ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
――魔法都市オイサースト、宿の一室。
卓上に置かれた通信魔導具から、微かな雑音が響いていた。
磨かれた金属板の中心では淡い光が明滅し、その向こうから遠く離れた者の声を運んでくる。
『一級魔法使い合格、おめでとう。デンケン』
通信越しに届いたのは、鈴を転がすような女の声。
ソリテールの声は、いつもと変わらず穏やかだったが、息継ぎの間隔は僅かに長く軽快さはない。
声にも、普段なら感じさせない微かな掠れが混じっていた。
上空を飛んでいるのか、吹きすさぶ風切り音が絶え間なく聞こえてくる。
「……フリーレンから聞いたのか」
『いいえ。最初から落ちるとは思っていなかっただけ』
「ソリテール、そちらの様子はどうなっておる。ゼーリエと事を構えたようだな」
返事まで、ほんの僅かな間があったが、返ってきた声はいつもの調子だった。
『傷は貰ったけれど、優秀な義娘がいて一命をとりとめたわ。だけど最低限、まともに身体を動かせるようになるまで、しばらく時間が必要ね』
デンケンは眉を寄せた。
魔族の肉体とは、魔力によって形作られた器でもある。
失った腕を即座に取り戻すことは出来ずとも、十分な時間さえあれば回復するはずだ。
そのソリテールが「しばらく」と口にする。どうやらゼーリエに相当深い手傷を負わされたことが窺えた。
「それで、オイサーストへ戻るのはいつになる。お前のことだ、戻ってくるのだろう?」
『半年後』
「半年……」
窓際に座るレクテューレが、小さくその言葉を繰り返した。
彼女の両手には、赤い石が入った瓶が握られており、指先が、僅かに強張った。
半年。それは、ただソリテールが戻ってくるまでの期間ではない。
レクテューレの定期検診、そのリミットでもあった。
『私には、どうしても一つだけ、先にやり遂げなければならないことがあるの』
ソリテールの声が続く。
『それを終わらせてから、オイサーストへ行くわ。だから早くても半年後。遅らせるつもりはないけれど、今すぐには戻れない』
「聞き出すつもりはないが、一応聞いておくぞ、何をするつもりだ?」
『貴方達には関係ないことだから、言わない。意地悪で言っている訳でもないの、本当に私達だけの都合だから。言っても仕方がないことって、あるでしょう?』
丁寧な断りの返事で、デンケンの言葉が止まる。
それ以上を語るつもりはないらしい。
デンケンも追及はしなかった。だろうな、と内心で納得し終わらせる。
通信越しに聞き出せる程度のことなら、初めからソリテールの方から話しているだろう。
「儂らに、何かしてほしいことがあるのか」
『いいえ』
即座に返答があった。
意外なことだった。デンケンとしては何かしらの協力要請が飛んでくると予想していたのだ。
『協力を求めるために連絡したのではないわ。フリーレンたちが残ってくれるそうだから、貴方たちまで責任を感じる必要はない』
「だが――」
『デンケン』
穏やかな声が、反論を遮った。
『前回は応援するとは言ったけれど、それと、これとは大きく前提が違う。協力なんて求めたら、私はフルーフに怒られてしまうわ』
声音に、ほんの少しだけ冗談めいた響きが混じる。
『フルーフが長い時間をかけて助け、大事にしてきた二人でしょう?私の判断で壊したら、悲しむもの。愛する奥さんから嫌われるような真似をするほど、愚かでも、目先の状況しか見えなくなるほど焦ってもいないわ。なにより、貴方達は計画の上での必要な犠牲に含まれないの』
デンケンは通信魔導具の光を見つめる。
人間らしさとは違う。
ソリテールが守ろうとしているのは、デンケンたち自身であると同時に、フルーフが二人へ注いできた時間と労力だった。
フルーフが大切にしたものを、フルーフの不在中に壊さない。
その配慮が善性から生じたものではないと、相変わらず本人も隠そうとしない。それでも、二人を気遣っていることだけは伝わってきた。
人間の心には寄り添えることはない癖に、スレスレにまでは迫ってくる。
だが、他者が大切にしているものを尊重しようとしているのは確かだった。
『それよりも、レクテューレのことを考えて。旦那様は奥さんのことを一番に考えないといけないわ』
ソリテールの声から、僅かに軽さが消える。
『石の予備はあっても、フルーフがいない以上、レクテューレの身体へ施された処置を、永遠に維持することは不可能よ』
「はい。わかっています」
ソリテールの声に応えたのは、当事者であるレクテューレだった。
『石は、あくまで体内の寄生生物を動かす動力源。循環の調整まではできないわ』
「半年を超えれば、やはり止まりますか?」
『わからない。私には魂に触れることも見ることすら出来ない。だけど、フルーフがあれだけ定期検診を欠かさなかったのだから、繊細な調整を要するのだと思うわ。不具合が起きる可能性は日に日に高くなると思う』
滞留する魔力を処理できなくなれば、かつてレクテューレを死へ追いやった症状が、再び肉体を蝕み始める。
最悪の場合、発症から死までに、どれほどの猶予が残されているかも分からない。
『この半年間で、マハトの元に行くでも、故郷で最期を迎えるでもいい。安静にして待つだけでもいい。自分達の生き方は自分達で決めて。私に言えることは、最悪半年が迫る前から不調が出てくることも念頭に置いておくべきだと、忠告するくらい』
ソリテールは迷いなく告げた。
『貴方たちは、フルーフが懸命に作り上げたもの。此処に残るにしても、争いごとに身を置くべきではないわ。少なくとも本人が帰ってくるまでは、自分から壊れるような真似をしないで』
「それは命令か?」
デンケンが苦々しく問うが、ソリテールからは始終そんな気配はなかった。
『いいえ。ただ、フルーフが何を望むのか教えているだけ』
通信魔導具の光が、一度大きく揺れた。
『貴方たちは貴方たちの人生を生きて。フルーフは、それを望んでいるはずだから』
声が遠ざかる。
「待て、ソリテール」
『?』
デンケンは口を開いたが、続く言葉が出てこなかった。
協力を求められたわけではない。むしろ関わるなと、暗に告げられている。
その判断は正しかった。デンケンとしても本来ありがたいと思うべきことだ。
だが、同時に胸の内には棘が刺さったような異物感がつきまとっていた。
半年後、ソリテールが大陸魔法協会を相手に何を仕出かすのかはわからない。
デンケン一人ならともかく、そこにレクテューレまで危険へ巻き込むことなど出来ない。
如何に魔法を修めていようと、護身の範囲だ。
「……いや、何でもない」
『そう。なら、次に会う時まで元気でいて』
最後に、ソリテールは付け加える。
『二人とも、出来るだけ死なないでね。私がフルーフへ言い訳を考えるのは、とても面倒だから』
「最後まで自分本位な奴だ」
通信機からは、微かな笑い声が聞こえた。
それを最後に通信魔導具の光が消え、室内へ静寂が落ちた。
窓の外から、遅れて鐘の音が響いてきた。
時刻を告げる澄んだ音が、建物の間を何度も反響している。
デンケンは椅子に腰掛けたまま、卓上へ視線を落とした。
そこには、一級魔法使いの資格を示す証と、北部高原の地図が並んでいる。
地図には、オイサーストから北へ伸びる道が描かれていた。
北側諸国から北部高原への関所を越え、魔物の跋扈する高原を抜ける。その先にあるのは、二人が半世紀以上も帰ることを許されなかった故郷。
マハトが支配する黄金郷。
二人の故郷である城塞都市ヴァイゼ。
そして、レクテューレの父――グリュックが黄金の中で眠る地だ。
猶予は半年。道は二つだ。
目的を優先し逃亡するか。ソリテールの助言に従い残るか。
一級魔法使いの資格を得た今なら、正式な手続きを経て北部高原へ入ることができる。
招集を無視すれば当然、資格は剥奪されるだろうが、それも直ぐではない。それまでに関所を通過すればいいだけだ。
今すぐ出発すれば、予定どおり北へ向かい、マハトと対峙することが出来る。
フルーフの救出が失敗し、レクテューレの命が尽きるとしても、その前に二人で長年の目的を果たせる可能性があった。
もう一つは、オイサーストに残る道。
何もせず、安静に半年後を待つ。
ソリテールがフルーフを取り戻す可能性を信じ、レクテューレの身体へ負担をかけず、成り行きを見守る。
成功すれば、フルーフの検診を受けた後、改めてヴァイゼへ向かえばいい。
だが失敗すれば、レクテューレの身体を維持する術は失われる。
マハトと向き合う機会も、故郷へ帰る機会も、そのまま永遠に閉ざされる可能性があった。
ゼーリエは、神話の時代から生きる大魔法使いだ。
ソリテールがどれほど強大な大魔族であろうと、勝つ姿をデンケンは想像できなかった。
仮に……自分たちがソリテールの意に反して、加勢したところで、何ができるというのか。
相手はゼーリエ一人ではない。大陸魔法協会という、組織そのものだ。
大陸魔法協会には、数多の魔法使いが所属している。
デンケン自身、強大な魔法使いと相対した経験は幾度もある。
だが、そのどれとも、ゼーリエは明確に異なっていた。
直接言葉を交わしたのは、最終試験の僅かな時間だけ。
それでも、彼我の力量差を理解するには十分すぎた。
あれは、努力や覚悟、計略だけで覆せる差ではない。
いくら考えても、勝ち目など見えてこない。
だから、残るのであれば、ソリテールの言う通り何もしない。
戦いには関わらず、結果だけを待つ。
それがレクテューレを守るための、最も現実的で最善の判断だった。
例え残り時間が少なかろうが、二人で最後の時間を生きられるなら、それだけで――。
そこまで考え、デンケンの思考が止まった。
本当に、それだけで幸せなのか。
フルーフを見捨てたという後悔を抱えたまま、目的を達すること。
故郷へ戻らず、グリュックの最期を知らず、マハトと向き合わないこと。
どちらの道を選んだとしても、それでも二人でいれば幸福だと、迷いなく断言できるのか。
分からなかった。いっそ命令してくれれば、どのようなことでも、受け入れ納得できたのに。そんなことを思ってしまう。
一級魔法使いの証へ伸ばした指が、途中で止まる。
「レクテューレ」
ようやく声を出した。
「お前は――」
続く言葉は、紡がれなかった。
背後から伸びた二本の腕が、デンケンの身体をそっと抱きしめたからだ。
細く柔らかな腕。
若い頃から、何一つ変わらない温もり。
デンケンの肩口へ、レクテューレが額を預ける。
「一人で決めないで、デンケン」
その一言で、デンケンは息を止めた。
「……儂は、まだ何も言っておらんぞ」
「貴方が何を考えているかくらい分かるわ」
レクテューレは腕の力を少しだけ強める。
「私の身体を優先して、オイサーストへ残ろうとしているの?それとも私の故郷への願いを優先して、今すぐ北へ向かおうとしているかしら?……どちらを選ぶにしても、貴方が一人で決めて、後から私へ伝えるつもりだったでしょう?」
否定できず、デンケンは沈黙する。
「もう、同じことはしたくないの」
レクテューレの声が、ほんの僅かに震えた。
「私たち、約束したでしょう?」
死の淵から戻り、再び抱き合ったあの夜明けを思い出す。
互いを想うあまり、互いへ嘘をつくことはやめる。
辛いことも、怖いことも、一人で抱え込まない。
これからは手を離さず、二人で生きる。
そう約束した。
「私の命だからこそ、私にも一緒に選ばせて」
デンケンは肩へ置かれたレクテューレの手へ、自分の手を重ねた。
「……すまない」
「謝らないで」
「また、一人で決めようとしていた」
「ええ。だから止めたの。昔から何でも一人で抱え込んで、同じ轍を二度も踏みかけるほど、頑固で真面目なんだから。仕方ない人……」
レクテューレはデンケンの肩から顔を上げ、彼の隣へ椅子を寄せた。
卓上の地図と一級資格、そして通信魔導具を順に見つめる。
「デンケンは今、二つの道で悩んでいるのね。今すぐ北へ向かうか。ここに残って、何もせず半年後を待つか」
「そうだな……」
デンケンは隠さず頷いた。
「儂らがソリテールへ協力したところで、勝敗を左右できるとは思えん。相手はゼーリエだ。大陸魔法協会そのものを敵に回すことになる。お前の命を危険に晒してまで加わったところで、何もできず終わる可能性の方が高い」
「だから、戦うことは選択肢から外したの?」
「……そうだ。儂はそれが正しい選択だと思っておる」
レクテューレはしばらく黙っていた。
その沈黙は迷いではなく、デンケンの言葉を一つずつ受け止めるためのものだった。
やがて、彼女は静かに問う。
「デンケン。故郷へ向かったとして、その後、私たちは本当に幸せになれると思う?」
「ならんだろうな」
「マハトと向き合い、お父様のことを知り、故郷を救えたとしても。フルーフ達を見捨てた事実は、一生消えないわ」
レクテューレの指が、通信魔導具へ触れる。
デンケンの表情が強張る。見捨てるという一言がレクテューレの口から出ただけで、心臓が刺されたように鼓動を早める。
「見捨てるわけではない」
「分かってる。私たちが加わっても、何も変わらないかもしれない。だから現実的な道を選ぶ。それは見捨てることとは違うわ」
「……」
「でも、心はそう簡単に割り切れないでしょ……デンケン」
レクテューレは自分の胸元、青い石のペンダントに手を置いた。
自身の夫が、どの道を選ぼうとも、何の感情も抱かないような人間でないことを知っている。
居心地の悪そうな顔を見れば、何を考えているかを察するには十分だった。
だが、だからといって言葉を交わさないわけにはいかない。
昔のような失敗は、二度と起こしてはならないのだから。
「ここに残って、ただ結果を待つ道も同じよ。フルーフが助かれば、それでいい。でも、もし助からなかったら……私はきっと考えるわ」
あの時、何かできたのではないか。
自分たちだからこそ、できることがあったのではないか。
恐怖から動かなかっただけではないのか。
「そんな後悔を抱えたまま、人生を終えることは出来ない」
その声に迷いはなかった。
「フルーフは、約束を破ろうとした私たちを、笑って許してくれたわ」
二人が安全に生きるために課された条件。
それらを破り、故郷へ戻りたいと願った時、フルーフは怒らなかった。
契約の本当の目的は、二人を従わせることではない。
幸せに生き続けてもらうこと……ただそれだけ。しかし、それこそが重要だった。
「あの人が私たちにくれた人生を、自分から後悔で濁らせること。それは、フルーフの優しさを、私たち自身が踏みにじることと同義だと思う――だから、ここに残りましょう」
デンケンの眉が僅かに動いた。
「……何もせず、半年後を待つのか?」
「いいえ」
レクテューレは、首を横に振る。
「ただ待つつもりはないわ」
穏やかな声。
それでも、その言葉にはデンケンの反論を許さないほどの強い意志があった。
「私たちも、フルーフを助けるの」
デンケンは、妻の横顔を見つめる。
つまりは、戦うということだ。
「かえって足手まといとなり、無意味に命を落とす可能性の方が高いぞ」
「ええ。そうかもしれないわ」
レクテューレは否定しなかった。
「私の身体が、半年を待たずに不調を起こすかもしれない。それより先に死ぬかもしれない。でも、私は死ぬために残るんじゃない」
レクテューレは、デンケンの皺の刻まれた老いた手を両手で包んだ。
かつて雷の夜に、自分を安心させるため握ってくれた手。
軍へ向かう前夜、別れを惜しみながら、それでも未来を誓い合った手。
死の淵から帰った自分を、二度と離さないと抱きしめてくれた手。
そのすべてと同じ手が、今も自分の掌の中にある。
「私は、貴方と生きるために残るの。貴方と幸せな未来を生きるために」
レクテューレは微笑んだ。
「お父様のことも、マハトのことも、私は諦めない」
言葉に迷いは生じない。
レクテューレの指が、デンケンの手へ絡む。
「どの道を、どんな未来を選んだとしても、死ぬ可能性は消えないわ」
今すぐ故郷へ向かっても、マハトへと一矢報いられず終わるかもしれない。
オイサーストへ残り、何もせず半年後を待ったところで、ソリテールが敗れれば、それで終わりだ。
安全な道など、最初から存在しない。
「それなら私は、二人で後悔しない道を選びたい」
レクテューレの声が、僅かに柔らかくなる。
「死ぬつもりなんてないわ。絶対に生き残って、これからも貴方と歩み続けるつもりなんだから」
彼女は一度、目を伏せた。
「もし、その先にフルーフが望んでいない、私たちの死があったとしても」
再び開かれた瞳は、真っ直ぐにデンケンを見つめていた。
「私は、あの人へ後悔していない、幸せでしたと言える生き方をしたい。それもまたフルーフが言っていたことでしょう?」
それは、死を受け入れた者の目ではない。
死の可能性から目を逸らさず、それでもなお、生きる未来を掴もうとする者の目だった。
デンケンは目を細める。
相変わらずだ。
自分は今でも、年上の彼女から見れば未熟な小僧に過ぎないのだろう。
復讐心に囚われ、魔族への憎悪だけで生きていた幼い自分へ、彼女は何度も扉を叩いてくれた。
食事を運び、他愛もない話を聞かせ、閉じこもっていた自分を外へ連れ出してくれた。
手を取り、魔法の楽しさを思い出させてくれた。
軍へ向かう背中を押し、帰る場所を守り続けてくれた。
今もまた、自分には見えていなかった道を、彼女が先に見つけている。
「……儂は、まだお前に導かれてばかりだな」
「そんなことはないわ」
レクテューレは静かに首を振る。
「私が前へ進めなかった時は、貴方が手を引いてくれたでしょう?」
互いを支え、互いに支えられてきた。
どちらか一方が導いてきたのではない。
一人が立ち止まれば、もう一人が手を引いた。
どちらかが道を見失えば、隣に立つ者が同じ目線で探した。
それが、二人が半世紀以上をかけて築き上げた夫婦の形だった。
デンケンは、目を閉じる。
半世紀を超える幸福は、フルーフが二人へ返してくれたものだった。
恩を返すためでも、義務だけでもなく。
デンケンもまた、純粋な気持ちでフルーフを助けたいと願っている。
あの不死の女が、ただただ不幸な末路をこの先、延々と辿り続ける。
その事実を知りながら北へ向かっても、心から幸福になれるはずがない。
レクテューレが何も言わなくとも、本当は最初から分かっていた。
ただ、彼女を危険へ巻き込むことが怖くて、その願いを選択肢から外していただけだ。
デンケンは目を開き、妻の手を握り返した。
「そうか……なら、残るか。レクテューレ」
「ええ」
レクテューレの目元が柔らかく綻んだ。
「儂は、お前のために生きると決めた。そして、お前は儂のために生きると言ってくれた。……ならば儂らが選ぶ道は、どちらか一人の願いだけを叶えるものであってはならん」
デンケンは、二人の重なった手を見つめる。
昔のような一方通行ではない。互いの願いを擦り合わせ、二人で出した答えだった。
「私は貴方のために。貴方は私のために」
その言葉に、レクテューレが頷く。
「互いが願う幸せのために、ここへ残ろう」
「はい」
迷いのない返事だった。
それはデンケン一人が選んだ道でも、レクテューレだけが望んだ道でもない。
二人で悩み、二人で選んだ道だった。
◇◇◇
「……決めた後で聞くのも何だが、レクテューレ。本当に戦うつもりか?」
「……?私は前線にでないけど?出て欲しいの、デンケン」
「?いや、儂としてはその方が安心できるが……。レクテューレ、何を企んでおる」
デンケンの一言で、彼女の顔に影が差し、瞳に暗い光が宿る。
「私に計画があるの。――デンケン、戦うとは言っても、最終的な戦場が整うまでは、戦略を練ることも出来ないでしょう。私達は搦め手と知恵でソリテールさん達の手助けをするわ」
「言っていることは正論だが……随分と積極的だな、レクテューレ」
デンケンの胸に、別種の不安が生まれた。
この顔には覚えがある。腹黒い策略家がする顔だ。
デンケンは、父親に似てきたな、と胸の内で呟いた。
海千山千の老獪な宮廷魔法使い、などと称されることがあるデンケンだが、資質の面だけで見ればレクテューレの方が遥かにその面で優れていた。
何せ彼女は数々の腐敗貴族を出し抜き、血に染め上げてきたグリュックの娘なのだから。
レクテューレは通信魔導具を手元へ引き寄せる。
「まずは、ソリテールさんへ、もう一度連絡しましょう」
「待て。先ほど、協力は必要ないと言われたばかりだぞ」
「ふふ、知らないわ」
「……」
これはマズイ。
父親だけでなく、ソリテールにも若干似てきている気がする。
「私たちが残ることと、何をするつもりなのかを伝えるだけ」
レクテューレは平然と魔力を流し込んだ。
通信魔導具が再び淡く明滅し、数度の呼び出し音が室内へ響く。
やがて、先ほどと同じ掠れた声が返ってきた。
『――どうかしたの?』
「ソリテールさん。私たち、オイサーストに残って手助けをすることに決めたわ」
ソリテール相手にハキハキしまくる妻にデンケンは頭を抱える。
アグレッシブが過ぎる。
『私の話を聞いていなかった?』
「全部聞いた上で決めました」
『残るのなら、ただ安静にしていなさいと、言ったはずだけれど』
「申し訳ありませんが、聞けない忠告もあります。その選択では私たちが不幸になるだけだと、夫と二人で結論を出しました。ですので、ソリテールさんのお言葉は聞けません、それはフルーフの願いを裏切ることになりますので。これは、フルーフに後悔させない決断です」
丁寧にニコニコと話しているが、謎の圧がすごい。ソリテールが反応するフルーフ関連のワードを絶妙に絡めていた。
通信の向こうから、深い息が聞こえた。
『……困った人』
それを了承と受け取ったのか、レクテューレはデンケンへ目を向け、僅かに笑った。
「私は何もせず、ただ此処にいます。安静にして部屋からも出ません。ただ――ソリテールさんには少しだけお願いしたいことがあります」
そこから先、彼女は声を落とした。
話は長くない。
デンケンは途中まで聞いただけで、レクテューレが何を狙っているのか理解した。やり口が父親そっくりだ。
正面から挑むような策ではない。
というか他力本願であり、全力で盤外の駒を使い潰すような戦略だった。
最後の部分を聞いた瞬間、彼は思わず妻の横顔を凝視した。
通信の向こうも、完全に静まり返っている。
魔導具の光だけが、二人の間でゆっくりと脈打つ。
数秒後。
『……ふふ。そのお願いは聞いてもいいわ。タイミングはこっちで決めるから、通信機は貴女が持っていて。後は、貴女次第だから……頑張って』
ソリテールは小さく笑い、了承の返事を返す。
それ以降は何もなく通信は切れた。
「レクテューレ……悪いとはいわんが、大胆なことを考えたな」
「道がないのなら、強引に作ってでも二つとも手に入れるべきでしょ。少なくとも、お父様なら、そうすると思うわ」
「本当にグリュック様に似てきたな……」
デンケンは、悪どい、と言いかけ口を噤む。
かなりアレな作戦ではあるが、目的、戦力、願い、全てにおいて達成出来る可能性を秘めていた。
デンケンは何か言いたそうにするが、口をもごつかせて、何も言えなかった。
◇◇◇
――大陸魔法協会、北部支部。
正午を知らせる鐘が鳴り終わった頃。
北部魔法隊を統括する上役へ報告書を提出したヴィアベルとシャルフは、人気の少ない通路を並んで歩いていた。
報告の内容は、ヴィアベルの一級魔法使い選抜試験合格と、それに伴う任務上の立場の変更。
そして、大陸魔法協会からの招集へ応じるため、半年間ほど北部魔法隊を留守にすること。
必要事項だけを記した、何の変哲もない報告書だった。
ソリテールからの連絡はない。
デンケンから接触を受けたわけでもない。
それでも、大陸魔法協会がゼーリエの予言を根拠として、各地の魔法使いをオイサーストへ集めている。
その規模と時期を考えれば、半年後に何が起きるのか、おおよその見当はついた。
魔王軍残党による総攻撃。
協会から公表された名目を、そのまま信じるほどヴィアベルは素直ではない。
十中八九ソリテール絡みだ。
大陸魔法協会がフルーフを拉致しているのだから、ソリテールに襲われない方がおかしい。
情報は十分に揃っている。誰かに判断を仰ぐ必要もない。
自分がどちら側へ立つのかは、とうに決まっている。
北部魔法隊は、人類の正義を背負うために存在しているのではない。
英雄集団でもなければ、大陸魔法協会へ忠誠を誓った私兵でもない。
北部の土地と、そこで暮らす人間を守る。
そのための部隊だ。
ヴィアベル自身の生き方も、そこから外れたことはなかった。
守るために魔族と手を組む必要があるなら、組む。
人間を殺さなければ後ろの者たちを守れないなら、殺す。
善悪や種族より先に、今守るべきものが何かを考える。
それが戦場で生き残り、部下を生きて帰し、背後にいる人間を守るために必要な判断だった。
理想論や常識だけでは、凍えた人間の腹は満たせない。
正しい選択が、必ず誰かを救うとも限らない。
戦場で甘い判断をすれば、その代償を支払うのは自分一人ではなかった。
兵士、村人、子供。その全員が巻き添えになる。
だから、判断を誤るつもりはない。
北部にはフルーフが必要だった。
頭のおかしい女だ。だが、その女がいたからこそ、北部高原はようやく、人間がまともに暮らせる土地へ変わり始めていた。
その恩恵を知らない者の方が、北部では少ない。
北部高原へ物資を運ぶ海上交易路も、フルーフとノルム商会の繋がりによって維持されている。
シンビオシスから一年を通して出荷される作物や保存食は、ノルム商会を経由し、各地の村や町へ卸されていた。
フルーフが失われれば、生産と流通が今までどおり維持される保証はない。
最悪の場合、ある日を境に食料の供給が途絶える可能性すらあった。
食料だけではない。衣類、薬、建材。北部で暮らすために必要な物資の多くが、同じ交易路を通って運ばれている。
生活基盤を支える柱を、後先も考えず引き抜くなど正気ではない。
長寿のエルフにとっては一瞬の出来事だろうが、その一瞬で死ぬ人間の数は、想像すらできないほどに多い。
危険な魔物が跋扈し、国家から見捨てられた土地。言ってしまえば、北部高原とはそういう場所だ。
現地で暮らしたことのない者にとっては、現実味すらない遠い未開の地に過ぎない。
人間一人を攫っただけで、その地の生活基盤が根底からひっくり返るなど、あのエルフは想像もしていないのだろう。
大陸魔法協会の魔法使いとしてゼーリエに協力し、ソリテールと敵対するか。
ソリテールへと加勢し、フルーフの奪還に手を貸すか。
どちらが北部の利益となるかなど、考えるまでもなかった。
ゼーリエの喉元へと牙を突き立てる。それが現実的に可能か不可能かなど関係ない。
あの大魔法使いを倒す役目は、自分ではない。
それを担うのはソリテールであり、フルーフを取り戻そうとする者たちだ。
自分にできることをすればいい。
必要なら捨て駒になり、肉壁になる。
自身の命一つで戦況を僅かでも動かせるなら、それで十分だった。
フルーフは文字どおり命を削り、北部のために働いてきた。
ならば、今度はこちらが命を張る番だ。
フルーフを取り戻す。
それを邪魔する者は、魔族であろうと人間であろうと敵でしかない。
大陸魔法協会から受けた恩などない。尽くす義理もなかった。
隣を歩くシャルフも、既に腹を決めている。
反対側の通路から、一人の女が歩いてくる。
床まで届くほど長い髪。
小柄な身体。
足音も立てずに近づいてくるのは、一級魔法使いゼンゼだった。
ヴィアベルはコートのポケットへ両手を突っ込み、ゆっくりと目を閉じた。
その隣で、シャルフが僅かに身を強張らせた。
「おい……」
警告とも心配とも取れる、小さな声だった。
ヴィアベルは片目だけを開く。
すれ違う直前、ゼンゼと視線が合った。
互いに言葉はない。
足を止めることも、杖へ手を伸ばすこともなかった。
ゼンゼは何も言わず、二人の横を通り過ぎていく。
シャルフはすぐには振り返らなかった。
それでも、声に不安が滲む。
「……本当に、大丈夫なのか」
ヴィアベルは答えない。
代わりに、シャルフの背中を一度だけ強く叩いた。
問題ない。
それだけで、言葉は必要なかった。
二人は再び歩き出す。
すべての始まりは、幼い頃に交わした、ありふれた約束だった。
故郷には、好きな女がいた。
都会へ行くと決めた彼女へ、幼いヴィアベルは言った。
北部へ巣食うクソったれな魔族どもは、自分が残らず殺してやる。
だから、いつか帰りたいと思ったなら、この村へ帰ってこい。
子供じみた大言壮語。
個人的な恋心と欲望から出た、身勝手な約束だった。
それを律儀に守り続け、気づけば三十代になっていた。
故郷を守る、北の地を守る。
それは、これからも変わらない。
たとえ、その約束を交わした相手を殺すことになっても。
一度交わした約束は――殺してでも守り通す。
「ヴィアベル。本当にいいのか?」
「いいんだよ。向こうも他人の振りだ。目が合っても、声一つかけてこねぇ。お互い、覚悟は決まってる」
「……彼女は……どうして、俺達のことやソリテールのことなんかを報告しないんだ?」
「さぁな。魔法使いなんて上澄みになればなるほど、社会性のない奴ばっかりだ、何を考えているかなんて、分かるわけがねぇ。ろくに感情を顔に出しやがらねぇから尚更だ」
「婚約者だとは思えない発言だな」
「だが、案外、同じことを考えてるのかもしれねぇな……。お互いどれだけ相手が厄介なのかは知っている。だからこそ、戦いが始まれば、俺は真っ先にあいつを抑える。向こうも同じ考えなら儲けものだ。一級魔法使い一人を足止めできるなら、俺の役目としては十分だ」
「俺は気が重いよ……」
情けない愚痴を漏らすシャルフの背中を、ヴィアベルは再び叩いた。
二人の足音が通路の角へ消えていく。