ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第26話▶閑話▶ソリテール先生

 

 

シンビオシスの街並みが柔らかな朝霧に包まれる頃、学び舎の鐘が朝を告げる。

 

 

石造りの堅牢な校舎。

その一室では、窓から差し込む陽光が埃の粒子をキラキラと照らし出していた。

教室に漂うのは、古い羊皮紙とインクの匂い。木製の机が規則正しく並ぶ空間に、子供たちのざわめきが満ちている。

 

教壇に立つ一人の女性が、ゆっくりと手を挙げた。

 

翠色の長い髪が背中へ真っ直ぐに流れ、穏やかに垂れた目元が生徒たちを見渡している。

白磁のような肌、整った目鼻立ち。額から伸びる二本の角さえなければ、人間の令嬢と見間違える者もいただろう。

 

 

「さあ、皆。席について。今日のお勉強を始めましょうか」

 

 

澄んだ声が教室に染み渡る。

そこには慈愛と忍耐、そして底知れぬ余裕が満ちていた。

 

 

大魔族、ソリテール。

 

この街の事実上の支配者にして、この教育機関の長。

そして今は、物分かりの良い理想的な「先生」として、子供たちの前に立っている。

 

 

教室に座る生徒たちの構成が、この街の特異性を如実に物語る。

半数は人間の子供。残りの半数は、角や翼、あるいは異形の肌を持つ魔族の子供たち。

かつてであれば、出会った瞬間に殺し合いを始めていたはずの二つの種族が、今は同じ木製の机を並べ、同じ教科書を開いていた。

 

 

ソリテールは、その光景を眺めながら、内面で静かに思考を紡ぐ。

 

 

――捕食者と被捕食者。本来であれば、出会った瞬間に血が流れる関係性。

 

視線を滑らせる。木製の机。同じ教科書。隣り合う人間と魔族。

 

――それが、こうも安易に崩れ、混ざり合っている。フルーフが彼らの魂に施した『接ぎ木』は、実に興味深い結果をもたらしている。

 

 

彼女の眼に映るのは、単なる子供たちの姿ではない。

魔族でありながら、人間の子供と同じように善悪を宿し、笑い、怒り、恥じらい、喜ぶ――本来あり得ないはずの反応を示す、フルーフの実験の成果物たち。

ソリテールにとって、彼らは生徒であると同時に、長期観察の対象だった。

 

 

「先生! 宿題の魔法陣、どうしても上手く描けなかったんだ!」

 

 

人間の少年が、元気よく手を挙げる。

インクで汚れた指先が、彼の奮闘の跡を物語っていた。

その隣で、羊のような巻き角を持つ魔族の少女が、おずおずと身を縮こまらせている。

 

 

「そう? どこが難しかったのかしら。後で見せて」

 

 

ソリテールは少年に微笑みかけてから、視線を移した。

 

 

「……それより、リズ。君はどう? 顔色が優れないようだけれど」

 

 

魔族の少女――リズの机のそばへ歩み寄る。

足音は立てない。流れる水のように、自然に、滑らかに。

リズはビクリと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな瞳でソリテールを見上げた。

 

 

「……ごめんなさい、先生。私、魔力の込め方がわからなくて……イメージすると、なんだか怖くなって……」

 

「怖い?」

 

 

ソリテールは片膝をつき、リズと視線を合わせる。

優しく、威圧感を与えず、相手の心に寄り添うような所作。完璧に調律された教育者の振る舞いだった。

 

 

「はい……。魔力を練り上げると、胸の奥がチリチリして、誰かを傷つけちゃいそうな気がして……」

 

 

リズの言葉を、ソリテールの内面が分析していく。

 

 

――魔力行使に対する本能的な忌避反応。

これはフルーフの施した処置によって植え付けられた『人間性』が、魔族本来の攻撃衝動と衝突している証拠。

注意が必要だ。……この葛藤が、彼女の成長にどのような影響を与えるのか、予想出来ない。

 

 

その思考は表情に一切現れない。

ソリテールは慈愛に満ちた微笑みを深め、リズの震える手をそっと包み込んだ。

 

 

「可哀想に。でもね、リズ。怖がることはないわ」

 

 

少し冷たい、人肌の温もり。

リズの強張った指先が、わずかに緩む。

 

 

「魔法は、ただの力。それをどう使うかは、リズの心が決めること。君の心はとても優しいから、きっと誰かを守るための魔法になるわ」

 

「ほ、本当……ですか?誰も傷つかない?」

 

「ええ、本当。私が保証するわ。さあ……深呼吸をして。私が補助してあげる、もう一度やってみましょう」

 

 

ソリテールが微量な魔力を流し込む。

リズの手のひらの上で、それは淡い光の粒子となって渦を巻いた。

おそるおそる、リズがその流れをなぞる。

 

ふわり。

 

少量のツムジ風が、二人の間に舞い上がった。

リズの前髪を揺らし、ソリテールの翠色の髪をかすかに靡かせる。

 

 

「わあ!」

 

 

周囲の子供たちが歓声を上げた。

人間の子も、魔族の子も、等しく目を輝かせている。

リズの顔に、パッと安堵と喜びの花が咲いた。

 

 

「できた……! ありがとう、ソリテール先生!」

 

「よくできました。素晴らしいわ、リズ」

 

 

ソリテールは立ち上がり、リズの頭をそっと撫でる。

 

子供たちの笑顔。感謝の言葉。教室に満ちる温かな空気。

ソリテールはそれを全身で浴びながら、今日も、心の中で淡々と記録を綴る。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

午後の授業は、屋外での実技演習だった。

 

 

教室の重い扉を押し開けると、むわりと草いきれが鼻をくすぐる。

夏の名残を宿した陽光が、じわりと肌を焼いた。

 

 

中庭には、的となる案山子が整然と並べられている。

藁と布で作られた人型が、微風に揺られてかすかに軋む音を立てていた。

 

その周囲では、子供たちが杖を構え、拙い魔法を放っている。

パチパチと弾ける小さな火花、ふわりと舞う風の渦、ぽたぽたと滴る水の玉。

成功と失敗が入り混じる喧騒が、中庭を満たしていた。

 

 

「イメージが大事。魔法とは、世界を欺くこと。あり得ないことを、あり得ると信じ込む力」

 

 

ソリテールの声が、風に乗って子供たちの耳に届く。

彼女は木陰に立ち、掌を重ねその様子を観察していた。

 

 

「いくぞー!」

 

 

人間の少年が叫び、杖を振り上げた。

イメージ、術式構築、様々な意味で荒だらけだが、気合いだけは十分だ。

杖の先端から小さな火の玉が放たれる。それは放物線を描き、案山子の肩を焦がした。

パチリ、と乾いた音。焦げた藁の匂いが漂う。

 

 

「よっしゃ! 当たった!」

 

 

少年が拳を突き上げ、周囲から拍手が起こった。

 

一方で、魔族の子供たちの動きは鈍い。

 

 

彼らは潜在的な魔力量において人間を遥かに凌駕している。

本来なら、術式やイメージなど特に意識せずとも、爆炎を巻き起こせるポテンシャルを秘めているはずだ。だが、彼らは杖を握りしめ、脂汗を滲ませながら、必死に「小さな火」をイメージしようと苦闘している。

 

 

「……難しいな」

 

 

蜥蜴の尻尾と角を持つ魔族の少年――ガインが、悔しそうに呟いた。

鱗に覆われた額には汗が滲み、杖を握る手は小刻みに震えている。

 

 

ソリテールは木陰から彼を観察しながら、思考を巡らせる。

 

 

――彼の中に眠る魔法に対する本能は、『敵を焼き尽くせ』と叫んでいるはず。

 

 

ガインの表情を読む。

眉間に刻まれた皺、噛み締めた唇、杖を握る指先の強張り。本来なら容易く放てるはずの魔法を、何かが内側から押し留めているように感じられた。

 

 

――フルーフによって植え付けられた人間性の影響か。『そんなことをしてはいけない』『火は危ない』『熱いのは痛い』という、人間特有の危機意識が歯止めをかけている。

 

 

その葛藤。その矛盾。

ソリテールにとって、それは何よりも興味深い観察対象だった。

 

 

――魔族が本来持つ魔法への優れた感受性、他者を厭わない殺傷性の高い魔法を放てる才能。そこに人類の持つ『倫理』という非効率な枷をはめると、ここまで才能を低下するとは。

 

 

視線をガインから他の魔族の子供たちへと移す。

皆、似たような状況だった。

 

 

――他者を傷つける恐怖、恐れによる出力の低下率はおよそ八割。無意識にせよ、意識的にせよ、人間の子供と同程度まで落ちている。ただし、魔族としての魔力制御技術自体には影響はない。つまり――

 

 

「大丈夫かよ、ガイン。貸してみろよ、俺がコツ教えてやるから」

 

 

思考が中断される。

先ほど火の玉を成功させた人間の少年が、ガインに駆け寄っていた。

 

 

「うるさいな、わかってるよ……」

 

 

ガインは素直ではない。

尻尾がイライラと地面を叩くが、それでも少年を追い払おうとはしなかった。

 

 

「こう、熱い感じを一点に集めるんだろ?」

 

「……それはわかってる」

 

「でもさ、怒った時みたいにカッとなるんじゃなくて、焚き火に当たるみたいに、じんわりとやるんだよ」

 

 

少年が身振り手振りで説明する。ガインは怪訝そうに首を傾げた。

 

 

「……じんわり?」

 

「そうそう。俺のばあちゃんちにさ、暖炉があるんだけど。冬に火を見てるとさ、なんか落ち着くんだよ。そういう感じ」

 

「暖炉……」

 

 

ガインは目を閉じた。 彼の中で、何かが変わろうとしている。

ソリテールにはそれが視えた。

 

 

二人の子供が、額を突き合わせて話し合っている。

種族の壁を超えた、知識の共有。共感。協力。

 

 

――これこそが、私が最も注視している現象。

 

 

ソリテールの思考は加速する。

 

 

――魔族は本来、群れない。協力などという概念は、自身の利益になる場合を除いて存在しない。他者は利用するものか、排除するものでしかない。

 

 

だが、この「改造された」魔族の子供たちは違う。

 

 

――彼らは他者を認識し、その他者と自己との間に『関係性』という見えない糸を紡ごうとしている。

 

 

ソリテールは視線を遠くへ向けた。

空は青く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れている。

 

 

――これは人類の魔法が急速に進化したことと、密接に関係するもの。私が将来的には魔族という種が必ず根絶されると考えた要因。

 

 

風が吹き、木の葉がさざめいた。

 

 

――知識の保管、伝承、共有。一世代の単独で進化と研究を行う魔族と違い、何百、何千という人類が共有する魔法という概念。一つの知識と学びが、新たな知識へと指数関数的に進化させる――短命な人類が持つ智の可能性。

 

 

「先生、見てて! できたよ!」

 

 

声に意識を引き戻される。

ガインが、指先から小さな、しかし安定した灯火を生み出すことに成功していた。

焚き火のような、温かみのある橙色の光。

 

 

人間の少年とハイタッチをして喜んでいる。

パン、と小気味よい音が中庭に響いた。

 

 

ソリテールは木陰から歩み出て、二人に拍手を送った。

 

 

「素晴らしいわ、ガイン。今の魔法、とても綺麗だった」

 

「へへ……まあね!」

 

 

得意げに鼻を鳴らす少年。鱗に覆われた頬が、わずかに紅潮している。

 

 

「お友達のアドバイスを素直に聞けたことも、貴方の才能ね」

 

「えっ、俺のこと褒めてくれんの?」

 

 

人間の少年が目を丸くする。ソリテールは彼にも微笑みかけた。

 

 

「もちろん。教えることは、学ぶことと同じくらい難しいの。貴方は良い先生になれるかもしれないわね」

 

「へへへ……」

 

 

少年は照れくさそうに頭を掻いた。

 

ソリテールは二人を見つめながら、思考を続ける。

 

――環境と魂の変質によって、ここまで『種』としての性質が変わる。これはもう、別の生き物と言っていい。

 

 

視線を二人の少年から、中庭全体へと広げる。

 

 

――フルーフ。貴女に作らせたこの子供たちは、魔族の才能と人類の可能性を併せ持つ生物。私のような古い化け物とは違う、新種の魔族。

 

 

問いが連なる。

繁殖は可能か。生殖機能は正常に発達するのか。人類との繁殖が可能であると仮定すれば、世代を経るごとに信頼関係が構築され、常識が塗り替えられていく。

 

そうなれば、共存も十分に可能だろう。

 

 

――だけど……私は魔王様やマハトと違って、共存などに興味はない。そんなものを追い求めるつもりは最初からない。今は、眼の前の生徒達の観察に集中していたい。

 

 

「先生、僕の魔法も見て!」

 

「私のも!」

 

 

次々と集まってくる子供たち。

ソリテールは嫌な顔一つせず、一人一人の頭を撫で、言葉をかけ、魔法の修正点を指摘していく。

 

 

「術式のリズムをもう少しゆっくりね」

 

「イメージが散漫になっているわ。一点に集中」

 

「上手。次はもう少し威力を抑えて」

 

 

手つきは優しく、言葉は温かい。

だが、その瞳の奥底にある深淵は、どこまでも静かで、波紋一つ立っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

放課後の教室は、茜色の夕陽に染まっていた。

 

 

西向きの窓から差し込む光が、無人の机の上に長い影を落としている。

子供たちの喧騒が去り、廊下を駆ける足音も遠ざかり、静寂が戻った部屋には、埃っぽい空気と、黒板に残るチョークの粉の匂いだけが漂っていた。

 

 

その静けさの中に、押し殺した嗚咽が響いている。

 

 

教室の隅、窓際の席。

一人の生徒が机に突っ伏して、声を殺して泣いていた。

 

 

人間の少女だ。

栗色の髪を二つに結び、そばかすの浮いた頬を涙で濡らしている。

成績は芳しくなく、魔法の実技でも失敗ばかりしている、いわゆる「落ちこぼれ」と呼ばれる生徒だった。

 

 

ソリテールは、職員室に戻ることもなく、彼女の席の隣に座っていた。

 

 

もう一時間も、こうしている。

 

 

ただ黙って、少女が泣き止むのを待っている。

窓の外では、夕陽が少しずつ沈み、茜色が深い橙へと移り変わっていく。遠くで鳥が鳴いた。

 

 

「……うぅ……ぐすっ……」

 

 

少女の嗚咽が、少しずつ小さくなっていく。

肩の震えが収まり、呼吸が落ち着いてくる。

 

 

「落ち着いたかしら?」

 

 

ソリテールが静かに問いかけ、懐からハンカチを取り出して差し出した。

上質なリネン地に、小さな花の刺繍が施されている。

 

 

少女はそれを受け取り、ためらいがちに、しかし乱暴に涙を拭った。

鼻をすする音が、静かな教室に響く。

 

 

「……先生。どうして帰らないの? 私なんかのために」

 

「『私なんか』なんて言わないで」

 

 

ソリテールの声は穏やかだが、どこか有無を言わせぬ響きがあった。

 

 

「私はね、貴女とお話したいの。どうして泣いていたのか、聞かせてもらえるかしら?」

 

 

少女は唇を噛み締めた。

ハンカチを握りしめる手が、わずかに震えている。

 

 

やがて、ポツリポツリと言葉が零れ始めた。

 

 

「……私、才能がないんです」

 

「そう思うの?」

 

「だって、どんなに練習しても、魔法が上手くならない。お父さんもお母さんも、私に期待してくれてるのに……それに応えられなくて……」

 

 

声が詰まる。少女は俯いたまま、拳を膝の上で握りしめた。

 

 

「魔族の子たちの方が、ずっと上手なんです。私より後から入ってきたのに、もう私よりずっと先に進んでる。それを見てると、惨めで……悔しくて……」

 

 

言葉が途切れる。少女の肩が、また小さく震え始めた。

 

 

「……最低ですよね、私。魔族の子を妬むなんて。みんな頑張ってるのに。そんな風に思っちゃう自分が、醜くて、嫌いで……」

 

 

ソリテールは黙って聞きながら、少女の表情を伺う。

俯いた目元、震える唇、握りしめた拳。そこから読み取れるのは、複雑に絡み合った負の感情。

 

 

――嫉妬。自己嫌悪。劣等感。私の思考回路が正常に人類のそれに沿えていれば、この感情の解釈で合っているはず。

 

ソリテールは少女の背中にそっと手を置いた。

温もりを伝えるように、優しく、ゆっくりと撫でる。

 

 

「辛かったわね」

 

 

その一言に、少女の目から再び涙が溢れた。

 

 

「でも、貴女がそうやって苦しむのは、貴女が向上心を持っている証拠。諦めていないからこそ、悔しいの」

 

「……でも、私、魔法が下手くそで……」

 

「ねえ、魔法の上達に、一番邪魔なものは何だと思う?」

 

 

ソリテールは問いかける。少女は顔を上げ、涙に濡れた目で彼女を見つめた。

 

 

「え……魔力が少ないこと? イメージが下手なこと?」

 

「いいえ。それは『恐怖』と『焦り』よ」

 

 

ソリテールは少女の手を取り、その冷たい指先を両手で包み込んだ。

 

 

「自分はダメだと思い込むこと。それが、貴女のイメージを縛り付けている鎖なの」

 

 

少女の瞳が、わずかに揺らぐ。

 

 

ソリテールは片手を離し、人差し指を空中で躍らせた。

何気ない動作。しかしその軌跡に沿って、光の粒子が集まり始める。

 

 

キラキラと輝く粒子は、やがて一つの形を成した。一輪の花。

透明な花弁が夕陽を受けて虹色に煌めき、少女の瞳を映し出す。

 

 

「魔法はね、嘘をつくのと同じくらい自由なの」

 

 

ソリテールが囁く。光の花が、ふわりと少女の掌に降りた。

 

 

「自分を騙して。私はできる、私はすごい魔法使いだと。根拠なんていらない。ただ強く、強く思い込む。そうすれば、世界は貴女の嘘に騙されて、形を変えるわ」

 

「自分を……騙す……」

 

 

少女が呟く。その声には、まだ迷いがあった。

 

 

「貴女が抱いている魔族の子への嫉妬。それを、強いイメージに変えてみて」

 

「えっ……でも、そんなの……」

 

「『あの子に負けたくない』という気持ちは、とても強いイメージを生むわ。醜いなんて思わなくていい。それは、貴女が生きようとしている証なのだから」

 

 

少女が顔を上げる。涙の跡が残る頬に、夕陽が柔らかく当たっている。

 

その瞳から、絶望の色が消え、小さな決意の光が宿り始めていた。

 

 

「先生……私、やってみる。嘘でもいいから、自分を信じてみる」

 

「ええ。明日もまた、放課後に練習しましょう。私が付き合うわ」

 

「うん! ありがとう、先生!」

 

 

少女は笑顔を取り戻し、慌てて涙を拭うと、鞄を掴んで立ち上がった。

 

 

「さようなら!」

 

 

元気な声が廊下に響き、バタバタと駆けていく足音が遠ざかる。

やがてそれも聞こえなくなり、教室には再び静寂が戻った。

 

 

ソリテールは、少女が消えた扉を見つめながら、ふう、と小さく息を吐いた。

 

 

彼女は立ち上がり、黒板に歩み寄る。

そこには、今日の授業で描いた魔法陣の跡がうっすらと残っていた。

指でその線をなぞりながら、思考を巡らせる。

 

――あの生徒は、おそらく大成しない。

 

淡々と頭の中に予想が、紡がれる。

 

――魔力が平均値よりも絶対的に不足している。才能という点では、残念ながら見込みは薄い。

 

 

窓の外を見る。

夕陽は既に沈みかけ、空は茜から紫へと移り変わろうとしていた。

最初の星が、東の空に瞬き始めている。

 

 

――けれど、今日植え付けた思考の種が、彼女の人生にどのような影響を与えるのか。

 

 

ソリテールは窓辺に歩み寄り、ガラスに映る自分の姿を見つめた。

翠色の髪、二本の角、そして感情の読めない深い瞳。

 

 

――魔法使いになれなくても、その向上心が、別の分野で開花するかもしれない。あるいは、嫉妬に狂って破滅するかもしれない。

 

 

どちらに転んでも、構わない。どちらにも記録的価値がある。

 

 

――その時は再度調整が必要ね。陳腐な終わりは求めていない。その感情でどこまで魔法を進化させられるか、そこに興味があるの。

 

 

窓ガラスに、彼女の息が白く曇る。

 

 

――私が生きている間なら、50年くらいは面倒を見てあげる。

 

 

成功も失敗も、幸福も不幸も、人類の魔法体系と密接に関わるのであれば、ソリテールにとっては価値ある記録だ。

 

 

彼女は、子供たちの人生という物語の読者であり、時には話が脱線しないよう進路を調整する編集者でもあった。

 

 

夜の帳が、静かに降り始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

暖かな陽光が降り注ぐ午後。学園の最上階にある学園長室。

重厚な樫の扉の向こうから、ヒステリックな怒声と、不機嫌さを隠そうともしない子供の舌打ちが漏れ聞こえていた。

 

 

室内には、豪奢なソファにふんぞり返る一組の夫婦と、その間に挟まれて退屈そうに貧乏ゆすりを繰り返す少年の姿があった。

そして執務机の向こう側、優雅に腰掛けて紅茶の湯気を楽しんでいるのは学園長――ソリテール。

 

 

「――ですから! うちの息子が何をしたと言うんですか! たかが魔族のガキにちょっとした悪戯をしただけでしょう!」

 

 

父親と思しき男が、唾を飛ばしながら捲し立てる。

身なりは良いが、その顔には品性の欠片もない傲慢さが張り付いていた。

街が出来た頃からいる住民であれば、ソリテールに決してこのような態度はとらない。

恐らくは、最近この街に移住してきた一家だろう。

 

 

「悪戯、ね」

 

 

ソリテールはカップをソーサーに置いた。

磁器が触れ合う澄んだ音が、怒声の余韻を断ち切る。

 

 

「魔法を至近距離で放ち、相手の腕に火傷を負わせることが?」

 

 

その声は鈴を転がすように穏やかで、慈愛に満ちていた。

 

 

「怪我が治れば問題ないでしょう! そもそも、人間と魔物を一緒に教育しようなんて、この教育機関の理念がおかしいんですよ!」

 

 

母親がキーキーと金切り声を上げる。

頭に血が上り、相手が魔族であることを忘れているようだ。

問題の少年は、両親の剣幕を背に勝ち誇ったような顔で、ソリテールを睨みつけていた。

 

 

「あいつらが生意気なんだよ。魔族のくせに魔法が下手くそでさ。僕が魔法の凄さを教えてやったんだ。感謝してほしいくらいだよ」

 

 

反省の色など微塵もない。

少年の目には、自分が正しいことをしたという確信が宿っている。

 

 

ソリテールは表情を崩さぬまま、内面で状況を整理していく。

 

――本来、捕食される側の種族が、捕食者を前にしてここまで増長できるだなんて。

 

少年の態度、両親の怒声、部屋に満ちる敵意。それらを一つ一つ分解し、分類していく。

 

――これは無知によるものか、それとも集団心理による錯覚か。人間が群れの中にいると、個としての危機察知能力が著しく低下する。これも、ある意味では人類の文化的特性と言えるのかもしれない。

 

ソリテールの表情は、変わらず柔らかい微笑みのまま。

怒りはない。ただ、目の前で鳴いている羽虫の羽音の意味を探っていく。

 

 

「教育者として一つ」

 

 

ソリテールは立ち上がった。

 

 

「魔法というものは、他者を傷つけるためにあるのではないの」

 

 

ゆっくりと、彼らに向かって歩み寄る。

その足音はカーペットに吸い込まれ、一切の音を立てない。

 

 

「力を持つ者は、それを持たぬ者を守る義務がある。それが、知性ある者の振る舞いだとは思わない?」

 

「はん!」

 

 

少年が鼻で笑う。

 

 

「綺麗事ばっかり。魔族なんて殺しても罪にならないって、じいちゃんが言ってたぜ」

 

 

両親もそれに同調し、嘲笑を浮かべた。

 

 

「そうね、学園長さん」

 

 

母親が立ち上がり、ソリテールを見下すように顎を上げる。

 

 

「貴女、自分がどれだけ偉いか知らないけれど、私たちに指図するつもり? この街にどれだけ寄付をしていると思っているの。気に入らないなら、貴女を追い出すことだってできるのよ」

 

――寄付。

 

ソリテールは内心で首を傾げる。

 

――私と何の関係があるのか、わからない。どうして今、そんな関係のないことを口にした。この人間の思考回路に対して、擬似的な共感を試みることすら困難ね。

 

 

父親が立ち上がり、ソリテールを見下ろそうとする。

その瞬間、ソリテールの内側で、何かが切り替わった。

 

感情の昂りではない。 殺意ですらない。

ただ、思考のプロセスにおいて、「対話による更生」という選択肢が「不可能」と判定され、次の処理へと移行しただけのこと。

 

 

不合理な言葉の羅列。実験の阻害要因。教育環境における汚染源。

 

別の対処方法が必要だと、判断した。

 

ソリテールの唇が、美しい弧を描く。

彼女は生徒である少年に向かって、諭すように、優しく語りかけた。

 

 

「ええ、そうね。貴方の言う通りだわ。魔法は自由」

 

 

一歩、近づく。

 

 

「……でも、ここは学びの場。正しい正論を教える場。だから、人を傷つけるために使ってはいけないの。それが人間が魔法を使う上での道理というものよ」

 

言葉と同時だった。 ソリテールの人差し指が、指揮棒を振るうように軽く、滑らかに動く。

 

「『人を殺す魔法(ゾルトラーク)』」

 

 

何気なく、唐突に。

ただの独り言のような、日常会話の延長線上。

 

 

漆黒の閃光が、少年を飲み込んだ。

 

 

――ドシュッ。

 

湿った音が一つ。 静寂が落ちる。

 

 

ソファの上には、少年の下半身だけが残されていた。 焼き焦げた断面から、噴水のように鮮血が舞い上がる。天井に描かれた美しい壁画が、赤い飛沫で汚れていく。

 

 

一秒。

 

二秒。

 

時が凍りついたように、誰も動かない。

 

 

「――え……?」

 

 

父親の喉から、ようやく声が漏れた。

間の抜けた、現実を理解できていない声。

母親の顔には、息子の血と肉片がへばりついている。白い頬を伝い落ちる赤が、彼女の瞳の焦点を奪っていた。

 

 

目の前で起きた現象と、日常の常識が乖離しすぎている。

脳が処理を拒絶し、二人の思考は完全に停止していた。

 

 

「私は極めて常識的な道徳を説いていると、理解できているかしら?」

 

 

ソリテールは微笑んだまま、穏やかに言葉を続ける。

 

 

「悪意で魔法を撃たれた側の気持ちを考えなければいけないわ。他人の痛みに共感する優しさを持ってほしいの。誰かを傷つける行いからは何も生まれないわ」

 

 

流れるような動作で、両親へと歩み寄る。

魔法を使うまでもない。魔力を込める必要すらない。

 

 

彼女は、凍りついたように動かない父親と母親の頭部を、左右の手でそれぞれ鷲掴みにした。

まるで、果実を収穫するかのように、無造作に。

 

 

「あ……が……?」

 

 

父親の喉から、空気の漏れるような音がする。

ソリテールは彼らの顔を覗き込み、心底楽しそうに、そして残念そうに首を傾げた。

 

 

彼らの瞳に宿っていた傲慢さは、もはや欠片も残っていない。

そこにあるのは、間近に迫った死への恐怖のみ。

 

 

「悪いことをしたら謝るものよ」

 

 

優しく、諭すように。

 

「――――」

 

「……言葉が通じないのね。お話ができなくて残念」

 

 

ソリテールは両腕を振り下ろした。

一切の躊躇なく。虫を潰すような気軽さで。

 

 

――ダンッ!!

 

 

重苦しい音が、学園長室に響き渡る。

二人の頭蓋は、高級な黒檀の机に叩きつけられ、熟れすぎた果実のように容易く弾け飛んだ。

 

 

脳漿と骨片が飛び散り、書類やインク壺を巻き込んで、机の上を凄惨な色に染め上げる。

 

 

ビクリ、と死体が一度だけ痙攣し、糸が切れたように動かなくなった。

 

 

部屋には、鼻を突く鉄錆の臭いだけが残る。

窓から差し込む暖かな午後の日差しが、凄惨な光景を照らし出していた。

 

 

ソリテールは、血と脳漿で濡れた自分の両手を見つめる。

 

 

指先から、ポタ、ポタ、と赤い雫が垂れ落ち、高級な絨毯に、小さな染みが広がっていく。

 

 

――手に血がついた。

 

 

ソリテールの思考は、淡々と続く。

 

――生徒を怖がらせるのは、精神の安定を揺るがす。学習効率に影響を与えるわ。拭いておくべきね。

 

 

彼女の中に、罪悪感は微塵もない。

あるのは、「家具が汚れてしまった」という陳腐な感想だけ。

 

 

彼女は懐からハンカチを取り出し、指についた汚れを丁寧に拭き取った。

一本一本、爪の間まで念入りに。

それから何事もなかったかのように姿勢を正し、スカートについた皺を軽く払う。

 

 

窓の外では、小鳥がさえずっている。

中庭から、子供たちの元気な声が聞こえてくる。

平和な学園の風景。その中心で、三つの死体を作り出した大魔族は、ふう、と小さく息を吐いた。

 

 

「困った。このままだと、午後の授業に間に合わないわ」

 

 

ソリテールは、スゥと音もなく動き出す。

スカートの裾を翻し、血の海と化した惨劇の現場に背を向ける。

その足取りは軽く、まるで庭園を散歩しているかのようだった。

 

 

彼女は扉のノブに手をかけ、振り返ることなく呟いた。

 

 

「フルーフを呼ばないと。……今から蘇生と記憶処理、お願いできるかな」

 

 

ガチャリ。 扉が開く。

廊下には、いつもと変わらぬ学園の日常が広がっていた。

木漏れ日が窓から差し込み、遠くから子供たちの笑い声が響いてくる。

 

 

ソリテールは廊下に出ると、すれ違った生徒に穏やかに微笑みかけた。

 

 

「元気ね。次の授業も頑張って」

 

「はい、ソリテール先生!」

 

 

生徒が元気よく駆けていく。

その背中を見送り、ソリテールは静かにその場を後にする。

 

 

背後の部屋では、上半身のない死体と、頭部を潰された二つの死体が、穏やかな午後の日差しに包まれていた。

開け放たれた窓から、春の風が吹き込む。

血の匂いと、花の香りが混じり合い、奇妙な芳香となって部屋に満ちていく。

 

 

死体は静かに、まだ微かな熱を保ったまま、そこに横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

街の喧騒から少し離れた、煉瓦造りの瀟洒なレストラン。

今宵、この店は貸し切りとなっていた。

 

 

窓から漏れる暖かな光が、夜の闇に溶け込んでいく。

中からは、グラスが触れ合う軽やかな音と、屈託のない笑い声が絶え間なく響いていた。

厨房からは焼けた肉の香ばしい匂いが漂い、時折、コルクを抜く小気味よい音が店内に響き渡る。

 

 

「学園長、こちらのお酒も如何ですか? 南部から取り寄せた年代物でして」

 

「あら、素敵ね。いただくわ」

 

 

ソリテールは、差し出されたワインボトルに優雅に視線を落とし、グラスを傾ける。

注がれた深紅の液体が、店内のランプの光を吸い込んで揺らめいた。

 

 

ここは、彼女が長を務める教育機関の職員たちによる親睦会――という名目の、単なる飲み会である。

 

 

集まっているのは、一癖も二癖もある者たちばかりだ。

 

 

剣だこの残る手で器用にフォークを操る元傭兵の体育教師。

眼鏡の奥で知性を光らせる、政争に敗れ国を追われた元宮廷魔導士の理数教師。

姿勢の良さが骨身に染みついた没落貴族の礼法担当。

怯えの名残を瞳の奥に宿す、国籍を持たぬ難民の事務員。

そして、壁際の席で静かにグラスを傾ける、かつて国直属の組織から消されかけた元暗殺者の用務員。

その他にも、一筋縄ではいかない者たちが席を連ねている

 

 

フルーフが大陸中から搔き集めてきた、社会のレールから外れ、行き場を失った者たち。

かつては絶望や孤独、あるいは血生臭い過去を背負っていた彼らだが、今、その表情にあるのは安らぎと、適度な酒精による高揚感だけだった。

 

 

ソリテールは、その中心に座り、穏やかな微笑みを絶やさずにいた。

彼女の内面では、絶え間なく、ある「確認作業」が行われている。

 

 

彼女が確認しているのは、自らの精神に施した幾重もの自己暗示と洗脳、精神魔法によって編み上げられた「人間を模した思考回路」だ。

 

 

無意識下で稼働するほどにまで、意識の奥深くに染みつかせた思考の癖。

魔族的思考を人間的思考へと強引に迂回させる、精緻な回路。

 

 

機械的で柔軟性のない、膨大な経験と学習データに基づく回答の出力。

それらの回答を有機的で文学的な推敲に近い作業で処理し、最終的な予測、確率、検討を経て感情を見出し、対応する。

それらを絶えず高速で、同時並列で行っていた。

 

 

この飲み会は、その無意識下で稼働する思考のテストも兼ねている。

 

会話という名の川の流れに身を任せ、そこで生じる感情のさざ波を観測する。

彼らの笑顔を見て、自分が「安らぎ」と似た感情を感じられるか。

彼らの愚痴を聞いて、「労り」と似た感情と言葉が自然と紡がれるか。

この集団の中にいて、「居心地の良さ」という態度が自然ととれるか。

 

 

もし、そこに僅かでも違和感があれば、それは彼女が構築した「擬似的な人間性」とも呼べる回路に綻びがある証拠だ。

 

 

「それにしても、学園長の下で働けるというのは、本当に幸運なことですよ」

 

 

顔を赤らめた初老の男性――かつてとある王国で宮廷魔導士を務めていた男が、感慨深げに口を開いた。

 

 

「前の職場ときたら、酷いものでした。成果を出せば妬まれ、失敗すれば即座に切り捨てられる。私の魔法理論など、誰も見向きもしませんでしたからな」

 

「ええ、分かりますとも」

 

 

隣で頷くのは、没落貴族の礼法教師だ。

彼は上品にワインを揺らしながら、過去の苦味を飲み下すようにグラスを呷った。

 

 

「貴族社会も似たようなものです。足の引っ張り合いばかりで、本質を見ようともしない」

 

「ここでは、私の理論を生徒たちが目を輝かせて聞いてくれる。何より、学園長が私の研究に必要な予算を惜しみなく承認してくださる。研究者として、これ以上の喜びはありません」

 

「貴方の理論は独創的で美しいもの」

 

 

ソリテールは淀みなく言葉を返す。

 

 

「生徒たちの想像力を刺激するには十分すぎるわ。必要なものがあれば、いつでも言って。才能が環境によって枯れてしまうのは、世界の損失よ」

 

 

その言葉に嘘はない。

少なくとも、ソリテールにとって、生徒は大事な存在だ。

「研究」「実験」「観察」という物々しいワードを抜けば、それは紛れもない本心だった。

 

 

彼らの表情は、感謝と敬愛に満ちている。

かつて彼らが抱いていた、世界に対する恨みや絶望といった暗い影は、この街での生活を通じて薄れ、今では穏やかな希望の色へと変わりつつあった。

 

 

十分な給金と社会的地位。

そしてソリテールが提供する、過不足のない適切な労働環境。

 

 

彼女は決して怒鳴らない。無茶な要求もしない。人手が足りなければ、即座に適切な人材を補充する。

彼女にとって、組織とは精密な時計のようなものだ。

部品一つ一つが過度な負荷なく、滑らかに動いてこそ、全体が機能する。

部品を摩耗させるような使い方は、非合理的であり、生徒の成長を妨げる悪因でしかない。

 

 

「学園長、次のお肉料理が来ましたよ! ここの鴨のロースト、絶品なんすよ!」

 

 

元傭兵の教師が、大皿を運んできたウェイターを手伝いながら声を上げる。

彼の無骨な手つきは、かつて剣を握っていたものとは思えないほど、今は子供たちの頭を撫でるのに馴染んでいる。

 

 

湯気を上げる鴨のローストが、テーブルの中央に置かれた。

ローズマリーと蜂蜜の甘い香りが立ち上り、周囲から歓声が上がる。

 

 

「ありがとう。今日は私が全て持つのだから、財布の紐を気にする必要はないわ」

 

「よっ! 太っ腹! 一生ついていきます!」

 

「遠慮はしないで。貴方たちが心身ともに健やかでいてくれることが、生徒たちにとって最高の環境になるのですから」

 

 

歓声が上がる。

 

ソリテールは、金銭などに興味はない。

彼女にとって貨幣とは、人間社会を円滑に進めるための道具に過ぎなかった。

学園長という立場上、彼女の懐には使いきれないほどの報酬が入ってくる。ゆえに惜しむ意味もない。

 

こうして還元することで、彼らの忠誠心と幸福度が上がり、結果として組織が安定するならば、これほど効率的な投資はない。

 

 

「あの、学園長……」

 

 

控えめな声がして、ソリテールは視線を横に向けた。

そこには、事務員の女性が座っていた。

 

彼女は難民としてこの街に流れ着いた人間だ。

その瞳には、常に怯えのような色が宿っていたが、今夜は少しだけ勇気を出したように見えた。

 

 

「先日は……その、私の弟の薬の手配までしていただいて、本当にありがとうございました。お陰様で、弟の熱も下がって……」

 

「お礼には及ばないわ」

 

 

ソリテールは穏やかに微笑む。

 

 

「ご家族の不安は、貴女の仕事の効率にも影響するでしょう。弟さんが元気になって、貴女が安心して働けるなら、それが一番よ」

 

「でも、あの薬、とても高価なものだと聞きました。それを、個人のために……」

 

 

彼女の声が震える。 ソリテールは、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。指先から伝わる温もりが、女性の強張りを少しだけ解きほぐす。

 

 

「困った時はお互い様よ。貴女の事務処理能力の高さにはいつも助けられている。これは、その正当な評価と対価だと思ってほしいわ」

 

「……はい。ありがとうございます……本当に……」

 

 

女性の目尻に、光るものが滲んだ。

 

 

宴は進む。

元暗殺者の用務員が、酔った勢いで余興を始めた。ナイフを使ったジャグリングだ。

銀色の刃が、ランプの光を受けてきらきらと回転する。かつては人を殺めるために使われていたその技術が、今は同僚たちを笑わせるために使われている。

 

 

「すごい! さすが元プロ!」

 

「いやあ、昔取った杵柄ってやつでさあ。でも今は、廊下の隅の汚れを見つける方が得意になっちまって」

 

 

どっと笑いが起きる。 ソリテールもまた、口元に手を当てて上品に笑う。

 

 

鼓膜に響く笑い声、周囲の状況、言葉の流れ、視界の情報、表情、動作――それらがソリテールの内部を伝った瞬間、秒にも満たない速度で、最適な行動が導き出される。

 

 

笑うべき場面だ。だから笑う。計算された所作。完璧に調律された反応。

 

 

ふと、彼女の視界の端に、無防備な首筋が映り込んだ。

酔いつぶれてテーブルに突っ伏した、理数教師の首筋。

白く、細く、脈打つ血管が薄い皮膚の下に浮き出ている。

 

 

「………」

 

 

身体が無自覚に動き出しかける。

指先がピクリと痙攣し、机の縁を掴んだ。

 

 

すぐにその動きを止める。

 

――今……殺しかけたか?

 

内省が走る。

 

――彼女は、私のお話相手ではない。そう理解していた。なのに本能が思考を追い越した。いや、すり抜けたのか。

 

ソリテールは、何事もなかったかのようにワイングラスを持ち上げる。

 

――調整が必要ね。

 

 

「学園長、どうされました?」

 

元傭兵の教師が、ソリテールの様子に気づいて声をかけてくる。

鋭い勘だ。さすがは戦場を生き抜いてきただけのことはある。

 

 

「いいえ、なんでもないわ」

 

 

ソリテールは胸元で両手を合わせ、庇護欲を唆るような表情と仕草を作り上げる。

 

 

「ただ、こうしてみんなが笑い合っているのを見て、幸せだなと思っていたの」

 

 

相手を騙し、親しみを持たせる言動は魔族の十八番だ。

ソリテールの口から心にもない言葉がスラスラと出てくる。動揺一つなく、その場を対処する。

 

 

「へへっ、違いねえっす。俺も、剣を置いてからこんなに笑える日が来るなんて思ってませんでしたよ。全部、学園長とフルーフ様のおかげっす」

 

「貴方たちが頑張っているからよ。さあ、飲んで。夜はまだ長いわ」

 

 

あっさり騙された元傭兵に微笑みながら、ソリテールはグラスを掲げる。

全員がそれに倣い、再び乾杯の音が響き渡る。

 

 

グラスとグラスが触れ合う澄んだ音色が、店内に重なり合って広がっていく。

 

 

この空間に満ちているのは、間違いなく「善意」であり「信頼」であり「幸福」だ。

それが、大魔族ソリテールの手で管理される箱庭の中の出来事だとしても、彼らが感じている救いは本物である。

 

そして、その救いを提供することで得られるソリテールの満足感もまた、本物だった。

 

夜が更けていく。

誰かが古い民謡を歌い出し、それに合わせて手拍子が起こる。調子外れの歌声と笑い声が混じり合い、店内は温かな空気に包まれていた。

 

 

ソリテールは、その輪の中に身を置きながら、ふと窓の外を見上げた。

 

 

月が中天から西へと傾き始め、静かに街を照らしている。

星々が瞬く夜空は、深い藍色に染まっていた。

 

 

「さあ、そろそろお開きにしましょう。明日の授業に響いてはいけないもの」

 

 

ソリテールが立ち上がると、皆も名残惜しそうに、しかし素直に従う。

椅子を引く音、グラスを置く音、笑い声の余韻が店内に響いた。

 

 

店を出ると、冷たい夜気が火照った頬に心地よかった。

石畳に残る昼間の熱はすっかり消え、夜風が花の香りを運んでくる。

 

「学園長、送っていきますよ!」

 

「いいえ、大丈夫よ。夜風に当たりながら、少し散歩して帰るわ。全員、気をつけて帰ってね」

 

 

彼女は一人一人に声をかけ、見送る。

「おやすみなさい」「また明日」という言葉が、温かく交わされる。

握手を求める者には応じ、手を振る者には微笑みかけ、酔いつぶれた者には肩を貸す同僚を見届ける。

 

 

全員の姿が見えなくなった後、ソリテールは一人、静まり返った石畳の道を歩き出した。

 

 

街灯の明かりが、彼女の影を長く伸ばす。

靴音だけが、夜の静寂に規則正しく響いていた。

 

 

「愛してる」

 

 

ソリテールが呟く。

 

 

「愛しています」

 

 

言葉を変えて、もう一度。

 

 

「愛してまーす?」

 

 

今度は語尾を上げて、少し軽やかに。

 

 

「愛しているわ……愛しているもの」

 

 

立ち止まり、月を見上げる。

 

 

「――これかしら」

 

 

彼女は小さく頷いた。

 

 

「今日はこの感情で囁いてみようか。フルーフ、今夜も、貴女が喜びそうな感情を一つ一つ試してあげる」

 

 

ソリテールは夜の街を歩きながら、様々な感情を込め、歌うように愛を囁く。

 

 

声は澄んでいた。

夜空に溶けていくその響きは、どこか切なく、どこか温かい。

 

小さな魔族の影は、街灯の光を縫うようにして、やがて夜の闇へと消えていった。

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