ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第3話▶人間は愚か

 

 

指先から急速に血の気が引いていく。

心臓が肋骨の檻を内側から叩き、喉の奥がカラカラに乾いて張り付くようだ。

 

 

言葉にならない声が、思考の海で泡のように生まれては消える。

どうすればいい。どうして、こんな状況に追い込まれている。

 

 

何百年、この瞬間だけを夢見て、永劫とも思える時を生きてきたというのに。

落ち着け。言い聞かせる声が、頭の中で虚しく響く。

 

冷静沈着、クールビューティー。

そう、それが私、フルーフのはずだった。

余裕を取り戻せ。こんな体たらくでは、生涯を共に歩む価値など、彼女に示せるはずもない。

 

 

焦燥が全身を駆け巡る。

だが、その熱は、窓辺に立つ彼女がゆっくりとこちらを振り向いた瞬間、急速に凍てついていった。

 

私の微かな呟きを拾ったのか、彼女の目が――ソリテールの目が、ゆっくりと細められる。

 

その瞳の奥で、何かが舌なめずりをしていた。

それは飢えでも渇望でもなく、ただ純粋な、品定めの光だった。

 

 

「へぇ……」

 

 

吐息と共に紡がれたその一言が、埃の舞う午後のリビングの空気を、張り詰めた硝子のように震わせた。

 

 

美しい。私は心の底からそう思った。

細められた瞳から此方の全てを見透かし、値踏みするような捕食者の眼差しが、たまらなく美しかった。

 

 

生物としての根本的な違い。

 

彼女は私を人間という記号で認識しながらも、その奥にある魂は美味しそうな餌として見ているのが、肌を粟立たせるほどの感覚で伝わってくる。

 

これまで数え切れないほどの魔族を見てきた。

 

彼らの魂に触れてきた。

だからこそ断言できる。これほどまでに完璧に、そして無慈悲に人間の皮を被ることに成功した魔族は、彼女をおいて他にいないだろう。

 

 

単純な魔力量による脅威は当然として、他の魔族とはその身に宿した悪辣さの次元が違う。

 

所作の一つ一つが、人間が抱く警戒心を解きほぐし、抗いがたい安心感を与えてくるのだ。

 

 

なのに、私はなぜ、こんなにも震えているのだろう。

 

 

その全てが無機質だった。

意思を持たない、ただただ美しい人型の捕食者と相対しているかのような錯覚に襲われる。

 

私の全身の細胞が、生存本能が、けたたましく警鐘を鳴らし叫んでいる。逃げろ、と。

 

奴は人喰いの化け物なのだと、本能の全てが理解していた。

 

 

 

こんな感覚は、今まで一度も経験したことがない。

 

 

 

私は人間だ。魔力を感じ取り、魂の知覚すら出来てしまう。

だからなのか、彼女の身体にこびりついた幾多もの死の臭いを前に、私の全身は恐怖で酷く縮み上がってしまう。

 

おびただしい数の血の臭い。

鉄錆のような、生温い、吐き気を催すほどの死臭が、彼女の存在そのものから滲み出ている。

 

 

人間の生存本能か。絶対的な捕食者に対する、抗いがたい原始的な怯えなのか。

私が人間だから、焦がれ続けた彼女に対し、こんな感情を抱いてしまうのか。

 

 

最低な考えが頭をよぎる。

永劫とも思える時間の中で、私は彼女を無意識の内に神格化してしまっていたのではないか、と。

 

あり得ない。

彼女は私の全てであり、生きる目的そのものだ。

魔族であることなど、一時たりとも忘れたことなどない。

 

 

だが、どれだけ彼女という存在を理解し、飲み込もうとしても、心の底から湧き上がる恐怖は消えない。

 

彼女はどうしようもなく人類にとっての害獣であり、フランメが定義した通りの「言葉を話す魔物」なのだという、ゴミみたいな思考が頭の中から消えてくれない。

 

 

彼女を愛するためにあるはずの魂が、汚染されていく。

脳に、血に、進化の過程で深く刻み込まれた生存本能が、抗いがたい感情が、彼女は危険だと、今この瞬間も私を矯正しようとしてくる。

 

 

不愉快だ。

私は自分が人間であることに、どうしようもないほどの気色悪さを覚えた。

理想と現実の乖離。捕食者と被捕食者の絶対的な種族差がもたらす、認識と感情の齟齬。

 

 

先程までの興奮は何だったのか。

足が震え、ついに手まで震えだした。

 

 

「私の名前はソリテール。あなたに興味があるの」

 

 

柔らかな陽光を背に、彼女は微笑む。

その笑顔には、一切の感情が宿っていなかった。

ただ、人間が安心するための記号として、完璧に再現された表情がそこにあるだけだった。

 

 

「美味しいお茶とお菓子を用意しているわ。さぁ、語り合いましょう?」

 

 

今の私の顔は、さぞかし酷い有様だろう。

唇は乾き、きっと顔面は蒼白に違いない。

俯き、震える私に、彼女がそっと白い手を差し伸べてくる。

 

 

握手。なんでもない、人間社会における親愛の証。

 

だが、あり得ない。

魔族が、呼吸をするように自然に、この人間の文化を行使している。

 

 

その事実に、言い知れぬ恐怖が背筋を駆け上った。

私の意思とは無関係に、恐怖に支配された身体が、勝手に彼女の求めに応じようとする。

 

 

「存じております、ソリテール様。わ、私の名前は、フルーフ……です……」

 

 

恐る恐る伸ばした指先が、彼女の驚くほど滑らかで柔らかい肌に触れる。

温かい。感動的だ。

この仕草一つ一つが、彼女が永い時間をかけて学習した、完璧な芸術なのだ。

 

なのになぜ、私の頬を伝うのは、歓喜の涙ではないのだろう。

惨めに怯え、恐怖に潤む瞳から、ただ静かに雫がこぼれ落ちるだけだった。

 

 

こんな魂は、いらない。

こんな、恐怖に屈するだけのゴミは、今すぐ滅んでしまえばいい。

 

 

――ボキッ、ボギィッ!!

 

 

リビングに、何かが小気味よく砕ける音が響き渡った。

握られた右手から、神経を伝い灼けるような激痛が脳へと流れ込む。

 

慣れた痛みだ。

なのに、恐怖のせいか、それは酷く、耐え難い痛みに感じられた。

 

 

「あ…ごめんなさい。少し力が入りすぎてしまったみたい」

 

 

彼女の温もりが離れていく。

その名残惜しさよりも、安堵の感情が勝ってしまう自分に吐き気がした。

 

私は自分の右手を見る。

開くことも、閉じることも出来ない。手根骨が、纏めて砕け散っているようだ。

 

痛い。

泣き叫びたいほど痛い。

彼女から齎された痛みが、恐怖と共に全身を支配していく。

 

 

――待て。

 

 

だが……本当に、痛いだけか。

恐怖に全身が竦み上がり、激痛に脳が支配されている。だけど。

 

 

私の目的はなんだ。

恩人であるフランメに語り、ボコボコにされてなお曲げなかった私の願望は、一体何だった。

 

 

この世界で唯一残った私の悔い。

それは、目の前の化け物の最期を看取れずに死ぬことだ。

 

そうだ。誰にも彼女の最期を看取らせはしない。

彼女を中途半端に終わらせることも許さない。

魔族としての生が潰えるその瞬間を看取って初めて、私の永い永い余生は始まるのだ。

 

 

怯えや恐れ。

これは人間が人間である以上、決して避けては通れない感情なのだろう。

どうしようもなく臆病で、弱い。それこそが人間の本性。

 

短い生の中で絶えず外敵に備え、準備し、進化と学習を繰り返す生物。

数千、数億という進化の過程で得た防衛本能を、たった一つの感情でどうこう出来ると考える方が可笑しいのだろう。

 

 

だけど、私は人間として彼女を愛しているのだ。

 

 

私の願望が、数百年間常に感じていたこの飢えが。

魂の発露が、本能如きに負けて堪るか。

 

 

ズキズキと、砕かれた掌に鬱血と炎症が広がっていく。

だけどどうだ。彼女からの贈り物だと認識出来たのなら。

 

 

――結構、気持ちいいと、思わないか。

 

 

まだ全身を這う不快感は続いている。

こんなものはいらない。

今の私の全ては、彼女がくれた痛みだけでいい。そうあるべきだ。

 

 

ならば、壊して貰おう。

この不快な身体を、彼女に殺して貰うんだ。

 

 

要は認識の問題なのだろう。

痛みを与えて悦に浸るサディスト、痛みを享受し快感によがるマゾヒスト。

 

私もそんな風に認識を書き換えればいい。

これはそんな単純な問題だ。

彼女に殺されれば殺されるほど、私は彼女のものになれる気がする。

 

それはきっと、とても心地良いものなのだ。

それを、この身体に、魂に、覚え込ませてやる。

 

 

肉体の再生は、死んだ瞬間から直近で外傷を負っていない状態で蘇る。

彼女に折られた腕を悟られないよう、魔力を制限し、瞬間的な死と共に再生させ、下準備を整える。

 

 

伴侶として、全てを捧げるつもりだったんだ。

これは最初の試練。この悍ましい恐怖を、今ここで克服しなければならない。

 

 

「か、構いません……そ、れよりも、お願いが一つ……」

 

 

言え。言うんだ。

カラカラに乾いた喉が痛む。

生き汚い本能が、止めろ、と必死に引き止めてくる。

 

だけど構うな、ソレはゴミだ。

 

 

「うん、何かな?恐がらなくていいよ。お姉さんになんでも言って」

 

 

ふふ、彼女は優しいんだ。

怯えて惨めに震える私に、気を使ってくれているぞ。

 

だから一歩踏み出すんだ。

彼女を恐れる、この不純物を、今、尽く滅殺しなければならない。

 

 

「こ……こ゛……コろ゛して……下さい、そリ、てーる様……」

 

 

彼女の目が、更に細まった気がした。

その瞳の奥で、何かが蠢いている。

興味なのか、好奇心なのか、あるいは純粋な食欲なのか。私には判別がつかなかった。

 

 

「ふふ、対話を楽しみたかったけど、良いよ…どうやって殺そっか?」

 

 

私の都合に付き合わせている、体よく利用してしまっている、なんて考えなくて良い。

魔族にとって人間の機微なんて、毛ほどの価値もない。

何も思わないし、何も感じないだろう。

 

だから私も、自分勝手な人間として、好きに言おう。

 

 

「く、首を……」

 

「ソファーにおいで。最期に少しだけ、お話ししようか」

 

 

柔らかいソファーに背を預け、寝そべる。

流石は最高級品、全身が優しく包み込まれるような質感だ。

革の匂いが鼻腔を擽り、背中に伝わる柔らかな感触が、逆説的に死の予感を際立たせる。

 

 

愛しい大魔族が、覆いかぶさるように私の首に手を掛けた。

周囲の景色を遮るように、彼女の美しい翡翠の髪が垂れ幕となり、私の視界にはもう、彼女の顔しか見えない。

 

彼女の髪から漂う、花とも果実ともつかない甘い香りが、死の恐怖を僅かに和らげていた。

 

 

一気にではなく、徐々に、ゆっくりと首が締まっていき、気管が圧迫されていく。

 

 

 

「それじゃあ、お話しを始めましょうか…私のことを知っていたの?」

 

 

彼女の声が、吐息が、すぐ側で鼓膜を震わす。

確かな温もりが感じ取れる。

 

いいなぁ、これ。

 

日が差し込んで温かくて、死を迎えるには、最高の日だ。

 

 

「……は、い……随分、前から……」

 

「珍しいね……出会った人達とは、全員『お話し』したと思ってたのに」

 

「……すこ、し……ズルを、し、ただけですよ……私からも……いいですか?」

 

「お話しの最中なんだから、当然」

 

 

そうだった。

彼女にとっては、ただの言葉のやり取りの最中だ。

どっちが上だとか下じゃない。

これは、会話。好きにしゃべって、この時間を楽しもう。

 

 

「へ、んじ……いただけま、せんか?」

 

「……――魔族について研究してた貴女なら知っているでしょう。私達には、そういうことは分からないの」

 

「コヒュー……はは……ふられ、ちゃい、ました…?」

 

「断りとは少し違うかな。見たよ、君の書いた本。まだ少しだけしか読めてないけど、面白かった。だから暫くは、一緒にいても良いかなくらいには考えていたの」

 

「あ゛ー……わたしが、おびえ、ちゃったせい……で、すか?」

 

「違う。今から貴女が死ぬから。もう止める気もないよ」

 

「な、んだ……一安心。ゴ、ふッ……。なら……や、くそく……して、ください……、うまれ、かわって、あいにいきますので……けっこん。いっしょに、くらしてください」

 

「面白いこと言うね。良いよ。死んでから沢山、私と言葉を交わそう。それじゃ…短かったけど、最期に、死に際の言葉を私に聞かせて」

 

 

やりました。

言質は取りましたよ、ソリテール様。

 

空っぽの言葉でも、私は本気にしますよ。

なにせ千年来、貴女だけを想い続けた女ですから。

 

魔族からの本気の好意なんて、はなから期待していないんで…しつこいですよ、覚悟して下さい。

 

 

「ふ、……ふ、ふ……ヒュゥ―あいし゛て……います……」

 

 

ぐぐ、と、首が急速に締め上げられていく。

殺しにかかってきましたね。

 

はは、凄い。

全身が恐怖して、一ミリも動かない。

悍ましい大魔族への忌避感で溢れかえっています。

 

 

人間の最も強力な武器は、あらゆる場所、環境に適応する適応能力。

 

 

よく覚えこませなければ。

彼女は私の女神であり、この長い生を終わらせる為の片道切符。

彼女から与えられる痛みは祝福なのです。これは苦痛ではなく、幸福。よく感じて下さい。

 

私の魂は今、眩いばかりに輝いている。

これが私の魂の発露。彼女の存在だけが、真なる幸福であり、私の全て。

 

 

大丈夫。

彼女の素晴らしさを覚え込ませたこの肉体は、再生した後も学習し続けてくれるでしょう。

 

殺意は……余り感じない。

魔族が人間を殺すとはそういうことだ。ごく自然で、当たり前のこと。

死の間際だというのに、触れ合えているという事実に幸せを感じてしまう。

 

魂が火照ってくる。

好きな人とデートの最期、別れを惜しむようにキスをするのって、こんな感じなんですかね。

 

 

大丈夫。怖くない。

愛しい魔族へと、身体も、心も、捧げて。

 

 

 

さぁ、死のう。

 

 

 

――ゴキッ!

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

ソリテールの瞳には、動かなくなった人間の骸が映っていた。

その視線には、感情の揺らぎは欠片もない。

 

 

波の音が、絶え間なく窓を打つ。

豪奢だが、どこか人の温もりが欠けた豪邸の一室。

ソリテールは、今しがたその手で首をへし折った人間の骸を、無感動に見下ろしていた。

 

 

呼吸は止まり、魔力の漏れも完全に消失している。

生物としての活動は、完全に停止していた。

 

 

あれほど熱烈な好意を向けられてなお、ソリテールの内面は凪いだ湖面のように静かだ。

この人間――フルーフに向けて抱いた感情があるとすれば、それは、蒐集品に加えるはずだった珍しい蝶を、誤って指で潰してしまった時のような、ほんの一抹の残念な思いだけだった。

 

 

好意、怯え、恍惚、そして死への願望。

万華鏡のようにくるくると表情を変える、実に興味深い観察対象だった。

 

その豊富な知識と歪んだ愛情は、停滞していた自身の研究に、何か新しい視点をもたらしてくれるかもしれない。そんな淡い予感が、確かにあったのだ。

 

 

だからこそ、残念に思う。

 

この人間との対話は、さぞ面白いものになっただろうに。

しかし、もう動かない。

高ぶっていた好奇心は静まり、ただの肉塊がそこにあるだけだ。

 

 

ソリテールは、フルーフの亡骸に背を向け、部屋に山と積まれた古書へと歩み寄る。

指先で革の装丁をなぞりながら、思考の海に深く沈んでいく。

 

 

これまで幾千、幾万もの人間を「観察」してきた。

彼らの習慣、文化、魔法。それらを知見として蓄積し、行動の傾向を読み解く。

昆虫の生態を調べるのと、何ら変わりはなかった。

 

疑心、殺意、怯え、命乞い。

様々な感情の発露を目にするたび、その奥に潜む法則を探った。

膨大な記録は、やがて一つの理を形作る。

状況と環境、そして個体の特性。それらを組み合わせれば、人間の行動は驚くほど予測できた。

 

だが、その核心には触れられなかった。

 

ソリテールの理は、人間の行動を次々と解き明かす。

しかし、そこには常に『感情』という揺らぎがあった。

彼女の論理を嘲笑うかのように、予測を狂わせる。

 

 

なぜ、同じ「大事な物」を失っても、物と肉親では反応がこれほど違うのか。

 

 

かつて観察した騎士がいた。

北の小国の名門に生まれ、建国以来六百年伝わる家宝の剣を受け継いだ男。

彼は毎朝、日の出と共に剣を磨いた。

夜には必ず刃に口づけをしてから鞘に収めた。

 

国宝にも等しいその剣を、彼は命より大切にしていた。

 

一方で、彼には七つになる息子がいた。

まだ剣も握れない、何者でもない子供。

騎士は息子の顔を見ても、剣を見る時のような熱を宿さなかった。

 

ある日、魔族が襲来した。

騎士は剣と息子の両方を失った。

 

 

剣を失った夜、彼は泣いた。

三日三晩、食事も取らず、ただ泣き続けた。

だが、やがて立ち上がり、新しい剣を手に取った。

 

息子を失った時、彼は泣かなかった。

ただ黙って、素手で、単身、魔族の群れに向かっていった。二度と戻らなかった。

 

 

ソリテールの予測では、逆だった。

希少性も歴史的価値も、剣の方が遥かに高い。

息子は生物学的には代替可能だ。

なのに、剣を失った傷は癒え、息子を失った傷は彼を殺した。

 

なぜだ。理解できなかった。

今でも、分からない。

 

感情という曖昧なもの。

それを軽視し続けた結果、彼女の研究は停滞した。

精巧に作り上げた人間の雛形は、完璧な外面を持ちながら、生命の熱を宿さない。

硝子箱の中で、永遠に静止した蝶の標本のように。

 

 

ソリテールは、人類を研究する者としての、静かな敗北感を味わう。

人類とは、こういう生き物だ。そう結論づけるのは簡単だ。

だが、それは探求の放棄を意味する。

 

 

足りなかった。

圧倒的に、深い対話が。これまで幾千もの人間と言葉を交わしてきた。

だが、そのほとんどは表面的なやり取りで終わっている。

本当に欲しいのは、感情の機微を解き明かす鍵となる、質の高い言葉の交換だ。

 

 

行動の意図、感情の源。

それを、魔族の視点から一方的に観察するのではなく、人間自身の口から語らせたい。

彼らが何を考え、何を感じているのか、その内面を言葉にして聞かせてくれる存在が、どうしても必要だった。

 

 

しかし、魔族としての本能が、それを許さない。

感情を求め、人間を殺し回ったマハトでさえ、人間の死に際の言葉には「聞き飽きた」と言った。

 

だが、ソリテールは違う。

感情に興味がなく、理解する意欲も湧かないはずなのに、死の間際に放たれる言葉に、飽くなき渇望を覚えてしまう。

 

 

もっと長く言葉を交わせば、より深く理解できるはずなのに。

恐怖や絶望の中で、人間がどんな思考を巡らせ、どんな言葉を紡ぎ出すのか。

その過程こそが探求の核心のはずなのに。

 

いつも、いつもそうだ。

 

知的好奇心が満たされる前に、喉元までせり上がってくる衝動が、全てを台無しにしてしまう。

欲のままに、すぐに殺してしまう。

だから、いつまで経っても深い理解に至らない。

手元に残るのは、断片的な言葉の欠片ばかりだ。

 

 

これは、魔族という種が背負う宿命ではない。

ソリテールは自覚していた。これは自分だけの、歪で、どうしようもなく抗いがたい業なのだと。

 

後から芽生えた知的好奇心よりも、生まれながらに刻まれたこの衝動が、いつも理性を上回ってしまう。

 

 

「言葉を交わしたかったのに、殺しちゃった。もう少し対話してから殺せばよかったかな」

 

 

ソリテールは、虚しく呟くと、フルーフが残した「魔族研究」に関する私的な記録の山へと手を伸ばす。

 

無作為に一冊を手に取り、パラパラとページを捲る。

そこには、魔族の生態に関する緻密な観察記録と、時に人間らしい感情が滲む筆者の感想が、几帳面な文字でびっしりと書き記されていた。

 

 

「ふぅん……」

 

 

人間の研究資料としては、なかなかの質だ。

ソリテールは感心しながら読み進めていく。

だが、数冊の本に目を通すうちに、彼女の眉間に微かな皺が寄った。

 

 

何かが、おかしい。

それは、何百年という長大な期間にわたって記録されているにも関わらず、どのページの筆跡も、インクの掠れ具合や文字の癖に至るまで、驚くほどに酷似していることだった。

 

羊皮紙の質感は時代によって異なるのに、そこに刻まれた文字だけは、昨日書かれたものと見紛うほどに一貫している。

一人の人間が、生涯をかけて書き継いできたかのような錯覚。

 

 

いや、錯覚ではない。

ソリテールは、異なる時代の記録を注意深く見比べる。

 

 

これは400年前の記録。そして、こっちは200年前。

 

 

日付には数百年単位の隔たりがある。

だが、記述の内容は、昨日の出来事の続きのように、滑らかに繋がっていた。

 

代々受け継がれる研究記録にしては、あまりにも個人的で、主観的すぎる。

家系で受け継いだにしては、文体や思想に変化が見られない。

 

 

そして、ソリテールは、決定的な一文を見つけてしまう。

それは、とある戦闘狂の魔族に捕食された際の記録だった。

 

 

喰われた感想。

肉が引き裂かれる痛み、骨が砕ける音、意識が途切れる瞬間の感覚まで、鮮明に書かれている。

歯が肉に食い込む瞬間の鋭い痛み、筋繊維が一本一本断ち切られていく感覚、そして胃袋に落ちていく際の、独特の浮遊感と酸の臭い。

それらが、日記を綴るような淡々とした筆致で記されていた。

 

 

あり得ない。

死んだ人間が、自身の死の瞬間を記録できるはずがない。

 

 

ソリテールの中で、点と点が線で結ばれていく。

一貫した筆跡。連続した記録。そして、死の体験談。

 

 

違う。

この筆者は、無事じゃなかった。

何度も死んで、その度に生き返っている。

 

 

この膨大な記録は、そういう家系によるものではない。

ただ一人の、不死の人間が、永い永い時間をかけて、たった一人で記録したものだ。

 

 

「本当に、面白い……」

 

 

ソリテールの唇が、無意識に弧を描いた。

それは笑みとも、驚嘆とも、あるいは獲物を見つけた捕食者の本能的な反応ともつかない、奇妙な表情だった。

 

ここまで魔族を理解しようと足掻いた人間は、長い生の中で一人もいなかった。

そして、これほどまでに異常で、興味をそそられる存在も。

 

 

「そして、酷く現実的だね。ページを進めるほど、魔族と人間は共存出来ないと、そう思わされる」

 

 

特に、人類の進化の歴史は戦争の歴史であり、技術は革新的に進歩する。

次に魔族と人間の大戦争が起こるまでに、魔族が進化を果たせなければ、確実に魔族は人間に狩り尽くされるだろう。そんな大胆な記述まで、見受けられた。

 

 

 

「その通りね」

 

 

パタン、と本を閉じる。

 

 

この千年以上に及ぶ戦争で、人間は急速に進化した。

人類に驕りは無く、捕食者として慢心する魔族達を狩りつくそうと、常に進化し続けている。

 

 

魔族は「職人」だ。

一種類の魔法を研鑽の対象と定め、生涯をかけて魔法磨く。

一つの道を極めることこそが、魔族の生き方だった。

 

 

しかし人間は違う。彼らは「学者」であり「技術者」だ。

生まれ持った魔法など無い代わりに、独自の魔法体系を一から築き上げた。

それだけではない。魔族の魔法すら解析の対象とし、術式を解体して原理を暴く。

そうして得た知識を体系化し、才無き者にも扱えるよう整えてしまう。

 

 

生まれながらに持つ魔法の才という、生物的な優位が、人類の知性と探究心の前では、いずれ意味をなさなくなる。

その時、待っているのは、魔族という種の絶滅だ。

 

 

魔王が掲げていた、人類との共存の願い。

ソリテールは、その行く末を見届け、その先にあるものが、種の絶滅であると悟っていた。

それは、人類との共存を夢見て行動する黄金郷のマハトを見て、より鮮明に思い描けた。

 

 

彼に、魔王のような立場や柵は何もない。

だというのに、感情を理解するためと、人間を殺し回っていた。

 

人間を理解するために、人間を殺す。この異常性に気づけない。

それが、魔族。

土台の部分で、そもそも人類と分かり合えない、人喰いの性を宿しているのだ。

 

 

ソリテールは、フルーフの日記帳に視線を落とす。

彼女がどう生き、何故魔族のことを調べていたのか、そして、どういう存在なのかが、全て、この中に鮮明に書き綴られていた。

 

 

その時だった。

背後から、微かな物音が聞こえたのは。

衣擦れの音、そして、規則的な呼吸の音。

死んだはずの人間が発する、生命の証。

 

 

「ねぇ……貴女はどう思う?魔族と人類の共存は、可能だと思う?」

 

 

ソリテールが、ゆっくりとソファーに向き直り、尋ねる。

そこには、先程まで冷たい骸だったはずの人間が、何事もなかったかのように起き上がり、静かにこちらを見ていた。

首の骨が折れた痕跡は、もはやどこにも見当たらない。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「まぁ、無理でしょうね」

 

 

フルーフは、まるで他人事のように呟いた。

自分の首を撫でながら、何事もなかったかのように。

ソリテールは、その静かな肯定に同意する。

 

 

「同感だわ」

 

 

魔力は再びその身体から漏れ出ており、先程まであったはずの外傷は、跡形もなく消え去っている。

その身体はまだ微かに震えているが、血の気の引いていた顔色は、随分と健康的な色を取り戻していた。

 

 

ソリテールは、目の前で起きている超常的な現象と、それをこともなげに語る女を前にして、知的な興奮を覚えていた。

 

 

「城塞都市の人間を全員殺した後だから、まだ少し血生臭いでしょ」

 

 

ソリテールは、部屋に漂う鉄錆の匂いを指摘する。

それは、彼女がこの人間を試すための、ささやかな挑発だった。

 

何千人もの命を奪った後の、まだ乾ききっていない血の臭い。

それを纏ったまま、平然と微笑んでいる。

 

 

「そうですね。多少、身体がビックリしてしまいました」

 

 

しかし、フルーフは先程までの怯えが嘘のように、落ち着いた様子でソファーから立ち上がる。

 

その表情には、恐怖の色はもう無い。

あるのは、長年の想いが成就するかもしれないという確かな期待と、愛する魔族を前にした、熱に浮かされたような高揚感だけだった。

 

 

「あんなに恐がっていたのに。殺されて、平気になったの?」

 

「……」

 

「勇者ヒンメルや南の勇者も大概だったけれど、貴女はそのどちらとも違う……本当に異常ね」

 

「私は皆さんが思うより、ずっと普通ですよ。今さっき、それを実感しましたから。これは一重に、ソリテール様への愛の力です」

 

 

フルーフはうっとりと目を細め、ソリテールを見つめる。

その瞳の奥で燃える熱情は、もはや恐怖では揺らがない。

死という通過儀礼を経て、彼女の中で何かが決定的に変わっていた。

 

 

「ふふ、誰よりも魔族にそんな言葉が響かないと理解しておいて、尚それを口にするのね」

 

「少し開き直っているところはあります。ですが、少なくとも好き嫌いという意味では、伝わっているのでしょう?」

 

「えぇ、私は魔族だから。貴女の内面を本当の意味で理解することは出来ない。でも、貴女が私に本気の好意を向けてくれているのは、反応や言動で分かるわ」

 

 

その言葉に、フルーフの胸が熱くなる。

理解は出来なくとも、伝わってはいる。それだけで、彼女にとっては十分過ぎるほどの救いだった。

 

 

「それなら……約束は、果たして下さるのですか?」

 

「そうね。でも私は臆病なの。自分の命を天秤に掛けてまで、他の何かを優先する気はないわ」

 

「つまり……信用が、足りないと?」

 

「そう。貴女は異常で、正直、恐ろしい。いつ裏切られるか分からないし、この記録を見ただけでも、私が貴女への対処法を確立出来ないことが分かる」

 

 

ソリテールは、フルーフが書き記した日記帳を手に取り、パラパラとページを捲る。

その言葉は、紛れもない本心だった。

フルーフという存在は、ソリテールの知識と経験をもってしても、あまりにも未知数過ぎたのだ。

 

 

「左様ですか。私は貴女を愛しています。ですので、恐がらせる存在でありたくはありません」

 

「ふぅん。なら、諦めてくれるかしら」

 

「いえ、そんなまさか。私の執念深さは、ソレを読んだのならご存知でしょう」

 

「魔族との共存は不可能。そう、見解は一致していたはずだけれど?」

 

「はい。魔族と人間、種族という単位で考えれば、碌なことにならないのは明白です」

 

 

フルーフは一歩、ソリテールに近づいた。

その足取りには、もう震えはない。

 

 

「ですが、個人間であればまた話は別です」

 

「……否定は、出来ないわね」

 

「黄金郷のマハト。彼の思想は危険です。しかし、魔族と人間との個人的な繋がり、個人同士での共生の可能性は、彼が示してくれました」

 

「あれは例外中の例外」

 

 

ソリテールの声が、僅かに硬くなった。

 

 

「どちらも歩み寄る姿勢を見せて、初めて成り立つ関係。先に伝えておくけれど、私から歩み寄る気はないの。死なないと分かった上で、何度だって貴女を殺す。そこに意味は無くて……嫌いとか好きとかじゃなくて、ただ、自然体で殺してしまう。貴女の為に、マハトみたいに外で発散するつもりも無い」

 

 

ソリテールの言葉は、冷たく、そして絶対的だった。だが、フルーフは怯まない。

 

 

「構いません。側に一緒にいてくださるのなら、私は満足です」

 

 

フルーフは、もう一歩近づいた。手を伸ばせば、彼女に届く距離。

 

 

「告白の言葉、言い直しても、よろしいですか?」

 

「怖くて堪らないはずなのに、本当に私が好きなんだね」

 

 

ソリテールは、フルーフの瞳を覗き込んだ。

そこに嘘はなかった。

狂気じみた純粋さだけが、真っ直ぐに彼女を見つめ返している。

 

 

「でも、その言葉は待ってくれるかしら。正直、貴女は私にとって有益で、無条件に捨てるには惜しい人間だわ。貴女を、もっと観察させて……?一週間……それで、判断しようと思うの」

 

「――ッ!」

 

 

フルーフの目が、大きく見開かれた。

 

「はい、私……精一杯、頑張らせて頂きます!」

 

 

フルーフの顔が、喜びで輝く。

一週間。それは、彼女にとって永遠にも等しい時間であり、同時に、瞬きのような刹那の時間でもある。

 

だが、それでいい。

彼女に認められるための試練なら、どんなものでも受け入れよう。

 

 

「それじゃあ……まずは楽しく言葉を交わしましょう。貴女のことを、もっとたくさん、聞かせて欲しいの」

 

「無駄に長く生きてしまいましたから。何でも聞いて下さい」

 

 

夕日が部屋を茜色に染め、やがて夜の帳が降りるまで、魔族と人間は対話を続けた。

どちらも心の底での相互理解を完全に諦めており、歩み寄る気など全く無いにも関わらず、二人の会話は奇妙な熱を帯びていた。

 

 

ソリテールが、唐突にフルーフの喉を掻っ切る。

そうして蘇生した数秒後には、殺された瞬間の感想を尋ねる。

 

フルーフは、恍惚とした表情で、その感覚を詳細に、そして饒舌に語り聞かせた。

普通の人間ならどう感じるのか。そんな問いにも、フルーフは淀みなく答え、ソリテールを知的に楽しませる。

 

 

その夜、フルーフは、文字通りの意味で喰われた。

死なない程度に、ゆっくりと、愛情や慈しみの欠片も無く、全身の肉を噛み千切られ、飲み干される。

 

肉が歯に食い込む音、筋繊維が断ち切られる感覚、骨を擦る舌の感触。

そんな倒錯した行為の最中でも、二人は言葉を交わすことを止めようとはしなかった。

 

 

「恐怖を感じた時、人間は何を考えるの?」

 

「逃げたいと思います。でも同時に、逃げられないかもしれないとも考える。その二つが同時に存在するんです」

 

「矛盾している」

 

「えぇ。人間の感情は、いつも矛盾しています」

 

 

そんな問答が、幾度となく繰り返された。

ソリテールは、フルーフという人間の思考回路を、その行動原理を、精密な時計を分解するかのように解き明かしていく。

 

フルーフは、その探求に応えるように、自身の内面を曝け出し、時には見知らぬ誰かになりきって、その思考を語り続けた。

 

 

そして、死の数秒前になれば、ソリテールは必ず、彼女の死に際の言葉を聞いた。

血塗れのシーツの上で、二人は一つの夜を共にした。

 

 

常人が見れば、それは地獄の光景だろう。

しかし、二人の寝顔は、とても穏やかで、満ち足りていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

陽光が血の痕跡を鈍く照らし出す朝、フルーフは巨大な剣で胴体を刺し貫かれて目を覚ました。

 

 

昨日と同じ、猛烈な痛み。

全身から吹き出す脂汗。

しかし、横で自分を観察する、あの美しい垂れ目の大魔族を認識した瞬間、フルーフの顔には、もはやだらしのない笑みしか浮かばなかった。

 

血反吐を吐きながらも、はっきりとした口調で朝の挨拶を交わす。

それが、この異常な日々の始まりの合図だった。

 

 

ソリテールに殺される日常。

それは、フルーフにとって苦痛であると同時に、至上の幸福でもあった。

痛みすらも、彼女との繋がりを実感できる甘美なスパイスへと変わり果てていた。

 

 

魔族に滅ぼされた古い集落から回収していた貴重な魔導書を見せ、ソリテールから気まぐれに魔法の指導を受ける。

そして、なんの前触れもなく、唐突に殺される。

 

 

圧死、縊死、刺殺、絞死。ありとあらゆる方法で、フルーフの命は弄ばれた。

彼女の死に際の言葉は、いつも変わらず「愛しています」だった。

しかし、ソリテールは決して殺すことに手を抜くことも、躊躇することもなかった。

 

彼女にとって、フルーフの死は、未知の生物の生態を観察する、興味の尽きない実験だった。

 

 

そうして、死と対話を繰り返す倒錯した日々は、瞬く間に過ぎていっき。

とうとう、約束の七日目を迎えた。

 

 

その日、ソリテールは姿を現さなかった。

フルーフが目を覚ました時、隣に彼女の温もりはなく、ただ冷たいシーツが残されているだけだった。部屋中を探しても、その気配すら感じられない。

代わりに、テーブルの上に、一枚の羊皮紙が置かれていた。

 

 

『今日一日、死ぬことも、殺すことも、人間を害することも許さない』

 

 

そこには、彼女の美しい筆跡で、ただそれだけが記されていた。

 

 

平穏な一日。

あまりにも静かで、不気味なほど穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。

朝が昼となり、陽が傾き、窓の外が夕闇に染まっても、ソリテールは姿を現さなかった。

 

 

フルーフは、言い知れぬ不安に駆られる。

これは、試練なのだろうか。それとも、ただの気まぐれか。夕食の時間になっても、彼女は帰ってこない。

 

 

その時だった。静寂を破るように、玄関の方から、複数の人間の気配が近づいてくるのが分かった。

 

足音は乱暴で、統率が取れていない。

獣の群れのような、荒々しい接近。

 

それは、歓迎されざる客の到来を告げる、不穏なざわめき。

怒声と、乱暴に玄関を叩く音が、静まり返った豪邸に、けたたましく響き渡った。

 

 

フルーフは、何かに導かれるように、玄関へと向かう。

扉を開け、外に身を乗り出した瞬間、殺意の籠もった視線と、憎悪に満ちた罵声が、彼女の全身に突き立てられた。

 

 

「いたぞ!魔族を匿ってる、人間の裏切りもんってのはコイツか!?」

 

「あぁ、間違いねぇ!情報通りだ……捕まえて、連れて行け!!」

 

「テメェ、人間の癖して、死にかけの魔族を助けたんだってな……巫山戯やがって、ぶっ殺してやる……ッ!」

 

 

最悪だ。

 

 

「はぁ……本当に、性格が悪いですね。ソリテール様」

 

 

フルーフは、群衆の憎悪を一身に浴びながら、愛しい魔族に悪態をついた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

焼け落ちた家々の残骸が、巨大な墓標のように立ち並ぶ、寂れた集落。

炭化した木材の臭いと、まだ燻る残り火の煙が、夜の空気を重く淀ませている。

その中央に打ち込まれた一本の太い杭に、フルーフは無様に宙吊りにされていた。

 

 

かつて純白だったであろう髪は、今はもう、こびりついた血でドス黒く染まり、地面へと赤い雫を滴らせている。

 

一滴、また一滴。その音だけが、静寂の中で規則的に響いていた。

上半身の衣類は引き裂かれ、剥き出しになった肌には、無数の裂傷とどす黒い痣が、醜い模様を描いていた。

 

この場所に連れて来られる間、馬で引きずり回された背中の皮膚は、ほとんど捲れ上がり、もはや元の形を留めていない。

砂利が肉に食い込み、そこから滲み出た血と体液が、道に長い赤黒い線を描いていたことだろう。

 

 

その周囲を、狂気に満ちた人間たちが取り囲んでいた。

大人、子供、老人。その誰もが、手にした角材を、怒りと憎悪のままにフルーフへと振り下ろす。

 

 

「糞が!糞がぁ!テメェら魔族が村を襲ったせいで、俺の餓鬼共は全員、餓えて死んだんだぞ!」

 

 

男の濁声が、乾いた空気を震わせる。

角材が肋骨を打つ鈍い音。骨が軋む感覚が、全身を駆け巡る。

 

 

「嫁は、気立ての良い女だったんだよ…魔族の餌になって良い人間なんかじゃなかった。お前らが代わりに死んどけよッ!」

 

 

女の甲高い悲鳴が、フルーフの鼓膜を突き刺す。

その声には、悲しみよりも純粋な憎悪が滲んでいた。

 

 

「ご、ぐぅ……ふぅ……おぇ゛」

 

 

フルーフの口から、意味をなさない呻き声と、胃液が混じった血が漏れた。

胃の中身はとうに空だったが、それでも身体は何かを吐き出そうとしていた。

 

 

八つ当たりだと、分かっている。

魔王が討たれてから数十年。残党による被害は後を絶たず、人々の中に燻る魔族への憎悪は、行き場を失い、ただただ膨れ上がるばかりだ。

 

 

これが、ソリテールの仕組んだことなのか。

それとも、単なる不運か。霞む意識の中で、フルーフは自問する。

どちらにせよ、結果は同じだ。

 

群衆の目には、もはやフルーフという一個人の姿は映っていない。彼らが見ているのは、家族を奪い、平和を脅かす、憎むべき「魔族」という記号だけ。

 

 

――魂がぐちゃぐちゃですね。この人達はもう、完全に壊れてしまっている。

 

 

魔族に対して、底の見えない怨嗟を抱えている。

だが、その怒りをぶつける術を持たない無力な人々。

その歪んだ感情の捌け口として、今、フルーフはここにいる。

 

 

善悪の概念を持たないソリテールであれば、この惨状を、フルーフを試すための舞台として、意図的に作り出したとしても不思議はない。

 

しかし、フルーフは魔族との関係を隠してはいなかった。

どこからか情報が漏れ、偶然この場に居合わせてしまった可能性も、否定はできなかった。

 

 

これが、仕込みじゃないというのなら。

こんな魔物蔓延る辺境まで、ご苦労なことだ。

 

 

「魔族を助けるだぁ……この、ゴミがっ!」

 

 

鈍い衝撃と共に、視界が激しく揺れる。

後頭部を打たれたのだろう。温かいものが首筋を伝って流れ落ちていく。

 

 

「お前、魔族の仲間なんだろ……結託して、俺達みたいな人間を殺して、楽しかったかよッ!」

 

 

罵声が、容赦なくフルーフの心を抉る。違うわボケ、と叫びたかった。

私は魔族を愛しているだけで、赤の他人など、興味の欠片もない。だが、その言葉は血と共に飲み込まれ、音にならなかった。

 

 

「ご、はぁ……ッ!?」

 

 

顔面に叩きつけられた角材で、歯が数本、砕け散った。

口の中で転がる欠片を、血と一緒に吐き出す。

 

鉄の味と、骨が砕ける不快な感触。

だが、それ以上に、双方合意の上ではない、一方的な暴力が、フルーフの精神を確実に削り取っていく。

 

 

その不死性から魔族と間違われ、監禁と拷問を受けたことがある。

だが、その時の痛みは、これほどではなかった。

 

フルーフに向けていたのは、未知の存在に対する「恐れ」だった。

だが、今、彼女に向けられているのは、純粋な「憎悪」と、理性を失った「狂気」だ。

これまでの永い生の中で、これほどまでに、ただ無力に、怨嗟の的とされた経験はなかった。

 

 

だから、正直に言えば、逃げ出したかった。

さっさとこの肉体を捨て、死という安らぎに身を委ね、この悍ましい状況を終わらせてしまいたかった。

 

そして、蘇った暁には、この愚かな人間たちを一人残らず叩きのめし、この場から消え去りたかった。

 

見ず知らずの誰かの、身勝手な憎悪を受け止めるサンドバッグになってやるほど、フルーフはお人好しではないのだ。

 

 

理不尽な怒りだ。

私は、お前達とは何の関係も無い。そう叫び、吐き捨ててやりたい。

だが、それは出来ない。ソリテールの、あの美しい筆跡で書かれた言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

『今日一日、死ぬことも、殺すことも、人間を害することも許さない』

 

 

それを破った瞬間、あの臆病で、気まぐれな魔族は、二度とフルーフの前に姿を現さないだろう。

その確信が、フルーフをこの場に縛り付けていた。

 

 

だから、言えない。

言えば、挑発と受け取られ。この壊れきった悪鬼の群れに、嬲り殺されるだけだ。

ここで彼らを皆殺しにし、ソリテールの意思に背き、彼女を追いかけることも出来る。

だが、それだけは絶対にしたくなかった。

そんなことをすれば、自分もまた、善悪の区別もつかない、ただの化け物に成り下がるだけだ。

 

 

ソリテールに恋い焦がれたのは、顔も忘れた、遠い前世の自分。

千年以上経っても色褪せない、この強烈な想い。

人間として恋に堕ちたのなら、人間として、彼女の側にいたい。

 

 

だから、彼女から与えられた、この僅かな可能性の糸を、手放すわけにはいかなかった。

どれだけ理不尽な暴力に晒されようと、悪意を一心に受けようと、死にたくなるほどの辱めを受けようと、自分を守るという選択肢は、フルーフの中には存在しなかった。

 

 

腕が折れ、脚が砕かれ、意識が朦朧とする。

それでも、暴力が止む気配は無い。

耐えなければ。精神的にも、肉体的にも、ここで折れる訳にはいかない。

気を抜けば、ソリテールの言葉を違えることになる。

 

 

しかし、魔族との倒錯した関係の中で、フルーフは、人間の持つ、底なしの悪意というものを、すっかり忘れてしまっていた。

 

 

「おい、テメェら……生ぬるいんだよ。俺の国じゃあな、魔族に与した裏切り者は、極刑よりも重い罪に問われるんだぜ……。覚悟しろよぉ……じっくり、じっくりと、嬲り殺しにしてやるからなぁ、このゴミがぁっ!」

 

 

男の、粘つくような声が、フルーフの耳元で響いた。

その吐息は、腐った酒の臭いがした。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

どれほどの時間が、地獄の中で過ぎ去ったのだろうか。

もはや、時間の感覚すら、麻痺してしまっていた。

 

 

潰えることのない悪意に満ちた拷問。

死に迫るほどの激痛が、片時も休まることなくフルーフの全身を蝕み、ゆっくりと、しかし確実に、致死量を測るかのように、彼女の肉体は切り刻まれていく。

 

 

フルーフは、拘束具のついた椅子に座らされ、かろうじて人間としての原型を留めていた。

木製の椅子は、染み込んだ血で黒ずみ、腐臭を放っている。

 

 

地面には、無残に折れ曲がり、潰された指が、打ち捨てられた人形の部品のように散らばっている。

自分の指だったものが、そこにある。その現実を認識するたびに、吐き気が込み上げてくる。

 

そこから流れ出た鮮血の池からは、鼻を劈くような異臭が立ち上っていた。

鉄錆と、肉と、汗が混じり合った、生理的嫌悪を催す臭い。

 

 

両腕、両脚は無慈悲に切り落とされ、その断面は、焼きごてで無理やり止血されている。

焼かれた瞬間の痛みは、もはや記憶にない。

あまりの激痛に、意識が何度も途切れかけた。

だが、そのたびに冷水を浴びせられ、無理やり現実に引き戻された。

 

 

フルーフは、これまで経験したことのない、正真正銘の地獄の中で、かろうじて息をしていた。

 

 

眼球はくり抜かれ、真っ赤に熱せられた火かき棒で焼かれていた。

その瞬間の、目玉が沸騰する音を、彼女は一生忘れないだろう。

視界は、永遠とも思える暗闇に閉ざされている。もう何も見えない。見えるのは、記憶の中のソリテールの姿だけだ。

 

 

口はだらしなく開き、涎がダラダラと垂れ落ち、意識は今にも、深い闇の底へと沈みそうだ。

舌は切り落とされ、まともに言葉を発することすらできない。

精神は限界まで摩耗し、もはや苦悶の声も上げられず、痛みに対する反応すら、ままならない。

 

 

――私は、まだ、生きている。頑張らないと。

 

 

途切れ途切れの思考の中で、フルーフはただ、生きることだけを考えていた。

ソリテールの顔を思い浮かべる。

あの涼やかな声を。あの美しい翡翠の髪を。

それだけが、彼女をこの地獄に繋ぎ止めている錨だった。

 

 

「へへ……中々、良い根性してるじゃねーか。国一番の拷問官だった、この俺様のシゴキによく耐えた。褒めてやるよ。だが、もう限界だろう……楽にしてやる」

 

 

狂気に満ちた人間たちが、フルーフを取り囲み、罵声を浴びせる。

皆が皆、目を血走らせ、「魔族を殺せ」「裏切り者を殺せ」と、呪詛を唱える狂信者のように、同じ言葉を繰り返していた。

 

 

そして、フルーフにあらん限りの苦痛をもたらした男は、血でぬめった金槌を手にすると、その頭上へと高く掲げ、一切の躊躇もなく、容赦なく振り下ろした。

 

 

 

 

――ザシュッ。

 

集落に、頭蓋骨が砕ける鈍い音ではなく――肉を、断つ鋭い音が響き渡る。

無数の剣閃が、暗い夜空を煌めき、次々と、人間たちの首を、熟れた果実のように刈り取っていく。

 

 

血飛沫が宙を舞う。

悲鳴を上げる間もなく、一人、また一人と倒れていく。

 

 

スタ、スタ。静かに、しかし確かな足取りで、聞き慣れた足音が近づいてくる。

それは、フルーフが、この世の誰よりも焦がれた音。

飼い慣らされた犬のように、フルーフにはそれが誰のものなのか、すぐに分かった。

 

 

残された、なけなしの生命力を全て絞り出し、フルーフは顔を上げる。

彼女を映す瞳は、もう無い。

だが、魂に、その存在の全てに、焼き付いたその姿は、どんな暗闇の中よりも、鮮明に見えていた。

 

 

「本当は、お別れを言いに貴女の元に訪れたの。フルーフ……確かに、その不死性は異常そのものだけど、貴女は人間だから……見ていて、絶対に死ぬと思っていた」

 

 

死の淵を彷徨うフルーフの耳に、ずっと聞きたかった、あの涼やかな声が、優しく響く。

その声を聞いた瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。

 

 

「あ、かおぉ゛……そ、りて……」

 

 

喉に詰まった血が、言葉になるのを邪魔する。

声を発したいのに、出てくるのは、意味をなさない濁音だけだった。舌の残りの部分で、必死に音を形作ろうとする。

 

 

「私と、『お話し』したいのね。いいわ。私も、大事な話があるから」

 

 

ソリテールは、掌に一口大の清らかな水玉を作り出すと、それをフルーフの乾いた口内へと、そっと含ませる。

 

その水は、冷たくて、甘くて、天国の雫のようだった。

 

飲み込もうとする度、フルーフは何度も激しく咳き込み、血反吐を吐き出す。

ソリテールは、その度に辛抱強く水を飲ませ続け、ようやく、フルーフがしゃべれる程度の状態に落ち着いた。

 

 

「フルーフ、貴女に対して行ったこの行動は、悪に分類されるもの……それは、知識として理解しているの。でも、何がいけないことなのか、私には分からない。今でも、貴女を追い詰めて、その本性を確認するのに、一番有益な手段だったと思っているから」

 

 

ソリテールの声は、どこまでも平坦で、感情の起伏が感じられない。

それでも、その声を聞いているだけで、フルーフの心は満たされていった。

 

 

「ハ、ぁ……は、あ…知って、ます……そん、なこと…」

 

 

フルーフは、か細い声で答えた。

 

 

「そうね。貴女は、よく魔族を知っている。魔族が人間を食べなくても問題無いと知っていても、生きたまま喰べられることを受け入れてくれた。私の仕業だと察していても、そんな状態になるまで我慢して、生き延びてくれた」

 

 

「ふ、ふふ……け、けっこん……が、かかっています、から」

 

 

途切れ途切れの息で、フルーフは冗談めかして言った。

笑おうとしたが、顔の筋肉が動かなかった。

 

 

「魔族に、ツガイの概念は無いわ。でも、フルーフが教えてくれたものは、理解しているつもりよ。捕食者である私が旦那様で、被捕食者である貴女が妻。この意味と呼称なら、私にも分かる」

 

「わ、たしは…あなたに……しん、よう……して、もらえた……のでしょうか……」

 

 

それは、フルーフの心の底からの、切実な問いだった。

全身を苛む激痛よりも、その答えの方が、はるかに重要だった。

 

 

「聞いて、フルーフ。私達は、人喰いの化け物。貴女達、人類とは、価値観を共有出来ない。違う生き物だから」

 

「い、まさら……ですね……」

 

「ふふ……そうね。この数日は、とても満たされる、不思議な時間だったわ。好きか嫌いかと問われたなら、迷いなく好きと答えるくらいに、居心地がよかった」

 

「それ、は……よかった……」

 

 

フルーフの唇に、微かな笑みが浮かんだ。

血と泥で汚れた顔に、それでも確かに、幸福の色が滲んでいた。

 

 

「フルーフ、どうして私がこの人達と言葉も交わさずに殺したか、分かる?」

 

「……そう……言えば……どう……して……ころ……してしまったんで、すか」

 

「簡単」

 

 

ソリテールの声が、一瞬だけ、低くなった。

 

 

「苛ついたから」

 

「……え……?」

 

「私達は、人を捕食する為に進化した存在。人間のことは、本能的に餌としか思っていないの」

 

 

その言葉に、フルーフは頷いた。

知っている。ずっと前から、知っていた。

 

 

「もう一度言うわ。貴女が好きよ、フルーフ。でもね、それは家畜に向けるものと、何も変わらない。根本的に、噛み合ってはいないのよ」

 

「……」

 

「だけど」

 

 

ソリテールが、言葉を継いだ。

 

 

「違ったの。貴女だけに向ける、特別な感情が、私の中にも生まれていた。とても大きくて、抗いがたいものが」

 

「しんじ、られ……ません……ね」

 

「貴女の恩人が、魔族を『言葉を話す魔物』と定義した通り、私達は獣と近い存在。どれだけ人類と姿形を真似ようと、最終的に本能に従ってしまう化け物。だから、考えてみたの。そんな化け物であるはずの私が、餌である貴女に抱く、この執着を。そして、分かったの」

 

「そ……れは……なん……なの、ですか」

 

「私達は、所詮、本能の獣」

 

 

ソリテールは、フルーフの傍らに膝をついた。

その動作は、驚くほど優雅だった。

 

 

「野生の獣は、縄張りを荒らされたら怒るでしょう?餌を横取りされたら、牙を剥くでしょう?」

 

「……えぇ」

 

「それと同じ。貴女は私の餌。とびきり美味しくて、永遠に減らない、特別な餌。そんなものを与えられてしまったら……依存するわよね。手放したく、無くなってしまうの」

 

「だ、から……ころ゛し、た……」

 

「そう。私のモノに、みだりに触れられるのは、酷く不愉快だったから」

 

「え……ぇ……その゛……それは……つま、り……これか、らも……い、しょに……いてくれる、の……ですか……」

 

「フルーフ」

 

 

ソリテールは、フルーフの血まみれの頬に、そっと手を添えた。

その手は、驚くほど温かかった。

 

 

「貴女が向ける感情に、同じ形で応えてはあげられない。だけど、この感情を敢えて人類らしいものに変換するなら、私は貴女に、強い独占欲を感じているの。誰にも渡したくは無い。だから、この気持ちでよければ、これからも一緒にいたいと思うわ」

 

 

価値観も、根差した習性すら違う種族。短命な人間と、長命な人喰いの化け物。

全く噛み合うはずの無い歯車だ。未来永劫、分かり合えることなどないだろう。

それでも、ソリテールのこの言葉は、永い歳月の中で、一人の魔族を想い続けた人間には、十分過ぎるほどだった。

 

 

「ハ、はは……し、じられない、く゛らい……グス…うれしいなぁ゛……ぁ……うぅ゛……ぜ、ぜひ……――こ、れからも……すえ、ながく゛……よ、ろ゛おし゛くおねがいしますぅ゛……」

 

 

既に無い目からは、血と涙が滝のように流れ落ちる。

ズキズキと脈動し、激しく痛む。しかし、もう苦痛では無い。

この痛みこそが、ソリテールから与えられた、確かな信頼の証。

 

 

身勝手で、独りよがりに愛だけを叫んで、気持ちをぶつければ良い。

そう考えていた。この数日の中で、どうせ魔族からは何も返ってこないのだと、諦め、自己完結していたのだ。

 

だけど、フルーフの言葉ではなく、その態度と行動に対して、ソリテールは、特別な感情を抱いてくれていた。

 

 

餌とか、縄張りだとか、本能だとか、そんなことはどうでもいい。

フルーフが、彼女の唯一、特別な人間になれたという事実が、嬉しくて、堪らなかった。

 

 

「告白、聞かせてくれるかしら」

 

 

ソリテールの、静かな声が響く。

 

 

なら、私も返事をしなければ。

フルーフは、彼女に気に入られるために用意しておいた、ありったけのセリフを全て破棄し、心の底から湧き上がる、ありのままの言葉を綴った。

最期の気力を振り絞り、はっきりとした口調で、告白する。

 

 

「はい……毎日、一度は、ソリテール様の手で、殺して欲しいです」

 

 

貴女から与えられる、生の実感が、恋しい。

 

 

「えぇ」

 

 

「毎日、ソリテール様に、喰べて欲しいです……」

 

 

貴女に全てを捧げて、愛されたい。

 

 

「えぇ」

 

 

「これからも、私の死に際の言葉を、聞いてくれますか……?」

 

 

ずっと、生涯、私の身勝手な愛の言葉を、聞いてくれますか。

 

 

「えぇ……大丈夫。全部、してあげるわ」

 

「嬉しいなぁ……もう、死んでしまいそうです」

 

 

急速に、力が抜けていく。

突然もたらされた幸福の絶頂に、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れてしまったようだ。

 

 

「もう限界のようね」

 

 

ソリテールの声が、遠くなっていく。

 

 

「最期に、貴女の……死に際の言葉(愛の言葉)を、聞かせてくれるかしら」

 

 

ソリテールは、手にした大剣を、フルーフへと突きつけ、最期の言葉を尋ねる。

月光を反射して、刃が冷たく輝いていた。

 

 

「ソリテール様……」

 

 

フルーフは、最後の力を振り絞った。

 

 

「愛しています」

 

 

「えぇ()…少し休んで。おやすみ……フルーフ」

 

 

ただ、何かが空を切る音が聞こえる。

極限状態の中で、首筋が裂け、胴体から切り離されていく。

痛くはない。それは、地獄から解き放たれていくような、開放感すら感じられる。

 

 

なんだか、今回は、よく眠れる気がするな。

 

 

――ゴトッ。

 

 

切り飛ばされた頭を、ソリテールは両手で拾い上げ、大事そうに抱えると、集落を出ていく。

 

すぐには蘇生しなかった。

フルーフは、あらゆる感情が満たされる、特別な死を、噛み締める。深く、長く、死に続けていた。

 

 

 

「帰りましょう……私達の家に。今日は疲れたでしょう。一緒に寝て……明日から、またたくさん、お話ししましょう」

 

 

ソリテールは、抱えた生首に、優しく語りかける。

その声は、初めて、どこか温かみを帯びているように聞こえた。

 

 

「そうだ……誓いのキス。確か、夫婦には、そういうものも大事だったはず。フルーフ……愚かな人間。もう後戻りは許さない。逃しはしないわ……地獄の底まで、付いてきて貰うから」

 

 

血染めの唇へと、そっと唇を降ろし、無名の大魔族は、不気味に、そしてどこか慈しむように、笑っていた。

 

 

刈り取られた血染めの生首と、無名の大魔族は、倒錯した愛を確かめ合う恋人のように、静かな夜空を見つめ、歩き続ける。

草の葉が夜風にそよぐ音、虫の囀りが、二人の帰路を、優しく包み込んでいた。

 

 

 

「愛しているわ、フルーフ」

 

 

 

ソリテールは、腕の中の生首を見つめながら、そう呟いた。

 

 

 

「――……ふふ、やっぱり、私には分からないのね」

 

 

愛を持たない魔族の声が、夜の闇に虚しく響き、そして、静かに消えていった。

 

 

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