ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
地表を覆う雲が、大きく渦を巻いた。
次の瞬間、その白い層を突き破り、長大な龍の頭部が姿を現す。
翼を持たぬ巨体は空そのものを海とするように泳ぎ、青銅色の鱗へ陽光を滑らせながら、シンビオシスを覆う大結界へ近づいていった。
地上へ落ちた影が、果樹園と住宅街を順に呑み込んでいく。
街路を歩いていた人々が足を止め、窓という窓が開いた。
広場の子供たちは空を指差し、警備に当たっていた戦士たちは即座に武器へ手をかける。
だが結界は龍を拒まなかった。
透明な膜へ波紋が広がり、巨大な頭部から尾までが、抵抗一つ受けず内側へ滑り込んでくる。
強風が街路樹を揺らし、洗濯物を空へ舞い上げ、リンゴ園へ葉の波を生み出した。
龍の背で、リーニエが立ち上がる。
その腕へ抱き上げられたソリテールは、縫い合わせた右目が布で覆われ、片方の角も半ばから欠け、衣服の下には幾重もの包帯が巻かれている。
普段の彼女を知る者なら、同一人物とは思えないほど痛々しい姿だった。
「自分で降りられるわ」
「駄目。アウラ姉さんが、安静にしてろって言ってた」
「リーニエ、随分あの娘の言うことを聞くのね」
「私は理解のある妹。姉と愚弟二号にもリンゴ園に就職してもらう予定だから、ご機嫌取り」
薄情この上ない私情百パーセントの理由だった。
ソリテールは、はいはいと抵抗せず、リーニエの首へ左腕を回した。
リーニエは龍の背から何の躊躇もなく飛び降りる。
桃色の髪が風に煽られ、二人の身体が真っ直ぐ地上へ落ちていく。
その後を追い、アインザームが肉体を白い霧へ変えた。
長く尾を引く霧は、二人を包むように渦巻きながら降下する。
龍の頭部では、アウラが街を見下ろしていた。
「……まさか、こんな形で来ることになるとは思わなかったわね」
「そうだな」
隣に立つ南の勇者が、感慨深そうに街並みを眺める。
二人がこの地を訪れるのは、これが二度目だった。
最初に来たのは、フルーフとソリテールの結婚式。
あの時は人目を避け、街で最も高い建物の屋根から、遠巻きに式を見守っただけだった。
フルーフへ祝いの手紙を置き、自分たちの姿を明かさずに立ち去った。
本来なら、その後グラナト伯爵領で全ての決着をつけ、改めて正面からこの街を訪れるつもりだった。
フルーフに結婚の報告をし、南の勇者を紹介し、できれば自分たちの式を挙げる許可も得る。
その程度の、穏やかな再訪になるはずだった。
「それが、お母様は勝手に会いに来るし。グラナト伯爵領はソリテールに粉微塵にされるし。私はフリーレンを殴るハメになるし……」
「リヴァーレの相手をするつもりが、図らずもリーニエとシュタルクへ押しつけてしまったのも苦い思い出だ」
「貴方は反省なさい」
予定など、何一つ計画どおりには進まなかった。
それでもフルーフと再会し、親子として再び繋がれたことだけは、紛れもなく幸福な結果だった。
だからこそ、今フルーフがここにいないことが、アウラの胸へ重くのしかかる。
「行こうか、アウラ」
南の勇者が腕を差し出す。
「ソリテールじゃあるまいし。一人で降りられるわよ」
「知っている。だが、こういう時くらいは私に任せてほしい」
「……仕方ないわね」
アウラがその首へ腕を回すと、南の勇者は彼女を横抱きにした。
龍の鱗を蹴り、二人揃って宙へ身を投げる。
風が耳元で唸った。
南の勇者は落下の勢いを殺すように何度か空を蹴り、地上へ近づくにつれて速度を緩めていく。
アウラが落下中に片手を上げ、それを確認した龍は、短く喉を鳴らした。
頭部を振り、長大な身体を翻す。空を螺旋状に昇り、白い雲の層へ潜り込んでいく。
青銅色の尾が最後に雲へ消えると、空には巨大な渦だけが残った。
◇◇◇
リーニエは広場の石畳へ、ほとんど音も立てずに着地した。
ソリテールを片腕だけで支えたまま膝を曲げ、衝撃を地面へ流す。
後を追った霧がその傍らへ集まり、アインザームの姿を現す。
少し遅れて、南の勇者もアウラを抱えたまま地上へ降り立つ。
その頃には、広場の周囲へ人々が集まり始めていた。
巡回中だった戦士たちは盾や武器を構え、事務棟や商店からは、何事かと事務官や職人たちが飛び出してくる。
空から巨大な龍が侵入し、見知らぬ者まで降り立ったのだ。警戒するのは当然だった。
だが、先頭の戦士がリーニエの姿を認める。
続いて白い霧の中へ立つアインザームを確認した瞬間、張り詰めていた空気が目に見えて緩んだ。
この街一番の戦士。
そして、街外れの監獄所を預かる所長。
この街の戦士であれば、どちらも見慣れた顔だった。
「リーニエ様……?」
呼びかけへ、リーニエはソリテールを支えたまま軽く手を上げた。
その簡素な仕草だけで、武器を構えていた戦士たちは一斉に腕を下ろす。
龍に乗って街へ侵入してきたのは敵でも侵略者でもなく、街の重役たちだった。
安堵の息が広がりかけ――すぐに別の緊張へ変わる。
リーニエの腕の中にいる者が、ソリテールだと気づいたのだ。
「ソ、ソリテール様……?」
普段のソリテールからは、あまりにも想像し難い姿だった。
事務官の一人が息を呑み、即座に踵を返した。
「車椅子を!いや、担架!あとあと、それと医師を呼んでください!」
「担架だ担架!療養所へ連絡しろ!やっぱり、車椅子もいる!」
「必要ないわ」
騒ぎ始めた人々を、ソリテールの静かな声が止めた。
「治療はもう受けているの。見た目ほど深刻ではないわ」
いや、どう見ても瀕死の重傷患者だ。
誰もがそう思ったが、本人が普段と変わらぬ調子で話しているため、強く反論できない。
それでも事務官は車椅子を取りに走り、戦士の一人は医師を呼ぶべきか判断に迷って周囲を見回している。
リーニエは空いている手の甲を使い、集まった人々を払うようにシッシッと振った。
「もういいから。仕事に戻れ。警邏、続けてろ」
「しかし、領主様が……」
「死んでないから問題ない。七日以上この状態だったし、わかったら散れ」
街の戦士たちは彼女の命令に慣れていた。
互いに顔を見合わせた後、気遣う視線を残しつつも素直に散っていく。
武器を納め、巡回経路へ戻る者。持ち場を離れていた仲間を呼び戻す者。
広場には、まだ心配そうに様子を窺う事務官たちだけが残った。
やがて車椅子だけが運ばれてくる。
リーニエはソリテールを片腕で持ち上げ、そのまま座席へ下ろした。
足置きへ脚を乗せ、背もたれに身体を預けさせる。
その後、当然のように背後のハンドルへ回った。
「自分で動かせるわ」
「片腕でのろのろ進まれても迷惑。後、安静にさせとけって言われてる」
ソリテールが弱っているからか、妙に態度がデカいリーニエは有無を言わせない。
ソリテールは少しだけ考え、素直に背もたれへ身体を預けた。
近くに立っていた事務官へ、左手で手招きする。
「馬車を一台用意して。家まで戻りたいの」
「畏まりました」
「それと、ミリアルデとツルギへ言伝をお願い。私の館へ来るように伝えて。急ぎだけれど、仕事を投げ出せとまでは言わないわ」
事務官は手帳を取り出し、慌ただしく書き留める。
ソリテールはそこで、アウラと南の勇者へ視線を向けた。
「この二人は私達の大事な客人。街の者へ周知しておいて」
「お名前を伺っても?」
「こちらがアウラ。フルーフの娘よ」
事務官の羽ペンが、ほんの一瞬止まった。
だが驚愕というほどではない。
「あぁ……例の」
納得したような声だった。
アウラの眉が動く。
「例の?」
「フルーフ様が娘から手紙が来たと仰っていた件は、かなり広まっておりますので」
フルーフの身内話は、この街において最も伝播速度の速い噂の一つだった。
本人が普段から身内にゲロ甘く、話題へ出すたび露骨に情緒を乱すためでもある。
娘がいるので、近いうちに会いに行くらしい。
どうやら魔族らしい。
その程度の情報は、街の住人なら大半が知っているようだった。
「そう……」
アウラは複雑な顔をする。
自分の知らないところで、母親が娘の存在を散々言い触らしていたらしい。
続いてソリテールが南の勇者を指した。
「その隣が娘の婿。フルーフの義理の息子に当たるわ」
「畏まりました。お名前は――」
「南の勇者」
事務官の羽ペンが、完全に止まった。
周囲に残っていた者たちの動きも、見事なほど同時に固まる。
数秒遅れて、最初の一人が掠れた声を出した。
「……は?」
ソリテールは不思議そうに首を傾げる。
「南の勇者よ。今の若い子は、知らないの?昔は、人類であれば誰でも知っているくらい、認知されていたと思うけれど」
「はぁ!?南の勇者!?」
驚愕の声が広場へ響いた。
離れかけていた戦士たちまで振り返る。
事務官は手帳と南の勇者の顔を何度も見比べ、別の男は口を半開きにしたまま動かない。
魔王軍と人類の戦争が続いていた時代。
魔王軍を相手に一人で戦い、魔王の腹心であったシュラハトと相討ちとなって死亡したと伝わる人類最強の勇者。
知らぬ者など、ほとんどいなかった。
南の勇者は、その反応を満更でもなさそうに受け止めた。
「その南の勇者で間違いない。今はただのヘルトだがな」
年老いていない若い姿が疑念を招くかと思われたが、ここはシンビオシスである。
外からフルーフに連れられてきた人間の大半、特に年老いていたり、欠損のあった人間は、若く健康な身体へと交換されている。
見た目と実年齢が一致しない住民は珍しくなく、三十代の姿で孫や曾孫を持つ者さえいる。
年齢で考えれば、南の勇者と同じ時代を生きた人間が、その場に混じっていても不思議ではなかった。
「まさか、本当に……」
「南の勇者様……!」
俄かに人の輪が戻り始める。
その一方で、アウラはさらに奇妙な目に遭っていた。
事務官の一人が彼女の前へ進み出て、両手で握手を求めたのだ。
「フルーフ様のお嬢様ですね。ようこそ、シンビオシスへ」
「え、ええ……どうも」
戸惑いながら応じると、今度は別の住民が頭を下げる。
「いつもフルーフ様にはお世話になっております」
「はぁ……あの、お母様がねぇ……」
どんな世話を焼いているのかは分からない。
だが次々と感謝や歓迎を向けられ、アウラは困惑しながら握手を返していく。
以前、結婚式を遠くから眺めた時にも感じていたが、この街の住民がフルーフとソリテールへ向ける熱量は、明らかに尋常ではない。
ただ一つ理解できたのは、母がこの街で築いたものは、建物や土地だけではないということだった。
南の勇者が、耳元へ低く囁く。
「君の母は、随分と好かれているようだな。前回はソリテールの黄金像に意識を取られ、カルト集団のようだと思いもしたが……」
「ええ……想像以上にね。アレは……おめでたい日だったから、ってことにしておきましょう」
アウラは、次の握手へ応じながら小さく息を吐いた。
◇◇◇
――領主の館、客間。
長机を囲むように椅子が並べられ、シンビオシスの重役たちが集められていた。
車椅子に座るソリテール。
その隣にリーニエとアインザーム。
向かいにはアウラと南の勇者。
少し離れた席には、丸い色眼鏡をかけた魔族、ツルギが座っていた。
腰には、赤黒い肉塊と眼球を纏った異形の剣――サヤが下げられ、触手で手を振っている。
さらに窓際の長椅子へ、ミリアルデが気怠そうに腰掛けていた。
その右手には、古びたぬいぐるみが鷲掴みにされている。
指が深く食い込み、縫い目から綿が覗きそうなほど押し潰されていた。
リーニエは全員が揃ったことを確かめると、アウラと南の勇者を順に指差した。
「これ、私の姉と義弟」
二人と初対面のミリアルデへの紹介は、それだけだった。
「雑過ぎではないかね。私は、別に構わんが、伝わるのか?」
「分かればいい」
ミリアルデは無言でOKサインを手で作る。どうやらわかったらしい。
アウラは溜息を吐き、ツルギへ向き直った。
アウラと南の勇者は、グラナト伯爵領の復興を手伝うなかで、アインザームやツルギと数か月を共にしていた。
そのため互いに気安さがあり、ツルギとの挨拶も再会を確かめる程度のものだった。
ツルギは椅子から立ち上がり、アウラへと丁寧に一礼する。
「改めまして。この度はご無事の訪問、何よりです」
「ええ、久しぶり。ツルギ」
南の勇者とも握手を交わす。
その振る舞いは、工場を預かる責任者らしく、隙のない社会人そのものであった。
ミリアルデは椅子から立ち上がらず、二人へ軽く目を向け、必要最低限の興味だけを示す。
「呼ぶ時に困るわね。名前は?」
「アウラよ」
「南の勇者……いや、ヘルトで構わない」
「そう。私はミリアルデ」
片手を軽く振り、彼女の挨拶は終わった。
「それと、これはクヴァール」
ミリアルデが右手を持ち上げる。
ぎちぎちと頭部を締め上げられたぬいぐるみの中から、愉快そうな笑い声が漏れた。
「ぐはは……久しい名を聞いたものだ。断頭台のアウラ。それに南の勇者か」
「クヴァール……貴方生きていたの?」
アウラの眼差しが細くなる。
南の勇者も、笑みを消してぬいぐるみを見た。
互いに面識はないが、それでも名前だけなら、知らないはずがない。
魔王軍の中でも古参に属し、前線で数え切れない人間を殺した魔族の名だ。
人を殺す魔法を生み出し、人類の戦線を幾度も崩壊させた存在。
そしてクヴァールもまた、二人の名を知っている。
「まさか、シュラハトを殺した者同士が夫婦となり、魔王軍を裏切った七崩賢の一人がフルーフの娘であったとはのぉ」
身体を歪められながら、クヴァールは笑い続ける。
魔王軍の仇。同胞の敵。
そういった感情は、その声のどこにもなかった。
クヴァールは元より血の気が多い魔族ではない。
人間を数多く殺したのも、戦争そのものを楽しんでいたからではなく、自身の魔法を磨き、研究するためだった。
復讐も仇討ちも、彼にとっては興味の外にある。
ただ、新しい事実を知り、それを面白いと感じているだけだった。
アウラと南の勇者も、武器へ手を伸ばさない。
二人は既に、魔王軍と人類が殺し合う舞台を降りた身だ。
今さら過去の人類を代表し、犠牲者すべての仇討ちを口にするつもりもなかった。
何より今は、感情的な都合によって不和を生じさせている場合ではない。
アウラは、クヴァールの魂を静かに観察する。
そして、僅かに眉を上げた。
――何、この状態。
クヴァールの魂は、原型を留めない程に弄られていた。
本来なら魔族の核を成しているはずの魔力は剥がれ、構造そのものにも複数の細工が施されている。
肉体をぬいぐるみへ置き換えられているだけではない。下手に抵抗すれば、何か別の仕掛けが起動する可能性すらある。
誰がやったのかは、考えるまでもない。
フルーフかソリテール。あるいは両方だろう。
「……まあ、自業自得なんでしょうね」
アウラが呟く。
「何がだ?」
「何でもないわ。今の貴方を見て、少し納得しただけよ」
クヴァールは愉快そうに笑うだけで、深く追及しなかった。
◇◇◇
ツルギの視線が、何度もフルーフの空席へ向かう。
次にソリテールの失われた右腕、縫合された右目、欠けた角へ移り、また空席へ戻る。
鞘に埋まったサヤの眼球も、ソリテールを見つめていた。
その視線に気づき、ソリテールは左手を机へ置く。
「説明を始めるわ」
その一言で、全員の注意が集まる。
「とはいえ、私が口で順番に話すより、もっと便利な方法があるでしょう?」
ソリテールはアインザームへ顔を向けた。
「アインザーム。私の記憶を読んで、共有してくれるかしら」
『構わないのか』
「ええ。今だけ、精神防壁を解くわ」
ソリテールは目を閉じ、自身の精神を囲っていた防壁を意識的に取り払った。
薄い霧が、アインザームの足元から広がる。
白い筋が机の脚を這い、車椅子の下へ潜り込み、やがてソリテールの身体を包んでいく。
霧が額へ触れた瞬間、アインザームの眉間が僅かに動いたが、何も言わない。
ソリテールの記憶へ深く触れ、記憶を読み取っていく。
必要な範囲の記憶を読み終えると、アインザームの霧が部屋全体へ広がった。
白い靄が全員の足元を満たし、意識の境界が薄れた。
ソリテールの視界に映った景色、耳が拾った音が……濁流のように全員の脳裏へ叩き込まれた。
やがて幻影が終わり、現実の輪郭を取り戻した。
共有されたのは、あくまでソリテールが見聞きした記憶だけだ。
彼女自身が何を考え、何を感じ、どのように判断したのかまでは伝わっていない。
しかし、暫しの間、誰も口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、ソリテールだった。
「半年後。私はオイサーストへ戻るわ。待たせている、奥さんを迎えにね」
左目だけで全員を見渡す。
ソリテールの声は、静かだった。怒りも、憎悪も、錯乱した様子もない。
ただ、雨の日に傘を持って迎えにいくような日常の延長、そんな響きだ。
ツルギは指先で剣の柄をトントンと叩き、サングラスの奥で目を伏せる。
ミリアルデは表情を変えなかったが、クヴァールを掴む指の力が僅かに強まった。
リーニエは椅子へ深く座ったまま……リンゴ酒を飲み始めた。
南の勇者もアウラも、言葉を挟まずソリテールを見据えていた。
だが全員の意識は、一つの記憶へ引き寄せられている。
黒いフードを纏った怪物。
ゼーリエの魔法を素手で握り潰し、圧倒的な魔力を放ち、ソリテールたちを逃がした異形。
ソリテールは左手を上げた。
「質問があるなら、手を挙げて。分かることなら何でも答えるわ」
クヴァールを除く全員が、同時に手を挙げた。
ソリテールはクスクスと笑う。
「怪物について?」
全員が頷くが、クヴァールだけが何の反応も示していなかった。
ソリテールは首を傾げ、ミリアルデの掌の中で潰されかけているぬいぐるみへ目を向ける。
「クヴァール、貴方は気にならないの?」
「そうでもない」
「もしかして、会ったことがある?」
冗談めいた問いだった。
だがクヴァールは、何の気負いもなく答える。
「あるぞ」
ソリテールの笑みが消えた。
「どこで?」
声が一段低くなる。
クヴァールはミリアルデの指に頭を潰されながら、遠い過去を思い出すように語り始めた。
「千年以上前の話だ。まだフルーフが魔法どころか、魔力すら碌に扱えなかった頃だったのぉ」
人間の教会で、無意味な拷問を繰り返し受けていた不死者。
クヴァールはその存在を知り、実験体として攫った。
「契約を結ぶ必要など、本来はなかった。だが抵抗されるより、契約満了を目指して自ら協力してくれる方が、実験も研究も効率よく進むからのぉ」
そして契約は満了した。
予定していた実験はすべて終わり、クヴァールは約束どおりフルーフを解放した。
だが、手放した直後になって惜しくなった。
何度死んでも蘇り、壊しても元へ戻る実験体。
魔力の供給源としても、魔法の検証材料としても、これ以上便利な存在はない。
「まだ使える。今後も研究へ役立つ。そう考え追いかけ――」
再び契約を結ばせるために。
今度は期限などない。永遠に。
「その時に現れた」
クヴァールの前へ落ちてきた、黒いフードを纏う怪物。
フードの奥には巨大な翡翠色の眼球が浮かび、その手には肉と骨で形作られた巨大な戦斧が握られていた。
「奴は、当時の儂の魔法を存在せぬかのように切り裂いた。儂の四肢も、その斧でまとめて切り落としおった。全快するまで、随分と長い年月を要したものだ」
クヴァールは愉快そうに笑う。
「そして、手にしていた戦斧には紫苑色の眼球が蠢いておった。その眼が、じっと儂を見据えておったよ」
クヴァールはミリアルデの掌から身体を抜き出すと、綿の詰まった小さな身体を宙へ浮かせ、ゆっくりと身体の向きを変えた。
「丁度、今のお前が儂を見ているようにな――リーニエ」
リーニエは紫苑色の瞳でクヴァールを見つめる。
客間に沈黙が落ちた。
ソリテールとアインザームは、納得するように同時に目を閉じた。
クヴァールが封印から解き放たれた、あの丘。
あの時、クヴァールはリーニエの技へ、僅かな既視感を覚えていた。
今のリーニエと、千年以上前の怪物。
技の冴えには天地の差があれど、斧の軌道も、魔力を纏わせる癖も、余りにも似通っていた。
クヴァールは、ソリテールが何かを言うより先に答えへ触れる。
「どのような過程を経たのかは知らんが」
彼はソリテールへ振り返った。
「あれは、ここにいる全員を一つの形へ押し込めた、混合獣のようなものではないのか?」
大きくは外れていない。
ソリテールにはそう思えた。
だが、ソリテールは本当の答えを持っていない。
あの怪物が未来の自分自身、遥かな時間を越えてきた存在であること。そこまでは推測できる。
行おうとしている計画も、ある程度の予想が立てられる。何せ自分自身のことだ、分からないはずがない。
だが、何を考え、何を行い、どのようにあの姿へ至ったのか。
過程と詳細を知っているわけではない。
この場で唯一、その答えに近いものへ触れた者がいる。
ソリテールはアインザームを見た。
「アインザーム。貴方なら知っているはず」
全員の視線が、霧の魔物へ集まる。
「あの時に見た記憶を、共有して」
アインザームは静かに頷いた。
『心得た。だが、先に断っておこう』
彼はすぐには霧を広げず、集まった者たちを見渡した。
あの怪物の精神は、あまりにも密度が高く、幾千、幾万もの意思が、互いに噛み合わぬまま一つの器へ押し込められていた。
まるで精神の濁流のように渦巻き、犇めき合っていた。
アインザームがその精神に触れたのは、ほんの僅かな時間にすぎない。
にもかかわらず、一瞬で自我が呑まれかけた。
数え切れないほどの人間や魔族の記憶を覗いてきた彼にとっても、初めての経験だった。
『故に、掬い上げられたものは、その記憶のごく一部にすぎぬ』
読み取れたのは、怪物がこの時代を目指して旅立つ以前――ソリテールがまだソリテールとして存在していた頃の、短い記憶の断片だった。
『真相そのものを示すものではない。されど、答えへ至る道標にはなろう』
「それでも構わないわ」
ソリテールは迷わず答えた。
アインザームは客間にいる者たちを順に見た。
『拾い上げた断片は、可能な限り等しく汝らへ渡そう』
白い霧が、彼の足元から立ち昇る。
机の脚を這い、椅子の下へ潜り込み、全員の身体を包み始めた。
視界が少しずつ白く霞んでいく。
部屋の壁も、窓も、互いの姿も輪郭を失い、意識と意識の境界が溶けていく。
遠い過去。
あるいは、遠い未来。
まだ始まってすらいない始点の記憶が、霧の奥から静かに浮かび上がり始めた。
次回は未来編をやる予定なんですが、軽く1話で終わらせます。本来は外伝だった部分ですが、もう外伝はやらないので、サクっと終わらせます。