ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。   作:ごすろじ

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▼第70話▶一難去って

 

 

ーー日没。

第一次試験の終了時間が迫り、監督官であるゲナウが受験者全員が集う湖の岸へと現れた。

 

 

周囲を見渡し数を確認する。

残存は六パーティー。合計人数十七名。

 

 

隕鉄鳥の入った鳥籠が六個、地面に適当に置かれており、こちらも問題なし。

フルーフとソリテール、ラントを除く全員が酷く疲れたような表情で項垂れていた。

 

 

リヒターは試験前までは確かに仕立てのいい服を纏っていた、だが今では、半袖半丈状態である。

カンネとラヴィーネはデンケンとフェルンからローブを借りて纏っており、明らかに何かあった様子だ。

 

試験に直接関係はないが、ゲナウは全員を見渡し一応軽く質問を飛ばす。

 

 

「何かあったのか」

 

 

その一言に大半が頭に「?」マークを浮かべ首を傾ける。

なにかあったのは一目瞭然だが、誰もが言い淀み、誰も決定的な言葉を口にしない。

 

エーレが眉間を揉みながら、ヴィアベルに対し尋ねる。

 

 

「なにか?……ねぇ、ヴィアベル?よね……私達、絶対なにかあったと思うんだけど」

 

「さぁな。俺は何も知らねぇが、合格してんならそれでいいだろ」

 

 

エーレはなにかを思い出そうとうんうん唸るが、何も出てこない。

ヴィアベルはそんなエーレを軽く流し、適当に受け流していた。

 

 

「デンケン、俺とアンタは同じパーティーなんだよな。何故こんな姿になっているんだ?裾と袖はどこにいった」

 

「知らん。寝ている内に魔物にでも噛みちぎられたんだろう」

 

 

リヒターもエーレと似たようなことを聞くが、デンケンは適当すぎる返事を返すばかり。

リヒターもラオフェンもブツブツと呟き記憶の足取りを辿るも、一定の箇所で言葉に詰まり頭を抱える。

 

 

「ねぇ、ラヴィーネ。第一次試験の前日の夜までは覚えているんだけど、その後って……。今、試験当日だよね?」

 

「私に聞かれても同じようにわからねぇよ。起きたら、夕方で全員何も覚えて無かったんだぞ。どうして上着が吹き飛んでるんだよ。フリーレンだったよな、本当に何も知らないのかよ」

 

「さぁ……私も何もしらない。服は……魔物に噛みちぎられたんじゃないかな。きっと凄い魔物に襲われて気を失ってたんだよ、うん」

 

 

デンケンの答えを丸々写し取った、とんでもなく適当な返答を返すフリーレン。

だが、空には鳥の魔物が飛び交っており、向かいの大地は焼け野原。だんだんフリーレンの言っていることが正しく思えてきた。

 

それらを聞いていたゲナウは段々と情況が見えてくる。

一部の受験者の記憶がない。それも第一次試験当日の記憶が全て消失しているようだ。

 

 

ラント、デンケン、ヴィアベル、フリーレン、フェルン、フルーフ、ソリテール。

この面々はなにか知っていそうだが、露骨に面倒くさそうに視線を逸らし、記憶喪失の独り言を言い出す。

 

 

「知らない。起きたら記憶が無かったんだ、聞かれても困る。何があったにせよ、僕には関係のない話だ」

 

「儂も歳のせいか、記憶力が落ちてきたようだな」

 

「俺は寝てたから覚えてねぇな」

 

「私も寝てた」

 

「私も寝てました」

 

「悲しいわ、お話したいのに記憶がないだなんて」

 

「これは超常現象に違いありません、きっとUFOにキャトルミューティレーションされたんですよ。私がお守り致しますソリテール様」

 

 

たは~っと、全員が額に手を当て、余りにも適当すぎる猿芝居を披露する。

ゲナウは、舐め腐ってるなコイツら、と感じるが別段感情的になることはない。

 

 

明確な異常事態だが……この試験で重要なのは過程ではなく結果だ。

ここにいるパーティー全てが突破条件を満たしている。

 

 

重要なのはその一点だけだ。

 

 

試験中に負った不利益を補填するようなことはしない。

監督官はただ試験の合否だけを伝え、終わりを宣言すればいい。

 

 

「そうか、どうでもいいことだったな、忘れろ。現時刻をもって第一次試験を終了とする。第二次試験は三日後だ。詳細については追って通達する。以上だ。解散」

 

 

ゲナウはそれだけを伝えると踵を返して森林へと歩いていき、消えた。

 

 

星の降るような夜空の下、第一次試験は無事に終わりを迎えた。

だが正体の掴めない疲労に足を取られたのか、幾人かの受験者は湖畔の近くに腰を下ろしたまま、無言で空を仰いでいる。

 

 

誰も口を開かなかった。

開くだけの気力が残っていないのだろう。

 

 

風が吹くたび、水面に浮かんだ星々が細かく崩れる。湖の中で揺れる光と、夜空に張りついたまま動かない光。

その境目を探すように、フリーレンもまた、ぼんやりと空を見上げていた。

 

その横へ、一つの気配が近づいてくる。

 

 

確認するまでもない。

フリーレンは視線を動かさず、隣に立った相手の脛を何度も蹴りつけた。

 

追い払う意思だけは十分伝わる強さだったが、魔族は温和な笑顔のまま全てを受け止め、当然のように隣へ腰を下ろした。

 

 

「楽しかったわ、フリーレン。また遊びましょう」

 

「他所でやれ」

 

 

普段なら、もう少し毒の利いた嫌味が出ただろう。

しかし今夜のフリーレンには、いつものような切れがなかった。

 

 

瞼は重く、思考は湖底の泥へ沈んだように緩慢だった。

時折あくびが混じり、語尾がだらしなく溶ける。

 

フリーレンは気だるそうに胸元へ手を差し入れ、二つの指輪を通した紐を引き上げた。

 

 

指先が思うように動かない。

紐が襟の内側へ引っかかり、何度か指が滑る。

 

やがて引き出された二つの銀輪を、フリーレンはそのまま夜空へ掲げた。

 

 

一つは、旅の途中でヒンメルから贈られた鏡蓮華の指輪。

もう一つは、葬儀の日に受け取った、内側に文字の刻まれた銀の指輪。

 

 

鏡蓮華の指輪は、遠い旅の日々から。

文字を刻まれた銀輪は、葬儀の日から。

 

星明かりへ透かして眺めることは、この三十年弱の間に癖になっていた。

 

 

ソリテールもまた、左手を月へ掲げていた。

隣に座られれば、嫌でも魔族の姿が視界へ入る。

 

 

薬指に嵌められた結婚指輪が、淡く月光を弾いている。

その反対の手には、燻んだ銀の輪が一つ、摘まれていた。

 

輪の上には、見慣れた小さな花が精緻に象られている。

鏡蓮華。

 

フリーレンが飽きるほど眺めてきたものと、全く同じ形の指輪だった。

無意識に、自分の指輪を掌の内側へ隠しかける。

 

同じ形をしている。

ただそれだけのことなのに、長く自分だけのものだと思っていた記憶へ、土足で踏み込まれたような不快感があった。

 

 

けれど、完全に隠すことはできなかった。

月の下で並んだ二つの花は、同じ形をしていながら、まるで違う時間を抱えている。

 

 

一方は、既にいない死者から生者へ。

もう一方は、答えを探し続ける化け物から、今も隣にいる人間へ。

 

 

同じ花なのに、そこへ至る道はどこにも重ならない。

 

 

ソリテールの瞳には、満天の星が映り込んでいる。

 

その口元に浮かぶのは、人間を安心させるために貼りつけた作り物めいた笑み——ではなかった。

フリーレンですら、普段とはどこか違うと思ってしまう程度には、自然な笑みだった。

 

 

「ねぇ、フリーレン。貴女は凄いわ」

 

「なに?喧嘩なら今日はもう買わないから」

 

「いいえ。純粋に称賛しているの。救いようのない獣にだって、誰かを称えることくらいはできるのよ」

 

「どうだか。言葉を選んでいる時点で、聞く耳は持てない」

 

 

素っ気なく吐き捨てる。

それきり、会話は途切れた。

 

湖面を渡る夜風が、焼け焦げた匂いをかすかに運んでくる。

対岸の焼け野原には、まだ熱が残っているのだろう。闇の底で時折、燠火のような赤がちらついていた。

 

パチリ、と木の爆ぜる音が、水を伝って届く。

 

 

隣の魔族は、変わらずそこにいる。

追い払う言葉を探すべきだと頭のどこかが言っているのに、その頭が一番先に眠りかけていた。

 

フリーレンは考えることをやめた。

 

紐に通した二つの指輪が、掲げた指先で小さく揺れる。

 

 

羽根ほどに軽いはずの銀輪が、掌の上では奇妙なほど重かった。その矛盾にも、もう慣れてしまった。

慣れられないのは、視界の端で光る、もう一つの同じ花の方だ。

 

 

「……趣味の悪い偶然」

 

声が、思ったより低く出た。

 

「偶然ではないわ」

 

ソリテールは、こともなげに答える。

 

「貴女の勇者が選んだものと、同じ花。そうでしょう?」

 

「……知っていて選んだんだ」

 

「えぇ。勇者ヒンメルが貴女にこの花を贈った話は、フルーフと本人から聞いていたの。人類が花へ押し込めた意味を端から並べて、比較して、吟味したわ。その上で、最後まで残ったのがこれだった」

 

 

ソリテールは掲げていた手を下ろし、鏡蓮華の指輪を右手の薬指へ戻した。

膝の上へ置いた指先を、満足そうに一瞥する。

 

 

化け物が真似事をしても、花が可哀想なだけだ。

喉まで出かかった皮肉を、フリーレンは飲み込んだ。

 

 

不思議と、今は口にしてはならない気がした。

思わず口を閉ざしてしまう。それ以外にソリテールの不快さを表現する言葉を、今のフリーレンは持ち合わせていなかった。

 

 

「さっきの称賛の続きをしてもいいかしら」

 

「駄目」

 

「するわ」

 

やはり魔族は話を聞かない。

 

「最近、練習をしているの」

 

 

ソリテールの声は、いつものように柔らかい。

ただ、その奥に塗られているはずの、人を安心させるための糖衣が、今夜は妙に薄かった。

 

 

「フルーフのいない世界を想像する練習。この世に絶対という事象は存在し得ない。だからこそ、臆病な私は備えずにはいられないの」

 

「そう」

 

 

もはや、臆病云々へ突っ込むことはしない。

ソリテールにとって、自称臆病はほとんど口癖だ。

 

 

「想像し、考える。もしフルーフが先に消えたのなら、その時、私はどうなるのかを」

 

 

ソリテールは、まるで報告書を読み上げるように続けた。

本人には、そこに感情があるという認識すらないのだろう。ただ、声の底には名前のついていない空白が沈んでいた。

 

 

「フルーフのいない朝を迎える。寝台の隣に体温がない。呼びかけても、返事の代わりに空気が動くだけ。厨房へ行けば、二人分だった食器が一人分になる。ここまでは想像できるの。全部、輪郭がはっきりしている」

 

 

言葉を重ねるたび、その光景が形を得ていく。

多くの人間なら、輪郭を得る前に目を逸らしてしまう未来だ。

 

けれどこの魔族は、あえて朝の寝台や食卓にまで想像を行き渡らせ、まだ訪れていない喪失を一つずつ形にしていた。

 

理解できないものを理解するために。

 

まだ訪れていない痛みへ、先回りして手を伸ばすために。

 

 

「最初は、何も問題ないと思っていたわ。私はフルーフと出会う前から一人だったもの。孤独を苦痛に思ったことは一度もない。なら、元へ戻るだけ。そう結論づけるのが自然でしょう?」

 

「……そうだね」

 

「でも、今は違う。戻れないと分かってしまったの」

 

 

湖面の星が、風に崩れた。

揺れる水の上で、一つだった光が細かく千切れ、互いに無関係な輝きへと変わっていく。

 

ソリテールはそれを眺めながら、自分の左手へ右手を重ねた。

 

いつもなら、その手の中には別の体温がある。

指を絡めれば、握り返される。

 

少し強く握れば、痛がり、さらに力を込めれば骨が折れ、それでもフルーフは笑う。

 

今想像している未来には、その反応が一つもなかった。

 

 

「フルーフと出会う前の私へは、もう戻れない。フルーフがいない日々を、私はもう知らない。知っていたはずなのに、思い出せないの」

 

 

何をして時間を潰していたのか。

何を見て、何を面白いと思っていたのか。

どんな風に、一人で眠っていたのか。

 

ソリテールの指先が、自分の胸元へ触れる。

そこに心臓があることを確かめるように。

 

あるいは、本当に何もないのかを探るように。

 

 

「フルーフが消えた後も、私は生きていける。食事も、睡眠も、魔法も、研究も、全て滞りなく続けられるはずよ。生物としては、何一つ壊れない」

 

 

それでも、と。

ソリテールの声が、ほんの僅かに掠れた。

 

 

「それを生きていると呼べるのか、私には分からない」

 

 

声は平坦だった。

だが、その平坦さは、何も感じていない者のものではなかった。

 

感じるための器官を持たないまま、そこにある空白だけを指でなぞっているような声だった。

 

フリーレンは何も言わなかった。

ソリテールの言葉を信じたわけではない。

 

魔族の言葉は信じない。

それは変わらない。

 

生きた年月と経験が、それを生存の原則として刻み込んでいる。

命乞いを、和睦を、涙を模した表情を、フリーレンは幾度となく見てきた。

 

 

魔族にとって言葉とは、獲物の心をこじ開けるための道具に過ぎない。

 

 

フランメもそう教えた。

 

だから、目の前の言葉も同じはずだ。

同じでなくてはならない。

 

 

それなのに、その原則が今夜だけは僅かに軋んでいた。

 

フリーレンの視線は、ソリテールの薬指から離れない。

 

 

「だから、貴女は凄いと思ったの」

 

ソリテールがフリーレンを見る。

 

「貴女は、私が想像したその虚無の中に立っている。勇者ヒンメルを失い、それでも旅を続け、明日にはまた知らない魔導書を探して歩き出す。喪失を忘れたわけでも、切り離したわけでもない。それを抱えたまま、日常を生き続けている」

 

 

ソリテールは一度口を閉じた。

自分の内側にある感覚へ、適切な名前を探すように。

 

 

「貴女のようになりたいわけではない。貴女の境遇を羨ましいとも思わない。ただ、そんな在り方が本当に可能なのだという事実に、私は驚いている」

 

やがて、静かに言葉を選ぶ。

 

「驚嘆——それが一番近いかしら。私には到底できそうにないことを、貴女は当たり前のように続けている。そのことを、凄いと思ったの」

 

 

フリーレンは、長い沈黙の後で口を開いた。

答えるつもりなどなかった。

 

魔族の言葉に価値はない。頷けば付け入られ、否めば絡め取られる。黙殺するのが正解だ。

それでも、気づけば口が勝手に動いていた。

 

 

「ソリテール。それは間違いだ」

 

「何が?」

 

「耐えているんじゃない。多分、まだ全部届いていないだけだよ」

 

「届いていない?」

 

フリーレンは、掲げた指の隙間から夜空を透かした。

 

「星の光は、星が消えた後も届き続けるんだって。昔、人間の天文学者が言っていた。今見えている光の中には、もうどこにもない星のものが混ざっているって」

 

 

自分で口にしてから、フリーレンはその言葉の意味を考えた。

 

遠い星が放った光は、何年、何百年、あるいは何千年も夜の中を進み続ける。

光を放った星そのものが消えた後も、その死とは無関係に旅を続ける。

 

ヒンメルの言葉も、きっと同じだった。

 

あの夜に告げられた「愛している」は、その瞬間に全てが届いたわけではない。

 

葬儀の日に、一部が届いた。

指輪を受け取った夜に、また少し届いた。

 

旅の途中で彼の行いを聞くたび、知らなかった表情を知るたび、光は遅れて胸の奥へ差し込んできた。

 

だから自分は、喪失を耐えているのではない。

 

まだ、喪失の全体を受け取りきっていないのだ。

 

 

「それと同じなんだと思う。まだ途中なんだ。ヒンメルの棺の前で、私は自分でも訳が分からないまま泣いた。あれは多分、先触れみたいなもので。本物は、まだ全部届いていない」

 

 

フリーレンは夜空を見上げる。

先ほどよりも、星が遠く見えた。

 

 

「これから何十年も、何百年もかけて、少しずつ届くんだと思う」

 

「なら、フリーレン。貴女はこれから、もっと悲しくなるわね」

 

「知らないよ。全部、初めてなんだから」

 

 

何が初めてなのか。

 

フリーレン自身、その続きを言葉にはできなかった。

失うことなら、これまでにも数えきれないほど経験してきた。

 

師も、知人も、旅先で名前を交わしただけの村人も。

 

けれどヒンメルは、その棚のどこにも収まらない。

 

収まらないまま、今も胸元で揺れている。

 

 

「なら、先に想像することは無駄なのかしら」

 

ソリテールは、鏡蓮華へ視線を落とした。

 

「フルーフを失った時に備えて、今から何度も練習しておくことには意味がない?」

 

「多分ね」

 

フリーレンは迷わず答えた。

 

「失う練習なんてできないよ」

 

「……どうして?」

 

「私だって、ヒンメルが先に死ぬことくらい知っていた。人間はすぐ死ぬからね。考えたことがなかったわけじゃない。でも、本当にいなくなった後に届いたものは、想像していたものと全然違った」

 

胸元の銀輪を握り込む。

 

「いなくなった後のことを考えるより、いる間に何を返すかを考えた方がいいんじゃないかな。私は、それをしなかったから」

 

「後悔しているの?」

 

「それも、まだ全部は届いていない。でも——」

 

フリーレンは夜空から視線を下ろした。

 

「同じことは、もうしたくないと思っているよ」

 

 

ソリテールはしばらく黙っていた。

湖面を風が渡り、二人の髪を揺らしていく。

 

 

「……そう」

 

 

やがて、彼女は短く答え、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

虫の声が一度途切れ、また遠くで鳴き始めた。

 

「フリーレン。前に聞いたわね」

 

ソリテールの声から、再び演技の糖衣が一段抜け落ちる。

 

 

「愛の定義。あの夜、貴女は答えられなかった。……少しは見つかった?」

 

 

相手の幸福を願うこと。

共に在ろうとすること。

喪ってなお、忘れられないこと。

 

いくつかの言葉は思い浮かんだ。

 

 

だが、どれも借り物だった。

書物で読んだ言葉や、旅の途中で誰かから聞いた言葉に過ぎない。

 

 

自分の感情へ重ねようとすると、どれも僅かに形が合わなかった。

言葉にした端から、砂のように崩れていく。

 

 

「……銅像の顔が、全然似ていなかった」

 

「……うん?」

 

「駆け出しの頃、報酬を払えなかった村で、ヒンメルが代わりに銅像を作らせたんだ。本人は満足そうだったけど、顔が全然似ていなくてさ」

 

愛について考えていたはずなのに、口から出たのは、何の関係もなさそうな昔話だった。

 

「紅茶も濃すぎた。たまに頼んでもいないのに淹れてくれるんだけど、渋くて。十年間、一度も言えなかった」

 

一つ思い出すと、次の記憶が勝手に浮かんだ。

 

「花畑を出す魔法を、綺麗だって言ってくれた」

 

 

そこまで口にした時、記憶の方が言葉より早くなった。

 

初めて魔法を綺麗だと思った、と笑う声。

焚き火の向こうで剣を手入れしていた横顔。

 

朝食のパンを勝手に一つ多く取り、アイゼンに無言で取り返されていたこと。

剣を抜く前に、ほんの少しだけ顎を引く癖。

 

寝起きには、普段より声が低かったこと。

誰も聞いていないのに、自分はイケメンだと言い出すこと。

 

困っている人がいれば、どれほどくだらない依頼でも引き受けてしまうこと。

ヒンメルの記憶は、英雄譚のように整然とは並ばなかった。

 

世界を救った戦いより先に、本人なら忘れているような些細な場面ばかりが浮かぶ。

 

フリーレンは愛について答えようとしていた。

それなのに、何を考えても、思考の中心には一人の人間がいる。

 

 

抽象的な言葉を掴もうとするたび、その手の中へヒンメルの記憶が滑り込んできた。

 

 

「事あるごとに、僕はイケメンだからって言うんだ。誰も聞いていないのに。最後に会った時も言っていた。皺だらけで、背も縮んで、それでも——」

 

 

声が途切れた。

葬儀の日、棺へ触れた指先に返ってきた冷たさ。

 

流星の夜に聞いた告白。

あの時、返せなかった言葉。

 

フリーレンは胸元の銀輪へ触れた。

指の腹へ、不揃いな刻印の凹凸が引っかかる。

 

 

『永遠に君を想う』

 

 

「……やっぱり、定義なんて思い浮かばない」

 

 

銀の輪を、掌の内側へ握り込む。

指輪はフリーレンの体温を返した。

 

「愛について考えようとすると、出てくるのはヒンメルのことばかりだ。どんな言葉から始めても、最後にはヒンメルの記憶へ戻る」

 

 

くだらないことも。

ちっぽけなことも。

 

何の役にも立たないことも。

 

けれど、そのどれ一つとして、失っていいとは思えなかった。

 

 

「だから、まだ分からない。分からないけど……私にとっては、そういうものなのかもしれない」

 

 

ソリテールは、しばらく何も言わなかった。

夜風が湖の匂いを運んできて、二人の髪先を持ち上げた

 

 

「フリーレン。貴女は愛を定義しなかった」

 

「……できなかったんだよ」

 

「同じことではないわ」

 

 

ソリテールは、自分の鏡蓮華へ視線を落とした。

 

 

「貴女は愛という言葉を説明する代わりに、一人の人間を何度も指し示した。愛について考えるたび、記憶の中にいる勇者ヒンメルへ戻った」

 

指輪の表面を、親指がゆっくりとなぞる。

 

「愛とは何かを言葉にできなくても、貴女にとっての愛が誰なのかは、最初から分かっていたのね」

 

フリーレンは何も答えなかった。

 

「……そう」

 

ソリテールは独り言のように続ける。

 

「なら、私も同じなのかもしれない」

 

「お前と一緒にするな」

 

「無理ね。私も愛について考えるたび、最後にはフルーフへ戻るもの」

 

 

愛とは何か。

なぜ大切に思うのか。

なぜ失いたくないのか。

 

なぜ、彼女の幸福が自分の行動を変えるのか。

どれほど遠回りをしても、思考の終点には必ず同じ人間がいる。

 

 

「感情が動かなくても、思考が必ず同じ一人へ戻る。それも、私にとっての愛を探す手掛かりにしていいのかしら」

 

「知らない。自分で決めればいい」

 

「えぇ。そうするわ」

 

 

ソリテールは、ほんの僅かに目を細めた。

 

 

「以前言ってたけど。フルーフと二人で決めた定義があるなら、もう考える必要もないでしょ」

 

「私は旦那様なの。だから愛する奥さんには、自分だけの答えを与えるべきだと思うわ」

 

「面倒くさいね」

 

「えぇ。私もそう思う。これは私の拘りでしかない」

 

ソリテールは、鏡蓮華を薬指へ戻した。

 

「私だけの愛の定義を、私自身が納得できる形で得られる日を、待たずにはいられないの」

 

「私はお前のことを何も知らない。答えなんて期待するだけ無駄だ」

 

フリーレンは夜空へ視線を戻した。

 

「それに、言った通り、私も分からないままだよ。多分……分からないまま歩くしかないんだ。地図もないし、終わりも見えない。それでも、立ち止まらずに進むべきだ」

 

「そうね」

 

ソリテールは、その答えを反芻するように、ゆっくりと瞬きをした。

 

「フリーレン」

 

声に、いつもの柔らかな調子が僅かに戻っていた。

 

「最後に一つだけ、無遠慮なことを聞くわ。魔族だから許して」

 

「今更すぎる」

 

「求婚の返事は——ずっと、保留のままなのかしら?」

 

「……求婚じゃない。告白だよ」

 

「指輪を用意しての告白を、人類は求婚と呼ぶわ」

 

 

フリーレンの脳裏に、あの夜の光景が鮮やかに蘇った。

老いた勇者が、皺だらけの顔で笑っていた。

 

ずっと好きだった、と。

旅の間も、今も愛していると。

 

あの時、フリーレンは何一つ言えなかった。

それからずっと、答えを返せないまま今日まで歩いてきた。

 

思えば、旅に出てから、その返事を真剣に考えようとしたことすらなかった。

 

フリーレンは、紐に通された銀の指輪を指先で摘んだ。

胸元で温まっている。

 

 

自分の体温を借りているだけの温度なのに、時折、それを勘違いしそうになる。

 

 

指の腹でなぞれば、刻印の凹凸が引っかかった。

見なくても諳んじられる、不揃いで少し歪んだ文字。

 

ヒンメル自身が、一文字ずつ刻んだのだろう。

 

刃の入りが浅い箇所と、深い箇所がある。途中で何度も手を止めたのだろうと分かる。

どれほどの時間をかけたのか。フリーレンは、それを知らない。

 

知る機会は、もう永久に失われている。

 

 

愛の定義は、今も分からない。

愛とは何かと問われれば、きっと百年後も口籠るのだろう。

 

けれど。

 

 

「そうだね。返事をするのが普通だった」

 

声は掠れていた。

 

「……遅くなったけど」

 

 

よりによって、魔族に問われた今になって、あの夜の返事を考えている。

情緒も何もあったものではない。

 

それでも、答えは驚くほど自然に浮かんだ。

 

あの夜は何一つ言えなかったのに、今は口にすべきだった言葉が、すぐそこにある。

 

 

「私も……ずっと、好きだった」

 

 

言ってから、返事を待つ相手がどこにもいないことに気づく。

 

淡い喪失が、胸を打った。

星の光の終点が、また少し近づいた気がした。

 

 

熱い雫が頬を伝い、顎先から夜露の上へ落ちる。

胸の奥に長く引っかかっていたものが、痛みを伴って、ようやくあるべき場所へ収まった。

 

葬儀の日は、これが何なのか分からなかった。

 

皆が泣いていたから、自分も泣いているのだろうと、他人事のように思っただけだった。

 

だが今度は、すぐに分かった。

分かったからといって、止め方まで分かるわけではない。

 

ソリテールは、すぐには答えなかった。

 

月へ掲げていた指輪を、そっと掌の内側へ包み込む。

いつもの笑みも、意地の悪い性根も見せない。

 

たっぷりと間を置いてから、吐息だけの声で言った。

 

 

「今言えとは言っていないわ、フリーレン。……聞かなかったことにしてあげる」

 

 

言われて、ようやく自分の口が滑ったことを理解した。

眠気で、意識が完全に緩んでいた。

 

沈黙が満ちる。

 

だが、訂正する言葉も、誤魔化す機転も、今のフリーレンには一つも思い浮かばなかった。

 

 

「けれど、おめでとう、フリーレン」

 

ソリテールは、今度こそ穏やかに微笑んだ。

 

「愛とは何か。その全てはまだ分からなくても、今、これまで貴女が抱えてきた感情に、名前を与えることができた。……そうでしょう?」

 

フリーレンは、胸元の指輪を握り、短く息を吸う。

 

「……そうだね」

 

そして、今度は自分の意思で言った。

 

 

「私も、ヒンメルを愛していた」

 

 

遠くから声がした。

 

「——フリーレン様。そろそろ戻りますよ」

 

死者の側へ深く沈みかけていた足首を、その声が掴んで引き上げる。

フリーレンは短く息を吐き、立ち上がった。

 

袖で頬を拭い、二つの指輪を握り胸元へ仕舞う。

ちょうど同じ時、ソリテールも鏡蓮華を嵌めた右手を握り込んだ。

 

 

示し合わせたわけでもないのに、二つの鏡蓮華が、同じ夜気の中へ同じ速さで沈んでいく。

 

 

不愉快なはずなのに、今だけは不思議と、そういった感情は湧いてこなかった。

 

 

「ソリテール」

 

「何かしら?」

 

「魔族は嫌いだ。お前のことは特に」

 

「酷いことを口にするのね……えぇ、知っているわ。だけど私に悪気はないの、ただ楽しくて口が勝手に動いてしまうだけ」

 

「その気質だけで、私が嫌うには十分だ。……だけど今夜の話は、相手は最悪だったけど……中身だけはまともだったよ」

 

「それは、何よりね」

 

 

フリーレンは振り返らずに歩き出した。

遠ざかる足音へ、少女の声が重なる。

 

遅いですよ、と咎める声。

 

あまりにも遅れて届いた光。

 

これから先、その光をもっと強く、まともに受けることになるのだろう。

 

それでも胸を締めつける喪失も、悲しみも、悪いものとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

フリーレンの背中が、夜の向こうへ遠ざかっていく。

 

ソリテールは掌を開いた。

鏡蓮華の花弁に、月の光が薄く溜まっている。

 

 

失う練習などできない。

 

 

いなくなった後を想像するより、いる間に何を返すかを考える。

フリーレンの言葉を反芻した途端、ソリテールは無意識に周囲へ魔力探知を広げていた。

 

 

湖畔に残る幾つもの魔力反応。

疲れきった受験者たち。

小さく揺らめく魔法使いたちの魔力。

 

 

その中から、ただ一つを探す。

見慣れた、ひどく不安定な魔力。

 

 

それを見つけた瞬間、胸の内側に生じていた空白が静かに鎮まった。

 

 

——不思議ね。

見失ったわけでもないのに、確かめずにはいられなかった。

 

 

帰ったら、何を話そう。

 

何を渡せば喜ぶだろう。

 

 

何をすれば、あの人間はまた自分の名前を呼ぶのだろう。

 

思考は、やはり最後には同じ一人へ戻っていく。

 

 

ソリテールは鏡蓮華を指先で撫で、スカートについた夜露を払って立ち上がった。

 

 

まだ、フルーフはそこにいる。

その当然の事実が、今夜だけは妙に心地よかった。

 

 

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