ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――数週間後。
修道服の裾が闇に翻る。
教会の薄暗い回廊を、一人の女が息を切らして駆け抜けていた。時刻は深夜、誰もが寝静まる刻限。蝋燭立ての頼りない炎だけが、石畳を照らしている。
背後からは、コツ……コツ……と、静かな足音が響いてくる。決して急がず、されど確実に距離を詰めてくる何者かの気配。
「はぁ……はぁ……ど、どうして教会の中に魔族が……ッ!?」
女の顔は闇に覆われ、その表情は窺えない。
『魔族……魔族が』と、途切れ途切れに呟きながら、女は通路を駆け抜ける。目指すは奥の大広間――日中であれば民衆が女神に祈りを捧げる聖なる場所だった。
広大な礼拝堂には灯り一つない。高窓から差し込む月光だけが、正面の女神像を青白く照らし出していた。
背後からは追跡者の気配がじわりと迫り、獲物を逃がすつもりなど微塵もないことを告げている。
最早逃げ場はなかった。女は女神像の前に跪き、震える両手を組み合わせて祈りを捧げる。
背後からは『逃げないで、お姉さんと楽しくお話しよう』と、感情の欠落した囁き声が木霊し、女の全身へと染み込んでいく。
「女神様……どうかその慈愛と慈悲で哀れな私をお守り下さい……ッ」
女は全身をガタガタと震わせながら、それでも祈ることを止めない。
だが現実は祈りに応えてはくれなかった。足音は礼拝堂の石畳を踏みしめながら近づき、女の背後でぴたりと止まる。
「ねぇ。逃げるだなんて……私、とても傷ついたわ」
「こ、ここは神聖な教会です! 汚れた魔族は今直ぐに出ていきなさい!」
両肩に手が添えられた。じわりと体重がかけられ、女の身体が石畳に押しつけられていく。
神聖であるべき空間を穢す、鼻の曲がるような腐臭。残忍な死の匂いに、女は吐き気を堪えながらも声を絞り出した。
「戦う力も無いのに、とても勇敢。素敵ね、もっと楽しくお話しましょう」
「め、女神様、どうかこの邪悪な存在を清め給え――ひぎぃッ!?」
囁きと同時に、肩筋に鋭い痛みが走った。
魔族が、甘く噛みついたのだ。歯が薄皮を裂き、筋繊維を抉り、鮮血が溢れ出す。ブチブチと嫌な音を立てて僧帽筋の一部が噛みちぎられ、女の視界が白く明滅した。
クチャ、クチャと、湿った咀嚼音が響く。
まるでガムでも味わうかのように、魔族は女の肉を口の中で転がしていた。被捕食者の耳朶に絡みつくその音は、死への秒読みそのものだった。
ゴクン……と嚥下音が聞こえ、再び血生臭い吐息が耳元にかかる。
「とても美味しかったわ。貴女の悲鳴はとても綺麗……人間の貴族は音楽を聞きながら優雅に食事を取ることもあるそうね。私もそれに習おうと思うの……だから、もっと――貴女の悲鳴で私の食事を彩ってほしい」
「私の命は女神様に捧げしもの、魔族に捧げるものなど何一つ――んぎぃッ!?」
「ん〜〜? こんな美味しいお肉を独り占めだなんて、女神に嫉妬してしまうわ。だけど残念……その命は今、私に握られているの」
口答えした罰とばかりに、魔族は女の手を踏みつけた。
乾いた音が連続して響く。中指、人差し指、薬指――三本の指がまとめて圧し折られ、女の喉から悲鳴が迸った。
魔族は脂汗を流す女の喉元を、犬でも撫でるように指で辿る。そして躊躇なく爪を突き立て、白い肌を引き裂いた。
溢れ出す血と、全身を貫く激痛。
蹲る女の手脚を掴み、魔族は一本ずつ丁寧に砕いていく。関節が外れ、骨が軋み、粉々に崩れていく感触を楽しむように。
声にならない悲鳴を聞きながら、太腿の肉を一口、二の腕を一口と、魔族は贅沢に味わいながら食事を進めていった。
筋繊維と骨を繋ぐ腱を切られ、骨格そのものを砕かれた女に、もはや動く自由はない。
辛うじて動く眼球だけで魔族を睨みつけ、最後の瞬間まで反抗の意志を示す。まるで女神の敵を見据えるかのような視線に、魔族は笑みを深めた。
「……素敵」
たった一言。それだけを呟いて。
手脚から指の一本に至るまで、まともな形を保っているものは何一つない。全てが不自然な方向へ折れ曲がった女に、魔族は馬乗りになって見下ろした。
「敬虔な女神の信者との『お話』は楽しいわ。最期に命乞いを聞かせて」
「し、神罰があらんことを……」
「とっても斬新な言葉。神の罰が本当にあるのだとしたら私達魔族はとっくに絶滅しているわ、愚かで可愛らしい妄想ね」
最後の希望すら踏み躙る言葉を吐いて、魔族は女の胸に手を沈めた。
肋骨が軋み、砕け、心臓に指が触れる。脈打つ臓器を揉みしだきながら、ゆっくりと握り潰していく。
命の灯火が消えゆく呼吸を聞きながら、魔族は首筋に齧りつき、温かな血を啜り、肉を貪った。
手脚を玩具のように千切り、腹部に顔を埋めて臓物を食い破り――
やがて残されたのは、野生の肉食獣に無残にも捕食された、汚らしい死骸だけだった。
月光に照らされた祭壇の上で、魔族は満足げな笑みを浮かべる。
口の端についた血をペロリと舐め取り、更に死骸を弄ぼうと腕を伸ばした、その瞬間――
――バン!という轟音と共に、教会の正面扉が蹴り破られた。
扉を蹴り開いたのは、アウラと南の勇者だった。
その背後には、眠たそうに目を擦るフリーレンとリーニエの姿がある。
アウラは血に染まった礼拝堂を見渡し、口角をひくつかせた。南の勇者も見るからにげんなりした様子で、祭壇の惨状に目を向ける。
そして血まみれの光景を目にした瞬間、アウラの怒声が礼拝堂に響き渡った。
「問題を……起こすなって言ってるでしょうが……
――この色ボケ共!」
「まぁまぁ……アウラ。片付け自体は毎回やってくれているんだ。それに今は深夜なのだぞ……そう騒がず落ち着きたまえ」
宥めようとする南の勇者だが、声音に覇気はなく、半ば諦めの境地に達しているようだった。
その疲弊した様子が、今回のような事件が初めてではないことを如実に物語っている。
「そうは言っても今回で何回目よ……ッ! 前は衛兵の詰め所、その前は伯爵の執務室、その前は食堂でヤったのよ!?」
「
「
フリーレンとリーニエが呼んだ名前に、祭壇の上で屍となっている女と、その上に馬乗りになっている魔族が顔を向けた。
二人は愛想笑いを浮かべながら、白々しい言い訳を口にする。
「わ、私は……クソッタレ女神を信仰するファッキンシスター、フルーフなどという方は知りません」
「私は……魔族史上最強の大魔族、ソリテールだなんて臆病な魔族は知らないわ」
「コイツら私のこと舐めてるのかしら?」
どこからどう見ても見知った顔であるにも関わらず、しょうもない嘘をつく二人。アウラは額に青筋を浮かべ、拳を握り締めた。
流石にまずいと悟ったのか、二人は観念したように白状する。
「フルーフです」
「ソリテールよ」
頬を引きつらせるアウラは、背後にいるリーニエを前に呼びつけた。
祭壇の上では、腹部に腕や顔を突っ込み物理的に合体している二人の姿がある。
アウラはそれを指差しながら問いかけた。
「ねぇ、リーニエ。お母様を食べるだけならもう少し静かに出来るわよね……どうしてあの二人毎晩あんなに騒ぐのよ」
「商人が言っていた、夫婦で深夜にすることは一つ。
――つまりS◯X……せぇ〜◯くす」
「コホン……止めたまえ。魔族とはいえ年頃の娘がそういうことを口にするものではない」
寝惚けているのか、適当な返答をするリーニエ。アウラは深く息を吐き、考えることを放棄した。
なんとなく理由は察せてしまう。だが、自身の母親が性格最悪の相手と猟奇的なイメージプレイで夜な夜な絶叫しているなど、考えたくもなかった。
「ふ、ぁ〜……
フルーフの惨殺現場など見慣れているのか、フリーレンは呑気に欠伸を噛み殺しながら、部屋の隅にある懺悔室に目を向けた。
懺悔室からはガタガタと騒がしい物音が聞こえ、入口からフェルンとシュタルクが姿を現す。
だが――明らかに様子のおかしいフェルンに、フリーレンは思わず半歩退いた。
「………フリーレン様。これは違います、私はただ夜中に変な動きをしていた二人組を追って監視していただけです。案の定えっちなことをし始めたので、止める機会を伺っていました」
フェルンは鼻から血を垂らしながら、至極冷静にそう宣った。
仲間であっても、流石に引いてしまう光景だった。
「俺はフェルンに連れてこられただけだッ!? フリーレン、助けてくれぇ〜!! ……なんか俺のことをフェルンがすげぇ眼で見てくるんだよ! なんでアレを見て毎回鼻血を垂らしてるんだよ……俺なんて血の気が引いたんだぞ! 怖ぇよ!?」
顔を紅潮させるフェルンとは対照的に、シュタルクは顔面蒼白だった。襟首を掴まれたまま、必死にフリーレンへ助けを求めている。
「シュタルク様静かにしてください……噛みますよ」
しかし救援信号はフェルンの謎の脅しにより即座に遮断された。
シュタルクは口を噤み、涙目でフリーレン達を見つめるしかない。
「シュタルクまでいたんだ……。魔力制御が上達してるね、こんなことで上手くなって欲しくなかったかな」
「それじゃお母様とソリテール。アホな真似はもう終いよ、此処を綺麗にしたらアンタ達はさっさと帰って寝なさい」
アウラは肩を落としながら、まるで母親のような小言を口にした。
先程まで怒る気満々だったが、仕事終わりの疲労が溜まっているのか、怒鳴る気力すら失せてしまったようだ。
普段であれば注意を受けて素直に去る二人だが、今回は違った。
折角シスター服まで作ったのだからと、フルーフは未練たらたらである。
「ソリテール様、どうしましょう? 予定だとこのあと奇跡的に神様パワーで蘇った私がイキりちらした挙げ句ボコボコにされて、女神裏切り背信捕食ラウンドに移行するつもりだったのですが……」
「ふふ……なら。今、此処で開始するわ」
「ハっ!――や、やるんですね! 今、ここで……!」
その場にいる全員が『――は?』と呆けた声を上げた。
どうやらこの二人、衆人環視の中で更に始める気らしい。
気づけば全員の手に、無意識のうちに杖、剣、斧、天秤が握られていた。
あわや力ずくで変態プレイを阻止する――別種の混沌に発展しかけた、その瞬間。
薄い霧が、音もなく礼拝堂を満たし始めた。
「申し訳ありませんアウラさん!ですが今最高にいいところなので……って、うん?――げぇッ!?こ、この魔力を微量に含んだ霧はまさか……!?」
浅く漂っていた霧が一点へと収束し、形を成していく。
霧の中に陰が浮かび上がった瞬間、夕焼けのような炎が灯り、フルーフを見下ろしながら幻聴による声を発した。
『フルーフ……貴様』
それは、伯爵領へ挨拶に立ち寄ったアインザームだった。
その姿を認めた瞬間、真っ先に反応したのはフルーフとアウラ。二人は示し合わせたように同じポーズを取り、同じ台詞を口にする。
「「うぉ……眩しッ!?」」
まるで太陽を直視したかのように顔を顰め、二人は手で目元を覆って視線を逸らした。
「こんばんは、アインザーム。貴方がくるだなんて予想していなかったわ」
フルーフに跨ったまま呑気に挨拶するソリテールに、アインザームは眉間を揉みながら嘆息の仕草を見せた。
そしてもう一つ、霧の中からコツコツと靴音を鳴らし、女魔族が姿を現す。
フルーフの千切れた腕をスナック感覚で齧りながら、ソリテールへと頭を下げた。
突然現れた魔物と魔族に、フリーレンと南の勇者は油断なく武器を構え、臨戦態勢を取る。
「私もいますよ、ソリテール様。あぁ……怪しいものではありません、私は一介の旅の僧侶であり。フルーフさんのお友達です。皆さんからはツルギと呼ばれています……以後お見知りおきを。警戒なさらなくても大丈夫です。私は弱く、ただの食事好きな一般魔族ですので」
深夜にサングラスをかけた、くたびれた雰囲気の女魔族。
旅の僧侶という自己紹介とは程遠い風貌だった。
「どう思う……南の勇者? 魔力量はそこら辺の魔族とあんまり変わらないけど……」
「どう、だと? フリーレン、この中で一番危険度が高いのはあの魔族だと理解しているのだろう。私の直感が一太刀でも受ければ終わりだと告げている」
「あの……誤解があるようです。私は皆様のような大層な存在ではありません、鉾を収めて下さい」
自称一般魔族は、少し皺の刻まれた顔を穏やかに緩めて笑みを見せた。
だが本能的に危険を察知した二人は、警戒を緩めようとはしなかった。
「それじゃ……あの幻影鬼は? たぶんだけど制限している魔力量は、アウラより上だよ」
次に目を向けたのは、二メートルを超える巨躯の魔物。
下半身は存在せず、黒い靄のようなものを漂わせながら常に滞空している。
動作の一つ一つに気品があり、髪も整えている。外装の下にはコートがきちんと着込まれていた。
それ以外を除けば普通の幻影鬼だが、二人の表情は芳しくない。
「あれはなんだ? 魔物……魔物で間違いないんだが……魔物ではないな。なんだあれ? 何故こんな気まずい現場に一生の内に見ない色物が集ってくるのだ?」
もはや何が何だかわからない。
南の勇者は『なんだあれ』と何度も繰り返すばかりで、結論は出なかった。
フリーレンは『まぁ……幻影鬼だし魔法を撃てればどうにかなるでしょ』と思考を切り上げ、アインザームへ杖を向け続ける。
『フルーフ、今直ぐ出ていけ。後始末は私達がしておいてやろう、これ以上私に恥をかかせるな』
ビシッと指を突きつけ、普段からは想像もできない砕けた口調で言い放つアインザーム。
フルーフは目を擦りながら相手を見上げた。
「あ、アインザームとツルギさん……どうやって結界内に入ってこれたんですか? 結界の影響で魔物も魔族も自力で入って来れるはずないのに」
「普通に通れましたよ」
「お、オカルトパワー……きっと、魂がバグりすぎてて結界の対象から外れてたんですね……そうにち――『出ていけ』
長話を始めようとしたフルーフを、アインザームは容赦なく遮った。短く一言で切り捨てる。
「私が全て綺麗に頂きますので、フルーフさんとソリテール様はどうかご退場ください」
剣の魔族もアインザームに同調するようにこくこくと頷き、退場を促した。
流石に分が悪いと感じたのか、フルーフはソリテールへ視線を向けて判断を仰ぐ。
「出ていくわ。アインザーム、私も彼女のお墓に花を捧げたの。だから、貴方と事を構えてまで何かをする気はないわ。その程度の礼儀は弁えているもの」
『賢明な判断だ。………それと、花の礼は言っておく……汝とフルーフの姿が見れて彼女も喜んでいるはずだ』
それだけ言うと、アインザームはソリテールへ背を向けた。
剣の魔族と並んで血痕を辿り、汚れの確認へと向かっていく。
「それじゃあ行きましょうフルーフ。フリーレンと南の勇者もそんなに警戒しなくてもいいわ」
ソリテールの言葉に納得はできないものの、アインザーム達が広間から消えたことで、フリーレン達も渋々武器を収め教会を出ていく。
フルーフも瞬時に全身を再生させると、祭壇から飛び降りてソリテールの後に続いた。
教会の入口の扉をしっかりと閉める。
数秒後――扉の奥から、肉の這いずるような音が聞こえてきた。
全員が驚いたように一斉に扉へ視線を向けるが、ソリテールとフルーフが両手を広げて制する。
「大丈夫。二人共私と違って本当の意味で平和主義なの、襲いかかったりしない限り無害だと約束するわ」
「私も保証します。ちょっと様子が色々おかしいんですが、悪人とは程遠いんで安心して下さい」
言っている本人達が異常者すぎて、何一つ安心できない。
だが深夜に無理やり叩き起こされた面々は皆疲弊しているのか、大したツッコミは入らなかった。
後片付けを買って出てくれて、更に変態夫婦を大人しくさせられるなら、多少不気味でも文句はない。
各々が部屋へと戻っていく中、アウラがソリテールとフルーフの肩を掴んだ。
「お母様とソリテールの問題行動を咎めにきただけなのに異様に疲れたわ……。今日は、もういいから……あの二人については明日説明して頂戴」
「あれは……一応、息子です」
「貴女の義兄よ、長男とも言うわ」
疲れていると言っているのに、とんでもない爆弾を遠慮なく投下してくる空気の読めない二人組。
アウラのこめかみに、血管が浮き上がった。
「はぁ!?息子!!!明日にしろって言ってるでしょうがッッ!?――もぉ嫌よぉこの二人……私は何も聞かなかった、寝る」
「アウラ……最近働きすぎだ。ふぅ……魔族の義妹の次は魔物の義兄か……私も疲れた。帰ろうアウラ。二人も……余り羽目を外しすぎず、自重してくれると助かるのだがな」
南の勇者はよろめくアウラに肩を貸し、城の中へと入っていく。
フルーフとソリテールは互いに顔を見合わせ、頷いた。
「少し自重しましょうか……ソリテール様」
「そうね」
疲労困憊の娘の姿を見て、流石の二人も反省したのか、言われた通り素直に城の中へと入っていった。
◇◇◇
後日、アウラは関係者一同を人気のない一室へと集めた。
新しく伯爵領へとやってきた二人の素性を確認するためだ。
伯爵領に滞在するのであれば、衛兵への周知や根回しはアウラの責任で行わなければならない。
見知らぬ魔族と厳つい魔物が、許可もなく白昼堂々と街を出歩くなど言語道断。
見つかれば即座に衛兵総出で捕縛する騒ぎになりかねない問題だった。
部屋にはフルーフ一行、フリーレン一行が既に着席している。
そして最後に、アウラと南の勇者が扉を開けて入ってきた。
室内には見慣れた面々が座っており――フルーフ側には、見慣れない大男とやたら色気のあるサングラスをかけた女が並んでいる。
「誰?……いえ、わかるんだけど……」
『アインザームだ』
「昨日はどうも。フルーフさんの友人のしがない魔族です」
身長二メートルを超える白髪の大男からは、薄っすらと霧が漂っていた。
魔族と名乗る女には角が見えず、見かけだけは完全に人間に擬態している。
だが、何故わざわざ擬態しているのか、アウラには理解できなかった。
頭のおかしい母の身内にまともな奴などいない――そう決めつけているアウラは、想像だにしていなかった。目の前の存在が、フルーフの周囲でも一二を争うほどの常識人だということに。
「変身魔法を使っているのね。そこのソリテールとリーニエは必死に説得して、ようやく渋々角を隠したのだけれど……貴方達は何故、何も言わずとも配慮してくれているのかしら」
アウラの中に、二人が自発的に気を遣ったという考えはなかった。
どうせこいつらもお母様の身内だし、と諦めムードを漂わせている。
『郷に入っては郷に従え、それが部外者である我々が通すべき筋だ。この場で、私の姿を見せるべきでないと判断した……いらぬ混乱を招く気はない。姿を欺かれることが不快だというのであれば、遠慮せず言うといい、素直にこの領地を出ていこう』
「彼の意見に賛同します。私も騒ぎを起こす気はありません。魔法を使っているのも飽くまで悪意があってのものではなく、社会的常識に沿って礼節を守っているに過ぎません。何かを目論んだり企てたりしているわけではないことをご理解下さい」
予想に反して、極めて真っ当な言葉が返ってきた。
アウラは思わず目を瞬かせる。魂を覗いても読めない相手から、こんなにも筋の通った返答が来るとは思っていなかったのだ。
「え、ちょ。ま……まとも過ぎるわ」
戸惑いを隠せないアウラ。
魂だけ見ればフルーフ以上の異形なのに、言動と態度がまともすぎた。
「貴方、ちょっとアインザーム。その姿、久しぶりに見ましたけど……街中にいる時もその状態で過ごせば、一部から変な眼で見られないんじゃないですか? 常時それでいてくださいよ」
『私のこの姿は一種の抑止力として機能している。悪事を働けばあの恐ろしい魔物に襲われる……そう思って貰うことが目的だ。恐れは自制心を生みだし、小さな悪心であれば矯正するまでも無くその芽を摘むことが出来る。私が姿を晒すことも業務の一環だ』
「何事も平和が一番です。美味しい食事とそれを分かち合う友人……それらを平穏に享受出来るのはアインの働きあってのことです……頭があがりません」
アウラは内心で困惑していた。
アインザームの魂は眼を焼くような光の塊で、輪郭すら判然としない。
もう一方に至っては、魂という概念そのものが壊れた脈動する肉塊だ。
何も読めない。
明らかに異常者なのに――何故か一周回って、引くほどまともだった。
その様子を、フリーレンも訝しみ、困惑しながら眺める。
フルーフとソリテールの式に呼ばれなかったのは、自分の気質のせいだと理解し納得もしている。
魔族を見れば反射的に杖を構える奴が招待されないのは、仕方のないことだった。
だが――目の前の光景は、それとは別の話だ。
フリーレンは即座に迎撃できるよう杖を椅子に立てかけ、精神魔法対策のプロテクトまで施している。
なのに仲間達は、魔物相手に一切警戒する素振りもなく、まるで旧知の友人のように接していた。
フェルンに至っては、かつて同種の幻影鬼に悪辣な幻を見せられた経験があるはずなのに、随分と打ち解けた様子だ。
一人だけ警戒心を剥き出しにしている自分。
――私がおかしいのか?
フリーレンは思わず自問してしまった。
「ねぇ。私がおかしいの? どうして眼の前に新手の魔族と魔物がいるのに、シュタルクとフェルンは杖や斧に手を付けてすらいないのかな……。私だけ警戒していてバカみたいじゃん」
「いや……だって知り合いだし。工場長には美味い肉を食べさせて貰ったこともあるしな」
「はい。その……まだ言ってませんでしたが、アインザーム様は年に何度かハイター様の所を訪れていました。ハイター様経由で聖都から女神様の肖像画などをよく購入したりで……そういった縁もありまして、人となりはそれなりに存じています」
旧知の友人……とはいかずとも普通に面識があったようだ。
フリーレンは、またしても自身だけが知らない情報の開示にガクリと肩を落とす。
「フェルン……そんなに無防備だと、また記憶を覗かれちゃうよ」
「大丈夫です、フリーレン様。私とシュタルク様はあの方にとってはまだ年齢的に未成年らしいので、無許可で覗いたりはしません。それに嫌だと先に言っておけば無理に視ようとする方でもありまんから」
――え?未成年……だから何?え……私が可怪しいの?そもそも未成年って何?
説明を受けても、フリーレンにはさっぱり理解できなかった。
魔物にモラルを求めること自体が異常だし、話の通りなら謎にデリカシーがありすぎて、むしろ不気味だった。
「取り敢えず……貴方達がお母様やソリテールと違って、騒ぎを起こすような存在じゃないことは理解出来たわ。自己紹介がまだだったわね、お母様の娘のアウラよ」
一連の会話で、二人が危険人物ではないと判断したのだろう。アウラは複雑な表情を浮かべながらも手を差し伸べ、自己紹介をした。
それに応じて二人も椅子から立ち上がり、握手を交わす。
『街の監獄所で所長を務めているアインザームだ。フルーフの都合で挨拶が遅れて申し訳なかった、先にこれを……ご結婚おめでとうございます。祝儀を申し上げる』
「同じく、食料関連全般の加工業務を受け持つ工場の総責任者を務めさせていただいている、ツルギです。私も挨拶が遅れ申し訳ありません。この度はご結婚おめでとうございます」
挨拶だけでは終わらなかった。
アインザームはどこからともなくガラスドームに詰められたプリザーブドフラワーを取り出し、アウラへと手渡す。
剣の魔族も、木箱とガラスと木材でフレームアレンジされたキャンバスフラワーを差し出し、深々と頭を下げた。
アウラは受け取った贈り物を見下ろし、それから二人を交互に見た。
当の二人組は穏やかな笑みを浮かべ、『おめでとうございます』とパチパチと拍手を送っている。
「――え? え? ちょっと……あ、ありがとう? え? ……なにこの二人……」
「……どうやらかなり常識的、というには些か気遣いが過ぎるが……悪い者達ではなさそうだぞ、アウラ」
困惑するアウラは、手渡された花を注意深く観察した。
念のため魔力解析を行い、変な魔法がかけられていないか調べてみる。
だが異常な痕跡は何一つなく、珍しくもない民間魔法が施されているだけだった。
アウラは贈り物を傍らの南の勇者へと渡す。南の勇者も注意深く花を眺めていたが、数秒と経たないうちに表情を緩め、二人に礼を述べた。
「アインザームとツルギさん……貴方達、此処にきてから半日も経ってないのに、よくそんなオシャレなものを用意出来ましたね」
『魔法とはこういう時に使うものだ』
「ガラスや木材はアインが用意し、飾りつけは私が仕上げました。職場の同僚が結婚する際、披露宴に使う花飾りの準備を手伝うこともありますので。この手の作業は慣れています。それほど手間も掛かりませんでした」
「あー……うん。アインザームは相変わらず器用ですね、ツルギさんは……発狂してから色々と上手く順応しているみたいですね」
どうして魔族と魔物がそんなに社会常識を弁えているのか。ツッコミどころは満載だが、この二人に限っては例外中の例外なので、フルーフも深くは追及しなかった。
花の造形品を眺めながら、フルーフは懐かしそうに目を細める。
「アインザーム改めメルヘンモンスター……貴方のことですから花に意味があるんですよね。今回はどんなメルヘン脳で花を選んですか?」
『……その呼び方は百年ぶりだな。お前は、いい加減にその巫山戯た侮称を忘れろ』
「ブルースター、カーネーション、デンファレ、アイビーを使用しています。アインの選別で選んでいます」
眉間に皺を寄せて嫌がるアインザームの代わりに、剣の魔族が答えた。
その花の名を聞いて、フルーフは何かに納得したようにしたり顔で頷く。
「これはまた……説明不要なベターな組み合わせですね。アウラさん、見ての通りこのメルヘンモンスターは厳つい見た目に反して中身がメルヘンなんで不思議がることはありません。ただのメルヘン脳なだけですから」
『千年も魔族の尻を追いかけているスイーツ脳は黙っていろ』
昔を懐かしみながらへらへらと笑っていたフルーフの表情が、一瞬で豹変した。
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、アインザームを指差す。
「あはぁぁぁ!? なんですか……アインザーム! 一応母親に対して何生意気言ってんだ! このチキン! またぶん殴るぞ!?」
『あの時は世話になったな。お陰で後悔せずに済んだ。礼としてあの時のように一発くれてやろうか。絶縁宣言してから絶交50年を自分から言いだした挙げ句……勝手に気不味くなっているお前が母親を名乗るな』
「お前なぁ……ッ!? 私があの時どんな気持ちだったかわかって言ってるよな! お嬢さんの遺書がなけりゃぁ、お前のことなんて今でも許してないんだよ! このバカ息子! スカタン!! 宗教キチ!!」
周りの反応などお構いなしに口論を始める二人。フリーレン達は口をぽかんと開けて呆然とするしかない。
魔族ならまだしも、魔物相手に『母親』『息子』という言葉が飛び交う光景に、思考が完全に停止していた。
昨晩聞かされていたアウラと南の勇者も、聞き間違いじゃなかったのかと額に手を当てる。
『なんだ、近頃は随分大人しくなったようだが。私に少し煽られただけでこれか……本性は中々変わらないようだな。ところで……見られているがいいのか……――母さん』
「はぁぁ〜〜!?――あ……」
アインザームの一声で、フルーフはようやく周囲の視線に気づいた。
室内が静まり返っている。全員の目が自分に向けられていた。
フルーフは引きつった笑みを浮かべ、なんとか誤魔化そうとする。
アウラはチンピラのようなフルーフの姿を見慣れているのか、特に驚く様子はない。だがその他全員は、意外そうに目を見開いていた。
「あぁ……えぇと……、コホン……あ、アインザーム君、あんまり人を悪く言うものじゃありませんよ。皆さん、これは違うんです。ちょっと……昔を思い出してしまっただけで……」
「600年ぐらい前のお母様ね」
「800年くらい前のフルーフより酷いね」
「私の奥さんには野蛮な所もあるのね。素敵……その威勢の良さで今晩私に殺されてみない?」
ソリテールから謎のフォローが飛んでくるが、見苦しいところを見せた自覚はあるのか、フルーフは笑って誤魔化しながらアインザームの背中をバシバシと叩く。
「あ、あはは……ぉい〜〜アインザーム。貴方のせいですよ、昔の話なんて持ちださないでくださいよ。というか、もう和解済みでしょう。やめましょう」
『先に持ち出したのは貴様だろう。自業自得だ。ふむ、まぁそうだな。やめておこう、不毛だ』
背中を叩かれるのが鬱陶しいのか、アインザームはフルーフの顔面を手で押しのけ、引き剥がそうとする。
だが頬が歪もうが構わず、フルーフは馬鹿力で叩き続ける。アインザームは顔面にアイアンクローを決め、メキメキと嫌な音を鳴らした。
普段のアインザームとフルーフからは想像できない様子に、ツルギは深く息を吐きながら割って入った。
「アイン、フルーフさん……どうかお静かに。仲良くしないと……折角墓参りした『彼女』が悲しみますよ」
その一言で、険悪な空気を纏っていた二人の動きがぴたりと止まった。
『彼女』という存在は、二人にとって相当に意味のある言葉のようだ。
二人は少し落ち着きを取り戻したのか、肩を落としながら椅子にどかりと座り込む。
「……彼女って誰よ?」
全く心当たりのない面々には疑問符が浮かぶ。
この場にいるのはフルーフ達と少なくない付き合いがある人物達だが、さっきから話に出てくる『彼女』なる存在について、まるで心当たりがなかった。
皆の疑問を代弁するように、アウラが問いかける。
フルーフは不機嫌そうな顔をアウラに向け、ぶっきらぼうに答えた。
「こいつの――嫁さんのことですよ。勿論人間のです。つまり私の義娘です」
「は?――はぁぁぁぁぁぁ!? 嫁ッ!? え……魔物なのに……結婚してるの?」
その衝撃の事実に、アウラ達は仰天した。
幻影鬼なのに人間と結婚している?――そんな驚愕の視線がアインザームへと突き刺さる。
フェルンもシュタルクも初耳だったのか、アインザームの方をまじまじと見つめていた。
『……昔の話し故、今は寡男でしかないがな』
そう言いながら、アインザームは首筋にかけられたネックレスを見せた。
銀の鎖には、オレンジダイヤモンドの指輪が通されている。アウラ達に見せると、すぐにしまい込んでしまった。
「いえ、悪くはないのだけれど……なんだか常識が壊れていく気がするわ。侮辱する意図は無いの、ただ純粋に気になって。魔物と結婚するような人って、一体どんな方だったのかしら?」
周囲からは興味津々といった雰囲気が漂い、これからアインザームの昔話でも始まりそうな空気が形成されていく。
その空気を察したフルーフは、椅子から立ち上がり出口へと歩き始めた。
「悪いですが……私は出ていきます。あの時の昔話なんて、好き好んで聞きたくないので」
「私も出るわ。故人の話には余り興味はないの……」
「私もいい。一度聞いてるし」
バタン、と扉が閉まり、フルーフとソリテール、そしてリーニエは部屋を出ていってしまった。
『聞きたいのなら構わんが……面白い話ではないぞ』
「お母様があんな風になる話ってことは、相当暗い話なのかしら?」
『いや、ただの情けない奴が……何も成せなかっただけの話だ。彼女の名前は『マキナ』と言ってな……とても綺麗な人だったよ』
「マキナ……って確か。お母様の蘇生魔法もそんな名前だったわよね?」
『あぁ……奴の蘇生魔法の名称は『アインスマキナ』だ。笑えるだろう、私と彼女の名前を取って名付けた魔法名だ。愛し合う二人は何時も一緒……などと言って名付けていた』
重い奴だ、とニヒルに笑うアインザーム。
だがその表情の奥には、フルーフに対する確かな親愛が垣間見えた。
そしてアウラ達の無言の視線に促されるように、アインザームはぽつりぽつりと自身の過去を語り始めた。
◇◇◇
アインザームの昔話から更に数ヶ月が経った。
フリーレン達は北を目指して伯爵領を旅立ち、フルーフ一行もまた、更に数ヶ月後に山脈を避けた海路を使って北へと向かっていった。
アウラと南の勇者は、伯爵への恩を返すためにしばらく復興の手助けをすることに決めた。
アインザームと剣の魔族も休暇期間を伯爵領で過ごすことにし、復興を手伝いながら居残ることになった。
「手伝ってくれるのはありがたいけど貴方達……街での仕事は放っておいていいのかしら? いくら休暇期間中だとしても二人共重役なんでしょ?」
『問題ない。私達は何れ消える。私もフルーフも、それに他の者達も……皆自分の終わりしかみていない。魔族が世代交代すれば自ずと私達のような異物は排斥されるだけだ。それでいい……既に私の後継人も立ててある。帰りが遅くなり既に居場所がなくなっている位が丁度いいというものだ』
「街が拡大していけば北部高原から北側諸国の一部として取り込まれるのも時間の問題です。今でなくても数百年、千年後には私達は追い立てられる側にいるかもしれません。ですので過度な期待はせず、始めから深く関与もせず、追い出されたら次の街を作ろうとフルーフさんは言っていました。駄目なら次にいくだけです、なので失職の心配は特にしていません」
「よくそれで街が機能してるわね……」
『人材と金銭さえあれば物事は大抵上手くいく良い例だな』
「お金だけは有り余っていましたし……今はリンゴ園の収益が凄いので街が破産する心配はありません。それに汚職に手を染めようものならミリアルデさんにバレるので即刻再教育センター行きです。腐敗の心配もありませんよ」
「ディストピア臭いのに、上がお母様みたいないい加減な人達だから丁度バランスが取れてるのかしら……? なんにせよ、私が移住するまでは残ってそうで安心したわ」
「そういえば、フルーフさん達は何処に向かったんでしょうか? 確かフリーレンさん達と目的地は一緒だと伺いましたが……」
「魔法都市オイサーストだそうよ。そろそろ子供が欲しいから性◯を生やす魔法を探しに行くって息巻いてたわよ」
『「えぇ……」』
呆れたような二人の声が重なる。
だがアウラの表情には、どこか苦苦しさに似た慣れが滲んでいた。
あの二人のことだ、きっとまた何かしでかすに違いない――そんな確信を抱きながらも、アウラは小さく肩を竦めた。
窓の外では、復興作業に励む人々の姿が見える。
更地同然に壊滅した街は少しずつ、確実に息を吹き返し始めていた。
本来であれば決して交わるはずのない者達が、奇妙な縁で結ばれ、共に歩んでいく。
それがどこへ向かうのか、誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは――この歪で奇妙な物語は、もうすぐ終わりを迎えるということだった。