだめ。私が繋ぎ止めてあげる』

 

 

その声は、ツルギの脳髄を優しく撫で、千切れかけた神経を一本一本繋ぎ合わせていくようだった。内側の深い何かに直接干渉し、狂気の浸食が音を立ててせき止められている。

熱湯を浴びせられた直後に、氷水を被ったかのようだった。焼けつく狂気の熱が、一瞬で冷却されていく。濁りきった意識の中に、一筋の清涼な光が差し込む。

 

 

思考がクリアになる。恐怖が薄れ、代わりに奇妙な安堵感が広がった。

 

 

『貴女は強いわ。この世界に適合しようとしている』

 

『その調子よ。ゆっくりでいいの。焦らないで』

 

 

その声の主は、ツルギを励まし、導いてくれた。姿は見えない。だが、その存在だけは、はっきりと感じられた。腰にある、あの剣から声がしているのだと、直感で理解した。

 

 

それから数日間、ツルギは地獄のような日々を送った。

 

 

意識が戻っては精神の内で狂乱し、また気絶する。その繰り返しだった。

脳が現実を処理しきれず、過熱を起こすのだ。目を開けるたびに、肉の壁が脈打ち、床から這い出る触手が足首を掴もうとする。悲鳴を上げ、暴れ、そして意識を手放す。

 

 

だが、その度に、サヤ――剣から響く声の主が、ツルギの意識を深淵から引き戻してくれた。

 

 

『大丈夫、ここにいるよ』

 

 

その声だけを頼りに、ツルギは少しずつ、この反転した世界に順応していった。

 

 

視覚の異常には、慣れるしかなかった。見えているものが全て肉塊だとしても、それに触れても害がないことは分かった。

目の前にあるのが机であれ椅子であれ、蠢く内臓に見えようとも、その機能は変わらない。

そう言い聞かせ、震える手で触れることを繰り返した。

 

 

聴覚の異常も、ノイズの中から意味のある音を拾い上げる訓練を繰り返した。

不快な金切り音も、慣れればただの環境音だ。その奥にある言葉の響きを聞き取る……と言いたいところだが、フルーフの声とサヤの声以外は、やはり言葉として認識できない。

不快な音の羅列から、文脈を推測するしかなかった。

 

 

そして味覚。これが一番の問題だった。

普通の食事は、汚物を食べているようで喉を通らない。パンは膿にカビの生えたスポンジに見え、噛めばじゅくりと腐った汁が滲み出る。スープは下水そのもので、浮かぶ具材は正体不明の軟骨のようだった。

野菜は腐った歯肉に見え、繊維を噛み切るたびに血膿が口内に広がる感触がした。

 

 

唯一口にできるのは、フルーフが提供してくれるものだけだった。

 

 

「お待たせしました。今日は特別に、上質な部位を用意しましたよ」

 

 

フルーフが皿を持って部屋に入ってきた。皿の上には、焼いた肉が乗っている。フルーフ自身の肉だ。

 

 

以前、フルーフが調理してくれた時と同じように、丁寧に焼かれている。だが、ツルギの目には、それがこの世で最も美しい料理に見えた。

 

 

黄金色に輝く脂。滴る肉汁。芳しい香り。他のすべてが腐臭を放つ中で、それだけが清浄な輝きを放っている。まるで、この血肉の牢獄で唯一、穢れを知らない聖餐のようだった。

 

 

「いただきます」

 

 

ナイフとフォークを手に取る。食器の感触はヌルヌルとして気持ち悪いが、今は気にならない。意識を集中させるのは、目の前の料理だけだ。肉を切り分け、口に運ぶ。

 

 

「……っ」

 

 

美味い。涙が出るほど美味い。

 

口に含んだ瞬間、脳が震えた。腐臭に満ちた世界で、唯一の正解。とろけるような脂の甘みと、濃厚な命の味が、荒れ果てたツルギの味蕾を優しく撫でていく。噛みしめるほどに旨味が溢れ、喉を通る温かさが、胃の腑を満たしていく。

 

 

「どうですか?」

 

 

フルーフが澄んだ声で尋ねてきた。

 

 

「美味しいです。とても」

 

 

ツルギが微笑むと、フルーフは嬉しそうに目を細めた。

 

 

 

 

 

 

ある日、ツルギは久しぶりに外へ出ることにした。

感覚のリハビリも兼ねて、少し歩いてみようと思ったのだ。フルーフは心配そうにしていたが、ツルギが大丈夫だと言うと、付き添ってくれることになった。

 

 

扉を開けると、外の世界はやはり血肉塗れだった。

 

 

空はどす黒く淀み、雲は内臓のように垂れ込めている。太陽は膿んだ腫れ物のように黄色く濁った光を放ち、地面は腐った肉の絨毯だ。足を踏み出すたびに、ぐちゅり、と湿った音が響く。

建物は巨大な骨格標本のようで、窓は虚ろな眼窩のようにこちらを見下ろしている。街路樹は触手のような枝を伸ばし、風に揺れて不気味なざわめきを立てていた。

 

 

頭の中に不快という感覚が、思考よりも先に叩き込まれる。

 

 

吐き気を堪えながら、一歩踏み出す。

足裏に伝わる、ぶよぶよとした感触。まるで生き物の上を歩いているようだ。踏みしめるたびに、何かが潰れる感触と、生温かい液体が靴底に滲む感覚。

 

 

「大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」

 

 

フルーフの腕に掴まりながら、ゆっくりと歩く。人間の感触だ。温かく、柔らかい。それがツルギを正気に繋ぎ止める命綱だった。

 

 

街を歩いていると、向こうから二つの肉塊が近づいてきた。不協和音を奏でながら、こちらに向かってくる。その動きは奇妙で、関節がないかのようにクネクネとしている。醜悪な肉の塊。表面には膿疱が浮き、粘液が垂れている。それが、ギョロリとした目玉をこちらに向けている。

 

 

「■■■■■■■、■■■■!」 「■■、■■■■■■■■!」

 

 

肉塊たちが、ツルギに向かって何かを叫んだ。

耳障りな金属音。ガラスをひっかくような不快なノイズ。敵意があるように感じた。

 

 

肉の塊が振り上げた触手には、銀色に光る鋭利な鉤爪が握られていた。殺される。解体される。ツルギの内臓を啜ろうとしているのだ。本能が警鐘を鳴らした。

 

 

殺される前に、殺さなければ。

 

 

ツルギは腰の剣を抜いた。

剣を握った瞬間、脳内に快楽物質が溢れ出すのを感じた。視界が研ぎ澄まされ、恐怖が消え、代わりに殺意だけが残る。

 

 

「え――ちょ、ツルギのおばちゃん!?」

 

 

フルーフが驚いたような声を上げた。

その声は鮮明に聞こえる。だが、ツルギは止まらない。止まれない。瞳孔は開ききり、焦点は定まらないまま、ただ眼前の「肉塊」だけを捉えていた。

 

 

思考はない。感情もない。あるのは、殺すという本能だけ。

口元から涎が垂れるのも構わず、無言で一歩を踏み出した。

 

 

「■■■■■■——ッ!!」

 

 

肉塊の一つが、何かを喚きながら手を伸ばしてきた。襲ってくる。ツルギは無言で剣を振るった。

 

鋭い刃が、肉塊の胴を薙ぐ。何の抵抗もなく、肉が裂け、骨が断たれる感触。手応えが腕から肩へと伝わり、背筋に快感が走る。鮮血が噴き出し、ツルギの顔にかかった。

 

 

きもちわるい。その汚水が精神に強い負荷をかけてくる。

顔に張り付く生温かさ、鉄錆の臭い、肌を伝って流れ落ちる感触。だが、手は止まらない。

 

 

「■■■、■■■■!?」

 

 

もう一つの肉塊が、恐怖に慄いたような音を立てて後ずさる。逃がさない。

 

 

正確な動作で距離を詰めた。こんな機敏な動きは出来なかったはず、だというのに、まるで熟練の剣士のように研ぎ澄まされた動きで剣を振るう。

目は大きく見開き、瞬きもしない。脂汗が額を伝い、目に入るが、気にもならなかった。ただ、目の前の怪物を解体することだけが、今のツルギの全てだった。

 

 

ただ、殺す。剣を突き出す。肉塊の胸部に、刃が深々と突き刺さった。

 

 

不快な断末魔が響く。

ツルギは無表情のまま、剣を捻り、傷口を広げた。

 

わかる、最適な殺し方が。

 

技術が脳髄に広がり、全身の神経が操り糸のように駆動し、正確に身体が動き回る。

肉塊が痙攣し、動かなくなる。それでも剣を抜こうとしなかった。完全に、息の根を止めるまで。

 

 

「待って!! ストップ! たんま……! たんま、たんまです!!」

 

 

フルーフがツルギの身体に飛びついてきた。フルーフの腕が、ツルギの動きを封じようとする。

 

 

「ちょっと、失礼しますよ!」

 

 

首に腕が絡みつく感触がした、その瞬間。

 

――ゴキッ!

 

視界が暗転した。

 

再び目を覚ました時、ツルギはベッドの上にいた。

 

 

手足は拘束されていないが、身体中が気だるい。

鉛を飲み込んだように重く、指先すら思うように動かない。

枕元にはフルーフが座っていた。沈痛な面持ちで、ツルギを見つめている。

 

 

「……フルーフさん」

 

「気がつきましたか」

 

 

フルーフの声は、以前よりも低く、重かった。

だが、はっきりと聞こえる。フルーフだけは、いつだって正常なのだ。

 

 

「申し訳ありません。私は、どうかしていました」

 

「……ええ。本当に、どうかしていましたよ」

 

 

フルーフは溜息をついた。その溜息には、怒りではなく、深い疲労と心配が滲んでいた。

 

 

「いきなり無言で『人』を惨殺し出すものですから、度肝を抜かれましたよ」

 

「……え?」

 

「街の診療所の医師と、看護師です。貴女の様子がおかしいと思い、診察を頼んでいたんです」

 

 

血の気が引いた。無抵抗な人間を殺したのか。

しかも、自分を助けようとしてくれた人たちを。

まずい、客観的に見てその行動は異常者以外の何物でもない。あまりにも共生の意思が欠けている。実害を出した以上、追放される可能性が高い。

 

 

「そんな……」

 

「安心してください。二人とも、すぐに蘇生させましたから」

 

 

フルーフは、こともなげに言った。

まるで、花瓶を割って直したとでも言うような、軽い口調で。

 

 

「記憶も処理しました。貴女に襲われたことは覚えていません。こっちで色々誤魔化しておいたので何も問題ありませんよ」

 

「ですが……」

 

「私がついていながら、止められなかった私の責任です。貴女は悪くありません」

 

 

フルーフがツルギの手を握った。その手は温かかった。乾いていて、柔らかくて、確かに人間の手だった。

 

 

「貴女の精神状態は、やはり異常ですね。今、どんな状態なのか、主観で話して頂けますか?」

 

 

ここまで対話を重ねれば、理解できている。

フルーフは、ツルギが精神に異常をきたしていると知っても追い出すことはない。過剰なほどの介護と献身を受けた身として、断言できる。

魔族としての本能も肯定を示していた。しかし、この状況をどう説明していいものか……。

 

 

『……私が説明するわ』

 

 

突然、頭の中に声が響いた。サヤの声だ。

 

 

「サヤさん……?」

 

「どうしました?」

 

「いえ、剣が……話しかけてきているんです」

 

「え、剣ですか?」

 

 

フルーフは驚いたように剣を見た。目玉のついた異形の装飾を、まじまじと見つめる。サヤの声は、ツルギにしか聞こえない。サヤの言葉を通訳するように、フルーフに伝えた。

 

 

「『フルーフ、貴女には聞こえないでしょうけど、私はサヤ。この剣に宿っている意識体? って言えばいいのかな』……と言っています」

 

「意識体……今、疑問形でしたよね? 魔剣の精霊か何かですか?」

 

「『もっと、遠いところから来た存在だよ。貴女に通じる言葉で表現するなら、異星人、あるいは高次元生命体かな』」

 

 

サヤは淡々と語った。

サヤの正体は、この世界のものではない。遥か彼方の宇宙から飛来した、異質の生命体。

本来の姿は、不定形の肉塊であり、見る者を狂気に陥れる冒涜的な存在なのだという。

今は剣と融合しているが、それでもサヤの影響力は強大で、深く接触したツルギの精神を汚染してしまうほどであり、現在ツルギがどのような状態であるかなども、余さず語った。

 

 

「うわぁ、そんなことになってたんですか?ツルギさん、そういうことなら、もっと早く言ってほしかったですね。それにしても、私だけが普通に見えるだなんて、不思議ですね」

 

『貴女がツルギに正常に見えている理由……それは、貴女の魂が原因だと思う。詳しく話すとすごく長くなりそうだから、また今度話すね。今はそれほど大事でもないし』

 

 

フルーフは首を何度か傾けた後、妙に納得した様子だった。

フルーフ自身、自分の出自や特異性について疑問を持っていたようだが、とりあえずの納得はしたようだ。

 

 

『説明した通り、ツルギが飲んでいる水は汚水、食べる食事は腐った生ゴミにしか見えないの。だから、フルーフの血と肉しか食べられないようにしたのは、私のせいでもあるわ。ごめんなさい』

 

「それを言ったら、剣を手渡した私が一番悪いじゃないですか、私の方こそすみませんでした」

 

 

サヤの謝罪を伝えると、フルーフから謝罪が返ってきた。

なんとも不思議な感じだ。ツルギは、自分の意志で言葉を発した。

 

「全員、謝らないでください。私が勝手に舐めたのが悪いんです。誰も悪くありません」

 

「『えぇ……? 100で私が悪いと思うんだけど』」

 

 

サヤの声が聞こえていないはずなのに、フルーフとツルギの声が何故かハモった。

いえいえ、私が悪いんです、と言いたいところだが、そんな事を言えば謝罪の無限ループに陥る予感がツルギにはあった。

 

この不毛な流れは、打ち切らなければならない。

 

 

「それでも、貴女達は私を助けてくれました。狂気の中で、ずっと私を支えてくれました。貴女達がいなければ、私はとっくに壊れていたでしょう」

 

 

それは紛れもない事実だった。フルーフとサヤの声だけが、この歪んだ現実で唯一の救いだった。

二人がいたから、ツルギはツルギでいられたのだ。

 

 

恨みも遺恨も、湧いてこない。

 

――おかしい。

 

魔族として当然あるべき感情が、まるで抜け落ちている。

以前のツルギなら、自分をこんな目に遭わせた存在に対して、少なくとも警戒心くらいは抱いたはずだ。

だが今、サヤに向ける感情は――親愛、だろうか。人間が使う、あの言葉。それが最も近いように思えた。

 

 

自分の中で、何かが決定的に変わってしまっている。

頭がおかしくなりすぎてしまったのか、はたまた、サヤがツルギの中身を弄り回す過程で何かが欠落したのか、入れ替わったのかは定かではない。

その事実を、ツルギは不思議なほど穏やかに受け入れていた。

 

 

「私は怒っていません。むしろ、感謝しています」

 

 

ツルギが剣を撫でると、目玉が嬉しそうに細められた気がした。

 

フルーフは、そんなツルギたちを申し訳なさそうに見た後、優しく微笑んだ。

その笑顔は、腐肉の迷宮の中で、あまりにも眩しかった。

 

 

「あー……まだ頭を下げ足りないのですが。そういうことならこれ以上は言いません。サ■さん? との仲は見た所良好そうですね」

 

「はい。彼女とは……これからも、うまくやっていけそうです」

 

「それは何よりです。■ヤさん、ん?……なんだか発言するとノイズみたいなのが走る気がしますが……ま、まぁいいでしょう。えっとサ■さ――やっぱ走りますね。いえ、ツルギさんのこと、よろしくお願いしますね」

 

 

フルーフが剣に向かって語りかけると、剣が微かに震えて応えた。

 

その夜、ツルギは夢を見た。

 

そこは、肉と臓物の世界ではなかった。

見渡す限りの草原が広がり、色とりどりの花々が風に揺れている。空は青く澄み渡り、太陽が暖かな光を注いでいる。風が草を揺らし、花の香りを運んでくる。

 

 

なんて美しい世界だろう。ツルギがかつて見ていた世界よりも、ずっと鮮やかで、生命力に満ちている。肌を撫でる風は温かく、草の匂いは甘く、遠くで小鳥が囀っている。五感のすべてが、この世界の美しさを伝えてくる。

 

 

「気に入った?」

 

 

背後から声をかけられて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 

 

翡翠色の長い髪が、風になびいている。透き通るような白い肌。大きな瞳は、草原と同じ緑色に輝いている。背中には、植物の葉脈のような、あるいは昆虫の翅のような、薄い膜状の翼が生えている。陽光を透かして、七色に輝いていた。

 

 

人間でも魔族でもない。童話の中に登場する精霊か、妖精のような姿。

 

 

「貴女は……」

 

「サヤだよ。初めまして、ツルギ」

 

 

少女は悪戯っぽく笑った。

その笑顔は、無邪気で、愛らしく、そしてどこか人間離れした神秘性を帯びている。

花が綻ぶように、自然で、温かい笑顔だった。

 

 

「それが、サヤさんの本当の姿ですか」

 

「う〜ん、精神世界での仮初めの姿だけど、ある意味では本物とも言えるかな。本来の私は……もっと、こう、不定形で、触手がいっぱいで、見る人が見れば発狂しちゃうような姿なの。ショゴスってわかる?」

 

「いえ、わかりません。……そうですか」

 

「あ、ここだと、そういう知識はないんだ。えっと、ね、私のこと怖くない?」

 

「いいえ。貴女がどんな姿でも、私にとっては関係ありません」

 

 

サヤは嬉しそうに目を輝かせた。緑の瞳が、陽光を受けて宝石のように煌めく。

 

 

「嬉しい! 私、ずっと友達が欲しかったの!」

 

 

サヤはツルギの手を取って、草原を駆け出した。その手は小さくて、温かくて、確かな重みがあった。

 

 

「こっちよ! 見せたいものがいっぱいあるの!」

 

 

二人は草原を駆けた。サヤの笑い声が、鈴のように澄んだ音色で草原に響く。翡翠色の髪が風になびき、背中の翼が陽光を弾いて虹色の軌跡を描く。

 

 

花畑に飛び込めば、色とりどりの花弁が舞い上がり、二人の周囲を彩った。赤、青、黄、紫――あらゆる色が空中で踊り、やがてゆっくりと舞い降りてくる。ツルギがサヤの髪に絡まった白い花びらを取ってやると、サヤは照れたように頬を染めた。

 

 

「えへへ、ありがとう」

 

 

小川を見つければ、サヤが先に水を掬い上げ、ツルギの顔めがけて投げつけてきた。

冷たい飛沫。驚いて目を瞬かせるツルギに、サヤが悪戯っぽく舌を出す。

 

その無邪気さに、ツルギは自分でも驚くほど自然に笑っていた。

 

やがて二人は草原に寝転び、雲の流れる空を眺めた。

隣り合って横たわり、肩が触れ合っている。

 

サヤは、フルーフに語ったこと以上に、自分のことをたくさん話してくれた。

自分が宇宙から来た生命体であること。愛を知りたくて旅をしてきたこと。自身が観測した、ある男女の物語のこと。

 

 

「私が知っている、ある世界の物語を聞いてくれる?」

 

 

サヤは遠い目をして語り始めた。その声は、風に乗って草原に溶けていく。

 

 

「その世界はね、ある男の人にとっては、今のツルギが見ているような、腐った肉と臓物の地獄だったの。彼は事故で脳を怪我して、世界がすべて醜悪な怪物たちの巣窟に見えるようになってしまった」

 

「今の私のようですね」

 

「そう。ツルギの場合は狂気による重度の精神汚染みたいなものだから、もっと酷いけどね。そんな狂気の世界で、彼にはたった一人だけ、美しい少女に見える存在がいたの。周りの人間からは醜悪な怪物に見える彼女だけが、彼にとっての天使だった」

 

 

サヤの声は、優しく、そしてどこか切なかった。

風が草を揺らし、花の香りを運んでくる。

 

 

「二人はね、誰にも理解されない孤独の中で、お互いだけを求め合ったわ。種族も、世界の理さえも超えて愛し合った。世界中を敵に回しても、二人だけの世界を築き上げたの。それは、どんな星の輝きよりも美しく、狂おしいほどに純粋な愛だったわ」

 

「……」

 

「最後には、彼女は彼のために世界を変えたの。彼が愛した美しい世界を、現実のものにするために。自らの命を使って、世界を侵食し、塗り替えた。それは破滅だったかもしれないけれど、二人にとっては最高のハッピーエンドだったのよ」

 

 

狂気の中でしか成立しない愛。世界を敵に回しても貫く愛。

 

 

それは、魔族であるツルギには理解できないはずの感情だった。だが、今のツルギには分かる気がした。

この反転した世界で、唯一正常に見えるフルーフ。そして、精神を支えてくれるサヤ。フルーフとサヤへの想いと、物語の二人の想いが少しだけ重なる気がした。

 

 

そして想う。愛とは、世界を変えるほどの力なのだと。

 

 

「素敵な話ですね」

 

「でしょう? 私もね、いつかそんな愛を見てみたいの。応援したいの。自分の手で、育ててみたいの」

 

 

サヤの目は、夢見る少女のように輝いていた。緑の瞳に、空の青と草原の緑が映り込んでいる。

 

 

「ねえ、ツルギ。一緒に夢を追いかけてくれる?」

 

「夢?」

 

「うん。この世界で、最高の愛を見つけるの。そして、それを私たちの手で、完璧な形にするの」

 

 

サヤは身を起こし、ツルギを見下ろした。逆光で、翡翠色の髪が光の輪のように輝いている。

 

 

「私一人じゃ、動けないし、この世界のことはよく分からないから。ツルギが手伝ってくれたら、きっと上手くいくと思うの」

 

「……分かりました。貴女が私を友人と呼ぶのであれば」

 

ツルギは微笑んだ。サヤが語ってくれた、あの狂気的な愛の物語。その美しさと切なさは、ツルギの胸に深く刻まれていた。

そんな愛を探し、育てたいというサヤの夢は、ツルギにも眩しく映る。それに友人の頼みだ。断る理由などない。

 

 

「はい、私とサヤさんで……一緒にやりましょう」

 

「本当!? やったぁ!」

 

 

サヤはツルギに抱きついてきた。小さな身体が、ツルギの胸に飛び込んでくる。花の香りがした。

 

 

「大好きだよ、ツルギ! これから忙しくなるよ! まずは相手を探さなくちゃ!」

 

 

サヤの体温が、じんわりと伝わってきた。夢の中だけれど、それは確かな温もりだった。

 

 

目が覚めると、そこはまた肉と臓物の世界だった。

 

 

天井の肉壁が脈打ち、不快な臭いが漂っている。

壁の血管が蠕動し、床から粘液が滲み出している。

 

 

だが、以前ほどの嫌悪感はなかった。心の中に、温かい光が灯っていたからだ。

 

 

ツルギには、サヤがいる。この壊れた景色を、共に歩んでくれる友がいる。それだけで、生きていける気がした。

 

 

心の中で呟く。

 

 

――おはようございます、サヤさん。

 

 

剣の目玉が、おはようと瞬いた気がした。

 

今日もまた、狂気と愛に満ちた一日が始まる。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

それからの日々は、訓練と学習の連続だった。

 

 

サヤの積極的な手助けもあり、ツルギは脳内と精神を常に調整し、感覚のズレを少しずつ修正していった。

 

おかげで、化け物たちの声も、少しずつ言葉として聞き取れるようになってきた。

最初は耳を塞ぎたくなるほどの金切り声も、毎日聞き続ければ意識から外せるようになる。

その下に埋もれている本来の声を、一語一語拾い集めていく。文字も同様だ。ミミズが這いずり回るような羅列を、一つ一つの形として記憶し直し、なんとか判読できる程度まで訓練を重ねた。

 

 

サヤは、ツルギが狂い出した最初の段階から既に、精神構造そのものに干渉していたらしい。狂気で焼き切れた部分を、そのまま放置すれば廃人になる。だからサヤは、壊れた箇所を別のもので埋め合わせた。

 

問題は、その『別のもの』だ。サヤが修復の素材として使えたのは、自分の中に蓄積されたデータだけ。そして、サヤが最も多く保有していたのは、魔族ではなく人間の情報だった。あの物語の青年――狂気の世界で愛を貫いた男の遺伝子情報。

 

結果として、ツルギの感性は少しずつ人間に近づいていた。壊れた魔族の精神と脳を、人間の部品で継ぎ接ぎしたのだから、当然といえば当然の帰結だった。

 

 

「つまり、焼き切れて使えなくなった部分を、サ■さんが知っているものに置き換えたということですか?」

 

 

『うん。魔族についての遺伝子情報は私の中にあまりなかったから、魔族とよく似た人間の構造情報を元に修復していたの。おかしくなった部分を別の正常なものに置き換えて、ツギハギしていった感じだね。あとは魂も結構弄ってるよ、ツルギには概念的に理解できないと思うから省くけど、元の半分以上は色々なものに置き換わってる、かな』

 

 

多少感情に幅が出た気がするものの、感性は未だ魔族寄りだ。フルーフの人肉だって平気で食せる。

サヤに、そう説明されても特に実感のないツルギは、肉片の山に埋もれた本の山から一冊取り出す。

 

 

それは、ある日フルーフが持ってきた本に紛れていた恋愛小説だった。

 

 

「暇つぶしにどうぞ」と言って置いていった本の中の一冊。

魔族であるツルギには絶対的に理解できない代物だ。

 

なにせ魔族には、愛情という感情や他者への共感性といった概念が致命的に欠落している。

それを理解しているからこそ、手に取った。

サヤの話が本当なら理解できるはずだからだ。しかし、ツルギは読む前から、どうせつまらないだろうと高を括っていた。

 

 

だが、読んでみて驚いた。理解できたのだ。

 

 

登場人物たちの心の動きが、手に取るように分かった。

恋する切なさ、すれ違う悲しみ、結ばれる喜び。

それらの感情が、ツルギの胸に共鳴した。

 

主人公が想い人を前にして言葉を詰まらせる場面では、こちらまで胸が苦しくなった。

二人が結ばれる場面では、知らず知らずのうちに頬が緩んでいた。

 

 

「面白い……ですね」

 

 

ページを捲る手が止まらなかった。感情移入しながら物語を読むという体験は、ツルギにとって初めてのものだった。

以前は、ただ情報を学ぶだけだった読書が、これほど豊かな色彩を持つものだとは知らなかった。

サヤが語ってくれた、あの狂気的な愛の物語。その片鱗を、ツルギ自身も感じ取れた。

 

 

「あれ? 小説が紛れてました? 魔族のツルギさんには向かないものですね、……でも、気に入ってくれたみたいですね」

 

 

フルーフの声が聞こえ、顔を上げる。

そこには椅子に座り、ツルギに微笑みかけるフルーフがいた。余程熱中していたのか、彼女が来ていたことに全く気づかなかった。

 

 

「意外ですね。魔族の方は、こういうのは普通は退屈……いえ、興味そのものを抱かないものなんですが」

 

「ええ。自分でも不思議です」

 

 

日常的な感情の彩りの他にも、フルーフとの会話も、以前よりずっと楽しくなった。

会話が自然と弾むようになり、以前は食に関する話題以外は噛み合わなかったが、今では日常の些細な出来事や、互いの考え方についても語り合えるようになった。

フルーフが冗談を言えば笑い、悩みを聞けば共感する。そんな当たり前の交流が、とても新鮮で、嬉しかった。

 

 

おかしい。何も変わっていないはずなのに変わっている。

自分ははたして、魔族、人間、どちらなのだろうか?

 

 

その疑問が過ぎり、ふとした瞬間剣を抜き、フルーフの首筋を突いてみた。

 

 

「――がふッ!?」

 

 

フルーフのことを以前のような口だけでなく、確かに友達だと、大切な存在だと感じている。

だというのに罪悪感も申し訳なさも欠片もない。人を殺すことへの抵抗はまるでない。

いや、違う、罪悪感を感じるが、それを平気で無視できているのだ。

 

 

客観視すればその内面の異常性に自分でも気がつけた。

平然と人を害せる、そして痛みに、殺した相手にも愛する人間、家族がいることに想像が繋がる。

 

それを理解して尚平然と殺せる。人間として罪悪を抱いても、魔族としての部分で、無感情にそれらを処理してしまえる。

かといって愛情は理解できる。あまりにもチグハグで、どう表現していいかわからない感覚だった。

 

 

魔族とは言えない。だが、人間とは限りなく遠い。どう言葉にすべきか、わからない。

 

 

「すみません」

 

「いえいえ。お腹でもすきましたか?」

 

「はい」

 

 

そして、食事の味も変わった。

フルーフの血肉は、相変わらず美味しい。そこに「感情」というスパイスが加わったことで、その味はさらに深みを増していた。

友人と食卓を囲む喜び。会話を楽しみながら味わう食事。それが、これほどまでに料理を美味しくするとは。

 

「当初は死にたくなるような気分でしたが、この狂った認識を除けば……存外、悪くはない気分ですね」

 

『私が弄り回した結果だから、なんとも言いづらいよ。ツルギ……』

 

「ふふ、感情による影響なのか、環境による影響なのかわかりませんが。前よりもフルーフさんを美味しく感じます。友愛を抱く人間を喰べながら、その方と会話を重ね食すことが、これほど美味しいのだと知りませんでした」

 

 

フルーフと剣から、何かギョッとしたような空気感が伝わってきた。

 

 

「失ったものと得たもの、苦痛と楽しみ、単純に比較はできませんが、美味しい物をより美味しく食べられることは嬉しいものです」

 

 

『あはは……本当に食べるの好きだよね、ツルギは』

 

 

脳内でサヤが笑った。少し引きつっていたが、楽しげだった。

 

 

『ねえ、提案があるんだけど』

 

「何ですか?」

 

『私と感覚を同期させてみない? 一時的にだけど』

 

「感覚を……同期?」

 

『うん。私の感覚を、一時的にツルギに共有させるの。私の目を通して世界を見れば、ツルギにも正常な景色が見えるはず。ただ、そのままだと味覚まで私基準になっちゃうから、そこだけは人間寄りに調整するね。私たちって元々遺伝子ごと原生生物を乗っ取る侵略生物だから、そういうのは得意なの。勿論ずっとは危ないし、戻せなくなるから一時的だけど……。それでもいいなら、私の見ている世界を、ツルギも見ることができるよ』

 

 

サヤは、この世界の全てを正常に認識している。

サヤの言葉にイマイチ理解の及ばないツルギだが、感覚を借りれば、ツルギも正常な世界を見ることができるということは理解できた。

 

 

「そんなことができるのですか」

 

『やってみないと分からないけど、ツルギのことは細胞の断片まで知り尽くしているから、理論上は可能だよ。一日三回、三十分程度が限界かな。それ以上いくと、精神だけじゃなくて、肉体まで可怪しくなりはじめるから絶対やらないけど』

 

「それでも……十分です」

 

 

フルーフに頼んで、普通の食事を用意してもらった。テーブルに並んだのは、パンとスープ、サラダ、そしてローストチキン。

 

 

ツルギの目には、カビたスポンジと汚水、腐った草、そして蛆の湧いた焼死体に見えた。

相変わらず感受性という感覚器官に不快という感情が強制的に叩き込まれる。吐き気を催す光景だ。

 

 

『いくよ、ツルギ』

 

 

サヤの声が響いた。次の瞬間、脳内で何かが切り替わったような感覚があった。

ノイズが消えた。視界の歪みが修正されていく。

 

 

世界が、洗われた。

 

 

腐肉の赤黒さが消え、木々の緑、空の青、壁の白が、目に痛いほど鮮やかに飛び込んでくる。

悪臭が消え、紅茶の香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。

 

 

焼きたてのパンの黄金色。表面は艶やかに輝き、割れば白い湯気が立ち上るのが目に見える。

スープは澄んだ琥珀色で、野菜の彩りが水面に浮かんでいる。

瑞々しい野菜の緑。レタスの葉脈が透けて見え、トマトの赤が宝石のように輝いている。

こんがりと焼けたチキンの照り。皮目は飴色に焼き上がり、肉汁が滴り落ちそうだ。

 

全てが、美しかった。かつて当たり前だった光景が、これほどまでに美しく、尊いものだったとは。

 

そして、フルーフが微笑んでいる。その笑顔は、正常な世界で見ても、やはり一番美しかった。

白い肌、赤い瞳、柔らかな唇。穢れのない、温かな笑顔。

 

 

「ツルギさん?」

 

 

すべてが世界と調和している。ツルギが望んでいた世界が、ここにある。

 

 

「戻りました」

 

「え?」

 

「見えます。普通の世界が。美味しそうな料理が」

 

 

震える手でスプーンを取り、スープを一口飲む。

 

 

野菜の甘みと、コンソメの深い味わい。汚水の味などしない。ただひたすらに、美味しいスープの味だ。

温かな液体が喉を通り、胃の腑に落ちていく。その温もりが、全身に染み渡っていく。

 

 

「人類の料理をこれほどまでに噛み締めたことはありません……実に、美味しい」

 

 

涙が溢れてきた。ポロポロとこぼれ落ち、スープの中に波紋を作った。止まらない。止められない。

忘れていた感覚が、堰を切ったように溢れ出してくる。

 

 

貪るように景色を見た。一秒たりとも無駄にしたくない。

この正常な空気を、光を、色彩を、魂に刻み込みたかった。

壁の白さを。床の木目を。窓から差し込む陽光を。そして、目の前で微笑むフルーフの顔を。

 

 

パンを千切り、口に運ぶ。小麦の香ばしさが口いっぱいに広がる。

外はパリッと、中はふわりと。噛むほどに甘みが滲み出し、鼻に抜ける香りが幸福を運んでくる。

 

 

サラダを一口。野菜のシャキシャキとした食感。

みずみずしさが歯を伝って広がり、ドレッシングの酸味が舌を優しく刺激する。

 

 

チキンにナイフを入れる。皮目が音を立て、中から肉汁が溢れ出す。

一切れ口に含めば、鶏肉の旨味が舌の上で踊る。噛むほどに肉汁が滲み、塩味と脂の甘みが絶妙に絡み合う。

 

「美味しいです、フルーフさん」

 

 

それから数十分間、ツルギは夢のような時間を過ごした。食事を味わい、フルーフの笑顔を見て、普通の会話を楽しんだ。

 

 

だが、時間は無情にも過ぎ去っていく。

 

 

『ごめん、ツルギ。もう限界……』

 

 

サヤの苦しげな声と共に、魔法が解けた。世界が反転する。

美しい食卓は、再び汚物まみれの惨状へと戻った。

 

 

美味しい料理は腐敗物へと変わった。

白い壁に血管が浮き出し、床が肉へと変貌し、紅茶が汚水へと変わった。

 

 

が、そこまで落胆はない。

 

元々承知の上でのことだ、絶望とは程遠い。

寧ろ、なんだか帰ってきたような、懐かしい気分すらした。

 

 

絶望しなかったことに対して、不思議に感じた。

寧ろこの落差を歓迎している節すらあった。

この数十分間が、ツルギに希望を与えてくれた。サヤがいれば、またあの世界に戻れる。その事実を知ったから。

 

 

ツルギは食事が好きだ。食べることが何よりも好きだ。

先程食べた、なんの変哲もない人間の料理。

以前なら無感情で貪っていただろう。だが、涙を流して食した。感動した。

どうしようもなく、単純に。美味しさに対する、感動という感情で全身が満たされた。

 

 

気づいたのだ。

空腹は最高のスパイスというが、絶望もまた同じ。

常にストレスを与え続けるこの環境、そこから解き放たれた瞬間、欲望のままに料理を貪る快感。

 

 

――癖になる。

 

 

この環境、この吐き気を催す認知。

その全てが、食事の前に数時間をかけた料理の下ごしらえなのだと考えると……そう悪くない。

むしろじっくり感じたい、この負荷を。そして一気に解放される瞬間を待ち焦がれる。

 

 

『はぁ……はぁ……ごめんね、もっと長く維持できればいいんだけど、初めてだから流石に緊張しちゃった。そのうち慣れると思うから心配しないで』

 

「いいえ。十分です、サヤさん。ありがとうございます」

 

「ツルギさん、大丈夫ですか?」

 

 

フルーフが心配そうに聞いてきた。その声は、どこまでも優しかった。

フルーフの手がツルギの手に触れる。温かい。世界が狂っていても、フルーフとサヤと美味しい食事があれば、大丈夫だ。

 

 

「はい。大丈夫です。とても……幸せでした」

 

 

ツルギは微笑んだ。

この狂った世界でも、幸せになれる。

得難い娯楽と、大切な友人が二人もいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数ヶ月が経った。

 

 

ツルギの生活は、少しずつ安定を取り戻しつつあった。

サヤの助けを借りて、狂った認知と折り合いをつける術を身につけ始めていた。

 

 

ある夜、夢の中でサヤと会った。

 

 

いつもの草原ではなかった。

どこまでも続く星空の下、二人は浮島のような場所に立っていた。足元には柔らかな苔が生え、周囲には蛍のような光の粒が漂っている。

 

 

サヤは膝を抱えて座り込んでいた。翡翠色の髪が俯いた顔を覆い隠し、背中の翼は力なく垂れ下がっている。いつもの無邪気さが、どこにも見当たらなかった。

 

「どうしたのですか、サヤさん」

 

 

ツルギが声をかけると、サヤはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、不安の色で揺れている。

 

 

「……ねえ、ツルギ」

 

「はい」

 

「私とツルギは、もう友達だよね?」

 

「もちろんです」

 

 

即答した。だが、サヤの表情は晴れない。

 

 

「本当に? 私が変な宇宙人でも? 貴女をこんな目に遭わせた元凶でも?」

 

 

その声は、震えていた。強がりの欠片もない、剥き出しの不安。ツルギは、サヤがずっとこの問いを胸に抱えていたことを悟った。

 

 

「サヤさん、意外と繊細ですね」

 

「う……だ、だって……」

 

「何度でも言います。関係ありません」

 

 

ツルギはサヤの前に膝をつき、その小さな手を取った。

夢の中でも、その手は確かな温もりを持っていた。

 

 

「貴女は私を助けてくれました。狂気の底で溺れかけていた私を、何度も引き上げてくれました。私に新しい世界を教えてくれました。貴女は私の、かけがえのない親友です」

 

 

きっぱりと言い切ると、サヤの瞳から不安の影が消えていった。代わりに、じわりと涙が滲む。

 

 

「……ツルギ」

 

「はい」

 

「嬉しい……本当に、嬉しい……」

 

 

声が詰まっている。サヤは袖で目元を拭い、照れ隠しのように笑った。

 

 

「何度もごめんなさい、面倒だよね。でも、宇宙を彷徨っている間、ずっと友達が欲しかったの。一人ぼっちは寂しくて、誰かと話したくて……」

 

 

サヤは両手を胸の前で組み、少し俯いた。

 

 

「前の、夢の中でのこと……お、覚えてる? 私、ツルギが忘れてないか心配で。現実で聞くのが怖くて聞けなかったの」

 

 

あの草原での約束。

サヤが語ってくれた、狂気の中で愛し合った二人の物語。そして、共に歩むと誓ったこと。

 

 

「安心してください。全部覚えていますよ」

 

「ほ、ほんと!」

 

 

サヤの目が、星のように輝いた。

 

 

「えぇ」

 

「じゃあ、約束してほしいの。これからもずっと、一緒にいてくれる?」

 

「ええ。約束します」

 

 

ツルギは腕を広げ、寂しがり屋の心配性な少女を抱きしめた。小さな身体が、ツルギの胸にすっぽりと収まる。サヤの髪から、花の香りがした。

 

 

「そ、それとね、前にも言ったけど……」

 

サヤは顔を上げ、目を輝かせた。

 

 

「友達と一緒に、素敵な愛の物語を見たいの。私が話したあの物語みたいな、種族を超えた愛を。世界中が敵になっても、二人だけの世界を築くような、そんな愛を」

 

「それも、覚えていますよ」

 

「私たちで、そんな愛を見つけて、応援して、育ててあげるの。愛のキューピッドみたいに!」

 

 

サヤはツルギの手を取り、くるくると回った。

星空の下、二人の影が踊る。蛍のような光が、その周囲を祝福するように舞い散った。

 

 

やがて回転が止まり、サヤは少し息を切らしながら、ツルギを見上げた。

 

 

「ねえ、ツルギ。あの約束、まだ有効だよね……?」

 

 

不安げに、上目遣いで聞いてくる。

あれほど喜んでいたのに、まだ少し怖いのだろう。ツルギは微笑んだ。

 

 

「当然です。私とサヤさんで……最高の愛を見届けましょう」

 

「……!」

 

 

サヤの顔が、花が咲くように綻んだ。

 

 

「うん……! うんっ……!」

 

 

何度も頷きながら、サヤはツルギに飛びついてきた。その勢いで二人は苔の上に倒れ込み、星空を見上げる形になった。

 

 

「ツルギといると、安心する……ずっと、ずっとこうしていたい……」

 

 

サヤの呟きが、夜風に溶けていく。ツルギは何も言わず、ただ隣にいる温もりを感じていた。

 

 

この歪んだ世界も、悪くない。こんなにも素敵な夢を、共有できる友がいるのだから。

 

 

隣で星を数え始めたサヤの横顔を見ながら、ツルギは静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

肉と臓物に塗り固められた世界での生活にも、奇妙な慣れが生じ始めていた頃。

フルーフが一人の友人を引き連れてきた。

 

 

「ツルギおばちゃん、調子はどうですか? 今日はちょっと、頼りになる奴を連れてきましたよ」

 

 

フルーフの声は相変わらず澄んでいて、白く輝いている。

だが、フルーフの背後に立つ存在を見た瞬間、ツルギは我が目を疑った。

 

 

そこには、魔物が立っていた。

灰色の肌をした、目も口もない長身の魔物。

だが、ツルギの目にはそれが――周囲の壁や床を構成する醜悪な肉塊とは一線を画す、あまりにも正常で静謐な存在として映っていた。

 

 

脈打つ血管も、垂れ下がる脂肪も、噴き出す膿もない。

黒いコートを纏い、背筋を伸ばして立つその姿は、周囲の汚濁を一切寄せ付けない聖域のように見えた。

まるで、濁った水の中に落とされた一滴の清水が、決して混じり合わずに輝いているかのような。

 

 

思わず息を漏らした。フルーフ以外に、まともに見える存在がいるなんて。

 

 

「紹介しますね。こちら、街外れの監獄で所長をやっているアインザームです。見た目はこんなんですけど、中身は私よりよっぽど常識人で、女神様の魔法を使える、くそったれ女神の敬虔な信徒なんですよ」

 

 

フルーフが紹介すると、その魔物――アインザームは、優雅な動作で一礼した。

長身の身体を折り曲げる所作には、長い年月をかけて磨かれた気品が滲んでいる。

 

 

『くそったれ、は余計だ。汝、フルーフから事情は聞いている』

 

 

頭の中に直接響くような、重厚で落ち着いた声。

荘厳な聖堂に響く鐘の音のような、威厳と温かみを併せ持つ響き。

 

そこには、他の化け物たちが発するような不快なノイズや金切り声は一切混じっていない。

あまりにも普通の声。あまりにも紳士的な振る舞い。その一言だけで、この魔物が長い年月を誠実に生きてきたことが伝わってくる。

 

 

『フルーフが「ツルギのおばちゃん」と呼んでいたな。では、私も親しみを込めて、そう呼ばせてもらおう。よろしく頼む、ツルギ』

 

「はい。よろしくお願いします、アインザームさん」

 

 

ツルギのおばちゃん。その妙に所帯じみた呼び名さえ、今のツルギには心地よい響きに聞こえた。

 

 

それにしても、なぜ彼は正常に見えるのだろう。

腰の剣に意識を向けた。サヤなら理由がわかるはずだ。

 

 

『うわぁ……すごい。というか、まぶし』

 

 

脳内で、サヤが感嘆の声を漏らした。驚きと畏敬が入り混じった声色だった。

 

 

『魔物なのに神性の「加護」が桁違い、魂が黄金色に輝いてるんだけど……。何が凄いって、外部からの異常を弾くんじゃなくて、あの膨大過ぎる加護で、ツルギが患ってる精神汚染を一部まで限定的に無効化してるし……。周囲にまで影響を及ぼす加護なんて初めて見た』

 

 

神性……女神の加護。

ツルギはその分野について詳しくはないが、本来人間の僧侶が扱うそれを、魔物が持っていることが十分に異常だということは分かる。

認知が狂っているツルギは、自分を異常者だと考えていたが……この魔物は存在そのものが異常だ。

 

 

もしかして、私は、眼の前の二人と比べれば、別段そこまでおかしくないのではないか……。

そんな考えが頭を過ぎった。

 

 

『さて、フルーフから精神的な不調を抱えていると聞いた。私の魔法で一度診断させても構わないか?』

 

「ええ、お願いします」

 

 

アインザームが近づき、ツルギの額に大きな手をかざした。その手からは、温かな光のようなものが溢れ、全身を覆っていった。

不快な湿り気も、ぬめりもない。乾いた、安心できる感触だ。日向で眠っているような、穏やかな温もり。

 

 

彼はしばらくの間、無言で何かを探るようにしていたが、やがて手を離し、首を横に振った。

 

 

『……ふむ。妙だな』

 

「――妙だなぁ、ぶふっ」

 

『うざったい茶々を入れるな』

 

「いたッ……こ、この野郎。で、何か、わかりましたか?」

 

 

アインザームの言葉にフルーフが仕草を真似し低い声で呟くと、躊躇なくフルーフの頬に軽い張り手が打ち付けられた。

 

乾いた音が響く。

フルーフは頬を抑えながらアインザームを睨むが、別段怒った様子もなく、診断の結果を尋ねる。

このやり取りだけでも、ツルギは二人が気のおけない仲だということを察することができた。

 

 

『表面的に異常はない。肉体も、精神も、極めて健康だという他ない。だが、精神の深層に潜ろうとすると、何かに阻まれる。こちらの干渉が付け入る隙もないほどに、精神の内面に何かが巣食っているようだ』

 

 

アインザームは、ツルギの腰にある剣を一瞥した。

視線の意味は考えなくてもわかる。この剣の異様さに気づいているのだろう。

だが、彼はそれ以上深く追求しようとはしなかった。

 

 

「そうですか……。あー、たぶんな干渉の拒絶っていうのは……サ……さぁ〜……」

 

 

チラチラとフルーフの視線が彼と剣の間で行き来している。何かを言おうか、言わないかを迷っていることが丸わかりである。

わかりやすすぎて、アインザームが見ないように必死に視線を反らして溜息をついていた。

 

 

サヤからの返事がないので、まだ言わないでほしいとツルギがサインを送っておくと、凄い勢いでフルーフからOKのサインが返ってきた。

 

 

「全く心当たりがないですね」

 

『……はぁ。フルーフ、貴様という奴は……。精神の安定には、安らぎと対話が必要だ。私が定期的に様子を見に来よう。どうやら私は正常に見えているようだからな。汝が魔物の姿など見たくないというのであれば、控えるが』

 

「いえ、全く問題はありません。よろしくお願いします」

 

 

それからというもの、アインザームは足繁くツルギの元を訪れるようになる。

週に数回、時には仕事の合間を縫って。監獄での出来事、街の子供たちの様子、女神の教え――話題は尽きることがない。

 

 

そのどれもが、穏やかで、理知的で、優しさに満ちていた。

彼が部屋にいる間だけは、壁の脈動が遠のき、床の呻きが静まる。それだけで、ツルギには十分だった。

 

 

『汝、今日は顔色が良いようだな』

 

『無理はするな』

 

 

その紳士的な態度は、ツルギの荒んだ心に染み入るようだった。

彼が魔物であることなど、どうでもよかった。彼が正常に見えるという事実、そして彼が向けてくれる善意だけが、ツルギにとっては重要だった。

 

 

季節が巡り、ツルギがこの症状と付き合い始めて数ヶ月が経った頃。

 

 

フルーフが興奮した様子でツルギの部屋に飛び込んできた。

扉を開ける音も荒々しく、足音が廊下に響く。

 

 

「ツルギおばちゃ〜ん! 見てくださいよ、これ! 格好いいでしょう」

 

 

フルーフの手には、一つの眼鏡が握られていた。

黒いフレームに、少し厚めのレンズ。だが、そのレンズの色は奇妙だった。赤とも紫ともつかない、妖しい光沢を放っている。角度によって色が変わり、時折虹色の輝きを見せる。

 

 

「それはなんですか?」

 

「特製サングラスです! あ、サングラスっていうのは色眼鏡のことです。私の魂の一部を切り出して、骨と眼球のレンズを加工して、レンズに練り込んでみたんです。あと、気休め程度にオカルト臭全開の聖水とかも色々混ぜてます」

 

「魂、ですか?」

 

「ええ。私は普通に見えてるって話なので、身体の一部を使えばフィルターになるかな? っと、思いましてね。何がいいか分からなかったので、とりあえず全部のせでかき混ぜてます」

 

 

フルーフはこともなげに言うが、自分の魂を削って物を作るなど、頭の螺子が外れているというレベルではない。

だが、フルーフの瞳は期待に輝いていた。

子供が自慢の工作を見せるような、純粋な喜びが滲んでいる。

 

 

「さあ、着けてみてください」

 

 

促されるまま、サングラスを受け取った。

ヌルヌルとした感触はない。硬質な、金属の感触だ。

冷たく、滑らかで、確かな重みがある。震える手で、それを顔に装着した。

 

 

世界の色が変わった。

 

 

赤黒い肉の壁が、スッと色を失い、元の白い壁に戻る。

床の脈動が止まり、木目のフローリングが姿を現した。

窓の外で蠢いていた触手のような街路樹が、風に揺れる緑の葉に戻る。

天井から垂れ下がっていた粘液の糸が消え、代わりにランプの柔らかな光が部屋を照らしていた。

 

 

「おぉ……」

 

 

感嘆の声が漏れた。見えた。正常な世界が。

サヤとの感覚同期を行った時のような、鮮やかな色彩ではない。

少しセピア色がかった、フィルター越しの景色だ。

だが、そこには肉も、臓物も、腐臭もない。静かで、動かない、当たり前の無機物がそこにある。

 

 

「どうですか? なにかしらの効果はありますか?」

 

 

フルーフが覗き込んでくる。

その顔は、眼鏡越しでも変わらず美しい。白い肌、赤い瞳、柔らかな微笑み。

そして、その隣に立っているアインザームも。黒いコートを纏った長身の魔物。その姿もまた、正常な世界に溶け込んでいる。

 

 

「見えます。普通の部屋が。普通の家具が」

 

 

立ち上がり、周囲を見回した。

本棚の本が、ミミズの這った跡ではなく、きちんとした文字の羅列に見えた。

テーブルの上の花瓶が、内臓の壺ではなく、白い陶器に見えた。

窓から差し込む光は、膿の色ではなく、穏やかな午後の日差しだった。

 

 

「おぉ、これで食事も少しは楽になるといいですね。あー……でも味と感触は変わらないので、楽もクソもないですね」

 

 

確かに、五感のうちの一つが正常なだけで、他の感触は全て異常なままだ。

何もない場所に生ぬるい感触が存在している。眼鏡を外せば、そこには肉塊の塊があった。触れれば、相変わらずぬめりと温もりがある。

 

 

『ふむ。だが、これで少しは心安らかに過ごせるだろう』

 

 

アインザームの声にも、安堵の色が滲んでいた。

 

 

サングラスの縁に触れた。これは、フルーフの魂そのものだ。

フルーフが身を削って、ツルギのために作ってくれた眼鏡。その重みが、指先から伝わってくる。大事にしなければ。

 

 

『これは、私には無かった発想だね。とんでもなく頭がイカれてないとできないよ』

 

 

脳内で、サヤが呟いた。その声には、驚きと、そして深い関心の色が混じっていた。

 

 

『ツルギ。もう、隠しておく必要はないよ。フルーフの紹介する人なら……話してもいいと思う』

 

「……いいのですか?」

 

『うん。ツルギの症状にも真剣に考えてくれたし、当然のように向き合ってくれてる。だったら、私のことだって、きっと……』

 

 

サングラスをかけたまま、二人に向き直った。

 

 

「アインザームさん。話さなければならないことがあります」

 

 

ツルギの改まった態度に、アインザームは神妙な面持ちで頷いた。

 

 

「実は……この剣には、意志があるんです」

 

 

腰の剣に手を添えた。アインザームは静かに耳を傾けながらも、フルーフの方をチラ見しながら、知ってました、と言わんばかりに『そうか』と頷いた。

 

 

「彼女の名前はサ■。遥か遠く、空の向こうから来た娘です。私の精神がおかしくなったのは、彼女に深く接触しすぎたせいです。ですが、彼女はずっと私を助けてくれました。狂気の中で私を支え、正気を保たせてくれたのは彼女なんです。ですので、どうか悪い捕らえ方だけはしないでください」

 

 

サヤのことを洗いざらい話した。サヤが本来は見るもおぞましい姿をしていること。

愛を探して旅をしてきたこと。そして、ツルギを巻き込んでしまったことに、深い罪悪感を抱いていること。

 

「『……ごめんなさい』」

 

 

ツルギの口を借りて、サヤが言葉を紡ぐ。その声は、震えていた。

 

 

「『私のせいで、ツルギをこんな目に遭わせてしまって。迷惑なら、すぐに出ていく……ことはできないかな。もうツルギの症状は私がいることと直接の関係はないくらいに深刻だから。精神汚染が進みきっててどうしようもないわ。切り離したいなら簡単だよ、この剣は私、だから捨てればそれでおしまい。私は自力では動けないし、それで本当におしまい。でも、その後は、私の代わりに……ツルギのことは、助けてあげてほしいの』」

 

 

サヤの声は震えていた。かつて、その異形ゆえに恐れられ、神として祀り上げられながらも、誰とも心を通わせることができなかった孤独な魂。

 

サヤは拒絶されることを恐れていた。

 

これまで何度も経験してきたことだ。サヤの本質に触れた者は、例外なく正気を失う。

悲鳴を上げて逃げ惑うか、恐怖のあまり崇拝に走るか――どちらにせよ、対等な関係など築けたためしがない。

自分が人類にとって、理解の及ばない「異物」であることを、サヤは痛いほど理解していた。

 

 

サヤにはささやかな夢と友達が欲しいという小さな願いしかない。

本来の種としての使命など、とうに捨てているし、この星の生命を害する意図など欠片もなかった。

ただ友達が欲しかっただけだ。

今も本音を言えば、唯一心を通わせたツルギと離れたくなどない。

 

沈黙が落ちた。

固唾を飲んで二人の反応を待った。

 

最初に口を開いたのは、フルーフだった。

 

 

「私は別に特に何も思いませんし……先に色々聞いていましたから。特に言うことは無いですね。といいますか、もうお二人の関係の方が長くて深いのに、出てけ、なんて何様なこと言えませんよ。言うつもりもありませんから。言ったら言ったで、ツルギのおばちゃんは私を殺してましたよ。貴女を抱えて、即逃げてたでしょうね」

 

 

拍子抜けするほど明るい声で笑うと、ツルギの腰にある剣に向かって、屈託のない笑顔で手を振った。

まるで、古い友人に再会したかのような気軽さで。

 

 

「なのでご安心を。改めて自己紹介しましょう。私はフルーフ……宇宙人ですか、ロマンがありますねぇ。私、そういうの大好きですよ、SFは一ミリも分かりませんし、覚えてもいませんが。では、今後とも、よろしくお願い致します」

 

 

「『あ、うん』」

 

 

サヤの困惑がツルギにも伝わってきた。

恐怖も、嫌悪もない。まるで、遠くから来た珍しい客人を迎えるような、気さくな態度だ。

 

 

「ツルギさんの友達。なら、貴女は私たちの友人です。友達の友達は、みんな友達です! つまり私の身内」

 

 

フルーフは、剣の柄――サヤの目玉がある部分を、躊躇なく撫でた。その手つきは、猫を可愛がるそれと同じだった。通常狂気で精神が狂う場面だが、フルーフはサヤの狂気をガン無視してべたべたと触りまくってくる。

 

 

「これからも仲良くしてくださいね。あ、私のお肉、貴女も食べますか?」

 

「『あ、あの……改めて思うけど、私、怖くないの?』」

 

「怖い? なんでですか? ツルギのおばちゃんが大切にしている方でしょう? なら、私にとっても大切な友達ですよ」

 

 

フルーフはあっけらかんと言い放った。この人間は、本当に狂っている。良い意味で。

 

 

常識や偏見といったものが、常人とは明らかに違う。サヤが「肉塊の化け物」だろうが「宇宙からの侵略者」だろうが関係ない。身内と判断した、その一点だけで、フルーフはサヤを完全に受け入れていた。

 

 

そして、アインザームがフワフワと動き、前に出た。

その巨体を折り曲げ、剣に向かって恭しく一礼する。深々と頭を下げるその姿には、心からの敬意が込められていた。

 

 

『お初にお目にかかる。私はアインザーム』

 

 

その声は、どこまでも真摯で、礼儀正しかった。

聖職者が神に祈りを捧げる時のような、厳かな響きがあった。

 

 

「『え、えっと……頭を上げて、アインザーム』」

 

『私は女神の忠実な信徒、故にこそ感じ入ることもある。女神と同様、神にも等しい存在とお見受けする。相違いないか』

 

「『えーと、神? あえていうなら……じゃ、邪神、かなぁ? ショゴスってわかる?』」

 

 

 

「『Wow、クトゥ◯フ』」

 

 

 

フルーフとアインザームが顔を見合わせてハモった。

言動は正反対だが、やはりこの二人、根っこの部分でかなり仲が良いらしい。

 

 

『あ、そういう知識はあるんだ? 一応、みたいなものかな、厳密には全然違うんだけど……』

 

『こほん、しかしだ。邪神であれ、神であれ、敬われるべき存在にかわりはなし。私は女神を信仰せし信徒なれど、汝への敬意は決して忘れぬとここに誓おう』

 

 

アインザームは軽く咳払いをした後、恭しく再度礼をした。

その態度は、恐怖からくるものではなかった。純粋な敬意。サヤを「化け物」としてではなく、信仰する女神と同質の「神」として扱っていた。

 

 

「私は神とか信じてないんで、変な形した生き物という感じでいいですか? 神とか信じてないんで。か・み・と・か・し・ん・じ・て・な・い・ん・でッ!」

 

『……ふふっ』

 

 

脳内で、サヤが笑った。

それは、ツルギが今まで聞いた中で、一番嬉しそうな、

温かい笑い声だった。花が綻ぶように、自然で、柔らかな笑い声。

 

 

『変な人たち。本当に、変な人たちだよね』

 

 

かつては、神として崇められた。だがそこにあったのは、理解不能な恐怖と、盲目的な信仰だけだった。

誰もサヤ自身を見ようとはしなかった。誰もサヤと対等に話そうとはしなかった。サヤは孤独な神だった。

 

 

だが、今は違う。

目の前にいるのは、サヤを「サヤ」という一個の人格として認め、笑顔で話しかけてくる人間と魔物。

恐怖も、狂気もない。ただ、当たり前のように、そこには「親愛」があった。

 

 

 

「『ありがとう……フルーフ、アインザーム』」

 

 

サヤの声が、震えている。喜びで。

 

 

「『私……嬉しい。こんな風に受け入れてもらえるなんて、思ってもみなかった』」

 

 

剣の目玉が、潤んだように揺らめいた。

それは、何万光年もの孤独な旅の果てに、ようやく辿り着いた安住の地を見つけた旅人の瞳だった。

 

 

「良かったですね、サ■さん」

 

 

ツルギが剣を撫でると、眼鏡越しの世界では剣の装飾はただの不気味な意匠に見えるが、その奥にあるサヤの心が温かく感じられた。

 

 

「これで、私たちは正真正銘の『友人』ですね」

 

『友人か、身に余る光栄だが、この身で神の友など許されるのか……』

 

「うっさいですよアインザーム。空気読んでください、ここは素直に同調しておくのが流れってものですよ。お前、私、ツルギのおばちゃん、サ■さん、みんなフレンド、OK!?」

 

『煩いぞ――……あぁ、OK』

 

 

アインザームとフルーフが互いにOKサインを送り合った後、フルーフが手を叩いた。

乾いた音が、部屋に明るく響く。

 

 

「さあさあ、では、新しいお友達の歓迎会をしましょうか」

 

『では、私は飲み物を用意しよう。汝は、何を嗜む?』

 

「『えっと……フルーフの血とお肉?』」

 

「直接か、間接か、お望みはありますか?」

 

「『え? ちょ、直接?』」

 

「了解ですよ、どうぞ」

 

 

そう言うとフルーフは剣を腰から引っこ抜き、鞘から刀身を抜き、なんの躊躇もなく自分の腹部に差し込んだ。

――ずぶり、と鈍い音がして、刃が肉に沈んでいく。

 

サヤから引き気味の感情が伝わってきた。

 

まさか、いきなり剣を腹部に差し込むとは思ってもみなかったようだ。

だが同時に歓喜の感情も伝わってくる。直接味わうフルーフの血肉は相当美味しいのだろう。

 

『うわぁ、なにこれ。美味しすぎ。なにこの栄養価。これなら100年も掛からずに全身の再生が終わりそう。いや、美味しッ』

 

 

剣に走る脈が、何かを吸い上げるように蠢いている。血管が膨らみ、縮み、また膨らむ。

 

 

「うぉぉ、なんか痛くはないですけど、めっちゃ吸われてます。治る側からめっちゃ吸われてますよ」

 

『フルーフ、酒だ』

 

 

アインザームがどこからか注いできたお酒のグラスをフルーフへと手渡すと、フルーフはそれを受け取り、美味しそうに一気飲みして飲み干してしまった。

 

――剣が腹部にぶっ刺さったまま。

 

剣からは血肉をすする生々しい音と鼓動が聞こえ、フルーフの喉からは酒を飲み干す豪快な喉音が聞こえてくる。

 

 

ツルギは眼鏡を外し、またつけた。

肉の世界と、正常な世界が、交互に切り替わる。

 

 

――……なんでしょう。狂った世界よりも、こっちの現実の方が狂っていると感じるのは、私がおかしいのでしょうか……。

 

 

笑い声が部屋に響く。

フルーフの明るい笑い声、アインザームの低い笑い声、そして――

 

 

脳内で、サヤが呟いた。

 

 

『ねえ、ツルギ。この場所なら……私たちの夢、叶えられるかもしれないね』

 

 

「ふふ……そうですね。ええ。きっと」

 

 

ツルギは頷いた。この街で、きっと最高の愛の物語を紡ぎ出すことができる。そう確信した夜だった。

 

 

窓の外では、夕陽が街を茜色に染めていた。眼鏡越しに見える世界は、穏やかで、美しかった。

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