ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――数カ月後
リーニエは激怒していた。
必ず、この暗愚魯鈍な馬鹿弟子の頭をかち割ってやらねばならぬ――心の奥底で、密かにそう誓う。
城塞都市ヴァイゼの喧騒から隔絶された、静寂に包まれた森。
その深奥にひっそりと佇む小屋の主、魔族リーニエは、訓練用の切り株に腰掛け、研ぎ澄まされた感覚で二つの気配が近づいてくるのを捉えていた。
一つは、もう何十年も見慣れた、不死身の弟子フルーフの魔力。
そしてもう一つは……まるで森そのものが息を潜めるかのような、底知れない魔族の気配。
木漏れ日がまだらに落ちる小道から、やがて二人の人影が姿を現す。
「リーニエ師匠、ご報告が遅れて申し訳ありません。こちら、私の結婚相手であり旦那様の、大魔族ソリテール様です」
シルクハットを被ったフルーフが、悪戯っぽく笑いながら紹介する。
その隣に立つ翠色の髪の魔族、ソリテールは、ただ穏やかに微笑んでいるだけだ。
しかし、その存在感は圧倒的だった。
彼女がそこにいるだけで、周囲の空気が張り詰め、肌を粟立たせるほどの威圧がリーニエの全身を包み込む。
呼吸すら許されないような、絶対的な重圧。
「……フルーフから話は聞いていたわ。よろしくね、リーニエ」
柔らかな声。だが、リーニエの生存本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
呼吸が浅くなり、指先が微かに冷えていく。心臓が早鐘を打ち、背筋を冷たい汗が伝う。
この化け物の前で弱さを見せることは、即ち死を意味する。リーニエは無表情の仮面の下で、必死に己を律していた。
結婚。その言葉の響きも、それが意味する人間の習慣も、フルーフから嫌というほど聞かされて知ってはいる。
だが、あの弟子の戯言のような妄想が、こんなにも恐ろしい現実となって眼前に現れるなど、想像だにしていなかった。
「は、初めましてソリテール様。リーニエと申します……。フルーフの面倒を、見させていただいています」
声が上擦らなかっただろうか。
リーニエはソリテールの品定めするような視線を感じながら、なんとか言葉を紡いだ。
魔族にとって魔力量は、人間でいうところの権威や階級に等しい。平民が王族に謁見するかのごとき格差が、そこには厳然として存在していた。機嫌を損なえば、死。この状況で平静を保てる魔族など、そうはいない。
「……?その言葉遣い、どうしてしまったんですかリーニエ師匠。いつもの威勢はどうしたんです?」
黙れ、馬鹿。
呑気に茶化してくるフルーフを、リーニエは内心で毒づいた。
そのやり取りを、ソリテールは面白そうに眺めている。
「どうして不思議がるの?魔族同士では珍しいことでもないはずだけど」
「う~ん……そうなんですけど。リーニエ師匠の場合、格上の魔族が相手でも割と好戦的なんですよ……。まるで狂犬みたいに」
「珍しいわね」
リーニエは唇を噛む。確かに、これまで出会った格上の魔族相手に、ここまで萎縮したことはなかった。
だが、それは一重に、総合的に自分が勝っているという絶対的な自信があったからだ。
この化け物は違う。次元が、格が、違いすぎる。
反骨精神を燃やすことすら烏滸がましい、絶対的な捕食者。その事実が、リーニエの本能を凍りつかせていた。
「それは、私の方が強かっただけ。謙って従う理由なんて無かったから」
リーニエが吐き捨てるように言うと、ソリテールは感心したように目を細めた。
「それは可笑しいわ。普通の魔族は生きていく内に、魔力による絶対的な上下関係を理解するものよ。産まれたばかりの魔族は誰だって弱いから……少しでも長く生きた魔族の元について、生き方を学んでいくものなの。人類だって、目上の人間相手に不快だからってだけで害そうとはしないでしょ?」
「貴族に馬鹿にされたからって理由で殺しにかかる平民みたいなものですね……。成る程、今更ですが、リーニエ師匠って魔族としての常識がなかったんですね」
「それはフルーフのせいだと思うわ」
好き勝手言ってくれる。
そもそもリーニエには、魔族特有の魔力に対するプライドも信奉心も希薄だった。
フルーフと出会ったのは生まれて十数年の頃。他の魔族の常識など、知る由もなかったのだ。
「魔族にとって魔力と魔法は神聖なものなの。強者と弱者を隔てる絶対的な指標……。それらを余り考慮しないだなんて、随分と変わり者の魔族ね」
「リーニエ師匠は魔法というより武術マニアですから、その辺りが関係していそうです」
「フルーフ……黙ってなよ」
小屋の前で楽しそうに意見を交わす魔族と人間。
それを眺めながら、リーニエの内面に小さな苛立ちが芽生える。
しかし、ソリテールの視線を感じた瞬間、その感情は霧散した。
ソリテールは、まるでリーニエの心の内を見透かすように目を細め、告げた。
「ふふ……安心して。子供から玩具を取り上げて喜ぶ趣味はないの」
「……なんのことでしょうか、ソリテール様」
その言葉の意味を、リーニエは理解した。
自身のフルーフに対する認識を、この大魔族は完全に見抜いている。
玩具。面白い弟子。手のかかる存在。その全てを。
フルーフは一人、話についていけず首を傾げている。
ソリテールは意味深に微笑むと、話を戻した。
「聞かせて……。生の大半を人間と関わり、魔力に誇りを持たない魔族。リーニエ……貴女は一体何を誇りに、魔族として生きているの?」
「それは…………――私の中に蓄積された人類の……『技』です」
リーニエは産まれて間もない頃に確かに見た。
七崩賢と戦う勇者パーティーの勇姿を。最高の戦士が振るう、その技を。
凄まじかった。魔法ではない、ただ純粋に洗練され磨き抜かれた技の数々。
屍の軍勢が吹き飛び、大地が裂ける。あの光景に魅入られたのだ。
あれは最早、魔法だった。どんな大魔法よりも強く、鋭い絶技。
それからフルーフと出会い、連れられるがまま数々の国を巡り、模倣した。
その度に蓄積されていく人類が築き上げた数多の武。そして未熟な技も、それらの経験が研磨となり磨かれてゆく。
一つの流派の真髄を読み取れば、並行して別の技の練度が上がっていく。見取り稽古を続け、技の弱点や改善点が嫌でも見えてくる。
いつしかリーニエは、自身が模倣し蓄えた技の数々を成長させ、研ぎ澄ませることに楽しみを見出していた。
魔法を研鑽する必要はない。突き抜けた武こそが、魔法の極地すら切り裂く刃と化すのだ。
それをリーニエは、かつて見た最高の戦士の技と、これまでの経験から実感していた。
魔法は、武の可能性を広げる補助程度の認識でしかない。
しかし、未だ最高の戦士が振るった技を、リーニエは完璧に扱うことが出来ていなかった。
鮮明に焼き付いた最高の技への探求……今更これを止めることなど出来ない。
「――面白いわね、リーニエ。武器を生み出し戦士ぶる異形の魔族は多い。だけど、見下している人間の真似事なんて絶対にしない。人間の技を模倣する魔法なんて、意地でも使わない……。でも、貴女は違うのね」
「フルーフ……私の魔法を勝手に漏らすな」
ギョロリ、と絶対零度の視線がフルーフに突き刺さる。
フルーフは両手を合わせ、必死に頭を下げ倒すが、リーニエの怒気は一向に収まる気配を見せなかった。
「興味が湧いて私が聞いたの。許してあげて」
「……仕方ないから、今回は許す」
ソリテールの一言で、リーニエはあっさりと矛を収めた。なんという掌返し。
フルーフは自身への対応との違いに物申したくなるも、話の腰を折らないようにと、なんとか口を噤む。
「そういえば……先程ソリテール様が言ったように、魔族の中にも魔法以外で戦う方はいますけど、リーニエ師匠は全く参考にされませんよね?何故なのですか?」
「フルーフ、この馬鹿が……。特異な魔法が前提だったり、骨格や腕の本数がそもそも違う奴の技を模倣したって、意味ないでしょ」
正論だった。
阿呆扱いされたフルーフは、再び黙り込むしかない。
「仲がいいのね……。不死のフルーフがいたとはいえ、育つ環境一つで此処まで異端の魔族が出来上がるのは、とても興味深いわ。研究テーマとは全く関係ないけれど、聞いているだけで楽しいくらい。もう少し話を聞いてみたいの、良いかしら?」
「それでは私はお茶でもいれてきます。御二人は親睦を深めて下さい」
「待て……行くな、フルーフ」
「恐がらないで。私は理由なく同族を手にかける程、野蛮じゃないよ。少しお話するだけ」
リーニエの掌にソリテールがそっと手を重ね、温和な笑みを向ける。
しかし、リーニエの額には先程よりも激しい玉汗が浮かんでいた。
その冷たく滑らかな指先の感触が、リーニエの肌に張り付いて離れない。
その現象に猛烈な身に覚えがあるフルーフは内心で同情したが、こればかりは慣れてもらうしかない。
愛しの旦那様と頼れる師匠の仲は良好であってほしい。
フルーフは心の中でリーニエにガッツポーズを送りながら、そそくさと二人の前から消えていった。
◇◇◇
「フルーフ……お前を殺す」
「待って下さいリーニエ師匠!私も初対面の際には失礼ながら失神してしまいそうになりましたが、ソリテール様は優しくてとても臆病で、守ってあげたくなる可憐な方だと解っていただけたで――
「さっさと首を差し出しなよ」
「駄目だ、全然聞いてくれません……。純度120%の殺意だけが返ってきます」
雲ひとつ無い青空の下、戦斧が空気を切り裂く鈍い音が響き渡る。リーニエは、いつもの空虚な雰囲気とは程遠い、青筋を浮かべた形相で巨大な斧を素振りしていた。
あれからソリテールと二人きりにされたリーニエは、生きた心地がしなかった。
大魔族から感じる圧、その恐怖。
フルーフと違い、それを積極的に克服する理由などリーニエには無い。
結果として、ソリテールとの間に奇妙な上下関係が生まれ、臆することなく話せるようにはなったが……それはそれ、これはこれ。
好き勝手してくれた馬鹿弟子を一発ブチ殺したくて仕方なかった。
その様子を、ソリテールは小屋の縁側に腰掛けて眺めている。
フルーフが淹れた紅茶を優雅に傾けながら、その涼やかな視線は二人の間を行き来していた。
やがて、カップをソーサーに置く澄んだ音が響く。
「フルーフとリーニエが戦っている所を、一度見てみたい」
その一言で、場の空気が一変した。
リーニエは戦斧を担いで意気揚々と立ち上がり、猛烈に拒否するフルーフをソリテールが魔法で強制的に浮かし、広場へと連れ出す。
「ソリテール様……リーニエ師匠と本気で殺り合うのは気が進まないのですが……」
「私は斧だけで殺ってあげるから……早く来なよ」
リーニエの挑発に、フルーフの表情から笑みが消える。
フルーフは知っている。リーニエは戦斧以外の武器を滅多に使おうとしないが、その最大の武器はあらゆる距離に対応できる手数の多さだ。
近距離であれば達人級の武術が絶えず切り替わり襲いかかり、距離を離せば魔力で構築された百発百中の弓矢が降り注ぐ。
リーニエにとって斧を振るうことは偉大な戦士の技を振るうのと同じ、だからコケにされているとはフルーフも思わない。
だが敢えてそれを口に出してくるのは……煽り以外の何物でもなかった。
「ほほぉ……流石に舐め過ぎですよ、リーニエ師匠。良いでしょう、なら私は遠距離攻撃と爆撃無しで、そちらの土俵に上がって差し上げます」
負けじとフルーフも煽り返し、ボルテージが高まっていく。
そして、どちらともなく上着を脱ぎ捨て、簡素なシャツやワンピース姿となり、互いに構えた。
『
『
魔法が同時に呟かれた瞬間――血飛沫が吹き荒れる。
全身強化を施したフルーフは音速を超える。
血管という血管が沸騰するような熱が全身を駆け巡り、視界の端が赤く滲んでいく。
全速力で繰り出した拳が、リーニエの斧に激突した瞬間――肘から先の感覚が消えた。
腕が、斧の刃に触れたその一点を起点に、内側から爆ぜていく。
肉片が飛び散り、骨の欠片が宙を舞う。
リーニエが素早く斧を構え直すが、既にフルーフの姿は見えない。
辺り一面が、移動するだけで撒き散らされる微細な血飛沫によって、赤い霧に包まれていく。
鉄錆の臭いが濃密に立ち込め、草木が血の雫に濡れて重く垂れ下がる。
「毎回服が汚れる……――ッ!」
霧の中で何かが高速で動く風切り音だけが響く。
リーニエが無造作に斧を振るった。ザクッ、と肉を断つ湿った音。
遥か後方へと肉の塊が激しく回転しながら転がり落ちていく。
斧を振り抜いた手に、確かな手応えが残っていた。
「くたばってくださいねぇ!リーニエ師匠!!」
だが、肉塊とは反対方向から突如叫び声が響き、フルーフの喧嘩殺法がリーニエに襲いかかる。
頬へと突き刺さる拳。骨が軋み、歯の根が揺さぶられる衝撃。
リーニエは瞬時に首を回し衝撃を流しながら、フルーフへと斧の石突を突き立てた。
鈍い音と共にフルーフの顎骨は粉々に砕かれ、後方へと吹き飛ばされ霧に消えていった。
「チッ……殺せない癖に口がデカい。やってみたらいい、馬鹿弟子」
リーニエもフルーフも、全身どころか髪まで血塗れで拳と斧を振り乱す。
その光景を、ソリテールは宙に浮かび、優雅に空中から見下ろしていた。
翠色の髪が風に揺れ、その美しい面貌には一切の感情が浮かんでいない。
ただ、興味深い実験を観察する研究者のように、二人の動きを余さず追っている。
――まさか血の一滴や髪の毛一本からも任意で再生出来るだなんて。
ソリテールの思考が、静かに巡る。
――フルーフから聞いていたゼーリエが、何故彼女を封印しないのか……理由はこれね。封印しようと思うのなら、世界からフルーフの生きた痕跡を完全に消し去るのが前提条件。余程の理由がない限り、労力に見合わな過ぎる。
眼下では、一息つく間もなく肉が爆ぜ、切り飛ばされている。
その度にあらゆる場所からフルーフが再生し、高速で襲いかかる。
ソリテールの唇が、微かに弧を描いた。
眼下で繰り広げられる血戦を眺めながら、彼女は静かに再認識する。
フルーフという人間が、どれほど得難い存在か。
殺しても殺しても蘇り、それでいて自分に牙を剥くことは決してない。
こんな都合の良い存在は、長い生の中で初めてだった。
――そしてリーニエ……あれは単純な魔力探知で発揮出来る反応速度を超えているわ。……そう、凄く眼が良いのね。単純な生きた年数では身に付かない、あの個体だけが持つ生まれ持っての強み。
音すら置き去りにするフルーフの猛攻を、リーニエは鈍重な戦斧で完全に捌ききっていた。
まるで未来でも読んでいるかのように、フルーフが突進する前には既に進路上に刃が添えられ、絶え間なく切り飛ばしていく。
慣性を利用し、ただ据えるだけでブッタ切り、奇襲による背後からの襲撃にも、安定した対応でダメージを最小限に留めていた。
――私は恐がりでとても臆病。でも、私を献身的に支えてくれる奥さんと、頼もしい同族の戦士がいる。それはとても安心出来ることだわ。
ソリテールの視線が、一瞬だけ遠くを見つめた。
――私が人類から殺される可能性が遠のく。……でも、まだ安心出来ない。フルーフには手段を、リーニエには魔法を教えてあげないと。
その時だった。
空中を飛び交う四肢が、ソリテールの真横を通過し森林へと消えていく。
ソリテールが思考している間に、喧嘩試合は終わりを迎えようとしていた。
徐々にリーニエの息があがり、動きのキレが鈍り出していく。
「バテ始めましたね、リーニエ師匠!子供はお昼寝の時間ですよ!」
「脳筋の癖に……これでどう?――」
その言葉が耳に届いた瞬間、フルーフの世界から音が消えた。
「ママ……お、お願い、殺さないで」
瞬間。
フルーフの戦闘で研ぎ澄まされた五感が、目の前の現実ではない、遥か過去の情景を拾い始める。
鼻腔を突くのは、血の鉄臭さではなく、雪解けの土と針葉樹が混じり合う、冷たく澄んだ森の匂い。
肌を撫でるのは、魔力の熱気ではなく、骨身に染みる冬の夜風。
――アイン……お義母さん。
耳元で、か細く震える少女の声が聞こえる。それは、決して忘れてはならない、けれど思い出すたびに胸を抉る、遠い日の記憶。
鉄仮面の下で必死に涙を堪えていた、あの日の義娘の声。彼女が抱えていた孤独と絶望が、フルーフの魂に突き刺さる。あの時、彼女の小さな手を握った己の掌に、幻の冷たさが蘇った。
――お母様。
次に、背中に感じる幻の温もり。
思い出してはいけない誰かの小さな手の感触。母を求める純粋な想い、決して叶えてはやれなかった最後の願いが、胸を締め付ける。
「……ッ」
フルーフは奥歯を強く噛みしめ、網膜の裏にちらつく幻影を振り払う。
目の前のリーニエが、訝しげな表情でこちらを窺っている。
ほんの一瞬の硬直。だが、フルーフにとっては、忘却の彼方に沈めたはずの罪と後悔を再び突きつけられる、永劫にも等しい時間だった。
――ッ……クソッタレめ。吐きそうだ……。
フルーフは荒く息を一つ吐くと、その双眸から一切の感情を消し去った。
「……リーニエ師匠。――いや、初めから殺すつもりありませんから」
何かを一瞬だけ考え、手にした自身の千切れた腕を鈍器のように振り回してリーニエの頭部を殴りつけた。
「――う、がぁ」
そもそもフルーフにとってこれは喧嘩のようなもので、殺気こそ出していたが殺す気など毛ほども無かったのだ。そうして、体力的にも既に限界だったのか、リーニエは眠るように気を失った。
「そこは、『殴らないで』って言わないと。それじゃ……お風呂を沸かしてくるんで、少し寝てて下さい、リーニエ師匠」
その後、血塗れのリーニエは、フルーフが甲斐甲斐しく、焚いた湯船にザブンと放り込まれた。
その一方で、同じく血に染まったフルーフは、ソリテールの操る水の渦に捕らえられ、まるで洗濯機に入れられた衣類のように激しく揉み洗いされ、綺麗さっぱり洗浄された。
しかし、その直後。フルーフは再び血を吐き、無慈悲に死ぬ羽目となる。
ソリテールが、澄ました顔で唇へと指先を添え、チュッと可愛らしいリップ音と共に『投げキス』を放った瞬間……フルーフは即死した。
『夫婦円満の秘訣』、人類が発行している恋愛指南書に載っていた、魔族にとっては全くもって意味不明な行為。
それを至近距離で食らったフルーフは、「えっち過ぎる……」という最期の一言と共に、鼻から盛大に血反吐を吹き出し、白目を剥いて倒れ伏した。
そして、暫くの間、魂の抜けた人形のように放心状態で虚空を見つめ続けていた。
「あら、また汚れてしまったわね」
再び汚れたフルーフを、ソリテールは宙に浮かせ、湯船にブチ込む。
こうして、ソリテール、フルーフ、リーニエという、なんとも奇妙な三人での混浴が始まった。
一人は湯の心地よさを楽しみ、一人は泥のように爆睡し、そしてもう一人は、意識を取り戻す度にソリテールからの投げキッスを食らい、血を垂れ流しながら放心するという、シュールな無限ループに陥っていた。
◇◇◇
夕闇が森を包み込む頃、バルコニーにはランプの温かい光が灯っていた。オレンジ色の炎が揺らめき、三人の顔を柔らかく照らし出す。
「夕食の準備が整いました。リーニエ師匠には特製アップルパイと、私達の結婚祝いとして高級シードルをご馳走致しますよ」
コト……と、湯気の立つ特大のアップルパイがリーニエの目の前に置かれる。
黄金色の焼き目が美しく、シナモンと焼きリンゴの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
パイ生地の隙間からは、蜂蜜色のリンゴの果汁が艶やかに輝いている。
「……私に手を上げたことは許す」
むふ~、と満足気な鼻息が漏れる。
普段は鉄仮面のようなリーニエの顔に、見て分かるほどの喜色が宿っていた。
「愛しの旦那様には愛情たっぷりのミートパイです。ソリテール様好みの味になっていると思います。あ、ワインを飲みますか?それともお水?」
フルーフは次に、こんがりと焼き上げられたミートパイをソリテールの前に置く。
サクサクのパイ生地から、肉の焼ける香ばしい香りが立ち上り、食欲を誘った。ちなみに、なんの肉かは言うまでもないだろう。
「毎日食べても飽きないわね。生もいいけど、手間をかけて調理してくれた料理も美味しいものだわ。手作り料理、こういうのも愛情って言うのかしら。……お水をお願い、フルーフ」
差し出されたクリスタルのグラスに、フルーフが清らかな水をトクトクと注いでいく。
その水面に、ランプの柔らかな光と、目の前でミートパイを吟味するソリテールの美しい横顔が揺らめいていた。
ソリテールとフルーフが、この奇妙で倒錯した共同生活を始めてから、かなりの月日が流れた。
ソリテールは相変わらず、まるで未知の言語の文法を解読するかのように、人類の文化や文明、魔法体系の探究を続けている。
彼女の書斎には、フルーフが大陸中から集めた魔導書や文献が、天井に届かんばかりに積み上げられていた。
だが、ここ最近、その探究に少しだけ変化が見られたことをフルーフは感じていた。
きっかけは、フルーフが街で手に入れた一冊の古びた本だった。
それは、吟遊詩人が綴ったとされる、どこにでもあるような恋愛物語。
ソリテールの研究の足しにでもなればと、何気なく渡したその本を、彼女は意外にも読み始めたのだ。
それ以来、ソリテールの机の上には、難解な書籍の隣に、決まって『恋の病の処方箋』だとか『幸せな夫婦生活を送るための百の秘訣』だとか、そんな類の俗っぽい恋愛指南書が置かれるようになった。
「ふふ……嬉しいですが、興味の無いことを無理に勉強させているようで心苦しいです」
「私は借りや恩を知らない魔族じゃないわ。フルーフは私の為に色々と頑張ってくれている。それに、これから何百年、もしかしたら千年以上も一緒にいるのだから、今後を見据えれば……全く興味の無いことでもないの」
「――う゛ぅ」
「……あら、泣いたの?」
ソリテールの言葉を聞くだけで、感情が大きく揺さぶられる。
ここ数十年は滅多なことで泣いたりしなかったのに、最近は涙もろくなった気がする。
人間からすればソリテールの向ける感情はとても歪んだものだ。それは理解している。理解してなお、嬉しくて泣いてしまうのだ。
「泣かないで。貴女は私のモノ。自分のモノが傷ついていくのを見ていると、私も悲しくなるわ」
「本当に人の心が分からない旦那様ですね……。これは、嬉しくて泣いてるんです」
「ごめんなさい。愛してる、愛してるわフルーフ。こう言えば、貴女はもっと幸せになれる。そうよね?」
実に空虚で、虚しい言葉だ。
だけど、あの大魔族であるソリテールが一人の人間に寄り添い、意識を向けてくれている。
それはとてつもなく奇跡的なことだ。フルーフが喜ぶから……だから、口にする必要もない言葉を口にしてくれている。そんなの、嬉しいに決まっている。
「か、加減を考えて下さい!……今夜、眠れなくなりそうです」
「いいわ。一晩中『お話し』しましょう。今夜は……――優しく殺してあげる」
ソリテールがテーブルから身を乗り出し、フルーフの耳元で甘く、ねっとりと囁く。
吐息が耳朶を撫で、首筋に鳥肌が立つ。心臓が殴りつけられたように大きく跳ね、急速に脈打つ。
全身が熱くなっていく。
「私……興奮して……――死んでしまいます。そういうのも、本で読んだのですか?」
「そうね。書かれていた通りにやっただけだけど、効果はあったみたい。耳が真っ赤よ、フルーフ。もっと言ってあげようか?」
「ケ、ケッコウです……」
本音を言えば言ってほしかったが、リーニエの冷ややかな視線が突き刺さる手前、自重せざるを得ない。
このままヒートアップすれば、楽しい酒盛りが、人喰い血祭りパーティーに変貌してしまう。
「あ……そうだ」
妙な空気をぶった斬るように、リーニエがフルーフに視線を向け、言葉を発した。
「なんですか、リーニエ師匠」
「一応、死んだら蘇生して貰いたいから、条件を教えて」
なんだ、そんなことか。リーニエが差し出した空のグラスへとシードルを注ぎながら、そういえば言っていなかったとフルーフは気づく。
「ホント急ですね……。基本的には、五体満足の肉体と、悔いが残った魂であれば蘇生可能です」
数えきれない程の死と再生を繰り返したフルーフにとって、魔法を構築する上で最も重要とされる『イメージ』を掴むことは、もはや呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
生と死の境界線を幾度となく往復する中で、彼女の魂は、常人には決して至れない領域にまで研ぎ澄まされていた。
一時期、完全に停滞していた死者蘇生の研究。
しかし、その切っ掛けは思わぬところから見つかった。統一帝国時代の打ち捨てられたダンジョン。
その最奥で発見した数枚の羊皮紙には、人体蘇生に関する未完成の魔法術式が記されていた。
過去の魔法使いたちが挑み、そして挫折したであろうその術式は、フルーフの目には可能性の宝庫に映った。
欠けていたのは、ただ一つ。
生命の核である『魂』へのアプローチ。
フルーフは、自身の特異な経験から得た魂への深い知見を、その古びた術式に注ぎ込んだ。
死者の魂を肉体に繋ぎ止め、再び生命の灯をともすためのイメージ。魔法を構築するための僅かな術式の調整。
それだけで、かつての大魔法使いたちが血の滲むような努力の末に辿り着けなかった禁忌の魔法は、まるでパズルの最後のピースがはまるかのように、拍子抜けするほどあっさりと完成してしまった。
「身体はフルーフが治して。蘇生に悔いなんて必要なの?」
「言われなくても、魔力となって霧散する前に治します。はい、私の魔法には必要です。魂を肉体に繋ぎ止めて定着させるのに、強い感情が必要なんですよ」
フルーフは指先でテーブルに小さな円を描きながら、言葉を続ける。
「魂が『核』で、肉体が『器』だと考えてください。一度器が壊れて核が外に出てしまうと、もう一度器の中に戻すのはとても難しい。器と核を再び結びつけるには、それ相応の強い力……接着剤のようなものが必要なんです」
彼女はそこで一度言葉を切り、リーニエの虚ろな瞳をまっすぐに見つめた。
「その接着剤の役割を果たすのが、人間の『感情』……特に、死に対する『悔い』や『未練』なんです。この世への強い執着心こそが、魂を再び肉体という器に固着させるための、何より強力な溶接材になる。だから、リーニエ師匠……もし、いつか死にそうな時が来たら、たっぷり悔いを残して、この世に留まっていてくださいね」
魔法の才能自体が凡夫のフルーフだが、その分、長年の経験と実績で身に着けた理論は完璧だった。
通常、一度肉体から離れた魂を、無理矢理肉体に定着させることは出来ない。だが、フルーフの扱う魂の魔法は生きたいという強い残滓を元に魂を肉体へと完全に再定着させることができる。
肉体蘇生と魂の再定着、それらを組み合わせた複合魔法こそがフルーフの扱う蘇生魔法の正体だった。
「一応、分かった」
――なんだろう……リーニエ師匠って、なんだか前世の記憶のどこかでチラつくんですよね……。でも、全然思い出せない。記憶が擦り切れ過ぎてて、ソリテール様以外の知識は殆ど思い出せないんだよな……辛うじてフリーレンのことをちょっと覚えているくらいだし。どうでもいいことだけ結構覚えているんですがねぇ……。
「というか、結婚の挨拶にきたのに暗い話しないで下さいよ、リーニエ師匠。今日はお酒だけはたっぷり用意してるんです。さぁ……知ってますよね、乾杯しましょう」
考えても仕方ない。
今日はお世話になっている師匠に結婚報告にやってきたのだ、明るくいこう。
フルーフは自身のグラスにワインを注ぎ、テーブルの中央へと掲げる。
「まぁ、いいか」
「それ、知ってるわ。魔王軍でも、勝利を祝う催しで見たことあるもの」
「それでは……三人だし、結婚はもういいか。今後とも、末永いご縁を願って」
「「「乾杯」」」
カラン、とグラス同士がぶつかる澄んだ音が、静かな夜の森に響き渡った。
リーニエはグラスに口をつけるや否や一気に飲み干し、ボトルごとラッパ飲みを始める。
喉が鳴り、琥珀色の液体が滝のように流れ落ちていく。そして、アップルパイを大きな手で鷲掴みにし、幸せそうに口いっぱいに頬張り始めた。頬が膨らみ、リスのような姿になる。
ソリテールはそんなリーニエの姿を横目に、器用にナイフとフォークを使い分け、上品にミートパイを切り分けていく。
――うん……とても良い光景ですね。最初は怯えていた師匠も、すっかり元の図太い態度が出てきたし、仲は良好。この付近の流通は止まってしまいましたし、一緒に暮らす提案をしてみるのも悪くないかもしれません。
◇◇◇
時間は過ぎ去り、早数十年。
あの日、フルーフに「一緒に暮らしませんか」と持ちかけられた時、リーニエは即座に断った。
断ったはずだった。
だが、いつの間にか荷物は海辺の豪邸に運び込まれ、自室には天蓋付きの寝台が据えられ、クローゼットには見覚えのない新しいドレスが並んでいる。
気づけばリーニエは、毎朝フルーフが淹れる紅茶の香りで目を覚まし、夕暮れにはソリテールと言葉少なに夕陽を眺める生活を送るようになっていた。
かつては異物のようにそびえ立っていた豪邸も、今では潮風に馴染み、まるで遥か昔からそこにあったかのように風景に溶け込んでいる。
白い外壁には蔦が這い、窓枠には塩の結晶が薄く付着し、年月の重みを静かに語っていた。
リーニエの生活は、森での暮らしとはまるでかけ離れたものへと一変していた。
かつて彼女が拠点としていた、木々のざわめきだけが響く静かな小屋。
そこでの質素な日々は遠い過去となり、今では豪奢な調度品に囲まれた毎日を送っている。
この穏やかな日々が形作られるまでには、それなりの紆余曲折があった。
事の始まりは、大陸の物流が滞ったことだった。
魔王亡き後の残党の活性化、危険な魔物の目撃情報の多発、情勢の悪化、人間同士の紛争の激化。
様々な要因が絡み、北部高原を通るには安全管理として、一級魔法使いの同行が義務化されることとなった。
結果として、北部高原と北側諸国を結ぶ陸路は徐々に寂れ、物の流れがほとんど途絶えてしまったのだ。
これに対し、フルーフは動いた。
以前から交流のあったノルム商会に連絡を取り、北側諸国で海上輸送を生業とする商会との橋渡しを依頼。交渉の席では、有り余る財力と、長年かけて築き上げた貴族たちとの繋がりが物を言わせた。
結果、陸路を迂回する独自の海上交易ルートが確立され、危険な大陸の大地を経由せずとも、北部高原へと物資が届くよう海上ラインが整備された。
それに合わせ、ソリテールも魔法を振るった。
それまでただの砂浜だった岬は、船が停泊できる頑丈な桟橋を備えた港へと変貌。
それからというもの、様々な品を積んだ商船が定期的に訪れるようになり、かつての静かな岬は、簡易交易の拠点として生まれ変わることとなった。
リーニエは、その港に船が着くたびに顔を出した。
商人たちが荷を解き始めると、真っ先に布地の山へと歩み寄る。
フリルとレースで飾られた最新流行のドレスを手に取り、無表情のまま生地の質を確かめ、縫製の丁寧さを検分する。
気に入れば無言で頷き、気に入らなければ無言で戻す。
優美な椅子、繊細な刺繍が施されたクッション、銀細工のティーセット。
次々と指差し、次々と買い上げていく。
その結果、彼女の自室はまるでお伽話に出てくる少女の夢を詰め込んだような空間と化していた。
商人たちの間では「気難しいが金払いの良い上得意様」として、すっかり顔なじみである。
一度、リーニエがうっかり変身魔法を解いたまま港に現れたことがあった。
側頭部から伸びる二本の角。それを見た新米の商人が腰を抜かして泡を吹く中、古参の商人は顔色一つ変えず、恭しく頭を下げてこう言った。
「リーニエ様、本日のご注文はどちらの品にいたしましょうか」
その光景を目撃していたフルーフは思った。
相手が魔族と判明しても金を優先するとは――商人魂とは、かくも逞しいものである。
フルーフがこれほどの財力と権力を築き上げられた源――それは、彼女の蘇生魔法に他ならない。
突然の死、そんなものはこの世にごまんと溢れかえっている。再び死者との再会を望む者、権力の為に存在を望む者。そんな哀しき人間達に、フルーフの魔法は希望そのものだった。
悔いある魂を再び生へと導く魔法。
そんな胡散臭い触れ込みを密かに広げた。当然誰も相手にしない。
だが、藁にも縋りたい一部の人間は違った。
そこからどんどん契約者を増やしていき、フルーフは絶対に逆らえない傀儡同然の貴族を増やしていった。
契約書と魔法でガチガチに縛った、情報漏洩の心配も無い、魂の契約。
そうして築き上げた人脈と権力が、今、北側諸国から北部高原へと繋がる、海上輸送ルートを支えていた。
ソリテールの人類研究――彼女が言うところの『お話し』も、変わらず続けられていた。ただし、その形は大きく変わっている。
フルーフが各国のツテを辿り、金銭に困った人間達を呼び集める。
ソリテールは、連れてこられた人間と向かい合い、静かに言葉を交わす。
家族のこと、夢のこと、後悔していること、死ぬ時に何を思うか。
穏やかな口調で問いかけ、相手の答えを一言一句聞き逃さない。
そして、対話の最後に――ソリテールは、相手を殺す。
死に際の言葉を聞き届けた後、フルーフが蘇生と記憶処理を施す。
相手は曖昧な記憶と、多額の謝礼だけを抱えて、元の生活に戻っていく。
この一連の流れを繰り返しである。
死に際の言葉も聞ける。それでいて、最期にはお互い平和的に別れられる。
それが、ソリテールの『お話し』の新しい形となっていた。
奇妙で倒錯した、しかし確かな平穏。
フルーフとソリテールの夫婦関係もまた、穏やかに続いていた。
夕暮れの砂浜を、お揃いのエンゲージリングを嵌めた手を繋ぎ、寄り添って歩く。
茜色に染まった空が、二人の影を長く伸ばしていく。潮の香りが鼻腔を擽り、寄せては返す波の音が、心地よい無言の時間を紡いでいた。
裸足の足裏に、まだ陽の温もりを残した砂の感触が心地よく。時折、冷たい波が足首を洗い、引いていく時に砂が足元から崩れていく。
ソリテールの白く滑らかな指が、フルーフの指に絡む。
その指先で光る銀の指輪が、沈みゆく夕陽を受けて淡く輝く。
ソリテールの翡翠の瞳は遥か水平線を見つめているようで、その実、隣を歩くフルーフを、ただ静かに観察していた。
フルーフはそんな旦那様の視線に気づきながらも、ただ幸せそうに微笑むだけだった。
波が足元を洗い、砂が指の間をすり抜けていく。冷たい海水の感触すら、今は心地よかった。
だが、その穏やかな日々にも、新たな変化の兆しが訪れる。
幾つ年を跨いだか分からない年のある日。
朝食の席で、ソリテールが何気なく呟いた。
「少し、外の世界を見て回りたいの」
フルーフがカップを置く手を止める。リーニエは咀嚼を止め、二人の顔を交互に見た。
「旅、ですか」
「えぇ。この数十年で、随分と世界は変わったでしょう。人類がどう進化したのか、この目で確かめてみたくなったの。それに、他にも色々と調べたいこともある」
その言葉に、フルーフの表情が綻んだ。
「喜んでお供致します、ソリテール様」
「私も行く」
リーニエが、アップルパイを飲み込みながら言った。
「私も、見て回りたい。新しい技が生まれているかもしれないから」
「ふふ……それじゃあ、決まりね」
ソリテールが微笑む。その笑顔にどんな感情が籠もっているのか、魂の見えるフルーフにも分からない。
かくして――
人間一人、そして二名の魔族。
彼らは長年住み慣れた家を後にし、気分気ままに少し長い旅に出発した。
波の音が遠ざかり、潮の香りが薄れていく。
三人の背中を、朝日が長く伸ばしていた。