ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――中央諸国 王都
大陸中央に位置する王都は、いつ訪れても活気に満ち溢れていた。
石畳の道を埋め尽くす人々の喧騒、辻馬車の蹄が奏でる軽快なリズム、露店から漂う香辛料と焼きたてのパンの香ばしい匂い。それら全てが渾然一体となり、大きな賑わいを見せていた。
そんな喧騒の中心に、ひときわ壮麗な一軒の宿が佇んでいた。
貴族御用達というだけあって、磨き上げられた大理石の柱と豪奢な金の装飾が、訪れる者の身分を無言のうちに問い質す。
その格式高い宿に、明らかに場違いな三人組が足を踏み入れた。
纏う空気からして、どこか雑多だった。
一人は、上質なシルクハットを目深に被り、血のように赤い瞳を持つ白髪の女。
もう一人は、簡素なワンピースの上にラフな上着を羽織った、穏やかな垂れ目が印象的な深緑の髪の女。
そして、二人の間に挟まれるようにして、まるで高級な人形のように着飾られた少女が、手にした林檎を無心に齧っていた。
三者三様の出で立ちは、どう見ても一つの家族には見えず、周囲の宿泊客からも怪訝な視線を集めている。
「大人二人、子供一人。部屋は一つで…そうですね、大部屋をお願いします」
白髪の女――フルーフが、カウンターの向こう側に立つ受付員に朗らかに声をかけた。
だが、受付員の視線は彼女たちのちぐはぐな様子と、フルーフとソリテールの薬指に嵌められた揃いの指輪とを訝しげに行き来するばかりだ。
その眉間に刻まれた深い皺が、彼の内心の困惑を如実に物語っていた。
「少し変わっているかもしれませんが、私達は夫婦でして……。あっ、こちらは養子のリーニエで、私達の子供です」
フルーフが努めて明るくそう言って指輪を見せつけるが、同性同士の夫婦に養子という組み合わせは、大陸中を見渡しても、あまりにも前衛的すぎた。
受付員の表情はますます険しくなり、エントランス全体の空気がシンと静まり返る。
「は?師匠はどうしたの、フルーフ」
その張り詰めた静寂を、まるでガラスを割るかのように打ち破ったのは、他でもない少女――リーニエだった。
彼女は齧りかけの林檎から顔を上げ、心底不思議そうにフルーフを見上げた。
そして、何のてらいもなく、その小さな靴先でフルーフの脛をゴッ!と蹴りつけた。
「痛っ!?ちょ、ちょっとリーニエ、教えたでしょう!私達は親子!親子なんですよ……意味、教えましたよね?」
フルーフの悲鳴じみた小声が響くも、時すでに遅し。
絶対親子じゃない、という周囲の心の声が聞こえてきそうだった。
「親は子供の我儘をきくべき……だから早く師匠を付けて敬え」
「なんもわかってないじゃないですか!?」
「知ってる。ほら、私に無償の愛をそそいで逆らうな」
「それは愛っていうか奴隷と主人の理不尽な関係です……。ほら、ママですよ。呼ぶだけで今夜は好きな物が食べられるかもしれませんよ?」
「ママ大好き」
きゃるん、と効果音が付きそうな甘い声で、リーニエはフルーフの腕に擦り寄った。
そのあまりにも現金な態度の変化に、フルーフはこめかみを引きつらせる。
一連のやり取りを冷ややかに見ていた受付員の男は、ついに我慢の限界に達したのか、警護の者を呼ぼうと身を乗り出す。
だがその瞬間、今まで黙って成り行きを見守っていた女――ソリテールと目が合った。
男の全身が、石になったように硬直した。
穏やかな見た目だった。微笑みさえ浮かべている。
だが、その翡翠の瞳を覗き込んだ瞬間、男の喉がひゅっと鳴った。
畏怖の類ではない。これは、もっと原始的で、抗いがたい恐怖だった。
視線が絡んだ瞬間、受付員の男は理解してしまった。
自分は今、人間としてではなく、ただの『餌』として値踏みされているのだと。
ぞわり、と肌が粟立つ。脂汗が玉のように噴き出した。
額を、こめかみを、そして背筋を、止めどなく冷や汗が伝い落ちていく。
彼女の周りだけ空気が凍てつき、音が死んだかのようだった。
その静寂が、男の魂を芯から冷やしていく。目の前にいるのは、ただ人の形をとった、理解不能な災厄そのものだった。
――コイツら…ヤバい。部屋を貸したら絶対死人が出る。
「こ、コイツ……ま、まぁよいでしょう……。あの、私達は夫婦でこの娘は子供、今反抗期で…怪しくないんで――
フルーフが必死に取り繕おうとした言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
バタン、と音を立てて閉められた重厚な扉。
三人は、申し訳ないほど丁寧な物腰で、けれど有無を言わさず宿から追い出されてしまった。
どうやら、有り余る金を持ってしても、品位というものは買えなかったらしい。
「リーニエ師匠……言いましたよね、今回は言う通りにしてくれるって」
夕暮れの光が石畳を橙色に染める中、フルーフは恨みがましい声でリーニエを睨んだ。
「言ったけど、不愉快だったから撤回した……何かいけなかった?」
「このザ・魔族ッ!善悪が分からないのは仕方なくとも、さっきのは知識と経験で理解出来るでしょう!」
「フルーフに合わせて上げるのは癪に障る」
「くっ……なんで私にだけこんなに辛辣なんですか……。仕方ありません、別の宿を探しましょう。ほら、行きますよリーニエ師匠」
フルーフは大きな旅行鞄を片手に、むくれるリーニエの手を引く。
そうして歩き回ること数十分。けれど、王都の宿はどこも満室で、三人は途方に暮れ、いつしか公園のベンチに腰掛けていた。時間だけが無情に過ぎていく。
フルーフは溜息をつきながら左右を見る。
いつの間に買ってきたのか、リーニエは林檎の果汁液をちびちびと飲み、ソリテールは先日見つけた民間伝承の結界術が記された古書を熱心に読み耽っている。
二人からは、宿が見つからないことへの危機感が微塵も感じられなかった。
「リーニエ師匠はともかく、ソリテール様に野宿などさせる訳にはいきません……妻としての沽券に関わります。必ず寝床を見つけますのでご安心下さい」
「フルーフ、私は野宿でもそんなに気にしないよ。それにもう日が傾きかけているから、今から探すのは難しいと思うわ」
「言うこと聞いたんだから、リンゴを使ったスイーツが食べたい。後、服も買って」
「リーニエ師匠は自重して下さい。服は魔力で作って下さい。……そうは言っても、王都にまで来て野宿は流石に……」
どんよりとした空気を纏うフルーフに、リーニエの我儘が容赦なく突き刺さる。
だが、もはや慣れたものなのかフルーフはそれを華麗に聞き流していた。
何か良い手はないかと思考を巡らせる。
中央諸国の王都は平和過ぎて、蘇生術を介した人脈はまだ築けていない。
知り合いだった人間はとうの昔に寿命で死んでしまった。
仲間と呼べる仲間も、ここには……――
「――あ」
脳裏に、懐かしい顔が浮かんだ。
仲間…そうだ、勇者パーティー。
ほとんど付いて回っただけだけど、面識くらいはある。
「どうしたの、何か良い考えでも浮かんだ?」
ソリテールが本から顔を上げ、不思議そうに問いかける。
「はい。ほんの短い期間ですが、旅をご一緒した勇者パーティーの一人であるヒンメルさんが、この王都に住んでいたのを思い出しまして」
「勇者ヒンメル。戦争が終わって随分経つけど、まだ死んでいないのね」
「少し旅について回ったこともあるので……そのよしみで、一晩泊めてくれるかもしれません」
「私はいいと思うわ。……安心してフルーフ、何もしない。老いた勇者を魔族が手にかけるだなんて、新たな戦争の火種にしかならないもの。ただ一度、魔王を殺した人間と『お話し』してみたいだけ」
手にしていた古書を収納魔法で仕舞い込み、ソリテールはすっとベンチから立ち上がる。
どうやら、魔王を討った勇者という存在は大いに彼女の興味を惹いたらしい。
「はは…まぁ、もし殺人欲求が湧いたら、いつでも私にぶつけて下さい」
「いつもながら、献身的な奥さんの態度には頭が上がらない。それじゃあ…殺したくなったら、遠慮なく殺させてもらおうかな」
「そうして下さい」
軽口を叩き合いながら、フルーフとリーニエもベンチから立ち上がる。
ソリテールとフルーフは、指輪の嵌められた指を自然に絡ませ手を繋ぐ。その仕草は、長い年月を共に過ごしてきたことを雄弁に物語っていた。
「リーニエ師匠は大丈夫そうですか?」
「……最近フルーフを殺しすぎて、人間を殺すのに飽きてきた」
「えぇ……ま、まぁ、良いことなんじゃないですかね」
リーニエの物騒な返答に若干引きながらも、三人は勇者ヒンメルの住処について人々に聞き込みを始めた。
途中、リーニエがスイーツ店に吸い込まれたり、ドレス店巡りを強要されたりといった紆余曲折はあったものの、彼女が満足するタイミングで、丁度勇者ヒンメルの家は見つかった。
そこは、英雄が住んでいるとは思えないほど質素なレンガ作りの一軒家だった。
手入れの行き届いた窓辺の花壇には、季節の花々が慎ましく咲き誇り、住人の誠実な人柄を物語っている。
フルーフは意を決して、木製のドアをノックした。
「ごめんくださーい、ヒンメルさんはご在宅ですかー?」
中から微かな物音が聞こえる。
チャキ……と、硬質で冷たい金属音。
それはまるで、鞘から剣を抜き放ち、構える音のようだった。
フルーフの背筋に冷たいものが走った。
その直感が警告を発するより早く、扉が勢いよく開け放たれる。
ガキィンッ!!
甲高い金属音と共に、扉の奥から飛び出してきた小さな人影が、ソリテールへと襲いかかった。
だが、その鋭い剣閃は、ソリテールが瞬時に展開した六角形の防御魔法に阻まれ、激しい火花を散らす。
そこにいたのは、白髪と深い皺が年輪を刻む小柄な老人だった。
背は縮み、肌には歳月が刻まれている。けれど、剣を構えたその姿勢には一切の衰えがなかった。
刃先は微動だにせず、その眼光は大陸中を駆け巡っていた頃と何一つ変わらない。
老いてなお、勇者は勇者のままだった。
「勇者ヒンメル。魔王様を殺した人間。とても気になっていたの、貴方について教えて」
ソリテールは防御魔法を足場に後退した老人を見据え、穏やかながらも有無を言わさぬ口調で問いかける。
「この濃密な死臭と気配……大魔族か。こんな老いぼれを態々殺しにきたのかい?」
ヒンメルは剣を構え直しながら、皮肉っぽく笑う。
一触即発。お泊り交渉が、今にも殺し合いに発展しそうな空気が場を支配する。
「お、お待ち下さい!?ヒンメルさん!私です、私、フルーフです!」
このままでは大惨事になると、フルーフは慌てて二人の間に割って入った。
「うん?フルーフ……君なのかい?驚いた、本当に歳を取っていないんだね」
旧友の名を聞き、ヒンメルの警戒心がほんの少しだけ薄まる。フルーフはその隙を逃さず、必死に誤解を解こうと言葉を続けた。
「そうです、フルーフです!そしてこちらは、旅の途中でよく私が話していた魔族のソリテール様です。あ、結婚して今は旦那様なので、どうかご安心を!」
「聞いていた話とは随分違うな。これのどこが清楚で美しい魔族なんだい?僕には、ただの人喰いの化け物にしか見えないが」
流石は勇者。ソリテールの穏やかな外面に惑わされることなく、その本質を一目で見抜いていた。
フルーフは薬指の指輪をこれ見よがしに掲げ、ソリテールもそれに倣ってヒンメルに指輪を見せつけ、二人の関係が事実であることをアピールする。
「冗談……という訳でもなさそうだ。それに、騙されている訳でも、脅されている訳でもないのか」
ヒンメルの視線が、フルーフの瞳の奥を探るように鋭く光る。
「違います!それにソリテール様は、私と結婚して以来、実質的には人を殺していないんですよ」
嘘ではない。過程がどうであれ、最終的に誰も死んでいないのだから。
これは実質、殺していないと言っても過言では無いだろう。
「なら、その酷い血の臭いはどう言い訳するつもりなのかな?」
「それは、私のものです」
「本当かい?数千……いや、直感だが数十万は平気で殺しているはずだよ」
「私が不死なのはご存知でしょう?あ、ちなみに後ろの小さい娘から感じるのも、100%私の死臭なので気にしないで下さい」
もちろん、全てがフルーフの死臭という訳ではない。
だが、五割、六割は彼女の日常的な死で染み付いた変態的な臭いなのは間違いない。
ならば言い切るしかない。全てフルーフの死臭として突き通す。
如何に勇者の直感が冴えていようと、ここまで言い切られれば分かるはずもない。
「そ、そうなのかい……?それで、魔族まで引き連れて一体何をしにきたと言うんだい?」
ヒンメルの警戒心が、困惑へと変わっていく。
ソリテールは面白そうにヒンメルの反応を観察し、リーニエは一連の騒動に我関せずといった態度で、ヒンメルに向かって「よっ」とでも言いたげに片手をひらひらと振っていた。
「あー……こんな空気で大変申し上げにくいのですが――ヒンメルさん、一晩泊めて貰えませんか?」
「はぁ……君は昔から本当に意味不明なことばかり言っていたね。……一先ず中に入りなさい。バレないとは思うが、魔族が街に入り込んだと知られれば大混乱になる」
ヒンメルは深々と溜息をつくと、不本意ながらも三人を家の中へと招き入れた。
その中へ誰よりも早く足を踏み入れたのは、リーニエだった。
彼女は「疲れた」とでも言いたげに、暖炉の前にあった安楽椅子にどっかりと腰掛け、ギシギシと遠慮なく揺らし始めた。
擬態用の魔法まで解き、角が丸見えである。
それを見たフルーフはヒンメルに一言謝罪すると、リーニエの元へ駆け寄り注意する。
「すみません、ヒンメルさん。……こら!リーニエ師匠!お世話になるのですから、御礼が先ですよ。普段から面倒だから擬態しないとか言っていますけど、本当は擬態出来ないの間違いじゃないんですか!人を欺く為に進化した証はどこにやったんですか…魔族として恥ずかしくないんですか!」
フルーフの小言に対し、リーニエはぷいと顔を背け、小さな両手で耳をぴたりと塞ぐ。
もはや聞き飽きた説教など、これ以上聞くだけ時間の無駄だ。
旅の初めこそ、面倒ながらも人間社会に擬態し、愛想笑いの一つも見せていた。
だが、どうせサボっても、フルーフかソリテールが、最終的には全て上手く収めてくれる。
そんな楽なやり方を覚えてしまった今、リーニエは人間社会に合わせるという非効率な努力を、すっかりやめてしまっていた。
「お世話になるわ、勇者ヒンメル。大丈夫……人も殺さないし、暴れたりもしないから」
「信用出来ると思っているのかい?」
「思わないわ。でも、私の奥さんはとても傷つきやすいから、彼女のことは信用してあげてほしいの」
今まで見てきたどの魔族よりも濃密な死臭を放つ大魔族。
けれど、その言葉からは敵意も害意も微塵も感じられない。
ソリテールはヒンメルの前を通り過ぎると、フルーフの隣に立ち、何も言わずにその様子を眺めていた。
ヒンメルは、ただ呆然とするしかなかった。
――なんだ、こいつら。
その言葉だけが、頭の中で虚しく木霊していた。
◇◇◇
既に夕食は済んでいたこともあり、ヒンメルは人数分の椅子をテーブルに用意し、魔族と人間の自称夫婦と改めて向き合っていた。
ちなみにリーニエは、伝説の勇者の存在になど欠片も興味はなく、早々に安楽椅子で鼻提灯を膨らませ、遠慮なく爆睡していた。
ヒンメルと対面したフルーフは、堰を切ったように話し始めた。
勇者パーティーと別れてからのこと、魔王が討伐されてから何をしていたのか、そしてソリテールと出会い、共に旅をしている理由。これまでの波乱万丈な出来事を、フルーフは時折笑いを交えながらヒンメルへと語り聞かせた。
ソリテールは会話に参加するつもりはないのか、魔導書を片手に、差し出されたハーブティーへと口をつけているだけだった。
「フルーフ、君が僕たちの後をこっそりつけていたことを、今では懐かしく思うよ」
「はは……懐かしいですね。勇者パーティーと一緒なら、強い魔族と出会えるだろうと安易に尾行したのが運の尽きでした。まさかフリーレンがいて、秒速で感知されてしまうとは……」
あの頃のことを、フルーフは今でも鮮明に覚えている。ソリテールの影すら掴めぬまま、数百年という歳月が過ぎていた。焦燥が心を蝕み、彼女は一つの賭けに出た。
当時、魔王討伐の勇者として名を上げ始めていたヒンメル一行。彼らの旅路を追えば、いずれ強大な魔族――ソリテールの元へと辿り着けるかもしれない。そんな打算から、彼女は密かに一行の後を追い始めた。
だが、その一行の中に、予想だにしない顔があった。エルフのフリーレン。五十年から百年周期で定期的に会っている旧友だ。尾行どころか、身バレまで一瞬だった。
「あの時は、あのフリーレンですら珍しく驚いていたからね。君達は千年来の仲だと言うじゃないか」
「まぁ、仲は悪くないです。一時期は古エルフ語を忘れてしまって、頻繁にフリーレンの所に魔導書片手に通った時もありました」
そう言って、フルーフはしみじみと過去を懐かしむ。フリーレンが一時期戦いをやめ、一つの場所に定住していた際には、よく魔導書を片手に遊びに行ったものだ。
フリーレンの友人。ヒンメルにとって、フルーフはその一言に尽きた。
大切な仲間が旧知の仲だと語った相手ならば、自分にとっても無関係な他人ではない。
だからこそ、看過できなかった。
彼女の隣に佇む、あまりにも濃密な死の臭いを纏った魔族の存在を。
友人として、勇者として、彼は口を開かずにはいられなかった。
「フルーフ、君が長年探し求めた相手だとはわかっているよ。……だけど、どうしてもこの魔族でなければ駄目なのかい?」
「ヒンメルさん……魔族が嫌いですか?あの時、子供の魔族を信じてしまったことを、今でも後悔していますか?」
「そうだね。あれは一生消えることのない、僕の罪さ。君とフリーレンの忠告を聞かず、安易に信じてしまった僕の過ちだ」
ヒンメルの表情に、ふと陰りが差した。
それは、彼がまだ魔族の恐ろしさを本当の意味で知らなかった頃に起きた、忘れることのできない過ちの記憶だ。
まだ子供だから、命乞いをする様があまりにも人間らしくて、同情してしまった。
フリーレンの警告を前に躊躇した、その判断ミスが、結果として一人の人間を死なせ、まだ小さな子供から親を奪ってしまった。
一つの村を致命的な危険に晒しかけたのだ。
あの時の一瞬の甘さが招いた危機を、ヒンメルは自身の未熟さの証として、今でも深く悔やんでいた。
「あの魔族は子供とはいえ、魔族の中でもかなりサイコパスな気質でしたからね」
「魔族に子供や大人で違いなどあるのかい?」
「少なからずあると思いますよ。人間の子供だって、行動における善悪の境目が曖昧ですよね。魔族の場合、それが輪をかけて顕著なんです。ですが魔族だって幼体から成体へと至る過程で学習し、成長します。ある程度学習を積んだ魔族なら、勇者パーティーという化け物がいる前であんな命知らずな真似はしませんよ」
「だとしても……本質は変わらない。あの旅の中で、フリーレンが言っていたことに間違いはないと思う」
「まぁ、嘘つきの人喰いモンスターなのは確かですね。害獣ですよ害獣」
ヒンメルはフルーフのあまりにもあっさりとした肯定に、思わずギョッとする。
確かに魔族に対して思う所はあるが、自身が「旦那」と称する存在に、ここまで手厳しい評価を下すとは思っていなかった。
モンスター扱いされた当のソリテールは、そんな二人のやり取りを、笑みを浮かべて静観しているだけだった。
「え……そこまでは言ってないんだけど?」
「いえ、私はソリテール様を心の底から愛していますけど、そこを否定したりはしませんよ。彼女だけが特別だなんて言うつもりも全くありません。なんなら一つ、人間性を試すような質問をしてみて下さい。人喰いモンスターだって一発でわかりますから」
「……それじゃあ、道端で飢えに苦しむ親子がいて、必ず助けなければならないとしたら…ソリテール、君ならどうする?」
ヒンメルの問いは、極々当たり前のものだった。よほど性根の歪んだ人間でもない限り、その模範解答は一つしかない。
今まで黙っていたソリテールは、その問いに初めて反応した。マグカップをテーブルに置くと、何の気負いもなく答え始める。
「飢えて苦しむだなんて、可哀想ね。私なら、これ以上苦しまないように殺してあげるわ。御礼に、死に際の言葉を聞かせて貰えたら嬉しい」
ヒンメルは確信した。
こいつは、そこら辺にいる魔族と何一つ変わりはない。そう、確かに確信した。
「どうですか、ヒンメルさん。家の旦那様、とんでもなく魔族でしょう?」
フルーフの楽しげな声に、ヒンメルの額に汗が滲む。
彼はフルーフに対して、「頭は大丈夫か?」と言わんばかりの、心配と非難が入り混じったトゲのある視線を向けた。
「改めて聞くが、君は本当にこれからもこの魔族と一緒にいるつもりなのかい?」
「はい。私は別に魔族が大好き、なんて口にする異常者ではありません。ただ、好きになった相手が、たまたまソリテール様だっただけです」
「僕には到底理解出来ないな……」
「ふふ、私のこの気持ちは、ヒンメルさんが誰よりも理解出来ると思いますよ。種族や寿命、感性の違いを痛いほど理解してなお、他種族を好きになってしまったその感覚を。私は、彼女を愛してしまったから、ずっと一緒にいたい。ただ、それだけなんです」
「……なんのことだか、さっぱりわからないな」
フルーフの言葉に心当たりでもあったのか、ヒンメルは露骨に視線を逸らした。
それを見たフルーフは、呆れたような、それでいてどこか楽しそうな視線を向けながら、未だに自分の気持ちを隠し通せていると思い込んでいる一途な勇者に対して、悪戯っぽく言葉を続ける。
「へー……ハイターさんやアイゼンさんにはバレバレでしたよ。貴方は世界を救った英雄です。国や名家のお歴々からの縁談は、それこそ数え切れないほど来たでしょう。なのに、貴方には浮いた話の一つもなく、今日まで独り身を貫いている。生涯、一人の女性に貞操を捧げるほど愛した方がいると考えるのが、ごく自然なことじゃありませんか?」
「勘弁してくれ……。もうこの歳で、昔みたいに君達からイジられるのは流石に堪えるよ。……確かに、そうだね。君の色恋沙汰に、僕が口出しする資格など無かった。はは……余計なお節介ばかり言ってしまった。年老いて、僕のイケメンさにも陰りが見えてきたかな」
「そんなことはありません。私には、昔よりも益々イケメンになったように思えます。ブレることなく、生涯誰かを一途に想い続けるヒンメルさんは、とても……格好いいです。人間として、尊敬していますし、憧れてもいます」
「そうか……こんな僕でも、まだ格好いいか」
「えぇ。……出来れば、告白して欲しいところですけどね」
「出来ないよ。残される側は、きっと寂しいだろうからね。僕は、思い出の中でさえ彼女を悲しませる存在でありたくないんだ。それに……この歳で振られたくはない」
途中まで、さも了承される前提で話していたのに、最後の一言には妙な切実さが滲んでいた。
うん……まぁ、七十過ぎて振られるのは、確かに辛いだろう。
「そう言わずに。ここだ、と思った時は是非言ってみて下さい。それにもっと気軽に考えましょう。私も告白して初めて感じましたが、相手にとっては、それほど気にするようなことでもないようですよ」
「魔族と同じだなんて言ったら、彼女が怒ってしまうよ」
「ヒンメルさんは、フリーレンの記憶に残りたくはないのですか?長い生の中で、いずれ忘れ去られてしまっても良いと、本気でそう思えますか?」
「……そんなこと、思うと思うかい」
ヒンメルの声が、僅かに震えた。
窓の外では、夕暮れの最後の光が消えかけている。その薄暗がりの中で、老いた勇者の横顔が一瞬だけ、若き日の面影を取り戻したように見えた。
「僕がいなくなった後も、彼女の記憶の中にずっと残っていたいさ。これから先、彼女が出会うどんな奴よりも、一番のイケメンだったと、その記憶に刻み込まれたい。あの輝いていた旅路の思い出と一緒に、僕を未来へ連れて行って欲しいと、心の底からそう願っているよ」
「なら、言いましょうよ、ヒンメルさん!私も長く生きたのでわかります。記憶に残る思い出っていうのは、良し悪しに関わらず、感情が大きく揺さぶられてこそ残るものなんです。旅の綺麗な思い出だけでなく……格好悪くて、予想外な思い出を、フリーレンに刻んで差し上げましょうよ」
「ねぇ、振られる前提で話を進めるのをやめてくれないかい?」
「当たって砕けて下さい。勇者として他者を思いやるのは素晴らしいことですが、最期くらい、自分に正直になったって誰も気にしやしませんよ。勇者ヒンメルとしてではなく……一人の人間であるヒンメルとして、想いの丈をぶちまけてやるんです」
「もう彼女に会うこともないさ」
「では、賭けましょう。もし、万が一にも奇跡が起きて、彼女が貴方の元に訪れた時は……しっかり告白して下さいね、ヒンメルさん」
「はぁ……わかった。いいよ」
五十年後にもう一度会う。
ヒンメルは確かに、フリーレン達とそう約束した。だが、人間とは時間の感覚が全く違うエルフだ。
このままうっかり忘れられ、二度と姿を現さない可能性は十分にあった。
だから、安易な気持ちで賭けに乗ってしまった。
フルーフの言葉が、ずっと胸の奥に仕舞い込んでおくべきだった淡い欲に、小さな火を灯してしまったのかもしれない。
勇者として魔王を討伐する勇気はあっても、好きな相手に告白する勇気は、どうしても持てなかった。
彼女の負担になる、今更何を言っても遅い、どうせ一方的な片思いだ。
自分は先に死ぬのだからと、そんな言い訳で現実から目を逸らし続けてきた。
だけど、賭けに負けたのなら仕方ない。もし、フルーフの言う通り、本当にフリーレンが再びこの場所を訪れたのなら。
その時は――告白してやろうじゃないか。
◇◇◇
街の明かりが一つ、また一つと消え、王都が深い静寂に包まれた深夜。
ヒンメルの寝室に、一人の角の生えた人影が、音もなく足を踏み入れていた。
「老人を労って欲しいものだね。……何のようかな、ソリテール。ずっと黙って僕を観察していたようだが、面白かったかい?」
「不思議ね。思ったより、何も感じないわ。魔王様を倒した人間だから、直接対面してみれば何か新しい発見があるかと思っていたのに」
ソリテールは、眠っているはずのヒンメルに声をかけられても動じることなく、ベッドの傍らでまじまじと彼を見つめる。
魔力、肉体……どれをとっても、魔王を倒せるだけの隔絶した要素が見当たらない。
年老いた、ただの人間の老人。フルーフとの会話を観察する中で抱いたその認識は、直接対面しても一切変わらなかった。
「はは……僕は、魔族から見てもイケメンなのだろう。イケメンという言葉の、真の意味には気づけたんじゃないかい?」
鼻下に蓄えた立派な三日月のヒゲを撫でながら、いつもの調子を崩さないヒンメル。
手元に剣は無い。大魔族が目と鼻の先にいるというのに、その態度には一切の焦りも怯えも見られなかった。
「ごめんなさい、私はフルーフ一筋なの。不味そうだし、魅力の一つも私には見つけられないわ」
「酷い言われようだ。魔族は見る目がないらしい。――……それでどうするんだい?あの日の続きを望んで僕を殺しに来たのかい?」
「ふふ、私の声を覚えいていたんだね。フルーフがあれだけ説得したのに、まだ寝首を掻きに来たと思っているだなんて、魔族への不信感は、相当根深いようね、勇者ヒンメル」
ソリテールの周囲に、いつの間にか数本の剣が宙に浮かんでいた。
その一本が、ヒンメルの首筋に音もなく添えられる。殺意はない。だが、魔族と勇者、この状況から導き出せる結末は一つしかなかった。
「僕は別に、フルーフのように君のことが好きという訳ではないからね」
「その強さが、私には分からない。それはきっと、魔族には無いものに起因しているはず。勇気、善意、正義、愛……きっと、そういうものなのでしょうね。理解出来ないことが多すぎて、『お話し』相手としては、とても退屈だわ」
「なら、早く僕を殺して、フルーフの所に帰って寝るといい」
「焦らないで。さっきの質問に答えてあげる。殺さないわ。……勇者ヒンメル、一つ質問に答えて欲しいの」
挑発とも取れるヒンメルの言葉。
けれど、ソリテールの剣はヒンメルの首元を傷つけることなく、粒子となって消えていった。
「なんだい?」
「人間の貴方から見て、フルーフはいつか私を捨てると思う?私達は、本能に忠実な人喰いの魔物。貴方が想像するよりも、ずっと酷いことを毎日フルーフにしているわ」
「驚いたな。まさか、魔族の君が、フルーフが自分の元を去ることを不安に思っているのかい?」
ソリテールは、これまで読み漁った人類の書物を思い返していた。
『愛する人には優しくしなければならない』『暴力は関係を壊す』――どの頁も同じことを繰り返していた。
だが、フルーフの首を絞めた時、彼女は確かに微笑んでいたのだ。
あの笑みと、書物の言葉と、どちらが正しいのか。
知れば知るほど、わからなくなる。
「不安?…そうね。これは、不安、なのかしら。これまで学習してこなかった人類の知識をフルーフに当て嵌める度に、そう思ってしまう。フルーフは私を愛している……だけど、人類の知識が、いつもその愛を否定してしまうの」
「僕には到底理解出来ないな……」とヒンメルは先ほどと同じ言葉を繰り返した。
だが、その声色は、フルーフに向けたものとは微妙に違っていた。困惑と、そして僅かな同情のようなもの。
「いつかその熱が冷めて、私の前から逃げ出してしまうのではないかと思えてならない」
「普通の人間なら、人喰いの魔物を好きになったりはしないよ。だけど、彼女は違う。……君は、フルーフを信じていないのかい?」
「人間の愛は、いつか冷めるものなのでしょう?なら、フルーフが囁く愛が消えて、いつ私の前からいなくなっても可笑しくはない……そう思ったの」
「信じていないんだね……僕は君達に詳しい訳じゃないけど、フルーフが君の前から黙って姿を消すことは、決してないと思うよ」
何を根拠に。
ソリテールの感情の湖面に、静かなさざ波が立つ。
このしたり顔の老人に、明確な苛立ちを感じていた。
「その根拠はなに?とても……とても、気になるわ。私は、自分の所有物が両手から零れ落ちて、二度と見つけられなくなることを、想像したくはないの」
早く答えろ、とソリテールから殺意にも似た圧が滲み出る。
だが、彼女はヒンメルを殺そうとはしなかった。それは、ソリテールには出来なかった。
「そうか。フルーフに嫌われたくないから、僕を殺せないのかい。全く……君は、魔族とは思えないほど拗らせていて、重症だね」
「答えて。乱暴はしたくない」
「気にするだけ無駄さ。断言するが、フルーフの君への愛情が冷めることなんて、今後ありはしないだろう。君は、逃げられる心配よりも、彼女から逃げられない覚悟を決めるべきだと、僕は思うよ」
なんだそれは。要領を得ない答えに、思わず眉間に力が籠るのを感じる。
ソリテールは無言で、ヒンメルに話の続きを促した。
「……」
「人間として、この歳まで生きてきて思うんだ。とても、長い人生だったと。……フルーフは人間だ。エルフや君達魔族のように長寿だが、その魂は人間の尺度で時を刻んでいる。同じ千年という時間でも、そこには途方もない感覚の差があっただろう。気の遠くなるような時間、出会ってすらいない君だけを想い続けて生きてきたんだ。……君には、いるかどうかもわからない一人の人間を、求め続けることが出来るかい?」
答えは、決まっている。
出来るはずがない。あるかどうかもわからない一つの餌に執着して、千年以上も追い求めるなど、異常以外の何物でもない。
そんなことを強要されたなら、ソリテールは死ぬよりも先に狂い果てるだろう。
「私には出来ないわ。きっと、先に気が狂ってしまう」
だが、ふとソリテールの脳内で、カチリと何かが嵌る音がした。
「――あ」
途方もない年月を、たった一つのことに執着し続ける。
魔族にとって、それは実に身近なことであった。
「そう――そうなんだ。フルーフにとっては、そういうことなのね。魔族にとっての、魔法や魔力と同じ。……絶対に捨てることが出来ない。それはきっと、自身の半身にも等しいもの」
魔族が生まれながらに持ち、生涯をかけるに値する魔法へのプライド。
人類への脅威を感じ、人間の魔法体系を学習した今でこそ、複数の魔法を躊躇なく使いこなすソリテールであったが、産まれて間もない頃から存在していたその感情は、未だに色濃く残っていた。
つまり、これか。
フルーフの抱く感情とは、捨てようとしても捨てられない、呪いのようなもの。
ソリテールの中に、歓喜が沸き立つ。
最早、不安などない。自身に向けられる言葉、そこに籠められた感情と、同等の重みを初めて理解することが出来たのだ。
「答えは得られたかい。……それなら、僕からも一ついいかな。フリーレンは、魔族の言葉は人間を欺く為だけにあると言っていたんだ。本当のところは、どうなんだい?」
ソリテールは、最高に気分がよかった。
だから、答えるまでもない当たり前の答えを、饒舌にヒンメルへと語り聞かせた。
「正しいわ。狩人が狩りをするのに、弓矢を使わないなんて非効率でしょう?魔族にとって言葉とは、人間を効率的に殺し、狩る為の矢に過ぎないの。けれど…自らすり寄ってくる獲物は、例外。道具なんて必要なく、ただ優しく絞め殺してあげるだけ。その時の言葉は、言葉以外の何の意味も持たないわ」
「ありがとう。少しだけ、気になっていたんだ」
ヒンメルは深く頷き、礼を言う。
「大した質問じゃないわ。私からも最後に一つ質問をさせて欲しいの。いいかしら?」
「なんだい?」
「時空干渉波の痕跡について。フリーレンはあれから再び未来に戻れたようだけど、そのずっと前。はるか昔に、一度だけ石碑を通じて、未来から時間遡行が行われた痕跡が記録されていたの。勇者である、貴方に心当たりはない?」
「いや……。特にはないね」
「そう。それならいいの」
「さぁ……もう寝よう。君の奥さんも、きっと心配しているはずだよ」
「そうね」と一言ヒンメルに返した後、ソリテールは踵を返し部屋を後にしようとする。
扉に手をかけ、最後にヒンメルへと振り向き、心からの感謝を述べた。
「とても大事なことを教えてくれてありがとう、勇者ヒンメル。今、とても良い気分だわ。退屈な話し相手だなんて言ってごめんなさい。貴方は、素晴らしいことを私に気づかせてくれた。告白が成功すると良いわね。おやすみなさい」
「魔族にまで尻を蹴られるとはな……。ふぅ……僕も、覚悟を決めないといけないらしい」
ヒンメルは、魔族の背中を見送った後、寝床に深く身を沈める。
告白、という二文字が頭の中から消えず、悶々としながらも、いつの間にか深い眠りについていた。
◇◇◇
その翌日、魔族と人間の一行は旅立つ準備を終え、王都を後にした。
ヒンメルは、どっと疲れたように眉間を指で揉みながら、見慣れた道を歩き自宅へと帰る。
家の前に、懐かしく輝く純白が見えた。
風に揺れる白い髪。陽光を弾いて、眩いばかりに煌めいている。
十年の旅路が、再び鮮やかな色彩を帯びて脳内に溢れ出すのを感じた。
ヒンメルは、何かを考えるよりも先に、口が動いていた。
「……フリーレン?」
賭けは、ヒンメルの負け。
老いた勇者は、嘗てと何一つ変わらない姿のエルフとの再会を果たしたのだった。
◇◇◇
半世紀流星群が、夜空を壮麗な光の川となって流れ落ちていく。
冷えた夜気が頬を撫で、どこか遠くで虫の声がした。
星の光が瞬くたびに、草原が青白く染まっては闇に還る。
その明滅の中で、かつての勇者パーティーは、再び肩を並べていた。
ヒンメルが夢にまで見た、あまりにも美しい奇跡だった。
心の奥底で、ずっと待ち望んでいた。
嘗ての仲間達と、再び冒険の旅に出ること。
勇者ヒンメルの最期の願いは、こうして果たされた。
もう、思い残すことは何もない。
今ここで死んでも、未練なく旅立てるだろう。
だがまだ、最後にやらねばならぬことが一つだけ残っていた。
つい先日、お節介焼きな友人と交わした、あの賭けの精算を。
五十年。長い、長い歳月だった。
約束したとはいえ、もう二度と会えないかもしれないと、幾度となく夜空を見上げては思った。
だけど、約束は守られた。
時の流れから取り残されたかのように、かつての姿と何一つ変わらない彼女が、今、目の前にいる。
告白するのなら、今この瞬間しかないだろう。
「フリーレン……君に、伝えたい言葉があるんだ」
ヒンメルは、震える息をそっと吐き出し、彼女に向き直った。
背骨は曲がり、もう彼女の身長よりもずっと低くなってしまった。
だが、彼は残された力の限り背筋を伸ばし、彼女の美しい翠色の瞳をまっすぐに見つめる。
今だけは、世界を救った勇者ヒンメルではない。
ただ一人の男、ヒンメルとして、精一杯の格好をつけて、彼女の永い記憶に、この想いを刻みつけてやるのだ。
「どうしたのヒンメル?そんなに……改まって」
不思議そうに小首を傾げるフリーレン。
その背後で、ハイターとアイゼンが、全てを察したようにニヤニヤしながら距離を取るのが視界の端に映る。
この歳になって、心臓が早鐘を打つほどの気恥ずかしさを感じるが、賭けは賭けだ。
逃げることは許されない。
シンプルでいい。
ただ、この一言が届けば。記憶の片隅に、ほんの少しでも残ってくれれば、それで上等だ。
「フリーレン、君がずっと好きだった」
夜風が吹き抜けた。
彼の震える声と、彼女の驚きに揺れる銀髪を、その風が優しく撫でていく。
「どうしたのヒンメル。突然、そんなことを言うなんて……」
「悪いね。だけど、これだけは言わせて貰うよ、フリーレン。僕は君を――今も、昔も、この旅路で過ごした一瞬一瞬も、ずっと、愛していたんだ」
「……」
返事は、ない。
ただ、彼女の大きな翠色の瞳が、流星の光を映して、見たこともないほど揺らめいていた。
「……真剣に告白する僕も、イケメンだっただろう?」
精一杯の強がり。ヒンメルはそう言って、いつものように笑ってみせた。
彼女からの言葉は、最後までなかった。
もともと、エルフにそういう感情が希薄なことは承知の上だ。
賭けに負け、墓まで持っていくつもりだった想いを伝えて、これで、彼の人生の精算は終わった。
ハイターとアイゼンが、背後から「やるじゃありませんか」「見直したぞ」などと、鬱陶しいほど肩を叩いてくる。だが、不思議と気分は晴れやかだった。
了承も、拒絶もなかった。
だけど、フリーレンの呆然とした顔を見て思う。
きっと、今夜のこの光景は、彼女の魂に強烈に焼き付いて、なかなか忘れることは出来ないだろう。
この先、何千年という時が流れようとも。
ふとした瞬間に、この不意打ちの告白を時折思い出して、僕たちの旅路を思い出してくれるはずだ。
記憶の中の僕は、色褪せることなく、ずっとイケメンのままだ。
そうだろう、フリーレン。
君を愛した男がいたことを、どうか、どうか忘れないでいて欲しい。
◇◇◇
同時刻、中央諸国のとある高原。
二人の魔族と一人の人間は、空を飛ぶ魔法で星が軌跡を描く夜空を眺めていた。
フルーフは、ソリテールに横抱きにされ、その首元に腕を回している。
「綺麗ですね、ソリテール様。これが五十年に一度だけ訪れるだなんて……今までは気にもしていなかったのに、今はとても綺麗に思えてしまいます」
「ねぇ、フルーフ」
「どうしました、ソリテー――ん、むぅ!?」
フルーフの瞳に映る数多の星辰が遮られ、最愛の人影に覆われていく。
ほのかに血の味がする唇が触れ、吐息が交わり、見慣れた魔族の顔が間近に映る。
「少しは、籠めるべき感情が見つかった気がするの。……聞いてくれる?」
「勿論です……」
「フルーフ……『愛してるわ』」
いつも通りの空虚な言葉ではなかった。
到底正しいとは思えない感情が籠められた、歪んだ愛の言葉。
だが、フルーフが籠める気持ちと同等の『何か』が、確かにそこにはあった。
「はい……。私も、『愛しています』、ソリテール様」
これ以上は望まない。そう、何度も考えてきた。
だが、このイカれた人喰いの旦那様は、いつもフルーフが諦めていた欲を満たしてくれる。
「夜逃げしたら、許さないわ。覚えておいてね」
面白い冗談だ。
むしろ、世界のどこに逃げようと、絶対に逃がしはしない。
フルーフという女は、それほどまでに執念深いのだから。
「面白い表現ですね。こちらこそ、私と円満離婚出来るだなんて、思わないで下さいね」
「ふふ、勇者ヒンメルにも、似たようなことを言われたわ」
「はは……ヒンメルさんも、なかなか見る目がありますね」
星が巡る空の下。
魔族と人間は、微笑みあい、ただ静かに空を漂っていた。
星が落ち、月が沈み、また朝日がやってくる。
魔族と人間の旅は再び始まり……次の目的地へと、その歩みを進めていく。