ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
もりもり燃料が投下されているので、なんとか投稿を続けられています。感謝感謝です!
ーー日没。
第一次試験の終了時間が迫り、監督官であるゲナウが受験者全員が集う湖の岸へと現れた。
周囲を見渡し数を確認する。
残存は六パーティー。合計人数十七名。
隕鉄鳥の入った鳥籠が六個、地面に適当に置かれており、こちらも問題なし。
フルーフとソリテール、ラントを除く全員が酷く疲れたような表情で項垂れていた。
リヒターは試験前までは確かに仕立てのいい服を纏っていた、だが今では、半袖半丈状態である。
カンネとラヴィーネはデンケンとフェルンからローブを借りて纏っており、明らかに何かあった様子だ。
試験に直接関係はないが、ゲナウは全員を見渡し一応軽く質問を飛ばす。
「何かあったのか」
その一言に大半が頭に「?」マークを浮かべ首を傾ける。
なにかあったのは一目瞭然だが、誰もが言い淀み、誰も決定的な言葉を口にしない。
エーレが眉間を揉みながら、ヴィアベルに対し尋ねる。
「なにか?……ねぇ、ヴィアベル?よね……私達、絶対なにかあったと思うんだけど」
「さぁな。俺は何も知らねぇが、合格してんならそれでいいだろ」
エーレはなにかを思い出そうとうんうん唸るが、何も出てこない。
ヴィアベルはそんなエーレを軽く流し、適当に受け流していた。
「デンケン、俺とアンタは同じパーティーなんだよな。何故こんな姿になっているんだ?裾と袖はどこにいった」
「知らん。寝ている内に魔物にでも噛みちぎられたんだろう」
リヒターもエーレと似たようなことを聞くが、デンケンは適当すぎる返事を返すばかり。
リヒターもラオフェンもブツブツと呟き記憶の足取りを辿るも、一定の箇所で言葉に詰まり頭を抱える。
「ねぇ、ラヴィーネ。第一次試験の前日の夜までは覚えているんだけど、その後って……。今、試験当日だよね?」
「私に聞かれても同じようにわからねぇよ。起きたら、夕方で全員何も覚えて無かったんだぞ。どうして上着が吹き飛んでるんだよ。フリーレンだったよな、本当に何も知らないのかよ」
「さぁ……私も何もしらない。服は……魔物に噛みちぎられたんじゃないかな。きっと凄い魔物に襲われて気を失ってたんだよ、うん」
デンケンの答えを丸々写し取った、とんでもなく適当な返答を返すフリーレン。
だが、空には鳥の魔物が飛び交っており、向かいの大地は焼け野原。だんだんフリーレンの言っていることが正しく思えてきた。
それらを聞いていたゲナウは段々と情況が見えてくる。
一部の受験者の記憶がない。それも第一次試験当日の記憶が全て消失しているようだ。
ラント、デンケン、ヴィアベル、フリーレン、フェルン、フルーフ、ソリテール。
この面々はなにか知っていそうだが、露骨に面倒くさそうに視線を逸らし、記憶喪失の独り言を言い出す。
「知らない。起きたら記憶が無かったんだ、聞かれても困る。何があったにせよ、僕には関係のない話だ」
「儂も歳のせいか、記憶力が落ちてきたようだな」
「俺は寝てたから覚えてねぇな」
「私も寝てた」
「私も寝てました」
「悲しいわ、お話したいのに記憶がないだなんて」
「これは超常現象に違いありません、きっとUFOにキャトルミューティレーションされたんですよ。私がお守り致しますソリテール様」
たは~っと、全員が額に手を当て、余りにも適当すぎる猿芝居を披露する。
ゲナウは、舐め腐ってるなコイツら、と感じるが別段感情的になることはない。
明確な異常事態だが……この試験で重要なのは過程ではなく結果だ。
ここにいるパーティー全てが突破条件を満たしている。
重要なのはその一点だけだ。
試験中に負った不利益を補填するようなことはしない。
監督官はただ試験の合否だけを伝え、終わりを宣言すればいい。
「そうか、どうでもいいことだったな、忘れろ。現時刻をもって第一次試験を終了とする。第二次試験は三日後だ。詳細については追って通達する。以上だ。解散」
ゲナウはそれだけを伝えると踵を返して森林へと歩いていき、消えた。
星の降るような夜空の下、第一次試験は無事に終わりを迎えた。
だが正体の掴めない疲労に足を取られたのか、幾人かの受験者は湖畔の近くに腰を下ろしたまま、無言で空を仰いでいる。
誰も口を開かなかった。
開くだけの気力が残っていないのだろう。
風が吹くたび、水面に浮かんだ星々が細かく崩れる。湖の中で揺れる光と、夜空に張りついたまま動かない光。
その境目を探すように、フリーレンもまた、ぼんやりと空を見上げていた。
その横へ、一つの気配が近づいてくる。
確認するまでもない。
フリーレンは視線を動かさず、隣に立った相手の脛を何度も蹴りつけた。
追い払う意思だけは十分伝わる強さだったが、魔族は温和な笑顔のまま全てを受け止め、当然のように隣へ腰を下ろした。
「楽しかったわ、フリーレン。また遊びましょう」
「他所でやれ」
普段なら、もう少し毒の利いた嫌味が出ただろう。
しかし今夜のフリーレンには、いつものような切れがなかった。
瞼は重く、思考は湖底の泥へ沈んだように緩慢だった。
時折あくびが混じり、語尾がだらしなく溶ける。
フリーレンは気だるそうに胸元へ手を差し入れ、二つの指輪を通した紐を引き上げた。
指先が思うように動かない。
紐が襟の内側へ引っかかり、何度か指が滑る。
やがて引き出された二つの銀輪を、フリーレンはそのまま夜空へ掲げた。
一つは、旅の途中でヒンメルから贈られた鏡蓮華の指輪。
もう一つは、葬儀の日に受け取った、内側に文字の刻まれた銀の指輪。
鏡蓮華の指輪は、遠い旅の日々から。
文字を刻まれた銀輪は、葬儀の日から。
星明かりへ透かして眺めることは、この三十年弱の間に癖になっていた。
ソリテールもまた、左手を月へ掲げていた。
隣に座られれば、嫌でも魔族の姿が視界へ入る。
薬指に嵌められた結婚指輪が、淡く月光を弾いている。
その反対の手には、燻んだ銀の輪が一つ、摘まれていた。
輪の上には、見慣れた小さな花が精緻に象られている。
鏡蓮華。
フリーレンが飽きるほど眺めてきたものと、全く同じ形の指輪だった。
無意識に、自分の指輪を掌の内側へ隠しかける。
同じ形をしている。
ただそれだけのことなのに、長く自分だけのものだと思っていた記憶へ、土足で踏み込まれたような不快感があった。
けれど、完全に隠すことはできなかった。
月の下で並んだ二つの花は、同じ形をしていながら、まるで違う時間を抱えている。
一方は、既にいない死者から生者へ。
もう一方は、答えを探し続ける化け物から、今も隣にいる人間へ。
同じ花なのに、そこへ至る道はどこにも重ならない。
ソリテールの瞳には、満天の星が映り込んでいる。
その口元に浮かぶのは、人間を安心させるために貼りつけた作り物めいた笑み——ではなかった。
フリーレンですら、普段とはどこか違うと思ってしまう程度には、自然な笑みだった。
「ねぇ、フリーレン。貴女は凄いわ」
「なに?喧嘩なら今日はもう買わないから」
「いいえ。純粋に称賛しているの。救いようのない獣にだって、誰かを称えることくらいはできるのよ」
「どうだか。言葉を選んでいる時点で、聞く耳は持てない」
素っ気なく吐き捨てる。
それきり、会話は途切れた。
湖面を渡る夜風が、焼け焦げた匂いをかすかに運んでくる。
対岸の焼け野原には、まだ熱が残っているのだろう。闇の底で時折、燠火のような赤がちらついていた。
パチリ、と木の爆ぜる音が、水を伝って届く。
隣の魔族は、変わらずそこにいる。
追い払う言葉を探すべきだと頭のどこかが言っているのに、その頭が一番先に眠りかけていた。
フリーレンは考えることをやめた。
紐に通した二つの指輪が、掲げた指先で小さく揺れる。
羽根ほどに軽いはずの銀輪が、掌の上では奇妙なほど重かった。その矛盾にも、もう慣れてしまった。
慣れられないのは、視界の端で光る、もう一つの同じ花の方だ。
「……趣味の悪い偶然」
声が、思ったより低く出た。
「偶然ではないわ」
ソリテールは、こともなげに答える。
「貴女の勇者が選んだものと、同じ花。そうでしょう?」
「……知っていて選んだんだ」
「えぇ。勇者ヒンメルが貴女にこの花を贈った話は、フルーフと本人から聞いていたの。人類が花へ押し込めた意味を端から並べて、比較して、吟味したわ。その上で、最後まで残ったのがこれだった」
ソリテールは掲げていた手を下ろし、鏡蓮華の指輪を右手の薬指へ戻した。
膝の上へ置いた指先を、満足そうに一瞥する。
化け物が真似事をしても、花が可哀想なだけだ。
喉まで出かかった皮肉を、フリーレンは飲み込んだ。
不思議と、今は口にしてはならない気がした。
思わず口を閉ざしてしまう。それ以外にソリテールの不快さを表現する言葉を、今のフリーレンは持ち合わせていなかった。
「さっきの称賛の続きをしてもいいかしら」
「駄目」
「するわ」
やはり魔族は話を聞かない。
「最近、練習をしているの」
ソリテールの声は、いつものように柔らかい。
ただ、その奥に塗られているはずの、人を安心させるための糖衣が、今夜は妙に薄かった。
「フルーフのいない世界を想像する練習。この世に絶対という事象は存在し得ない。だからこそ、臆病な私は備えずにはいられないの」
「そう」
もはや、臆病云々へ突っ込むことはしない。
ソリテールにとって、自称臆病はほとんど口癖だ。
「想像し、考える。もしフルーフが先に消えたのなら、その時、私はどうなるのかを」
ソリテールは、まるで報告書を読み上げるように続けた。
本人には、そこに感情があるという認識すらないのだろう。ただ、声の底には名前のついていない空白が沈んでいた。
「フルーフのいない朝を迎える。寝台の隣に体温がない。呼びかけても、返事の代わりに空気が動くだけ。厨房へ行けば、二人分だった食器が一人分になる。ここまでは想像できるの。全部、輪郭がはっきりしている」
言葉を重ねるたび、その光景が形を得ていく。
多くの人間なら、輪郭を得る前に目を逸らしてしまう未来だ。
けれどこの魔族は、あえて朝の寝台や食卓にまで想像を行き渡らせ、まだ訪れていない喪失を一つずつ形にしていた。
理解できないものを理解するために。
まだ訪れていない痛みへ、先回りして手を伸ばすために。
「最初は、何も問題ないと思っていたわ。私はフルーフと出会う前から一人だったもの。孤独を苦痛に思ったことは一度もない。なら、元へ戻るだけ。そう結論づけるのが自然でしょう?」
「……そうだね」
「でも、今は違う。戻れないと分かってしまったの」
湖面の星が、風に崩れた。
揺れる水の上で、一つだった光が細かく千切れ、互いに無関係な輝きへと変わっていく。
ソリテールはそれを眺めながら、自分の左手へ右手を重ねた。
いつもなら、その手の中には別の体温がある。
指を絡めれば、握り返される。
少し強く握れば、痛がり、さらに力を込めれば骨が折れ、それでもフルーフは笑う。
今想像している未来には、その反応が一つもなかった。
「フルーフと出会う前の私へは、もう戻れない。フルーフがいない日々を、私はもう知らない。知っていたはずなのに、思い出せないの」
何をして時間を潰していたのか。
何を見て、何を面白いと思っていたのか。
どんな風に、一人で眠っていたのか。
ソリテールの指先が、自分の胸元へ触れる。
そこに心臓があることを確かめるように。
あるいは、本当に何もないのかを探るように。
「フルーフが消えた後も、私は生きていける。食事も、睡眠も、魔法も、研究も、全て滞りなく続けられるはずよ。生物としては、何一つ壊れない」
それでも、と。
ソリテールの声が、ほんの僅かに掠れた。
「それを生きていると呼べるのか、私には分からない」
声は平坦だった。
だが、その平坦さは、何も感じていない者のものではなかった。
感じるための器官を持たないまま、そこにある空白だけを指でなぞっているような声だった。
フリーレンは何も言わなかった。
ソリテールの言葉を信じたわけではない。
魔族の言葉は信じない。
それは変わらない。
生きた年月と経験が、それを生存の原則として刻み込んでいる。
命乞いを、和睦を、涙を模した表情を、フリーレンは幾度となく見てきた。
魔族にとって言葉とは、獲物の心をこじ開けるための道具に過ぎない。
フランメもそう教えた。
だから、目の前の言葉も同じはずだ。
同じでなくてはならない。
それなのに、その原則が今夜だけは僅かに軋んでいた。
フリーレンの視線は、ソリテールの薬指から離れない。
「だから、貴女は凄いと思ったの」
ソリテールがフリーレンを見る。
「貴女は、私が想像したその虚無の中に立っている。勇者ヒンメルを失い、それでも旅を続け、明日にはまた知らない魔導書を探して歩き出す。喪失を忘れたわけでも、切り離したわけでもない。それを抱えたまま、日常を生き続けている」
ソリテールは一度口を閉じた。
自分の内側にある感覚へ、適切な名前を探すように。
「貴女のようになりたいわけではない。貴女の境遇を羨ましいとも思わない。ただ、そんな在り方が本当に可能なのだという事実に、私は驚いている」
やがて、静かに言葉を選ぶ。
「驚嘆——それが一番近いかしら。私には到底できそうにないことを、貴女は当たり前のように続けている。そのことを、凄いと思ったの」
フリーレンは、長い沈黙の後で口を開いた。
答えるつもりなどなかった。
魔族の言葉に価値はない。頷けば付け入られ、否めば絡め取られる。黙殺するのが正解だ。
それでも、気づけば口が勝手に動いていた。
「ソリテール。それは間違いだ」
「何が?」
「耐えているんじゃない。多分、まだ全部届いていないだけだよ」
「届いていない?」
フリーレンは、掲げた指の隙間から夜空を透かした。
「星の光は、星が消えた後も届き続けるんだって。昔、人間の天文学者が言っていた。今見えている光の中には、もうどこにもない星のものが混ざっているって」
自分で口にしてから、フリーレンはその言葉の意味を考えた。
遠い星が放った光は、何年、何百年、あるいは何千年も夜の中を進み続ける。
光を放った星そのものが消えた後も、その死とは無関係に旅を続ける。
ヒンメルの言葉も、きっと同じだった。
あの夜に告げられた「愛している」は、その瞬間に全てが届いたわけではない。
葬儀の日に、一部が届いた。
指輪を受け取った夜に、また少し届いた。
旅の途中で彼の行いを聞くたび、知らなかった表情を知るたび、光は遅れて胸の奥へ差し込んできた。
だから自分は、喪失を耐えているのではない。
まだ、喪失の全体を受け取りきっていないのだ。
「それと同じなんだと思う。まだ途中なんだ。ヒンメルの棺の前で、私は自分でも訳が分からないまま泣いた。あれは多分、先触れみたいなもので。本物は、まだ全部届いていない」
フリーレンは夜空を見上げる。
先ほどよりも、星が遠く見えた。
「これから何十年も、何百年もかけて、少しずつ届くんだと思う」
「なら、フリーレン。貴女はこれから、もっと悲しくなるわね」
「知らないよ。全部、初めてなんだから」
何が初めてなのか。
フリーレン自身、その続きを言葉にはできなかった。
失うことなら、これまでにも数えきれないほど経験してきた。
師も、知人も、旅先で名前を交わしただけの村人も。
けれどヒンメルは、その棚のどこにも収まらない。
収まらないまま、今も胸元で揺れている。
「なら、先に想像することは無駄なのかしら」
ソリテールは、鏡蓮華へ視線を落とした。
「フルーフを失った時に備えて、今から何度も練習しておくことには意味がない?」
「多分ね」
フリーレンは迷わず答えた。
「失う練習なんてできないよ」
「……どうして?」
「私だって、ヒンメルが先に死ぬことくらい知っていた。人間はすぐ死ぬからね。考えたことがなかったわけじゃない。でも、本当にいなくなった後に届いたものは、想像していたものと全然違った」
胸元の銀輪を握り込む。
「いなくなった後のことを考えるより、いる間に何を返すかを考えた方がいいんじゃないかな。私は、それをしなかったから」
「後悔しているの?」
「それも、まだ全部は届いていない。でも——」
フリーレンは夜空から視線を下ろした。
「同じことは、もうしたくないと思っているよ」
ソリテールはしばらく黙っていた。
湖面を風が渡り、二人の髪を揺らしていく。
「……そう」
やがて、彼女は短く答え、それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
虫の声が一度途切れ、また遠くで鳴き始めた。
「フリーレン。前に聞いたわね」
ソリテールの声から、再び演技の糖衣が一段抜け落ちる。
「愛の定義。あの夜、貴女は答えられなかった。……少しは見つかった?」
相手の幸福を願うこと。
共に在ろうとすること。
喪ってなお、忘れられないこと。
いくつかの言葉は思い浮かんだ。
だが、どれも借り物だった。
書物で読んだ言葉や、旅の途中で誰かから聞いた言葉に過ぎない。
自分の感情へ重ねようとすると、どれも僅かに形が合わなかった。
言葉にした端から、砂のように崩れていく。
「……銅像の顔が、全然似ていなかった」
「……うん?」
「駆け出しの頃、報酬を払えなかった村で、ヒンメルが代わりに銅像を作らせたんだ。本人は満足そうだったけど、顔が全然似ていなくてさ」
愛について考えていたはずなのに、口から出たのは、何の関係もなさそうな昔話だった。
「紅茶も濃すぎた。たまに頼んでもいないのに淹れてくれるんだけど、渋くて。十年間、一度も言えなかった」
一つ思い出すと、次の記憶が勝手に浮かんだ。
「花畑を出す魔法を、綺麗だって言ってくれた」
そこまで口にした時、記憶の方が言葉より早くなった。
初めて魔法を綺麗だと思った、と笑う声。
焚き火の向こうで剣を手入れしていた横顔。
朝食のパンを勝手に一つ多く取り、アイゼンに無言で取り返されていたこと。
剣を抜く前に、ほんの少しだけ顎を引く癖。
寝起きには、普段より声が低かったこと。
誰も聞いていないのに、自分はイケメンだと言い出すこと。
困っている人がいれば、どれほどくだらない依頼でも引き受けてしまうこと。
ヒンメルの記憶は、英雄譚のように整然とは並ばなかった。
世界を救った戦いより先に、本人なら忘れているような些細な場面ばかりが浮かぶ。
フリーレンは愛について答えようとしていた。
それなのに、何を考えても、思考の中心には一人の人間がいる。
抽象的な言葉を掴もうとするたび、その手の中へヒンメルの記憶が滑り込んできた。
「事あるごとに、僕はイケメンだからって言うんだ。誰も聞いていないのに。最後に会った時も言っていた。皺だらけで、背も縮んで、それでも——」
声が途切れた。
葬儀の日、棺へ触れた指先に返ってきた冷たさ。
流星の夜に聞いた告白。
あの時、返せなかった言葉。
フリーレンは胸元の銀輪へ触れた。
指の腹へ、不揃いな刻印の凹凸が引っかかる。
『永遠に君を想う』
「……やっぱり、定義なんて思い浮かばない」
銀の輪を、掌の内側へ握り込む。
指輪はフリーレンの体温を返した。
「愛について考えようとすると、出てくるのはヒンメルのことばかりだ。どんな言葉から始めても、最後にはヒンメルの記憶へ戻る」
くだらないことも。
ちっぽけなことも。
何の役にも立たないことも。
けれど、そのどれ一つとして、失っていいとは思えなかった。
「だから、まだ分からない。分からないけど……私にとっては、そういうものなのかもしれない」
ソリテールは、しばらく何も言わなかった。
夜風が湖の匂いを運んできて、二人の髪先を持ち上げた
「フリーレン。貴女は愛を定義しなかった」
「……できなかったんだよ」
「同じことではないわ」
ソリテールは、自分の鏡蓮華へ視線を落とした。
「貴女は愛という言葉を説明する代わりに、一人の人間を何度も指し示した。愛について考えるたび、記憶の中にいる勇者ヒンメルへ戻った」
指輪の表面を、親指がゆっくりとなぞる。
「愛とは何かを言葉にできなくても、貴女にとっての愛が誰なのかは、最初から分かっていたのね」
フリーレンは何も答えなかった。
「……そう」
ソリテールは独り言のように続ける。
「なら、私も同じなのかもしれない」
「お前と一緒にするな」
「無理ね。私も愛について考えるたび、最後にはフルーフへ戻るもの」
愛とは何か。
なぜ大切に思うのか。
なぜ失いたくないのか。
なぜ、彼女の幸福が自分の行動を変えるのか。
どれほど遠回りをしても、思考の終点には必ず同じ人間がいる。
「感情が動かなくても、思考が必ず同じ一人へ戻る。それも、私にとっての愛を探す手掛かりにしていいのかしら」
「知らない。自分で決めればいい」
「えぇ。そうするわ」
ソリテールは、ほんの僅かに目を細めた。
「以前言ってたけど。フルーフと二人で決めた定義があるなら、もう考える必要もないでしょ」
「私は旦那様なの。だから愛する奥さんには、自分だけの答えを与えるべきだと思うわ」
「面倒くさいね」
「えぇ。私もそう思う。これは私の拘りでしかない」
ソリテールは、鏡蓮華を薬指へ戻した。
「私だけの愛の定義を、私自身が納得できる形で得られる日を、待たずにはいられないの」
「私はお前のことを何も知らない。答えなんて期待するだけ無駄だ」
フリーレンは夜空へ視線を戻した。
「それに、言った通り、私も分からないままだよ。多分……分からないまま歩くしかないんだ。地図もないし、終わりも見えない。それでも、立ち止まらずに進むべきだ」
「そうね」
ソリテールは、その答えを反芻するように、ゆっくりと瞬きをした。
「フリーレン」
声に、いつもの柔らかな調子が僅かに戻っていた。
「最後に一つだけ、無遠慮なことを聞くわ。魔族だから許して」
「今更すぎる」
「求婚の返事は——ずっと、保留のままなのかしら?」
「……求婚じゃない。告白だよ」
「指輪を用意しての告白を、人類は求婚と呼ぶわ」
フリーレンの脳裏に、あの夜の光景が鮮やかに蘇った。
老いた勇者が、皺だらけの顔で笑っていた。
ずっと好きだった、と。
旅の間も、今も愛していると。
あの時、フリーレンは何一つ言えなかった。
それからずっと、答えを返せないまま今日まで歩いてきた。
思えば、旅に出てから、その返事を真剣に考えようとしたことすらなかった。
フリーレンは、紐に通された銀の指輪を指先で摘んだ。
胸元で温まっている。
自分の体温を借りているだけの温度なのに、時折、それを勘違いしそうになる。
指の腹でなぞれば、刻印の凹凸が引っかかった。
見なくても諳んじられる、不揃いで少し歪んだ文字。
ヒンメル自身が、一文字ずつ刻んだのだろう。
刃の入りが浅い箇所と、深い箇所がある。途中で何度も手を止めたのだろうと分かる。
どれほどの時間をかけたのか。フリーレンは、それを知らない。
知る機会は、もう永久に失われている。
愛の定義は、今も分からない。
愛とは何かと問われれば、きっと百年後も口籠るのだろう。
けれど。
「そうだね。返事をするのが普通だった」
声は掠れていた。
「……遅くなったけど」
よりによって、魔族に問われた今になって、あの夜の返事を考えている。
情緒も何もあったものではない。
それでも、答えは驚くほど自然に浮かんだ。
あの夜は何一つ言えなかったのに、今は口にすべきだった言葉が、すぐそこにある。
「私も……ずっと、好きだった」
言ってから、返事を待つ相手がどこにもいないことに気づく。
淡い喪失が、胸を打った。
星の光の終点が、また少し近づいた気がした。
熱い雫が頬を伝い、顎先から夜露の上へ落ちる。
胸の奥に長く引っかかっていたものが、痛みを伴って、ようやくあるべき場所へ収まった。
葬儀の日は、これが何なのか分からなかった。
皆が泣いていたから、自分も泣いているのだろうと、他人事のように思っただけだった。
だが今度は、すぐに分かった。
分かったからといって、止め方まで分かるわけではない。
ソリテールは、すぐには答えなかった。
月へ掲げていた指輪を、そっと掌の内側へ包み込む。
いつもの笑みも、意地の悪い性根も見せない。
たっぷりと間を置いてから、吐息だけの声で言った。
「今言えとは言っていないわ、フリーレン。……聞かなかったことにしてあげる」
言われて、ようやく自分の口が滑ったことを理解した。
眠気で、意識が完全に緩んでいた。
沈黙が満ちる。
だが、訂正する言葉も、誤魔化す機転も、今のフリーレンには一つも思い浮かばなかった。
「けれど、おめでとう、フリーレン」
ソリテールは、今度こそ穏やかに微笑んだ。
「愛とは何か。その全てはまだ分からなくても、今、これまで貴女が抱えてきた感情に、名前を与えることができた。……そうでしょう?」
フリーレンは、胸元の指輪を握り、短く息を吸う。
「……そうだね」
そして、今度は自分の意思で言った。
「私も、ヒンメルを愛していた」
遠くから声がした。
「——フリーレン様。そろそろ戻りますよ」
死者の側へ深く沈みかけていた足首を、その声が掴んで引き上げる。
フリーレンは短く息を吐き、立ち上がった。
袖で頬を拭い、二つの指輪を握り胸元へ仕舞う。
ちょうど同じ時、ソリテールも鏡蓮華を嵌めた右手を握り込んだ。
示し合わせたわけでもないのに、二つの鏡蓮華が、同じ夜気の中へ同じ速さで沈んでいく。
不愉快なはずなのに、今だけは不思議と、そういった感情は湧いてこなかった。
「ソリテール」
「何かしら?」
「魔族は嫌いだ。お前のことは特に」
「酷いことを口にするのね……えぇ、知っているわ。だけど私に悪気はないの、ただ楽しくて口が勝手に動いてしまうだけ」
「その気質だけで、私が嫌うには十分だ。……だけど今夜の話は、相手は最悪だったけど……中身だけはまともだったよ」
「それは、何よりね」
フリーレンは振り返らずに歩き出した。
遠ざかる足音へ、少女の声が重なる。
遅いですよ、と咎める声。
あまりにも遅れて届いた光。
これから先、その光をもっと強く、まともに受けることになるのだろう。
それでも胸を締めつける喪失も、悲しみも、悪いものとは思わなかった。
◇◇◇
フリーレンの背中が、夜の向こうへ遠ざかっていく。
ソリテールは掌を開いた。
鏡蓮華の花弁に、月の光が薄く溜まっている。
失う練習などできない。
いなくなった後を想像するより、いる間に何を返すかを考える。
フリーレンの言葉を反芻した途端、ソリテールは無意識に周囲へ魔力探知を広げていた。
湖畔に残る幾つもの魔力反応。
疲れきった受験者たち。
小さく揺らめく魔法使いたちの魔力。
その中から、ただ一つを探す。
見慣れた、ひどく不安定な魔力。
それを見つけた瞬間、胸の内側に生じていた空白が静かに鎮まった。
——不思議ね。
見失ったわけでもないのに、確かめずにはいられなかった。
帰ったら、何を話そう。
何を渡せば喜ぶだろう。
何をすれば、あの人間はまた自分の名前を呼ぶのだろう。
思考は、やはり最後には同じ一人へ戻っていく。
ソリテールは鏡蓮華を指先で撫で、スカートについた夜露を払って立ち上がった。
まだ、フルーフはそこにいる。
その当然の事実が、今夜だけは妙に心地よかった。