ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――グラナト伯爵領。館周辺。
向かってくる風を避ける。
鋭利な刃先が髪を掠め、落ち着いて弾き返す。
フェルンと分かれてから何分経ったかわからない。
厄介な魔法を捌きながら、ひたすら眼の前の敵の隙を伺い続けている。
ヒュン……ヒュッン。
数回、短い風斬り音が鼓膜を叩いた。
その音に合わせて胴体を捻り、斬撃の直線上から身を逸らす。
首筋を掠めた殺気の名残が、冷たい汗となって背中を伝い落ちた。
剣から放たれる不可視の刃。
直感的に、数発程度なら傷を負わず耐えきれる自信はある。
それでも、素直に貰ってやる義理などない。
避ける、弾く、避ける、弾く。
そして観る。
今はまだ攻める時じゃない。
こっちは魔力探知など使えない、身体一つで戦う戦士だ。
この刃の間合いと速度を、己の肉体に叩き込まなければならない。
背後でバサバサと崩れ落ちる音が聞こえた。
植え付けられた木々が横一文字に切断されている。見なくてもわかる。あの不可視の刃だ。
刃が上段から迫り、斧を横に構えて衝撃に備える。
ガツンッ。
金属の重みが全身を貫いた。
遅れて走る激しい衝撃が、斧を握る両腕を痺れさせる。
掌の皮が擦り切れそうな圧力。歯を食いしばって耐える。
「やるな。その辺の脆弱な人間とは違うようだ」
――刀か。
姉ちゃんから各種武器の対応訓練を受けていなかったら、何も理解できずに初手で斬られていただろう。
そう思うと、背筋に遅れて冷たいものが走った。
数分間――もしかしたら数十分かもしれない。
刃を交え続け、相手のことが少しずつ見えてきた。
物理と魔法。隙を生じさせない二段構え。
魔法使いと戦士の中間に位置する戦闘スタイル。
厄介だと思う。
堅実で完成されきった戦い方だ。戦闘経験は俺より遥かに上だろう。
それでも、勝てない相手ではない。
堅実さを優先するあまりに中途半端なのだ。
戦士としては一撃の重みに欠け、かといってフェルンのように遠距離から一方的に魔法で嬲り殺しにくるわけでもない。
接近戦を魔法で補助するタイプ。
ありがたいことに、この手の相手は嫌というほど知っている。
姉ちゃんと同じだ。
しかも俺でも断言できる――明らかな下位互換。
村で暮らしていた頃、最後に見たあの居合と魔法。
あのレベルの攻撃魔法が飛んできていたなら、俺は初撃で即死していたかもしれない。
けれど、こいつは遅い。
まだ俺でも傷を負わずに対応できる。その程度の脅威でしかない。
「斬ると同時に見えない魔法を飛ばすとか……やり口がせこくないか?」
「その割に余裕そうだな。死角の範囲が異常に狭いうえに対応も的確だ……魔力も読めないのによく躱す」
確かにこいつの言う通り、魔力なんて見えないし読めない。
それでも感覚ではわかる。姉ちゃんの指導のおかげだ。姉ちゃんは俺に、魔力を肌で感じ取る術を叩き込んでくれていた。
戦闘の最中だというのに、ふと脳裏を過ぎるものがあった。
あの地獄の特訓。
肉体より精神が先に悲鳴を上げた日々。思い出すだけで胃の辺りが重くなる。
――だが、あれがあったから今の俺がある。
『なぁ、姉ちゃん……俺も魔力を感じとる事できないのか?』
『愚弟、お前に魔法を理解する繊細な脳味噌は無い』
『ひでぇ!? なんとかならないのかよ!』
『戦士なのになんで知りたいの?』
『強い魔族は魔力が強いんだろ……一目で強い奴かどうかわかれば、逃げ遅れることもないじゃんか』
『クソみたいな理由だ。だけど向上心は買う。魔力を見る必要はないよ愚弟、感覚で理解しろ……生物全てに魔力自体は流れている、訓練すれば肌で感じ取る程度はできるようになる』
『まじかよ!』
『それじゃ……魔力の制限と出力全開で繰り返すから肌で覚えろ。間違ったら殴る……これはどっち?』
『む、無理だろそんなの……えっと魔力全開――痛ぇッ!?』
『理解できるまでやるんだよ』
あの後、散々殴られた。
結局、領主様に協力してもらうまで何一つ理解できなかったのだ。
領主様の殺意混じりの全力魔力開放と、何も感じない制限時との落差。
あの時感じた、全身の毛穴が開くような恐怖は今でも鮮明に覚えている。
その後、姉ちゃんに「私の魔力がしょぼいとでも言いたいのか」と蹴り回されたこともあった。
理不尽極まりないが、姉ちゃんに道理を求めても無駄だと当時の俺は既に学習していた。
――回想に浸っている場合じゃない。
眼前の魔族が再び刀を構えている。
姉ちゃんとの訓練で得た感覚を研ぎ澄ませながら、物理と魔法による二連撃を避け、弾き、捌く。
「そこを補う訓練は散々させられてきたんだ。この程度で傷を負ったら、師匠と姉ちゃんに笑われちまう」
「余程優秀な師と窺える。見くびってすまなかったな……詫びとして、私も本気を出そう」
「――ッ!? ぐぅッ!」
重い。そして疾い。
下方からの斜め切り上げ。その一閃を咄嗟に防ぐ。
先程までとは比較にならない圧が、腕を通じて全身に伝播した。
五感の全てが魔力の唸りを感じ取っている。
魔法ではなく、魔力による膂力の上昇。
込められた魔力量の違いが、戦士と魔法使いの差を一気に埋めてくる。
まだ一撃を受け止めただけだ。ここから更に二撃目が来る。
『
「く――そッ、がはぁッ!?」
強烈な一撃を覚悟していた。
なのに足が地面を離れた。全身に浮遊感が広がる。
吹き飛ばされた。
そう理解した瞬間、背中に激しい衝撃が走った。
木の幹に叩きつけられ、肺の空気が喉から強制的に吐き出される。
「ゴホッ……」
肋骨が軋む。視界の端が白く明滅している。
それでも問題ない。
頑丈さだけが取り柄の身体だ。
この程度で壊れるようなら、とっくに師匠や姉ちゃんに殺されている。
頭が働くより先に身体が動いていた。
木から飛び退く。
直後、ザクッと幹を抉る音が背後で響き、木片が宙に舞った。
身体を半回転させ、今まで自分がいた場所を斧で叩き斬る。
振り返ると、魔族が木に刀を突き立てたところだった。
そのまま勢いを乗せ、全体重を込めて刃を叩きつける。
ガンッ。
巨石が落下したような轟音が辺りに響き渡った。
魔族は膝を着きながらも、全体重を乗せた俺の一撃を受け止めていた。
足元の地面が僅かに陥没している。それでも、肝心の傷は与えられていない。
「なんて馬鹿力だ……本当に人間か? だが大振りが過ぎる……!」
またあの魔法が来る。
押し付けていた斧が、刀の刃先から噴き出す旋風によって打ち上げられた。
まずい。腹部が完全にガラ空きになる。
視界の端で、魔族が刀を構え直すのが見えた。
突きの構えだ。この状態で腹に一撃貰えば、内臓を貫通する。
迎撃は――いや、師匠から教わった技を放つには遅すぎる。
肉体の強度には自信がある。
それでも、お世辞にも俊敏さがあるとは言えない身体だ。
姉ちゃんに出会っていなかったら、耐えるしかなかっただろう。
けれど、いける。姉ちゃんから叩き込まれた教えを、俺の身体は確かに覚えている。
『真面目な太刀筋だ……』
『え、こわ……姉ちゃんが俺のこと褒めてる』
『褒めてない、最強の戦士には程遠い、調子に乗るな。訓練するのはいいけど体の使い方がなってない、柔軟性がまるでない。それは何時か致命傷になるから……うん、今のうちに叩き直すか』
『姉ちゃん……俺、前みたいな眼の訓練とか絶対嫌なんだけど』
『人間の脳は反復で成長できる。戦士にとって視界の広さは生死に直結するの、視界の訓練一つで成長できるのに怠惰なことだね』
『あれ、凄っごい頭痛してくるんだよ』
『痛みは成長の証、それに慣れて常態化させる訓練だと言ったよね。私の弟子は全員視界を二百度以上保ててからが本番。愚弟……さては村を出た後言いつけをサボってたな。最強の戦士に弟子入りしたうえに私を舐めやがって、その根性を叩き直してやる』
筋トレ、基礎的な技の反復、単純な素振り。
日課になっていた鍛錬を、たまたま通りがかった姉ちゃんに見られた日から、俺の訓練内容は一変した。
具体的に言えば、斧を一切振らせてもらえなくなった。
姉ちゃん曰く、武器の前に身体を扱う方法を学ぶことこそが、あらゆる武に通ずる根本なのだとか。
握ることすら許されない斧を担いだまま、ひたすら走らされた。
それも側転、バク転、片足走り、うさぎ跳びと、訳のわからない方法でとにかく走らされ続けた。
慣れとは停滞。それ以上の発展も成長の可能性も失われることを意味する。
同じ反復練習をただ繰り返していけば、いずれ身体が要領を覚えてしまう。鍛錬自体に慣れてしまうのだ、と姉ちゃんは言った。
『愚弟……お前は同じ部位の筋肉しか使っていないんだよ。それじゃ咄嗟の状況に対処が遅れる、使ってない部分を知って満遍なく鍛えろ、偏った体じゃ偏った戦い方しかできない』
『それで、あんな訓練させてたのかよ……だけど戦士ってそういうものなのか?』
『最強で最高の戦士アイゼンを見なよ。一振りで敵を粉砕する膂力、あらゆる攻撃を弾く黄金の肉体、水面を走る程の俊敏性……全てにおいて偏りがない。まさしく万能……最高の戦士とはかくあるべき。わかった?』
『姉ちゃん……師匠のことになると饒舌すぎだろ。まぁ……なんとなく理解できた』
人間はどう鍛え、どう生活するかによって、多彩な進化と発達を繰り返す。
船乗りの平衡感覚、狩人の方向感覚、遊牧民の高い視力。
姉ちゃんは魔族でありながら、人間の身体というものを深く理解していた。
斧を振るだけでは戦士たりえない。それでは木こりと同じだ。
だからこそ、俺の欠点を補うように、武の根本を徹底的に叩き込んでくれた。
俺の欠点は、基本を型通りに繰り返しすぎたが故の、凝り固まった身体の使い方。
技は放てる。けれど精神的にも肉体的にも柔軟性に欠けていた。
状況に応じて自由に応用し、型破りな動きで対処することができなかったのだ。
『姉ちゃん……俺の技についてなんか言うことないのかよ?』
『無い。一眼ニ足三胆四力……私から教えられることはこれだけ、これこそ武の基本。お前は最強の戦士直々に技の教えを受けているのに、私から言うことなんて何も無いんだよ』
『姉ちゃん……もしかして拗ねてるのか』
『殺すぞ、愚弟』
『ご、ごめんて……おっかねぇな』
『……私が教えたのは器の作り方。色々言ったけど単調な反復も悪いものじゃない、弱点にもなるけど長所にもなる。愚直にやってきたみたいだね……肉体と基礎は及第点、そういう意味ではお前の基礎はもう完成してるよ』
『じゃぁ……なんでこんな変な鍛錬させるんだよ』
『器にも色々ある……硬いだけの薄汚れた泥の器と綺麗な陶磁器の器じゃ違うんだよ……器ってのは綺麗でないとね。どれだけ良いものを詰め込んでも汚れたら台無しだ、お前の学ぶ最強の技は一級品……それを彩る器も綺麗でなきゃいけない』
『意味わかんねぇよ姉ちゃん……。師匠の技に泥塗るなってことか?』
『私は指導者、お前は生徒……見えてるものが違うから気にしなくていい。お前はお前の思う通り、なりたい最高の戦士になりなよ。どんなもので器を満たそうとお前の自由』
『わかった……なら俺が目指すのは――』
――回想が途切れる。
眼前には、刀を突き出そうとする魔族の姿。
やはり姉ちゃんの教えは、ここぞという時に役に立つ。
この瞬間、腹に刃を突き立てられようとしている今、あの地獄のようなシゴキが全て意味のあるものだったと、はっきり理解できた。
俺が目指すのは、師匠のような渾身の一撃と、姉ちゃんのような柔軟性を併せ持った戦士だ。
師匠から学んだ基本に忠実に。
そしてここぞという時には、姉ちゃんのように――逆境を好機に変えて大胆に動く。
痛いだろうが、この攻撃を死なずに耐えきれる自信はある。
何がなんでも勝利を掴もうとするなら、耐えて強烈な一撃を見舞うのが確実だろう。
それでも。
師匠と姉ちゃんの弟子として、ここで情けなく腹に一撃を喰らうわけにはいかない。
「終わりだ」
「あぁ……お前がな」
ただ無意味に観察に徹してきたわけじゃない。
悪いが、お前の刀より俺の斧の方が疾い。
強烈な衝撃で跳ね上がった斧を、片手だけで握り込む。
勢いは殺さない。全身を軸にしながら遠心力で斧を振り子のように加速させ、ほんの少しだけ前へと地面を蹴った。
全身の軸を斜めに傾けながら、片手で握った斧を魔族目掛けて真上に切り上げる。
師匠と姉ちゃんに見られたら殴られるだろう。
本来ならこの状況で放てる技じゃない。ピエロの曲芸みたいなものに成り下がっている。
威力も命中精度も当てにできない、雑な切り上げだ。
けれど、この距離なら外さない。
喰らいやがれ。
師匠の光天斬を姉ちゃん流にアレンジした――下弦斬。
ただただ思いっきり振りかぶる。後のことは知らない。
姉ちゃんなら着地して連撃を決めるのだろうが、師匠寄りの俺にそんな器用な真似はできない。
斧の勢いは止まらず、全身が振り回されて視界が回転し、暗くなっていく。
斧はそのまま空を斬り、勢い余って地面へと突き刺さった。
浮き上がった全身を制御する術などなく、俺は勢いに釣られて地面に叩きつけられる。
顔面から土にダイブした。
ほぼ同時に、どさりという落下音と、刃が地面に突き刺さる音が聞こえた。
追撃は来ない。
どうやら狙い通り、腕ごと刀を斬り飛ばせたようだ。
「痛ぅ……締まらねぇけど、俺の勝ちだよな」
口の中に入った土を吐き出しながら身体を起こし、斧を構え直す。
眼の前には、肩から先を失い、断面から血を噴き上げる魔族の姿があった。
斧を握り直し、眼前の敵へと近づいていく。
姉ちゃんと同じ、人の形をした存在。
こいつらにも感情というものはあるのだろう。
けれど大丈夫だ。殺せる。
殺されかけたのだから。殺せるに決まっている。
"魔族は言葉を話す魔物の総称"
俺なんかより何百倍も偉い、昔の賢者がそう定義したのなら、間違っているはずがない。
なのに。
なんで、手が震えるんだ。
殺してやる。ヤってやる。
斧を頭上に振り上げる。後は振り下ろすだけだ。
そうだ、何も考えず、ただ振り下ろすだけでいい。
フェルンも言っていた。障害物を取り除く。ただそれだけのことだ。
「止めてくれ……死にたくない」
ドクン。
心臓が跳ねた。
ドクン…ドクン、ドクンッドクンッドクンッ!!
鼓動が加速していく。
胸郭を突き破りそうなほどに暴れ狂っている。
息が絡まる。
喉の奥が痙攣して、吸うことも吐くこともままならない。
全身が動かなくなっていた。
どうしてだ。お前らは人間じゃないんだろう。
殺そうとしてきた癖に、そんなことを言わないでくれ。
勝ったのは俺だ。
なのに、なんでこんな苦しい思いをしなきゃならないんだ。
クソ。クソッ。
手まで震えてきた。斧を握る指先の感覚が薄れていく。
始まりから終わりまで、怖がってばかりだ。情けない。
これは死ぬ恐怖じゃない。誰かの命を奪う恐怖だ。
駄目だ。最悪だ。
俺は眼の前の魔族を、姉ちゃんと重ねてしまっている。
魔族としてじゃない。人間として見てしまっているのだ。
仕方ないだろう。
初めてなんだ。人と同じ形をしたものを、怯えた声で命乞いする相手を、この手にかけようとするのは。
これが普通の反応なんじゃないのか。
「お願いだ……見逃してくれればもうこれ以上人間は殺さない。お前の仲間の手助けもしよう」
なんなんだ、こいつは。
経験を積めば、あっさり殺せるようになるとでもいうのか。
なぁ、フリーレン。こいつらは獣なんだよな。
そうだと言ってくれ。俺は、どうすればいいんだ。
思わず眼を瞑ってしまった。
何も見たくない。何も考えたくなかった。
それでも、真っ白になった頭とは裏腹に、身体は戦い方を忘れていない。
何千と繰り返した予備動作が、結果へ至ろうと勝手に四肢を動かしていく。
けれど、こんな覇気の籠もっていない一撃で何ができる。
案の定、手に伝わってきたのは土を抉る感触だけだった。
代わりに、顔全体を掌で覆われるような圧迫感が襲ってくる。
これは耐えられそうにない。
頭ごと吹き飛ばすつもりか。殺すことを躊躇した相手に、これかよ。
なんてことをしやがる。
「優しいな。だが隙だらけだ、戦士としては素晴らしい……それ故に憐れむよ」
やっぱり演技か。
わかっていたんだ。わかった上で、何もできなかった。
馬鹿は死んでも治らないというが、俺は死ぬ前にしっかり自覚できたようだ。
お前らは人間じゃない。一度殺されかけて、そこから命乞いの不意打ちを味わって、ようやく理解した。
凄い演技力だ。本気にしてしまった。
死ぬ間際になって、お前らがただの嘘つきだと、身を以て学ばせてもらったよ。
「そうかよ……この大嘘つきが」
先に天国に行ったら、後から姉ちゃんと師匠にブチ殺されるだろうな。
嫌だなぁ。
「これで死にはしないだろう。だが死は免れない」
死にはしない、か。そうだろうな。
けれど、一瞬でも意識を持っていかれる可能性が高い。それは死んだも同然だ。
意識を失った隙に魔法を連発されて、頭に喰らえばあっさり終わる。
「安らかに逝け……」
悪い、フェルン。
大口叩いておいて、最後の最後で負けちまった。
「……『
音がした。
何かが高速で回転しながら接近してくる音が聞こえてくる。
魔族は何かに気づいたのか、俺の顔面を掴んでいた手を離し、距離を取ろうとしていた。
遅い。
死を前にして、他人事のようにゆっくりと流れる世界の中で、それは見えた。
俺を殺そうとしていたこいつの腕が、宙を舞っていく。
俺の持つ斧と同じ形をした斧が、回転しながら腕を斬り飛ばしたのだ。
何が起きたのかわからない。
ただ九死に一生を得たことだけは理解できた。
高速で回転しながら飛ぶその斧を追うように、何かが地を這っていた。
影は斧に追いつき、柄を掴む。
勢いを殺すことなく、斧の柄に腕を差し込み、バトンのようにくるくると腕の中で回転させながら加速させ、一切の躊躇なく魔族へ向けて投擲した。
「貴様、なにも――
高速でスピンする斧は、キンキンと甲高い音を立てながら魔族の胴体を真っ二つに斬り裂いた。
この滅茶苦茶なようでいて、動きを読ませないことを意識した立ち回りを、俺は知っている。
――姉ちゃん。
なんで、ここにいるんだよ。
即死した魔族は、何が起きたか理解できていない表情のまま、黒い粒子となって消えていった。
不思議と心に重みは感じない。
魔族の本性を身を以て味わう前だったら、吐いていたかもしれないのに。
自分の嫌な部分に気づいてしまったようで、あまりいい気分ではなかった。
だけど、今はそれより――。
「おい、愚弟。お前……さっきのは何? フルーフみたいにそういう趣味でもあるの?」
「ね、姉ちゃん……どうしてこんな所にいるんだよ?」
「質問に答え――は? おい……」
数年ぶりに会った姉ちゃんは、記憶の中と同じ調子で声をかけてくる。
けれど今は、それをやめてほしかった。
慣れ親しんだはずのその声が、なぜかとんでもなく居心地悪く感じる。
だからなのか、俺は――姉ちゃんから目を逸らしてしまった。
こんなこと、一度だってしたことはない。
こんな余所余所しい態度、見せたことなんてなかった。
その証拠に、姉ちゃんも信じられないといった声を上げた。
「へぇ……そう」
視線は逸らしたまま。姉ちゃんがどんな表情をしているのか、見ることができなかった。
ただ、俺が何を考えているのかは伝わってしまったようだ。
姉ちゃんの声から、それだけははっきりと理解できた。
「ごめん……姉ちゃん」
声が震えていた。自分でもわかるほどに。
俺は姉ちゃんを、何度も命を救ってもらって、鍛えてもらった恩人を。
俺は――人間や、姉のような存在としてではなく。
――嘘つきの魔族として見てしまっていた。
違う。姉ちゃんは命乞いなんて絶対にしない。
卑怯な手を使って勝とうなんてしない。
弱みにつけこんで相手を殺そうなんてしない。
師匠が絶対にしないことを、姉ちゃんがするはずがないんだ。
それをわかっているのに。
さっき死にかけた体験が、頭から離れない。
もしかしたら全部嘘で、今すぐ殺されるかもしれない。
そんな馬鹿げた妄想が、どうして頭を過ぎるんだ。
姉ちゃんの顔を見られない。
情けない姿を晒して、なんだかんだ姉と呼びながら慕っておいて、疑ってしまう俺を見て、姉ちゃんはどう思っただろう。
戦士アイゼンの弟子だって?
こんな一本筋も通せない奴が、師匠の弟子を名乗っているなんて。
姉ちゃんからしたら、殺したくなるだろう。
怖い。
死ぬより何倍も、失望されることに恐怖を覚えた。
師匠は俺に期待してくれていた。
姉ちゃんは、師匠の弟子として、それ以上に期待してくれていたことを知っていたんだ。
そうでなければ、面倒くさがって嫌がる俺を、わざわざ鍛えてなんてくれなかった。
師匠に憧れた。
同じように最強の戦士である師匠に憧れる姉ちゃんを、失望させないように鍛錬を続けてきた。
なのに。
なんてざまだ。
「………」
姉ちゃんは何も喋らない。
俺はただ俯いて、震える手を抑えながら、何もできなかった。