年度代表ウマ娘の表彰式を終えたシンボリクリスエスは、三女神の噴水前でDOGEZAをしているウマ娘ちゃんヲタクと邂逅する。

一つのぱかプチ、一つの使命。
訳ありな人形を巡り、彼女はトレーナーと心を通わせる。

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上善は水の如し

creepy──不気味で

& seedy──レースには向いていない。

 

 無表情で口下手、そして体が弱かった私にとって、同級生から向けられる言葉はそのようなものばかりだった。純粋な悪意に対して私はただ木偶の坊のように立ち尽くし、その実、彼らと同じように幼かった心は傷ついていたものだった。

 

 一つの言葉をかけられると、沢山の言葉が頭の中に思い浮かぶ。果たしてどれが返答として適しているのか考えていると、いつのまにか相手は苛立った顔になっている。そうすると今度は焦りを覚え、沈黙を間延びさせ、やがて目の前から相手は消えてしまう。

 

 何も感じていないわけじゃない。しかし、伝えたいことを待ってはもらえない。

 

 だから私は言葉を諦めた。そんな私を癒してくれたのは、ただ走ることだけだった。勝っても負けても、結果は必ず現れる。走りは単純な二択という雄弁な言葉を持っていた。それだけが私にとっての他者との関わりだったのだ。

 

 しかし私は……それすらも、ままならない。身長はあれども線の細い体は疲れやすく、言葉を捨てたせいで「少し休めばまだ走れる」と上手く伝えられなくて、同級生の半分程度のトレーニングしかさせてもらえない。

 

 走りはいつしか言葉を失い、好きなことも伝えられない自分の全てが嫌になりかけていた、そんなある日。私は白人でも黒人でもない、不思議な肌の色をした大人に声をかけられた。

 

 首筋や手にくすみやシワがなければ、ハイスクールの学生かと見間違えたかもしれないほど若く見えた。周囲の大人に比べて小柄だったその人は、遠い島国からやってきたのだとニコニコ笑いながら語った。

 

 私たちの周りをウロウロ歩き回っては、時折話しかけてくる。そんな姿を見て、私を含めた子どもたちはweird──不気味だと怯えていたのを覚えている。

 

 だが、どうだろう。子どもたちが存在に怯えながらも彼の指導の通りに体をうごかせば。その走りはみるみる上達した。今日は疑念に終わり、明日には優れた指導者であることが確信になる。いつしか子どもたちは異国の彼を"師匠"と呼ぶようになり、輝く瞳には真剣な眼差しが宿り、それと同じくらい、絶え間ない笑い声がターフの上に響き渡るようになったのだ。

 

 得体の知れない存在だった者が一つの集団に認められていた。そんな光景を目の当たりにした私は、自分と彼の違いを感じながらも、その正体を掴むことはできなかった。目立たない様に──その頃から身長はあったので土台無理な話ではあるのだが──師匠を観察し続けていれば当然、細く小さな目と視線が合った。

 

 アップを終えただけで息を切らしていた私の目の前で、彼は膝をついて笑顔を見せ、そして「時間がかかっても良い。みんなと同じトレーニングをしよう」と語りかけてきた。

 

 無口なウマ娘にジロジロと見られて気持ちが良いはずはない。しかし、その笑顔の裏を想像する前に驚きが隠せなかった。

 

 口に出さずとも私が望むことを言い当ててくれた人は初めてだったから。おずおずと、時間をかけて、なぜ私の気持ちがわかったのか尋ねてみると、師匠は私の頭を撫でて朗らかに笑った。

 

「走りたいって気持ちが伝わってきたからね。だってキミは、どれだけ疲れていても絶対に座ったりしないだろう?」

 

 息を切らし、柵に手をつけても。私はいつだってターフを見つめていた。心配して日陰まで抱えてくれたコーチの肩の先に見える、同級生たちの背中を、ずっと頭の中で追いかけ続けていた。

 

 クリスエスはここにいる。そう主張することが私には難しい。上手く周囲に馴染めず、陰鬱になりかけていた私は、師匠の言葉にどれだけ救われたことだろう。

 

 師匠はすぐにコーチに私の気持ちを伝えてくれた。理解を得た私はトレーニング時間を大幅にとれるようになり、それを一つずつこなす事で、再び結果が生まれるようになった。そしてその結果はクラブの同級生たちに認められ、ついには私という存在も認められるようになった。

 

 他者と触れ合えば、私の心も変化していく。しかしそうなると、欠如したコミュニケーション能力が顕らになる。師匠はまたも、笑ってくれた。

 

「言葉が上手く伝えられなくても良い。クリスエス、キミは結果で語りなさい」

 

 師匠にそう教えられると、心の底から安心できた。師匠はいつだって私の気持ちを汲み取ってくれた。だから沢山、甘えに甘えてしまったように思う。

 

 彼には大切な使命があることを知らず、無邪気に、だ。

 

 師匠の帰国の日がやってきた。私は勇気を振り絞り、自分の言葉で行かないで欲しいと伝えた。彼は来た時から変わらない笑顔で、袖を引いていた私を抱き上げてくれたことを今でも覚えている。

 

 停滞した日本のレース界に革命をもたらすための火種を探すためにやってきた。海外のレースクラブを訪れ、指導技術の見地を広げ、そしてきっかけとなり得る外国のウマ娘と交流しているのだと、教えてくれた。

 

 まったく理解はできていなかった。しかしその時の師匠の瞳は、まるで私のようだった。伝えたいことがある。成し遂げたいことがある。でも、この想いを誰にも認めてはもらえないという絶望の淵にいる。

 

 別れることはすごく寂しかったけれど、師匠にも私が変わったような"結果"が必要だということだけはどうにか理解できた。

 

 だから、去り行く彼をいつまでも見送るしかなかった。アメリカには両親がいる。ようやく気持ちが通じた友人がいる。何より彼の国は……遠かった。着いていくことを思いついていたとしても、実行はできなかっただろう。

 

 母国のレースで結果を残し続けた、数年後。同じ空港に一人の異国のウマ娘がやってきた。

 

 圧倒的な走りと、革命という言葉とともに。

 

 私を見つけたのは師匠の推薦があったからだと言う。つまり私は──師匠が広い海を渡り、見つけようとした火種になるチャンスを与えられた。

 

 脆さは残るが、力強くなった肉体。結果を得たことでぶれない精神を手に入れた私が、躊躇うことはない。

 

 何よりも、師匠の結果になりたかった。

 

order──使命。成すべきこと。

 海外産まれのウマ娘として、日本のレース界に革命を起こす。シンボリクリスエスというウマ娘が、停滞した世界の革命の火種となる。

 

 それは私が私のままで良いと教えてくれた師匠への恩返しであり。

 私自身が残したい結果となった。

 

 

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「危ないよ」

 

 顔を上げたクリスエスの目の前に電柱が現れる。反射的に長い腕を支え、彼女が大味に身を交わすと、その分の距離をとっていたトレーナーは小さな笑みを浮かべていた。

 

 口元から白い息が立ち昇っていけば、見慣れている信号が赤色に染まっていたので脚を止める。一年の季節の中でも、特にゆっくりと日々が過ぎていく頃だ。クリスエスは学園指定のウィンターコートの袖を顎にやり、揺れる前髪の下で目を伏せた。

 

「考え事を、していた」

「ちゃんと話せたか、とか?」

「YES──表彰式よりも、緊張していた」

 

 本日、シンボリクリスエスは天皇賞秋を連覇を含む圧倒的な戦績で年度代表ウマ娘に選ばれた。つい数時間ほど前まで大変栄誉ある授与式が開催されたわけなのだが、彼女が憂いでいるのは何も記者に向けてのインタビューの内容ではない。

 

 クリスエスへのサプライズとして、彼女が幼少時に慕っていた師匠──シンボリ家の重鎮が表彰式へ招待されたのである。

 

「師匠が現れた時。心臓が止まるかと思った」

 

 それは在日期間を含めれば、十年ぶりに近い再会であった。クリスエスはしばし言葉を忘れてしまい、ただマジマジと師匠の顔を見つめるだけだった。トレーナーが間を取り待つと、今度は英語だけしか喋ることができなくなってしまうという、なかなか珍しい動揺ぶりを見せた。

 

「最後の方は上手く話せていたと思うよ」

 

 小さく頷いたクリスエスは、携帯電話を取り出す。夕焼けに応えるように光り輝く待受画面には、師匠とのツーショット写真が設定されており、彼女はそれを静かに脈を打っている胸へと押し当てた。

 

「ありがとうと、言ってもらえた。感謝をするべきなのは私の方だったのに」

「使命を果たそうとしたクリスエスの気持ちが結果として伝わったんだ」

「ああ……ようやく一つ、あの人へ恩返しができたのだと思う」

 

 待ち受け画面のクリスエスは真顔のままだが、覗き込んだトレーナーは大きく頷いてみせる。感情の全てを胸の内に留めてしまうせいで「冷たい巨人」とも称されている彼女の頬は、毎日見ていないとわからない程度だが、それでも確かに緩んでいた。

 

「喜んでもらえて良かったよ」

「師匠はとても、忙しい。scheduleの調整も、トレーナーが頑張ってくれたのだろう?」

「それは……」

 

 実はクリスエスの担当になってから、彼女が師匠と慕う人物と顔を合わせる機会は常に探っていたトレーナーだったが、何せ相手は日本のレース界の重鎮である。本人の意向以前に、その周囲の関係者から門前払いを食らうばかりだったのだ。

 

 それこそ年度代表ウマ娘の担当トレーナーという"格"がなければ、今日のサプライズも不可能だっただろう。つまり全てはクリスエスが自分自身の力でもたらした奇跡だった。

 

「俺は何もしてないよ。クリスエスが日本のレース界に革命を起こしたから、あの人を招くことができたんだ」

 

 信号が変わり、トレーナーはトレーニングやレース本番の時とはまた違う疲れを噛み締めながら横断を始める。しかしなぜか、クリスエスは棒立ちをしたままだった。

 

「クリスエス?」

 

 声をかけると、初めの一歩が地響きが起こるほど力強く、クリスエスはそのまま大股で瞬く間に歩道を渡り切る。そして呆気に取られて立ち止まっていたトレーナーへとチラリと視線を投げかけてきた。

 

 彼女は何も言葉に出さない。見つめてくるクリスエスの心境を、珍しく理解できないトレーナーが考えこんでいると、信号が点滅してしまい、打って変わって彼の方が急かされたのだった。

 

 

2

 

 ウマ娘の早足は男子高校生の短距離の全力疾走にも勝る。そのため沈黙してしまったシンボリクリスエスの気持ちを読み取ろうとしても、グイグイと先へと行ってしまう彼女に追いつくために必死に走っている状況では、イベント中は緊張して食事に手をつけられなくてお腹が空いているとか、あるいは恩師に出会った喜びで走りたくて堪らないのだという、あまりにおざなりな二択しか思い浮かばなかった。

 

 検討外れも甚だしい。実際のところクリスエスの心模様は、

 

(なぜトレーナーは自らの行動を評価しない?)

 

 ただそれが理解できずにいて、ぱっぱっかと足が進んでしまう。

 

 異邦人として、謙虚さを美徳とする文化はもちろん尊重したいものなのだが、

 

(でも……トレーナーは別だ。正しく、自分を評価するべきだ)

 

 それをどう伝えれば良いのかわからないままで、それでは話ができないが故の無言を貫いていた。

 

 トレーナーを置き去りにしたクリスエスは、あっという間にトレセン学園の敷地内に足を踏み入れた。ランニングのために出ていく生徒とすれ違ったことで、自らがそれなりの速度を出していたことに気づいた彼女は、チラリと振り返り、トレーナーを待つ。

 

「ぜぇ、ぜぇ……クリスエス……待って!」

 

 夕焼けに伸びる影に対して、漂う気持ちをどう伝えれば良いのか口下手な彼女は思いつかない。息絶え絶えの声に、反射的に足を動かそうとして──

 

「クリスエ……」

 

 前方からトレーナーとは別の声が聞こえた彼女は、視線の先にある三女神像の噴水を凝視する。

 

 不可解な声には覚えがあった。過去に二度、誰かに呼ばれた気配を感じて、その噴水まで足を運んだのだ。

 

 一度目はクラシックロードへの挑戦。そして天皇賞春への挑戦。まるでレースへの吉兆を占うかのような声は、言葉では言い表せられない強さを彼女に与えてくれた。

 

(……ならば、心の伝え方も。あるいは)

 

 不気味に思うことはない。クリスエスはようやく追いついたトレーナーに対して再びの試練を与え、自分を呼ぶ声の元へ急ぐ。

 

 そして。

 

「申し訳ありませんんんんっ!!」

「このデジタルこそ一生の不覚!! 同志ぃ……すみません。ほんとうに……役立たずで……!!」

 

 噴水の裏で、ウマ娘たちがジャパニーズドゲザをしている光景を目撃した。[newpage]

「What in the hell……?」

 

 よく見れば、片方はかつて競いあったこともある芝とダートのオールラウンダー、アグネスデジタル。レース外のクリスエスの評価は、話しかけると極度の緊張を見せるものの、それを圧倒的な言語処理能力で捲り上げる高いコミュニケーション能力を持った存在だ。

 

 もう片方は分厚い眼鏡をかけた、見知らぬウマ娘……ではない。トレセン学園の制服に身を包んでいるが、よく見ればその耳はつけ耳だった。

 

 二人のことを無感動に見比べていたクリスエスは石畳に額を擦り付けている二人に大きな影を下ろす。

 

「お前たち」

「ひょわ?!」

「んびゃ?!」

 

 小柄な少女たちが全く同じタイミングで飛び跳ね、真似のできそうにない手の動きで防御姿勢を取り、そして驚きに満ちた瞳で彼女を見上げる。

 

「こ、これはクリスエスさん!! お見苦しいところを!! 表彰式お疲れ様でした!! 不肖デジタル、観覧応募したのですが、悉く外れてしまい、駆けつけることは叶いませんでした……とてもとても無念でしたが、イベントに参加できたラッキーなこの同志が送ってくれた写真をあとで拝見させていただきます!!」

「……同志?」

 

 デジタルの瞬発的な切り替え能力はやはり目を見張るものがある。そう再認識しながらクリスエスは、もう片方のこっちは視線がちょっと不味いかもしれないウマ娘もどきを見つめた。

 

「表彰式に来たのか」

「は、はい! 年度代表、お、おめでででとうございましっゅ!!」

「thanks」

「ほ、本物……本物だぁ……うへへ……!」

「ああ!! 同志!! 帰ってきてください!! ほら、推しが目の前にいますよ!! ほら!」

 

 彼女のショルダーバッグにはクリスエスのぱかプチが本物通りの真顔を見せているので、どうやらクリスエスのファンらしい。しかもほとんどが記者席かつ、いくつか候補者の集まる表彰式の一般観覧に当選したとは、余程の豪運の持ち主だと言える。

 

「……はっ?!! お、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません!! というか通行の邪魔ですよね?!!」

「ささ、どうぞどうぞ!!」

 

 シンクロした二人は両脇に滑るように移動して道を譲ってくれたので思わず進みそうになったクリスエスであったが、ピタリと脚を止める。

 

「お前たち。私の名前を呼んだか?」

「ぴぇ……?!」

「あばば……あ、あの……決してやましいことをしていたわけではなく、我々はウマ娘ちゃんを愛する同志であり、清く正しいヲタ活相談を受けていただけでありまして……!」

「も、物は正しい価値で手に入れなければ、思い出や推しに近づける喜びよりも金銭がチラついてしまうことも、きちんとわかっておりますが故!!」

 

 クリスエスの耳が大きく揺れ、鋭い眼差しがヲタクたちを貫く。彼女にとって使命や義務、価値という、"他者から与えられて初めて意味の生まれる"概念は、幼少時から培われた自らの生き方に直結していた。

 

「正しい価値、とは?」

「はうぁ?!」

「同志っ!! 本物ウマ娘ちゃんに会えたことで気が緩みすぎですぞ!!」

「す、すまぬ……ですぅ」

 

 気まずそうにあちらこちらへ視線をやっているヲタクたちの言葉を待っていると。

 

「はあ、はあ……!」

 

 ようやく追いついたトレーナーが力尽きたように噴水の縁に座り込んだ。真冬だというのに額の汗を拭った彼は、仁王立ちをして問い詰めているクリスエスと、ウェルカムなポーズのまま彼同様に顔色が真っ青になっているデジタルたちに目を丸める。

 

「……えっと。これは、どういう状況かな?」

 

 口下手なウマ娘に、ウマ娘ちゃん大好きウマ娘とテンパリを見せる一般未成年ヒトメスヲタク。その中でアグネスデジタルは大好きなウマ娘ちゃん相手だと緊張してしまうわけだが、実は人見知りというわけではなく、ウマ娘ちゃん以外にはまともな受け答えができる常識人であった。

 

「えっと、ですね。説明しますと……」

 

 ことウマ娘ちゃん相手でも、その間に一般成人男性および女性を挟み込めば、それはそれは流暢に言葉を紡ぎ出すことが某実験大好きウマ娘により解明されている。

 

 さて、冷静さを取り戻したヲタク一名によると。アグネスデジタルに同志と呼ばれていた少女は彼女の学園外部の友人であり、着ていた制服は体躯の似ているデジタルから借り、今日一日トレセン学園の生徒として過ごしていたとのことだった。

 

「授与式からそのままトレセン学園に来るなんて、なかなかハードなスケジュールだね」

「いいえ。ウマ娘ファンにとって、トレセン学園は聖地なのですから、多少の無理はなんのそのですよ!」 

「学食、ジム、プール、そしてグラウンド! トゥインクルシリーズで活躍するウマ娘たちをあらゆる角度から支える聖地の巡礼を余すことなく案内することはヲタクとして当然の責務! ああ! 案内せずにはいられない!!」

「はは、その通りだね」

「むふー!! わかっていただけますか!!」

「俺も新人だった頃は学園の全てが輝いて見えたからね」

「さすがでございます……しかし、ただ案内するデジたんではござあせんよ? とっておきのサプライズ……なんと! ウマ娘ちゃんたちのプライベートな空間──寮へと案内したのです!!」

「わー! さすがデジちゃん! よっ、オールラウンダー! 芝もダートもいっちゃってぇ!」

「まかせたまえよbyタキオンさん!」

 

 興奮している彼女によると、その同室のアグネスタキオンの許可は「ふぅン。まあ構わないさ。君たちの入室時の反応、そのすべてを録画しておいてくれるのならねえ」と簡単に降りたようで。兎にも角にも夢のような空間だったことは間違いないのだろう。しかも興奮のあまり騒がしいヲタクになった時、通りかかったフジキセキが爽やかに注意をしに来たことすら有り難かったらしい。

 

 そして最後には年度代表の授与式に足を運ぶほどの推しである、シンボリクリスエスに会えたのだ。同志ウマ娘氏にとって人生最高の一日なのは間違いないだろう。

 

「おほん。それはさておき、です。私同様に推しに囲まれる感謝の土下座していた同志は、ベッドの下に隠されているの秘蔵のお宝を見つけてしまったのです。そして、そのうちの一つが! 彼女がこの数年、探し求めた物だったんです……!」

「はい! ずっと探していたんです。シンボリクリスエスの初代ぱかプチを……!!」

「ぱかプチ……?」

 

 顎に手をやったクリスエスの脳内では電子音の「ウマぴょい伝説」が流れ始める。ばかプチとは全国のアミューズメント施設に設置されているクレーンゲームで取れるぬいぐるみであり、クリスエスはもちろんデジタルのようなトゥインクルシリーズで実績のあるウマ娘をモチーフにして提供されるロングセラー商品だ。

 

「クリスエスさんの初代ぱかプチは、秋葉原のどこのショップにも存在しない、本当に本当にレアな物でして。本物を見たのも初めてだったんです。だから無理だと思いながらも、デジちゃんに譲ってもらえないかとお願いしたんです」

「それでDOGEZAを……」

 

 初めて見た生の土下座に感慨深くなっているクリスエスの目の前で、同志が涙を募らせていく。

 

「どうした?」

 

 クリスエスの呼びかけなど聞こえておらず、彼女はデジタルにしがみつく。すると、デジタルの大きな瞳から涙が流れ出す。

 

「ああ……なんて私は醜いんだろう。うう、ごめんねデジちゃん……!!」

「己が推しを求める気持ち。わかる……わかりますよ、同志……!! でもあれは……デジたんのヲタ道そのもの。だから譲るわけにはいかぬのです!!」

「うんうん、そうだよね……わかってる……わかってたのに、でも私……結局譲って欲しいなんて……デジちゃん、傷つけて……ごめんねえ!!」

「もっと早くに同志と巡り合っていたのなら……!! うおおおおっ!! 死に物狂いで2個取ったというのにぃ!!!」

「うわあああん!! そんなことないッ!! あれなんか急にアームが加速したり転がして落とすと店員が首を振って回収したりするしゲットするの大変なの分かってるもん!! つかんなことよりデジちゃんと出会えて私は幸せだよぉぅ!! 今日一日、本当に本当に楽しかったよおおぉ!!」

「うおおおおん! デジたんもぉぉぅ!!! 感謝!! この出会いにひたすら感謝ぁぁ!!」

 

 おいおいと涙を流して目の前で抱き合う二人。クリスエスは無感動な視線を投げかけており、直線かけていく短距離ウマ娘の如き有頂天ぶりに、トレーナーも苦笑いをして見守るしかない有様だ。

 

「トレーナー。これは……」

「友情……かな」

「これも、そうなのか」

「……たぶん」

 

 しみじみしていたクリスエスが、デジタルの真後ろに立つ。小柄な彼女と並べると、本当に同じレースを走った二人だとは到底思えないほどの違いである。

 

「それで。正しい価値とは?」

「い?!」

「それは……!」

「無駄だ。誤魔化せると思ったか」

 

 デジタルたちはピタリと泣き止み、ヲタク二人の間で意思疎通が行わられてしまえば、それがあまり話したくない内容……つまりはクリスエスにとって何か不都合な内容であることが素直な表情から伝わってきてしまった。

 

 予想はできている。それでもなお、クリスエスは決して有耶無耶にはしないことを選ぶ。

 

「アグネスデジタル」

「わあ?! はい、アグネスデジタルです!! 趣味はウマ娘ちゃん鑑賞! 推しは全員!! 夢は芝とダート両方走ることです!!!」

「知っている。そうではなくて……I see」

「え、あっ」

「覚悟は、できている。だから正直に全てを話して欲しい。例え私が傷つくようなことでも」

「でも……」

「よろしく頼む」

「うう……」

 

 頭を抱えたデジタルを庇うように、泣き腫れた顔の同志がクリスエスと相対する。その瞳は真っ赤になりながらも、推しに力強い眼差しを向けている。

 

「……あの! 私が、始めたことですから。私がちゃんと説明します」

 

 大きく息を吸うと、同志は携帯電話の操作を始める。しばらくして画面に映し出されたのはなぜかマンハッタンカフェのぱかプチだった。

 

「……あれ?」

 

 トレーナーの声と同時にクリスエスもまた、そのぱかプチの違和感に気づく。

 

「お気づきになられましたね。このマンハッタンカフェさんの瞳の色……どういうことか燃えるような赤色なんです」

「……製造ミスかな?」

「はい。レアなぱかプチには二つ種類があるんですけど一つがこのような製造ミスの商品です。ヲタクの間で有名なのは、この初版のカフェさんのぱかプチで、クレームが出たのか製造会社が自主回収をしてしまい、あまり世に出回りませんでした」

「だからpriceless……か」

「それで、もう一つが…………あくまで当時の、話ですけど」

 

 よく見ると眼鏡の下の整った顔立ちが、辛そうに歪む。

 

「クリスエスさんの初版のぱかプチは……当時は不人気で……あまり手に入れた人がいないという理由……です」

 

 ズシリと、クリスエスの胸に重いものが乗せられる。ぱかプチは勝手にUFOキャッチャーに並べられるわけではない。輝かしい戦績を残した、あるいは根強い人気のあるウマ娘をモチーフにしたいと企業から販売権利を持つURAへと話が進み、やがてトレセン学園を通して本人やトレーナーへと話が伝わっていく。

 

 クリスエスの初版ぱかプチが店頭に並んだのは、日本のレース界に存在を知らしめるために挑んだ一度目の天皇賞秋の後。劇的で圧倒的な快挙を成し遂げ、一躍スターウマ娘へとのし上がったと思われた彼女を待っていたのは……残念ながら冷たい意見ばかりだった。

 

 日本の敵。端的に、そのような扱いを受けたと言っても差し支えなかっただろう。クリスエスの強面な見た目のおかげで直接悪意のある行動を受けたことはなかったにせよ、SNS上では罵詈雑言を言いたい放題、レース場に漂う雰囲気は最悪で、それに対して栄光を残したタギノギムレットへの余燼が燻り続けていた。

 

 まさにクリスエスとトレーナー二人の覚悟が試されていた時代だった。

 

「でも!! ぱかプチはそもそもレースで活躍したウマ娘が選ばれるんですから、作られたことそのものに意味があるというか!! それにクリスエスさんの初版がとってもレアなのは、今この日本にあなた様の活躍を楽しみにしてる人が沢山いるってことでして……!!」

「はい! デジちゃんの言うとおりです!! つまり悔しいけど、転売されてしまうぐらい価値が認められたんです!」

 

 一方で、今では多くのトゥインクルシリーズのファンがクリスエスの走りを認めてくれている。だからこそ市場に出回らなかったクリスエスの初代ぱかプチの価値が高騰しているのだろう。

 

(正しい価値……)

 

 人が得難いほどに物に高い価値がついてしまうことは、その物自体の使命を全うすることを妨げている。デジタルが言ったように、適切な値段でなければ、

 

(may be……“幾ら支払ったのか"が思い出として残ってしまう)

 

 彼女はよく日の当たらない物の価値を見出そうとしてきた。そのため、光が当たりすぎることで誰の手にも届かず、またこれも使命を果たせなくなるとは、気づくことのできなかった概念であった。

 

 ヲタク特有の慌ただしさで一生懸命にクリスエスを誉めに誉める同志にクリスエスは頭を下げた。

 

「ありがとう」

「ひょえ?! いえ私などは当時から操作が下手過ぎて一つも取れなかった敗北者じゃけえなのでそんな恐れ多い……というか所作が綺麗ッ?!」

 

 さらに頭を深く下げる。

 

「Itemの有無は、重要ではない。お前は、私のぱかプチを求めてくれた。そして私に新しい価値の受け取り方を教えてくれた。だから、ありがとう」

 

 何かが裂けるような音が聞こえた。それが同志の鼻の音だとわかったのは彼女がポロポロと泣き始めてしまったからだった。

 

「ふあぁ……デジたぁんうぁぁぁ」

「なあに……どうし」

「クリスエスさんの、世界で一番カッコいい感謝だよー……」

「ねー……すごいなにこれ……テンションが上がりすぎて感情どっかいっちゃったよぉぉ……?」

 

 放心している二人はぐるぐると回り出してしまった。夕暮れ時は外回りに出ていたウマ娘たちが戻ってくるわけだが、片方がデジタルだと気づくと、これがまったく驚いた様子もなく真横を通過していく。

 

 そんな中、クリスエスはトレーナーに手招きをした。

 

「一度、部屋に戻る。トレーナーにはこの二人を見ていてほしい」

「帰ってくるの?」

「……ぱかプチを作ってもらった時。Sampleを、一つもらったはずだ。それを彼女に渡せば良い。私が持っているよりも、ずっと意味がある」

「ああ、それなら──」

 

「「ダメですっ!!!!」」

 

 噴水の水面すら揺らぐほどの大声に、トレーナーは飛び跳ねる。放心していたはずのヲタクたちが、打って変わって推しに対して怒気すら覚えているように迫って来ていた。

 

「どうした、お前たち……?」

「それはただのサンプルじゃないんです!! クリスエスさんが持っている子は"一番最初に人の手に渡った子"なんですよ!!?」

「いわば我が子!! それを手放すなんて言語両断っ!!」

「しかしお前は欲しいと言っ「それはそれ!!!! 絶対に他人に渡してはいけません!!!」」

「クリスエスさん、どうか誓ってください!! その子は決して!絶対!例え祇園精舎の鐘の音が聞こえたとしても手放さないと!!」

「わ、わかった。誓う(ぎおん……なんだ?)」

 

 善意を真っ向から否定してきたとんでもない剣幕の小柄なウマ娘にクリスエスが押され、頭の中に謎の言葉が漂って呆然としている様を見つめていたトレーナーは、その珍しさについ笑ってしまう。

 

 当然笑うべき状況ではない。二つの鋭い視線がトレーナーを貫くが、厄介なヲタクの視線を受けてもなお、彼の笑みは崩れなかった。

 

「えっと……クリスエスのぱかプチの初版ってニッコリ笑ってるやつだよね?」

 

 そして笑顔は、二人がちょっと女の子がしてはいけない笑い方を見せても続く。

 

「よく知ってますね! さすが担当トレーナーさん!」

「そうなんですよー、とっても可愛いんです!」

「うん。だって俺、持ってるからね」

 

 そんなアブナイ顔のままヲタクたちが固まる。撮影厳禁である。

 

「「は?」」

 

 およそ物腰の柔らかいデジタルたちが発したとは思えない圧が今度はトレーナーへと向けられ、二人は目を見開いて詰め寄って来てはいるものの、ふわりと甘い匂いがして、学生を指導する成人男性として相応の距離感を保とうと後ろに下がるのだが、いつの間にか眼鏡の少女が回り込んできていた。そしてそのまま抱きついてきたではないか。

 

「何を、持っているって?」

「え? いや……」

 

 クリスエスならばたじろく程度で済むが、一般成人男性よりは遥かに力は強いデジタルに両肩を掴まれると、骨は軋み、肺から息が飛び出す。そして勢いよく乾いた風に溶けていく──などと流暢なことは言っていられない状況だ。

 

「いてててて!!?」

「ど、どういうことですか?! さすがにデジたんも暴力を振るいますよ、暴力!」

「だからクリスエスのぱかプチを持って……」

「なんで?!」

「本当ですか?! あ、でもダメです! クリスエスのようにきっとそれもサンプルでしょ?!」

「いや、それとゲーセンで取った二体いるか──」

 

 自分の骨の音が、神経を伝って脳にまで届いたような気がした。

 

「「やったぁ!!!」」

 

「ク、クリスエス助けてぇ!!!!」

 

 喜びのあまりリミッターの外れたデジタルの抱擁により、アブナイ角度に背骨が曲がっているような気がした。さすがに割って入ろうとしたクリスエスであったが、なぜかその腕が静かに降ろされた。

 

「ク、クリスエス?!」

「すまない……二人の喜びの、邪魔はしたくない」

「えっ?!」

「だからトレーナー……耐えてくれ」

 

 不動の優しさがそこにはある。

 

 だから彼女のトレーナーとして男は悲鳴をあげて耐えるしかなく。

 

 数分後、たづなさんにより助け出された。

 

 

3

「本当にありがとうございますっ!!」

 

 トレーナー寮の廊下で、満面の笑みの小さなクリスエスの顔が、同じように満面の笑みの同志の頬擦りにより傾いている。長年求めていたクリスエスの初版ぱかプチを手に入れた彼女は歓喜のあまり、骨が軋むほど抱きつかれたあの後、とてつもないコワイ笑顔を見せながら走ってきた理事長秘書に怒られた距離感を簡単に飛び越えてくる。

 

 おかげ様でやや背中を負傷しているトレーナーは、クリスエスの肩を借りつつ、どうにかその猛烈なアタックをひらりとかわす。

 

「喜んでもらえて良かった」

「一生このクリスエス様のことを崇めて生きていますね!! 毎日手を合わせます!!」

「う、うん。気をつけて帰ってね」

「はい! クリスエスさん! 今度のレースも絶対見に行きますッ!!」

「レース場で、待っている」

「後楽園の特撮ショー〜〜っ!! んーーーっ"、やっぱりお二人とも最高っー!!」

「同志! 落としてはなりませんので、すぐさまこの鞄の中へ! それでは失礼致します!」

 

 わいのわいのと嵐のような二人組が階段から降りて行くのを見送りながら。だいぶ背中の痛みの引いてきたトレーナーが自室の扉に背中を預けた。クリスエスも窓辺に体重を預けると、元気よくヲタクたちが夜の闇へと飛び出していった。

 

「Thanks」

 

 ポツリと紡がれた言葉は的を得ない。トレーナーは急かすことはなく、外を見つめている彼女を待つ。

 

「二人に自分のぱかプチを渡してはいけないと、怒られた時。どうすれば良いのか分からなかった。だから、助かった」

 

 当然ながら、どんな時だって彼女なりに思うことがある。無表情の下に、年相応な沢山の気持ちが隠されていることを重々に承知しているトレーナーは、励ますように彼女の肩に触れた。

 

「それにしても面白い考え方だよね。クリスエスが活躍しなければ、ぱかプチにはならなかった。だからあれは、君の子どものような存在なんて」

「認識が、甘かった。部屋に置いている、小さな私に課せられた使命。それを私は見落としていたようだ」

「今日から大事にしてあげなきゃな」

「約束する。あのぱかプチの使命を果たさせてくれた彼女のためにも」

 

 不意に物音が聞こえた。クリスエスがトレーナーの背中にある扉を猫のように凝視すると、彼はイヤそうな顔でドアノブに触れる。

 

「たぶん荷物が崩れたんだ」

「手伝おう」

「いや、大丈夫。それよりクリスエス、キミはこれを」

 

 紙袋の中を覗いてみると、そこには沢山のクリスエスへのファンレターが詰まっている。先ほどの理事長秘書の笑顔を見て、トレーナーは昨日受け取った分を思い出したのだった。

 

「このファンレターのお返しにちょっとした企画を考えているんだ。今度、特に嬉しかった手紙を教えてくれないかな」

「了解した」

「読み過ぎて夜更かししないようにね。それじゃ今日は本当にお疲れ様。改めて年度代表おめでとう、クリスエス」

 

 扉を開き、ほとんど室内へと身を移動させていたトレーナーであったが、なぜかそれ以上動けなかった。衣類がドアノブに引っかかっているのかと身を捩っても、むしろ彼の体がよろめいて、想像以上に柔らかい体にぶつかる。

 

 彼女が袖を引いていた。視線は俯いていたが、何か言葉を発そうと必死に考えていることがわかったトレーナーは、袖に弛みを生ませる。

 

「話がある。とても大事なことだ」

 

 いつものように真剣な眼差しで見上げてくるクリスエスに、彼が返事をしようとした──その時だ。

 

 またも凄まじい音が響き渡り、トレーナーとクリスエスは、今度こそ段ボールが崩れ落ちていく様子を目の当たりにする。

 

「やばっ!!」

 

 勢いは止まることを知らない。四方が凹んだ段ボールから中身が飛び出して、玄関まで転がって来た。その一つを、紙袋を小脇に抱えたクリスエスは拾い上げた。

 

「……これ、は」

 

 2頭身にデフォルメされた縫いぐるみ──つまりぱかプチだった。目を細めてニコリと笑っているその瞳は、本来澄んだ青色が見えているはずだ。

 

 ヲタク曰く「ぱかプチの中でもレア中のレア」な、初期に生産されたシンボリクリスエスのぱかプチだ。

 

 それが確認できるだけでも数十体も転がっている。完全に開け放たれたトレーナーの部屋には、崩れ落ちた段ボールと同じ物が、まだ幾つも積み重なっていた。

 

 

4

 

 トイレや風呂が共用のトレーナー寮のワンルームに大きな段ボールたちが大半を占めている。なんとも居心地の悪い空間で、こじんまりとして見えるカーペットの上に座っているシンボリクリスエスはもらった水を飲みながら、珍しく立場を変えて沈黙を貫いていた彼の方の言葉を待っている。

 

 やがて大きく息を吐いたトレーナーは、テーブルの上に置いてあるクリスエスのぱかプチたちを順番に綺麗に並べ始めた。

 

「転売をしてわけじゃない」

「……わかってる」

「それを前提にして改めて……この部屋の段ボールの中身は全部、クリスエスのぱかプチだ」

「いったい、いくつある?」

「1000体。いや、デジタルちゃんの友達にあげたから999体か」

「……no way」

 

 驚愕しているクリスエスではあるが、冷静さは失ってはおらず、よもやトレーナーが転売をしていたり、近所どころか東京中のゲームセンターを荒らしまったたとは考えてはいない。とはいえ、狭苦しい思いをしてまで大量のぱかプチを保管しているトレーナーの目的は想像もつかなかった。

 

 小さなクリスエスに抱えさせるように、一枚の名刺が添えられた。

 

「クリスエスのぱかプチを担当していた人だよ。販売開始になってしばらくして、たまたま学園で会ってね。実際に自分で取った話とかをしていたら……なんだが様子がおかしくてさ」

 

 一体のクリスエスを手に取ると、トレーナーはその頭を撫でる。

 

「あまり売れてなくて、近々すべて回収になる予定だと教えてくれたんだ」

「……回収。それは、つまり」

「ああ。いずれ廃棄されることになる」

「だから、トレーナーが買ったのか?」

「物には正しい価値がある。今は求められていなくても、いつかきっと必要とされる時が来て、このぱかプチはその使命を果たせるようになると俺は信じてた。いや、そうなるように俺も頑張りたいと思った」

「理解、できない」

「ここにある全てのぱかプチを、いつかクリスエスのファンのみんなに届けたい。その覚悟を持ったんだ。だからデジタル君のクリスエスの子どもという表現は納得できたよ。今日までのクリスエスの頑張りが、きっとこの子たちの使命を守ったんだからね」

「……トレーナーも、守ってくれた。これだけの数だ、買うのは大変だったはずだ」

「大したことじゃないよ」

 

 やんわりとしたトレーナーの拒絶に、クリスエスは歯軋りをして、ヒトでは反応できない速度で彼の襟を持つ。

 

 思い切り引き寄せられ、テーブルの縁に腹部を打つと、グラスに入った水が零れてしまい、笑顔のクリスエスたちがびしょ濡れになってしまう。

 

「……それを、やめろ」

 

 そして俯いた彼女からも、震える声がきっかけとなったように一滴の雫が零れ落ちた。

 

 泣いていた。どれだけの苦難を前にも微動だにしなかった、冷たい巨人が。

 

「……humility. 日本人の謙虚さに、私は戸惑った。しかしそれは日本の文化だとグラスワンダーは教えてくれた。たしかに日本のウマ娘は、驕りがない。仲間にも、ヒトに対しても」

 

 小さく、彼女が首を振るう。尻尾は激しくのたうち回り、握られた拳はシャツの繊維を千切り始めている。

 

「but, トレーナーの言葉は違う。お前のは…… modesty. 決して自らの価値を認めていない」

「そ、そんなことはないよ」

「なら、なぜ私はこんなにも悲しい?」

 

 ジッと見つめてくる青い瞳は、まるで美しい水面である。そこから掬った縁をなぞるように雫が溢れていく。苦悶の表情は、これまで一緒に過ごしてきて初めて見た──数時間前に表彰式で彼女が見せた微笑みより、遥かに感情が揺さぶられていることがトレーナーには見て取れてしまう。

 

 外側から、内側から。胸が締め付けられる。トレーナーは眉を顰め、クリスエスの手から伝わる震えに耐える。

 

「……なぜ。あなたは私の嬉しいと思う気持ちを否定する?」

「そんなつもりは……」

「だったら、どんなつもりでいる。お前は……いつも。なんで……」

 

 クリスエスの腕から不意に力が抜けた。襟を解放されたトレーナーは、辛うじて両手でテーブルを支えにする。つまりかけていた呼吸を静かに取り戻せば、目の前でクリスエスは膝を抱えて小さく丸まっていた。

 

 伸ばした手を、トレーナーはだらしなく垂らす。クリスエスは自身を冷静に分析し、淡々と使命を果たしてきた。トレーナーはそんな姿をいつだって誇らしく思ったが、一方で十代の少女としては致命的に自己愛の感情が欠落しているように感じていた。

 

 もしかしたら彼女は使命を果たせればそれでいいと思っているのではないか。多くの人々に認められるようになったことを、嬉しいと伝えてくれたので結果的にその判断は間違っていたわけだが、それまでは、とにかくクリスエスの分まで彼女のことを評価しようと考えて、私生活の日本文化の勉強から、レースの結果その全てを応援してきた。

 

(でも、たぶん。そんなことは重要じゃなかった)

 

 クリスエスの小さな挑戦まで決して見逃さないようにするあまり、彼女が誰かを評価する機会を奪ってしまっていた。シンボリクリスエスのトレーナーとしての功績すら彼女のものであると蔑ろにしてしまったように。少なくとも当の本人には、そう見えていたのだろう。

 

 自己評価をするだけが人間ではない。他者の働きを、その価値を見つめてこその人間だ。クリスエスは不器用ながらも、そのことにずっと気づいていたのである。

 

 しかしその主張を伝える術を持たず、今ここで爆発してしまった。

 

 感情表現の乏しいウマ娘であるとされたクリスエスは、いつのまにか他者のために怒れるようになっていた。

 

(いつの間にか……クリスエスは大人になってたんだな)

 

 その成長を、誰よりもそばにいた者として噛み締めながら。彼は転がっていた二体のクリスエスのぱかプチのうち、濡れていない一体は彼女の膝に乗せ、色彩が濃くなるまでずぶ濡れのもう一体を自らの手のひらに乗せた。

 

 そして空いている手で、彼女の頭に触れる。仕事上、トレーナーはウマ娘の脚や腕周り、腹部などには触れることはある。あるいは人懐こいウマ娘なら、場合によってはこうして頭に触れるというコミュニケーションも手段の一つだろう。

 

 しかし今、彼はトレーナーとしてではなく。一人の大人として、自らの過ちで深く傷つけてしまった子どもに触れていた。これまでこんなにもクリスエスに寄り添ったことはなく、静かな息遣いと時折の嗚咽が聞こえてくる。

 

(あまりにも、軽い)

 

 その気になれば軽トラックを交通規定速度のまま何十キロも運ぶことができる肉体は、その体重が人間の雌と変わらない。ウマ娘の神秘の肉体は未だ全てが解明されておらず、一説では精神面が不安になり、心を閉ざさてしまえば一生目覚めないこともある。

 

 ウマ娘は人間とは比べ物にならないほど精神が肉体と繋がっている。今ここでクリスエスのために何かしなければ、彼女は走れなくなってしまう予感がしたトレーナーは、慎重に思考を巡らせる。

 

(クリスエスは……いつもこんな気持ちなのかもしれない)

 

 沢山の言葉が思い浮かぶ。どれも適しているようで、どれも傷つけてしまう気がする。的外れ過ぎて、彼女に眉を顰められるかもしれない。大したことを言えないのだと、そんなに価値のあるニンゲンではないのだと思われるかもしれないという不安が過ぎる。

 

 その中で。トレーナーはいつもクリスエスが必死になってぶつけてくれる言葉を思い出していた。

 

 辿々しい言葉だ。上手く表現できないこともある。しかしその一生懸命な姿を、一度だって彼は笑ったことはない。

 

 だから冷静に、自分がクリスエスのためにこれまでしてきたことを思い返す。そしてその結果だけでなく、自分が愛想笑いをして「大したことはない」と伝えてこなかった部分があることを認める。

 

 アメリカからやってきた彼女は、産声を上げた瞬間から知っている水というものが当然の存在ではないことを知っている。彼女を思い、全ての行動を当然であろうとしたトレーナーが、たった一言にまとめてきたことも。彼女が決してそうではないことを見抜いているのなら。

 

 その始まりを──

 

「クリスエスの体作りを始めた時。実はキミの師匠に相談をしようとしたことがあったんだ」

 

──彼女のために何ができるのかを模索していた頃を、恥を忍んでも伝えなければならない。

 

「ルドルフの力も借りた。残念ながら門前払いをされてしまったけどね」

「……それは私が、まだ認められていなかったからだろう」

「いや、俺が認められていなかったんだよ。なんの実績もない新人トレーナーの声なんて誰も聞いてはくれないからね」

 

 トレーナーの表情は一段と暗い。少なくとも脇から盗み見ていたクリスエスは、一度も見たことがなかった。

 

「わかりきっていたことだった。でも、やはり辛かった。クリスエスのために全力を尽くせない自分が、ただひたすらに悔しかった」

「……そうか」

「だから今日、表彰式のサプライズにあの人を呼ぶことができて本当に嬉しかった。打ち合わせがほとんどだったけど、少し話もできたんだ。実は、クリスエスのことを心配して学園に訪れたこともあったらしくて」

「……それは本当か?」

「重い責任のある立場であるから誰か一人を特別扱いできない。それでもクリスエスのために何かしてあげたいと足を運んだって」

「知らな、かった。そうか、師匠は……見守ってくれていた」

「クリスエスがトレーニングをする姿を見て、心配はすぐになくなったって帰ったと言っていたよ」

「……当たり前だ」

 

 泣き腫れた頬を拭い、クリスエスは顔を起こした。膝から転がってきた笑顔の自分を乱雑に掴むと、それを胸にしっかりと押し当てて、トレーナーと向き合う。

 

「お前が、いた。何も心配はない」

「……おんなじことを言われた。荒削りだけど、俺がクリスエスのそばにいたから、自分が支える必要なかったと。そしていつの日か、ここではないどこかで会えると信じられたって。そしてその時は自分の夢を叶えてくれた時だと確信したんだってさ」

「お前は、どう思った?」

「大事な教え子を預けてもらえたこと。一目見たクリスエスに大きな夢を託してくれたこと」 

 

 トレーナーがまっすぐにクリスエスの青い瞳を見つめると。今はもう、遥かな空まで焦がすような青い炎がそこには蘇っていた。彼は深い安堵を覚えながら、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

 

「キミのそばにいることを認めてもらえたことが嬉しかった」

 

 今が一番。この国で一番信頼する相手と分かり合えている気がして、クリスエスは両手で彼の手を包み込んで額を当てる。

 

「トレーナーの気持ちを知れて、嬉しい」

 

 必要以上の謙虚さは要らない。必要以上の価値など要らない。そう確信したクリスエスが、不意に僅かに口角を上げる。

 

(──あの時と同じ)

 

「……ふふ。でも、その話はおかしい」

「え?」

「私は一つ、トレーナーに隠していることがある。お前が私のトレセン学園の案内に抜擢された理由を、知っている」

「理由なんて新人で時間があったからじゃないのか?」

「ノー。理由はトレセン学園のトレーナーである自信に満ちていたから、だ」

「……えっと、どういうこと?」

「どんな練習、どんな環境にいるかもわからない海外から誘致したウマ娘相手に、トレセン学園の魅力を語るためには、強い自信がいる。あまりに謙虚過ぎれば、あまりに過大評価をすれば、私の心に不信が生まれる。トレセン学園への自信は、つまり日本のレース界への自信。それを臆えることなく、奢らずに伝えられることが、お前がシンボリ家から見出された理由だ」

「……ち、ちょっと待ってくれ」

「いいだろう」

 

 むくりと起き上がるが決して手は離さないクリスエスが瞬きを二度するまで、トレーナーは何度でも首を振っていた。

 

「つまり、偶然じゃなかったのか?」

「イエス。お前は師匠に選ばれたトレーナーだ」

「いや、そんな。だって当時の俺は……ただの新人トレーナーだよ?」

「間違いない。あなたが生徒会室に来る前にルドルフから聞いた。それに私も、最初は嘘だと思った」

 

 but.そう呟いて、クリスエスは決して傷つけないようにトレーナーの手を握りしめる。

 

「沢山のトレーナーに指導されたあの時。私は昔を思い出していた。無理をできないことを、上手く伝えられない。大切な使命すら……説明できなかった時。とても自分が不甲斐なかった。全力を出していないと、落胆する彼らの目が怖かった」

「……でも君は」

「ああ、そうだ。それでも使命を譲れなかった。そんな私の視界には……誰の指導を受けていても、必ずお前が見えていた」

 

 己の唇を啄み、クリスエスは必死に言葉を探している。知り得なかった真実にまったく落ち着いていないトレーナーではあったが、優しく手を握り返して、いつまでも待ち続ける。

 

「確かにただのrookieだった。しかし、それも大切なreasonだと、私は思う。経験のない者だからこそ、先入観がない。そして──相手を待つことができる」

「待つ……」

「見た目とは違う、体の根本の弱さ。それでも果たしたい使命がある。与えられたトレーニングを果たせないことに理由があると尋ねてくれたのは、トレーナーだけだ」

「……そりゃ、そうだよ」

「それはなぜだ?」

「クリスエスの瞳が真っ直ぐに、何かを見ていたから。それが何なのかはわからなくても、君ができないからと手を抜いたり、指導が嫌だから言うことを聞かないような子には思えなかった」

「自信は、あったのか? 私に何か理由があるという」

 

──トレーナーの声が、クリスエスは好きだ。特別な魅力があるわけではないけれど、ただただ自分を思ってくれる優しさが伝わってくる。

 

「あったよ」

 

 そんな人が、そばにいてくれている。その幸せを、どうかこの人に伝えたい。

 

「その自信のある姿が。師匠と被って見えた。例えどれだけ疲れていても決して座り込まなかったことを褒めてくれた時のようだったと、思う」

「ありがとう、クリスエス」

「……ああ」

 

 伝えてみて、クリスエスは今の言葉は間違いだと訴えかけてくる自らの鼓動に困惑する。まるで別れを惜しむかのようにトレーナーを見つめ続けていると、彼に目を逸らしれてしまった。

 

 新しい視線の先にはクリスエスのぱかプチがいて、相変わらずの満面の笑みを見せている。

 

「……この子は干してあげなきゃな。あと転がった子たちも片付けないと」

「……手伝おう」

 

 お互いの体温で少し汗ばんでいた手を離して、トレーナーはずぶ濡れの一体をそのままに段ボールへとぱかプチたちを戻していく。

 

(あっ……)

 

 その背中が、幼い頃に見た誰かにそっくりだった。大きな旅行鞄に衣服やお土産を片付けていく。

 

 行かないでと叫びたい。

 

(でも……なんで……)

 

 師匠は帰国しなければならなかった。幼いながらも優れた人だと感じていたクリスエスは、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと感じたから、必死に引き留めた。

 

 しかし、今はあの時とは全く状況が異なる。トレーナーは側にいる。これから何年も、共に日本のウマ娘の試練として立ち塞がらなければならない。

 

「なのになぜ……」

 

 理由のない焦燥感が体を蝕んでいる。クリスエスは体を振るって払おうとするも、じわじわと胸の奥から駆り立てられてしまう。

 

 ウマ娘の神秘の体は精神面に深く関わる。心を閉ざしてまえば、深い眠りから覚めなくなることもある。クリスエスが現在抱える謎の衝動も、その一つだと言える。

 

 しかしそれは、何もウマ娘だけの問題ではない。ウマ娘だろうと。ヒトだろうと。決して変わることのない芽生えがある。

 

 故郷とは異なる水を浴びた種は、やがて花を咲かせる使命を果たした。

 その水は、人から賜る上善の如く、清く、どこまでも澄み渡り。

 

 いつまでも彼女に降り注ぐ。

 共にいくつもの暖かな火種を根付かせるために。[newpage]

 背中に軽い衝撃が走り、長い両腕が優しく彼を包み込んでくるのに、小刻みに震えている。

 

「……痛いか?」

「……もう少しだけ。強くても平気だよ」

 

 抱擁が、少しずつ強くなっていけば。2000mという距離をわずか2分程度で駆け抜ける体を支えている力強い鼓動が、彼の胸へと伝わる。

 

「私のために頑張ってくれて、ありがとう」

「当たり前だ。クリスエスのためなら、俺はなんでもできるよ」

 

 手からこぼれ落ちたクリスエスのぱかプチを見つめながら。トレーナーも、また一つだけクリスエスに秘密を隠していることを思い出していた。

 

 クリスエスのぱかプチの人気が低迷していたのは当時のレース界の空気だけではなかった。

 

 ある理由から、少なからず存在していた彼女のファンからも認められなかった理由を担当者から説明を受けた時、トレーナーは決してその事実を認められず、信念の火種として胸の奥へと隠してしまったのだ。

 

 いつの日か、彼女のファンもクリスエスのぱかプチの価値を理解してくれる時が来る。その悔しさを胸に、沢山の彼女の子どもたちを預かっていたのである。

 

 それを伝えることは幅かれた。傷ついてしまうのは、クリスエスだけではないからだ。だから秘密を胸に隠したまま、トレーナーはクリスエスのぱかプチを、覆い被さっている彼女の顔へと近づけた。

 

「……何をしている?」

「よくできているなと、思ってさ」

「日本製だからだ」

「ああ、そうかもね」

 

 トレーナーは少しずつ背中が暖かくなっていく背中を感じながら。ある願いを人形に込めて、段ボールの蓋を閉じた。

 

 

 クリスマスの夜。男性は悴む手にケーキの袋を握り締め、オートロックを解除する。そして早足で多少は暖かいエレベーターを一直線に目指して──スラリと背の高い、目力の強い褐色肌のウマ娘が中から現れたので思わず声を上げてしまった。

 

 凛とした佇まいで長い黒髪を一つに結んでいる。重量感を覚える背中を見ていると、彼女は不意に彼を、正確には彼の持っていたケーキを見た。

 

「……メリー、クリスエス」

 

 そこで初めて彼女の隣にトナカイのコスプレをした男性がいることに気づいたのだが、操作をしていなかったエレベーターが勝手に扉を閉ざしたので、見えなくなってしまった。

 

 何かパーティーでもあったのかなと思いつつ、数字が点灯していく画面を見つめていると、不意に剃り残しのある顎を撫でる。

 

「……あのウマ娘、どっかで見たことがあるような」

 

 男性はあまりレースを見たことがなかった。せいぜい通勤中や職場、取引先で見かける程度であったが、街中のウマ娘とは明らかに体の作りから違ったように思えた。

 

 幸いなことに彼の妻は熱狂的なレースファンだ。褐色で青い瞳、無骨そうで、クールなウマ娘。そんな特徴を反芻しながら、彼が自室までへ歩み続けると、なんと扉は開いていたではないか。

 

「ただいまー」

「おかえりなさい!」

 

 そして興奮気味の妻の圧に、男性はケーキを取り落としそうになる。

 

「な、なんだよ? そんなケーキを待ってたのか?」

「ぱぱー!」

 

 狭い廊下で妻に当て身しながら駆けつけてくれた我が子の頭を撫でながら、男性は妻の胸元を見て目を丸める。

 

 聖夜に豊胸手術を受けていた……わけではない。彼女はぬいぐるみを抱きしめており、それが先ほどエレベーターで入れ違ったウマ娘そっくりだったのだ。

 

「聞いて! クリスエスさんが来てくれたの!!」

「ど、どういうこと?」

 

 メモを取らなければならないほどの妻の剣幕を精査するに。どうやらあのウマ娘はシンボリクリスエスという名前で、野球で言うとホームラン王を二期連続で獲得したような凄い選手だったらしい。

 

 そんなスターウマ娘は、クリスマス企画としてぬいぐるみをファンへプレゼントしていたらしく、妻はそれに当選したのだった。

 

「へえー、じゃあわざわざウチに来てくれたのか。さっきエレベーターで入れ違ったけど、確かにすごい美人だったなぁ」

 

 胸に抱かれているぬいぐるみを手にした彼は妻の趣味ゾーンを覗いて、そこにいる古ぼけたクリスエスを発見した。

 

「これ、同じやつじゃないか?」

 

 などと、ほざいた瞬間である。

 

 さて。男性は大手商社メーカーに勤め、良い先輩と同僚に恵まれたそんな中、通っていたジムで、明るく器量のある美人な女性と知り合った。お互いに惹かれあい、彼女は重度のウマ娘ヲタクで辞められないと告白され、それを受け止めた上で結ばれて、もうすぐ八年になる。中々子宝に恵まれず、仕事もうまくいかない時期に入り──それでも喧嘩はせずに乗り越えて、ようやく産まれてくれた愛娘がもうすぐ小学校へと進学する。

 

 絵に描いた幸せな家庭。それを当たり前だと思い込んでいた幼い頭では、まったく想像もできなかった地道な努力と、少しの運で築いたのである。

 

 そんな彼が初めて妻からビンタされた。スナップがよく効いた、脳が揺れるような激しい一撃であった。

 

「違うからぁーーッ!!」

「いてぇーー?!」

 

 そしてよくわからないがとても価値がある物であることを鬼のように説教してきた。いつも笑顔な子どもも少し泣いていたかもしれない。

 

「つまりそういうこと!! わかった?!」

「……そ、そうだな、君の言う通りだ」

「何が?」

「えっ」

「何が私の言う通りなの?」

 

 男性の目の前でぬいぐるみが抱きしめられすぎて苦しそうにしている。嘘をついても仕方がない。そうクリスエスが笑ってくれているような気がして、素直な気持ちを伝えるしかないと覚悟を決める。

 

「すれ違った時さ。君からよく聞かされていたシンボリクリスエスだとわからなかったよ。もっとクールというか……あんな風に可愛らしく笑うなんて思っていなかっ──」

「えっ、クリスエスさんが笑ってたの?!」

「あ、ああ。こんな感じでさ」

 

 俯いてしまったぱかプチを、妻は目を細めながら見つめた。

 

「……やっぱり間違ってたんだ、私」

「え?」

「昔の私はね、クリスエスさんがこんな風に笑うなんて思ってなかったの。だから解釈違いだって……このぱかプチを手に入れようとしなかったの。でも感謝祭で彼女を身近に見て。全然そんなことなかったと思うようになった。でもその時にはもうすごいプレミア価格で……」

「そ、そっか。とにかく凄いんだね」

「そういうこと……さあ、ご飯にしましょう」

 

 そう言った妻の笑顔はどこか陰りがあった。しかしそれすら綺麗なもので、ウマ娘のことになると暴走しがちな彼女だが、やはりずっと一緒にいたいという気持ちが彼の中で強くなっていた。

 

「あなた」

「ん?」

「メリー、クリスエス」

「はは……メリー、クリスエス」

 

 抱かれているクリスエスはずっと微笑んでいる。後ろ手に玄関扉の鍵を閉めれば、そこは一つの家庭の幸せな空間が生まれていた。


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