ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第29話▶閑話▶魔法実験の被験者募集【報酬はシュトラール金貨20枚】

 

 

 

――シンビオシス、地下実験場。

 

 

その部屋は、あまりにも白かった。

 

 

床も、壁も、天井も、継ぎ目一つない純白の石材で構成されている。

窓はなく、光源が見当たらないにも関わらず、全体が乳白色の光で満たされていた。

清潔でありながら、どこか生命の気配を拒絶する無機質さが漂う。

空気すら消毒されたかのように、匂いというものが存在しない。

 

 

そこに、六人の人間が集められていた。

彼らは皆、街の広場や酒場で「高額報酬の魔法実験」という甘い言葉に誘われた者たちだ。

 

 

「おい、随分と待たせるじゃねぇか」

 

 

沈黙に耐えかねたように声を上げたのは、スルタンという名の傭兵崩れの男だ。

革鎧に身を包み、腰には使い込まれた大剣を下げている。刃こぼれの跡が、幾度もの実戦を物語っていた。

壁に背を預け、苛立たしげに床を踏み鳴らしている。

 

 

彼の斜向かいには、身を寄せ合う若い男女がいた。

 

 

エリックとミーナ。

将来を誓い合った恋人同士だ。

結婚資金を貯めるため、危険を承知で参加した。

 

エリックは鍛冶屋見習いで、袖を捲り上げた腕には火傷の痕が点々と残り、掌には仕事で出来た硬い胼胝が刻まれている。

質素な麻の服は所々繕われており、貧しくとも丁寧な暮らしぶりが窺えた。

 

ミーナは仕立て屋の娘で、自分で仕立てたのだろう、簡素だが縫い目の美しい藍色のワンピースを着ている。肩まで伸びた栗色の髪を、安物だが丁寧に磨かれた銀の髪留めで留めていた。

二人の薬指には、揃いの銀の指輪が光っている。高価なものではない。だが、何度も磨かれた跡が、それを大切にしてきた時間を物語っていた。

二人は自然と手を繋ぎ、互いの体温を確かめ合うように身を寄せている。

 

 

そして部屋の隅には、一組の家族の姿があった。

 

 

父親のトマス、母親のエルザ、そして七つになる娘のコニーだ。

彼らは戦火で故郷を追われ、この街に流れ着いたばかりの難民だった。

トマスの服は旅の汚れが落としきれておらず、エルザの頬はやつれている。

しかし、コニーの服だけは小綺麗に整えられていた。親が自分たちを犠牲にしてでも、娘には惨めな思いをさせまいとしてきた証だろう。

生活を立て直すための支度金が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。

 

 

「大丈夫だよ、コニー。魔法使い様のお手伝いをするだけだからね」

 

「うん……」

 

 

父親の言葉に、少女は不安げに頷き、母親のスカートの裾をぎゅっと握りしめている。

その小さな手は、微かに震えていた。

 

 

重苦しい空気が流れる中、不意に何かが変わった。

 

 

扉が開いたわけではない。音がしたわけでもない。

ただ、気圧が変動したかのような圧迫感が、肌を這い上がる。 呼吸が、一瞬だけ詰まった。

 

 

「お待たせして、ごめんなさい」

 

 

鈴を転がすような、涼やかな声が響く。

いつの間にか、部屋の中央に一人の少女が立っていた。

 

 

翠色の髪を背中へ真っ直ぐに流し、その額からは二本の角が優美な弧を描いて伸びている。

白磁のような肌、整った目鼻立ち。

穏やかに垂れた目元が、集められた人々を見渡していた。

その姿だけを見れば、深窓の令嬢と見間違える者もいただろう。

 

だが、角が全てを物語っている。

 

魔族。

 

それは、圧倒的なまでの『死』の予感。

 

生き物として根源的な部分が、警鐘を鳴らしている。

逃げろ、と。今すぐこの場から離れろ、と。しかし身体は動かない。

恐怖が足を縫い止めているのか、それとも彼女の魔力が既に何かを施しているのか。

 

 

「私はソリテール。今日は貴方たちにお願いがあって来てもらったの」

 

 

彼女は唇の端を持ち上げた。

まるで友人をお茶会に招くかのような、無邪気な笑顔。

そして、その無邪気さこそが、底知れぬほどに恐ろしかった。

 

 

「な、なんだ、領主様ご本人かよ」

 

 

スルタンが強張った声で愚痴る。

彼は無意識のうちに剣の柄に手を掛けていた。指先が白くなるほど、強く握りしめている。

戦士としての勘が、目の前の存在に関わってはいけないと警鐘を鳴らしていた。

 

 

「ええ、そうよ。貴方たちには、私の研究に協力してほしいの」

 

 

ソリテールは歌うように語りかける。

その声音は穏やかで、まるで子守唄でも聞かされているかのようだった。

 

 

「恐怖、怒り、悲しみ、そして愛……。それらが極限状態に達した時、どう振る舞うのか。どう感情を波立たせるのか、それを知りたいの。それらの過程を観せてほしい」

 

「……具体的には、何をするんですか?」

 

 

エリックが震える声で尋ねる。

彼は恋人のミーナを背に庇うように立ち、その手を強く握りしめていた。

繋いだ掌の間で、二人の汗が滲んでいく。

 

「簡単よ」

 

 

ソリテールは人差し指を立て、楽しそうに目を細めた。

その仕草は可愛らしく、どこか芝居がかっている。

 

 

「私が貴方たちを害する。ただそれを、それぞれのやりかたで抗ってみせて。それだけのこと」

 

「ふざけるな!」

 

 

スルタンが叫んだ。

恐怖を怒りで塗り潰そうとするかのように、声を荒げる。

 

 

「害するって、殺すって言ってるようなもんだぞ! 防御魔法なんて使えねぇ人間もいるんだ! 死んだらどうするんだ!」

 

「死ぬ? ああ、そうね。人間は脆いものね」

 

 

ソリテールは首を傾げる。

その仕草は可愛らしいが、瞳には感情の色が見当たらない。

覗き込めば吸い込まれそうな、深い翠色の虚ろ。

 

 

「でも、報酬は弾むわ。金貨二十枚。私の奥さんが用意してくれているの、終わったらその場で手渡すと約束します。それに、もし死んでしまっても……ふふ、それはその時考えましょう」

 

「誰がやるか! 俺は降りるぜ!」

 

 

スルタンは踵を返し、出口へと向かおうとした。

傭兵として培った判断力が、損切りを選ばせた。金よりも命が大事だ。

逃げられるうちに逃げる。それが生き残る術だと、彼は知っていた。

 

 

「あら、帰っちゃうの? まだお話の途中なのに」

 

 

ソリテールが右手を軽く振るった。

ただそれだけの動作だった。

 

 

魔法の光が見えたわけではない。

風を切る音すら、なかった。

 

 

ただ、不可視の衝撃が、スルタンの上半身を消し飛ばした。

 

 

一瞬の出来事だった。

 

 

血飛沫が純白の壁に赤い花を咲かせる。

鮮やかな紅が、無機質な白を侵食していく。

下半身だけが、数歩よろめいてから、どさりと倒れ込んだ。

切断面から溢れ出す血が、床に広がり、鉄錆の匂いが鼻腔を刺す。

 

 

「きゃあああああああああ!」

 

 

ミーナとエルザの悲鳴が重なる。

甲高い声が、狭い部屋の中で反響し、耳を劈いた。

 

 

コニーは声も出せずに、目を見開いて凍りついていた。

小さな身体が、ガタガタと痙攣するように震えている。

 

 

トマスは咄嗟に妻子を背後に庇おうとした。

だが足が縫い止められたように動かない。膝が笑い、歯の根が合わず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

「ごめんなさい。お話を断られて、私は悲しくなってしまったの。だから殺してしまった」

 

 

ソリテールは残念そうに呟く。

その声音には、本当に悲しんでいるかのような響きがあった。

だが、その目は笑っておらず、どこまでも凪いでいる。

 

 

「でも、まだまだ生きている。私達でお話しましょう?」

 

 

血に濡れた床など気にする様子もなく、残された人々の方へ歩み寄る。

その靴底が、ぴちゃり、ぴちゃりと、スルタンだった液体の水溜まりを踏みしめる。 白い靴に赤い染みが広がっていくが、彼女は一瞥もしなかった。

 

 

「まずは……そうね、『愛』の力を観せてくれる?」

 

 

彼女の視線が、震える家族に向けられた。

翠色の瞳が、品定めをするように三人を舐めるように見る。

 

 

「ひっ……や、やめてくれ……!」

 

 

トマスが必死に妻子を背後に隠そうとする。

だが、彼の足は恐怖で竦み、思うように動かない。

腕を広げて壁になろうとしても、その腕は情けなく震えていた。

 

 

「ねえ、お父さん。貴方は娘を愛している?」

 

 

ソリテールはトマスの目の前まで近づき、顔を覗き込んだ。

その距離は、吐息がかかるほどに近い。

彼女の髪から、花のような甘い香りがする。だがそれは、床に広がる血の匂いと混ざり合い、吐き気を催すような不協和音を奏でていた。

 

 

「あ、愛している……! 命に代えても……!」

 

「そう、命に代えても。それは興味深い言葉ね」

 

 

ソリテールは感心したように頷いた。

まるで珍しい昆虫を見つけた学者のような、純粋な好奇心を宿した目だった。

 

 

「魔族には理解できない概念……とは言わないわ。最近、私は愛と言い切れるものを見出したから。でもね、自分の命より大切な他者なんて、存在し得ない。そう、感じてもいる。だからこそ、観せて。その可能性を」

 

 

彼女の視線が、トマスの背後にいる少女へと移った。

母親のスカートを握りしめ、泣きそうな顔で震えているコニー。

 

 

「さぁ、証明を。今からこの子を殺すわ。貴方の愛で、抗ってみせて」

 

「なっ……!?」

 

 

ソリテールが掌をコニーに向ける。

その指先に、黒い魔力が収束し始めた。

闇を凝縮したかのような、光を吸い込む漆黒。

空気が軋み、肌がピリピリと痺れるような圧力が部屋を満たしていく。

 

 

「やめろぉおおおお!」

 

 

トマスは絶叫し、無謀にも素手でソリテールに掴みかかろうとした。

恐怖も、理性も、何もかもを投げ捨てて。ただ、娘を守りたいという一心だけで。

 

 

だが、彼の身体は空中で制止した。

見えない力によって拘束され、指一本動かせない。もがこうとしても、まるで空気そのものに押さえつけられているかのようだった。

 

 

「やめて……お願い、あの子だけは……!」

 

 

母親のエルザが泣き叫び、床に額を擦り付ける。

額が床にぶつかり、皮膚が擦れて血が滲んでも、彼女は頭を上げなかった。

 

 

「私が……私が代わりに死にます! だから娘は!」

 

「代わり? どうして?」

 

 

ソリテールは心底不思議そうに首を振る。

 

 

「個体としての価値は、これからの成長が見込める幼体の方が高いはずよ。代りとしては釣り合わない。それに、貴女が死んでも、この子の生存率は上がらないわ。非合理ね……私は貴女達の口にする愛を観せてほしいの。この極限状態で、どう行動するか」

 

「コニーちゃん、だったかな。怖がらなくていい」

 

 

ソリテールは、凍りついた少女に歩み寄り、優しく語りかけた。

その声は、本当に子供をあやす母親のように温かかった。

 

 

「痛いのは一瞬だけ。それに、お父さんとお母さんが見守ってくれているわ。幸せね」

 

「う、うぅ……パパ……ママ……」

 

 

コニーの目から大粒の涙が溢れる。

頬を伝い、顎から滴り落ち、床に小さな染みを作った。

 

 

「綺麗な涙。恐怖と、絶望と、そして親への信頼が混ざり合った、複雑な感情の輝き」

 

「やめろ! やめてくれええええええ!」

 

 

トマスの絶叫が響き渡る。

喉が裂けんばかりの叫び。しかしその声は、何にも届かなかった。

 

 

ソリテールは無慈悲に魔法を放った。

 

 

――『人を殺す魔法(ゾルトラーク)』。

 

 

黒い閃光が走り、少女の小さな身体を貫いた。

 

爆ぜる音。 焼けた肉の、甘ったるいような臭いが鼻腔を刺す。

 

 

次の瞬間、少女が立っていた場所には何も残っていなかった。

ただ壁に、赤黒い飛沫が花のように広がっている。床には焦げた跡と、くすぶる布切れ――彼女が着ていた服の残骸だけが残されていた。

 

 

「あ……ああ……あぁぁぁぁぁぁ……」

 

 

エルザの口から、言葉にならない音が漏れる。

壊れた楽器のような、意味を成さない響き。 彼女の瞳から光が消え、焦点が定まらなくなっていく。

 

 

トマスは白目を剥き、泡を吹いて痙攣している。

拘束が解けて床に崩れ落ちても、彼の身体はびくびくと震え続けていた。

 

 

「……残念」

 

 

ソリテールは空中に白紙の本を浮かべ、何やら書き込みながら呟いた。

羽ペンが紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響く。

 

 

「――だけど」

 

「確かな信頼と愛情を、その仕草、声で感じられた。本当は感じていない、なんて言わないわ。その愛に敬意を込め、確かに『感じた』と断言するわ。穏やかな肉親の情、とても幸せな家族だったのね。貴女達家族の幸せが、これから永遠に続くよう、祈っているわ。家族は仲良しでいるべきだと思うもの。そういうものでしょう、人の愛というものは」

 

 

彼女は書き終えた本を閉じると、生気の抜けた両親を見下ろした。

 

 

「愛を失って、苦しくて、悲しいのね。その気持に、私は共感することが出来る、だから――助けてあげる」

 

 

指先を軽く振るう。

空気を切り裂く、かすかな音。

刃が走り、トマスとエルザの首がころりと床に落ちた。

 

 

二つの頭部が、ごろりと転がる。

まだ涙の跡が残る顔が、虚空を見つめていた。

 

 

部屋に残されたのは、若い恋人たち、エリックとミーナだけだった。

 

二人は互いに抱き合い、ガタガタと震えている。

エリックがミーナを庇うように抱きしめ、ミーナはエリックの胸に顔を埋めていた。

繋いだ指輪が、微かにぶつかり合って小さな音を立てる。

 

目の前で繰り広げられた光景に、精神は限界を迎えていた。

床に広がる血の海。壁に飛び散った赤黒い染み。転がる首。

そして、甘ったるい焦げた匂い。それらが、現実として二人の五感を蹂躙していた。

 

 

「さて、次は貴方たちね」

 

 

ソリテールは、スカートの裾についた血を払う素振りも見せず、二人に近づいていく。

その足取りは軽やかで、まるで花畑を散歩しているかのようだった。

 

 

「家族の愛は、最後まで崩れ去ることなく、美しい結末を迎えた」

 

 

立ち止まり、二人を見下ろす。

 

 

「男女の愛はどうかしら? 繁殖本能に基づいた結びつきは、生存本能を上回ることができるのか。フルーフのように、愛の可能性を私に示してくれるのか、それとも醜く、脆く崩れ去るか。それもまた愛の可能性。さぁ、その愛がどのような選択を選ぶのか……観せて」

 

 

ソリテールは二人の間に、一本のナイフを投げ落とした。

 

カラン、と乾いた音が響く。 銀色の刃が、血溜まりの中で鈍く光っている。

 

 

「ルールは簡単。どちらか一人が死ねば、もう一人は助けてあげる。外に出してあげるわ。金貨も上げましょう」

 

「な……何を……」

 

 

エリックが青ざめた顔でナイフを見つめる。

胼胝だらけの手が、震えてミーナの肩を掴む力が強くなった。

 

 

「さあ、選んで。愛する人を殺して生き残るか、愛する人のために死ぬか。それとも……二人仲良く、私に殺されるか。第四の選択を見出してもいいわ」

 

「エリック……」

 

 

ミーナが縋るような目で恋人を見る。

涙で濡れた頬が、乳白色の光を反射している。

 

 

「嫌……死にたくない……」

 

「大丈夫だ、ミーナ。僕が守る……」

 

 

エリックは震える手でナイフを拾い上げた。

胼胝に覆われた指が、柄を強く握りしめる。

 

そして、それをソリテールに向けた。

 

 

「ふざけるな……! 誰がお前の言いなりになんて!」

 

 

その声は震えていた。

だが、その目には確かな意志が宿っていた。

恐怖に塗り潰されそうになりながらも、最後の一線で踏みとどまろうとする人間の抵抗。

 

 

「第四の選択肢、反抗。勇気がある。格好いいわ」

 

 

ソリテールは目を丸くした。

本当に驚いたかのような、純粋な反応だった。

 

 

「フルーフなら即座に自害している場面だからこそ、少し新鮮に感じてしまう」

 

 

だが、次の瞬間には、その表情は元の穏やかさを取り戻していた。

 

 

「だけど、無駄。そのナイフは、人間を殺すためのもの。魔族の私には届かないわ」

 

 

彼女が指を鳴らすと、エリックの腕がねじ切れんばかりに曲がった。

 

 

「ぐあああああ!」

 

 

骨が軋む音。筋肉が引き裂かれる感覚。

ナイフが手から落ちる。エリックは膝をつき、折れ曲がった腕を抱えてのたうち回った。

 

 

「その選択を――私は尊重するわ」

 

 

ソリテールの声が、苦痛に歪むエリックの頭上から降ってくる。

 

 

「だからこそ、私も反撃に出る。けど、決して嫌いではないの。決して下等な存在の反抗に苛立った、そんな低俗な感性故ではない。勘違いはしないで」

 

 

一歩、近づく。 血溜まりを踏み、ぴちゃりと音が鳴る。

 

 

「私はその選択肢に敬意を持ち、尊重したのだということを」

 

 

彼女は屈み込み、苦悶するエリックの顔を覗き込んだ。

 

 

「私という、愛する人を害する化け物へと感情を奮い立たせ、己の抱く恐怖を組み伏せ、他者の生のために一瞬の生を燃やし尽くす。その素晴らしい讃歌に答えたの」

 

 

その声は、どこまでも穏やかだった。 諭すように。慈しむように。

 

 

「私は、化け物。そして貴方は『愛する人を守る人間』としてここにいる。その眩い誇りを私は尊重するわ。だからこそ容赦はしない」

 

 

ソリテールは立ち上がり、転がるナイフを見下ろした。

そして、その視線を震えるミーナへと向ける。

 

 

「ねえ、死ぬのは怖い? 生きたい?」

 

「ひっ……」

 

 

ミーナは後ずさろうとしたが、背後は壁だった。

逃げ場などない。

 

 

「その感情は嘘じゃないはず。どうして素直になれないの? この場で命乞いもせず、愛する人間の背後で震えているだけなのは何故?」

 

 

一歩、また一歩と、ソリテールが近づいてくる。

 

 

「貴女はどう? 恋人のために死ねる? 差し迫る生命の危機という抗いがたい根源的恐怖に『愛』で立ち向かえる?」

 

 

そして、ミーナの目の前で立ち止まった。

 

 

「――まだ、その口から何も聞いていないから、判断に困るわ」

 

「わ、私は……」

 

 

ミーナは涙を流しながら首を振る。

銀の髪留めが揺れ、乱れた髪が頬に張り付いていた。

 

 

「死にたくない……まだ、やりたいことがたくさんあるの……!」

 

「責めはしないわ。それが生物として健全な反応」

 

 

ソリテールは頷いた。

まるで生徒の回答を採点する教師のような、淡々とした所作だった。

 

 

「なら、彼を殺してみせて? そうすれば貴女は助かるわ」

 

 

ソリテールは魔力でナイフを浮かせ、ミーナの手に握らせた。

冷たい金属の感触が、震える掌に押し付けられる。

 

 

そして、ミーナの身体を魔法で操作し、エリックの上に馬乗りにさせる。

 

 

「や、やめて……身体が勝手に……!」

 

 

ミーナが悲鳴を上げる。 自分の意志とは無関係に、腕が持ち上がっていく。

 

 

「ミーナ!?」

 

 

エリックが見上げる。

折れた腕を庇いながらも、彼の目はミーナを見つめていた。

恐怖ではない。心配だった。彼女を傷つけてしまうのではないかという、心配だった。

 

 

「さあ、愛の重さを測りましょう。生存本能という重りに対して、愛はどれだけ釣り合うのかしら」

 

 

ソリテールは空を撫でるように指を動かす。

見えない糸がミーナの腕を操り、ナイフを振り上げさせた。

 

 

「嫌だ……エリック、ごめんね、ごめんなさい……!」

 

 

ミーナが泣き叫ぶ。涙が止まらない。

視界がぼやけて、愛する人の顔さえよく見えない。

 

 

「ミーナ、やめろ! うわあぁぁぁ!」

 

 

ザシュッ。

 

 

ナイフがエリックの胸に突き刺さる。

肉を裂く、湿った音。

 

 

一度、二度、三度。

 

 

鮮血がミーナの顔に飛び散る。温かい。

生きている人間の血は、こんなにも温かい。

 

 

「あ……あぁ……」

 

 

ミーナは血まみれの手を見つめ、呆然とした。

赤い液体が指の間を伝い、揃いの銀の指輪を汚していく。

 

 

エリックは口から血を泡と吐き出し、痙攣している。

胸から柄だけが突き出し、白い服が紅に染まっていく。

 

 

ソリテールは瀕死のエリックに顔を近づき、その目を覗き込む。

 

 

「ねえ、聞かせて? 今はどんな気持ち? 愛する人に殺される気分は。絶望? 憎悪? それとも、彼女が助かるならそれでいいという自己犠牲の満足感?」

 

「ご……ほ……ミ―、ナ」

 

 

血に濡れた唇から、彼女の名前が漏れる。

それだけだった。恨み言も、呪詛も、何もなく。ただ、愛する人の名前だけを呼んでいた。

 

 

「『私』という『化け物』への憎悪よりも、恐怖よりも、悪意よりも、殺意よりも……愛する人への心配が勝った、そういうことね」

 

 

ソリテールは目を伏せた。

その表情には、何かを理解しようとする真摯さがあった。

 

 

「私は、今それに気づけた。きっと、貴方に『共感』できたのだと思う。死の中で、愛を想う。そういう生き方を、貴方達人間は簡単にできてしまう。羨ましいわ」

 

 

彼女はそっと、エリックの頬に手を添えた。

冷たい指先が、血に濡れた肌を撫でる。

 

 

「間近で見せてくれてありがとう。とても貴重だった」

 

 

エリックはその後も何かを言おうとした。

唇が動く。だが、もう声にならなかった。血が喉を塞ぎ、言葉を奪っていく。

 

その瞳は、最期までミーナを見つめていた。恨みも、憎しみもなく。ただ、愛おしそうに。

 

やがて、その目から光が消えた。

 

ソリテールは微笑ましそうに頬を緩めながら、息絶えたエリックの頭を撫でた。

まるで、よく頑張ったと褒めるように。

 

 

「……約束通り、助けてくれるのよね?」

 

 

ミーナが虚ろな目でソリテールを見上げる。

その声は平坦で、感情が抜け落ちていた。

精神が崩壊しかけているのか、その表情には奇妙な笑みが張り付いている。

口角だけが引きつるように上がった、壊れた人形のような笑み。

 

 

「ええ、もちろん。私は嘘つきな魔族だけど、愛情というものには誠実でありたいの」

 

 

ソリテールは穏やかに頷き、ミーナの頭に手を置いた。

血に濡れた栗色の髪を、優しく梳く。

 

 

「最後に、一つだけ質問させて。……貴女、これからどうやって生きていくつもり?」

 

「え……?」

 

「愛する人を自分の手で殺して、その肉の感触を手に残したまま。貴女のこれからの人生は、きっと地獄より苦しいはず。それでも生きたいの?」

 

 

ソリテールの問いは、純粋な疑問だった。

責めているのではない。嘲っているのでもない。彼女には本当に理解できないのだ。

罪悪感という猛毒を抱えてまで、生に執着する人間の業が。

 

 

「あ……ああ……」

 

 

ミーナの目から、再び光が消えていく。

自分が何をしたのか。その現実が、遅れて津波のように押し寄せてくる。

 

 

指に残る、ナイフを握った感触。

肉を裂いた時の、ずぶりという抵抗。

飛び散った血の、温かさ。 そして、最期まで自分を見つめていた、彼の目。

 

 

「助けて……殺して……殺してぇぇぇぇ!」

 

 

ミーナは絶叫し、自らの喉にナイフを突き立てようとした。

だが、またしてもソリテールがそれを止める。

見えない力がミーナの腕を押さえつけ、刃は喉元数センチで静止した。

 

 

「貴女の死に際の言葉を聞かせて。恐怖でも、後悔でも、呪詛でもいいわ。貴女の魂が最期に奏でる音色を、私が聞いてあげる」

 

 

ソリテールは右手を掲げた。 無数の魔力の刃が空中に形成される。

鋭利な輝きが、乳白色の光を受けて煌めいた。

 

 

「いや……いやぁ……」

 

「教えて。貴女にとって、愛って、何だったの?」

 

「私の、全て――」

 

 

シュッ。

 

 

無数の刃がミーナに殺到した。

彼女の身体は細切れになり、肉片となって飛び散った。

 

 

静寂が戻る。

 

 

白かった部屋は、今や赤黒い地獄絵図と化していた。

肉片、臓物、砕けた骨、そして大量の血液。

鉄錆のような生臭い匂いが充満し、息を吸うだけで吐き気を催すほどだった。

 

 

純白の壁は、もはや見る影もない。

飛び散った血と肉片が、抽象画のような模様を描いている。

床は血の海と化し、足を踏み出すたびにぴちゃりと音を立てる。

 

 

その中心で、一滴の血も浴びていないソリテールが、血溜まりに沈む死体を見下ろしていた。

 

 

彼女はゆっくりと歩を進め、最初の死体――スルタンの下半身だけが残された遺骸に近づく。

上半身がない断面は、既に血が固まり始め、黒ずんだ色を見せていた。

 

 

次に、トマスとエルザの元へ。

転がった二つの首を、彼女はそっと手に取り、胴体の傍に並べた。 恐怖に見開かれたままの目を、一人ずつ、指先で閉ざしていく。

 

 

コニーが立っていた場所には、焦げた跡しか残っていなかった。

ソリテールはその場にしゃがみ込み、くすぶる布切れを指で摘み上げ、しばし眺めた後、そっと床に戻した。

 

そして、エリックとミーナの元へ。

胸にナイフが刺さったままのエリックと、細切れになったミーナの肉片。

ソリテールはエリックの傍らに膝をつき、彼の目を閉じてやった。 最期まで恋人を見つめていた、その目を。

 

「えぇ、そうね。愛する存在が死んだ後、残された長い時をどう生きるか……それを考えるだけで苦しいわ」

 

 

誰に言うでもなく、呟く。

その声は、どこか遠くを見つめるような響きがあった。

 

 

「その苦悩、苦痛、息苦しさに、私はとても『共感』できた」

 

 

立ち上がり、部屋全体を見渡す。

 

 

「そして愛する存在が窮地に瀕した時の反逆的精神の在り方。自身の命と愛する存在の命を天秤に掛けた時、絶対的存在に刃を向け反逆する」

 

 

彼女の翠色の髪が、かすかに揺れた。

窓のない部屋に、風など吹くはずもないのに。

 

 

「その不条理に抗う姿を私は忘れない。私も愛する人間がいるもの。その選択、その姿、その精神、その愛に、私は『共感』し、『敬意』を払うわ」

 

 

言葉を紡ぎ終え、彼女は小さく息を吐いた。

 

 

「おつかれさま。これで実験は終了したわ。――フルーフ、起こしてあげて」

 

 

ソリテールは虚空に向かって声をかけた。

 

 

すると、部屋の奥の壁が音もなくスライドし、そこから一人の女性が姿を現した。

 

 

清掃員の制服に身を包んだフルーフが、大きなカートを押しながら歩いてくる。

 

 

「お疲れ様です、ソリテール様」

 

 

フルーフは淡々と言いながら、惨状を見渡した。

その目に動揺の色はない。この手の光景には、とうの昔に慣れきっている。

 

 

「それでは、蘇生した後、古い死体のほうは回収していきますね」

 

「お願い」

 

 

それだけのやり取りで、フルーフは作業に取り掛かった。

 

 

まず、散らばった遺体から指を数本ずつ切り取っていく。

ナイフを手に、まるで野菜を刻むかのような手際の良さで。

切り取られた指は、地面に整然と並べられていった。

 

 

スルタンの指。トマスの指。エルザの指。コニーの肉片。エリックの指。そして、ミーナの肉片。

 

全てが揃うと、フルーフは最初の指――スルタンのものに触れた。

 

彼女の掌が淡い光を放った瞬間、指の断面からボコボコと泡立ち始めた。

肉が盛り上がり、骨が伸び、皮膚が形成されていく。

指から腕が、腕から胴体が、胴体から頭部が。

 

 

数秒後、そこには無傷のスルタンの遺体が横たわっていた。

傷一つない、眠っているかのような姿。

 

 

フルーフは手を止めることなく、次々と作業を進めていく。

 

 

トマス、エルザ、コニー、エリック、ミーナ。

気づけば、六体の新しい遺体が完成していった。

 

そうして、古い遺体から魂を引きずり出し、新しい身体へと投げ込み定着させる。

一人あたり数秒。あっさりと、流れ作業のように、全員を蘇生させた。

 

 

古い遺体――肉片と血と臓物の塊は、フルーフがカートに積み込んで片付けていく。

手際よく、淡々と。まるでゴミを片付けるかのように。

 

 

「では、処理してきますね。指輪や装飾品を取り外して……洗浄も行いますので、部屋の処理だけお願いします」

 

 

カートを押して奥へ消えていくフルーフ。

その間に、ソリテールは部屋の清掃に取り掛かった。

 

 

彼女が片手を掲げると、床に広がる血の海がざわめき始めた。

まるで意志を持った生き物のように、赤い液体が集まり、流れを作る。

壁にこびりついた飛沫も、重力に逆らって剥がれ落ち、血の流れに合流していく。

 

 

部屋の隅にある排水溝へ向かって、血液が滝のように流れ込んでいった。

ごぽごぽという音が響き、やがて静かになる。

 

 

数分後、部屋は元の純白を取り戻していた。 あれだけの惨状があったにも関わらず、今は染み一つ残っていない。

 

 

フルーフが戻ってきた。

手には、人数分の入院着が抱えられている。

 

 

「記憶の処理をします。最近コツが掴めてきたので、十分前後の記憶は丸々消せるはずです」

 

「私もやってもいい?」

 

 

ソリテールが手を挙げる。

まるで授業中に発言したがる生徒のような仕草だった。

 

 

「ソリテール様」

 

 

フルーフは呆れたような、しかしどこか慈愛を含んだ目で彼女を見た。

 

 

「前回やった時は五年分消し飛ばしましたよね。精神魔法だけは、私の方がマシなので任せてください。罪人相手にならいくらでも試して頂いても構いませんので」

 

「仕方ないわね」

 

 

ソリテールは肩を竦めた。

 

 

「人間の精神は繊細で弄るのはとても難しいわ。魔族の私には上手く力加減が出来ないの」

 

「魔族なのに人間の精神に干渉出来る、というだけで既に異常ですけどね。今でも十分過ぎる程に凄いですよ。私のなんて経験の蓄積による山勘でしかないんです。イメージとかほとんど伴ってないですし」

 

 

フルーフは謙遜しながら、眠る人々の傍に膝をついた。

 

一人目、スルタンの額に手をかざす。

微かに眉間が動いたが、すぐに穏やかな表情に戻る。

 

同じ作業を、全員に施していく。

トマス、エルザ、コニー、エリック、ミーナ。 一人一人、慎重に。

 

 

「終わりました」

 

 

フルーフが立ち上がる。

 

 

「では、上に運びましょうか」

 

 

二人は手分けして、眠る人々を運び始めた。

フルーフが数人を背負い、ソリテールが残りを魔法で浮かせる。

 

 

階段を上り、廊下を進み、やがて応接間に辿り着いた。

柔らかなカーペットが敷かれ、暖かな色調の壁紙に包まれた、居心地の良い空間。

先程の地下室とは、あまりにも対照的だった。

 

 

六人を丁寧にカーペットの上に横たわらせ、入院着に着替えさせる。

ソリテールとフルーフは、そのままソファーに腰を下ろし、蘇生した人々が目覚めるのを待っていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「ん……ぁ……」

 

 

最初に意識を取り戻したのは、家族連れの父親、トマスだった。

 

 

重いまぶたを持ち上げると、視界に入ってきたのは温かみのある壁紙だった。

先程の殺伐とした白い部屋ではない。柔らかな光が満ち、どこか清潔で静謐な空気が漂っている。

 

 

「気がつきましたか?」

 

 

穏やかな声に顔を向けると、そこには仕立ての良い服を纏った女性――フルーフが立っていた。

先程までの清掃員のような姿ではなく、その顔にはニコニコとした笑みを浮かべている。

 

 

「こ、ここは……? 俺たちは一体……」

 

 

トマスが上半身を起こすと、周囲でもエリックやミーナ、そしてスルタンといった面々が次々と呻き声を上げて起き上がりつつあった。

皆、一様に頭を押さえ、狐につままれたような顔をしている。

 

 

「実験は無事に終了しましたよ。皆さん、本当に素晴らしい結果でした」

 

 

フルーフはパチパチと小さく拍手をしながら、彼らを見渡した。

 

 

「実験……? 終わったのか?」

 

 

スルタンが眉間を揉みながら唸る。

彼の記憶は、あの魔族の女――ソリテールが現れたところで途切れている。

 

 

その直後、自分が出口へ向かおうとしたこと、そして身体が弾け飛んだことなど、微塵も覚えていない。

ただ、深い霧の中を彷徨っていたような、ぼんやりとした疲労感だけが残っていた。

 

 

「ええ。精神感応系の魔法実験でしたから、一時的な記憶の混濁や欠落は想定内です。むしろ、それこそが実験が成功した証拠なんですよ」

 

 

フルーフは詐欺師のように淀みなく嘘を並べる。

その言葉には一片の曇りもなく、事務的で、それでいて相手を安心させる響きがあった。

 

 

「成功……したのですね?」

 

 

ミーナがおそるおそる尋ねる。

彼女は隣にいるエリックの腕を無意識に強く掴んでいた。

自分が彼を刺し殺したことなど、露ほども知らずに。

 

 

エリックもまた、愛おしそうに彼女の肩を抱いている。

胸を何度も刺された痛みも、最期の瞬間に恋人を見つめた記憶も、全て消え去っていた。

 

 

「はい、大成功です。皆さんの精神は非常に強靭で、かつ柔軟でした。おかげで私達は貴重な知見を得ることができました」

 

 

そこへ、部屋の奥からソリテールが歩み寄ってきた。

 

「ありがとう。貴方たちのおかげで、私は以前よりも、少しだけ多くのことを知ることができたわ」

 

 

ソリテールはコニーの傍に歩み寄り、その頭をそっと撫でた。

つい先程、木っ端微塵にした少女の髪を、愛おしそうに梳く。

 

 

「あ、ありがとうございます……?」

 

 

コニーは照れくさそうに笑った。

自分が殺された相手に撫でられているとは夢にも思わず、綺麗なお姉さんに褒められたことを純粋に喜んでいる。

 

 

「さて、それでは報酬のお渡しですね」

 

 

フルーフが合図をすると、壁の一部がスライドし、カートに乗せられた革袋が運ばれてきた。

ジャラリ、と重厚な音が響く。

 

 

「約束通り、お一人につき金貨二十枚です」

 

 

フルーフが、ずしりとした重みのある革袋を、一人一人に手渡していく。

 

 

袋の紐を解けば、中には眩いばかりの黄金が詰まっていた。

シュトラール金貨二十枚。一生遊んで暮らせるほどではないが、人生をやり直すには十分すぎる大金だ。

 

 

「す、すげぇ……本当に……」

 

 

スルタンの手が震える。

傭兵として泥水をすするような生活をしてきた彼にとって、これは夢のような金額だった。

 

 

トマスとエルザも、涙ぐみながら手を取り合っている。

これでようやく、娘に人並みの生活をさせてやれる。コニーは両親の喜ぶ顔を見て、自分も嬉しそうに笑っていた。

 

だが、フルーフの言葉はそこで終わらなかった。

 

 

「それと、こちらはソリテール様からの特別ボーナスです」

 

 

彼女はさらに二つの小袋を取り出し、トマス一家と、エリック・ミーナのカップルにそれぞれ差し出した。

 

 

「えっ? これは……」

 

「今回の実験で、特に貴方たちの貢献度が高いとソリテール様が評価を下しましたので。その感謝の印として、追加でライヒ金貨二十枚ずつをお渡しします」

 

「に、二十枚も!?しかもライヒ金貨ですか……。言うまでもないでしょうが、シュトラール金貨の大凡1.5倍以上の価値がありますよ?本当にいいんですか……?」

 

 

エリックが裏返った声を出す。

基本報酬と合わせれば四十枚。二人の結婚資金どころか、土地を買い、家を建てて店を開いてもお釣りが来る。

 

 

「それだけの価値があったと、私は判断しているわ」

 

 

ソリテールが口を挟む。

その瞳は、彼らが極限状態で互いを想い合ったあの瞬間を思い出しているのだろう。僅かに細められていた。

 

「人間社会で生きる以上、感謝は金銭で示すべきでしょう。私は魔族だけど、社会性はあるのよ」

 

「スルタンさんには、今回は基本報酬のみとなります。実験への参加姿勢が少し……消極的でしたので」

 

 

フルーフが申し訳なさそうにスルタンに向き直る。

実際には「真っ先に逃げようとして殺された」だけなのだが、スルタンの記憶の中では「ただ突っ立っていただけ」のように変換されているのかもしれない。

あるいは、何も覚えていないが故に反論できない。

 

 

「あ、ああ……まあ、いいさ。これだけありゃ十分すぎる。文句はねぇよ」

 

 

スルタンは袋を懐にしまい込み、満足げに頷いた。

これ以上を望んで藪蛇をつつくような真似はしない。彼は生き汚く、そして賢い男だった。

 

 

「それで、ここからが本題なのですが」

 

 

フルーフは居住まいを正し、全員の顔を見渡した。

 

 

「実験の影響で、後から体調に変化が出る可能性があります。念のため、一ヶ月ほど街の療養施設に入院していただけませんか?」

 

「に、入院ですか? 俺たちは元気ですが……」

 

 

トマスが自身の体を見回す。

どこも痛くないし、むしろ以前より調子が良い気さえする。

 

 

「あくまで念のためです。もちろん、強制ではありません。ですが、入院中の費用は全てこちらで持ちますし、休業補償として一日につき銀貨三枚の手当も支給します。食事も三食ご用意しますよ」

 

 

「銀貨三枚!?」 「食事付きで……!」

 

 

どよめきが起こる。

ただ寝ているだけで金が貰える。しかも高額だ。断る理由がどこにもない。

 

 

「それに……もしこの街、シンビオシスを気に入っていただけたなら、そのまま住民として定住していただくことも可能です。住居の手配や仕事の斡旋も、領主であるソリテール様の権限で優遇させていただきます」

 

「ええ、歓迎するわ」

 

 

ソリテールが優雅に両手を広げた。

 

 

「俺たち、ここに住んでもいいのか……?」

 

 

トマスが夢を見るように呟く。

戦火を逃れ、職もなく、明日の食事にも困っていた難民一家にとって、それは天から降ってきた黄金の梯子のように思えた。

 

 

「ああ、もちろんですとも! ぜひ、住まわせてください!」

 

 

エルザが勢いよく頭を下げる。

その横で、コニーも真似をして小さく頭を下げた。

 

 

「俺たちも……結婚して、ここで暮らしたいです!」

 

 

ミーナがエリックの手を握りしめ、涙ながらに訴える。

エリックも強く頷き、彼女の手を握り返した。

揃いの銀の指輪が、温かな光を反射してきらめいている。

 

 

「俺もだ。こんな景気のいい街、他にはねぇからな」

 

 

スルタンもにやりと笑った。

 

 

「ふふ、決まりね。ようこそ、シンビオシスへ」

 

 

ソリテールは彼らを見渡し、穏やかに頷いた。

 

 

「では、係の者が案内します。ゆっくり休んでくださいね」

 

 

フルーフが扉を開けると、にこやかな笑顔を浮かべた職員たちが待機していた。

参加者たちは口々に感謝の言葉を述べながら、部屋を後にしていく。

 

 

「ありがとうございました! 領主様!」

 

「本当に、なんてお礼を言ったらいいか……!」

 

「お姉ちゃん、バイバイ!」

 

 

コニーが小さく手を振る。

ソリテールもまた、小さく手を振り返した。

 

 

「……また、お話しましょう」

 

 

扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

やがてそれも聞こえなくなり、再び静寂が戻った応接間で、ソリテールとフルーフは顔を見合わせた。

 

 

「ボーナスを出すだなんて、初めてですね。心境の変化でもありましたか?」

 

「そうね」

 

 

ソリテールは窓辺に歩み寄り、外の景色を眺めた。

夕暮れの街並みが、茜色の光に染まっている。

 

 

「本質的には何も変わっていないと、言えるかもしれないけれど。私はあえて変わったと、言っておくわ。魔族として何も変わらないけど、確かに私は変わり続けている。気づけなかったことにも気づき始めるようにもなったの」

 

 

振り返り、フルーフを見つめる。

 

 

「敬意を示してみたくなった。使わない金銭なんていくらでもあげるわ、ただの純金に興味なんてないから」

 

「……そうですか」

 

 

フルーフは静かに頷いた。

 

 

「また募集しますか?」

 

「いえ。今は、彼らの様子を見守るわ」

 

 

ソリテールはソファに腰を下ろし、足を組んだ。

 

 

「極限状態の彼らを見た。なら、穏やかな恵まれた幸福の中で彼らが、どのような姿を観せて、思考するのかに興味があるの。人類の愛に満ちた平穏で穏やかな日常、魔族とは到底相容れない世界。私はそんな中でも、言葉を交わし、その愛と感情に共感を示せるのか……」

 

「わかりました。それならそれで、私は何も言いません」

 

 

フルーフもソファに座り、ソリテールの隣に身を寄せた。

 

 

「うっかり殺してしまったら、また呼ぶわ」

 

「成る程。やっぱり根本は魔族ですね、ソリテール様」

 

「えぇ――最初から、そう言ってるわ」

 

 

ソリテールは目を伏せ、小さく笑った。

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