ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第32話▶グラナト伯爵領▶城内

 

 

 

――勇者ヒンメルの死から28年後。北側諸国グラナト伯爵領。

 

 

グラナト領に攻め入る魔族の軍勢を勇者一行が退けてから、およそ80年。

 

 

勇者ヒンメルが老衰によりこの世を去るのを見計らったかのように、魔族による侵攻は再開された。

以来28年。終わりの見えない戦いが続いていた。

 

しかしその戦いも、魔族側からの和睦の申し出により、間もなく終結を迎えようとしていた。

 

魔族をよく知る者であれば鼻で笑うような話だ。

だが、当事者である領内の人間たちは違った。終戦ムードが街を覆い、住民たちは招き入れた魔族を恐れながらも、長きにわたる争いが終わることに安堵の息を漏らしている。

 

誰も理解していなかった。

 

大魔法使いフランメが生前に施した大結界――その内側に魔族を招き入れることが、どれほど恐ろしいことなのかを。

 

 

城内、客室エリア。

 

和睦の使者として招かれた魔族たちが滞在する一帯は、他の区画とは明らかに空気が違っていた。

 

廊下を歩く使用人たちの表情は暗く、魔族の世話を命じられた者たちは常にびくびくと怯えている。

石壁に反響する足音すら、どこか萎縮しているように聞こえた。

 

そんな中を、一人のメイドが歩いていく。

 

紫がかった髪はフワフワと広がり、肩を覆い隠すほどの毛量だ。

分厚い瓶底眼鏡が目元を完全に隠し、どこを見ているのかすら判然としない。

野暮ったいという言葉がそのまま人の形を取ったような、芋っぽい風貌の女だった。

 

彼女の名はウーラ。

 

二年ほど前、北側諸国の要塞都市フォーリヒを治めるオルデン卿の紹介でグラナト城に雇われた使用人である。

現在は魔族が滞在する区画を担当する班のリーダーを務めていた。

 

 

「も、申し訳ありません……ウーラさん」

 

 

背後から、おずおずとした声が追いかけてくる。

 

振り返ると、頼りなさそうな新人メイドがペコペコと頭を下げていた。

顔面は蒼白で、今にも泣き出しそうな表情をしている。

 

 

「今日は私が給仕を務める日なのに、代わっていただいて……」

 

「別に気にしなくていいわ」

 

ウーラは歩調を緩めることなく、淡々と応じた。

 

「私が好きでやっていることだし。魔族自体、見慣れているしね」

 

給仕台に載せられた茶と菓子を一瞥し、盛り付けと温度を確認する。問題はない。

 

「流石はウーラさん!旦那様と揃って、本当に逞しい。雑用や面倒事なら、いつでもお任せください!」

 

 

新人メイドは瞳を輝かせていた。たとえ相手が魔族であろうと一切臆さない先輩の姿に、心底感服しているらしい。同じ城で執事を務めるウーラの夫とセットで褒め称える声には、純粋な敬意が滲んでいた。

 

 

「……それ、褒めているの?」

 

 

女に「逞しい」は褒め言葉なのだろうか。

ウーラは眉をひそめたが、新人の「もちろんです!」という力強い返事に押し切られた。

 

ストレスの元凶から解放されたことがよほど嬉しいのか、新人メイドは片手をぶんぶんと振りながら去っていく。その背中が廊下の角に消えるまで、ウーラは無言で見送った。

 

再び、静寂が廊下を支配する。

 

ウーラは給仕台を押しながら、清潔感の漂う石畳の廊下を進んでいった。

 

やがて、目的の客室に辿り着く。

 

重厚な木製の扉。

その向こうに、化け物どもが待っている。

 

 

コンコンコン。

 

三度、ノックを打つ。

 

 

「リュグナー様。お食事をお持ちしました」

 

 

数秒の沈黙。

 

やがて、柔らかく、それでいて低い声が返ってきた。

 

 

「どうぞ、お入りください」

 

 

ウーラは静かにドアノブを回し、扉を押し開けた。

 

途端に、空気が変わった。

 

肺を圧迫するような、濃密な魔力。

部屋に一歩踏み入れただけで、肌がぴりぴりと粟立つ。

 

――化け物の巣だ。

 

部屋の中には、四体の魔族がいた。

 

中央の長椅子に腰掛けているのは、貴族然とした優男。

使者たちのまとめ役であろう魔族、リュグナー。

 

その対面には、指先で糸を弄ぶ若い魔族。

寡黙に錫杖を抱えた魔族。

そして、目を布で覆い、腰に刀を佩いた女の魔族。

 

四体とも、人間の姿を模してはいる。

しかしその本質は、どこまでいっても人を喰らう化け物だ。

 

部屋を満たす魔力の圧は、まるで自らの力を誇示しているかのようだった。

一級認定の魔法使いでも派遣されなければ対処できないだろう。そんな怪物が、優雅に椅子に収まっている。

ウーラは表情を殺したまま、給仕台を押して部屋の中へと進んだ。

 

何度目かの給仕だ。手順は身体に染みついている。

 

黙々と菓子を並べ、カップを配置していく。

指先は淀みなく動き、所作には一切の乱れがなかった。

 

リュグナーがカップを手に取り、軽く掲げた。

 

ウーラが静かに紅茶を注ぐ。

温かい液体がカップを満たしていく音だけが、沈黙の中に響いていた。

 

 

「君は……確か前回、その前も世話になったね」

 

紅茶を注ぎ終えたところで、リュグナーが口を開いた。

 

「名前は……そう、ウーラだったか」

 

「はい」

 

ウーラは給仕台の傍らで足を止め、メイドの作法に則った礼をした。

 

「使者の皆様がご利用になられる区画一帯を担当する使用人の管理を、伯爵様より命じられましたウーラと申します。名前をお覚えいただき、恐悦至極にございます」

 

「ふむ」

 

リュグナーはカップを傾けながら、ウーラを眺めた。

品定めするような視線。獲物を値踏みする肉食獣の目だ。

 

「君は魔法使いだろう?人間にしては中々の魔力量だ……数十年は魔力鍛錬を積んだ痕跡がうかがえる」

 

 

その一言を皮切りに、部屋の空気が変わった。

 

四体の魔族から、観察するような不躾な視線が一人のメイドへと突き刺さる。

特に若い魔族からは、探るような魔力の波動がびりびりと飛んできていた。魔力探知だ。隠す気もない、露骨な挑発。

 

ウーラは居心地悪そうに眼鏡の位置を直した。

照明の光が分厚いレンズに反射し、白く濁る。

 

左右に広がる毛量と相まって、どのような表情をしているのかは伺い知れない。

 

 

「そのような大それたものではございません」

 

声は平坦だった。

 

「あくまで趣味の範疇……いくつか民間魔法が使えるだけの、ただの人間で――

 

言葉が途切れた。

 

ウーラの両手が、突然自らの首元に伸びる。

 

「――ッ!?」

 

 

喉を掻きむしるような動き。口が開閉するが、声にならない。

乾いた嗚咽だけが漏れ、呼吸ができていないことは明らかだった。

 

彼女の首には、肉眼では捉えられないほどの極細の糸が絡みついていた。

 

透明に近いその糸が、白い首筋に深く食い込んでいく。

皮膚が裂け、赤い線が浮かび上がる。さらに締め上げれば、首ごと切断されるだろう。

 

 

「……リュグナー様」

 

 

糸を操っているのは、若い魔族だった。

指先を僅かに動かしながら、悶え苦しむウーラを愉しげに見下ろしている。

 

 

「こいつ、魔力探知に気づいていました。殺したほうがいいのでは?」

 

 

上司に許可を求める声には、すでに殺意が滲んでいた。

獲物を前にした獣が、鎖を外してほしいと懇願しているようなものだ。

 

リュグナーは眉をひそめた。

 

 

「やめろ、ドラート」

 

声には苛立ちが混じっていた。

 

「あのような露骨な挑発、魔力を扱う者であれば誰でも気づく。余計な真似をするな」

 

「……チッ」

 

 

舌打ちが響く。

 

若い魔族――ドラートは、明らかに不満そうな顔をしていた。

納得などしていない。それでも上司の命令には逆らえないのか、渋々といった様子で指を緩めた。

 

シュルリ、と音を立てて糸が解ける。

 

肉に食い込んでいた凶器が、跡形もなく消えていく。

 

 

「――ゴホッ!ゴホ……ッ」

 

解放されたウーラは、激しく咳き込んだ。膝に手をつき、肩を上下させながら呼吸を繰り返す。

 

「……命拾いしたな」

 

 

ドラートが吐き捨てるように言った。

その声には、獲物を逃した苛立ちが隠しきれずに滲んでいた。

 

「悪いね、ウーラ嬢」

 

リュグナーは脚を組み直し、紅茶を一口含んだ。

 

「こいつは我々の中でもかなり若い方でね。血の気を抑えられないんだ。許してくれるかい?」

 

 

言葉の上では謝罪の形を取っている。

 

だが、人間を見下ろすその視線には、謝意の欠片も宿っていなかった。

虫を踏み潰しかけた程度の、些事への言い訳に過ぎない。

 

 

「ふぅ……」

 

ウーラは深く息を吐き、ゆっくりと姿勢を正した。

 

「いえ。リュグナー様の一声がなければ、私は死んでおりました」

 

 

首筋に手を当てる。

赤い線が薄く残っているが、出血はすでに止まっているようだった。

 

 

「感謝を述べるべきは、私のほうでございます。命をお救いいただき、ありがとうございます、リュグナー様」

 

 

不自然なほどに、へりくだった態度。

リュグナーの目が細くなった。

 

奇妙だ。

 

白く曇った眼鏡の奥は伺い知れないが、目の前のメイドからは一切の恐怖が感じ取れない。

今しがた命を奪われかけたというのに、心拍すら乱れていないように見える。

 

警戒心が、一気に跳ね上がる。

 

リュグナーはカップを置き、ウーラを隅々まで観察した。

分厚い眼鏡、野暮ったい髪型、使用人の制服。どこから見てもただのメイドだ。

魔力量も、確かに人間としては多いが、脅威になるほどではない。

 

――だが、何かがおかしい。

 

その違和感の正体を掴めないまま、リュグナーは思考を切り替えた。

 

 

「……いや、悪いのはこちらのほうだ」

 

カップを再び手に取り、穏やかな声色を作る。

 

「謝罪の代わりに、君の魔法を見てあげよう。人間が魔族の助言を得られる機会など、そうそうない。魔法使いにとっては千金に値することを約束しよう」

 

 

グラナト伯爵との外交交渉では、常識的な振る舞いを徹底していたはずだった。

だが、魔法の話になった途端に、隠し切れない傲慢が顔を覗かせる。魔族がどれほど人間を見下しているのか、その言葉の端々から滲み出ていた。

 

種の根幹に根付いた、魔法への絶対的な自信。それを前にして、ウーラは静かに頭を下げた。

 

 

「それは……身に余る光栄でございます」

 

一拍、間を置く。

 

「しかし……私に使えるのは『指に火を灯す魔法』程度の、取るに足らないものだけです」

 

「魔法そのものに貴賤はない」

 

 

リュグナーは優しげに微笑んだ。

だが、その目は笑っていなかった。塵芥を見るような冷たい光が、奥底に潜んでいる。

 

 

「見せてくれるかな?」

 

「畏まりました」

 

ウーラは静かに人差し指を立てた。

 

「では……『指に火を灯す魔法』」

 

 

指先に、小さな炎が灯る。

 

揺らぎ、ちらつき、今にも消えそうな不安定な火だった。

子供が初めて魔法を覚えた時のような、拙い光。

 

 

「はは……なるほど」

 

 

リュグナーは安心させるように笑った。

 

だが、その目は一切笑っていなかった。冷ややかな視線。

期待を裏切られた、というよりも、最初から何も期待していなかったという顔だ。

 

 

「ふッ……」

 

若い魔族に至っては、隠そうともせずに鼻で笑っていた。

 

「少し調整すれば、かなり安定すると思うよ」

 

リュグナーは紅茶を傾けながら、余裕たっぷりに講釈を垂れ始めた。

 

「危険性を考慮して、指向性と魔力出力を極端に抑えているね。恐れずに、少しずつ出力を上げていけば安定するはずだ」

 

 

まるで教師が生徒に教えるような口ぶり。

 

だが、その助言には致命的な欠陥があった。魔族が当たり前のように制御する「出力」や「指向性」という概念は、一般の人間にとっての当たり前ではない。

数年の鍛錬を積んだ魔法使いですら、そう簡単に扱えるものではないのだ。

 

リュグナーは、その事実を完全に失念していた。

 

 

「……えっと」

 

ウーラは首を傾げた。

 

「こう、かしら」

 

指先に、魔力を流し込む。

 

「――熱ッ!?」

 

 

悲鳴が上がった。

 

不安定だった炎が、一瞬にして膨れ上がる。

火柱がビームのように真横へ伸び、丁度座っていたドラートの顔面を掠めた。

 

前髪が焼ける。

 

炎は髪に燃え移り、瞬く間に広がっていく。

ドラートは咄嗟に指から糸を放ち、燃え盛る前髪を根元から切り落とした。焦げた髪が床に落ち、焼け焦げた臭いが部屋に充満する。

 

 

「申し訳ありません」

 

ウーラは平坦な声で謝罪した。

 

「どうやら私には、魔族の方々のような魔法に対する優れた才能はないようです」

 

 

その言葉は、ドラートの方を向いて発せられた。

声に感情は籠もっておらず、表情も全く動いていない。

 

 

「――この……ッ!」

 

 

ドラートの顔が、怒りで歪んだ。

 

指先から糸が伸びる。今度こそ殺す。

その殺意は隠しようもなく、部屋の空気を凍りつかせた。

 

 

「落ち着け、ドラート」

 

リュグナーの声が、鋭く制止する。

 

「これはこの人間の不才を想定していなかった、私のミスだ」

 

「リュグナー様」

 

ドラートは食い下がった。指先の糸は、解く気配がない。

 

「人間が一人消えたところで、問題なんて起きないでしょう」

 

 

沈黙が落ちる。

 

控えていた二体の魔族――錫杖を持つ者と、目を布で覆った女は、関与する素振りを一切見せなかった。

壁際に佇んだまま、事態を静観している。

 

リュグナーは思案した。

 

若い魔族の暴走は面倒だ。だが、大詰めで癇癪を起こされるくらいなら、ここで一人殺させて息抜きさせておくのも手かもしれない。

 

殺すか、殺さないか。

 

天秤が、殺す方へと傾きかけた。

 

 

「いいだろう。だが、血は流すな、処理が面倒――」

 

許可の言葉が、唇から零れかける。

その時だった。

 

 

コンコンコン。

 

静かなノックが、三度響いた。

 

リュグナーの言葉が止まる。天秤が、瞬時に反対側へと傾いた。

 

 

「……ドラート、魔法を消せ」

 

「ですが――」

 

「黙らなければ、私が貴様を殺す」

 

 

声に、有無を言わせぬ凄みが宿っていた。

 

ドラートは唇を噛み締め、渋々と指を下ろした。

糸が霧散し、殺気が薄れていく。

 

 

「……クソッ」

 

吐き捨てるように、ドラートはウーラを睨みつけた。

 

「おい、女。精々夜道に気をつけて、怯えて過ごすんだな」

 

「……ご忠告、感謝いたします」

 

 

ウーラは無表情のまま、小さく頭を下げた。

その唇が、かすかに動く。

 

――この、くそ餓鬼共。

 

声にはならなかった。

誰の耳にも届くことなく、言葉は消えていく。

 

 

「リュグナー様。執事のヘルトでございます」

 

扉の向こうから、低い男の声が聞こえてきた。

 

「本日の給仕担当が戻っていないようですが……何か粗相がございましたでしょうか?」

 

 

リュグナーは壁に掛けられた時計に目をやった。

 

時間を掛けすぎた。

本来なら、このメイドはとうに部屋を出ている時刻だ。

あまり不審な行動は起こせば、グラナト伯爵に印象づけてきた友好的な姿が、すべて台無しになる。

 

 

「いえ、むしろこちらの無礼を謝罪していたところです」

 

リュグナーは穏やかな声色を作り上げた。

 

「お仲間が心配しているようですね、ウーラ嬢。名残惜しいですが、そろそろお戻りになったほうがよろしいかと」

 

言外に、さっさと失せろ、そう言っていた。

 

「そのようですね」

 

ウーラは給仕台の取っ手を握った。

 

「私も、使用人の身でありながら、魔族の皆様と触れ合えたこの時間を、名残惜しく思います。ですが……そろそろお暇させていただきます」

 

 

皮肉が込められた言葉。

 

だが、リュグナーはもはや反応する気すらないようだった。

扉の方から視線を外さず、早く消えろと無言で促している。

 

ウーラは給仕台を引きながら、扉へと向かった。

 

廊下には、ちょび髭が特徴的な大柄な執事が立っていた。ウーラの夫、ヘルトだ。

ヘルトは部屋の中の魔族たちに一礼すると、給仕台を廊下へと引き出し、ウーラに退室を促した。

 

ウーラもそれに倣い、一礼する。

 

そして、踵を返す直前。

 

 

「それでは、和睦の使者の皆様方」

 

声が、部屋に響いた。

 

「しがないメイドに対し、楽しいひとときを提供してくださり、感謝いたします」

 

一呼吸。

 

「どうか、皆様を率いる『断頭台のアウラ』様にも、感謝していたとお伝えください」

 

 

断頭台のアウラ。

その名が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 

若い魔族以外の全員の表情が、一斉に強張る。

特にリュグナーは、感情が一周回ったのか、表情そのものが抜け落ちていた。

 

少しずつ閉まっていく扉の隙間から、蒼く暗い瞳がうっすらと覗く。

 

分厚い眼鏡の奥で、何かが笑っているような気配。

 

そして扉は完全に閉じられ、廊下に静寂が戻った。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

廊下に出た瞬間、空気が変わった。

 

客室に満ちていた濃密な魔力の圧が消え、肺が軽くなる。

石壁に反響する二人分の足音だけが、静かな廊下に響いていた。

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

魔族が滞在するエリアには、必要最低限の人員しか配置されていない。

長い廊下を歩き続けても、誰ともすれ違わなかった。

 

 

「ねぇ……ヘルト」

 

ウーラが口を開いた。

 

「どうした。見るからに不機嫌そうだな」

 

「精々二、三百歳の糞餓鬼共に煽られたのよ」

 

声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。

 

「特にあのリュグナーとかいう優男……自分が成熟した魔族とでも言いたげな、あの透かした態度。鳥肌が立つわ」

 

 

ウーラは不機嫌そうに前髪を掻き上げた。

分厚い眼鏡の奥で、眉間に深い皺が刻まれているのが見て取れる。

 

ヘルトは給仕台を押しながら、妻の後を追うように歩を進めた。

 

 

「……首は大丈夫か?」

 

声が低くなる。

 

「演技とはいえ、流石に心配せずにはいられん。向こうは本気で殺す気だったぞ」

 

 

自身の首筋を指でトントンと叩きながら、ウーラの白い首元を見つめる。

先程まで糸が食い込んでいた部位だ。

 

 

「良い演技だったでしょ」

 

ウーラは肩をすくめた。

 

「傷一つないから、心配しなくていいわ」

 

 

首筋を見せるように顎を上げる。

確かに、赤い線は跡形もなく消えていた。

 

 

「……って、一体どこから見てたのよ?」

 

「城壁の監視塔だが」

 

「どんな視力よ」

 

ウーラは呆れたように溜息をついた。

 

「もうここで働き始めて二年以上経つんだから、いい加減そんな人外じみた真似はよしなさい」

 

「そうだな、気をつけよう」

 

「全く、このやり取り今回で何度目よ……」

 

 

先程までの無感情な従者の姿からは程遠い、気安い空気が二人の間に流れる。

夫婦という関係以前に、もっと深い部分で繋がった信頼関係が垣間見える光景だった。

 

だが、次の瞬間。

 

空気が一変した。

 

 

「どちらにせよ、あの魔族は殺すがな」

 

 

ヘルトの声から、一切の温度が消えていた。

 

城に仕えるだけの一介の執事という存在からかけ離れた、底冷えする気迫。

それが、何気ない言葉の端々に滲み出している。

 

あの魔族が誰を指すのかは、言うまでもない。

妻に手を出した糸使いの若い魔族――ドラートのことだ。

 

二人を知らない者が聞けば、ただの執事が何を言っているのかと呆れるだろう。

命を無駄にするなと叱責するか、正気を疑うか。いずれにせよ、命知らずな戯言としか受け取られまい。

 

だが、ウーラは笑っていた。

 

子供みたいにムキになっちゃって。

 

そんな生暖かい視線を向けながら、夫の広い背中をバシバシと叩く。

 

 

「はいはい、愛妻家の旦那様は逞しくて素敵よ。私たちを殺したがってる奴らの巣穴じゃなければ、もっと良かったのだけれどね」

 

「……絞り込めたか?」

 

ヘルトの声が、再び真剣なものに戻る。

 

「確認は取れていないけど、ほぼ確定ね」

 

ウーラは歩調を緩めることなく、淡々と報告を始めた。

 

「貴方の予想通り、『断頭台のアウラ』は本物を誘き寄せるための撒き餌よ。リュグナーは、グラナト領へ攻め入っているところを利用されただけ」

 

「では、黒幕は別にいると」

 

「指揮を取っているのは大魔族の二人」

 

ウーラは指を立てた。

 

「一人は、貴方のストーカーでもある『血塗られた軍神』リヴァーレ」

 

「気色悪いことを言わないでくれ」

 

ヘルトは露骨に顔をしかめた。

 

「もう一人は……やはりグラオザームか?」

 

「ええ。二年も探りを入れたのに、姿一つ見えないけど、間違いないわ」

 

ウーラの声が、僅かに低くなる。

 

「あの魔族の四人組以外にも、魔族が入り込んでいるわ。大方、結界に招き入れる際の一瞬を狙って、紛れ込まれたんでしょうね」

 

「別の魔族の可能性は?」

 

「ないわね」

 

即答だった。

 

「私でも、魂の感知で初めて気づけた程の、大規模で巧妙な隠蔽技術よ。魔力も存在も感知できない魔法……そんな呪いの域に達した精神操作なんて、一人しか知らないわ」

 

「結界の解除に立ち会えていれば、ここまで事が大きくなることもなかったのだがな」

 

ヘルトは苦々しげに呟いた。

 

「仕方ないでしょ。伯爵からの信頼はかなり得られたけど、私たちは所詮このお城に仕える使用人なんだから」

 

ウーラは肩をすくめた。

 

「……だけど、悪いことばかりじゃないわ」

 

「というと?」

 

「この城塞を取り囲むフランメの大結界は、魂を感知するタイプの代物よ。踏み入ることを許さないと同時に……立ち去ることも許さない」

 

「ほう」

 

ヘルトの目が、鋭く光った。

 

「なら、奴らを一網打尽にできるというわけか」

 

「そういうこと」

 

ウーラは薄く笑った。

 

「……これが片付けば、ようやく君の母親に会いに行けるな」

 

「ほんとよ」

 

ウーラの声に、疲労が滲んだ。

 

「未だに、裏切り者だなんだと私を殺そうとする奴なんて、ここにいる奴らくらいじゃないかしら。お母様に迷惑をかけられないから、後顧の憂いは完全に断つつもりでいたけど……まさか十年以上かかるだなんて、想定していなかったわ」

 

「私は君と気ままに暮らせて楽しかったよ」

 

ヘルトは穏やかな声で言った。

 

「普通に稼ぎ、普通に暮らす。誰かの元で働き、安定した生活を送る。……そう悪くないと思えた」

 

「伯爵が善人寄りで良かったわね」

 

「ああ。既に手遅れになった状況で申し訳ないが、伯爵から受けた恩は魔族の首で返すとしよう」

 

ヘルトの声に、静かな決意が宿る。

 

「ウーラ、潜伏している魔族の数はどれほどだ?」

 

「そうね……」

 

ウーラは少し考え込むように、視線を宙に向けた。

 

「魔力値の平均は五十年から百年程度。雑兵を集められるだけ集めた、という感じかしら。数だけはいるわね」

 

「具体的には?」

 

「大体四十から五十、といったところ」

 

 

既に結界内に潜伏した魔族の数が、二桁。

 

グラナト伯爵に報告すれば、虚偽罪で牢にぶち込まれるような数字だ。

だが、ウーラの言葉の端々には確固たる確信が宿っていた。

 

ヘルトは妻の報告を疑うことなく、深く頷いた。

 

 

「住民たちを避難させようにも、信じてもらえなさそうな数だな。証拠がいる」

 

「ええ」

 

「外にはアンデッドの軍勢、内には魔族の軍勢か……」

 

ヘルトは遠い目をした。

 

「何故か懐かしい気分になる」

 

 

まさに逃げ場のない地獄。

 

だが、ヘルトの声には、これから訪れる地獄絵図への怯えなど一切なかった。むしろ、昔を懐かしむような、奇妙な郷愁すら漂っている。

 

 

「幻影の最高峰と戦士の最高峰」

 

ウーラが指を折りながら、敵の戦力を数え上げた。

 

「マハトがいないだけマシだけど、確実に私たちを殺しに来ているわ」

 

 

元七崩賢の一角と、魔族最強の戦士。

魔族図鑑に載るほどの知名度を持つ二体の大魔族だ。

ただの使用人如きでは、相対するどころか逃げ切ることすら不可能だろう。

 

 

「リヴァーレ単体はともかく、二人同時に相手にするのは私でも危険だ」

 

ヘルトは髭を撫でながら、思案顔を浮かべた。

 

「『目』に頼れない状況で、容易に相手取れるほど、甘い敵ではない」

 

 

一瞬、彼の視線が虚空を彷徨った。

何かを見ようとして、見えないものを探しているような仕草。

 

やがて、小さく首を振る。

 

 

「……やはり、状況が違いすぎて何の参考にもならないか」

 

「便利な目が機能していない貴方じゃ、厳しいかしら?」

 

 

口元に掌をかざし、くすくすと夫をからかう。

 

ヘルトは怒るでもなく、自信に満ちた声で応じた。

 

 

「誰に言っている。私こそ人類さ――」

 

「ちょっと」

 

ウーラの肘が、ヘルトの横腹に突き刺さった。

 

「ここはまだ廊下よ。ただの執事が何を口走ろうとしてるの?」

 

「……私は人類最高の執事と言おうとしたんだ」

 

「嘘おっしゃい」

 

 

いかに頑丈そうな体格をしているヘルトも、今の一撃は流石に効いたらしい。

横腹をさすりながら、苦笑を浮かべていた。

 

 

「ねぇ。……ところで、予知の通りならフリーレンたちがここに来るんでしょ?」

 

「……ああ」

 

ヘルトは頷いた。

 

「時期までは正確にはわからない。彼女たちの旅に何かしらの問題が起きない限り、いずれ訪れるはずだ」

 

「大乱戦の予感ね。仮に時期が重なるようなら、速攻で街を出て貰わないと」

 

ウーラは肩をすくめた。

 

「身を守るために、リントヴルムを呼んでおくわ」

 

「ウーラ……」

 

ヘルトの声が、僅かに緊張した。

 

「街ごと破壊する気か?戦力としては申し分ないが、攻撃一つで城が吹き飛ぶぞ」

 

「ただの保険に決まってるでしょ!?」

 

ウーラの蹴りが、ヘルトの脛に叩き込まれた。

 

「その髭、また剃り落とすわよ」

 

「じょ、冗談だ。冗談だから止めてくれ」

 

 

全力で蹴ったにもかかわらず、ヘルトは少し痛がる素振りを見せただけだった。

ウーラはそんなちょび髭男を憎々しげに見つめながら、とある一室の前で足を止めた。

 

扉に掌をかざす。

 

数秒の沈黙。何かを確認しているようだった。

 

やがて、ドアノブを握り、部屋へと入っていく。

 

 

そこは、巨大な鏡が設置された薄暗いドレスルームだった。

 

利用する人間がおらず、埃を被った調度品が並んでいる。

誰からも忘れられた場所。城の片隅に取り残された、時間の止まった空間。

 

ウーラは背伸びをして、壁際のランプに火を灯した。

 

仄かな明かりが部屋を照らし出す。

埃っぽい空気の中に、二人分の影が浮かび上がった。

 

 

「専門外だけど、施した結界はちゃんと機能しているみたいね」

 

ウーラは肩の力を抜き、大きく伸びをした。

 

「ヘルト、少し休みましょう」

 

 

給仕台から水の入ったピッチャーを取り出し、コップに水を注ぐ。

そのままヘルトへと手渡す仕草は、すっかり身体に染みついた自然なものだった。

 

ヘルトはその様子を見て、小さく笑みを浮かべた。

 

 

「ハハ……使用人の礼儀作法が染みついてしまっているな」

 

一拍の間。

 

「――アウラ」

 

名前が、呼ばれた。

 

ウーラではない。別の名前。

 

 

「そういう貴方こそ」

 

水を受け取りながら、ウーラ――いや、アウラは肩をすくめた。

 

「さっさと椅子に座ってくつろげばいいのに、全く座る気配がないわね。私をお姫様扱いでもしてくれているの?」

 

分厚い眼鏡の奥で、蒼い瞳が夫を見上げる。

 

「――ねぇ、南の勇者」

 

南の勇者。

その名を呼ばれた執事――ヘルトは、穏やかに微笑んだ。

 

「君が望むなら、喜んで傅こう」

 

「はぁ」

 

アウラは呆れたように溜息をついた。

 

「鏡を見なさいよ。この見るからにパッとしないメイド姿で、お姫様を気取れるわけないじゃない」

 

 

自分の姿を見下ろす。野暮ったい制服、分厚い眼鏡、肩を覆うほどのモサモサ髪。どこからどう見ても、垢抜けない下働きのメイドだ。

 

 

「そういうのは、全部終わった後にお願いするわ」

 

「そういうことであれば仕方あるまい」

 

南の勇者は、恭しく頭を下げた。

 

「君をエスコートできるその日が、楽しみだ」

 

 

人目を気にする必要がなくなった途端、怒涛のアプローチが飛んでくる。

アウラは呆れ半分、照れ半分でそれを躱しながら、部屋の中央に佇む大きな鏡へと歩み寄った。

 

鏡の前に立つ。

 

そこには、毛量で肩を覆うほどのフワフワ髪を揺らし、分厚い眼鏡をかけたメイドの姿が映っていた。

 

だが、その頭からは――人間ではない証が生えていた。

 

二本の角。

 

魔族を象徴する、立派な角だ。

 

 

隣には、モノクルをつけた執事姿の男が並び立っている。

大柄な体躯に、特徴的なちょび髭。パッと見は、城に仕える一介の執事だ。

 

だが、その目には――人間離れした、深い光が宿っていた。

 

 

アウラは眼鏡を外し、髪を掻き上げた。

 

分厚いレンズの奥に隠されていた瞳が、鏡の中で輝く。

蒼く、深く、どこか褪せた色。五百年以上を生きてきた者だけが持つ、透徹した光だ。

 

 

「……貴方、今思うとその髪型、昔とほぼ同じじゃない」

 

「そうか?」

 

「フリーレンに気づかれるわよ?」

 

「彼女と会話したのは、ほんの数分だ」

 

南の勇者は、髭を撫でながら答えた。

 

「他人に関心のない彼女が、私の顔など覚えているはずがないだろう」

 

「そういうものかしら。……ま、気づかれてどうこうなることでもないわ」

 

 

二人は並んで鏡の前に立った。

 

 

アウラが軽くポーズを取る。

メイド服の裾を摘まみ、小首を傾げてみせる。

南の勇者も、執事らしく背筋を伸ばし、腕を背に沿えた。

 

鏡に映るのは、どこにでもいそうな使用人の夫婦。

 

野暮ったいメイドと、生真面目そうな執事。

 

 

「うん」

 

アウラは満足げに頷いた。

 

「冴えないけど、これはこれで、中々可愛いじゃない。どこから見ても、下働きのメイドよ」

 

「誰が見ても、粗暴な剣士には見えまい」

 

南の勇者も、同じく頷いた。

 

「礼儀が取り柄の、非力な執事にしか見えん」

 

二人は顔を見合わせた。

 

そして、同時に口を開く。

 

 

「「完璧ね(だ)」」

 

 

【挿絵表示】

 

 

声が重なった。

 

鏡の中で、二人は笑っていた。

 

断頭台のアウラと、南の勇者。

 

魔族と人間。

かつて敵対し、今は寄り添う二つの影が、埃っぽいドレスルームの中で静かに並んでいた。

 

なお、当人たちのこの自己評価とは裏腹に。

 

城内の使用人たちの間では、この夫婦は滅茶苦茶目立っていた。

囁かれる噂は枚挙に暇がない。

 

伯爵ですら、一使用人でしかない個人の名前を認知している程度には、目立っていた。

 

完璧な擬態など、最初から存在しなかったのである。










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