ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
▼第62話▶ゼーリエ
――魔法都市オイサースト。大陸魔法協会、北部支部。
高い天井を持つ執務室には、書物が焼ける前の乾いた紙の匂いが満ちていた。
差し込む冬の陽は白く硬く、床に長い影を落としており、その光の帯を横切るように、分厚い羊皮紙の束が、机の上へ乱雑に積み上げられている。
それも、この数年ばかりの間に急増した、同じ地域に関する報告書の山だ。
ゼーリエは椅子に腰掛けることもなく、裸足のまま床へ立っていた。
束のうちの一枚を無造作に手へ取り、目線を紙面の上に滑らせていく。
読む速度は速く、飛ばし読みしているとしか思えない速さだ。
「もう一度、要点だけ言え」
側に控えていた二級魔法使いが、無意識に喉を鳴らして姿勢を正した。
長椅子へ身を預けることもなく床へ立ち尽くしたまま、報告書を睨むゼーリエの気配は、いつもと違って張り詰めている。
「はっ。北部高原、旧造船地帯の一角に、この数年で街が一つ形成されました。規模は当初、数十人程度の入植地との報告でしたが……現在は、数千規模と見積もられています」
「数年でか」
「はい。人口の増加速度が、常識を逸脱しております」
ゼーリエは手にしていた報告書を机へ放り、別の一枚を取る。
そこには、街を覆っているという結界についての記述があったが、要領を得ない、曖昧な文言が並んでいるだけだった。
「結界の性質は」
「不明です。ただ、複数の魔法使いが遠方から観察と解析を試みましたが……規模が測定できないと。海の地平線まで結界が伸びているという報告もあり、信憑性の判断がつきません」
「二級魔法使いが複数で調査しているな。何故、術式構造の解析がまるで進んでいない」
「……害意のある者、この地に害をなそうとする者は、結界に弾かれて中に入れぬ、との噂が広まっております。調査目的で送った者のうち、数名が結界に弾かれました。どうやら噂は本当のようで、それは解析を行うという行為にも適用されるようです。術式構造が、解析中に何度も書き変わるとのことです」
弾かれた。その一言に、ゼーリエは僅かに目を細める。
感情や意図を読み取り、選別する結界。
理論としては存在する。だが、それを国一つ覆うほどの規模で維持するとなれば、必要な魔力量は常軌を逸する。
その上で自律型の結界だ。複数の術式を内蔵し、解析そのものへの防衛機構まで備えているとなれば、維持に必要な魔力量は、もはや計り知れない。
そんなものを、一体どこの誰が。
報告書の山には、もう一つ、無視できない事実が記されていた。
その街を治めているのが、魔族だという情報だ。
「魔族が街を作ったのか」
ゼーリエの呟きの中には、明確な違和感が滲んでいた。
魔族が人間の街を支配する。それ自体はあり得ないことではない。
魔族が村や街を襲い、支配下に置いた例は過去にいくらでもある。
だが、ゼーリエの引っかかりは、そこではなかった。
「支配なら分かる。魔族が人間を騙し、恐怖で従え、家畜のようにして飼う。それならば何ら不思議はない。獣であろうと、その程度はやれる」
ゼーリエは、フランメが魔族を魔族と定義するよりも遥か昔――神話の時代から生きている。
魔族という生物を、誰よりも古くから見てきた。
言葉を狩りの道具として使い、共感も罪悪感も持たず、ただ人間を捕食する。
その本質を、ゼーリエは骨の髄まで理解していた。
だからこそ奇妙だった。
「だが、これはなんだ」
積み上げられた報告書。そこに書かれているのは、例外だらけの記録であった。
遠目から観察した限りだが、街には学び舎、修道院、療養所、市場、酒場、秩序、治安が存在する。
行商人が種族を問わず出入りし、住民は魔族を恐れていない。それどころか、敬意を持って接しているという。
「馬鹿げているな」
ゼーリエは、報告書の一枚を指先で弾いた。
――奴らはそんな回りくどいことをしない。
腹が減れば食う。邪魔なら殺す。利用価値があるうちは飼い、価値が尽きれば捨てる。
それだけの生き物だ。街を育て、人類を繁栄させ、共存を築くなど、魔族という種の構造そのものに存在しない行動原理だ。
理解できないものに対して、最適な対処などできない。
行動原理が読めない相手は、次に何をするか予測できないのだ。
その点を考慮すれば、黄金郷のマハトなどよりも遥かに脅威だ。
マハトは強大で異質ではあったが、結界から出ることも、出ようともせず、少しずつ黄金化の範囲を広げるだけだ。
被害も限定的であり、放置していれば寿命で尽きるだけの存在。
対してこの街は、影響の拡大が余りに異質すぎる。
純粋な魔法の強弱では測れない、潜在的な危険性を秘めていた。
「どこと繋がっている」
短い問いだが、二級魔法使いは背筋を伸ばした。
彼は急いで別の束を取り出し、指先で目当ての一枚を探る。
「北側諸国の複数の貴族、並びに中央諸国、南側諸国の貴族が少数、この街と繋がりを持っております。表向きは商取引ですが……不自然なほど、この街に便宜を図る貴族が多いです」
「……」
「商会についてですが、中心となっているのはノルム商会です。海路を独自に開拓しており、陸路を経由しない交易圏を確立しつつあります。北側諸国の物流の一部が、既にこの街を通じて動いている状態かと」
ゼーリエは長椅子へ腰を下ろし、頬杖をつく。
二級魔法使いからの報告を、静かに咀嚼する。
陸を経由しない経済圏。
これが意味することは大きい。
陸路を押さえれば街を孤立させられる、という考えが通用しない。
街は海によって、大陸の他の地域と直接繋がっている。
物資も、金も、人も、協会や国家の目を通さずに流れ込む。
そして、貴族たちの支持。
なぜ、人間の貴族が、魔族の街に肩入れするのか。
脅されているのか。買収されているのか。あるいは利益で結びついているのか。
どれであっても、まずい。
魔族が、人間社会の内部に、経済という形で根を張り始めている。
武力ではなく、金で。恐怖ではなく、利益で。
これは魔族の発想ではない。
少なくとも、ゼーリエの知る魔族のものではなかった。
誰かが、魔族に人間のやり方を教えているのか。
あるいは、魔族の側に、人間の社会構造を理解する何かがいるのか。
「結界があるとはいえ、調査の方法自体は存在しています。内部の情報は不明ですが、出入りしている行商人か、取引を行っている商会への接触などで、比較的安全に情報を収集し、多角的な視点から調査を更に進めることも可能です」
「そうか。接触は控え、深入りはしなくていい。帝国を刺激しない程度で調査を続けろ。――もういい、戻れ」
「失礼します」
ゼーリエは簡単な指示を出し、二級魔法使いは頭を下げ、退室して消えた。
◇◇◇
――数年後。
執務机に積まれた羊皮紙の束は、以前とは質そのものが変わっていた。
曖昧な記録ではなく、行商人、出入りの職人、取引先の商会員。街の内側に一度でも足を踏み入れた者たちの証言が、少しずつ一つの輪郭を結び始めている。
ゼーリエは椅子にあぐらをかくように座り、一級魔法使いであるファルシュを一瞥する。
「整理したものだけ読み上げろ」
その一声と共に、ファルシュが一枚を手へ取り、事務的な声色で要点を告げていく。
「街の名はシンビオシス。統治者は人間の女。名前はフルーフ」
ファルシュはそこで、わずかに間を置いた。
ゼーリエの眉が、ほんの少しだけ動いたのを見たからだ――が、空気を読んで、あえて指摘はしない。
「加えて、夫を名乗る魔族が一体、そして仲間と思わしき魔族が一体。この三名が中枢と見られます。他に魔族、魔物、エルフなどの情報がありますが、情報筋によって話がまったく違っており、今回は除外しておきます」
ゼーリエは返事を返すこともなく、軽い手の動きで続きを促す。
「資金の流れから入ります。軸は変わらずノルム商会が主導。加えて北側、中央、南側諸国の貴族も、この街に便宜を図り続けています。今回、その動機の一端が掴めました。便宜を図る貴族には共通点があります。過去に身内が重症を負い、医師から危篤を宣告された者、あるいは不治の病を抱えた縁者を持つ者が、不自然なほど多い」
「治療か」
「はい。統治者フルーフは、極めて高度な治療魔法の使い手だと噂されています。四肢の欠損、老いによる衰え、そういったものを元通りに戻すと。貴族たちは施術と引き換えに、沈黙と便宜を差し出しているようです。複数の情報が一致しました」
「なにが治癒魔法だ。死を宣告された者を生き返らせているだろう。これは人体蘇生だ」
ゼーリエは治癒魔法と聞き、皮肉気に吐き捨てる。
報告書を魔法で手繰り寄せ、手の甲で叩く。重篤や病であれば、僧侶の実力如何でどうにかなる場合も多い。
だが、報告書の欄には明確に、医師から死亡宣告がなされた記録が複数存在している。
そして、今その人物は何不自由なく平然と生きている。
答えなど簡単に予想がつく。生命の蘇生。
世の摂理に喧嘩を売るような冒涜的な行いであり、紛うことなき奇跡。
リストを見る限り、それらを凄まじく適当な選別で施していた。
「はい。信じ難いことですが、その可能性は非常に高いかと」
「まぁいい。報告を続けろ。次だ」
ゼーリエは椅子から降り、束から一枚を引き抜いた。街の産業に関する記述だ。
塩水でも育つ作物。植えて数日で収穫できる異常な豊作。季節を問わず実り続けるリンゴ畑。大陸中に輸送される魔物素材。数万に達する人口。
そして、その住民のほとんどが、大陸中のスラムや戦争難民、身元の知れぬ者たちの寄せ集めだという事実。
――どれ一つとして、ゼーリエの知る常識に当てはまらない。
「見境がないな。よくもこの人材の質で、まともな統治が行えたものだ」
「大陸各地から捨て置かれた人材を吸い上げ労働力に変えています。効率という一点においては、常軌を逸しています。ですが、通常このような真似をすれば、秩序どころか、治安など維持できるはずはないのですが……」
ファルシュは手元の羊皮紙へ視線を落としたまま、しばし言葉を探した。
理解の追いつかぬ記述を前に、彼にしては珍しく、返す言葉に迷いが滲む。
やがて眼鏡の縁へ指を添え、意味不明だとばかりに小さく息を吐いた。
ゼーリエはその一枚を机へ戻し、しばし黙した。
政治や情勢に興味の薄いゼーリエでさえ、読み進めるほどに違和感が募る。
何もかもが、順序を取り違えている。
魔族が街を支配しているのではない。
魔族が、人間の作った社会構造を維持し、繁栄させた上で、ただ乗っかっているだけだ。
行政も治安も産業も、すべて人間の手で回り、魔族はその仕組みの上で、それぞれの興味を勝手に追っているだけ。
これでは統治者といえど、実権など無いに等しい。
権威のみでは、いつ反旗を翻されてもおかしくはない。
魔族達は子供に魔法を教え、酒を造っている。
運営の中枢には、まるで関与していない。
そのはずだが……実際の求心力や支持は、桁外れに高い。
その地に住む住民の熱量の高さが、報告書の断片的な記述からでも伝わってくる程だ。
北部高原。
北側諸国が匙を投げ、帝国さえ本格的な開拓を諦めた、痩せた土壌と長い冬の地。
魔王軍の残党が今なお跋扈し、点在する村や町は常に脅威に晒されながら、細々と生き延びてきたに過ぎない。
開拓する旨味はなく、守る価値も薄い。
平和な時代となった今でもそれは変わらない。
だというのに、たった数年で、数万の人間が群をなす街が築かれた。
「中枢の魔族について、判明していることは」
「まず、桃色の髪の魔族。小柄な個体ですが、戦士のようです。街の戦士育成を担い、同時に、大陸中に流通する高級酒の醸造家でもあります」
「……魔族が酒か」
「貴族御用達の銘柄から民間向けの等級と様々存在し、既に名が通っているようです」
ゼーリエはこめかみに指を当てた。理解を放棄したいという仕草だった。
「次に、翠色の髪の魔族。町の教育機関で魔法を教えているようです。魔力については――」
ファルシュは、そこで言葉を切った。
「なんだ」
「聞き込んだ情報を総合的に纏めた結果、平均的な魔族よりもやや上との結論に達しました。ですが、一部の直接接触した者は、あれは触れてはならないものだと証言します」
「魔族が魔力制限か。プライドはないようだな。その上で、実に狡猾だ。今の魔法使い達は、魔族が魔力制限しているなど微塵も考えていない。完全に逆手に取られているな」
「人類への解像度が極めて高いようですね。思い込みというものを、よく理解しています」
「ファルシュ。その魔族が、魔族の子供に魔法を教えている。そう書いてあるな」
「はい。街には魔族の子供が数多く暮らし、人間の子供と共に学び、遊んでいると」
「魔族に、無害な子供などいない」
ゼーリエの声に熱はない。
常識を口にしただけの平坦さだった。
「生まれた瞬間から、奴らは人間を捕食する獣だ。それは欠落ではない。そういう生き物として出来上がっている。共感も罪悪も、初めから備わってすらいない。子供だろうと同じことだ」
「私も同意見です。ですが、報告の内容は多くの情報源で構成されており確かなものです。街の魔族の子供は人間を襲わない。嘘をつけば戸惑い、他者を思いやる素振りを見せる、と」
「ありえない」
ファルシュの報告に対して、間髪入れず切り捨てる。
だが、その断言の裏側で、ゼーリエの思考は既に別の方向へ滑り出していた。
起こり得ぬはずの現象が、現実として積み上がっている。
ならば導かれる答えは一つ。誰かが、それを可能にする何かを持っているということだ。
そして、この街で起きているすべての異常――治療も、結界も、無害な魔族の子供も――その中心には、常に一人の名がある。
魔法の極地とも、神の領域とも呼べる奇跡を安売りする、巫山戯た存在。
「……フルーフか」
その名を、ゼーリエは口の中で転がした。
千年以上、耳にしなかった名だった。
フランメが最初に拾った人間。
顔はよく覚えている。
虚ろな目をした、暗い娘だった。
フランメが物珍しさで拾い、面倒を見ると言い出したとき、ゼーリエは反対しなかった。
既に独り立ちした弟子が弟子を抱える程度、どうとも思わなかった。
だが、時が経つにつれ、それは苛立ちに変わっていった。
その娘には、才能がなかった。
火を灯す程度の術式すら安定しない。
何年教え込んでも、何一つ根づかない。
それでいてフランメは、その娘に、あまりにも多くの時間を注いでいた。
ゼーリエには、それが我慢ならなかった。
フランメは千年に一人の才だった。
ゼーリエが看取ってきた数多の弟子の中で、もっとも歴史に多くの名を刻んだ人間。
放っておいても伸びる木ではあったが、それでも、その貴重な時間を、才のない娘のために磨り潰すのは、あまりにも惜しかった。
――あの娘に割く時間があるなら、もう一人のほうへ回せ。
ゼーリエは幾度もそう言った。
乾いた土のように知識を吸い込む、後から弟子にした、あの片割れのほうへ。
実際、フランメも次第にそちらへ傾いていった。
優秀な弟子に時間を注ぎ、才のない娘を、いつしか座学と称して部屋に置き去りにするようになった。
ゼーリエは、それでいいと思っていた。
当然の、正しい選択だと。
だが、老い始めた頃、フランメは唐突に変わった。
窓辺に落ちる西日の中、老いたフランメが羊皮紙に何かを書きつけていた。
才ある弟子への指導はそのままに、それ以外の時間を、フランメは薄暗い書斎で潰すようになっていた。
ゼーリエには、その手が紡ぐ術式の意味が、まるで分からなかった。
――あの子は、死ねないんだ。
振り向きもせず、フランメはそう言った。
その声は、かつての張りを失い、掠れて低い。ペンを走らせる乾いた音だけが、しばらく部屋に残っていた。
死ねない娘を、死なせてやるための魔法。
何を馬鹿な、と思った。
才のない娘に、なぜそこまで。
老いた身に残されたわずかな時間を、なぜよりにもよって、そんなもののために費やす。
――フランメ。
ゼーリエは、その細い背に問うた。
――才もない娘の生き死にに、お前の残りを注ぐ価値があるのか。
フランメは、しばらく手を止めなかった。
やがてペンを置き、ゆっくりと振り返る。
西日を背にしたその顔は、影になってよく見えなかった。
ただ、寂しそうに笑ったことだけは、輪郭で分かった。
――師匠。貴女には……分からないでしょう。これは私が犯した罪の精算、そして彼らへの贖罪でもあるのです。
その通りだった。
分からなかった。今も……何一つ分からない。
その集大成とも言える魔法の名を、ゼーリエは思い出す。
確か、名は『託された希望の魔法』。
そうして年が過ぎ、フランメはあっけなく死んだ。
フルーフという名はゼーリエの記憶の底に沈んでいった。
だが今……その名が亡霊のように蘇ってきた。
「ゼーリエ様」
ファルシュの声が、思考を引き戻した。
「差し出がましいようですが。統治者と、何か関わりが」
「私の弟子の、そのまた弟子だった女だ。千年ほど前の話か」
ゼーリエは、感情のない声で答えた。
「フランメが拾った出来損ないで、才のない娘だった」
ファルシュは、束を持つ手を止めた。
「才のない娘……それにしては、非凡が過ぎているように思えますが」
ゼーリエは、すぐには答えなかった。
ゼーリエは自分の目を疑わない。
初めて魔法が成功したと駆け込み、指先に火を灯し、それを維持するだけで全神経を集中させていた姿を、今も覚えている。
フルーフには、誰が見ても魔法使いとしての才はなかった。
魔法への想像的感性が、致命的な程にまで欠如していたのだ。
だが、目の前の報告書は、まったく別の何かを語っている。
四季を伴わない謎の豊作、生命の蘇生、極まった治癒。
これらに共通するのは、生命そのものを直接に手を加えているかのような、あまりにも異質な原理だった。
火を起こし、水を操り、大地を割る。
わかりやすい魔法とはまるで違う。
結界に関して言えば、ゼーリエも似たものを複数修めている。自力で作り出すことも、それほど難しくはない。
だが、生命を直に弄り回す。そんな魔法体系を、ほぼすべての魔法を網羅したはずのゼーリエは知らなかった。
「理論を構築できたとしても、操れるはずがない」
呟いて、ゼーリエはふと、自分の言葉が奇妙に響くのを感じた。
操れるはずがない。だが、目の前の報告書はそれを否定する。
ならば、導かれる答えは一つ。
あの娘は、ゼーリエの知る体系とは別の場所で、独自の何かを築き上げたのだ。
それは、魔法使いとして無能であることを意味しない。
あの娘は、ゼーリエの物差しでは決して測れぬ場所で、別の体系を完成させた。
そこまで考えて、ゼーリエは、自分がフランメと同じ過ちを犯していたことに気づいた。
フランメが才を見誤ったのではない。
ゼーリエもまた、あの娘を、才の有無という、たった一本の物差しだけで裁いていた。
物差しが違えば、答えなど、いくらでも変わる。
「――……。だが、いまさらだ」
喉の奥で、乾いた笑いが漏れた。
フランメの寂しげな笑みが、ふと脳裏をよぎる。
胸の底で何かが疼くのを、ゼーリエは一顧だにせず踏み潰した。
感傷など、なんの意味も持たない。
「ファルシュ、お前はこの街をどう見る」
代わりに、大陸魔法協会の頂点に立つ者としての冷徹さが、声に宿っていた。
問われたファルシュは、慎重に言葉を選ぶ。
「……危険かと。魔族が治め、魔族の幼体を抱え、内部の情報は徹底的に秘匿されています。ですが、直接的な脅威が観測されたわけではありません。街は他者を襲っておらず、むしろ難民や貧民を受け入れています。周辺への被害も報告されていません」
「表面上はな」
ゼーリエは、椅子から立ち上がる。
「問題はそこではない。この街が次に何をするか、誰にも読めんことだ」
彼女は、机の上の報告書を見下ろした。
「今は、無害に見える。だが、この街が育ち続ければ、いずれ大陸の構造そのものを揺るがす。魔族が主導する経済圏、魔族が育てた魔法使い、魔族の思想が浸透した都市。それが北部高原に根を下ろし、ゆっくりと広がっていく」
規模が大きくなれば、それだけ影響力と摩擦が、否が応でも拡大していくものだ。
ほんの僅かな思想の違い、行動一つで、帝国や中央諸国などの間に、火種が燃え盛る可能性を秘めている。
そしてもし――その過程で、大陸魔法協会が、あの街と衝突することになれば……それは、断じて許容できない。
ゼーリエの脳裏に、彼女が選び、才を認め、名を記憶してきた者たちの顔がよぎった。
「ファルシュ。周知しておけ。この街に対して、こちらから何かことを起こすつもりはない。だが――仮に好機が訪れたのであれば動く。それだけ覚えておけ」
「畏まりました」
「叩くのは中枢だけだ。フルーフと数名の魔族を叩けば、街の異常性は消える。ただの人間の街として回り、自然と衰退と繁栄を繰り返し元に戻るだろう」
ゼーリエは、踵を返し、振り返らなかった。
窓の外、遠く北の方角を見つめたまま、静かに続ける。
「その時は――フランメの師として、私が直接後始末をつける」
「……」
「行っていいぞ」
ゼーリエはそれだけ口にすると、片手で退室を促した。
「失礼します」
ファルシュが去り、扉が閉まると、部屋には再び静寂が満ちた。
ゼーリエは一人、報告書を見つめた後、それを投げ捨て歩き出す。
窓から差し込む陽光を身に受けながら歩き続け、私室へ向かった。
窓の外を眺め、ありし日の弟子を脳裏に浮かべ、唇が浅く開く。
「フランメ。お前の魔法を受けておきながら、あの娘はまだ生きているぞ」
私室に到着すると、棚をガサゴソと漁り、やがて魔法で何重にも施錠された箱を取り出した。
「お前は言っていたな。フルーフが死にたくても死ねない時のために、これを託すと」
魔法を一つずつ解除するたび、封の解ける微かな音が指先へ伝わる。
埃が舞い、古い羊皮と鉄の匂いが鼻をつく。
箱の底から、黒い一冊が姿を現した。
手に取れば、大きさに見合わぬ重みが掌へ沈み込む。
表紙の革は不自然に冷たく、指の熱をどこまでも吸い取っていくようだった。
「千年以上も経ってなお死んでいないのであれば、死ねないということだ。もしも……運命というものがあるのなら、私はこの『保証』を躊躇いなく使うだろう」
ゼーリエは手にした魔導書の埃を払い、陽に照らす。
すると、魔導書のタイトルと思わしき文字が刻まれていた。
『
ゼーリエには、フランメのように魂への知見もなければ、感知する方法も持ち得ない。
故に、この魔導書がどういった理論で発動し、どのように死に至らしめるのかは、理解の外だ。
わかっているのは、この魔法が徐々に効果の速度を自律的に加速すること。フルーフを絶対に殺し尽くすということだけ。
死なせる魔法ではなく、殺す魔法。
その言葉の違いと意味を理解できないゼーリエではない。
だが、ゼーリエは既に、フルーフと己が抱える全てを天秤に掛けてしまった。
もしも運命が、この魔導書の元にフルーフ達を運んできたのならば……その時、魔導書は躊躇なくフルーフを殺すことだろう。