ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第60話▶拳ブチコミ

 

 

屋敷に滞在して二ヶ月半。

社交界まで残り二週間を切った頃のことだった。

 

その日の午前の指導を終えたシュタルクは、屋敷の中を当てもなく歩いていた。

 

作法の訓練は、もはや苦痛ではなくなりつつある。

身体が覚えたことを、頭が後から追いかけてくる段階に入っていた。

 

立ち方、歩き方や会釈の角度。

知識の型と感覚が、少しずつ一つの動きに溶け合い始めている。

 

だが、作法の訓練とは別に、シュタルクの中で棚上げにされたままの問題が一つあった。

 

父親のことだ。

 

あの日、玄関ホールで交わした言葉。

一つ一つが、胸の奥で溶けきれない塊になって沈んでいる。

 

嬉しかったのは確かだ。

だが、嬉しさだけでは説明がつかない、もっと複雑な何かがその下に沈殿していた。

 

許す必要もない、と親父は言った。

 

ならば許さなくていいのか。

許したいのか?許せるのか?

 

その答えが出ないまま、二ヶ月半が過ぎようとしている。

 

父親とは屋敷の中で何度か顔を合わせた。

食事の席、訓練場の端、廊下ですれ違う時。

 

だが、あの日以来、二人きりでまともに話したことは一度もなかった。

親父の方も、必要以上に近づいてこなかった。

 

距離を置いているのか、それとも距離の詰め方がわからないのか。

 

意識を振り払うように首を左右に振った。

考えたところで答えは出ない。

 

散歩でもして気を紛らわせよう。

そう思って歩き出した足が、気づけば立ち入ったことのない屋敷の奥に向かっていた。

 

普段の生活圏とは違う区画だった。

人の往来がなく、窓も少ない。

 

 

「……ここ、どこだよ」

 

 

独り言が廊下に響いた。

天井が高く、反響が返ってくるまでの間が長い。

 

引き返すにも、曲がり角をいくつ過ぎたか覚えていなかった。

右に曲がったか、左に曲がったか。そもそもどこから入り込んだのかすら怪しい。

 

誰かに道を聞こうにも、人影がない。

使用人の一人も通らなかった。

 

廊下を進むと、扉が等間隔に並んでいた。

すべて閉じられている。

 

一つ、二つと通り過ぎ、三つ目の扉の前で足が止まった。

 

扉の隙間から、微かに柔らかい光漏れていた。

恐らく窓から差し込む陽光だろう。

 

人がいるのかもしれない。

 

シュタルクは扉に手をかけた。

重い樫の扉が軋みながら開く。

 

部屋の中は、想像していたよりも広かった。

壁には控えめな織物が掛けられ、窓際には薬草の束と水差しが置かれている。

 

部屋の中央に、天蓋付きの寝台が据えられており、寝台の上には人がいた。

 

全身を包帯に覆われた青年が、仰向けに横たわっていた。

左腕は添え木で固定され、胸から腹にかけても厚い布が幾重にも巻かれている。

 

掛け布の上に出た右手の指先が、シュタルクの気配に反応するように微かに動いた。

包帯に覆われた首が動き、ゆっくりとシュタルクの方を向いた。

 

シュタルクは、息を止めた。

 

肖像画を初めて見た時の記憶が甦る。

あの額縁の中の人物が、今目の前のベッドに横たわっている。

前髪は前へと下ろされており、実際に目の前で見ると、シュタルクの兄弟だと言われても信じる程に顔つきが酷似していた。

 

オルデン卿の息子、ヴィルトだ。

 

 

「あ、いや!?すみません。道に迷って……勝手に入っちまった。すぐ出ます!!」

 

 

シュタルクは反射的に一歩後ずさった。

貴族の、しかも重傷で療養中の嫡男の部屋に、無断で踏み込んでいる。

 

これがどれだけまずいことか、ガーベルの指導を受ける前ですら理解できることだ。

身を翻しかけた瞬間、背後から掠れた声が届いた。

 

 

「待ってくれ」

 

 

低く、しかし穏やかな声だった。

長い療養で喉が上手く動かないのか、声は掠れていた。

 

 

「少し、近くに来てくれないか」

 

 

シュタルクは扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。

 

敵意や警戒は感じない。

ただ純粋な関心と、それから微かな――期待のようなものが、その目の奥に揺らめいていた。

 

 

「……いいのか? 俺、こんなとこにいたら怒られるだろ」

 

「この部屋に来るのは父上とガーベル、あとは薬師が数人だけだ。二ヶ月半ずっとな。同じくらいの歳の人間と話すのは久しぶりでね。頼むから、もう少しだけ付き合ってくれないか」

 

 

嘘をつく理由もない。ただ本当に、人恋しかっただけなのだろう。

シュタルクは数秒迷い、結局、扉から手を離した。

 

寝台に近づく。

ベッドの横に置かれた椅子を引き、腰を下ろした。

 

木の椅子が軋む小さな音が、静かな部屋に響いた。

 

ヴィルトは首をゆっくりとシュタルクの方に向け、その顔をまじまじと見つめた。

それから、口元がほんの僅かに持ち上がった。

 

 

「……なるほど。似ている、とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった」

 

「あんたが、ヴィルト様だよな?本当に肖像画通りなんだな……」

 

「あぁ。そして君が、私の代わりを務めてくれているシュタルクだな。父上から話は聞いている」

 

「あぁ、俺がシュタルク……って、悪りぃ、いや、申し訳ありません!馴れ馴れしかっですよね!?敬語で話すので……不敬罪とかは勘弁してくれぇ!」

 

「やめてくれ。騎士団の連中にも普段は堅苦しい口調は禁じている。過度な敬語で話されると、背中が痒くなるんだ」

 

 

ヴィルトの声には、名家の嫡男としての硬さがなかった。

前線で兵と肩を並べてきた人間特有の、肩肘を張らない気さくさがあった。

 

シュタルクは拍子抜けした顔で瞬きを一つ。

それから、ふっと口元が緩んだ。

 

 

「……助かるよ。正直、敬語で二ヶ月半しゃべり続けて、もう限界だったんだ」

 

「だろうな」

 

「朝から晩まで、ひたすら叩き込まれたんだよ。もう一度もう一度って……。」

 

「あぁ、ガーベルか。物静かそうで、意外と容赦がないからな。私も子供の頃から鍛えられたよ」

 

「あの淡々とした感じがまた、きついんだよなぁ……」

 

 

二人は同時に苦笑した。

同じ執事に鍛えられた者同士の、妙な連帯感があった。

 

 

「礼を言わせてくれ。本来は私の果たさなければならない役目を引き受けてくれたこと、心から感謝する」

 

「いや、そんな大層なもんじゃないぜ。路銀が足りなくて断れなかっただけだ」

 

 

シュタルクは首の後ろを掻いた。

感謝されるような立派な動機でもない。

 

 

「動機が何であれ、やってくれているのは事実だ。……それにしても、お互い災難だな。君は路銀のため、私はこの有様だ」

 

「いつから、ここに?」

 

「もう三ヶ月になるか。最初の一ヶ月はほとんど意識がなかった。目が覚めた時には全身包帯で、天井しか見えなくてな。……正直、退屈で死にそうだった」

 

「死にかけたのに、退屈で死にそうって」

 

「騎士にとっては、剣を振れないことの方が辛い。怪我の痛みは我慢できるが、退屈だけはどうにもならん」

 

 

冗談めかした言い方だったが、声の端に本物の疲弊が滲んでいた。

三ヶ月間、この部屋から出られず、限られた人間としか顔を合わせない生活。

 

騎士として前線に立っていた人間にとって、それがどれほどの苦痛かは想像に難くない。

 

シュタルクは椅子に深く腰を沈めた。

会話に慣れてきたのか、肩の力が自然に抜けていく。

 

会話は自然に流れていった。

旅のこと、仲間のこと、偶然この街に辿り着いた経緯。

 

シュタルクは変に力を入れず、普段の口調で話した。

ヴィルトは寝たまま相槌を打ち、時おり質問を挟む。

 

 

「仲間がいるんだな。……いい旅をしているみたいだ」

 

「まぁ、いい旅かどうかはわからないけどな。金はないし、危ない目にも遭うし」

 

「それでも続けているなら、悪くないんだろう」

 

 

ヴィルトの声が、少し柔らかくなった。

羨望とは違う。ただ、自分にはない景色を見ている人間への、素直な好感だった。

 

 

「……それと、ここで親父と兄貴に偶然会った」

 

シュタルクの声が、ほんの僅かに沈んだ。

それまでの軽い口調から、半音だけ低くなる。

 

ヴィルトは見逃さなかったが、追及はしなかった。

 

「あぁ、知っている。君の兄のシュトルツと、父君の――戦士の村の長だな。それも父上から聞いている。影武者の候補として招いた戦士の村の人間が、既にこの屋敷にいると」

 

「親父とは、その……あんまり仲が良くなかったんだ」

 

 

シュタルクの声が固くなる。

言葉を選んでいるのではなく、選べないまま口から出していた。

 

 

「俺、剣の才能がなくてさ。兄貴は村一番の戦士で、親父にも認められてた。だけど俺は……駄目だった。何をやっても兄貴に届かなくて。ずっと親父を失望させちまってたんだ、それで色々きついことも言われてさ」

 

沈黙が部屋を覆い、窓の外からは鳥の声が微かに届く。

 

「でも、旅の最中色々あって、ここに来て……親父に褒められた。謝罪もされた。許す必要もないとも言われたよ」

 

 

シュタルクの視線が、自分の掌に落ちていた。

膝の上で組んだ指を見つめている。

 

 

「正直、どうしていいか、わからないんだ。嬉しいのか、怒ってるのか、悲しいのか。全部混ざってて、自分でも整理がつかない」

 

 

ヴィルトは黙って聞いていた。

首を回したまま、視線は変わらずシュタルクの横顔に向けられている。

 

しばらくの沈黙の後、ヴィルトが口を開いた。

 

 

「君と状況はまるで違うが……私も、少し前まで父上に思うことがあった」

 

 

声の調子が変わっていた。

気さくさは残しつつ、少しだけ深い場所から言葉を引き上げている。

 

シュタルクが顔を上げた。

 

 

「出征する前の日だった。父上と、口論になったんだ」

 

 

ヴィルトの目が、天井の一点を見つめていた。

記憶の中の光景を追っているようだった。

 

 

「些細なことだ。戦の準備の手順で意見が食い違い、どちらも引かなかった。売り言葉に買い言葉で、互いに言わなくていいことまで口にした」

 

声は淡々としていた。

 

「最後に父上が言ったんだ。お前の顔なんて二度と見たくない、と」

 

だが、淡々としていること自体が、その記憶の重さを物語っていた。

 

「頭では、本心じゃないとは分かっていた。あの人は怒ると言葉が先走るタイプでな。だが……刺さったよ。深くな。歯を食いしばって、一言も返さないまま私は立ち去った」

 

ヴィルトの右手が、掛け布の上で僅かに握られた。

 

「そのまま、翌朝戦場に出た。そして敵の将軍と相打ちになって倒れた。意識が薄れていく中で……考えていたのは、戦のことでも、痛みのことでもなかった」

 

一呼吸分の静寂の場を満たし、再び口が動く。

 

「あのまま死んだら、父上と最後に交わした言葉が喧嘩の言葉になる。それが……どうしようもなく、嫌だった」

 

 

シュタルクは黙って聞いていた。

ヴィルトの言葉の一つ一つが、自分の胸の中にある未整理の感情とほんの少しだけ重なっていく。

 

 

「謝りたかった。父上に。くだらない意地を張って、心にもないことを言い合って、そのまま別れたことを。……だが、死にかけの人間には、それすらできない」

 

 

ヴィルトの唇が、薄く弧を描いた。

笑みと呼ぶには弱すぎる、けれど確か微笑んでいた。

 

 

「結局、父上が来てくれた。自ら前線に出て、私を担いで戻ったそうだ。……目が覚めた時、この寝台の横に椅子があった。今、君が座っているその椅子だ。父上が、そこで眠っていた」

 

 

シュタルクは無意識に、椅子の肘掛けに触れた。

木の表面は長い時間を経て滑らかになっている。

 

 

「起きた父上は何も言わなかった。ただ、私の頭に手を置いて、目を閉じた。それだけだった」

 

ヴィルトは天井に視線を移した。

 

「それだけで十分だった。口論のことも、あの言葉のことも。全部、あの数秒で終わった」

 

 

部屋に静寂が満ちた。

窓から差し込む光の角度がほんの少しだけ傾き、寝台の上に新しい影を落としていく。

 

 

「……シュタルク。君は、どうしたいんだ」

 

 

真っ直ぐな問いだった。

答えを誘導する意図もない、ただ本心を問う問いかけだ。

 

シュタルクは、しばらく黙っていた。

膝の上の拳を見つめ、それから窓の外に目を向け、最後にヴィルトの顔に視線を戻した。

 

 

「……あの日褒められてから、ずっと考えてた。嬉しいはずなのに、素直に喜べない。謝られたのに……昔の思い出は辛いままだ、楽になんてならない」

 

整理されていない言葉が、口からぽつぽつと落ちていく。

 

「才能がないって言われるのも、兄貴と比べられるのも。あまり思い出したくなんてない」

 

拳が、膝の上で強く握られた。

 

「でもさ……責めたいだとか、縁を切りたいとかじゃないんだ」

 

シュタルクの声に、確かな熱が灯っていた。

 

「血の繋がった家族だ。仲良くできるなら、そうしたい。……そう思ってる自分がいることに、ヴィルトの話しを聞いて、気づいた」

 

ヴィルトは静かに頷いた。

 

「なら、許してやれ」

 

声は穏やかだったが、迷いのない響きがあった。

 

「ただ――」

 

 

ヴィルトは一度言葉を切り、視線が仰いだ。

何かを測るように、数秒の間を置いた。

 

 

「言葉だけじゃ、胸の中のものは収まらないだろう。許す、と口にしたところで、飲み込みきれないものが残る。君の場合は特にそうだろう。何年も積もったものがある」

 

シュタルクの顔を見つめ、歯を見せるように笑う。

 

「一発殴ってやれ。それでチャラにしろ」

 

シュタルクは目を見開いた。

 

「殴る? 親父を?」

 

「そうだ。正々堂々と。卑怯な手ではなく、真正面から」

 

 

ヴィルトの声に冗談の色はなかった。

シュタルクは口を半開きにしたまま、数秒固まっていた。

 

それから、困ったように眉を寄せた。

 

 

「いや、無理だろ。片腕だろうが、勝てる気なんてしねぇよ。殴ろうとしたって、その前に十回は斬られる」

 

「……君は、大魔族を倒したのだろう」

 

 

シュタルクの口が閉じた。

ヴィルトの目が、シュタルクを真っ直ぐに見ていた。

 

 

「グラナト伯爵の報告には私も目を通した。大魔族の中でも最強の戦士と謳われた相手を、正面から打ち倒した。その戦士が、人間の戦士一人に勝てないはずがない」

 

「いや、あれは……」

 

 

言いかけて、シュタルクは口を噤んだ。

他ならないリーニエがそれでいいと言ったことに、いつまでも同じことは言っていられない。

 

シュタルクは深く息を吸い、吐いた。

 

 

「……そうだな」

 

言い訳の色が消え、声が変わっていた。

 

「ありがとな。ヴィルト」

 

短い礼の後、そこに表情には決意が滲んでいた。

 

「正面から試合を申し込んでみるよ。勝ったら一発殴る。それで決着だ」

 

 

ヴィルトの眉が、ゆっくりと垂れる。

穏やかで、確かな笑みだった。

 

 

「頑張れ」

 

 

応援はその一言だけだった。

シュタルクは立ち上がり、椅子を元の位置に戻す。

 

扉に手をかけ、一度だけ振り返った。

 

 

「……俺がきたってこと、オルデン卿には」

 

「言わないさ。この部屋で何を話したかも含めて。……ただ、結果だけは聞かせてくれると嬉しい」

 

「あぁ。必ず」

 

 

シュタルクは扉を開け、薄暗い廊下に踏み出した。

振り返らず、確かな足取りで歩き出す。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

訓練場は、屋敷の庭の一角にあった。

砂地の上に打ち込み用の木人形が並び、その向こうには道具立てと水桶が置かれている。

 

父親がいた。

隻腕の男は木人形の前に立ち、片手で剣を振るっていた。

 

一振り。木人形の胴に深い切り込みが入る。

間を置かず、二振り。先の切り込みの上に、寸分違わぬ角度で二本目の線が刻まれた。

 

失われた右腕の空白を、技の精度と身体の軸の安定で完全に補っている。

片腕であることを、剣は微塵も感じさせなかった。

 

シュタルクは訓練場の入り口で足を止め、父親の背中を見ていた。

 

呼吸を整えるが、胸の奥で心臓が鳴っている。

緊張しているのか。恐れているのか。どちらでもあり、どちらとも違う。

 

もう、曖昧にしたくなかった。

 

砂地に一歩踏み出した。

砂利を踏む音が鳴り、男が剣を止めた。

 

振り返らなかったが、背中が微かに強張ったのがわかる。

誰が来たのか、足音だけで分かっているのだろう。

 

 

「親父」

 

 

シュタルクの声が、訓練場に響いた。

声は上擦っており、隠す余裕もないようだった。

 

男がゆっくりと振り返った。

鋭い目がシュタルクを射抜き、隻腕の袖が風に僅かに揺れていた。

 

 

「用か」

 

 

余計な言葉は一切ない、低く短い問いかけだ。

肺の空気を全て入れ替えるように、シュタルクは一度だけ大きく息を吸い、吐いた。

 

 

「あの日、許す必要もないって言ったよな」

 

男は黙って頷いた。

 

「俺は……許したい」

 

 

声が、少し震えた。

だが、視線は逸らさなかった。

 

 

「家族だから。血の繋がった、俺の親父だから。仲違いしたまま、ってのは……嫌だ」

 

言葉が喉を通る度に、胸の奥で何かが解けていくような感覚があった。

 

「だけど」

 

シュタルクの声が、低くなった。

 

「辛かったのは事実だ。ずっと比べられて、否定されて。それを言葉だけで終わりにはできない」

 

 

男の表情は変わらなかった。

だが、瞬きの速度が僅かに変化した。

 

 

「だから親父……俺と試合をしてくれ」

 

シュタルクは、真っ直ぐに父親を見据えた。

 

「俺が勝ったら、一発殴る。それで全部チャラにする」

 

 

訓練場に沈黙が満ちた。

男はシュタルクの顔を見つめていた。

 

厳つい顔の中で、目だけが微かに揺れていた。

負けた時の条件がない。一方的な言い分だった。

 

道理も筋も通っていない。

仮にシュタルクが負けても何も変わらない。

 

男にとっては損しかない賭けだ。

 

だが、男は戦士だった。

そして息子も、戦士だ。

 

言葉で伝えられないものがある。

時間が解決するとも限らない。

 

ならば身体で……拳で決着をつける。

乱暴で不器用で、筋も通らない。

 

だが、それが戦士の流儀だということを、男も理解していた。

 

息子が殴りたいと言っている。

数年分もの感情の重みを、たった一発に込めて。

 

それを受ける覚悟なら、とうに出来ていた。

 

男は剣を握り直した。

 

 

「……いいだろう」

 

シュタルクの目に、光が灯った。

 

「準備はいいか」

 

 

シュタルクは背中の戦斧を引き抜いた。

使い慣れた黒銀の斧が、陽光を受けて鈍く輝く。

 

両手で柄を握り、足を開いた。

砂地に靴底が沈む感触と共に、風が頬を撫でた。

 

男は左手一本で剣を構え、切っ先がシュタルクの喉元を静かに指し示す。

 

訓練場の空気が変わる。

 

一瞬の静寂の後――男が踏み込んだ。

 

速い。

 

剣が横薙ぎに走った。

左手一本とは思えない加速。

 

シュタルクは斧の柄で受けるが、衝撃が腕を伝い、足元の砂が弾け体勢が崩れる。

 

立て直す間もなく、二撃目。

下段から掬い上げるような軌道。

 

シュタルクは後退しながら斧の刃で逸らすが、手首に痺れが走る。

それはシュタルクにとって馴染み深い、リーニエの扱う衝撃操作によく似た技術だった。

 

三撃目は来なかった。

代わりに、半歩の前進。

 

だがその半歩が罠だ。

シュタルクが反射的に斧を振ろうとした瞬間、振り上げた腕の動きを見切ったように、男の剣が軌道を変えた。

 

斧の柄を叩く。

正確に、手首の関節が最も力の入らない角度で、シュタルクの握りが僅かに緩む。

 

間髪を容れず、男の足が砂地を蹴った。

シュタルクの軸足の方向を読み、退路を塞ぐ位置に回り込む。

 

 

「ッ――」

 

 

シュタルクは歯を食いしばり、力任せに斧を振った。

速度ではなく質量で空間を切り取る一撃。

 

だが、男は既にその軌道の外にいた。

 

たったの一歩後退しただけの回避。

まるで最初から、シュタルクがそこに振ることを知っていたかのように、スレスレで当たらない。

 

圧倒的なまでの技巧の格差がそこにはあった。

 

一手ごとに誘導され、攻撃の全て読まれていく。

斧を振る前に、振る方向が決められている。

 

打てば躱され、守れば崩される。

片腕の空白を技術で完全に補い、それでもなお余りある経験が、シュタルクの全ての行動の先回りをしていた。

 

何十年という歳月が、この男の剣には詰まっている。

一振りの中に、若い頃の鍛錬、戦場の修羅場、村を守り続けた日々、その全てが凝縮されていた。

 

シュタルクは後退を重ねていた。

砂地の端が近い。

 

だが。

 

心が折れる気配は、なかった。

 

リヴァーレの顔が浮かぶ。

あの時の死線と比べれば――

 

この剣は、あまりにも遅い。

 

技巧では及ばない。

読みでも勝てない。

 

だが、速度だけは……あの死闘を生き延びた目が追いついている。

 

ただ愚直に耐え、凌ぎ、受け流した。

そしてシュタルクの戦士の才が、旅の中で培った実戦の勘が……徐々に経験の差を埋めていく。

 

一分。二分。十分。

時間の感覚が曖昧になる。

 

シュタルクは目を見開き、父親の剣を観察し続けていた。

軌道の起点を、手首の角度を、踏み込みの深さを。

 

やがて、見えた。

 

連撃の合間。

左腕を引いて次の一振りに移行する、ほんの一瞬の空白。

 

技巧で作られた隙ではない、構造上の必然。

 

片腕で剣を振るう以上、腕を引く動作は、どれだけ早かろうと省略できない。

そこに僅かな間がある。

 

技では、こじ開けられない。

だが力なら……膂力であれば誰にも負けはしない。

 

シュタルクは全身の筋肉を、一点に集中させた。

足裏で砂地を噛み、腰を沈め、肩から腕へ、腕から掌へ、掌から斧の柄へ。

 

膂力の全てを、一振りに注ぎ込み――斧が唸った。

 

空気が裂け、風圧が砂地を抉り、周囲の砂塵が円形に弾け飛ぶ。

 

そして剣と斧が激突。

金属の悲鳴が訓練場に響き渡り、極大の衝撃が男の腕を貫く。

 

技術で受け流せるレベルではない。

片腕で支えきれる質量など軽く超えている。

 

剣は大きく弾かれ、男の手から離れた。

回転しながら宙を舞い、砂地に突き刺さる。

 

その勢いのまま、シュタルクの身体が前に出ていた。

斧は投げ捨て、拳だけが残った。

 

風を切る轟音が響き、右の拳が父親の左頬を捉えた。

骨をうつ乾いた音が鳴り響く。

 

男の両足が地面から離れ、そのまま身体が拳の力へと引かれ宙を舞う。

地面で何度かバウンドを繰り返し、滑るように仰向けに倒れた。

 

砂埃が舞い上がり、ゆっくりと降り注ぐ。

 

シュタルクは拳を突き出した姿勢のまま、立ち尽くしていた。

 

右手が震えている。

 

殴った感触が骨の芯から腕を伝い、肩まで痺れていた。

目が見開かれたまま、動けなかった。

 

自分がやったことの実感が、遅れて押し寄せてくる。

殴った。親父を本当に……――殴った。

 

砂地に仰向けに倒れた男は、しばらく動かなかった。

 

左頬が赤黒く腫れている。

口の端から砂と、僅かな血が混じった唾が垂れていた。

 

目は開いており、空を見上げていた。

 

夕陽が訓練場の砂地を橙色に染めていた。

男の黒いマントの表面に、その光が鈍く反射する。

 

男が目を強く閉じ、吐息が漏れるように口を開く。

 

 

「……お前の、勝ちだ」

 

 

低い声だった。

だが、そこには敗北の悔しさも、屈辱の色も、何一つ混じっていなかった。

 

 

「お前は……もう、俺より強い」

 

 

砂の上に横たわったまま、男は息子を見上げていた。

 

目が、真っ直ぐにシュタルクを見ている。

鋭さは変わらない。だが、その奥にあるものが違っていた。

 

誇りと認識。そして、微かな後悔。

もう、失敗作などという言葉が入り込む余地は、どこにもなかった。

 

男はゆっくりと起き上がった。

片膝をついた姿勢で、息子の顔を見上げる。

 

 

「本当に許すのか」

 

 

シュタルクの右手は、まだ震えていた。

拳を開くが、指先が痺れたままだ。

 

殴った手が痛い。

目頭が焼けるように熱い。

喉の奥が詰まって、息を吸うたびに肺が震えた。

 

 

「あぁ……許すよ」

 

 

声は、少しだけ震えていた。

だが、言葉だけはブレもなく真っ直ぐだった。

 

 

「これで昔のことには、全部ケリがついた」

 

 

男は息子の顔を、長い間見ていた。

 

それから、ゆっくりと立ち上がった。

マントの砂を払い、身体の向きを変える。

 

何も言わず、ただ一度だけ振り返った。

その顔に浮かんでいたのは、笑みだった。

 

武骨で、不器用で、目尻の皺が引きつるように寄った、ぎこちない笑み。

口角の上げ方さえ分かっていないような、下手くそな笑顔。

 

だが、それは紛れもなく――シュタルクが生まれて初めて見る、父親の笑みだった。

 

男は黒いマントを翻し、訓練場を去った。

隻腕の袖が、夕陽の中で揺れていた。

 

シュタルクは砂地の真ん中に立ったまま、その背中を見送っていた。

 

拳がまだ痛い。

 

目頭はどんどん熱くなる一方だ。

 

だが、胸の奥だけは……浮き立つように軽かった。

何年も、ずっとそこにあった重石が、たった一発の拳と共に砕けていた。

 

空を見上げた。

夕陽が雲の縁を橙色に染めている。

 

深く、長く、息を吐いた。

 

胸いっぱいに空気を吸い込むと、冷たく乾いた風が、肺の隅々まで行き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

訓練場を出たシュタルクは、屋敷の通路を歩いていた。

 

右手をだらりと下げ、指先をぶらぶらと揺らしており、拳の甲がほんのりと赤い。

靴音はどこか軽く、晴れやかだった。

 

廊下の角を曲がると、シュトルツが壁にもたれて立っていた。

シュトルツは全てを悟ったような表情を浮かべていた。

 

今回の親子喧嘩をどこまで見ていたかはわからないが、少なくとも試合を見ていたであろうことは、シュタルクにも何となくわかった。

 

 

「終わったか?」

 

「あぁ」

 

シュトルツは軽く頷いた。

 

「そうか。シュタルク、お前は本当に……――強くなったな」

 

 

どこから呆けているシュタルクに、シュトルツはそれ以上は何も聞かなかった。

弟の肩を一度だけ叩き、すれ違っていく。

 

肩を叩く手は、温かかった。

 

 

さらに歩くと、中庭に面した回廊でリーニエが欄干に腰をかけていた。

リンゴを齧りながら、夕陽を眺めている。

 

シュタルクの足音に振り向きもしなかったが、彼が横を通り過ぎようとした時、声だけが飛んできた。

 

 

「勝ったの」

 

「姉ちゃんもかよ……見てたのか?」

 

「大体音で分かる。で?私が聞いて上げる、勝ったの?」

 

「俺が……勝った」

 

リーニエはリンゴの芯を指で弾き、中庭の植え込みに放り込んだ。

 

「ふーん」

 

それだけの、いつもの投げやりな相槌。

だが、立ち去ろうとしたシュタルクの背中に、もう一言だけ追いかけてきた。

 

「調子に乗るな、愚弟。……まぁ、中年弟子に勝ったことは褒めて上げる」

 

 

声色に感情は乗っていなかったが、リーニエが言葉を選んだこと自体が、シュタルクにとって最大限の賞賛だった。

 

シュタルクは振り返らなかった。

だが、足が一瞬だけ止まった。

 

 

「……ありがとな、姉ちゃん」

 

 

聞こえたかどうかも分からないくらいの、小さな声だった。

リーニエは新しいリンゴを取り出し、何事もなかったように齧り始めた。

 

通路を進むと、フェルンが向こうから歩いてくるのが見えた。

手には茶器を載せた盆を持っている。フリーレンの客室に向かう途中だろう。

 

シュタルクの姿を認め、足を止めた。

視線が彼の右手に集中し、赤く腫れた拳の甲に眉が僅かに寄った。

 

だが、シュタルクの顔を見て、フェルンの眉は元に戻った。

 

晴れやかだった。

夕陽を浴びた横顔に翳りがない。

 

ここ二ヶ月半の間、どこか常に漂っていた重さが、綺麗に消えている。

 

何があったかは聞かなかったし、フェルンも聞く必要がないと思った。

 

 

「手、出して。冷します」

 

 

フェルンは盆を置き、ポケットからハンカチを引き出した。

茶器の水差しで布を濡らし、シュタルクの右手へと巻き付けた。

 

冷たい布の感触が、痺れた指先にじんわりと沁みる。

 

 

「悪い、フェルン」

 

「いえ」

 

 

短いやり取りだったが、その気遣いは痛いほどに伝わっていた。

フェルンは盆を持ち直し、歩き出した。

 

すれ違う瞬間、ほんの一瞬だけ足が遅くなったが……フェルンは何も言わず、通路の先へ消えていった。

 

シュタルクは窓際に歩み寄り、石の窓枠に右手を載せた。

布を巻いた拳の上から、窓の外を見下ろす。

 

訓練場の砂地に、父親の背中が見えた。

また直ぐに戻ってきたのか、木人形の前に立ち、再び剣を振り始めている。

 

以前までは見ているだけで息苦しくなった大きな背中が……。

今は、少しだけ小さく見えた。

 

シュタルクは窓枠から手を離し、歩き出す。

 

城塞都市フォーリヒの夕陽が、通路の石壁を橙色に染めていた。

 

 




次の話しでこの章は終わりです。
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