ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第1.5話▶死んだンゴ~

 

 

これは、私が永い眠りの底で繰り返し見る、決して色褪せることのない原初の悪夢。

死んでも死んでも終わらない、煉獄の走馬灯。

今はもう擦り切れて輪郭すら曖昧になった、古い記憶が浮上する。

 

 

始まりは、白と赤だった。

 

 

視界を埋め尽くすのは、天から絶え間なく降り注ぐ冷たい白雪。

そして、その白を汚すように広がる、生温かい赤。

 

 

私の記憶の根底にあるのは、母の愛でも、父の厳しさでもない。

ただ、凍えるような寒さと、焼き付くような痛み、そして鼻腔を突き刺す鉄錆の臭いだけだ。

 

 

私が産まれ落ちたのは、北の果て。

人の営みが許される限界に近い、雪深い寒村だった。

 

 

貧しい村だった。

 

 

人々は常に飢え、寒さに震え、明日をも知れぬ日々を送っていた。

そんな余裕のない土地に、私は産まれた。

 

 

私は、他の赤子とは違っていたという。 産湯に浸かった瞬間から、私は泣かなかった。

ただじっと、虚ろな瞳で虚空を見つめていたと、後に村の老婆が忌々しげに語っていた。

 

 

私が異常だと露見したのは、言葉を話し始めた三つの頃だった。

冬の或る日、薪拾いの手伝いで山に入った私は、足を滑らせて崖から転落した。

 

 

高さは大人二人が肩車をしても届かぬほど。

幼い子供の身体など、岩場に叩きつけられれば熟れた果実のように砕け散るはずだった。

 

 

実際、そうなったのだ。

私の右腕は在らぬ方向へ折れ曲がり、白い骨が皮膚を突き破って露出し、頭からはおびただしい血が流れていた。

 

激痛に意識が遠のき、私は死んだ――はずだった。

 

 

だが、次の瞬間、奇妙な熱が全身を駆け巡った。

バキボキと、小枝を踏み折るような音が身体の内側から響く。

 

 

突き出た骨が肉の中へと潜り込み、裂けた皮膚が縫い合わされるように塞がる。

痛みは消え、私は何事もなかったかのように立ち上がっていた。

 

 

その光景を、捜索に来た村人たちが見ていた。

彼らの目に宿っていたのは、無事を喜ぶ安堵ではない。 得体の知れぬ化け物を見る、根源的な恐怖と嫌悪だった。

 

 

「――忌み子だ」

 

 

誰かが呟いたその言葉が、私の運命を決定づけた。

それからの日々は、針の筵だった。

 

 

親は私を遠ざけ、村人たち、そして同年代の子供までもが私を見れば石を投げた。

誰も私と目を合わせようとせず、まるで汚物でも見るかのように顔を背ける。

 

 

食事は家畜の餌の残り。

寝床は風の吹きすさぶ納屋の隅。 藁に塗れて眠る私を、親は一度も抱きしめてはくれなかった。

 

 

なぜ、自分がこんな目に遭うのか。

幼い私には理解できなかった。 ただ、私は「死なない」だけなのだ。

転んで膝を擦りむいても、刃物で指を切っても、瞬きする間に傷が消える。

それだけのことが、彼らにとっては許されざる罪業であるらしかった。

 

 

だが、そんな孤独で冷たい日々さえも、まだ「人の世」の範疇であったことを、私は後に知ることになる。

 

 

私が七つになった年の冬。 村は、血の海と化した。

 

 

夜明け前、空気を切り裂くような咆哮と共に、それらは現れた。

 

 

いずれ魔族と呼ばれる化け物。

 

 

人の形をしていながら、人ではない異形の者たち。

彼らにとって、人間など言葉を解する家畜に過ぎない。

 

 

村の男たちが鍬や斧を手に抵抗したが、無意味だった。

枯れ木を折るように手足を捥がれ、首をねじ切られ、瞬く間に雪原は死体で埋め尽くされた。

私は納屋の隙間から、その光景を見ていた。

 

 

恐怖で声も出ない。

父が、母が、私を虐げた村人たちが、次々と肉塊へと変わっていく。

 

 

逃げなければ。

本能がそう叫んだ。

 

 

魔族たちは村の中央で殺戮の宴に興じている。

今なら、裏の森へ逃げ込めるかもしれない。

 

 

私は震える足で納屋を飛び出した。

雪を踏む音が心臓の鼓動のように大きく響く。

 

後ろからは絶叫と哄笑が聞こえていたが、私は一度も振り返らなかった。

振り返れば、足が竦んで動けなくなる気がしたからだ。

 

 

私は森へ入った。

深く、暗い、冬の森へ。

雪は膝まで積もり、素足の感覚はとうに失われていた。

枝が頬を打ち、荊が肌を裂くが、痛みなど感じる余裕はなかった。

 

 

ただひたすらに、あの赤い修羅場から遠ざかりたかった。

 

 

どれくらい走っただろうか。

息が切れ、肺が焼け付くように熱い。空腹と疲労で視界が霞む。

 

 

私は木の根元に倒れ込んだ。

助かったのだろうか。魔族は追ってきていないようだ。

 

 

だが、安堵したのも束の間だった。

静寂に包まれた森の奥から、ガサリ、と雪を踏みしめる音が聞こえた。

魔族ではない。もっと重く、獣臭い気配。

 

 

顔を上げると、そこに「それ」はいた。

熊よりも巨大で、狼よりも獰猛な、異形の魔物。

全身は剛毛に覆われ、口からは黄色い唾液を垂らし、四つの眼が赤く光っている。

 

 

飢えた獣。知性など欠片もない、食欲の権化。

魔族から逃げ延びた先で私を待っていたのは、安息ではなく、より原始的な捕食者だった。

 

 

逃げる気力は残っていなかった。

魔物は私を見下ろし、裂けた口から蒸気を吐き出した。

そして、次の瞬間、世界が暗転した。

 

 

痛み。

ただ、それだけが世界の全てだった。

 

 

私は噛み砕かれた。

鋭い牙が肩に食い込み、骨ごと肉を断ち切る。熱い血が噴き出し、私の意識は遠のく。

だが、死ねない。私の身体は、喰われた端から再生しようとする。それが更なる責め苦の始まりだった。

 

 

魔物は私を咀嚼するのをやめ、丸呑みにすることを選んだらしい。

ぬるりとした喉の奥へと押し込まれ、食道を通って落下する。

 

 

そこは、灼熱の牢獄だった。

 

――胃袋。

 

強烈な酸の臭いが鼻腔を焼き、舌の上にまで金属のような味が広がる。

襞のような壁が脈打ちながら私を締め付け、ぐちゅぐちゅと粘液が肌を這う音だけが、暗闇の中で永遠に響いていた。

 

チャプン、と音を立てて私が落ちたのは、消化液の海だった。

 

 

叫ぼうとした口の中に、酸っぱい液体が流れ込む。

舌が溶ける。喉が焼ける。

 

 

皮膚がじゅうじゅうと音を立てて爛れ、溶けていく。

眼球が白濁し、視界が奪われる。

鼓膜が破れ、自分の肉が溶ける音だけが身体の内側から響く。

 

 

痛い。熱い。苦しい。

 

 

指先から肉が削げ落ち、骨が露出し、その骨さえもが軟化していく。

私は溶かされていた。生きたまま、ドロドロの粥のように。

 

 

普通の人間なら、とっくに死んでいる。

だが、私は死なない。

 

溶かされた皮膚が再生し、また酸に焼かれる。 溶けた内臓が修復され、また消化液に侵される。

 

 

破壊と再生の無限ループ。

 

 

意識を手放したくても、再生するたびに鮮明な痛みが私を現実に引き戻す。

 

 

私は魔物の腹の中で、何時間、何日、あるいは何ヶ月、過ごしたのだろうか。

やがて、全身は他の獲物の残骸や、魔物の排泄物と混ざり合っていった。 私は汚物の一部となった。

 

腐臭と酸臭、そして排泄物の臭いが混じり合う暗闇の中で、私は泥のように意識を漂わせていた。

 

 

そして、その時は来た。

腸が蠢き、強烈な圧力が私を押し出す。

私は魔物の肛門から、糞便と共に雪の上へと排泄された。

 

 

外の空気は冷たかった。

 

 

湯気を立てる汚物の山の中で、私は形を取り戻し始めた。 ドロドロに溶けた肉が固まり、骨が組み上がり、皮膚が覆っていく。

糞まみれの雪の上で、幼い少女の姿が再生されていく。

 

 

ああ、終わったのだ。 私は助かったのだ。

そう思った。

 

 

だが、現実は違っていた。

目の前には、まだあの魔物がいた。

 

 

魔物は、排泄したばかりの糞の山が、見る見るうちに肉の塊へと変わり、さらに人間の形になるのをじっと見ていた。

その四つの眼には、驚きも恐怖もない。

 

あるのは、尽きることのない「食欲」だけ。

魔物にとって、私は「排泄したのに、また食べ頃に戻った餌」でしかなかった。

 

 

魔物は涎を垂らし、再び大口を開けた。

私は悲鳴を上げる間もなく、再びその口へと放り込まれた。

 

 

二度目。三度目。四度目。

私は喰われ、溶かされ、糞となり、再生し、また喰われた。 それは、終わりのない輪廻だった。

 

 

魔物は私を気に入ったようだった。

狩りをする必要もなく、腹の中で勝手に増える食料。

私は魔物の胃袋の一部となり、栄養源となり、そして排泄物となった。

 

 

私の心は摩耗し、砕け散っていった。

自分が人間であるという認識さえ薄れていく。

 

 

私は餌だ。私は糞だ。私はただの肉だ。

痛みへの恐怖さえ麻痺し、溶かされる熱さも、排泄される屈辱も、ただの現象として受け入れるようになっていた。

 

思考は停止し、ただ「死にたい」という願いだけが、魂の奥底で燻り続けていた。

 

 

季節が巡り、何度雪解けの季節が来ても、私の責め苦は終わらなかった。

魔物は私を腹に収めたまま移動し、時折私を排泄しては、また喰らう。

私は世界を見ることもなく、ただ魔物の腸壁と、排泄された直後の僅かな風景だけを見て過ごした。

 

 

その循環が終わったのは、人間の狩人たちが魔物を討伐した時だった。

 

 

ある日、胃袋の外から激しい衝撃が伝わってきた。

魔物の咆哮、金属音、そして何かが爆ぜる音。

魔物が倒れ、動かなくなる。

 

 

胃袋の活動が停止し、酸の分泌が止まる。

私は溶けかけの状態で、静寂の中に残された。

 

 

やがて、光が差し込んだ。

魔物の腹が裂かれ、ナイフを持った人間たちが顔を覗かせた。

彼らは魔物の素材を剥ぎ取りに来た冒険者たちだった。

 

 

胃袋を切り開いた男が、息を呑む音が聞こえた。

そこには、未消化の肉片や汚物に塗れ、半分溶けた状態で蠢く私がいたからだ。

 

 

そして、外気に触れた私の身体は、急速に再生を始めていた。

溶けた顔が盛り上がり、眼球が形成され、皮膚が張っていく。

汚物の中から、少女の形が浮かび上がる。

 

 

「……ひッ」

 

 

男が腰を抜かし、後ずさりした。

他の仲間たちも集まってくる。彼らは武器を構え、嫌悪と恐怖に顔を歪めた。

 

 

「なんだこれは……魔物の子供か?」

 

「いや、人の形をしているが……糞の中から再生しているぞ」

 

「気色が悪い。魔物が腹の中で育てていたのか?」

 

「穢らわしい。殺すべきだ」

 

 

彼らの目は、私を人間とは見ていなかった。

魔物の腹から出てきた、汚らわしい化け物。

 

 

私は助けを求めて手を伸ばしたが、私の身体は魔物の糞尿と粘液でドロドロに汚れていた。

 

男の一人が、私の手を剣の腹で叩き落とした。

 

 

「触るな!疫病が移る!」

 

 

私は言葉を忘れていた。

 

 

「あ……う……」と獣のような唸り声を上げることしかできない。

彼らは相談の末、私を殺すのは気味が悪いからと、近くの街の教会へ突き出すことにした。

 

 

魔を祓うべき存在として。

 

 

私は網に入れられ、荷馬車に吊るされた。

乾燥した糞が肌に張り付き、悪臭を放つ私を、誰も直視しようとはしなかった。

 

 

連れていかれた街の教会は、冷たい石造りの建物だった。

私は地下の独房に投げ込まれた。

そこで待っていたのは、「浄化」という名の殺しだった。

 

 

神官たちは、私を「魔物に種付けされた不浄の子」あるいは「悪魔が人の腹を借りて産ませた冒涜」と決めつけた。 彼らは私の不死性を確認すると、それを「悪魔の証左」として、更に苛烈な儀式を行った。

 

 

聖水が頭上から降り注ぐ。

それはただの水のはずだが、彼らの憎悪が籠もっているのか、肌が焼け付くように痛かった。

 

 

鞭が肌を裂く。

皮が裂ける。肉が飛び散る。死んで再生する。

また打たれる。「神よ!」と叫ぶ声が、鞭の音と重なって反響する。

 

 

そして最後に、彼らは私を柱に縛り付けた。

足元に薪が積まれ、火が放たれる。

足から焼かれる激痛。肉が焦げる臭い。煙が目を刺し、熱風が肺を焼く。

 

 

酷く陳腐な感情しか沸かなかった。

魔物の胃袋の中と同じだ。何も変わらない。

宗教は糞だ。神などいない。ただ静かに、そう確信した。

 

 

焼かれて炭化し、再生し、また焼かれる。

神官たちはその様を見て、祈りの言葉を唱え続ける。

私の苦しみが、彼らの信仰を証明する生贄であるかのように。

 

 

「死ね……死ね…………」

 

 

言葉を思い出すのに十分すぎる日々が経過した。

喉の奥で、声にならない言葉を繰り返す。

 

 

魔物の腹の中でも、人間の牢獄でも、私はただ痛めつけられるだけの存在。

この世のどこにも、私の居場所はない。私は世界から拒絶された異物なのだ。

 

 

そんな終わりなき責め苦が、どれくらい続いたのか。

私の精神は完全に破綻し、現実逃避の果てに……ただ刺激に反応して痙攣するだけの肉人形になり果てていた。

 

 

ある夜、地下牢の空気が変わった。

冷たく、重く、そしてどこか静謐な、圧倒的な気配。

 

 

見張りの神官が、悲鳴一つ上げずに崩れ落ちる音がした。

鉄格子が、触れもせずにひしゃげ、開かれた。

 

 

現れたのは、闇を纏ったような長身の巨大な異型だった。

人間ではない。額から生えた二本の角。そして、縫い付けられた双眸。

 

 

魔族。

 

 

だが、私を喰らい続けてきた獣のような魔物とは違う。

知性と、悠久の時を生きた者特有の威厳を宿していた。

 

 

魔族は、糞尿と血と煤に塗れた私を見下ろした。

その目には、神官たちのような嫌悪も、魔物のような食欲もなかった。

あるのは、道端の石を見るような無関心と、未知の事象に対するわずかな探求心のみ。

 

 

「……ほう。人間共が隠匿していた『不死』の検体とは、これのことかのう」

 

 

その声は、低く、重厚だった。

彼は牢の中に入ると、鎖に繋がれた私の腕を掴んだ。

焼死と共に、骨が見えるほどの火傷の痕が、見る見るうちに再生していく様を、彼は瞬き一つせずに観察した。

 

 

「肉体の再生、魔力すらも再生するとはの……理に合わぬな。肉体は人間でありながら、存在として完全に破綻しておる。まるで、生物としての設計図そのものが狂っているようだのぉ」

 

 

魔族は独り言のように呟くと、指先を軽く振った。

それだけで鎖が弾け飛んだ。

 

 

私は床に崩れ落ちたが、逃げる気力もなかった。

また、別の所有者に移るだけだ。 魔族は私の首根っこを掴み、物でも運ぶかのように持ち上げた。

 

 

「来るがいい。人間共の玩具にしておくには惜しい。儂の研究に貢献せよ」

 

 

それが、「腐敗の賢老」クヴァールとの出会いだった。

 

 

連れていかれたのは、深い森の奥にある館だった。

クヴァールは私を虐げはしなかったが、人間扱いもしなかった。

彼にとって私は、使い減りしない便利な「魔導具」に近い認識だったのだろう。

 

 

彼が私に与える苦痛は、これまでの暴力とは質が異なっていた。

感情の一切ない、純粋な学術的破壊。

彼は私を台座に固定し、開発中の魔法を撃ち込んだ。

 

 

その開発過程で、私は数え切れないほど貫かれた。

腹部に風穴が空く。半身が消し飛ぶ。

再生するたびに、クヴァールは淡々とデータを記録する。

 

 

「貫通力は十分だが、魔力消費の効率が悪いの。人体の魔力を突破する術式の構成、その最適化が必要か……」

 

 

彼は私の飛び散った血だまりを見ても眉一つ動かさず、空中に複雑な幾何学模様を描きながら思案に暮れる。

私の絶叫も、彼にとっては環境音の一つでしかなかった。

 

 

そして、さらに過酷だったのが「身体能力を強化する魔法」の実験だった。

魔力を強制的に肉体へ循環させ、限界を超えた身体能力を引き出す魔法。

だが、脆弱な人間の肉体が耐えられるものではない。

 

 

クヴァールは私の身体に、無理やり膨大な魔力を流し込んだ。

 

 

血管が破裂する。

筋肉が断裂し、繊維が溶ける。

骨が圧力に耐えきれず粉砕する。

身体の内側から沸騰し、爆発するような感覚。

全身の穴という穴から血を噴き出し、私はのたうち回った。

 

 

喉が張り裂けんばかりの絶叫。

クヴァールは縫い目から除く暗く冷めた目で、崩壊する私の肉体を観察していた。

 

 

「ぐはは……脆いな。人間の強度では、この程度の魔力負荷にも耐えられんとはのぉ。調整が必要か。再生したかのぉ、フルーフ。では、次は術式を変えて――」

 

 

私は何度も死に、何度も生き返った。

肉体が崩壊する感覚。自分の身体が自分のものでなくなる恐怖。

それが何百回、何千回と繰り返される。

 

 

だが、この無間の苦行の中で、皮肉にも私は「知識」を得ていった。

 

 

クヴァールは実験中、独り言のように魔法理論を口にする。

魔力の収束、術式の展開、イメージの具現化。

それらの言葉を身体に刻み込んでいった。

 

 

なぜ魔法が発動するのか。どうすれば効率よく魔力を流せるのか。

私の身体は、破壊と再生を繰り返すことで、魔力というものに対し、本能で順応し始めていた。

 

痛みを少しでも減らすために、私は彼の魔力を受け入れ、流す術を本能的に学んでいった。

 

 

クヴァールは、私の不死性だけは高く評価していた。

彼は時折、実験の合間に私に語り掛けた。

 

 

「人間という種は脆弱だ。魔法を扱うには不向きな構造をしておる。だが、貴様のその異常な肉体……興味深い。死という現象を拒絶し続けるその在り方、まるで呪いだのう」

 

 

彼にとって、私は「生命」ではなかった。

解明すべき異常現象。再現性を確かめるべき実験道具。それ以上でも以下でもない。

 

 

 

数年が経った。 私は成長していた。

栄養などなくとも、肉体は全盛期に向けて伸びていく。

 

 

私はクヴァールの実験意図を理解し、時には彼の要求する通りに魔力を最低限制御することができるようになっていた。

そうすることで、肉体の崩壊を数秒遅らせ、再生の苦痛を和らげることができると知ったからだ。

 

 

「ほうぉ。フルーフ。貴様、魔力操作を覚えたか」

 

 

クヴァールが初めて私を褒めた時、その声にはわずかな驚きが含まれていた。

だが私は何も感じなかった。ただ、この男の技術を盗めば、いつか逃げられるかもしれないという、ほのかな願望だけがあった。

 

 

そんな日々が、百年以上続いた。

その頃には、私の身体は既に大人のソレとなっていた。

私は魔法を、身体で、痛みで、憎悪で理解していった。

 

 

だが、身につけたのは魔力制御と自傷を伴う身体強化のみ。

私は魔法というもののイメージが致命的に下手であった。

 

 

私は従順なモルモットになどならなかった。

 

 

隙あらば噛みつき、実験を妨害し、隙を見ては逃走を図った。

そのたびに捕まり、制裁として殺され、また再生する。

百年という気の遠くなるような時間が、私をより強靭に、より狡猾に、より凶暴に磨き上げていった。

 

 

要するに――荒んでいたのだ。

 

口調は獣のように荒くなり、自暴自棄で何にでも噛みつき、当たり散らせるものすべてに八つ当たりした。

 

 

そして、その夜は来た。

百年という気の遠くなるような実験期間を経て、クヴァールが唐突に告げた。

 

 

 

「契約終了だ」

 

 

 

クヴァールは、手元の魔導書から目を離さずにそう言った。

私が彼に拾われた際、一方的に結ばれた「実験体としての契約」。

 

 

彼にとって、私は実験材料であり、予定された工程が終われば、それ以上の拘束は無意味ということらしい。

 

 

「……出ていって、いいのか?」

 

「貴様で試すべき実験はやり尽くしたからのぉ。もはやここに置く価値はない」

 

 

 

私は、信じられない思いで立ち上がった。

身体中に刻まれた幻覚の古傷が疼く。だが、足枷はない。

 

 

私は一礼もせず、背を向けて走り出した。

館の扉を開け、雪深い森へと飛び出す。自由だ。数百年ぶりの、本当の自由。

 

 

冷たい風が頬を打ち、雪が素足を凍らせるが、そんなことはどうでもよかった。

ただ、この永劫の責め苦から一秒でも早く、一歩でも遠くへ。

 

 

だが――魔族という生き物を、私はまだ理解しきれていなかった。

 

 

森を数キロほど走っただろうか。

背後から、圧倒的な魔力の気配が迫ってきた。 振り返るまでもない。あれは、クヴァールだ。

 

 

「なんで……契約は終わったはずだろッ!今更守る義理なんて無いとか言うつもりか、このクソジジイっ!!自分で書かせておいて巫山戯んなよッ!」

 

 

私は絶叫し、さらに足を速める。

だが、魔族の飛行魔法に敵うはずもない。

音もなく、私の目の前に黒い影が降り立った。 クヴァールは、悠然と私の行く手を阻んでいた。

 

 

「契約は守ったぞ、フルーフ。儂は貴様を一度、解放した」

 

「じゃあ、なんで追ってくるんだよ!」

 

「気が変わってのぉ」

 

「だからなぁ!なら、最初から契約書なんて交わしてくんなッ!死ね!クソ野郎がぁ!ブチ殺すぞ!!」

 

「気が変わったと言ったであろう。丁度次の魔法実験の案が浮かんでのぉ」

 

 

クヴァールは、さも当然のことのように言い放った。

 

 

「その不死性、やはり手放すには惜しい。実験体としてだけではなく、永久機関としての魔力供給源として再利用することに決めた。……さあ、新たな契約を結ぼうか。今度は『永遠』に」

 

 

絶望が、私の足を縫い止める。

逃げられない。百年の苦行が、今度は永遠の苦行へと変わる。

 

 

クヴァールの手が、私に向かって伸びてくる。

その指先から放たれる拘束魔法の輝きが、私の視界を埋め尽くそうとした――その時だった。

 

 

――グチュリ。

 

 

湿った、生々しい音が響いた。

クヴァールと私の間に、突如として「それ」は落ちてきた。

空から降ってきたのか、地面から湧いたのか、あるいは空間の裂け目から現れたのか。 それは、ボロ布のようなローブを纏った、不定形の肉塊だった。

 

 

クヴァールが警戒し、手を止める。

肉塊は、ビクンと脈打ち、そのローブの隙間から、ギョロリと巨大な眼球を覗かせた。

 

 

その瞳の色は――翡翠色。

 

 

美しくも、この世の生物とは思えない狂気を孕んだ瞳が、クヴァールを射抜く。

 

 

私は、腰を抜かしてその光景を見ていた。

恐怖ではなく、安堵。なぜだか、私は、その怪物が不思議と怖くはなかった。

 

 

 

――敵意が、私に向いていない。

 

 

理屈ではなかった。

殺意と悪意の中だけで生きてきた本能が、そう告げていた。

あの瞳は、私を見ていない。私を獲物だと認識していない。だから、怖くないのだ。

 

 

次の瞬間、肉塊が爆発的に膨張した。

骨が砕け、肉が裂ける音と共に、その形が変貌していく。

 

 

人の形ではない。

獣の形でもない。 それは、ただ殺戮のためだけに存在する、純粋な暴力の形。

 

 

肉と骨がねじれ合い、形成されたのは――一本の、巨大な戦斧だった。

 

 

柄の部分には無数の血管が脈打ち、刃の部分は赤黒い骨と金属のような光沢を持つ肉で構成されている。

そして、斧の中心には紫苑色の瞳が埋め込まれ、目まぐるしく動き回っていた。

 

 

「魔物か?いや、この魔力放出量……あり得んな」

 

 

クヴァールが初めて、縫い込まれた目を見開いた。

彼の解析能力を持ってしても、目の前の存在は規格外すぎた。

 

 

魔力探知が悲鳴を上げているのが、私にもわかる。

 

 

クヴァールなど比較にならない程の、圧倒的で、異質な魔力の奔流。

巨大な戦斧が、クヴァールへ向けて振り下ろされた。

 

 

――轟音

 

 

ただの風切り音ではない。

大気が悲鳴を上げているかのような音。

 

 

クヴァールは咄嗟に防御魔法を展開する。

何重にも重ねられた、対物理に特化した最高位の障壁。

だが、戦斧の一撃は、魔法など存在しないかのように、障壁ごと空間を断ち切った。

 

 

「これは、ちと不味いかのぉ」

 

 

クヴァールが回避行動を取る。

斧の斬撃は彼を掠め、その背後にあった雪山へと突き抜けた。

 

 

一瞬の静寂。

 

 

直後、ズズズ……と地響きが鳴り、山の頂上が斜めに滑り落ちた。

山が、斬れたのだ。

それだけではない。斬撃の余波は空へと抜け、分厚く垂れ込めていた雪雲を一直線に裂き、その隙間から星空を覗かせた。

 

 

魔法による破壊ではない。

純粋な質量と技量、規格外の膂力による、理不尽なまでの物理攻撃。

防御魔法も、魔力耐性も関係ない。そこに在るものを、ただ「切断」するという事象の押し付け。

 

 

ギョロギョロと動く翡翠と紫苑の瞳が、クヴァールを見つめている。

 

 

 

クヴァールは浮き上がり、距離を取るために後退した。

未知。解析不能。規格外。

 

 

 

私は弾かれたように立ち上がった。

あの怪物が何なのかはわからない。

 

 

私を守ってくれたのか、ただクヴァールという強大な魔力に反応しただけなのか。

だが、今が唯一の好機であることは間違いない。

 

 

クヴァールの意識は、目の前の脅威に釘付けになっている。

私は雪を蹴り、森の奥へと全速力で駆けた。

 

 

背後で、再び世界が裂ける音がする。

クヴァールの放つ魔法と、戦斧が放つ衝撃波が衝突し、夜の森を昼間のように照らし出した。

 

 

私は振り返らなかった。

ただひたすらに、肺が焼け、心臓が肋骨を突き破りそうなほど暴れても、足だけは止まらなかった。

 

 

雪の森を抜け、荒野を彷徨い、私は歩き続けた。

 

 

空腹で倒れても、凍えて動けなくなっても、しばらくすれば身体が勝手に回復し、また歩けるようになる。 それは祝福ではなく、呪いだった。

野垂れ死ぬことさえ許されない、永遠の放浪。

 

 

着ているのはボロ布一枚。

 

 

髪は汚れ、肌は泥と垢にまみれている。

獣のような姿で、私は世界を彷徨った。

時折、遠くから人間の街を見かけたが、近づこうとはしなかった。

 

 

人間は怖い。

魔族と同じくらい、いや、それ以上に。

彼らの向ける「正義」という名の悪意が、私には何より恐ろしかった。

 

 

家族なら、そんなことはしないはずだ。

 

 

私は…家族が欲しいと思った。

気が許せる肉親が。私を好きでいてくれる誰かが。

 

 

温かい食事を一緒に囲む誰か。

眠るとき、隣にいてくれる誰か。朝、目覚めたとき「おはよう」と言ってくれる誰か。

 

 

私を大事にしてくれるなら、私だって大事にできるはずだ。

ほんの少しの優しさでいい。

もし私に少しでも優しくしてくれるのなら――それは、私にとって身内だ。

 

 

この世に生を受けてから…何百年経っただろうか。

気が遠くなるほどの時間を、たった一人、痛みと殺意の中だけで生きてきた。

クヴァールの所にいた頃の、反骨精神と「生」への気力は今やすっかり萎えてしまった。

 

「殺してやる」という気概は、いつしか「疲れた」という諦念に変わっていった。

 

 

 

どれだけ足掻いても、死ねない。

どれだけ殺しても、満たされない。

 

 

孤独。

 

 

もう、限界だった。

 

 

ある雪の日、廃墟となった農村で、私は一人の女性と出会った。

夕日のように温かい橙色の髪の女性。大魔法使い、フランメ。

 

 

普段なら、即座に牙を剥いていただろう。

殺される前に殺すと、襲いかかっていただろう。

だが、今の私には、指一本動かす気力さえ残っていなかった。

 

 

私は瓦礫にもたれかかり、虚ろな目でフランメを見上げた。

フランメは、泥と血にまみれ、獣のような姿をした私を見ても、顔をしかめなかった。

杖を下ろし、両手を見せて、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 

 

「……随分と、長く歩いてきたようだな」

 

 

フランメの声は、温かかった。

村で聞いた母の声以来、一度も聞いたことのない、純粋な労りの声。

 

 

その声を聞いた瞬間、数百年かけて凍りついていた何かが、その温もりに触れた瞬間、ひび割れ、砕けていくのがわかった。

 

 

フランメが、そっと私の泥だらけの頬に触れる。

その体温に、私の身体が震えた。

 

 

魔物の胃袋の熱さでもない、クヴァールの実験の激痛でもない。

ただ、優しい、人の温もり。

 

 

喉の奥から、嗚咽が漏れた。

殺意も、憎悪も、今はもうどうでもよかった。 ただ、終わらせたかった。この長すぎる悪夢を。

 

 

私は、フランメのローブの裾を、震える手で掴んだ。

涙が、ボロボロと溢れ出す。数百年分の涙が、止めどなく流れ落ちる。

 

 

「……ころ、して……」

 

 

掠れた声で、私は懇願した。

生きたいと足掻き、殺すと吠え続けた狂犬の、成れの果ての願い。

 

 

「おねがい……もう、いやだ……痛いのも、寒いのも、もう嫌だ……」

 

 

私は、大人の身体で、子供のように泣きじゃくった。

 

 

「だれでもいい……私を、殺して……終わらせて……」

 

 

フランメは、何も言わずに私を抱きしめた。

汚れた身体を、そのまま胸に抱いた。

 

 

「そうか。辛かったな」

 

 

その一言が、私の魂に突き刺さった。

 

 

「だが、死ぬ前に……少しだけ、私と話をしないか?お前のような面白い子は、初めてだからな」

 

 

フランメは優しく微笑んだ。

それは、世界に絶望し、死を乞う不死の少女が、初めて見つけた「希望」という名の小さな光。

 

 

あるいは、新たな、そして永遠に続く「呪い」の始まりだったのかもしれない。

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