ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
一級魔法使い選抜試験まで、残り一か月と少し。
魔法都市オイサーストの中央通り。
人混みの中を、フルーフとソリテールは連れ立って歩いていた。
二人の目的は、肉体や性別そのものを変化させる魔法についての情報収集であるが、目当ての魔導書は、まだ見つかっていなかった。
ソリテールは露店に積まれた魔導書へ順番に目を走らせ、フルーフは少し先を歩きながら、店頭に並べられた怪しげな魔導具を一つずつ覗き込んでいる。
「駄目ですねぇ。どれも一時的な変身か、外見だけを取り繕うものばかりです。退屈していませんか、ソリテール様」
「見たことのない民間魔法が多くて、私は楽しいわ」
ソリテールは、無駄に種類の多い火起こしの民間魔法を収録した魔導書を手に取り、そのページを興味深そうにめくっていた。
「魔族は火を起こすためだけに、わざわざいくつもの術式を組み立てたりしない。火打ち石が湿っている時の魔法、薪が濡れている時の魔法、料理用の弱火を作る魔法……人間は不便を感じるたびに個別に魔法を増やす、そこが面白いわ」
「それはよかったです。ですが、こちらは困りましたね。魔法都市なら何でも見つかると思っていましたが、これでは――」
そこまで口にしたところで、フルーフの足が不意に止まった。
後ろで魔導書を読みながら歩いていたソリテールは、急停止したフルーフの背中へ、こつんと額をぶつける。
「どうしたの、フルーフ」
「すみません。少し、知り合いが見えたので」
フルーフが見つめていたのは、通りの向こう側だった。
大陸魔法協会北部支部へと続く大通り。その人波の中を、一組の男女が歩いている。
深い皺の刻まれた顔に、たっぷりと蓄えた顎髭と、丁寧に整えられた立派な口髭。
年季を帯びたローブをまとった、老境の魔法使い。
その隣には、彼の腕へ自分の手を添えながら歩く、若く美しい女性の姿があった。
二人の外見だけを見れば、祖父と孫にしか見えない。
しかし女性が老人へ向ける眼差しは、祖父を慕う孫のものではなかった。
長い歳月を共に生き、互いの喜びも後悔も知り尽くした伴侶だけが持つ、穏やかな親愛がそこにはあった。
「おーい!」
フルーフは人混みの隙間から大きく手を振り、相手の目に入るよう、その場で二度ほど跳び上がった。
すると向こうも、すぐにこちらへ気づいた。
老人が足を止める。
その隣で、女性は驚いたように目を見開いた後、柔らかな笑みを浮かべた。
「フルーフ?」
「お久しぶりです、レクテューレさん。三か月と少しぶりですね」
フルーフは往来を横切り、二人の前まで早足で歩いていった。
「それとデンケンさん。まだ老衰していなかったんですね。結構、結構」
「再会して早々、相変わらず失礼な物言いだな、フルーフ」
デンケンは不機嫌そうに眉を寄せた。
しかし、その声に本気の怒りはない。むしろ久しい友人との変わらぬやり取りに、どこか安堵しているようにも見えた。
レクテューレは夫の腕を軽く叩き、フルーフへ向き直った。
「久しぶり。定期検診以来ね。こんな所で会えるなんて思わなかったわ」
「私もです。お二人は旅行ですか?」
問いかけながら、フルーフはレクテューレの全身へ目を向けた。
頬には健康的な血色があり、息苦しそうな様子もない。身体の左右で微妙に姿勢が傾いていることもなく、少なくとも表面上は健康そのものだった。
その肉体の奥にある魂と、そこへ張りついた人工魔法生物の状態を見る。
半透明の小さな寄生生物は、淡い脈動を規則正しく繰り返していた。
レクテューレの魂から生み出されながら、肉体へ流れずに滞留する魔力を吸い上げ、濾過し、全身へ送り返す。
それは数か月前と変わらず、第二の心臓として確実に彼女の命を支えていた。
「体調も問題なさそうですね。石は毎日飲んでいますか?」
「ええ。一度も欠かしていないわ」
「なら結構です。ですが、せっかく会ったので、後ほど詳しく診察しますね。頻度が多くて困ることはありませんから」
「相変わらずね。会ってすぐ診察の話をするなんて」
そう言いながらも、レクテューレは嬉しそうだった。
フルーフが自分の身体を何よりも気にかけていることを、彼女はよく知っている。
少し遅れて、ソリテールも人混みを抜けて追いつき、穏やかに挨拶する。
「久しぶり、二人とも。ここへは試験を受けに来たのかしら?」
その翡翠色の眼は、まずレクテューレへ向けられ、それからデンケンへと移った。
「あぁ。先ほど協会で、一級魔法使い選抜試験への受験手続きを済ませてきたところだ」
「デンケンさんが一級試験を?」
フルーフはデンケンを見上げた。
「そうだ」
「レクテューレさんは?」
「私は受けないわ。そもそも受験資格を持っていないもの。受けるのはデンケンだけよ」
そう答えながら、レクテューレは夫の腕へ添えた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「そうですか……」
デンケンほどの実力者であれば、受験すること自体は不思議ではない。
他国で宮廷魔法使いの頂点へ上り詰め、数十年にわたって魔法の研鑽を続けてきた。
魔力量、技術、実戦経験。そのいずれを取っても、一級魔法使いの名に不足はない。
だが、彼が今さら資格を必要とする理由が分からなかった。
デンケンは既に老境にある。
現在の地位も名声も、十分すぎるほど築き上げている。資格がなければ就けない職を、今から目指す年齢でもない。
何より、北部高原へ入るだけなら、フルーフの伝手を使えばいい。
ノルム商会名義の船であれば、フルーフの名を通すだけで北へ向かう海路の大半を利用できる。
定期検診のためシンビオシスを訪れる際にも、二人は普段から海路を使っていた。
今さら、危険な陸路を利用する必要などない。
「北部高原へ行くのなら、私に言ってくれれば船を用意しましたよ」
フルーフは、何の気なしにそう告げた。
「定期検診に来る時と同じ船を、そのまま利用してくれればいいんです。別に、今さら遠慮するような仲でもないでしょう」
「それは分かっておる」
「では、どうして一級資格を?」
デンケンはすぐには答えなかった。
隣に立つレクテューレが夫の横顔を見つめ、何かを言おうとして、口を閉じた。
二人は、わずかに視線を交わした。
それだけで、長年連れ添った夫婦には十分だった。
「必要だからだ。儂らが、昔から決めていたことを果たすためにな」
「昔から決めていたこと、ですか」
フルーフの赤黒い眼が、静かに細められた。
デンケンは、それ以上を語ろうとしなかった。
いや、フルーフの前では語れないのが正確な所だろう。
フルーフは魂から、言葉や記憶を直接読めるわけではない。
だが魂は、感情によって揺らぐ。
恐怖、罪悪感、決意、愛情。
それらは色彩とも形とも呼べない変化となって、魂の表層へ浮かび上がる。
今のデンケンの魂には、いくつもの感情が絡み合っていた。
覚悟。恐れ。懐かしさ。
長年、胸の内へ抱え続けた後悔。
そして何より、レクテューレを守ろうとする強い意志。
レクテューレの魂にも、夫と同じ場所を目指す決意が宿っている。
父を慕う娘の情。故郷を捨てた者の悔恨。
夫と共に過去へ向き合おうとする覚悟。
そのすべてが、ある一つの場所へ収束していた。
フルーフは、他者の感情の機微に鈍いわけではない。
むしろ魂の揺らぎを通じて、人一倍繊細に感じ取ることができた。
「そうですか」
フルーフは、それ以上を尋ねなかった。
その声から、いつもの軽さが消えていた。
デンケンの眉間に刻まれた皺が、わずかに深くなる。
自分たちの意図を悟られた――そう察したようだった。
「フルーフ」
デンケンが低い声で名を呼ぶ。
「なんでしょう」
「儂らは――」
何かを言おうとしたデンケンを、フルーフは片手で制した。
「少し、場所を変えましょうか」
大通りの中央で話す内容ではない。
四人は人通りの少ない脇道へ入り、近くにあった小さな広場へ移動した。
中央には古びた噴水があり、循環する澄んだ水が、一定の間隔で石の水盤へ落ち続けている。
往来の喧騒は遠くに聞こえるものの、話の内容まで拾われる距離ではなかった。
フルーフとソリテールは噴水の縁へ腰掛けた。
デンケンとレクテューレは、その正面に並んで立つ。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「隠しておるつもりはなかった」
先に沈黙を破ったのは、デンケンだった。
「だが、言い出せなかった」
「えぇ。でしょうね。デンケンさんはクソ真面目で、困るほど頑固ですから」
「儂らがヴァイゼへ戻ることは、お主との契約に反する」
ヴァイゼへ二度と戻らない。
それは、レクテューレの蘇生と治療の対価として、フルーフが課した三つの条件の一つだった。
もっとも、正確には対価という名を借りた安全策である。
蘇生したレクテューレの存在をマハトに知られれば、感情を知るための実験として殺される可能性が高い。
それを避けるために、二人はフルーフの条件へ従い、故郷を捨てた。
父と別れ、友人と別れ、積み上げた地位も生活も捨てて逃げた。
それから半世紀以上。
マハトはヴァイゼを黄金へ変え、自らも大結界の内側へ封じられた。
状況は、かつてとは違う。
それでも危険が消えたわけではない。
フルーフが救い上げた命を、二人が自ら危険へさらそうとしている。
そのように受け取られても仕方のない選択だった。
「ごめんなさい、フルーフ」
レクテューレが深く頭を下げた。
「貴女が私たちを守るために決めてくれたことだと、分かっているわ。それを今、私たちは破ろうとしている。恩を仇で返すようなものだと思っている」
「レクテューレ」
デンケンが妻を止めようとする。
しかし彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
「私も決めたことなの。デンケン一人の責任にはできないわ」
レクテューレは胸元のペンダントを握った。
青い石をはめ込んだ銀の護符。若い頃のデンケンにフルーフが露店を装い買わせたプレゼントだ。
かつてデンケンが旅立ちの前夜に贈った贈り物。
二人がまだ若く、未来に何が待つのかを知らなかった頃から、共にあり続けた約束の証。
「昔、二人で決めたの」
青い石を握る指先に、わずかに力がこもる。
「いつか一緒に、マハトへお仕置きをしに行こうって」
レクテューレは、ほんの少しだけ微笑んだ。
復讐でも、憎悪だけでもない。
父の友人であり、夫の師でもあった魔族へ、領主の娘として向き合うための言葉だった。
「父のことを、何も知らないまま終わらせたくないの。マハトが何を考え、父と何を話し、最後に何をしたのか。それを自分の目で確かめたい」
「儂もだ」
デンケンが続ける。
「マハトは儂の師であり、同時に故郷を奪った仇でもある。あやつと向き合わぬ限り、儂らの過去は終わらん」
「だから、一級魔法使いの資格を?」
フルーフが尋ねる。
「そうだ。ヴァイゼへ続く北部高原を、自分たちの足で進むには、一級魔法使いの資格が必要になる」
「見当外れなことを言っている自覚はありますが……検問程度なら、いくらでもどうにかできますよ?」
「それでは駄目だ」
デンケンは即答した。
「これは儂らが決めたことだ。お前の力を借り、用意された道を通って辿り着くのでは意味がない。儂自身の力で資格を得て、レクテューレを連れていく」
その言葉を受けても、フルーフはすぐには答えなかった。
噴水から落ちる水が、何度も同じ音を繰り返す。
レクテューレの指は、今も胸元の青い石を握っている。
デンケンも何も言わず、正面からフルーフの眼を見つめていた。
二人とも、怒られることを覚悟しているようだった。
フルーフは、改めて二人の魂を見る。
その決意が一時の感情ではないことも、説得で消えるものではないことも分かる。
やがて、肺にたまった息をゆっくりと吐き出した。
「――分かりました」
デンケンの眉が、わずかに動く。
「……それだけか?」
「何がですか?」
「儂らは、契約を破ると言っておるのだぞ」
「そうですね」
「怒らないの?」
レクテューレも、困惑したように尋ねた。
フルーフは自分の白髪を掻いた。
「怒る理由が、まったくないわけではありませんよ。ですがね、あの条件は、お二人を縛って楽しむために作ったものではありません」
赤黒い眼が、真っ直ぐ二人へ向けられる。
「レクテューレさんがマハトに見つかり、殺される可能性を潰すためのものでした。お二人を守るために必要だったから、私はあの約束を取りつけたんです」
フルーフは一度言葉を切った。
「お二人は半世紀以上も、その約束を守り続けてくれました。そこまで考え抜いた上で、自分たちの意志で行くというのなら、私は反対しません」
フルーフにとって、本当に重要な対価は別にある。
二人が安全に、そして幸せに生き続けること。
異国で地位を築き、互いを支え、五十年以上の歳月を共に歩いてきた。
フルーフにとって、二人が幸福な生涯を送り、その結末まで見届けることは、自分自身が悔いなく死ぬために欠かせない願いとなっていた。
もちろん、死の危険が待つ場所へ行ってほしいはずがない。
だが、安全という名の鎖で二人を縛り、果たせなかった約束を胸に抱かせたまま生涯を終えさせれば、かつて救えなかった義娘の件とは別の悔いが残る。
そんな結末だけは、受け入れられなかった。
「約束は、守るためにあります」
フルーフは噴水の縁から立ち上がり、二人へ一歩近づいた。
「ですが、人を守るための約束が、その人の人生を縛るだけの鎖になってしまったのなら、見直すべきです」
レクテューレの手から、わずかに力が抜ける。
青い石のペンダントが、胸元へ静かに戻った。
「謝罪は必要ありません。私は、今回のことを契約違反として扱うつもりもありません」
「しかし――」
「ただし」
フルーフの声が、少しだけ強くなった。
「死なないでください」
デンケンとレクテューレは、同時に口を閉じた。
「目的を果たしても、お二人が死んだら意味がありません。マハトを相手にするのなら、勝つことよりも、生きて帰ることを優先してください」
フルーフは二人を順番に見た。
「危険を感じたら、迷わず逃げる。勝ち目がないのなら、目的そのものを諦めても構いません。まして、格好をつけて相討ちを選ぶような真似だけは、絶対にしないでください」
「それは――」
「特にデンケンさん」
反論しかけたデンケンを、フルーフが指差した。
「貴方はレクテューレさんが関わると、すぐ自分の命を投げ捨てる方向へ行きます。自分が死ねば妻が助かる、などという状況になれば、迷わず死ぬでしょう」
「当然だ」
「当然ではありません」
フルーフは即座に否定した。
「残された方がどうなるのか、貴方は身をもって知っているでしょう」
デンケンは答えられず、強く結ばれた唇が、かすかに震える。
レクテューレが、そっと夫の手を握った。
「大丈夫よ、フルーフ。今度は私が止めるわ」
「説得力がありませんね。夫の未来のために、黙って死のうとした前科がありますから」
「……そうだったわね」
やがて二人は、示し合わせたようにフルーフから目を逸らした。
「だから、どちらか一人だけで決めないでください。進む時も、逃げる時も、二人で決めること。いいですね?」
フルーフはそこで言葉を切り、二人の表情を見つめた。
「その上で、私がここまで言ってもなお、命を懸けなければ成し遂げられないことがあるというのなら……せめて、どうか悔いの残らないよう、最後までやりきってください。私が、お二人の選択を認めたことを後悔せずに済むように」
「分かった」
デンケンが力強く頷いた。
「約束するわ」
レクテューレも、確かな決意を込めて続いた。
フルーフは二人の魂を見つめた。
揺らぎの奥にある決意は固い。その約束が場当たり的なものではないことだけは、はっきりと伝わってくる。
「なら、私は応援します」
その一言に、レクテューレの表情がわずかに歪んだ。
泣きそうになるのを堪え、代わりにフルーフの手を両手で包み込んだ。
「ありがとう」
「お礼は、無事に帰ってからにしてください」
「フルーフ」
今度はデンケンが口を開いた。
「儂からも礼を言う」
フルーフは困ったように笑った。
少し離れた場所でその会話を聞いていたソリテールが、噴水の縁から立ち上がる。
「三人とも、話は終わった?」
「あ、はい。ソリテール様。待たせてしまいましたね」
「いいえ、構わないわ」
ソリテールはデンケンとレクテューレの前へ歩み寄った。
翡翠色の眼が、二人を順に見る。
「貴方たちがマハトのもとへ行くことを、私も止めないわ」
デンケンの眼差しが鋭くなる。
ソリテールとマハトが旧知の間柄であることは、彼も知っている。
「マハトとは友人なのだろう。ならば、守ろうとは思わないのか?」
「思わないわ」
ソリテールは、あっさりと答えた。
「私とマハトは友人だけれど、人間の友人とは違うの。助けを求められてもいないのに、彼の選択へ手を出すつもりはないわ」
マハトがデンケンたちを殺すかもしれない。
反対に、デンケンたちがマハトを倒すかもしれない。
あるいは双方が、まったく別の答えへ辿り着く可能性もある。
その結末が破滅であろうと、マハトの探究の成就であろうと、ソリテールは介入するつもりがなかった。
ソリテールの視線が、二人の重なった手へ落ちる。
「私には、故郷へ帰りたいという感情そのものは理解できない。けれど、それが貴方たち二人にとって大切なことだとは分かるわ」
ソリテールは右手の指に嵌まる鏡蓮華の指輪を、指先で静かに撫でた。
「目的とは別に、愛する相手と交わした約束だから、危険でも果たそうとしているのでしょう?」
レクテューレが頷く。
「なら、尊重するわ。その愛を」
ソリテールの声には、普段の揶揄するような響きがなかった。
フルーフが、わずかに目を細める。
ソリテールはそちらを見ず、デンケンたちへ微笑んだ。
「貴方たちが約束を果たした後、何を感じるのかには興味があるわ」
デンケンはソリテールをしばらく見つめた後、わずかに頭を下げた。
「ソリテール。お前には、ろくな目に遭わせられてこなかったが……今はただ、感謝しよう」
「感謝されるようなことはしていないわ。止めないだけよ」
それだけ言うと、ソリテールは何事もなかったかのように二人へ背を向け、広場の出口へ歩き出した。
フルーフは、その背中を見送ってから、改めて二人へ向き直る。
「それでは、レクテューレさんの診察はどうしましょう。試験が終わるまで滞在するのであれば、宿はもう取っていますか?」
「ええ。既に取ってあるわ」
「なら、後ほど伺います。それとデンケンさん」
「なんだ」
「一級試験に落ちたからといって、無理に北部高原へ入らないでくださいね」
「儂が落ちると思っておるのか?」
デンケンの口元に、自信に満ちた笑みが浮かんだ。
フルーフも、つられるように笑う。
「いいえ。それでは、また近いうちに会いにいきます。どこに目があるかわかりませんから、ひっそりと深夜にでも」
「ああ」
二組は広場の出口で別れた。
デンケンとレクテューレは、大陸魔法協会の方向へ。
フルーフとソリテールは、魔導書店が並ぶ市場の方向へ。
数歩進んだところで、フルーフは足を止めて振り返った。
人混みの中を、老人と若い女性が歩いている。
二人の歩幅は、もう同じではない。
老いたデンケンに合わせ、レクテューレはゆっくりと歩いていた。
それでも、二人の繋いだ手が離れることはなかった。
「心配?」
いつの間にか隣へ並んでいたソリテールが尋ねる。
「もちろんです。身内ですので」
フルーフは即答した。
「マハトが相手ですから。二人とも、死ぬかもしれません」
「それでも行かせるのね」
「止めても行きますよ。それに――」
フルーフは、遠ざかっていく二人の背中を見つめた。
「私が求めた対価は、命令に従い続けることではありません。二人で幸せに生きることです」
故郷へ戻らずに生きることが、いつまでも二人の心へ悔いを残し続けるのなら。
その悔いへ向き合うこともまた、幸せに生きるために必要なのだろう。
ソリテールも二人の背中を眺め、静かに目を細めた。
「なら、帰ってくるまで待つしかないわ」
ソリテールの指が、フルーフの手へ触れる。
「フルーフ。貴女は、二人が死なないと信じて送り出したのでしょう?なら今から、死んだ時のことを考えるべきではないわ」
フルーフは一瞬、言葉を失った。
やがて、小さく笑う。
「……そうですね。帰ってくると信じて送り出したのに、今から死後のことを考えるのは、二人に失礼でした」
フルーフは隣の魔族へ顔を向けた。
「ソリテール様。今のはとても、凄く……人間臭かったですよ。私は感無量です」
「あの二人について、私はさして何も感じていないわ」
「ええ、知っています。今のもきっと、なにかしらの、複雑な思考を経て出てきた言葉なのでしょう」
ソリテールは静かに笑うだけで答えは返さない。
「ですが、嬉しかったです。ありがとうございます、ソリテール様」
フルーフは、もう一度だけ遠ざかる夫婦を見た。
デンケンとレクテューレは振り返らない。
半世紀以上前に置き去りにした故郷へ向かうため、自分たちの脚で一歩ずつ進んでいる。
その旅路の最初に立ちはだかるのは、一級魔法使い選抜試験。
老人の背中には、老いも迷いも残っていた。
それでも、その隣には、彼が生涯を懸けて愛した妻がいる。
今度こそ、二人が見つめる未来は同じだった。
遠ざかる背中へ向けて、フルーフは誰にも届かないほど小さく、もう一度だけ言葉を送った。
「頑張ってください、デンケンさん。これにて……契約は満了です、もう悪魔も必要なさそうですね。どうか……自由に生きてください」
建物の間を抜けた風が、フルーフの白髪とローブの裾を揺らした。
露店の呼び声と受験者たちの足音に紛れながら、その小さな声は、デンケンたちの進む人混みの向こうへ消えていった。