ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――領主の寝室。
重厚なベルベットのカーテンが、月明かりを遮断する。
闇と、濃密な鉄の臭気。それが部屋を支配していた。
戦場の臭いとは違う。もっと閉鎖的で、湿り気を帯びている。
臓物と体液が腐敗する一歩手前の、甘くむせ返る死の香り。
鼻腔の奥にまとわりつき、肺の隅々まで染み込んでくるような、逃げ場のない芳香だった。
天蓋付きの豪奢なベッド。
純白だったはずのシーツは、すでに赤黒い染みで地図のような模様を描いている。
乾きかけた血と、まだ湿った血が、幾重もの層を成していた。
「ねえ、フルーフ」
鈴を転がすような声が、闇に溶ける。
無名の大魔族ソリテールは、ベッドの端に優雅に腰掛けていた。
その膝の上には、愛おしげに「それ」が乗せられている。
「今夜も、愛を交わしましょう」
彼女の細く白い指先が、フルーフの左腕を撫でた。
ただし、そこにはもう皮膚がない。
肩口から指先まで、表皮と真皮は丁寧に剥ぎ取られていた。
鮮紅色の筋肉繊維。白く光る腱。青白く脈打つ血管。
それらが何の覆いもなく、夜気に晒されている。
「お、OK。バッチコイですぅ……ソリテール様、あだだだッ」
フルーフの唇から、恍惚と苦悶が混ざり合った吐息が漏れた。
その視線は定まらない。痛みによるショックでも、脳内麻薬の過剰分泌でもない。フルーフがこの表情を浮かべている理由は、もっと救いようのないものだった。
「見て。貴女の中身、こんなに綺麗」
ソリテールは、露わになった上腕二頭筋の繊維を、爪先でピンと弾いた。
「ぁ、がぅ゛ッ――!?」
直接神経に触れられた衝撃に、フルーフの背骨が弓なりに反る。
喉の奥から、空気が漏れるようなヒューヒューという音。声にならない絶叫。
普通ならショック死は確実だろう。だが、その痛みさえも、フルーフにとっては愛撫に等しかった。
ソリテールが自分を見ている。
自分の内側に触れている。 その事実だけで、彼女の魂は歓喜に震えるのだ。
「今日は貴女の『全て』を知りたい気分なの。皮一枚隔てた関係なんて、他人のようで寂しいでしょう?」
ソリテールは口角を緩めると、右手の人差し指を魔力で覆った。
メスのように鋭利な、不可視の刃。
そして、フルーフの鎖骨から鳩尾にかけて、すぅっと線を引く。
じわり。赤い線が浮かび上がる。
次の瞬間、皮膚が左右に弾けた。
脂肪層の下にある腹直筋が、生々しく姿を現す。
「ふふ、まるで熟れた果実を剥くみたい。人間は脆いけれど、中は複雑で、温かくて……胎内みたいに心地いいわ」
「わ、わぉ、詩的で素敵ですね。魔族が胎内なんて知るわけないのに、ジョークセンスがキレッキレで――お゛お゛ッ!?」
ソリテールは、その傷口に両手の指を差し込んだ。
ぬちゃり。湿った音が、静寂の寝室に不釣り合いなほど大きく響く。
生温かい脂肪と筋膜の感触が、彼女の指先を包み込んだ。
「褒めてくれてありがとう。そう、冗談。最近は誰も笑ってくれないから、何か間違えているのかと思っていたわ。フルーフ、開くわ」
メリメリ、ミチミチミチッ。
筋肉が引きちぎれ、肋骨が悲鳴を上げる。
ソリテールは力任せに、しかし手つきはあくまで愛おしげに、フルーフの胸郭を左右に押し広げた。
本来、人間の体が開いてはいけない角度まで、骨と肉が拉げ、歪んでいく。
「あ、が……か、はっ……!」
肺が圧迫され、呼吸ができなくなる。
視界が明滅し、死の淵が大きく口を開けた。
だが、フルーフは死なない。死なない程度に、再生をコントロールしている。
その再生の過程こそが、さらなる地獄の入り口だった。
傷口からは、ピンク色の肉芽がブクブクと泡のように湧き立つ。
切断された神経がミミズのようにのたうち回り、互いを探し求めている。
熱い。痒い。痛い。身体の中を数千の虫が這い回るような不快感と、焼けるような熱さが全身を支配する。
「ああ、待って。まだ治らないで」
ソリテールは不満げに眉を寄せると、再生しようとする肉芽を無造作に握りつぶした。
グチュッ。生まれたばかりの細胞が、あっけなく死滅する音。
「貴女の中身を、もっとよく見せて」
「は、はーい。止めときまぁす。集中力、切れると戻るので……長くは無理です」
フルーフの言葉に薄く笑みを刷き、ソリテールは頷いた。
彼女は肋骨の檻をさらにこじ開け、その奥にある臓器へと手を伸ばす。
ピンク色に脈動する肺。その下で、必死に生命を繋ぎ止めようと早鐘を打つ心臓。
「これが、私を愛していると言ってくれる心臓ね」
ソリテールの声が、独白のように静かに響く。
「ラブロマンスの恋愛物語でよく語られているわ。『心臓が脈打つ』、『心に熱が灯った』、『心臓が恋をした』……そんな表現。貴女も、心臓で恋をしているの? ねぇ、フルーフ」
彼女の冷たい手が、熱く脈打つ心臓を直接鷲掴みにした。
心膜のぬめり。筋肉の収縮。生きようとする臓器の必死の抵抗。その全てを掌で感じながら、ソリテールはうっとりと目を細める。
「ドクン、ドクンって……必死に私に訴えかけているみたい。フルーフ、この脈動の、どこに『愛』があるの? 血液を送り出すだけのこの肉の塊の、どこに私への想いが詰まっているのかしら?」
「え、えぇ? わ、私は下腹部にあるかなぁ……あ、いえ、そ、こに……あります……」
フルーフは、開かれた胸のまま、血の泡を吐きながら答えた。
気管支が半分潰れているため、声は壊れた笛のようだった。
だが、返答にとんでもない下ネタをねじ込もうとした形跡がある辺り、まだまだ余裕があるらしい。
「ソリテール様が……触れている、そこが……私の、全て、です……」
魂にある、などという身も蓋もない正解は口にしない。
情事の最中に雰囲気を壊すような真似を、フルーフは決してしなかった。
「そう。じゃあ、確かめさせて」
ソリテールは、指先に力を込めた。
心臓の柔らかな肉に、細い指がゆっくりと食い込んでいく。
「ぅがぉ゛!! ォ、がぎィ゛ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「こうして圧力をかけると、鼓動が速くなる。これは恐怖? それとも興奮?」
彼女は、まるで熟れすぎた果実を握るように、さらに力を込めた。
心筋が悲鳴を上げ、弁が正常に機能しなくなる。
血液の循環が阻害され、フルーフの手足が紫色に変色し、痙攣を始めた。
「出してあげる」
ブチブチブチッ!
大動脈、大静脈、肺動脈――心臓を繋ぎ止めていた太い血管が、一気に引きちぎられた。
堰を切ったように溢れ出す鮮血が、ソリテールの顔を朱に染める。
彼女はそれを気にする素振りもなく、フルーフの胸から取り出した心臓を、宝物のように両手で掲げた。
生臭い鉄の香りが、ソリテールの鼻腔を満たす。
温かく、濃厚で、どこか甘い。生きている証の匂いだった。
「綺麗ね……。まだ動いているわ」
体外に取り出されてなお、フルーフの心臓はピクピクと痙攣を続けていた。
それは、主人の意思を反映し、ソリテールの手の中で生きようと足掻いているようだった。
「あ……あ……」
心臓を失ったフルーフの身体が、急速に冷たくなっていく。
脳への血流が途絶え、意識が闇に沈もうとする。 だが、ソリテールはそれを許さない。
「死なせないわ。まだ、お話の途中でしょう?」
彼女は、空いた手で水を操る魔法を行使する。
心臓の代わりに、フルーフの脳へ血と酸素を直接送り込み、全身に巡らせる。魔法による強制的な生命維持。
「見て、フルーフ。これが貴女の心よ」
ソリテールは、摘出した心臓をフルーフの目の前に突きつけた。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと自分の心臓を捉える。
「美味しそう」
ソリテールは、無邪気な子供のような声でそう言った。
そして、心臓に齧り付く。
ガブリ。 クチャ、クチャ、クチャ。
生々しい咀嚼音が部屋に響いた。
心筋が噛みちぎられ、中に溜まっていた血液がソリテールの口の端から溢れる。
顎を伝い、首筋を流れ、鎖骨の窪みに溜まっていく。
フルーフの生気のない瞳がカッと見開かれ、その光景を凝視した。
「え゛、エッチだぁ……」
掠れた声が、かろうじて唇から零れる。
「ん……鉄の味。少し塩辛くて、濃厚で……ふふ、これが貴女の愛の味なのね」
自分の心臓が、愛する人に食べられていく。
その光景を、フルーフは特等席で見せつけられている。
常人なら発狂しているところだろう。だが、フルーフの精神構造は、とうに常人の範疇を逸脱していた。
「ああ、おいしいわ。もっと、もっと貴女を感じさせて」
心臓を完食したソリテールは、血に濡れた唇を舌で舐め取ると、次なる獲物を求めて開かれた腹腔へと手を伸ばした。
胃、肝臓、腸。 温かい内臓の海に、手をゆっくりと沈めていく。
「腸って、長いわよね。引っ張り出してもいい?」
返事を待たず、彼女は小腸を掴んで引っ張り出した。
ズルズル、ズルズルと、無限に続くかのような管が、フルーフの体内から引きずり出されていく。
ぬちゃ、ぬちゃ、と粘液質の音が規則的に響く。
腸間膜が引き裂かれる鈍い音が、生理的な嫌悪感を催させた。
「まるで赤い紐ね。これで貴女を縛ったら、可愛いかしら」
ソリテールは、引きずり出した腸をフルーフの首に巻き付けた。
自分の内臓で絞殺される感覚。温かく、生臭く、そして絶対的な死の予感。
「う、ぐ……げ、ほ……」
「ふふ、首輪みたい。似合うわ、フルーフ。貴女は私の可愛い飼い犬だものね」
ソリテールは楽しげに笑いながら、さらに腸を引きずり出す。
空洞になった腹腔に、血が溜まっていく。
ぽちゃん、ぽちゃんと、小さな水音が内臓の海から聞こえた。
「でも、こんなに中身を出しちゃったら、空っぽだわ」
彼女は小首を傾げ、何かを思いついたように手を打った。
「そうだわ。私が埋めてあげる」
ソリテールは、スカートを捲り上げた。
そして、自らの足を、フルーフの開かれた腹の傷口へと差し入れる。
「ぐ、ぅぅぅぅぅぅ! あ、逝くッ! 逝くの方のイく! これイく゛ぅ!」
異物が、体内へ侵入してくる。
刃物や医療器具ではない。愛する人の足という、有機的な質量の暴力。
華奢な足が、内臓の隙間を押し広げ、脊椎を直接踏みつけた。
「温かいわ……フルーフの内。これが愛を確かめ、感じ合うというものなのかしら?」
ソリテールは、さらに体重をかけていく。
足首まで、やがてふくらはぎまで、フルーフの体内へと沈み込んでいく。
内側から圧迫される感覚。
生物としての尊厳など、欠片も残されていない。
ただの肉袋として弄ばれている――だがフルーフの意識は、ひたすら一点に集中していた。
脚だ。ソリテール様の脚が、自分の中に。
「ねえ、フルーフ。今、私たちは一つよ。貴女の中に私がいて、私の胃の中には貴女の心臓がある。とてもロマンチックだとは思わない?」
「は、い……あぁ、ソリテール、さま……ろまん、ちっくですねぇ……」
「えぇ、素敵ね」
ソリテールは、フルーフの体内に足を埋めたまま、ベッドの上に身を乗り出した。
そして、皮膚を剥がれ筋肉が露出したフルーフの顔に、自分の顔を近づける。
眼球には瞼がないため、フルーフはソリテールの顔を瞬きもせずに見つめ続けるしかない。
美しい魔族の顔。口元は血で紅く染まり、瞳は昏い欲望で潤んでいる。
「キスしましょ」
ソリテールの唇が、皮のないフルーフの口元に押し付けられた。
歯茎が露わになった口内に、滑らかな舌が侵入してくる。
血の味と、唾液の味が混ざり合う。
それはロマンティックな口づけなどではない。
互いの存在を喰らい合う、捕食行動としての接吻。
「ん……ちゅ……」
ソリテールは、口づけの最中に、フルーフの舌を強く噛んだ。
プチッ。舌先が食いちぎられる。熱い液体が口内を満たし、気管へと流れ込む。
フルーフは反射的に咳き込もうとしたが、開かれた胸郭と圧迫された肺では、それすらままならない。
ただゴボゴボと、溺れるような音を喉の奥で鳴らすだけだ。
ソリテールは、食いちぎったフルーフの舌先を、飴玉のように口の中で転がした。
「ん……。よく動く舌ね。いつも私に愛を囁いていた部位」
「ひょりてーるひゃま……え、えっひ、らぁ……」
彼女は一度だけ咀嚼すると、ごくりと飲み込んだ。
喉仏が上下する。その音が、静寂の中で妙に大きく響いた。
「ごちそうさま。これで貴女の言葉は、永遠に私の一部になったわ」
フルーフの意識の片隅で、場違いな感想が浮かんだ。
素敵だ、と。最近読んだ恋愛物語の影響だろうか。ソリテールの言葉が、やけに詩的に聞こえる。
「あ……ぐ……ぅ……」
舌を失ったフルーフは、もはやまともな言葉を紡げない。
口からはとめどなく血が溢れ、露わになった歯茎と歯列を赤黒く染め上げている。
何かを伝えようと口を動かすたびに、断面から新たな血が噴き出し、痛みと窒息感が彼女を襲った。
だが、その瞳は 瞼のない、剥き出しの眼球は、狂おしいほどの熱量でソリテールを見つめていた。
ソリテールが自分を見ている。
自分の全てに触れている。その事実だけで、脳髄が痺れるほどの歓喜が駆け巡る。
痛い。苦しい。生存本能が悲鳴を上げている。けれど、それ以上に――歓喜。
「静かになった。でも、目は雄弁ね」
ソリテールは、自分の口から出た言葉に、わずかに目を見張った。
「……今の言葉が自然に出たことに驚いたわ。まさか魔族が『目は雄弁』だなんて口にするなんて。それはつまり、私が貴女の目から愛を読み取った、そういうこと」
フルーフは声を出せない代わりに、残された右手をゆらりと持ち上げた。
皮膚の剥がれた、筋肉だけの指が、震えながらソリテールの頬に触れようとする。
ソリテールは、その血まみれの手を自分の頬に押し当てた。
冷たくて、ぬるぬるして、けれどどこか心地いい。
彼女は、フルーフの顔に自分の顔を再度寄せた。鼻先が触れ合う距離。
そしてソリテールは、体内に沈めていた足をゆっくりと引き抜いた。
ぬちゃぁ。
粘着質な音と共に、腸や膜が足に絡みつく。
彼女はそれを煩わしそうに蹴り払うと、今度はフルーフの頭部へと手を伸ばした。
「ねえ、フルーフ。人間は心臓で恋をして、脳で愛を誓うと言うわ」
冷たい指先が、フルーフの頭皮に触れる。
すでに髪は血と脂汗でべっとりと張り付き、頭皮からは汗と鉄錆の混じった臭いが立ち上っていた。
フルーフの意識の片隅で、疑問が浮かんだ。
脳で愛を誓うとは、一体どこの文献から拾ってきた表現なのだろう。
「心臓。舌。次は……その思考を覗かせて」
ソリテールは、フルーフのこめかみに両手の親指を添えた。
メリッ。
親指が、皮膚を突き破り、側頭骨に食い込む。
頭蓋を万力で締め上げられるような圧迫感。
眼球が飛び出しそうになり、視界が赤く染まった。
「あ、が……ガッ……!!」
フルーフの意識の中で、警鐘が鳴った。
この流れ、覚えがある。久方ぶりの展開だ。自分の頭蓋が開かれる――
「硬い箱ね。大事なものを守るためかしら? それとも、狂気を外に漏らさないため?」
ソリテールは楽しげに目を細めると、指先に魔力を集中させた。
ウィィィィン。 不快な振動音が響く。それは、骨を削る音だった。
木こりたちが伐採に使う民間魔法を、人体に応用している。
「開けるわ」
バキィッ!!
鈍い破砕音と共に、フルーフの頭蓋骨の上半分が、綺麗に剥がれ落ちた。
蓋を開けるように、パカリと。
「こんにちは」
ソリテールは、感嘆の声を上げた。 そこには、薄い膜に包まれた、灰白色の脳髄が露わになっていた。
皺の刻まれた表面が、かすかに脈動している。
「いつ見ても……意外と小さい」
その言葉に、フルーフは内心で眉を寄せた。それは遠回しに馬鹿と言っているのだろうか。
ソリテールは、剥き出しになった脳を、指先でツンとつついた。
ビクッ。
フルーフの四肢が、意思とは無関係に激しく痙攣した。
脳への直接的な刺激。痛みという概念を超越した、神経そのものを犯される衝撃。
視界に、存在しないはずの光が明滅し、耳元で轟音が鳴り響く。
「ここを触って、魔法で少し雷を流せば……右手が動くわ。こっちは左足」
ソリテールは、実験でもするかのように、脳の各部位を指で押した。
指を沈めるたびに、フルーフの身体は操り人形のように無様に跳ね回る。
開かれた腹腔から腸がこぼれ落ち、切断された血管から血が撒き散らされた。
「あ、あ、あ、あ……」
喉の奥から、壊れた蓄音機のような音が漏れる。
意識がある状態で、自分の脳をかき混ぜられる感覚。
自我が崩壊していく。自分が自分でなくなっていく。
記憶が走馬灯のように駆け巡り、そしてプツリと途切れる。
「ねえ、フルーフ。愛を司る場所はどこ? ここ? それともここ?」
ソリテールは、前頭葉のあたりに指を深く突き刺した。
グチュ。 柔らかい豆を潰すような音がする。
その瞬間、フルーフの世界から「色」が消えた。
感情が、思考が、白いホワイトノイズにかき消されていく。
「……」
フルーフの瞳から、光が完全に失われた。
口元は半開きのまま、涎と血を垂れ流し、ただピクピクと痙攣するだけの肉塊と化している。
「死に際の言葉をまだ聞いていないわ……」
ソリテールは、指についた脳漿をペロリと舐めた。
濃厚な脂肪と、鉄の味。温かく、生臭い。
彼女は、脳を弄るのをやめ、虚ろなフルーフの瞳を覗き込んだ。
ソリテールの声は、優しく、そして残酷に響く。
「貴女の脳が壊れても、心が砕けても、貴女の魂は私を求めている。……そうでしょ?」
返事はない。
だが、フルーフの残された右手だけが、ゆらりと持ち上がった。
皮膚の剥がれた、筋肉だけの指が、震えながら愛する人に触れようとする。
「無言の返事、ということにしておくわ」
ソリテールは、その紅に濡れた手を自分の頬に押し当てた。
冷たくて、ぬるぬるして、とても心地いい。
彼女は、フルーフの顔に自分の顔を寄せた。 鼻先が触れ合う距離。
「じゃあ、仕上げをしましょうか」
ソリテールは、右手全体を魔力で覆った。
「言葉を交わせないのはさびしいわ。フルーフ、そろそろ死に時ね」
彼女は、剥き出しになったフルーフの脳に、その手をかざした。
「魔力の塊で一撃で圧殺するわ。だから直ぐに戻ってきて」
グシャァッ!!
破裂音。
完熟した果実をハンマーで叩き潰したかのように、フルーフの頭部が内側から弾け飛んだ。
脳漿と骨片が、部屋中に散弾のように飛び散る。
ソリテールの美しい顔も、衣服も、ベッドも、全てが紅白の肉片で汚された。
頭を失ったフルーフの身体が、ビクンと一度だけ大きく跳ね――そして、動かなくなった。
静寂。
ただ、肉片が壁から滑り落ちる音と、ソリテールの荒い息遣いだけが聞こえる。
「…………」
ソリテールは、首から上がなくなったフルーフの遺体を見下ろした。
美しい断面。脊髄が白く覗き、切断された動脈からはまだ血がドクドクと溢れている。
ボコ、ボコボコッ。
しかし、すぐに肉が沸騰を始めた。
失われた骨が、筋肉が、神経が、何もない空間に編み上げられていく。
砕け散った脳漿が再構築され、元の形へと収束していく。剥がされた皮膚が、足の先から波のように再生していく。
逆再生されるビデオテープのように。惨たらしい死体は、見る見るうちに、五体満足な人間の女性へと戻っていった。
瞬き一つの間に、完全な再生が終わる。
「ふぁ、おはようございます、ソリテール様。そろそろ寝ますか」
「おはよう、フルーフ。身体の調子はどう?」
血まみれのままのソリテールが、穏やかに微笑みかける。
「いつも通りですね。苦も無く、好調も無く。まぁ、精神的にはソリテール様に跨られているので絶好調ですが」
フルーフは、ソリテールの血まみれの手を取り、甲にキスをした。
自分が流した血を、愛おしそうに舐めとる。
ソリテールは満足げに頷くと、ベッドに横たわった。
「少しお話した後、もう数回愛し合いましょう。倦怠期、レスというものが愛を冷めさせると住民から聞いたわ。私は回数もこなせる旦那様だから、安心して」
「あ、あぁ~……そうですね。嬉しいですが、それ意味が少し違いますね。回数ってたぶんアレのことですし……あ、でも私にしか言いませんよね、なら全然問題ないです。望むところですソリテール様」
◇◇◇
――深夜、丑三つ時。
血の海と化したベッドの上で、少しばかりの仮眠を取った二人は、むくりと起き上がった。
普通なら事後の気怠さに包まれる時間帯だが、この狂人夫婦にそんな常識は通用しない。
フルーフは蘇生直後で目がギンギンに冴え渡っており、ソリテールも特に眠気を感じた様子もなくケロリとしている。
窓の外では、月が中天を過ぎて西へと傾き始めていた。
部屋には、乾きかけた血と、まだ湿った血の、二層の臭いが漂っている。
「ねえ、フルーフ。暇ね」
「そうですね、ソリテール様。せっかくの夜ですし、趣向を変えて遊びましょうか」
フルーフはニヤリと笑うと、ベッドから軽やかに飛び降りた。
血糊で滑る床を器用に渡り、クローゼットの扉を開ける。そこから引っ張り出したのは、どこかの三文芝居に出てくるような衣装だった。
金ピカでペラペラの騎士甲冑。マントは燃えるような赤、兜には無駄に長い羽根飾り。
手には、刃が潰れた――というより最初から刃など存在しない、ただの鉄の棒のような剣。
フルーフは、血糊で滑る床の上で、大仰なポーズを決めた。
マントを翻し、剣を天に掲げ、芝居がかった声を張り上げる。
「やぁやぁ! 我こそは勇者フルーフ! 魔王ソリテールよ、この女神の使徒たる私が、聖剣エクス・ナ・カリバーで仕留めてみせようぞ」
エクス・ナ・カリバー。どう見てもただの鉄棒だが、本人は大真面目だった。
しっかりと口上を言い切り、茶番臭があまりにも激しい。
風切り音だけは勇ましいが、切っ先は明後日の方向を向いている。
ベッドの上で胡坐をかいていたソリテールは、きょとんとした後、楽しそうに手を叩いた。
「あら、ごっこ遊び? いいわね」
ソリテールは血で真っ赤に染まったシーツをマントのように羽織り、魔王らしく尊大に振る舞ってみせた。背筋を伸ばし、顎を上げ、冷酷な支配者の貌を作る。
「よく来たわ、愚かな勇者よ。私の城に足を踏み入れたことを後悔させてあげる」
「問答無用! 受けてみよ、必殺の聖剣突きぃぃぃ!」
フルーフは、ドタドタと足音を立てて突進した。
そして、手にしたエクス・ナ・カリバーを、ソリテールの鳩尾めがけて突き出す。
ぐにゃぁ。
鈍ら剣の切っ先がソリテールの肌に触れた瞬間、刀身があらぬ方向にひん曲がった。
所詮は刃もないガラクタ。大魔族の魔力障壁どころか、皮膚一枚すら貫けない。
「……あ」
フルーフが間の抜けた声を出す。
「ふふ、貧弱な聖剣ね。鍛冶屋に騙されたのかしら?」
ソリテールは口元だけで笑みを作りながら、ひん曲がった剣の刀身を指先で摘んだ。
「勇者様、武器の手入れは大切よ? お仕置きが必要ね」
パキンッ!
彼女が軽く指を弾くと、鉄の剣は粉々に砕け散った。
破片が散弾となってフルーフの顔面に突き刺さる。
「ぐべっ!? い、痛ぁ……! め、目がぁ! 目がぁっ!」
右目に鉄片が深々と突き刺さり、水晶体が破裂する。
眼窩から血と硝子体液が混じった液体が流れ落ち、頬を伝っていく。
だが、フルーフは怯まない。隻眼のまま、ニヤリと笑った。
「くっくっく……やはり魔王、一筋縄ではいかないようだな。だが、武器など飾り! この拳こそが正義の鉄槌!」
「元気ねぇ。じゃあ、その拳、貰っていい?」
ソリテールは、殴りかかってきたフルーフの右拳を、優しく包み込んだ。
まるで恋人の手を取るように、柔らかく、穏やかに。
そして、雑巾を絞るように、グリリと捻り上げた。
ベキベキベキッ、ブチブチィッ!!
「ッふんぎゃあああああああああ!」
手首から先が、あり得ない方向に三百六十度回転し、千切れ飛んだ。
尺骨と橈骨が皮膚を突き破り、白く鋭利な断面を晒す。
血が噴水のように吹き出し、ソリテールの頬を赤く染めた。
「見て、勇者様。骨が飛び出てるわ。これが勇者の隠し武器?」
ソリテールは千切れたフルーフの右手首を拾い上げると、それを振り回し、フルーフの左頬を殴りつけた。
バチンッ!!
「ぶべらっ!?」
自分の手で自分を殴られる屈辱。
フルーフは血反吐を吐きながら吹き飛び、壁に激突した。甲冑がひしゃげ、中の肋骨が数本、嫌な音を立てて内臓に突き刺さる。
「ま、まだだ……。 勇者は……何度でも立ち上がる……!」
フルーフはよろめきながら立ち上がった。
右手がなく、右目が潰れ、口から大量の血を流している。だが、そのテンションだけは異常に高い。
「くらえ、魔王! 外法蹴り!」
「単調ね」
ソリテールは、蹴り出されたフルーフの右足を、足首のあたりで軽々とキャッチした。
そして、そのままバットスイングのように、フルーフの身体を水平に振り回す。
ブンッ、ブンッ、ブゥゥン!
「うぉぉぉぉぉ! 回るぅぅぅぅ! ちょ、ちょぉ、とぉ!」
遠心力でフルーフの目玉が飛び出しそうになる。
血がスプリンクラーのように部屋中に撒き散らされ、壁に、天井に、赤い模様を描いていく。
「離すわ」
ソリテールは手を離した。
フルーフは弾丸のように飛んでいき、部屋の隅にあるアンティークの飾り棚に突っ込んだ。
ガシャァァァン!!
高級な陶磁器やガラス細工と共に、フルーフの身体が砕ける。
破片が全身に突き刺さり、フルーフは文字通り針山のような状態になった。
背中からは棚板が突き出し、腹部にはガラスの破片が無数に埋まっている。
「ぐ、ふっ……。つ、強い……さすがは魔王……」
フルーフは瓦礫の山から這い出してくる。
全身から血を噴き出し、右足は膝から下がなくなっている。
這いずりながら、勇者フルーフは必死にソリテールの方へ向かった。
「だが、まだ終わりではない……! この命ある限り……!」
「しつこい勇者は嫌われるわよ?」
ソリテールはベッドから降り、這いずってくるフルーフの前に立った。
そして、彼女の背中を踵で踏みつける。
「ぐぎゃっ!?」
「ここを踏むと、どうなるのかしら?」
グリグリ、と踵をねじ込む。 脊椎が悲鳴を上げ、椎間板が弾け飛ぶ音がした。
「んあ~~~、あぁぁぁン! そ、そこは……勇者の弱点……!」
「変な弱点ね。じゃあ、中身を確認しましょうか」
ソリテールは、フルーフの背中の甲冑を素手で引き裂いた。
金属が紙のように破れ、中の背中が露わになる。そして、背中の皮膚に指を突き立て、左右に引き剥がした。
ぐちゅぅ、ブチぶちぃッ!
「のわぁぁぁぁ! 背中が! 私の背中がぁぁぁ!」
「わあ、背骨が丸見え。まるで魚の骨ね」
ソリテールは露出した脊柱を指でなぞった。
白い骨と、その間から覗くピンク色の脊髄。触れるたびに、フルーフの四肢がビクビクと痙攣する。
「ねえ、勇者様。背骨を一本抜いたら、だるま落としみたいになるかしら?」
「いやいやいや……それは、人体の構造的に……」
「やってみないと分からないでしょ?」
ソリテールは楽しそうに目を細めると、第三胸椎あたりを掴み、力任せに引っこ抜いた。
ゴッ、ボコッ!
凄まじい音と共に、脊椎の一部が引き抜かれる。
神経がブチブチと千切れ、フルーフの下半身が完全に制御を失ってダラリと弛緩した。
「あ、あ、あ、あ……腰が……私の腰が抜けたぁぁぁ……」
物理的に腰が抜けた状態である。
「あら、失敗。だるま落としにはならなかった。ただ折れただけ」
ソリテールは、血まみれの背骨をポイと投げ捨てた。
骨が床に落ちて、カラン、と乾いた音を立てる。
そして、虫の息の勇者フルーフを仰向けにひっくり返す。
「さて、勇者様。そろそろ終幕の時間」
ソリテールは、フルーフの腹の上に馬乗りになった。
そして、腹を裂き、両手を突っ込む。
「内臓占いをしてあげる。今日の運勢は……」
ズルッ、ズズズズ……。
彼女はフルーフの小腸を、まるで手品師が万国旗を出すように、次々と引っ張り出した。
長く、長く、どこまでも続くピンク色の管。ぬちゃ、ぬちゃ、と粘液質の音が規則的に響く。
「う、ぐぇ……また、お、お腹の中が……空っぽに……」
「見て、綺麗なピンク色。色言葉は『幸福感』『恋愛』。私達に相応しいわ」
ソリテールは腸を首に巻きつけ、マフラーのようにしておどけて見せた。
可愛げの欠片もない。
フルーフは虚ろな目で、自分の内臓を身に纏う愛する人を見つめ、無言でグッドサインを贈った。
「さあ、トドメよ勇者フルーフ。何か言い残すことはあるかしら? 死に際の言葉を聞かせて?」
ソリテールは、フルーフの首に両手をかけた。
その手は、血と脂でぬるぬるに光っている。
フルーフは、残った左手で、必死にソリテールの頬に触れた。
そして、口から血の泡を吹きながら、笑った。
「愛してます、ソリテール様」
「私も愛してるわ、フルーフ」
バキィッ!!
ソリテールは、まるでスナック菓子を割るような気軽さで、フルーフの首をへし折った。
首が百八十度回転し、フルーフは絶命した。顔には、満面の笑みを浮かべたまま。
静寂が戻る。
部屋は先ほど以上に悲惨なことになっていた。
壁には剣の破片が刺さり、床は血のプール、家具は粉砕され、あちこちにフルーフの骨や内臓が散らばっている。
アンティークの飾り棚は瓦礫と化し、高級な陶磁器は見る影もない。
天井にまで血飛沫が届き、赤黒い染みが星座のような模様を描いていた。
「いい運動になったわ」
ソリテールがそう一言零した。
そう一言零し、瞬き一つすると、フルーフが五体満足で平然と寝っ転がっていた。
立ち上がり、肩を回しながら背伸びをして、深呼吸。
「ふぁぁ……。今、何時ですか?」
彼女は窓の外を見やり、まだ暗い空を確認する。
「……うぅん、日の出まであと三時間もありますね」
「そう。なら次は何をして遊ぼうかし――
ソリテールがそう言い切る前だった。
ドドドドドッ。
何かが猛スピードで駆けてくる音が聞こえた。 苛立った足音が階段を駆け上がり、廊下を走り、部屋の前まで迫り――
――バッッッコォンッ!!!
部屋の扉が蹴破られた。 重厚な樫の扉が蝶番ごと吹き飛び、回転しながら部屋の中へ突入してくる。その角がフルーフの脳天に直撃し、頭蓋骨にめり込んだ。
「ぐべぇっ!?」
また、フルーフが死亡。今度は即死。
煙が立ち込める。
破壊された出入り口に視線を向けると、そこには額に青筋を立たせたリーニエが斧を担いで立っていた。
瞳孔が縦に伸びており、激オコである
「うるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッッ!!!煩い。うるせぇぇぇえッ!!――
リーニエ、怒りの咆哮。かの変態夫婦の馬鹿騒ぎに対する正当な叫びが館に響き渡った。
普段は無口だというのに、今回ばかりはピキピキである。
「知らねぇ! ファイナルファンタ――ふ゛ぁっ!?」
即座に蘇生し、茶々を入れようとしたフルーフに、手斧が投擲された。
刃が額に深々と突き刺さり、言葉が途切れる。
「ふぁい、なる……ふぁん……た……ずぃ……」
崩れ落ちるフルーフ。二度目の死。
絶賛怒りゲージMAXのリーニエに、ソリテールは血塗れのままにこやかにリーニエに話しかけた。
「リーニエ。どうしたの? そんなに怒って」
「煩いです、ソリテール様。フルーフ、この馬鹿弟子。防音の結界はどうしたの?貼ってからヤれ。煩い。眠い。死ね。……寝なよ、フルーフ。寝ろ。掃除して寝ろ、臭い、死ね」
目がキマっておられる。
ソリテールへの敬語とフルーフへのタメ口が反復横跳びしており、情緒が安定していない。
ソリテールは、何かを思い出したように「あぁ」と気の抜けた返事を返した。
手斧を額から引き抜いて蘇生したフルーフも、「あぁ」と心当たりのある声を漏らす。
定例会議でリーニエに苦情を叩きつけられて以降、魔道具で部屋を防音加工していたのだが――
フルーフは部屋の中を見渡した。
魔道具の置いてあった場所に視線を向ける。棚の上、ベッドサイド、窓際。しかしそこにあったのは、無惨に潰れた魔道具の残骸だけだった。
先ほどのごっこ遊びの最中に、フルーフが飾り棚に突っ込んだ時に巻き添えになったらしい。
「す、すみません。リーニエ師匠、魔道具に少し不具合があったようで、以後気をつけます」
「不具合ぃ?」
リーニエの声が、一段低くなった。
「何、魔道具のせいにしてるの? ――殺すぞ?」
「あ、はい。私が盛りすぎて壊してしまいました! 申し訳ありません!! 以後絶対に起きないようにします!」
あまりにドスの効いた、キレ味抜群の言葉。
フルーフは姿勢を正して頭を下げた。
家庭内ヒエラルキー最下位の彼女に、言い訳する権利などない。
「フルーフ、片付けを手伝うわ」
ソリテールが口を開いた。
彼女からすれば、リーニエの苦情に従う義理などない。
だが、おひらきの空気を感じ取り、素直に応じることにしたようだ。
リーニエは腕組みをしながら、イライラと足を踏み鳴らしていた。
その監視の下、二人は後片付けに取りかかる。
フルーフは血抜きの民間魔法でシーツやカーペットに染み込んだ血を抜き取り、絞り出した血液をバケツに溜めていく。
ソリテールは水を操る魔法で部屋中の血溜まりを空中の一箇所に集め、窓を開けて地平線の彼方――海に向かって放水した。
壊れた家具はフルーフが背中に背負い、テラスから飛び降りて焼却場まで運んでいく。 何往復かする間に、リーニエは立ったまま半分船を漕ぎ始めていた。
作業が終わる頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
部屋が元通りになったことを確認すると、リーニエはフルーフに無言で中指を立て、だるそうな足取りで自室へと戻っていく。
その様子を物陰からハラハラと見守っていた館の使用人の一人が、すれ違いざまに恐る恐る声をかけた。
「あの、リーニエ様……? どうでしたか?」
しかしリーニエは鬱陶しそうに片手で制し、「もう大丈夫」とだけ言い残して去っていった。
この館には多くのメイドや執事が住み込んでいる。
彼らは、主であるフルーフとソリテールが時たま繰り広げるドンチキ騒ぎに、常々頭を抱えていた。
恩もあるし、好感も持っている、 本来なら誰も苦言など呈せない絶対的強者である二人。
だがリーニエだけが、ズケズケと文句を言い、暴走を止めてくれる。
屋敷内で、誰も言い出せない問題を解決してくれる唯一の存在、それがリーニエなのだ。
今回の一件で、彼女の株がまたストップ高になったことは言うまでもない。
◇◇◇
朝日が水平線から顔を出し、シンビオシスの街を黄金色に染め上げていく。
リーニエは一眠りしてから農園に向かった。
朝露に濡れたリンゴの木々の間を歩き、実りの具合を確認していく。
午後からは趣味半分で、若い戦士や騎士の育成に汗を流す予定だ。
彼女の指導は厳しいことで有名だが、それでも弟子入りを志願する者は後を絶たなかった。
ソリテールは本を小脇に抱え、自身の実験場でもある教育機関へと足を運んだ。
門をくぐると、子供たちの元気な声が耳に飛び込んでくる。
人間の子供も、魔族の子供も、等しく彼女に駆け寄り、「おはようございます、校長先生!」と口々に挨拶した。
ソリテールはにこやかに微笑み返し、一人一人の頭を撫でながら校舎へと向かう。
フルーフもまた、自身の職場へと向かった。
再教育センターの所長室。机の上には、すでに書類の山が待ち構えていた。
承認、サイン、承認、サイン。単純作業の地獄が彼女を歓迎する。
昼下がり。
教育機関の中庭では、子供たちが魔法の実技演習に励んでいた。
ソリテールは木陰から、その様子を静かに見守っている。
人間の少年が魔族の少女にコツを教え、魔族の少年が人間の少女の失敗をフォローする。
「先生ー! 見てください、できましたー!」
魔族の少女が、小さな水の渦を掌の上に作り出していた。
怯えていた瞳には、今は達成感と喜びが輝いている。
「素晴らしいわ、リズ。とても綺麗」
ソリテールは少女の元へ歩み寄り、その頭を優しく撫でた。
子供たちの笑い声が、青い空に吸い込まれていく。
夕暮れ時。
弟子を鍛えた後。リーニエの農園では、再開した収穫作業が一段落していた。
彼女は木箱に腰掛け、真っ赤に熟れたリンゴを一つ、シャリッと齧る。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。
良い出来だ。シードルの新作が楽しみになる。
遠くで、弟子たちが手を振っている姿が見える。
リーニエは無表情のまま、その様子を眺めていた。
「師匠ー! 今日の稽古、ありがとうございましたー!」
若い戦士が、汗だくになりながら頭を下げる。
リーニエは小さく頷き、無言でリンゴを投げ渡した。
「食べて。もう、帰っていい」
「は、はい! ありがとうございます!」
戦士は嬉しそうにリンゴを受け取り、仲間たちの元へ駆けていった。
リーニエは二つ目のリンゴに齧りつきながら、沈みゆく夕日を眺める。
夜。領主の館。
修繕された寝室で、フルーフとソリテールは向かい合って座っていた。
「今日も疲れましたね、ソリテール様」
「そうね。でも、充実した一日だったわ」
窓の外には、満天の星空が広がっている。 月明かりが二人の顔を柔らかく照らしていた。
「ソリテール様」
「何?」
「愛しています」
ソリテールは小さく微笑んだ。
「私も愛しているわ、フルーフ」
二人の唇が、静かに重なった。 血の味はしない。
今夜は、ただ穏やかな口づけ。
「フルーフ。今夜は、静かに眠る?」
「そうですね。リーニエ師匠に殺されたくないですし」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
窓の外で、夜風がカーテンを揺らす。
星々が瞬き、月が静かに二人を見下ろしている。
明日もまた、この街で一日が始まる。
血と狂気と、そして確かな絆に満ちた日々が、続いていく。
こうして、シンビオシスの夜は更けていった。