ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第47話▶閑話▶フランメの独白

 

 

 

夕暮れの光が、古びた書斎の窓から差し込んでいた。

 

埃っぽい本棚、羊皮紙の束が積み上げられた机、壁に掛けられた色褪せた地図。

大魔法使いフランメの隠居先は、その名声からは想像もつかないほど質素で、静謐な空気に満ちていた。

 

窓辺の椅子に深く腰掛けた老女が、外の景色を眺めている。

人類を魔法の時代へと導いた伝説の魔法使い。その横顔には深い皺が刻まれ、髪が夕陽に照らされて淡く輝いていた。

 

師匠(せんせい)、用って何?」

 

背後から、抑揚のない声が響く。

 

「フルーフのことで呼び出したみたいだけど」

 

フリーレンは入口に立ったまま、師の背中を見つめていた。呼び出しの手紙には詳しいことは書かれていなかった。ただ「話がある」とだけ。

フランメは振り返らなかった。代わりに、外を見つめたまま口を開く。

 

「まぁ、座れ……」

 

声が掠れている。いつもの快活さが、どこにもない。

 

「フリーレン、お前に……少し私の犯した間違いについて聞いてもらおうと思ってな」

 

フリーレンは言われるまま、対面の椅子に腰を下ろした。師匠の横顔を窺う。逆光の中、その表情は読み取れない。

 

「フルーフの話じゃなかったの?」

 

「……フルーフの話さ」

 

フランメはようやく振り返った。皺に縁取られた目元が、どこか疲れて見える。

 

「で、なに? もう歳なんだから、あんまり外に出てるとフルーフが怒るよ」

 

「フルーフに続いてお前まで私を年寄り扱いするのか? 勘弁してくれ」

 

苦笑を浮かべながら、フランメは膝の上で手を組んだ。その指先がかすかに震えているのを、フリーレンは見逃さなかった。

 

「なに、すぐに終わる話さ。私があの子にしてしまった過ちを、少しだけ話すだけだ」

 

「……それって、私とフルーフを区別してたこと?」

 

フランメの手が、一瞬だけ強く握り締められる。

 

「なんだ、フリーレン……お前、気づいていたのか?」

 

「いくら私でもわかるよ。今はそうでもないけど、三十年くらい前までは酷かったよね」

 

淡々とした口調だった。責めているわけではない。ただ事実を述べているだけ。それがかえってフランメの胸を抉る。

 

「そうだ。わかっているなら話は早い……」

 

フランメは一度言葉を切り、間を置いた。老いた肺が、ゆっくりと膨らむ。

 

「何も言わなくていい。聞いてくれるか?」

 

「うん、いいよ」

 

フリーレンは小さく頷いた。膝の上に手を置き、聞く姿勢を取る。

 

外で、小鳥が一声鳴いて飛び去った。

 

「お前の言う通りだ、フリーレン」

 

フランメは視線を落とし、自らの皺だらけの手を見つめながら語り始めた。

 

「私は長い間、お前たちを対等には扱ってこなかった」

 

「フルーフを拾った頃……あの時の私はまだ若くてな。自惚れも強かった」

 

記憶を辿るように、フランメは遠い目をした。

 

「自分には才能があると、多少なりとも驕っていた。既存の魔法なんて理解できて当たり前、世の中の魔法使いが躓く程度の壁など、私には存在しないとすら思っていた」

 

フリーレンは黙って聞いている。

 

「だからといって、フルーフを見下していた訳じゃない」

 

フランメの声が、少し柔らかくなる。

 

「私も誰かにものを教えるのは初めての経験だったんだ。だから普通の人間はこんなものだろうと考えて、色々試しながら懸命に教え込んだ」

 

懸命に。その言葉を、フランメは噛み締めるように繰り返した。

 

「あの時のあの子は……身体は成熟していても、精神は子供みたいなものだった。好奇心旺盛で、何でも吸収しようとして、私の後ろをずっとついて回っていた」

 

ふと、口元に淡い笑みが浮かぶ。だがそれはすぐに消えた。

 

「何度か魔法を教えているうちに、才能がないことなんてすぐにわかった。基礎的な魔力制御すら覚束ない。何度繰り返しても、火を灯す程度の術式さえ安定しなかった」

 

フランメは小さく嘆息した。

 

「それでも……師匠(せんせい)に何を言われようが、私も一人の人間を拾った責任として、魔法を教えることを止めなかった。少なくとも、最初の頃はそうだった」

 

「最初の頃は」という言葉が、重く響いた。

 

「だが……私がお前に魔法を教え始めてから、変わってしまった」

 

フランメは一度言葉を切った。視線を外に向ける。夕陽が沈みかけ、空が茜色から紫へと移り変わろうとしている。

 

「いや、違うな。私が……無意識にあの子への態度を変えてしまったんだ」

 

フランメは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。

 

「出来て当たり前のことを、何年経っても出来ない。こちらがどれだけ工夫しても、何の反応も返ってこない」

 

その声には、かつての……自身への苛立ちの残滓が滲んでいた。

 

「無限の魔力、無限の生命、潰えることのない魂……あの子はそういう存在だった」

 

フランメは俯き、自らの掌を見つめる。

 

「興味本位だったとはいえ、私は自分の意思で拾い、面倒を見ると決めた。なのに……いつしか私は、フルーフに何の期待もしなくなっていた」

 

フリーレンは何も言わない。ただ黙って、師の言葉を受け止めている。

 

「お前を拾って弟子にしたのは、そんな時だ」

 

フランメの口調が変わった。

 

「フルーフを引き取ってから十年ほど経った頃だったか。お前は優秀だった。私があの子に何年もかけて教えようとしていたことを、お前は最初から全て熟せていた」

 

遠くで、鴉が一声鳴いた。

 

「その日から……虚無で退屈だった弟子の育成が、充実したものに変わったんだ」

 

フランメの声に、熱が籠もる。

 

「お前は私が言ったことをよく理解し、確実に吸収し、学んでいった。可笑しな話だが……私はそんな日々の中で初めて、弟子を取るとはこういうことかと実感したんだ」

 

その言葉の意味を、フリーレンは正確に理解していた。つまりフルーフは、フランメにとって「弟子」ですらなかったということだ。

 

「それがどうしようもなく楽しくて……」

 

フランメの声が、急に沈んだ。

 

「私は……とんでもない間違いを犯した」

 

沈黙が落ちた。

暮れなずむ光の中、フランメの影が壁に長く伸びている。老いた魔法使いは瞼を伏せ、深い息を吐いた。

 

「フルーフに……義務感だけで教育を施すようになった」

 

告解するように、言葉が紡がれる。

 

「時には、時間を取られることに疎ましさを感じることもあった。いつしか……あの子が身体だけ成熟した子供だということも、忘れていたんだ」

 

フランメの手が、膝の上で握り締められる。

 

「座学と称して部屋に閉じ込め、お前にだけ時間を割いて魔法を教えた。優秀な弟子を優先し……自分なりに頑張っていたあの子を、見て見ぬふりをした」

 

言葉が詰まりかけた。

 

「いないものとして……扱った」

 

フリーレンの睫毛が、微かに揺れる。だが口は開かない。

 

「最低だろう。……だが、その時の私にはそんな自覚がなかったんだ」

 

フランメは自嘲するように笑った。笑みというには、あまりにも歪んでいた。

 

「最初はあれだけ甲斐甲斐しく世話をしておいて、お前が来てからそんな態度だ。フルーフは傷ついただろうな……そんなこと、考えるまでもない」

 

差し込む光が、橙から赤紫へと変わりつつある。

 

「日々成長するお前を見ているのが、楽しかったよ。それこそ……過ぎる月日を忘れるほどにな」

 

「そんな日々の中で、間違いを悟ったのは……」

 

フランメは言葉を切り、指折り数えるように宙を見つめた。

 

「あの子を拾って、二十年以上が経った後だ。ふと気がついたんだ」

 

その瞳は、ここではない何処かを映していた。

 

「昔は私の背を追いかけ、『せんせい』と呼んで慕うフルーフの声を……久しく聞いていないことに」

 

フリーレンは目を伏せた。

 

「久しぶりにあの子と正面から向き合った時……」

 

フランメの声が、震えた。

 

「私は……己の過ちを悟った」

 

間があった。外で風が吹き、木の葉が擦れ合う音がした。

 

「あの子はもう、私に何の期待もしていなかったんだ」

 

言葉が、重く落ちる。

 

「魔法を教えてくれとも言わない。私が纏めた魔族の記録を、ただひたすらに読んでいた。何度も何度も……時折、笑いながら」

 

フランメは首を横に振った。

 

「昔、私に向けていた憧れの視線なんて……もうどこにもなかった」

 

「……気づいてたよ」

 

フリーレンが、ぽつりと口を開いた。

 

「フルーフが師匠(せんせい)のことを話す時、いつも寂しそうだった」

 

フランメは何も言わなかった。

 

「お前に会わせた時のこと、覚えているだろう」

 

「うん」

 

「いきなり魔族と結婚すると言い出した」

 

フリーレンは小さく頷いた。あの時の光景を、彼女もよく覚えている。目を輝かせて語るフルーフと、困惑する自分と、何も言わないフランメ。

 

「散々注意して、考えを改めさせた。それ以降、二度とそんなことは言わなくなった」

 

フランメは視線を落とした。

 

「代わりに……『私と同じくらい凄い魔法使いになりたい』と言うようになった」

 

その言葉が、どれほど切実なものだったか。今ならわかる。

 

「だが、その夢を……他ならない私が潰した」

 

フランメの声から、感情が抜け落ちていく。

 

師匠(せんせい)から才能や将来性について、どれだけ責め立てられても……私はあの子を擁護することもせず、ただ事実として受け止めるだけだった」

 

拳が、白くなるほど握り締められる。

 

「弟子として一度認め、魔法の楽しさまで教え込んでおいて……見放した」

 

「……師匠(せんせい)

 

「だから止められなかった」

 

フランメは苦い顔をした。

 

「好きな魔族に会いに行くだなんて、巫山戯たことを抜かしても……私には叱る権利も、止める資格もなかった」

 

外が急速に暗くなっていく。夕闇が終わり、夜が訪れようとしている。

 

「私の弟子として大成する……そんな夢の代わりに、魔族があの子の魂を支えていたんだ」

 

フランメは、ゆっくりと目を開けた。

 

「あの子には、生きる意味が必要だった」

 

その瞳には、深い後悔が滲んでいる。

 

「狂うことも出来ずに、永劫痛みと別れが伴う世界を生き続ける。そのためには……何か理由がなければ、人間としてやっていられなかったんだろう」

 

書斎は薄闇に沈みつつあった。

フランメは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外はもう宵闇だ。最初の星が、紫紺の空に瞬き始めている。

 

「もう……あの子に私がしてやれることは何もなかった」

 

背を向けたまま、フランメは続けた。

 

「新しい魔法の理論を教えようにも、そんなものは何の役にも立たない。あの子が求めているのは、そういうことじゃなかった」

 

フリーレンは黙って師の背中を見つめている。淡い光が、老いた魔法使いの輪郭を縁取っていた。

 

「だからせめて……あの子が幸福な生を終えられるように、希望ある生を歩めるように」

 

フランメは振り返った。その顔には、諦めとも覚悟ともつかない表情が浮かんでいる。

 

「私なりの贖罪も兼ねて、あの子を快く見送ることに決めたんだ」

 

「見送る……」

 

フリーレンが小さく呟いた。

 

「そう。これまで蔑ろにしてきた謝罪を込めて……残りの時間を使って、あの子が望むなら死ねるように、どうにかしてやるつもりだ」

 

フリーレンは理解していた、フルーフという規格外の不死へと死を与える。

それがどれほど困難で、どれほど残酷な優しさであるかを。

 

フランメは机の引き出しを開け、一冊の古びた手帳を取り出した。革の表紙は擦り切れ、頁の端は黄ばんでいる。

 

「それともう一つ……無理やりにでも、あの子を魂ごと殺し尽くす魔法を確立した」

 

手帳を胸に抱くようにして、フランメは言った。

 

「これは本当の本当に、あの子が死にたくても死ねなくなった時の……最後の手段だ」

 

フリーレンの瞳が、僅かに揺れた。

 

「出来れば、使うようなことは今後あって欲しくない。だが……万が一の時のために、これだけは用意しておかなければならなかった」

 

フランメは手帳を引き出しに戻し、そっと閉じた。

 

「ただ……一つだけ、懸念がある」

 

「懸念?」

 

「この魔法は、師匠(せんせい)に託してある」

 

フランメは夜空を見た。

 

「ゼーリエに……私の師匠に」

 

フリーレンの表情が強張った。

 

師匠(せんせい)は優秀だ。私などより遥かに。だが……あの人は、フルーフのことを理解していない」

 

言葉の端に、苦い響きがあった。

 

「才能のない者への眼差しが、どこまでも冷たい。あの人にとってフルーフは……魔法使いとして認めるに値しない存在だ」

 

フランメは首を横に振った。

 

「もしゼーリエが……間違った形でこの魔法を使おうとした時、フルーフは抗う術を持たない。あの人は、フルーフを救う為にこの魔法を使うとは限らないんだ」

 

フリーレンは黙っていた。ゼーリエの名前が出た瞬間から、その瞳に複雑な光が宿っている。

 

「私の師匠(せんせい)ではあるが、私とは決定的に相容れない部分がある。それが……あの人なんだ」

 

言葉が途切れた。

 

夜の帳が完全に下り、書斎は闇に包まれている。フランメが指を鳴らすと、机の上の燭台に小さな炎が灯った。

 

揺れる炎が、二人の顔を照らす。

 

「フリーレン……」

 

フランメの声が、低く響いた。

 

「人間ってものはな、歳を重ねると……嫌でも昔を懐かしんでしまうものなんだ」

 

炎が、ちらちらと瞬く。

 

「そしてその度に痛感する。私は本当に愚かだった……」

 

フランメは自嘲するように笑った。

 

「フルーフのように、魔法を純粋に楽しもうと努力する者にこそ、魔法を使えるようになって欲しかった。その為に研究を重ね、魔法を普及させるように努めたのにな」

 

目が虚空を泳いだ。

 

「これじゃあ本末転倒もいい所だ」

 

燭台の炎が、パチリと音を立てた。

フランメはフリーレンの正面に座り直し、真っ直ぐにその目を見つめた。老いた瞳に、確かな光が宿っている。

 

「フリーレン……お前は私の弟子だ」

 

「うん」

 

「なら、師匠の頼みくらいは喜んで聞けるだろう」

 

フリーレンは無言で頷いた。

 

フランメは一呼吸置いた。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁で踊る。

 

「もし……」

 

声が、僅かに震えた。

 

「あの子がまだ生きたいと願っているにも関わらず……殺されそうになっている、その時は」

 

フランメは深く息を吸い込んだ。

 

そして、絞り出すように言った。

 

「――その時は、お前がフルーフを助けてやってくれ」

 

長い沈黙が落ちた。

 

炎だけが、小さく揺れている。外では風が木の葉を揺らし、さらさらと音を立てていた。

 

フリーレンは目を閉じた。

 

師匠の言葉が、胸の奥に沈んでいく。重く、深く、確かな重みを持って。

 

やがて、ゆっくりと目を開けた。

 

「そっか」

 

短く呟き、フリーレンは立ち上がった。

 

 

 

「うん……言われるまでもないよ、フランメ」

 

 

 

その声には、いつもの抑揚のなさの中に、確かな決意が滲んでいた。

 

フランメは目を見開いた。そして、ゆっくりと微笑んだ。皺だらけの顔に浮かんだその笑みは、どこか晴れやかだった。

 

「そうか……そうか」

 

フリーレンは振り返らずに、書斎の扉へと歩いていく。

 

師匠(せんせい)

 

扉に手をかけたまま、背中越しに言った。

 

「フルーフは、師匠(せんせい)のこと、嫌いじゃないと思うよ。多分……今も、これからもずっと」

 

フランメは答えなかった。答えられなかった。

 

扉が音もなく閉まる。足音が遠ざかっていく。

 

一人残されたフランメは、窓辺に歩み寄った。

 

「フルーフ……」

 

誰にも聞こえない声で、フランメは呟いた。

 

蝋燭の炎が、一際大きく揺れた。

老いた魔法使いの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フリーレンの足音が完全に聞こえなくなってから、どれほどの時間が経っただろう。

 

燭台の蝋燭は半分ほどに減り、窓の外では星々が静かに瞬いている。

 

フランメは窓辺に立ったまま、ずっと動かなかった。涙の跡が乾いた頬を、仄かな光が照らしている。

 

やがて、彼女はゆっくりと振り返った。

 

誰もいないはずの部屋の隅。そこに向かって、おもむろに口を開く。

 

「過ちか……」

 

その声は、先ほどフリーレンに語っていた時とは違う響きを帯びていた。

 

「最後まで、全てを話さず、弟子に託すばかり。私は、過ちを重ねるばかりだな」

 

誰に語りかけているのか。部屋には誰もいない。

 

だが、フランメの視線は確かに、闇の中の一点を見つめていた。

 

「あぁ、お前もいたのか」

 

かすかに、微笑む。

 

「……私はもう長くはない。後十年……二十年も過ぎれば墓に眠っていることだろう。聞こえているかはわからないが……感謝している」

 

言葉が、ゆるやかに紡がれていく。

 

「未来で私が犯す過ちを……お前は――お前達は、私に償う機会をくれた」

 

仄かな光が、老いた魔法使いの横顔を照らす。

 

「できれば、私が過ちを犯すもっと前に来てほしかったがな。いや、忘れてくれ。そんなことは、他ならないお前が許さないだろう」

 

自嘲するように、肩を竦める。

 

「残りの人生で、希望は繋ぐ」

 

言葉が途絶えた。

 

部屋の隅の闇が、揺らいだような気がした。だが、それは炎が揺れただけかもしれない。

 

「本当はお前自身が、あの子を助けたかっただろうに」

 

フランメの声が、揺らいだ。

 

「その役目を譲ってくれた。お前達にはもう成せないことなのかもしれないが……この先の未来で、満足のいく終わりを迎えられることを祈っている」

 

言葉を切った。

 

「これで、少なくとも、あの娘は……この先の人生を絶望だけで過ごさずに済む。千年先がどう変わるかはわからないが、きっと、いい未来になるだろうさ」

 

フランメは机の引き出しを開けた。

 

その奥に、異質なものが眠っている。

血に濡れた、分厚い冊子。

 

表紙には乾いた血痕がこびりつき、頁の端々にも赤黒い染みが滲んでいる。両手で抱えるほどの重さ。だが、その中に記された文字は一つ残らず読み取れた。まるで、どれほど汚れようとも、この言葉だけは伝えなければならないという執念が宿っているかのように。

 

フランメはそれを、両手で丁寧に取り出した。

 

「書かれている通り、あの魔法は保険として師匠(せんせい)に伝えた」

 

深い溜息。

 

「……はぁ。あの魔法は私の罪そのものだ。なかったものとして葬り去りたかったんだがな」

 

血濡れの冊子を、胸に抱くようにして続ける。

 

「私に返せる礼がこれしかない以上、お前の願い通りするしかない」

 

冊子を、闇の方へと差し出すように掲げる。

 

「安心しろ、残りの人生を使えば死の魔法は完成する。予定通り、フルーフを殺す魔法は私が開発したと伝える……だが、それで本当によかったのか? お前達が成そうとしたことを、未来にまで届けることも出来るんだぞ?」

 

返事はない。だが、フランメは何かを聞いたように頷いた。

 

「意識が少し戻ったようだな。……そうか」

 

声が、穏やかになる。

 

「フリーレンにも念押しをしておいた。これで、あの子のために力を貸してくれるだろう」

 

冊子を机に置き、元の場所へと戻る。

 

「わかっているさ。フリーレンは私の言葉なんてなくとも、フルーフを助ける。あの子達は友達だからな」

 

苦笑が漏れた。

 

「不甲斐ない師匠として、言わずにはいられなかっただけだ」

 

星が、ゆっくりと動いていく。

時間が、ゆっくりと過ぎていた。

 

「聞くまでもないことだが」

 

フランメは闇に向かって問いかけた。

 

「最期まで……歩みきれそうか? 私にも、今から手助け程度は出来るぞ」

 

返事はない。だが、フランメは小さく頷いた。

 

「そうか。それなら……」

 

その声には、万感の想いが込められていた。

 

「お前が決めた一本の道を歩みきれ。その先にあるのは、戦場などではなく、お前の晴れ舞台だ」

 

闇が、揺らいだ気がした。

 

「残念だ。きっと師匠(せんせい)の驚く顔が見れただろうに……」

 

フランメは瞼を下ろした。

 

「私は、いつでもお前とあの子を見守っている。全てが繋がり、世界が変わる――その瞬間まで」

 

長い沈黙が流れた。

やがて、フランメは最後の言葉を紡いだ。

 

「お前達の想い(魔法)は、あの子の希望となり生かすだろう。私ではなく、お前達がな」

 

声に、熱がこもった。

 

「この魔法はきっとそのためにある。だから、私は、お前自身の力で……あの子を楽にしてあげられる未来を願っている」

 

蝋燭の炎が、大きく揺れた。

 

「……応援しているぞ……」

 

その言葉は、祈りのように響いた。

 

「――……」

 

最後の音が、夜の静寂に溶けていく。

部屋の隅の闇は、いつの間にか薄れていた。

 

そこには何もない。最初から、誰もいなかったかのように。

 

フランメは窓辺に立ち、夜空を見上げていた。

無数の星が、変わらず瞬いている。その光は何百年も前に放たれたもの。届く頃には、もう消えているかもしれない星の輝き。

 

だが、その光は確かに、今この瞬間、ここに届いている。

 

未来で輝く光も、きっと同じだ。

 

フランメは静かに目を閉じ、そして微笑んだ。

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