ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
オルデン卿が咳払いで場の空気を引き締めた。
「お前たち。駄弁るのはいいが、午後からしっかり教育を受けてもらうぞ」
視線がフェルンに移る。
「フェルンと言ったな。お前はシュタルクのパートナーだ」
「え、私も作法の練習をするんですか?」
フェルンが自分を指差し、目を丸くした。
「当然だ。社交界だぞ。年頃の男子が一人で参加するなどありえん。見知った相手でなければ、露見するリスクが高いだろう。だから、気心の知れてそうなお前が担当しろ。貴族令嬢をパートナーに据えるわけにはいかん」
パートナー、という言葉にフェルンの目がほんの一瞬だけ泳いだ。
すぐに溜息で誤魔化し、鼻から短く息を吐く。
「……依頼ということであれば仕方がありませんね。はい、私がシュタルク様のパートナーです」
声は平坦だったが、言い終わった後の視線がシュタルクの横顔に触れて、すぐに逸れた。
その視線に、シュタルクが気づくことはなかった。
オルデン卿は満足げに頷くと、玄関ホールの正面扉を指差した。
「頼んだ。それと、先程話した兄と親父、今話している三人は今、街で礼服とドレスを見に出ている。鉢合わせになりたくないのなら、早々にこの場から離れるんだな」
それだけ言い残し、踵を返した。
重い靴音が階段を上り、二階の通路の奥へと消えていく。
同時に、執事のガーベルがシュタルクの背後に、侍女がフェルンの背後にそれぞれ移動した。
「ザイン、二人のことは任せて客室に行こうか。ソリテールとはできれば会いたく――」
フリーレンが早足でザインの腕を引き、玄関ホールから離れようとした、その時。
正面扉が開いた。
午後の陽光が、ホールの床に長い光の帯を引く。
逆光の中に、三つの人影が浮かび上がった。
フリーレンの手が杖に伸びた。
思考より先に身体が動く。
杖の先端が、扉の向こうに真っ直ぐ向けられる。
三人の影が、陽光の中から歩み出てくる。
眩しさに輪郭がぼやけていたが、若干一名から漂う死臭のせいで、誰が来たのかは明らかだった。
フリーレン一行にとっても既に馴染み深い、フルーフ一行である。
桃色の髪をツインテールに結んだ少女が、買い物袋を片手にぶら下げながら玄関に足を踏み入れた。
シュタルクを見上げ、目が合うと、空いた手を軽く上げる。
感情の起伏を感じさせない、見慣れた挨拶。
シュタルクも慣れた仕草で無言のまま片手を上げ返した。
言葉はなくとも、それだけで成立する関係がそこにあった。
もう一人の小柄な人影が、リーニエの横から一歩前に出た。
翡翠色の瞳が、ホールの奥を見渡すように動き、フリーレンを捉えた瞬間――その顔に、花が綻ぶように穏やかな微笑みが浮かんだ。
にこやかで、柔らかい笑み。
しかしその笑みが深くなるにつれ、フリーレンの杖を握る指に力がこもっていく。
ソリテールの額には角の痕跡は見当たらない。
リーニエも同様に、変身魔法で角を隠していた。
二人の予想通り、この屋敷では魔族であることを伏せているらしい。
三人目は、フルーフだった。
シルクハットにコート、腕いっぱいに紙袋やブティックの箱を抱えている。
白い髪が風に揺れ、赤い瞳がフリーレン達を捉えた途端、親愛に溢れた笑みが弾けた。
荷物の隙間から片手を振っている。
ソリテールは杖を向けられているというのに、構わずフリーレンへと歩み寄った。
「フリーレン。こんな所で奇遇ね。……何故私に杖を向けているの? もしかして、線引きを忘れたのかな? あぁ、それとも、承知の上?」
小首を傾げた。
その仕草は少女のそれだったが、翡翠の瞳の奥には、少女らしいものなど何一つ宿っていなかった。
「流石ね。魔族の血に塗れた、名高く無慈悲な葬送のフリーレン。手段を選ばない魔族殺し。言葉による嘘はなにも魔族だけのものではない……そう言いたいの?」
言葉が、糸を紡ぐように途切れなく続く。
「今まさに、私は油断させられ、不意を打とうとしているのかしら。あぁ、私はすっかり騙されてしまった。貴女と信頼と友好を築けたと、そう思っていたのに」
ソリテールの声が、わざとらしく僅かに震えた。
信頼と友好、清々しい程の嘘のオンパレードだ。
フェルンは壁に背を預け、腕を組んだ。シュタルクは欠伸を噛み殺しながら天井の梁を数え始めている。
二人の態度が、この光景の日常性を雄弁に物語っていた。
「私の勘違いだったのね。あぁ、悲しいわ。悲しくて――愛しの奥さんに抱きついてしまう」
そう言うなり、ソリテールはフルーフの腕の中に身を預けた。
守られるように、縋るように。加護欲を誘う、あざとい仕草。
場の空気がと雰囲気が支配され、嫌味の一言一言が、フリーレンを加害者に仕立て上げていく。
フリーレンの杖を握る両手が、怒りではなく心労で震えていた。
目が完全に据わっている。
「あぁッ! なんて可哀想なソリテール様! 私も抱きしめて差し上げます! お可哀想に、ソリテール様は何も悪くありませんよぉ!」
フルーフは両腕の買い物袋を床にぶちまけ、ソリテールを抱き返した。
表情は完全にデレデレである。目尻は下がり、頬は緩み、鼻の下は伸びている。
ソリテールの掌の上で、見事なまでに転がされていた。
いや、自分から全身で転がりまわっていた。
リーニエは両手の人差し指で耳を塞ぎ、二人から物理的に距離を取った。
その目にはフルーフに対して「知らない人」と書いており、全力で他人のフリをしていた。
ある意味、相変わらずの三人組だった。
「……これだから嫌なんだよコイツ」
フリーレンの顔面から一切の表情が消えている。
珍しく声も低くなっていた。
「ソリテール。お前のその不愉快な嫌味と気持ち悪い猫かぶりで、私を悪者扱いするのをやめろ。不愉快だ」
ソリテールはフルーフの腕の中から顔だけを覗かせた。
翡翠の瞳がトロリと垂れ下がり、微笑む。
「なら……杖を下げて? 私はとても繊細。敵意と殺意で心が傷つくわ」
一拍の間を置き、ソリテールがフルーフを見上げる。
「ねぇ、フルーフ。傷ついた心には愛が必要ね」
「お可哀想なソリテール様ぁ!愛してますぅ!!LOVE!ら~~ぶ!」
「うっさ。知らない人、黙りなよ」
玄関ホールの石壁に声が反響した。
リーニエが顔を顰め、耳に突っ込んだ指をさらに深く押し込んだ。
フリーレンはもう何も言わなかった。
杖を空間にしまい、ソリテールの存在ごと無視して視界から切り捨てた。
フルーフに歩み寄り、二言三言、親しげに言葉を交わす。
張り詰めていた空気が、二人の間だけ微かに緩んだ。
フルーフは荷物を拾い集めながら嬉しそうに頷き、フリーレンも僅かに口元を緩めた。
チャリンと音がなる革袋を受け取ると、フリーレンは機嫌が戻ったのか、軽い足取りで踵を返し、客室のある方向へと早足で消えていった。
フェルンはその光景を半眼で見つめている。
「フリーレン様、懲りずにまた、こっそりお金受け取っていましたね」
一部始終を眺めていたザインは、後頭部を掻きながら呆れたように天を仰いだ。
「これは、アレだな。聞きしに勝るって言葉しか出てこないな……」
「ザイン様、アレでも全然マシな方です」
「アレでマシなのか……。そうか、俺は近づかないでおくか」
そう言いつつも、ザインの視線が一瞬だけフルーフの姿を追った。
大人の女性特有の線の柔らかさに、ほんの僅か目が輝く。
だが、フルーフがソリテールに頬ずりされながら鼻血を垂らして恍惚としている光景が目に入った瞬間、その輝きは急速に濁り、消えた。
大人のお姉さんに向ける好奇の目が、変態を見る目に変わるまで、数分とかからなかった。
――……うん。挨拶だけして……近づかないでおこう。
ザインは静かに悟った。
◇◇◇
再び重い扉が再び開いた。
今度は、二人の男だった。
先に入ってきたのは、厳つい体躯の隻腕の男。
失われた右腕の袖が、歩くたびに僅かに揺れている。
鋭い目つきに無駄のない歩幅、背筋は鉄の棒を飲み込んだように真っ直ぐだった。
纏う空気そのものが、戦士だと告げている。
その後ろから、またブティック店の箱を山のように積み上げて抱えた赤髪の青年が、よろめきながら入ってくる。
箱の隙間から覗く顔は、シュタルクとよく似ていた。
だが、輪郭はもう少し引き締まり、目元には大人びた落ち着きがあった。
「兄貴……」
シュトルツは箱の山の向こうからシュタルクの姿を認めると、驚いたように目を見開き、次の瞬間には眉間を緩めた。
箱を手近な台の上にどさりと下ろし、弟の方へ歩み寄る。
「――おぉ、シュタルクか。お前、大きくなったな。こんな所でどうした?」
「だいたい兄貴と同じ理由だよ。ほとんど無理やり連れてこられた」
シュタルクは片手で首の後ろを掻きながら苦笑した。
「あぁ、そういうことか。確かにお前の方が似ているからな。偶然この街に来たのなら、運が悪かったな」
シュトルツが肩を竦めて笑う。
村にいた頃と何も変わらない笑い方だった。
その時、隻腕の男がシュトルツの背後から歩み出た。
「おい、シュタルク」
低い声だった。
感情を削ぎ落としたような、硬質な響き。
シュタルクの背筋が反射的に伸びた。
呼吸が一止まる。
身体が覚えている。
この声の前では、姿勢を正さずにはいられなかった。
「お、親父……その、久しぶり」
声が上擦り、視線が泳ぐ。
手の置き場所がわからず、両腕がだらりと下がったまま宙ぶらりんになっていた。
シュトルツが、父と弟の間に割って入るように半歩前に出た。
「親父、威圧的すぎるぜ。シュタルクが萎縮している。今度会ったら褒めると言ってなかったか」
その声は軽やかだったが、有無を言わせない響きがあった。
隻腕の男――二人の父は、舌打ちを一つ漏らした。
言葉で何かを伝えることに、この男は生涯慣れることがなかったのだろう。
口元が歪み、眉間に皺が寄り、それから低く、搾り出すように言った。
「わかっている。シュタルク……よくやった」
シュタルクの目が、大きく見開かれた。
「――な、なにがだよ? 急に」
「村を滅ぼした大魔族を倒したそうだな。だからこそ、よくやったと言っている」
声色まで武骨だった。
感情を乗せることに慣れていない人間の、ぎこちない称賛。
だが、一言一言に嘘はなかった。
「お前は村の戦士たちの無念を晴らし、悲願を果たした。一人前の戦士と認め、その戦果を讃えよう」
言葉が、シュタルクの胸を真っ直ぐに打った。
こんな言葉を予期していなかった。覚悟もしていなかった。
「い、いや、あれは姉ちゃんが……」
口から出たのは事実だった。だが半分だけだ。
一人ではなく共に戦い共に倒した。
手柄を自分だけのものにするような居心地の悪さが、無意識に言い訳を作り、口から漏れる。
リーニエが、買い物袋の検分を中断し、無感情な声で割って入った。
「腹立たしい愚弟だな。最後の一撃はその斧だった。だからお前でいいよ。私は懐が広い。この懐の広さを尊敬し、一生姉である私に尽くすといい。これからは常に私に対して『様』を付けて呼べ」
シュトルツが弟の肩に手を置いた。
その手は温かく、しかし、逃がさないという意志が込められていた。
「シュタルク、素直に受け取っておけ。親父も、お前のことを素直に褒めたいのに、どう言えばいいかがわからないのさ。知ってるだろうが筋金入りの実力主義だ。だからこそお前が、あの大魔族を倒したと知った時、親父は誇らしそうな顔してたぜ。わかりづらいだろうが、親父はお前を戦士の村の誇りだと、そう褒めてるんだ」
「私がこの中年にリヴァーレのことを言ったから嘘はない。フルーフみたいなキモい顔をしてた」
リーニエが平然と補足した。
男のこめかみが一瞬引きつったが、反論はしなかった。
「貴様ら、いい加減にしておけ」
低く唸り、場の空気を断ち切った。
一歩前に出る。シュタルクの正面に立ち、隻腕の男は息子を見下ろした。
「シュタルク。どうでもいい話は忘れろ」
声の硬さは変わらない。
だが、真っ直ぐに息子を見ていた。
「お前は戦士として、なすべきことをなした。俺の戦士としての……村の長としての矜持に誓い、それを誇りに思う」
沈黙が満ちる。
男は深く息を吸い、ほんの少しだけ呼吸を緩めた。
「……それだけだ」
男は黒いマントを翻し、シュタルクへと背を向け歩き出す。
それだけ、と言った。
だがその「それだけ」に、この男が持ちうる全ての感情が詰め込まれていることを、シュタルクは理解していた。
喉の奥が熱く膨れ上がった。
息を吸おうとして肺が震えた。
こんな言葉を、この人から聞く日が来るとは思っていなかった。
声になるまで、数秒かかった。
「お、親父。 その……ありがとう。俺、頑張るよ」
男は少し立ち止まった。
何か言いたげに口をもごつかせる。
「礼など不要だ。その筋合いもない。これからも強くなれ、シュタルク。……失敗作などと呼んで悪かった、撤回しておく。俺を許す必要もない――」
言葉が喉元まで上がってくる。
だが出てくることはなく、飲み込まれていく。
結局、男はそれ以上は何も言わなかった。
口をきつく結び直し、居心地悪そうに身を翻すと、早足で客室へと続く通路に消えていった。
隻腕の袖が歩幅に合わせて揺れ、角を曲がり、そのまま影の中へ消えていく。
その背中が見えなくなるまで、シュタルクは動けなかった。
「……あぁ、わかった」
誰に返事をしたのかもわからない、曖昧な呟き。
それから兄の方を向き、困ったように笑った。
「なぁ、兄貴。なんだか……変な気分だな。夢でも見てるみてぇだ」
「あんな愛想もない中年に褒められたぐらいでなんだよ」
リーニエが意味がわからんと、首を傾げながら口を開いた。
「愛想で言えば、先生も大概ですよ」
シュトルツがリーニエに軽口を叩く。
だが、その目は弟を温かく見ていた。
「それに、シュタルクは親父から褒められ慣れていないんだ。……そうだな、先生からすれば、戦士アイゼンに直接褒められたようなものか」
シュトルツの例えに、リーニエの動きが一瞬止まった。
アイゼンの名前を出されれば、納得せざるを得ない。
「理解。甘ったれた愚弟、それなら呆けてないで、誇りなよ。私なら誇る」
「そうだぜ、シュタルク。折角だ、この後街に出るか? 俺からも祝いに何か買ってやる」
「貧乏そうで貧しい顔をした愚弟。私も恵んであげる。私の街に来たら農園を手伝え、そして私の下に就職しろ」
「姉ちゃんは祝う気ないだろ……なんだよ就職って」
シュタルクが呆れながらも、口元が綻ぶのを止められない。
「で、どうする? オルデン卿には授業の一環だと俺から言っておくぜ。マナーについても口頭で伝えられる部分はあるからな。元々俺が影武者役だったんだ、ここで学んだことを戦士流にわかりやすく教えてやれる」
「まじか、そりゃ滅茶苦茶助かるぜ。いきなりマナー指導とかされてもさっぱりだからな」
シュタルクの声に、ようやく本来の明るさが戻り始めていた。
それから、兄とリーニエを交互に見た。
「それじゃ……姉ちゃん、兄貴……いいか?」
遠慮がちに、確かめるように。
シュトルツは軽く頷き、即答した。
「お前は俺の弟だ。変に遠慮はするな」
リーニエが買い物袋を遠巻きに様子を見ていたフルーフの方へぶん投げた。
ぐはッ、と何かが倒れる音と背後から鈍い悲鳴が響くも、リーニエは一切振り返らず、先に扉へ向かって歩き出す。
「チキンな愚弟、早く行くよ。その軟弱な精神を克服しに。チキンを奢ってあげる、チキンを喰らってチキンを卒業しろ」
シュトルツが扉を開け放った。
リーニエもその横に並ぶ。
二人が同時に振り返り、シュタルクに手を伸ばした。
午後の陽が、開かれた扉から玄関ホールに流れ込んでいた。
光の中に、兄と姉の影が長く伸びている。
シュタルクは目頭が熱くなるのを感じた。
視界の縁が揺れ、瞬きで堪える。
笑った。子供の頃の、何の衒いもない笑みだった。
年相応の青年が、ただ嬉しくて笑っている。
それだけの表情が、彼の顔に浮かんでいた。
シュタルクは駆け出した。
「――あ、あぁ! 悪い、フェルンとザイン。俺ちょっと出かけてくる」
走りながら振り返り、声を上げる。
「はい。おみやげ、よろしくお願いしますシュタルク様」
フェルンが柔らかく、穏やかに微笑んだ。
「あぁ。フリーレンには俺から言っておいてやる。ゆっくりしてこい」
ザインがひらひらと手を振った。
シュタルクが光の中に飛び込む。
シュトルツがすかさず肩を組み、何かを話しかけている。
シュタルクが笑い、兄も笑う。
リーニエは無表情のまま、もたつく二人の尻を蹴り上げて先を急かしていた。
笑い声と、どたばたとした足音。
扉が閉まり、二人の人間と一人の魔族が、午後の街へと消えていった。
光が遮られ、玄関ホールに静けさが戻る。
フェルンは閉じた扉をしばらく見つめていた。
ザインも、同じ方向を見ていた。
「……いい兄貴じゃねぇか」
ザインが静かに呟いた。
フェルンは何も言わなかった。 ただ、その口元には小さな笑みが残っていた。
◇◇◇
シュタルクが扉の向こうに消えたことで、背後に控えていたガーベルは静かに身を引いた。
授業の対象がいなくなった以上、執事には本来の業務がある。
軽く一礼し、廊下の奥へと姿を消していく。
フェルンの後ろに控えていた侍女もまた、目礼一つで持ち場へと戻っていった。
玄関ホールに残されたのは、フェルンとザイン、そしてフルーフとソリテールの四人だった。
先程からホールの隅で荷物を拾い直しながら、絶妙に存在感を消していた二人が――人の往来が途切れ、屋敷の者の目も離れたこの瞬間を見計らったように動き出した。
珍しく空気を読んで待っていたらしい。
ソリテールがフェルンの方へ歩み寄った。
翡翠の瞳が柔らかく細められる。
先程フリーレンに嫌味を並べていた時と寸分違わぬ穏やかさで、口を開いた。
「久しぶり、フェルン。元気にしていた?」
「こんにちはフェルンさん、少し大きくなりました? あぁ、新しく僧侶の方がいますね。お初にお目にかかります、私はフルーフ、こちらは旦那様のソリテール様です」
フルーフが一歩前に出て、ザインに向けて丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりですソリテール様」
フェルンの表情がほころんだ。
ソリテールに向ける笑みには、素直な敬意が滲んでいる。
小さく頭を下げ、それからフルーフの方に視線を移した途端、その笑みが僅かに引き攣った。
「……それと、フルーフ様」
フルーフは身体ごとフェルンの方に傾き、両手を胸の前で組んでいた。
底抜けの好意を全身から放射している。が、その鼻の下には拭い残した鼻血の痕がくっきりと残っており、フェルンの目は反射的にそこに吸い寄せられた。
笑顔と鼻血の組み合わせは、控えめに言って変態感が凄まじかった。
フェルンは引き気味に会釈を返し、視線をそっと逸らした。
「話は聞いてるぜ。俺は僧侶のザインだ。暫くは顔を合わせることもあるだろうが、よろしく頼む」
ザインが気負いのない調子で手を差し出した。
気さくで親しみやすい自己紹介だ。
「えぇ、こちらこそ。どうぞ、よろしくお願いしますザインさん」
フルーフがザインの手を取り、握手を交わす。
ザインは特に動じた様子もなく、初対面の相手に対する程よい距離感を保っていた。
続いてソリテールとも握手を交わす。
指が触れた瞬間、ザインのこめかみに冷や汗が一筋伝った。
ソリテールの身体から漂う、死の匂い。
肌に触れる指先は人間のそれと変わらないのに、胸の奥底にある何かが「危険だ」と囁いている。
本能が警鐘を鳴らしていた。
だが、旅の道中で散々聞かされた前情報のおかげだろう。
ザインは表情を崩さなかった。
僅かに喉仏が動いただけで握手を終え、何事もなかったように手を引いた。
「あんたら、礼儀作法に詳しいんだって?」
ザインが切り出した。
オルデン卿の言葉を思い出したらしい。
「あ、そうでした。礼儀のれの字も弁えて無さそうなのに」
フェルンのストレートな物言いに、フルーフは苦笑いを浮かべた。
否定したいが否定しきれない、という顔だ。
ソリテールは変わらず微笑んでおり、否定も肯定もしなかった。
「はは、これでも長生きしてますからね。失礼にならない程度の心得はありますよ。マナーを弁えるかどうかは、また別の話ですけど」
「私も知識を元に一応の形はとれるわ。アインザームは礼儀作法に詳しいから、色々と参考にさせて貰ってるの」
「リーニエ師匠は、相手の体内の魔力を見て模倣できるので、ダンスなどの決まった動作は上手いですよ。相手に配慮するマナーとかは、かなり怪しいですけど」
そう言うと、フルーフは不意に背筋を伸ばした。
両肩が落ち着き、重心が安定する。
コートの裾を指先でつまみ上げ、絹が擦れる微かな音と共に片足を引いた。
膝を折り、頭を下げる。白い髪が肩から滑り落ち、陽光を受けて銀色に煌めいた。
流れるような所作の、見事なカーテシーだった。
ソリテールも続くように、片足を後ろに引いて床を擦り、深く頭を下げた。
こちらは明確に男性の作法だった。
背筋の伸び方、腕の角度、視線の落とし方まで、随分と堂に入ったボウ・アンド・スクレープである。
踵が石の床に触れる硬い音が、ホールに小さく響いた。
「おぉ~」
ザインが素直に感心し、パチパチと拍手を送った。
貴族でも何でもない彼だが、素人の目から見ても洗練された動作であることは一目でわかった。
フェルンもパチパチと気の抜けた拍手を送った。
ただ、ソリテールの所作を見る目は半眼になっていた。
やっぱりそっちなんだ、という諦めにも似た納得が滲んでいる。
「ソリテール様の性格と、アインザーム様を参考にしたと聞いた時から理解していましたが……やっぱり男性の作法なんですね」
ソリテールは仕草を解き、いつもの体勢に戻った。
きょとんとした表情でフェルンを見返す。
何を当然のことを聞いているのか、と言わんばかりの顔だった。
「当然。私はフルーフの旦那様だもの。フルーフは私の奥さん、だから女性の作法。私は旦那様だから、男性の作法。なにかおかしいかな?」
さも当然のように口にされる摩訶不思議な理論。
だが、ソリテールとの付き合いが長いフェルンは、片手を軽く上げて制した。
「いえ、もう私も、ソリテール様がそういうものだと理解していますので、ご自由になさってください。私の感性の問題なので」
「俺も作法に詳しくなんてないが……はは、まぁ、身長差とか見た目を考えるなら、普通は逆って感じだよな。もちろん否定するつもりはないぜ、そこのところ勘違いしないでくれよな」
ザインが二人を改めて見比べた。
かなりの身長差がある。
どちらも女性だが、二人を知らない人間に「どちらが旦那でどちらが妻か」と問えば、十中八九は逆の答えが返ってくるだろう。
それくらい、見た目の印象と実際の関係性が噛み合っていなかった。
「えぇ、わかっていますよ。私は人の嘘を見抜けますので。貴方は……なんというか、いい人ですね。フリーレンの仲間ですし、私の身内リストに入れてあげます」
フルーフがザインを見つめた。
赤い瞳の奥で、何かを読み取るように視線の深度が増す。
ザインの魂の揺らめきに、黄金色の輝きが映った。
中々の女神の加護だ。ほんの数秒の観察で十分だった。
フルーフの下した診断結果は明快だった――極めて面倒見のいい善良な男。
人柄、感性含め、実に好感触である。
結果、即、身内判定。
満面の笑みを浮かべ、ザインに向かってグッドサインを突き出した。
だが、唐突に「身内リスト」なる謎の概念に編入されかけたザインにとっては、気が気ではなかった。
旅の道中で散々、目の前の連中がまともではないと聞かされてきたのだ。
ザインはさりげなくフェルンの方へ身体を寄せ、耳元で声を落とした。
「え、なんだ? おい、フェルン。なんか聞き慣れない言葉が聞こえたぞ。身内リストってなんだ? 入ったらやべーもんじゃないだろうな」
フェルンも小声で答えた。
「安心してください。死んでも蘇生させられたり、命がけで助けに来てくれるだけです。大概のお願いは聞いてくれるようになりますよ」
「重っっ。おいおい、出会って数分の相手が加わるリストじゃねーだろ……」
「この人、そういう人なんで。諦めてくださいザイン様」
ザインはバッと身をフルーフの方へと向け口を開く。
「一応言っとくが、俺からは何もできないぞ。見ての通りのしがない僧侶だ、金だってない」
「うん? あぁ、心配なさらないでください。私の気持ちの問題なので、特に何かあるわけではないですよ。ただ、北部高原にシンビオシスって街があるんですけど、そこに立ち寄った際に声でもかけてくだされば、食事やお酒、宿代などを無料で提供します。身内なので」
ザインの耳が、ぴくりと動いた。
食事。酒。宿代。無料。
その四つの単語が脳内で結合した瞬間、ザインの中で何かが弾けた。
特に拒否する理由が見当たらない。
ならば乗る以外の選択肢など、この世に存在しなかった。
「そのリスト載ったぁッ!!」
フェルンから勢いよく離れ、満面の笑みでグッドサインを返す。
歯が見えるほどの、実に清々しい変節だった。
「……ザイン様。僧侶として少しは遠慮してください。考えが即物的すぎます」
フェルンの声が冷え込んだ。
「フェルン、大人ってのは綺麗事だけじゃ生きていけないんだ。時には泥に塗れる覚悟を持って生きていかなきゃならないんだぜ」
「それ、前にも似たようなことを言ってましたよね。今のは泥に塗れる、じゃなくて恥を捨てただけです」
「……手厳しいぜ。なら言い換えよう。俺たちは友だちになるだけだ。そうだよなフルーフさん、俺たちは今からただの友だちだ」
ザインの勢いは止まらなかった。
開き直った男の笑顔は、ある意味で最強だった。
「友だち!なんて新鮮な響きでしょう。私、友だちになって欲しいだなんて初めて言われました。よろしくお願いしますザインさん!」
フルーフの赤い瞳が、ぱあっと輝いた。
鼻息が荒くなり、ザインが差し出した手を両手でがしりと掴み取る。
力いっぱいの握手だった。
握られたザインの手が僅かに軋んだが、フルーフは気づいていない。
その感激ぶりに、ザインの口角が僅かに引き攣った。
もっとこう、酒の席での軽いテンションを期待していたのだ。
「いいぜ、今度飲もう」くらいの、空気のような社交辞令で返ってくるはずだった。
なのに、重い内容に合わせて、重い言葉がセットで返ってきた。
「な、なんか思った反応と違うぞ……心が痛むな……」
「この人、自分からぐいぐい行くタイプなので、言われることは少ないんですよ。今のでだいぶ気に入られたと思いますよ。よかったですねザイン様」
フェルンの声は淡々としていたが、その目はどこか同情的だった。
「そ、そうか。まぁ……いいか。知り合いが多いことに越したことはないしな」
ザインは自分を納得させるように頷いた。
とりあえず、食事と酒と宿がタダになる未来は確保された。それでいい。それだけでいい。
フェルンがソリテールの方に向き直った。
声色が、僅かに引き締まる。
「ソリテール様。必要ないとは思いますけど、一応私からも言っておきます。ここでは伯爵領の時のように、毎晩フルーフ様の臓物をその辺に撒き散らさないでくださいね」
「どんな注意だよ。物騒すぎるだろ」
ザインが思わず突っ込んだ。
だがフェルンは至って真顔だった。
「魔族であることを隠しているんですよね。騒ぎになるので、絶対に変なことはしないでください」
「ええ、わかっているわフェルン。静かに、後片付けもしっかりやればいいのね。伯爵領で娘に散々怒鳴られて掃除させられたもの。汚さないようにする方法も心得ているわ」
ソリテールの返答は、一見すると理解を示しているようで、根本的に論点がずれていた。
「やらない」ではなく「綺麗にやる」と言っている。
フェルンの眉間に皺が寄る。
フルーフが荷物を持ち直しながら追い打ちをかけた。
「任せてください。リーニエ師匠とアウラさんに散々シバかれて、死体処理の掃除スキルは完璧です。消臭もしておきますので、安心してくださいねフェルンさん」
明るい声で締めくくると、フルーフは片手を振りながら客室へ続く廊下に消えていった。
ソリテールも軽く手を振り、その後に続く。
二つの足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「駄目だ。話が通じない」
フェルンが額に手を当て、深く息を吐いた。
目元に疲労の翳りが差している。
「なぁフェルン。俺はもうあの二人の扱い方がわかったぜ。一度注意して聞かなきゃ、二度と聞かないだろ。なら後は放置一択だ」
ザインは珍妙な生物を目撃した後のような苦笑いを浮かべ、懐から葉巻を取り出して火を灯した。
紫煙がゆるりと天井に向かって昇っていく。
フェルンは一人、ぶつぶつと何かを呟いていた。
思考が口から零れている。やがて、長い溜息がそれを断ち切った。
「はぁ……。アウラ様もいないし、フリーレン様も引きこもっちゃったし、私がどうにかしなきゃ……。後でリーニエ様に話しておこう。――ザイン様。臭いです、近づかないでください」
「なぁフェルン。男は繊細なんだぜ……。その言い方だと俺が臭いみたいだろ」
「葉巻の話です」
「……わかってる。わかってはいるが、言い方ってもんがあるだろ」
ザインは葉巻をもみ消し、フェルンの後を追うように廊下へと歩き出した。
フリーレンのいる客室へ向かうフェルンの背中を追いながら、何とか平静を装っている。
だが目尻にはほろりと涙が滲んでいた。
三十代はデリケートな時期なのだ。
フェルンのような年若い娘に臭いなどと言われて、気にしない方が無理がある。
ザインは何度か自分の腕の匂いを嗅ぎ、加齢臭なんてしてないよな、と念入りに確認した。
してないはずだ。まだ三十代だ。大丈夫だ。大丈夫なはずだ。
二人の足音が遠ざかり、やがて廊下の奥へと消えていった。
喧騒が去った玄関ホールに、午後の陽光だけが静かに差し込んでいる。
噴水の水音が、遠くから微かに聞こえていた。