ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
某ノベルゲー『神座シリーズ』の要素が練り込まれています。
――シンビオシスの領主の館。
その一室にある客間には、午後の陽光が斜めに差し込んでいた。
豪奢だが、どこか居心地の良さを優先した客間だった。
テーブルの上には湯気を立てる紅茶と焼き菓子が並び、窓の外からは港町の喧騒がかすかに届いてくる。
それを囲むのは、この街で重役を務める面々。
街の主である大魔族ソリテール。
その伴侶であり、不死の人間フルーフ。
そして、街の食糧事情を一手に担う工場長、ツルギ。
傍から見れば、友人が集まって午後の茶会を楽しんでいるだけの、ありふれた光景だ。
焼き菓子の甘い香りが漂い、カップに注がれた琥珀色の紅茶が陽光を受けて輝いている。
穏やかな時間が、ゆるやかに流れていた。
ただ一つ、ツルギの膝の上に置かれた異形の剣を除けば。
その剣は、剣と呼ぶにはあまりにも冒涜的だった。
柄や鍔には赤黒い肉塊がへばりつき、時折ぴくりと痙攣するように蠢いている。
剣身を走る血管がどくん、どくんと脈打つたびに、かすかな熱が周囲に放たれているのが感じられた。
そして鍔元には、眼球が埋め込まれていた。
時折ぐるりと回り、室内の様子を窺うように動く。
「ねえ、ツルギ」
ティーカップをソーサーに戻しながら、ソリテールが何気なく口を開いた。
磁器が触れ合う澄んだ音が、静かな客間に小さく響く。
「サ■は私のことを、どう見ているのかしら?」
ツルギは自身の膝元にある剣へと視線を落とす。
剣の柄に埋め込まれた巨大な眼球が、ぐるりと回ってソリテールを見据えた。
瞳孔が収縮し、まるで品定めでもするかのように細められる。
「……■ヤさんは、こう言っています」
ツルギが静かに口を開く。
その言葉は、サヤの意志を翻訳したものだ。
この場において、サヤの声を直接聞き取れるのは、彼女と深く繋がっているツルギだけである。
「『ソリテールの思考は、この星の生物……魔族にしては興味深いほど柔軟。友達として鼻が高い』と」
「光栄ね。それなら友人の一人として聞かせてほしい。フルーフのことを」
ソリテールは隣で菓子を頬張るフルーフをちらりと見た。
フルーフは「ん?」と口の周りに食べかすをつけたまま首を傾げる。
「フルーフの不死性は、魔法理論では説明がつかない部分が――いえ、そもそも何一つわからないの」
ソリテールの声音が、わずかに真剣さを帯びる。
「死という概念そのものを拒絶するかのような再生。あれは、魔法というよりは、もっと別の、この世界の法則を無視した『ナニカ』のように感じるわ」
それは純粋な知的好奇心であると同時に、切実な願いでもあった。
ソリテールは、フランメの魔法ではなく、できれば自分自身の手でフルーフに絶対的な『死』を与えたかった。
「サ■なら、何か知っているんじゃないかしら?」
ソリテールの翠玉の瞳が、剣の眼球を真っ直ぐに見据える。
そこには、大魔族としての威厳と、友人への信頼が混在していた。
「貴女は空の向こう、ずっと遠い世界から来たのでしょう?」
その問いかけに、サヤの目玉がゆっくりと細まる。
ツルギが眉をひそめ、剣の柄に手を添えた。
サヤから送られてくる思念が、いつになく饒舌で、そして複雑だったからだ。
「……サ■さんは、こう言っています。『言葉で説明するのは難しいよ。それ。この宇宙には、当てはまる概念が存在しないから』と」
「なら、どうするの?」
「『直接、教えてあげる』」
ツルギの声が、僅かに緊張を帯びた。
「『脳を通して、魂の使われていない場所に書き込んであげるから、少し耳を貸して』……とのことです」
ツルギが言い終わるよりも早く、剣の鍔元にある肉の塊が、ぐじゅりと湿った音を立てて変形した。
そこから伸びたのは、桃色の粘液を纏った、細くしなやかな触手だった。
それは生き物のように鎌首をもたげ、テーブルの上を這い、ソリテールの耳元へと伸びていく。
粘液がテーブルクロスに染みを作り、触手の先端がぴくぴくと脈打っている。
通過した跡には、生温い粘液が糸を引いて光っていた。
ぬらぬらと這う触手、脈動する肉、生理的嫌悪を煽るすべてが揃っていた。
並の人間であれば悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
並の魔族であれば、本能的な警戒心から牙を剥くだろう。
だが、この場にいる者たちは誰一人として眉をひそめなかった。
通常であればSAN値チェックのお時間だが、幸いにもこの場にはSAN値がぶっ飛んで、数周回って元の位置に着地している精神異常者しかいなかった。
故、何の問題もない。
ソリテールは触手を一瞥した後、特に抵抗もなく頷いた。
「面白そうね。いいわ、やって」
ソリテールは自ら翠色の髪をかき上げ、白く整った耳を晒した。
月光のような白い肌に、淡い影が落ちる。
触手の先端が、ぬるりと耳の穴へと侵入していく。
鼓膜を越え、神経を撫で、脳髄へと流れ込んでいく。
ソリテールは小さく息を吐いたが、それ以外に苦痛の色は見せなかった。
「うわぁ……絵面がアレですね」
フルーフが口の中の菓子を飲み込みながら、ギョッとした表情で呟いた。
その両手は既に構えられている。
何かあれば速攻で蘇生する気満々だった。
接触が完了した。
サヤの意識が、ソリテールの脳内へと情報の濁流を注ぎ込み始める。
それは言葉ではない。
映像でもない。
異なる宇宙、異なる法則下で成立していた、神々の座に関する純粋な概念情報だった。
◇◇◇
ねえ、聞こえている? ソリテール。
こうして直接お話しするのは始めてだね。私、サヤ。
本当は、もっと色々とお話ししたいけど、余り時間もないから、また今度ね。
前から思ってたけど……貴女の考え方、とても素敵。
既存の枠組みに囚われず、新しい回路を自ら構築しようとするその姿勢……とても素晴らしく思う。
だから、貴女に教えてあげる。
私が遠い昔に観測した、この世界とは全く異なる宇宙の話を。
ただし、先に言っておくね。
これから伝えることは、この宇宙の法則とは違うの。
そのまま当てはまるわけじゃない。
でも、フルーフの状態を説明するには、あの宇宙の言葉を借りるのが一番近いと思うから。
だから、参考として聞いて。
類似例として、受け取って。
貴女たちが『魔法』と呼んでいる技術。
魔力と術式を媒介にして、イメージで現実を上書きするもの。
私が観測した別の宇宙にも、似たようなものがあった。
あちらでは、魂の力で現実に干渉する行為を、段階に分けて捉えていたの。
最も初歩的なものは『活動』と呼ばれていたわ。
自分の肉体を強化したり、魂の力を腕力や速度に変換したり、簡単な現象を起こしたり。
貴女たちの基礎的な身体強化魔法や戦士の高度な身体能力は、おそらくこの段階に近いと思うよ。
魂の力を使ってはいるけれど、世界そのものを書き換えるには程遠い。
その上に『創造』がある。
己の魂から武器や術を生み出し、固有の力として振るう段階。
自分だけの魔法、自分だけの技。
他の誰にも真似できない、魂の形をそのまま力に変えたもの。
優れた魔法使いや、この世界の大魔族は、このあたりに届いているのかもしれないね。
さらにその上に『形成』。
己の渇望が明確な形を取り始め、世界に影響を及ぼし始める段階。
ここまで来ると、もはや単なる技術ではなくなってくる。
魂が世界を侵食し始めるの。
自分の願いが、周囲の法則を少しずつ歪めていく。
そして。
サヤの思念が、一段と深く、重くなる。
その全ての階梯を登り詰めた先に……『流出』がある。
己の魂が抱く渇望。願い。祈り。執着。それらが極限まで高まった時。
その想いは、物理法則をねじ伏せる。
宇宙そのものを書き換える『法』となるの。
『活動』から『創造』へ。
『創造』から『形成』へ。
『形成』から『流出』へ。
一段、また一段と階梯を登り、魂を研ぎ澄ませ、己の渇望を純化させていく。
その果てに待つのが、神の座。
大きく分けて、二つの道があるわ。
一つは、『覇道』。
己の願いで、他者を含むすべてを塗り潰したいという渇望。
『世界はこうあるべきだ』 『私はすべてを愛したい』 『誰も彼も消えてしまえ』
そんな、外へ、外へと広がる欲望の爆発。
自身の魂の輝きを広げ、触れるものすべてを己の色に染め上げ、己の法則に従わせるの。
それは軍勢を率いる王のようであり、世界そのものを喰らい尽くす捕食者のようでもある。
彼らにとって、他者とは己の一部。
己の世界を彩る絵の具に過ぎない。
自身の法を宇宙の真理として押し付け、既存の世界を上書き保存する。
傲慢で、美しく、絶対的な支配者たち。
その渇望の核心を、あちらの宇宙では『太極』と呼んでいた。
覇道神がどんな法を敷くのか、どんな世界を望むのか。
全てはその一点に帰結する。
たった一言で表される、魂の真理。
覇道の神々は、その太極を宇宙全土に敷き詰めるの。
自分の願いを、世界の法則そのものに変えてしまう。
太陽が東から昇るように、水が高きから低きへ流れるように。
彼らの願いは、世界の当たり前になる。
もう一つは、『求道』。
これは貴女たち魔族の在り方に、少しだけ似ているかもしれない。
『私はこうありたい』 『ただ独りでいい』 『この刹那だけがあればいい』
外へ広がるのではなく、己の内へ、内へと収束していく渇望。
世界がどうあろうと関係ない。
他者がどうあろうと興味がない。
ただ、自分自身という個の枠組みで、己の願いを完結させる。
自身の体を一つの独立した宇宙へと圧縮し、変貌させるの。
その結果、彼らは既存の世界の法則から外れた、特異点となる。
世界というキャンバスの上に落ちた、決して混ざり合わない油の一滴。
物理法則も、因果律も、彼らの内なる宇宙には干渉できない。
彼らは歩く宇宙であり、たった一人で完結した神。
覇道が世界を塗り替える王なら、求道は世界から独立した隠者。
どちらも階梯の果て、流出に至った者たち。
どちらも、神と呼ばれるに相応しい存在。
でもね、この宇宙では、魂の性質は生きた年月と密接に関わるみたい。
神に至る『質量』を得るまでに、魂を研ぎ澄ませる資格を持った種族は限られているの。
魔族の寿命は二千から三千年。
階梯を登り詰めるには、少し足りない。
唯一可能性があるとすれば……エルフくらいかな。
そもそも、今書き込んでいるこの概念も、異なる宇宙の法則。
全く別の法則で成り立つこの宇宙では、同じようには機能しないと思うけれど。
あ、今はフルーフのことを話したいから、その辺りは省くね。
さて、ここで問題になるのが、私の大切な友人であり、貴女の愛する奥さん、フルーフのこと。
仮に、今話した階梯の枠組みに当てはめるとしたら。
彼女の状態は、どこに位置すると思う?
魂を燃料に魔力を生む。
死んでも死んでも蘇る。
もし、あちらの宇宙の理屈で解釈するならば。
己の肉体の中で完結した、不滅の法則。
世界が彼女を殺そうとしても、彼女の内なる法則が『死』を否定し、時間を巻き戻すかのように再生させる。
他者に干渉して世界を塗り替える『覇道』ではなく、己の在り方のみを貫く『求道』の性質。
けれどね、ソリテール。
仮にその枠組みを適用したとしても、彼女は神じゃない。
求道神になんて、なれっこないの。
だって、彼女には『渇望』がないもの。
あちらの宇宙で神に至った者たちが抱いていたような、魂を焼き尽くすほどの強烈な意志。
世界を犯しても構わないという狂気じみた願い。
彼女の根源にあるのは、そんな高尚なものじゃない。
私が観測した本物の求道神はね、己の渇望を完全に理解し、受け入れていたの。
『私はこうありたい』という願いを、魂の奥底から叫び続けている。
その上で、世界を拒絶し、己だけの宇宙を完成させる。
でもフルーフは違う。
彼女は自分が何を望んでいるのかすら、本当の意味では理解していないわ。
壊れた機械が同じ動作を繰り返しているだけ。
それが……とても悲しいの。
彼女はね、本来あってはならない『綻び』なの。
織り上げられた織物に混ざった、色の違う糸。
整然と並んだ石畳の、たった一つの歪み。
彼女の魂は、この世界よりもっと上位の、物語を外から眺めるような高い場所から落ちてきたの。
想像してみて。 静かな水面に、空から大きな岩が落ちてくるようなもの。
高次元の魂という、この世界にとっては重すぎる異物。
それが無理やり、この次元の肉体という器に押し込められた。
その落下と衝突の衝撃で、彼女の魂は壊れてしまった。
その壊れた瞬間に、彼女が抱いていた想いは何だったと思う?
『世界を変えたい』?『最強になりたい』?『愛されたい』?
いいえ、違うわ。
もっと単純で、もっと動物的で、だからこそ切実な感情。
『死にたくない』。
ただ、それだけ。
生物なら誰だって持っている、ありふれた恐怖。
本来なら、そんな弱い願いが『法』になることなんてあり得ない。
魂の強度もまるで足りない。
だけど、事故が起きた。
高い場所からの落下の勢い。魂が器に食い込む衝撃。
それらが、『死にたくない』という叫びを、魂に焼き付かせてしまった。
壊れた楽器が、同じ音を永遠に繰り返すように。
彼女の魂の奥底では、今も無限に叫び声が響き続けている。
『死にたくない』 『死にたくない』 『死にたくない』……
それが何億、何兆回と繰り返され、圧縮され、固着してしまった。
その結果、それは擬似的な『法則』となってしまった。
あちらの宇宙の言葉を借りるなら。
意志の力で世界をねじ曲げた『求道神』じゃない。
壊れて止まらなくなった叫びが、結果的に世界法則を弾いているだけの、『求道神モドキ』。
それが、私なりに解釈したフルーフの正体。
仮に階梯に当てはめるとすれば、彼女は一段も登っていないことになるわ。
『活動』も、『創造』も、『形成』も、何一つ経ていない。
なのに、結果だけが流出級の『不死』になってしまっている。
本来、流出に至るには、己の渇望と向き合い、魂を研ぎ澄ませ、一段一段、階梯を登っていかないといけない。
なのに、それを経ず得てしまった。
中身のない風船に、鉛を詰め込んだようなもの。
バランスがいびつすぎて、見ていて不安になるくらい。
自分が神の真似事をしているなんて思ってもいない。
ただ、呪いのように張り付いた初期設定に従って、生き返るだけ。
可哀想だよね。
何の崇高な理念もなく、ただの事故で『不滅』という重荷を背負わされてしまった。
私達の、大切な友人。
今の彼女にあるのは、圧倒的な『質量』だけ。
『死にたくない』というエラーが無限にループし続けているせいで、その密度だけは、神々に匹敵するかもしれない。
あるいはそれ以上の質量を持っている可能性すらある。
ブラックホールみたいに重く、ドロドロに凝縮された妄執の塊。
本来なら、そんな存在は自壊して消滅するはずなの。
器が魂の重さに耐えきれず、砕け散ってしまうのがオチ。
でも、彼女は壊れない。
なぜなら、彼女の魂に刻まれた『死にたくない』という命令が、自壊さえも許さないから。
壊れるそばから、時間が巻き戻るように修復される。
魂が肉体を食い破ろうとしても、その傷口さえもが『死』の一部と判定されて、無効化される。
わかるかな? ソリテール。
これはあくまで、私が観測した別の宇宙の枠組みで解釈した場合の話。
この世界の正確な言葉では、きっと違う呼び方があるのかもしれない。
でも、私にはこれが一番近い説明なの。
彼女は、不滅の神じゃない。
神の座にあるべき『理』を、ただの『呪い』としてその身に受けている、可哀想な迷子。
彼女の不死は、高尚な奇跡なんかじゃない。
ただの『処理落ち』。
宇宙という巨大な計算機が、彼女というエラーデータを削除できずに、無限に再計算し続けている状態。
だから、こちらの世界の魔法で彼女を殺そうとするのは、計算機の画面に映ったエラーメッセージを、消しゴムで消そうとするようなもの。
次元が違うの。 レイヤーが違うの。
貴女たちの魔法がどれほど洗練されていても、それはあくまで『画面の中』の出来事。
システムそのもののエラーである彼女には、決して届かない。
これが、貴女が触れている『命』。
そろそろ限界だよね?
貴女の脳細胞と魂が、情報の熱量に耐えきれず、溶け始めてる。
知識の味は、どうだった?
濃厚で、残酷で、そして甘美だった?
さあ、受け入れて。
脳細胞を通して魂へと経験を蓄積するの。
この星の誰も知らない、星の外側の真理を。
壊れて、溶けて、そしてまた新しく組み上げて。
貴女ならできる。
私は貴女達を応援しているの。
全面的な支援者であり、友達。
私が探し求めた奇跡のような存在、それが貴女達。
その愛の成熟を私達は心の底から祈り、渇望している。
だから、なんでも答えてあげる。 命だって惜しくはないよ。
◇◇◇
サヤからの思念の奔流が止む。
時間にして数秒。 だが、その密度は数千年にも等しい歴史と概念の圧縮だった。
ソリテールは、椅子に座ったまま、ぴくりとも動かない。
その表情は、先程までの穏やかな微笑みを湛えたままだ。
翠玉の瞳も見開かれたまま、虚空の一点をじっと見つめている。
動揺も、恐怖も、苦悶もない。
ただ、彼女の身体に異変が起きていた。
「……ソリテール様?」
クッキーを飲み込んだフルーフが、ふと違和感を覚えて声をかけた。
返事はない。
代わりに、ぽたり、と音がした。
ソリテールの美しい耳から、サヤの触手がぬるりと引き抜かれる。
触手が離れた瞬間、耳の穴から何かが垂れ落ちた。
白く濁り、淡い桃色を帯びた液体。
それが糸を引きながら、ソリテールの顎を伝っていく。
続いて、鼻孔と目尻から。
粘度の高い液体が、美しい顔を汚していく。
顔の穴という穴から、とろりとろりと溢れ出している。
生温い、鉄錆びに似た匂いが漂ってきた。
それは血の匂いではない。
もっと内側の、もっと根源的な場所から漏れ出した、生命そのものの匂いだった。
脳漿だ。
サヤによって叩き込まれた異界の知識、その圧倒的な情報量の重さに耐えきれず、ソリテールの脳細胞が物理的に崩壊し、融解していた。
溶けた脳が、顔の穴という穴から流れ出ている。
液体は顎を伝い、首筋を流れ、襟元を汚していく。
白い絹地に、白濁した染みが広がっていく。
漂う匂いは、生臭さと甘ったるさが混じり合った、形容しがたいものだった。
それでもソリテールは、微動だにしない。
ただ、静かに、穏やかに、頭の中身を垂れ流している。
その顔からは湯気が立ち上っていた。
脳が溶ける熱。
情報を処理しようとして焼き切れた神経の、最後の残り火。
一拍の沈黙。
そして。
「な、なにィィィ――ッ!?」
フルーフの絶叫が、静かな客間を切り裂いた。
「ソ、ソリテール様ぁぁぁぁッ!?」
弾かれたように椅子から飛び上がり、ソリテールの傍に駆け寄る。
片手で頭蓋骨を鷲掴みにし、もう片方の手で顔を覗き込んだ。
瞳孔が散大している。光に反応していない。
明らかに、脳が機能不全を起こしている。いや、物理的に溶けているのだから機能不全どころの騒ぎではない。
「ちょっと! ■ヤさん!? 何したんですか!?」
フルーフは半狂乱になりながら叫ぶ。
「脳味噌! 脳味噌溶けて出てきてますよ!? ホカホカ湯気立ってますよ!」
指の隙間から、温かい液体が滴り落ちる。
ソリテールの頭蓋骨を支える手が、白濁した脳漿で濡れていく。
それでもフルーフは手を離さない。 離せない。
「ああもう! 蘇生! 蘇生しますからね!」
フルーフは自身の魂を削り、膨大な魔力を練り上げる。
損傷した部位を魔力で補い、融解部位を再生させる。
彼女の掌から淡い光が溢れ、ソリテールの頭部を包み込んだ。
溶けた脳細胞が、少しずつ形を取り戻していく。
断裂した神経が繋がり直し、崩壊した組織が再構築されていく。
「ツルギさん! 何ボーっとしてるんですか! 手伝ってください!」
「……いえ、私にはどうすることも」
ツルギは困ったように眉を下げる。
サヤから五感の補正を受けているツルギには、ソリテールの状態が手に取るように分かっていた。
だからこそ、自分が介入する余地がないことも理解していた。
それでも、ツルギはソリテールの身体を両手で支えた。
椅子から崩れ落ちないように。せめてそれだけは。
「■ヤさん! 説明してくださいよ! ただ話をするだけって言ったじゃないですか!」
フルーフが叫ぶと、ツルギの膝の上で、サヤの目玉がぐるりと回った。
「……サヤさんは言っています」
ツルギは淡々と、サヤの言葉を紡ぐ。
「『ごめんね。少し、張り切りすぎちゃったみたい』と」
「張り切りすぎって……」
「『でも大丈夫よ、彼女ならきっと、そのドロドロになった脳みその中でも、私が教えた知識の欠片を拾い集めて、自分のものにするはず』と」
「呑気なことを言わないでください!」
フルーフは蘇生魔法を維持しながら、ソリテールの顔を覗き込み続けた。
数分が経過した。
あるいは、数十分だったかもしれない。
ようやく液体の流出が止まり、ソリテールの顔色が戻り始めた。
そして、翠玉の瞳に、少しずつ理性の光が宿っていく。
パチリ、と瞬きをする。
「……フルーフ?」
第一声は、いつも通りの鈴を転がすような声だった。
「ソリテール様! わかりますか!? 私です、フルーフです!」
「……ええ、わかるわ。少し、頭がくらくらするけれど」
ソリテールは自身の頬についた液体を指で拭い、それを不思議そうに眺めた。
白濁した粘液が、細い指の間で糸を引いている。
脳が溶けたというのに、彼女は一切の恐怖を感じていないようだった。
むしろ、その瞳は先程よりも深く、妖しい輝きを帯びている。
「凄いものを見せてもらったわ。ありがとう、サヤ」
ソリテールは膝の上の剣に視線を向けた。
「伝えたかったことの半分も、まだ理解できなかったけれど……確かに、受け取ったわ。色んな知識や法則が頭の中に残っている。少し整理しないといけないわね」
「よ、よかったぁ……」
フルーフは脱力し、ソリテールの胸に顔を埋める。
安堵のあまり、全身から力が抜けていく。
そんなフルーフの頭を、ソリテールは優しく撫でた。
その手つきには、以前よりも深い、慈愛のようなものが混じっている気がした。
「心配かけてごめんなさいね。でも、おかげで分かったことがあるの」
「何がですか……?」
「フルーフのこと。貴女がどうして、こんなにも歪なのか。その理由の一端が、分かった」
一連の騒動が落ち着き、ツルギは、再び剣の柄に手を添えた。
サヤから送られてくる感情の波が、静かに重く響いてくる。
「……最後に、サヤさんから伝言です」
ツルギの声に、フルーフとソリテールが視線を向ける。
サヤの単眼は、フルーフをじっと見つめていた。
そこには、哀れみとも、羨望ともつかない、複雑な色が宿っている。
「『フルーフ。そしてソリテール』」
ツルギは淡々と、サヤの言葉を紡ぐ。
「『この世界の人類が、どんなに足掻こうと、どんなに魔法を発展させようと……フルーフを殺す魔法なんて、絶対に作り出せはしない』」
それは、予言であり宣告だった。
「『だって、理が違うから。絵本の中の住人が、絵本の外にいる読者を消せないのと同じ。この世界の理で作られた魔法じゃ、高みから落ちてきた傷跡である貴女には、傷一つつけられない。貴女を殺せるのは……貴女と同じ場所から落ちてきた存在か、あるいは世界そのものを終わらせる神の御業だけ』」
重い沈黙が、客間を満たした。
サヤの言葉は続く。
「『でも、安心して。私が将来的にどうにかしてみせるから。だから、今はその永遠に続く傷跡の中で、愛する人と幸せを享受していて。……それが、祝福なのか、呪いなのかは、私にも分からないけれど』」
不穏な言葉を残し、サヤは静かに瞼を閉じた。
剣の姿に戻った肉塊は、ただの物体としてツルギの膝に収まる。
部屋には、再び穏やかな陽光が満ちていた。
だが、その場にいた全員の胸には、消えることのない冷たい澱のようなものが、静かに沈殿していた。
「……あの、サヤさん?」
沈黙を破ったのは、フルーフだった。
彼女はソリテールの腕の中にいながら、居心地悪そうに身じろぎしていた。
視線が泳ぎ、唇が何度か開閉を繰り返す。
「その、言いにくいんですけど……」
フルーフは困ったように眉を下げ、申し訳無さそうに口を開いた。
「言ってませんでしたが。私、死ねるんですよ」
サヤの瞼が、ぴくりと動いた。
閉じかけていた単眼が、再び大きく見開かれる。
ツルギが剣の柄を強く握りしめた。
剣から伝わる感情の波が、一瞬酷く乱れたからだ。
困惑。否定。そして、理解不能なものを前にした、純粋な動揺。
「『……どういう意味?』」
ツルギを通して紡がれるサヤの声には、明らかな疑念が混じっていた。
「あの、実はですね」
フルーフは、困ったように、だけれど少し自慢げに口を開いた。
「私に魔法を教えてくれた師匠……魂を知覚できる、大魔法使いフランメという人がいまして」
フランメ。
その名を出す時、フルーフの声には隠しきれない敬愛が滲んでいた。
「私のこの厄介な体質を研究して、私のための『死ぬ魔法』を作ってくれたんです。もちろん、簡単な条件じゃないですよ? 寿命を全うして、悔いなく満足して、心から『もういいや』って思った時にだけ発動する、そういう特殊な術式なんですけど」
「そうね。私は、フルーフから聞いているわ」
ソリテールが静かに頷く。
その言葉を聞いた瞬間、サヤの目玉が大きく見開かれた。
ツルギの膝の上で、剣身がカタカタと震え出す。
それは怒りでも恐怖でもない。
ただ純粋な動揺。そして否定。
「『……あり得ない』」
ツルギの口から漏れたサヤの言葉は、冷たく、断定的だった。
「『絶対に、不可能だよ。そんなの。だって、それは理屈が通らない』」
サヤの視線がフルーフを射抜く。
単眼の奥で、高速の演算が行われているのが感じられた。
「『その傷跡は、この世界の法則でできたものじゃない。もっと高い場所から落ちてきた衝撃で刻まれた、絶対的な命令なんだよ。それを解除するには、同じ高さにいる存在が手を加えるか、あるいは外の世界からの干渉が必要なの。この世界の住人が、どんなに知恵を絞ったところで、貴女という存在の根幹に触れることさえできない……はずなの』」
サヤは続ける。
「『私も真っ先に、その方法でどうにかできないか探したよ。貴女が死にたがっていることは知っていたから、その願いを叶えてあげたくて、貴女の魂の構造を、その傷跡を、私の知識で分析してみたの』」
サヤの単眼が、遠くを見つめるように細まる。
「『でも、この世界の理屈だけでは無理だった。どう計算しても、どうシミュレーションしても、この星の住人の概念だけじゃ解けないパズルだったの。私が見ている景色と、この世界の住人が見ている景色は違う。私には見える壁が、彼らには存在しないことになっている。そんな状態で、彼らだけの力で壁の向こうにあるスイッチを押せるわけがないでしょう?』」
サヤの視線が、再びフルーフへと戻る。
「『だから、理解できないの。人間が……百年も生きられない人間が、たった一人で解決策を導き出しただなんて』」
サヤの単眼が、ゆっくりと収縮する。
「『彼女は一体、何をしたの? 誰の力を借りたの?』」
その問いかけに、フルーフは首を傾げた。
「心当たりは……ありませんね。フリーレン? ゼーリエおばさん? いや、でも二人は魂なんて見えませんし……」
フルーフの言葉は、サヤの疑問に対する否定だった。
少なくとも、フルーフ自身には何の心当たりもない。
「なら、今ならどうかしら?」
ソリテールが、ふと問いかけた。
彼女の瞳には、先ほどサヤから流し込まれた知識が怪しく輝いている。
脳が溶けるほどの情報を受け取り、それでもなお思考を続けていた。
「貴女から知識を貰った私と、魂に直接干渉できるフルーフ。そしてサヤ。三人で協力して、時間をかければ……その神をも殺すような『死の魔法』を、一から作り出すことは可能?」
「『……』」
サヤは沈黙した。
巨大な眼球が小刻みに揺れ、高速で演算を行っているのが分かる。
ソリテールの柔軟性、フルーフの特異性、そしてサヤが持ち得る概念知識。
それら全ての要素を組み合わせ、可能性という名の海を探索する。
やがて、ツルギが口を開いた。
「『……計算した。結論から言うと、不可能ではない。元々私一人でも、時間さえ掛け続ければ導き出せる問題だから……』」
サヤの答えに、フルーフの顔がぱっと明るくなる。
だが、続く言葉がその希望を打ち砕く。
「『でもね、ソリテール。貴女がその概念を完全に理解し、フルーフが自身の魂の傷跡を正確に把握し、私達が完璧に連携したとしても』」
サヤは一拍置いた。
「『その魔法の、最初の取っ掛かりを見つけるために、最低でも五千年以上は掛かるよ』」
「ご、五千年……!?」
フルーフが素っ頓狂な声を上げる。
魔族の寿命ですら、到底届かない歳月だ。
「『その取っ掛かりと十分な研究資料があれば、ソリテールでも作れると思う。でも、ゼロから始めるなら、五千年は絶対に必要。次元の壁を超えて干渉するっていうのは、そういうことなんだよ』」
テーブルの上で、入れ直された紅茶から、ふわりと湯気が立ち上る。
サヤは肉片の中で何度も計算と思考を巡らせていた。
だが、いかにフランメが優れた魔法使いであったとしても、魂を知覚できるという特性を考慮しても、不可能という結果にしか行き着かない。
何度も、何度も予測と演算を繰り返す。
だが、結果は同じだ。
サヤの単眼が、ゆっくりと細まる。
(……フランメという人間をどれだけ過大評価したとしても、フルーフに最適化された魔法を百年未満で作り出せる訳がない)
演算は続く。
(私が五千年以上かかると計算したのは、概念の理解に千年、魂の構造解析に千年、術式の仮設計に二千年、そして試行錯誤に千年……これは最短の見積もり。どの工程も省略できない)
サヤの瞳孔が、針のように収縮した。
(なのに、たった一人の人間が、完成させた? あり得ない。絶対に、何かが介入している)
サヤは可能性を列挙していく。
(未来からの情報。並行世界からの干渉。あるいは、私の知らない誰かが、何かしらの手掛かりを渡した。そうでなければ、辻褄が合わない)
だが。
(でも、その痕跡が見つからない。私と同じような高次の存在が近くにいれば、感覚でわかるはずなのに、そんな反応はない。まるで、最初からそこに在ったかのように、魔法だけが存在している――)
サヤは結論を出せなかった。
黙り込んだサヤは、その後一度も口を開くことなく、瞼を固く閉じたままだった。
いつの間にか、客室の空気は変わっていた。
重苦しい沈黙が去り、友人同士のお茶会の雰囲気が戻ってきている。
メイドが新しい焼き菓子を運んできて、ソリテールが紅茶を一口啜り、ツルギが静かにカップを傾ける。
窓の外からは、港町の喧騒がかすかに届いてくる。
午後の陽光が、斜めに差し込み、潮の匂いを含んだ風が、薄いカーテンを揺らしていた。
何事もなかったかのような、穏やかな時間。
ソリテールは、サヤから受け取った知識の断片を反芻。
フルーフは、自身の存在の歪さを改めて突きつけられながらも、隣にいる愛する者の温もりを感じ。
ツルギは、サヤの動揺を間近で感じ取り、紅茶とお菓子の味を噛み締めていた。
そして、サヤは。
膝の上で剣の形を取った肉塊は、微動だにしない。
だが、その内側では、膨大な演算が今も続いているのだろう。
フランメという人間が成し遂げた、あり得ない奇跡。
その謎を解くために。
部屋には、再び穏やかな陽光が満ちていた。
焼き菓子の甘い香り。
紅茶の芳醇な湯気。
友人たちの、何気ない会話。
それは確かに、幸福な午後のひとときだった。
だが、その幸福の底には、誰にも解けない謎が満ちていた。
その秘密は、今はまだ、誰にも明かされていない。