シービーがいっぱいコレクション   作:タマホー

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ミスターシービーの子ども時代を妄想しつつ、彼女が築き上げてきた「自由」の根本を掘り進めていくお話です。
※かなりキャラ崩壊しています。ご注意ください。


心のポイ捨て

 食べたい物を好きな時に好きなだけ食べられる一人暮らしは良いものだけど、家族揃って食卓を囲む時間も同じくらい好き。両親が仲睦まじく台所に並んでいる姿を見ていると、帰ってきて良かったと思うし、何よりいつまでも変わらない自分の部屋はやっぱり居心地がいい。

 

「シービーちゃん、時間は大丈夫なの?」

 

 お母さんがエプロンを外しながらコタツの中へ入ってくる。丁寧にミカンの皮を剥いている指先を見つめれば、一切れ口の中へと入れてくれた。甘えまくりだね。

 

「時間?」

「ほら、今年もトレーナーさんと初詣に行くんでしょう。ゆっくりしていていいの?」

「別に約束してないけど」

「……何かあったの?」

「え? 特に何も」

 

 確かに去年も一昨年もトレーナーと初詣に行った。でも、それはたまたま出会った道すがらだったり、正月特番の生放送に出たついでに一緒に行っただけだ。

 そう伝えると、お母さんは信じられないと言いたげにため息をついた。狙っていた綺麗なミカンも没収されてしまった。

 

「ついでって……お世話になってるんだから、新年の挨拶くらいは顔を見てしておきなさい」

「んー、これから散歩に行くつもりだから、きっと会えるんじゃないかな。なんとなくそんな予感がしてるよ」

「もう……!」

 

 それにしても、放任主義のはずのお母さんがトレーナーのことになると口うるさくなる。どうやらアタシと同じことを思ったみたいで、台所からお父さんの笑い声が聞こえてきた。

 ちなみにお父さんはほとんど何も言ってこない。かつては彼と同じトレーナーという立場だったからかな。

 

「だいたいアタシが新年の挨拶なんて積極的に会いに行ったら、それこそトレーナーが心配すると思うなぁ」

「言い訳しないの」

「……言い訳じゃないけど。ふむ」

「シービーちゃん?」

 

 言葉にしてみると、それはとても面白い状況だった。眠気眼で扉を開けたトレーナーがアタシだと気づいたら、いったいどんな顔をするのだろうか。

 寝巻きかもしれないし、油断した無精髭だらけかもしれない。担当になりたての頃はアタシの為すことに一々驚いていたけど、最近では顔色一つ変えないから、久しぶりに慌てふためく姿を見たい。

 

 アタシがわざわざトレセン学園のトレーナー寮まで来るわけないと思っているからこそ、やってみるべきだ。年明けドッキリされたトレーナーがどんな顔をするのか、もう見たくて見たくて堪らない。

 

「しょうがない。ご両親様の顔を立てるためにも、トレーナーに挨拶してくるよ」

「お年玉をせびらないのよ?」

「あはは。しないよ、"そんな"ことはね」

 

 シャツについていたミカンの粉を払い、ソファーの上に置いてあったマフラーを巻く。壁にかけてあった上着を羽織って、靴を履いていると、エプロン姿のお父さんが玄関まで見送りに来てくれた。その指で輪っかを作っていて、そのまま口元にやる仕草は、アレだね。

 

「お時間があるようならトレーナーさんを我が家にお誘いしてくれないか。良い地酒が送られてきたって伝えておくれ」

「ハイハイ、あの人が忙しくなかったらね」

「お前からの誘いならトレーナーさんは断ることはないだろうさ」

「なあに? その自信は?」

「ははは、彼とは新入社員より一緒に飲んでいるからなあ!」

「え、そうなの?」

「もしかしたらシービーより仲良しかもしれないぞ。何度もサシで飲んでるんだから」

「へー」

 

 教え子であるアタシを一つ飛ばして、父親とお酒を飲み交わしていたなんて知らなかったや。それほど酒癖は悪くないけど、トレーナーはサシ飲みをどう思っているのか聞いてみようかな。

 

「まあ、無理だと思うよ。今、本当に忙しいし」

 

 それは伝えるのが面倒臭かったとかではなく事実。アタシがあまりメディアに出ないから、その代わりに三冠ウマ娘のトレーナーとして、今やあの人はメディアに引っ張りダコ。シーズンの節目に当たるこの新年には、たづなさんが申し訳なさそうにスポーツ特番の出演依頼を打診していたっけ。

 

「それじゃ、行ってきます」

「お雑煮は残しておくからな」

「やったね」

 

 元トレーナーだけあって、お父さんの料理は栄養満点でとっても美味しいんだよね。

 

1

 トレセン学園内のトレーナーの宿舎は、生徒はもちろん先生も寄り付かない静かな区域。だからアタシは、実は何度か侵入して屋上で日向ぼっこしたことがある。しかも今日は大半が帰省している元日だから、いつもよりさらに閑散としているような気がしてなおさら居心地が良い。

 

 今日ばかりは管理人も不在。そうなると、こちらとしても遠慮なく勝手に上がってしまうよね。肌寒い階段を上がり、トレーナーの部屋を目指す間に、第一声を考えることにしよう。

 

 王道の「来ちゃった」が1番人気かな。でもダークホースな「お腹減っちゃった」も捨てがたい。そんな風に悩んでいると、いきなり目の前の扉が開いた。トレーナーの部屋の一つ前だから……確か──

 

「ミーク、耳カバーを忘れないでくださいね……あら!」

「あけましておめでとう。桐生院トレーナー」

 

 アタシのトレーナーと同期の桐生院トレーナーだ。もともと人の顔を覚えないアタシが珍しく、この人と、あと樫木トレーナーとは交流があってしっかりと顔も名前も覚えている。

 

「シービーさん! あけましておめでとうございます!」

 

 仲良しというわけではないけど、担当ウマ娘とよく併走するから他のトレーナーよりは話す機会は結構多い。小さな体に元気が詰まってるような活発で明るい性格なんだけど、トレーナーとしての実力は、名門一家に相応しい、基礎を重んじた渋い仕事をするとはアタシのトレーナー談だ。

 

「シービー」

 

 もう一人、おっとりとした顔立ちの前髪パッツンウマ娘が扉からこちらを覗いていた。彼女は桐生院トレーナーの担当ウマ娘ハッピーミークだ。

 

「やあミーク。これから桐生院トレーナーと初詣?」

「うん。おみくじ、わくわく」

「いいね。アタシも引かないと」

 

 のんびりとした口調だけど、早口言葉はとんでもなく達者なもので時々聴かせてもらってる。走りについては粘り強い生粋の差し脚質で、緩い雰囲気からは想像もできないくらい鋭い末脚を持っている。残念ながら彼女はクラシック路線ではなかったので、まだ公式レースで直接対決をしたことはないけれど、もしかしたらこの冬休み明けの新設レースのURAファイナルズでは戦えるかもしれない。

 

 ズレていたミークの耳カバーを整えていた桐生院トレーナーがアタシにニッコリと笑った。きっとこういう人を太陽のような人と表現するんだろうね。

 

「シービーさんもこれからトレーナーさんと初詣ですか?」

「まだ決めてないかな。でもまあ、とりあえず挨拶ぐらいはしようかなって」

「そうですか……でもたぶん、部屋にはいらっしゃらないんじゃないかと思います。どうやら今朝早くに出ていかれたみたいなので」

「あっ、そうなんだ」

「まずは連絡をした方が良いかもしれないですね。それじゃ今年もよろしくお願いしますね」

「ばいばいシービー」

「うん、またね」

 

 今度はハッピーミークのぐちゃぐちゃに巻いているマフラーを整えながら、桐生院トレーナーは私がやってきた廊下を進んでいく。こっちまで笑顔になってしまうぐらい仲睦まじいね。

 

 しかし、

 

「不在……か」

 

 うーん、困ったな。携帯電話は持ち歩いていないし、トレーナーがどこに行ったのかも想像つかない。そういえば、果たして彼は仕事以外は何をしてるのだろうか。考えてみても何の予想もできなくて、トレーナーのことを知っているようで何も知らなかった自分に気づく。

 

「……いや、これが普通だよね。トレーナーの方が変わってるだけ」

 

 いつかの夏合宿の最終日に居場所を突き止めれた時は本当に驚いたし、それに何かと街中で偶然出会うことも多い。あの人は何年もアタシの散歩についてきたけど、それだけで相手の居場所を突き止められるものなのだろうか。

 

 もしかしたら感性が似てるのか、それとも段々と似てきたのか。多分後者かな。出会った頃のトレーナーの言動は、アタシにとって知らない街にたどりついた時みたいに新鮮で面白いものだったから。

 

 最近だと、アタシが気に入りそうなものをどこからか見つけてくる。いつだったかトレーナーがアタシを猫みたいと言ったけど、見つけた面白そうなものを笑顔で見せてくる姿は、ありゃ犬に違いない。無愛想なクセに、ボールを咥えた時だけはしゃぐタイプのね。

 

「もし、アタシたちが似てきたなら……」

 

 だったらアタシの方からもトレーナーの居場所を突き止められたりするのかも。

 

「面白いな。やってみよう」

 

 なんの手立てもないのだから外れるのが普通。気楽に構えながら、見慣れない角度からトレセン学園を眺めていると、簡単な方法を思いついた。

 

 トレーナーがアタシを見つけ出せるのなら。つまりいつものアタシの行動を辿れば良い。新年ドッキリで彼を驚かせようと計画した「前の」アタシなら、きっと初詣の前にトレセン学園に向かおうとしただろう。学生寮に行って友達に顔を見せるために。

 

「去年でアタシがトレーナーと出会ったタイミングって……校門前だったね」

 

 だったら、トレーナーはアタシが来そうな時間まで、トレセン学園で過ごすんじゃないかな?

 

 つまり、だ。

 

「ここしかないよね」

 

 昨年ぶりのミーティングルームにはやっぱり電気がついてた。テーブルの上には段ボールの山が二つとあったかいお茶が置いてあって、あと何故か封筒と糊。誰かに手紙でも出そうとしてたのかな。

 

 でもまあ、ソファーには見慣れたコートがかかっているからトレーナーがいるのはここで間違いない。

 

「はは、やればできるもんだね」

 

 それにしてもトレーナーは仕事が生活そのもの過ぎるや。それだけ本気でいてくれているのは担当としては頼りになるけど、アタシの感覚から言うと、かなり心配になっちゃう。

 

 冷えた指先で、放置されていたお茶の温度を奪いながら、なんとはなしに口へ含む。特別なものではない緑茶だけど、まだお雑煮も食べていないアタシにとって落ち着く一杯だった。

 

 空っぽになった湯呑みを戻して、気になる口の開いている段ボールを覗き込んでみた。お休みを返上してまでトレーナーが打ち込む仕事は、いったいなんだろう。

 

「ん?」

 

 てっきりファイルやら何やらが入っていると思ったけど、中には様々な色、大きさの封筒が何百と入っている。

 

「これって、ファンレター……?」

 

 一通を取り出してみると、予感は的中してアタシの名前がしっかりと記されている。そしてそれは段ボールから飛び出していた物も同じで、遠慮なく手紙を開けてみると、アタシとエースであろうイラストが添えられてた。

 

 次の封筒もアタシ宛。時には慣れ親しんだ面白い名前の書かれている手紙たちを眺めているうちに、アタシの中でトレーナーへの不審感が強くなってきた。

 

 アタシのいない時間に、アタシ宛のファンレターがテーブルに並んでいる。用意してある糊は……きっと封をし直すため。

 

「あの人、勝手に読んでいたわけ……?」

 

 今すぐトレーナーに問い正したい。最悪な予想が当たっているのなら、あの人とはこれ以上コンビを続けることはできないかもしれない。

 

 でも一方で何か理由があると信じている自分もいる。3年という長い間、誰かと一緒にいたことがないアタシにとって、トレーナーは一番に信頼のおける人なのは間違いないから。

 

 何か理由がある。絶対にそうに決まってる。じゃないと……いけない、ファンレターを握りしめてしまった。丁寧に引き伸ばしていると、ゆっくりと扉が開く音が聞こえた。息を飲む喉使いも。

 

「シ、シービー……」

 

 振り返りはしない。アタシはただ、声を荒げたくなるのを抑え込んで、シワの残ってしまったファンレターを振る。

 

「説明。してくれるよね」

 

 答えはない。青ざめた顔のトレーナーは私の隣に座り、いつになく真剣な眼差しでアタシを見つめている。穏やかで、笑うとこっちまで笑顔になる彼の顔が、今は少しだけ憎い。

 

2

「……この沢山のファンレターを前にして、自分のやろうとしていることがキミを怒らせるだけだと怖気ついて、席を外してた」

「それは正解。今、トレーナーのことが嫌で嫌で堪らないからね」

 

 目を伏せたトレーナーは「そうだな」と呟くだけだ。

 

「いつから?」

「今日が初めて」

「なんで?」

 

 ここまで問い詰めている。言い逃れはできないことなのに、トレーナーは理由を語ることを躊躇ってる。煮え切らない態度は彼らしくなくて、それがまた無性に腹が立ってくる。

 

「人の手紙、しかも気持ちが詰まったファンレターだよ? アタシが勝手に応援してねってスタイルだとしても、本人の許可なしに読んで良いものじゃない」

「……わかってる」

「わかってるなら担当なんて辞めなよ。それぐらいの覚悟があって、こんなことしてたんでしょ?」

「……ああ。わかった」

 

 誰に似たのか、本当に頑な性格をしてる。迷う様子もなく部屋を出て行こうとするトレーナーに、アタシはずっと頭に浮かんでいた、彼がしそうな行動原理の予想を口にすることにする。

 

「アタシへの批判が送られてないかチェックしてたんでしょう」

 

 トレーナーの足が止まる。でも口にしてみて、それは最低な行動に至るまでのことなのかという違和感が残ってる。たぶん、このファンレターの中に何かが混じってるところまでは合ってると思う。

 

 でもその内容は、トレーナーだけが知ってるんだ。だから彼は言い出すことができない。

 

 走りへの批判でブレるアタシじゃない。何ならトレーナーの前でよくもまあ書いてくれる不満だらけの手紙も読んだこともあるから、品のない言葉にもアタシが動じていない姿を見ているはず。

 

 ただの批判とは少し違うのかもしれない。トレーナーだけが知っていることが彼の行動の本質。つまり──アタシ以外への批判。

 

「トレーナーへの文句」

「ッ……」

 

 ビンゴだね。

 

「トレーナーを変えた方が良いとか? あの男はあなたの才能を無駄遣いさせてるとか? そういう話がこのファンレターの中にあるんだ?」

 

 幼い頃、散々聞いてきた文句を自分で口に出していることが不思議な気持ちになる。一目散にアタシから逃げようとしていたトレーナーは、観念したかのように扉をゆっくりと閉じた。

 

 振り返った彼は、笑顔と悲しみの中間、そんな表情をしていた。皮肉も込めて、アタシはニッコリ笑っておくことにしよう。

 

「勘の良いガキは嫌いだったりする?」

「……いや、さすがだなって思う」

 

 トレーナーはアタシの隣に座ると、いくつか携帯電話を操作して、トレーナー自身のウマッターのアカウントを見せてきた。

 

「これはウマッターのダイレクトメールと言って……本人が許可していると、誰でも一対一で連絡が取れる機能だ。ここである人が俺に文句を言ってきてね」

「へー、お手頃だ」

 

 トレーナーとアタシへの当て付けなのか、話し相手のアイコンは例の神話となった三冠ウマ娘になっている。そして連なっている文章は、脈絡もない、整然ともしていない、罵詈雑言の数々。それが画面を指で送っても送っても延々と続いていた。読むのがめんどくさくなってきたので、前の表示に戻すと『ファンレターにも同じ内容を書いたからな。お前はクビだ』と誰からの決定権なのかわからない文章で終わっていることがわかる。

 

「これをアタシに見せたくなくて、本当にクビになっちゃうような方法で手紙を探そうとしたわけなんだ?」

「……そんなところだ」

 

 自分がクビになりたくないからという風には考えられない。トレーナーはもしアタシがその手紙を読んだ時に、アタシがどんな気持ちになるのかを想像して……アタシが自由を失うことになると思ったんだろう。アタシの自由な生き方のせいで誰かが貶められているぞ、と。この誰かさんはそんな言葉の刃物でアタシを傷つけると思ったらしい。さすがにそんな生娘じゃないから時々トレーナーの純粋さは心配になるけど、まあそこが面白くて良いところでもある。

 

 確かにアタシから自由を奪う方法はいくらでもある。アタシに関わる人を否定するこれも一つの方法だ。でも、幼い頃からアタシはそういったものと対立してきたから、わざわざトレーナーへダイレクトメールを送ったこの人の考えが手に取るようにわかってしまった。

 

「この人が本気でファンレターとして送ってくるわけないよ」

「でも……可能性はゼロじゃないだろ?」

「これはさっきみたいにトレーナーとアタシが喧嘩する様に仕向けられているだけ。いやそもそも、慌てふためくトレーナーの反応を妄想して楽しんでるだけだよ」

「……でも」

「3ヶ月間のお散歩禁止令を賭けたって良いよ。この段ボールの中にそいつの文章は入ってない。そんな苦労をかけられる人なら、こんな回りくどいことはしない」

 

 トレーナーは不満そうに唇を歪めている。その瞳をジッと見つめていると、

 

「……わかった。どちらにせよ、探すのは止めようと思ってたんだ。沢山のシービーへの想いを踏み躙ることは、どうしてもできなかった」

 

 うん。こういう時の私の直感を、彼は信じてくれている。こういうところは、やっぱり犬っぽいんだよね。主人を守ろうとする忠犬トレ公……はヒシアマと被るから辞めておこうか。

 

「この中の一通に俺たちへの不満があるのかと思った時、かなり絶望した。俺は日が暮れるまで最低なことをしなくちゃいけないのかって……」

「よくぞ踏みとどまりましたな。関心関心」

 

 糊を手にしたトレーナーが、ふと笑った。

 

「寸前で、その絶望が俺にとっての希望なんだと気づいたからね」

「何それ?」

 

 トレーナーは手にしたものを片付けるついでに段ボールを棚から下ろした。それは先月の有馬記念の後のファンレターで、つまり届いたのはたった1週間前のものだ。忙しくて……ごめん、散歩のし過ぎでまだ半分も見れてない。

 

 彼は蓋を開け、その中身を見せつけてきた。色とりどり、大小様々で、可愛いらしいアタシの名前から達筆なアタシの名前まで、本当に数えきれない。

 

「こんなにも沢山の人がシービーの走りに勇気づけられて、俺と同じように走りや生き方に夢を見ている。だから、その一通を探すことを辞めることができたんだ」 

「どういうこと?」

「それを読んでも良いか」

 

 トレーナーがしわくちゃのファンレターを求めたので、アタシは渡してあげた。二枚の便箋をゆっくりと読んでいだ彼は、たぶん幼い子が描いたアタシとエースの絵に穏やかに笑う。

 

「もし本当に手紙あったとしてもだ。キミが見つけてしまった時は、まず俺が全く気にしないことを伝えることにしようと思った」

 

 トレーナーの必死の表情が思い浮かぶ。流石のアタシもいきなりアタシの周りの人への文句を見つけたら、エースがヘマをしていた菊花賞の時みたいに怒りに任せていたかもしれなかった。

 

 怒っているアタシに、トレーナーは何と言うつもりなんだろう。

 

「そして、その一人なんかより数十万倍の人が、キミの走りを愛していると伝えれば良い。そう思い直したんだよ」

 

 山ほどのファンレターの詰まった段ボールが二つもある。トレーナーが最悪な行為を思いとどまるくらい、アタシに夢を見てくれている人がいる。

 確かにその1人ぐらい、どうでも良いかという気分になるかもね。

 

「……でも一度は、こんな小細工まで用意してファンレターを勝手に読もうとしたことは事実だ。シービー、悪かった」

「賢明な判断だったと思うよ。首の皮一枚でね」

 

 とは言ったものの、だ。普段インターネットなんて謳歌しないアタシにとってトレーナーへの無闇矢鱈な批判は目に余るものだ。

 

「この人は、他人の言葉なんて気にしないシービーでも、俺への苦言はさすがに傷つけられると思ったんだろうか」

「だったらその試みは大成功だよ。年が明けたばかりなのにすごく気分が悪いし」

「……ごめん。まさかキミの方からこの部屋にやってくるとは思わなかったからな」

「トレーナーのせいじゃないよ」

「こういったことに上手く対処するのもトレーナーの役割だ」

「……そか」

 

 がらんと空虚な胸の中が、暖かいもので満たされる気分だ。でも同時に、彼のトレーナーとしての献身と、間違った判断をせず、正すことができる気高さに対して、見つけてしまった誰かの行為に嫌気が差してくる。

 

 アタシの走りへの不満がそこにあるとは理解している。でもまさかトレーナーにまで範囲が広がっているとは思わなかった。それをトレーナーは顔色一つ変えずに受け入れていて、常にアタシをいかに傷つけないようにするかを考えてくれていた。

 

 勝手に手紙を読むという己の間違いをこの人は正すことができた。その事実に、やっぱりこの人は大人なんだと改めて認識する。

 

 社会とやらで生きていく以上、大切な何かがアタシには欠けているらしい。それは共感というべき意識で、今回の出来事が起きた原因を強いて挙げるとするなら、これまでアタシが放っておいたものが突然牙を剥いたということなんだろう。

 

 アタシはルドルフのように全てのウマ娘の幸せを切望できない。それが途方もないことだと理解できるし、もしアタシが彼女に手を貸すことができたのなら、もっと沢山のワクワクするようなレースが増える、その理想郷へずっと近づくことができるとも直感してるけど、やっぱり全く乗り気にはならない。

 

 だからこそ無責任に自分の自由だけを求めていると見られてしまう。

 

 そんなアタシのことをトレーナーは「キミはただ走るだけで良い」と言ってくれた。人々は勝手にアタシの背中に憧れを抱くからと。それが嬉しかった。楽しむためだけに走ることを認めてくれる。そんな人がいることが、何よりも心の支えになったのに。

 

 アタシに直接批判するのなら、それは自由だと笑うことができるよ。誰の言葉も想いもアタシの錘にはなりえないから。でもアタシのことを信じてくれているトレーナーへの批判は……ダメだ、正直かなり堪える。

 

 ホント、よくもまあ色々と手を考えつくよ。

 

「アタシのせいで……迷惑かけちゃったね。ごめん」

「君らしくない」

「でもトレーナーとしては、やっぱり勝率の上がる先行とかでも走ってほしいでしょ?」

「それについては前にも話したはずだ」

「トレーナーの気持ちは、あんな文句を言われても変わらないんだ?」

「確かにレース場やバ場、競争相手の状況に応じて先行策や思い切って逃げてみたりするのがベストだ」

 

 小さく、彼は笑った。

 

「でもそれで勝率が100パーセントになるわけじゃない。逃げたって後続のペースが保たれてレースの流れを支配できないかもしれない。先行しても上手く位置取りができなくて落ちていくかもしれない。レースに絶対はないことは、実際に走っているシービーの方がよく理解しているだろう」

「まあ、ね」

「けど、勝負の世界にも絶対が一つだけある」

「へえ。どんなこと?」

「自分が納得した走りじゃないと後悔することだよ。シービーが自由に、楽しく走れること。それがキミにとっての一番の脚質だ」

「……それは、間違いないや」

 

 右を向けと言われても、納得しなくちゃ向くことはできない。

 この世界は見事なくらい窮屈にできている。幼いアタシは他人の言葉が足枷のように、あるいは檻のように感じれて、何度も自由が奪われそうになった。

 

 だからアタシは誰かの期待が大嫌いになった。

 

 両親の勧めでトレセン学園に来てからは本当に楽しかった。エースみたいな面白い友達が沢山できたし、ルドルフみたいな使命を帯びた走りの強さには何度も驚かされた。

 

 それでも。私は期待から逃れることはできなかった。

 三冠ウマ娘? 

 グランプリ制覇? 

 

 偉業と呼ばれる功績がスゴイことは分かってるけど。

 だから、何?

 

「ホント、他人の言葉ってどうでもいいよね」

 

 吐き出した言葉に、トレーナーが険しい表情になった。他人の自由はアタシの自由と同じで尊重されるべきものだから、今の言葉はミスターシービーの信念から大いにかけ離れているのだろう。

 

 アタシはミスターシービー。そうでなければならない。そうでないと、自由を奪われてしまう。

 

「自由に思ってくれて良い。それをアタシに押し付けないでいてくれればいいのにさ」

 

 今は、ただのウマ娘の愚痴がどうにも止まらない。トレーナーがアタシに向けられるべき言葉を庇ってくれていた事実。自分を悪者にしてまでもアタシの走りを守ろうとしてくれたことが健気で愛おしいからかな。

 

 あるいは自分の心の奥底にしまい込んでいた気持ちが溢れてくるからかもしれない。まだ相手の自由を尊重できなかった頃の自分が蘇っているんだ。

 

 昔。走りをアレコレと指摘されることに我慢ができなくなって、コーチに言った言葉がある。トレーナーも怒るのかな。それは少し嫌だけど。

 

 もう、どうでもいいか。

 

「アタシにもったいないとか言う前にさ、自分で三冠なり連覇なり目指せばいいのにね」

 

 ……ああ。

 少し大人になった今なら。あんなに優しい両親でさえ厳しく怒った理由がよくわかるや。

 

「なんでアタシに言うわけ?」

 

 この感情は、この世界が善しとしないもの。人種差別とか性差別とか。幼いアタシが心から吐き出した言葉は、ほんの少し大人になって聞けば、その類と同列だったんだ。

 

「シービー……」

 

 でも同時に。やっぱり正しいことなんだよとアタシが語りかけてくる。大好きな両親にさえ否定され、自室に閉じこもって泣いた自分が脚にしがみついてくる。

 泣きべそをかきながら、小さい頃の私が微笑みかけてくるんだ。

 

「みんな、可哀想。みんな、アタシと同じくらい速かったら良かったのに」

 

 言っちゃった。トレーナーに嫌われることは間違いないのに。でも仕方がないんだ。それがアタシの本心だったから。誰かの「もったいない」という言葉を聞く度に、それはあなたの自由だよと笑う奥底には、相手への差別が見え隠れする。

 

 成長して、だいぶコントロールできるようになったつもり。トレセン学園に入って、沢山の才能あるウマ娘と出会って。アタシより凄い走り手がいることにワクワクしね、久しく忘れていた感情だ。

 

 アタシを否定してくるだけならいつも通り、のらりくらりと構えることができた。でも、そんなアタシに夢を見てくれている人まで否定された。

 

 ……一緒にいてくれる人をまた失うかもしれないと怖くなってしまった。だから、隠していた本心が溢れ出たんだ。

 

 まあ。それをトレーナーに伝えてどうするのって話なんだけど。もしかしたら彼にもアタシのことをもっと知って欲しいと思ったのかも。そういうことにしよう。嘘はつきたくはない。

 

 それはすごく疲れることだよ。伝えた相手が好きな相手でも、嫌いな相手でも。

 

 誰が、相手でも。

 

「そうか……キミは……」

「最低な女?」

「そんなに追い詰められていたなんて……想像もしてなかった」

 

 アタシは耳を立てた。それは音楽にノってるみたいな軽さだった。

 

「……え。そんな風に聞こえた?」

「聞こえたよ。ハッキリと」

「……両親にも同じことを言われたことがある。小さい頃だけど」

「そうか」

 

 まさかトレーナーの口からも聞けるとは思わなくて少し驚いた……けど、なんとなくこの人なら同じ反応をする気もした。

 

 誰にでも話したくない本音はあると思う。恥ずかしいし、みっともないことがほとんどじゃない?

 

 アタシがコーチへ最低な言葉で放って、初めて両親に否定されて泣いた時。お母さんは「苦しかったね」と言ってくれた。そして次の日、お母さんは相手に有無を言わさず、スクールを辞める手続きをしてくれた。お父さんは再びトレーナーの勉強をし直して、仕事の合間にマンツーマンでアタシを鍛えてくれるようになった。

 

 それだけじゃない。お父さんがトレーナーを辞めるキッカケとなった駆け落ちの物語を教えてくれて、二人が出会ったトレセン学園の思い出をたくさん語ってくれるようになった。

 

 例えば夏の合宿所で逢引きしてた場所とか。ふと去年思い出して、帰りのバスの時間ギリギリに行ってみたっけ。

 

「……気持ちを吐き出したのにスッキリしないなんてことあるんだね。なんか出歩く気分じゃなくなっちゃったから、今日は家で特番見ながら過ごすことにする」

 

 今回はたまたま昔の記憶が蘇っただけ。じゃないと、私は私のために走るだけなんて気持ちを貫けない。

 

「今の話、忘れてとは言わない。けど、さっきの言葉も含めて三冠ウマ娘のミスターシービーということで。今年も一つよろしく」

 

 トレーナーの顔は暗くなってしまっているけど、そこは手紙を勝手に開けようとした罰ということにしよう。

 

「待ってくれ」

 

 ヒラヒラと振ったアタシの手をトレーナーが掴んできた。乱暴な動作じゃない。縁日の金魚掬いみたいに、落ちてくるのを待ち構えて、水面に暴れる尻尾を避けるような巧みな動作だ。

 

「少し散歩に出ないか」

「そんな気分じゃないって」

 

 掴まれている手を軽く揺すれば、彼の手は離れる。だけど、またすぐに繋がれてしまう。あくまで主導権をアタシに押し付けてくるのがイヤらしい。

 

「俺、知ってるんだ」

 

 そしてその代わり、言葉で捕まえようとしてくるところもね。

 

「何を?」

「俺よりも先に、キミに夢を見た人たちがいたことを。その人たちを失ってしまったことを」

 

 そんなこと、言われたらさ。

 振り解くことなんて、できなくなるよ。人間さん、力で勝てないからって卑怯じゃない?

 

 

3

 最初はね、みんながアタシが走る度に自分のことみたいに喜んでくれた。

 

『シービーちゃんは速いね。すごい末脚だね』って。

 

 でもアタシがアタシらしく振る舞うたび、次第にその数は減っていってしまった。それは新しいクラスに次第にグループができるみたいなものかもしれない。よく知り合ったら、なんとなく価値観が合わなくて、疎遠になる感じ。

 

 それでもゼロになってしまったわけじゃない。納得できなきゃ言うことをきかない子どもだったアタシにも、完璧でなくても価値観が近くて、寄り添ってくれる新人のコーチや友達がいた。

 

 名前は、覚えていない。確かトレーナーみたいに優しい笑顔をしていた大人で、エースみたいにアタシと走ることを喜んでくれていた子だった。そのコーチは指示に従わないアタシにどんな走りをしたいか真摯に聞き出そうとしてくれたし、自由な走りのためにわばわざ時間を作って専用のトレーニングをしてくれた。その子は授業をサボって先生に居残りさせられたアタシを廊下の小窓から覗き込み、自分は今さっきひとしきり走ってきたことを自慢するみたいに汗にまみれてニヤニヤ笑ってたんだ。

 

 自由に走ろう。

 酷く退屈なレッスンや補習の後、アタシに寄り添ってくれた人たちはそう言った。その言葉にアタシの価値観は守られたと言っても良い。ただただ幸せだった。隣を見ると、自転車に乗ったコーチがいて。また別の日には顔を真っ赤にしてアタシと張り合う友達がいる。

 

 アタシの自由は独りよがりじゃないんだって思えたんだ。

 

 隣を歩いているトレーナーは、どうしてそのことを知っているんだろう。一月の河川敷に身震いをしている姿からは何も読み取れないし、連れ出された手はずっと繋がれたままだった。

 

「そろそろさ。はなしてくれない? この手も、アタシの小さい頃を知ってる理由も」

 

 もう少し苦戦させられるかと思ったけど、トレーナーは案外簡単に手を離してくれた。

 

「シービーのお父さんから聞いたんだよ」

「いつの間に?」

「偶然、居酒屋で出会ってね」

「……まさかトレーナーにそんなことまで話してるなんて思わなかったや」

「シービーには言わない約束だったんだが……まあ、キミと同じで俺も約束は苦手な方だから」

「なんでもアタシのせいにしないでよ。都合が良いなあ、もう」

 

 お父さんを恨む気にはなれなかった。トレーナーが望んだとはいえ、アタシに引っ張り回されると知った時、両親は懸命に弁解してたぐらいだから、きっとあの人も不安だったのだと思うから。

 

「シービーに寄り添っていた人たちは離れていってしまったんだよな」

「うん」

 

 新人のコーチは、勝ちにこだわる上司の圧力に耐えきれずに辞めてしまった。友達は、その場にいないアタシの代わりに虐めの矛先を向けられ、引っ越してしまった。

 

 アタシを好きでいてくれる人は、最後にはいつも離れていってしまう。唯一アタシの傍にいてくれる両親だって、お互いのことを一番に愛しているに決まっている。そうでなければアタシは生まれてこなかったわけだからね。

 

 独りであることは別に苦じゃない。この世界には面白いものが一杯あって、寂しさを感じる暇なんてないから。

 

 でも、この世界は他人と生きることを強制する。例えばレースを走りたいウマ娘にトレーナーが必要であるように。

 

 だから生きるのが、難しく感じることがある。

 

 トレーナーはアタシの肩に手を置いた。摩るられると、なんとなく心地は良かった。

 

「俺は絶対に、キミを追いかけることを諦めたりしないから」

 

 たぶん本気で言っているんだろう。バレンタインの時、トレーナーの口から錘という言葉出てきて意外に思ったよ。あの時、彼がアタシのことを知ろうとしているのは、ただ走りを見たいからだという認識が変わったんだ。

 

 そしてクリスマスでアタシのグッズを持ってない理由に「いつも傍にいるから」と言われた時、この人はアタシに傍にいて欲しいんだと悟った。

 

 約束はできなかった。でも嫌ではなかった。

 

「知ってる。知ってるけど信じ切ることはできないよ」

 

 でもそんなのは関係ない。人は、いつかアタシから離れていくもの。

 

「……小さい頃の私は、寝る前にウマ娘の祖先の世界を想像することがあったんだ」

 

 トレーナーが担当契約する前に、アタシの走りを知りたいと言った。その時のように語り聞かせる。

 

 構造物なんて何一つない。ただ広い草原で風は行き場を失っていないし、視界一杯の青空の下で駆け抜ける日々があるだけだ。ゲートなんてものはない。ラチもない。そもそもルールなんてものがない。だから三冠とか、そういう称号も伝説も神話ない。

 

 ターフ以外には何にもない。風の吹き止まない広大な地でアタシの心臓は落ち着くことは一度だってない。取り込んだ酸素を限界まで使い果たして、思いのままこの脚を動かし続ける。

 

 そのうち、知らないウマ娘と出会う。気が合って、あるいは縄張り争いして。どっちが速いかを競う。ただひたすら真っ直ぐに毎日望むがままに走る世界。

 

 それが、アタシの望む世界だ。

 

「それは、シービーに似合うな」

「はは。トレーナーもそう思ってくれる?」

 

 そんな夢を見ながら、いつの間にか眠りに落ちる。瞼を開ければいつも通り、父さんがニュースを見てる。母さんと何か話していて優しい笑い声が聞こえてくる。

 

 すごく幸せなことが伝わってきて。なんだか寝起きの私まで嬉しくなってくる。気分が良くなって、今日はどこまで走ろうかなと、カーテンを開けて──そして私は項垂れることになる。

 

 差し込む朝日は、お隣さん家に遮られていて不完全だ。鳥の声を掻き消すような車の音が煩わしい。

 

 レースは好き。両親のことも好き。

 でも。夢に見る世界とは、かけ離れた世界。

 

「時々ね。生まれてくる時代を間違えたかなって思うことがある」

 

 夜中に目が覚め、両親が幸せそうに寄り添い合う音が聞こえた時。あるいはやたら広く感じる一人暮らしの部屋で寝転がっている時に、不意にその考えが頭を掠める。

 

 それはきっと「あなたたちといたくない」と、言ってるようなものだからさ。そ両親には言えるわけがない。これはたぶんトレーナーにしか吐き出せない心の声だ。

 

 今、トレーナーはどんな表情をしているんだろう。顔は上げられない。怒っているかもしれないし、悲しんでいるかもしれない。でもそれが本音なんだ。

 

 私が間違えただけという、簡単な話だ。

 

「……間違えた、か」

「言っておくけど、今の私は流石にそんなことを思ってないよ。両親以外にも私のことを認めてくれる友達とか、先生とか、あとトレーナーもいるし。この世界には批判をされる分、認めてくれる人もいるって知ってるし……ただ子どもの時は、さすがにね」

 

 トレーナーはアタシの肩から離した手で顎に触れて、深く考え込んでいる。沈黙は長く、アタシが川の方へと降りて行こうとした時に「この時代に生まれたことが間違いなら……」と、呟いた。

 

「何?」

「シービーは過去と未来、どちらに生まれたかったんだ?」

 

 肺に一杯に取り込んでいた冷たい外気が意図せずに口から抜けていった。立ち昇る白い煙を見上げているトレーナーの思いもよらない一言に、アタシは砂利に脚を取られて転びそうになった。支えられた腕を軽く叩いて健在をアピールしながらも、トレーナーの言葉を反芻する。

 

「過去と未来……?」

 

 過去がウマ娘の祖先なら、未来とはウマ娘の子孫ということになるのかな。

 

「キミは祖先の世界を想像してたから、やっぱり過去に生まれたいのかな?」

 

 確かに、アタシが生まれたいと思ったのはいつだって太古の草原だ。なんのしがらみもない自由な風と共にどこまでも走る夢だ。

 

 じゃあ、未来って? 蹄鉄にエンジンがついてるとか、空中にコースがあるとか? 何それ、面白いかも。

 

「そうだね。未来に生まれたらなんて、一度も考えたことなかった。空中走れるようになってるかなぁ」

「それ、走ってて燃えるのか?」

「可燃性だから燃えるんじゃない?」

 

 トレーナーが吹き出した。わかってるよ、そういう意味じゃないんでしょ。

 

「これはあくまで俺の想像だけど……未来では、今よりずっと身体能力も技術も指導も進化していて、例えば数年に一度は三冠ウマ娘が現れるぐらいに珍しい栄光ではなくなっていたり、もっと言えば神話が毎年話題になる日が来てたりするかもしれない」

「それじゃルドルフが可哀想だよ。三冠とっても数年しか話題にならないんでしょ?」

「あくまで仮定の話だよ。例え時代がどれだけ変わっても、クラシックレースと三冠だけが持つ特別な緊張感と夢はなくならないだろうし、彼女は三冠ウマ娘のうちの一人だ、なんて扱いにはならないよ」

 

 砂利の足場の悪さに任せ、足首を躍らせる。体があっちへいったり、こっちへいったりするそんなアタシに、トレーナーは体を寄せてきた。

 

「だからこそシービーが神話を望むこの時代に三冠ウマ娘になったことには意味がある。いや意味が残るんじゃないかなと思う」

 

 あくまで"分かりやすい"から三冠を例えにしたけどねと言ってトレーナーがニヤリと笑っているのは、どうやら初めて出会った時にスカウトの誘いを断ったことをまだ引きずっているみたいだ。

 

 それはともかく。ああ。でも、なるほど。

 そういう、落とし所か。中々技巧が効いてるじゃない?

 

「シービーは何かとルドルフと自分を比較するけど、シービーも、ちゃんとウマ娘の未来のためになっているよ」

「ちょっと。真面目に頑張ってるルドルフに睨まれるから辞めてよね」

「苦労をかけているし、たまには怒られても良いんじゃないか?」

「やだよ、おっかない。なんか電気発しそうだもん、あの子」

「はは。練りに練ったギャグ三時間コースもあるんじゃないか」

「そっちの方が楽しいかもね。それより、話戻したら?」

「……ああ」

 

 トレーナーは視線で澄んでいる川の流れを辿っているので、アタシもそれに倣う。

 

「未来のウマ娘にとって、不利と思われる脚質で問答無用の実力を示したウマ娘がいたこと。脚質や距離に囚われず望むままに駆け抜けた、自由なウマ娘がいたことは、いつか同じ道を行くウマ娘を守ることになると思うんだ」

「だから、アタシはこの時代に生まれるべきだったって?」

「べきだったかはまだわからない。いやそもそもキミにとってはどうでも良いことだろう?」

「そりゃね」

「でも、シービーと一緒に走った子やシービーの走りに夢を見た人はきっと、こう思ってる」

 

 大地に根付く大樹のように、トレーナーの体がアタシを支えてくれる。木漏れ日を描く枝木のような手が頭に触れて、耳の間を丁寧に撫でられると、目を閉じたくなった。

 

 川の音、鳩の鳴き声。通り過ぎていく足音。暗闇に支配されても、それでもまだアタシは歩き続けられる。前が見えなくなっても、まだ。

 

「この時代に生まれてくれて、こんな興奮と夢をくれて、ありがとう。それがミスターシービーに夢を見るということだから」

「夢……ね」

「そしてそれが、年末のクリスマスでシービーが言ってた、欠けているものの正体でもあるはずだ」

 

 トレーナーがアタシに夢を見ると言うたびに。自分に欠けている部分が満たされる気がした。でもそれは刹那のうちで、気づけばいつもの自由の代償が心の片隅に居座るようになる。

 

「シービーはちっとも欠けてなんかいない。もしも空虚を感じているのなら、それは欠片として道端に落としてきたからさ」

「ポイ捨てはしたことないよ?」

「心の中では違うだろう? キミは自由すぎるから」

 

 これは痛いところを突かれた。他人がどう思うと自由ということは、裏を返せば他者の気持ちなど捨て去っているということでもある。尊重はする。でもあなたが預けたい錘はいらない。それがアタシの生き方。咎められているわけではないのだろうけど、捨ててきたことに否定的な意見を言われた気分だった。

 

 いや、否定的というよりも諭されていると言うべきか。トレーナーにしては珍しく、

 

「なんだか今日は暑苦しいね」

 

 勝手に決めつけられたような気がする。嫌な気はしないけど。

 

「そのために外に出たんだ。元日の風はちょうど良いじゃないか」

「んー、まだ少しだけ寒いかな」

「ならおまけにもう少し熱血を分けようか。キミが無意識のうちにポイ捨てしたものが、どんなものだったのかを教えるよ」

「どうやって?」

 

 大きく頷いたトレーナーがその場にしゃがみ込む。足場が不安定で揺れている背中を見つめながら、アタシは立ち尽くしていた。

 

「おんぶさせてくれないか?」

 

 

4

 振り返ってくる自慢げな顔を見つめ、言葉の疑いの晴れない耳を左右に振るアタシは首を傾げた。

 

「お、おんぶ?」

「いつか同じ視座に立てるようにとシービーが俺を背負ってくれたことがあったろう。今度は俺の背中で、シービーを応援する人たちの気持ちが伝えたい」

「本気なの、それ?」

「いつにもなく、割とね。ヒトの目線で走るのも面白いかもしれないよ」

「……そこまで言うのなら乗せられてみるけど。張り切りすぎて筋肉痛になっても知らないから」

「ドンとこい」

 

 腰あたりに体を押し付けると、脚に腕が回された。そしてトレーナーは軽々しく持ち上げると、徐に走り出した。

 

 これは恥ずかしい。なんだろう、年甲斐のなさとか、異性とくっついてドキドキしてるとかじゃなくて、もっと本能的な部分でとても居心地が悪い。

 

 おそらくトレーナーは全力疾走をしているのだろう。しかし弱々しい向かい風の中で、ちっとも速度は出ていなかった。1ハロンもいかないところで、ついにトレーナーは立ち止まってしまい、とぼとぼとした歩きに変わった頃には背中からは汗が噴き出ていた。

 

「辛そうだね」

「……だ、大丈夫!」

 

 痛いほど脈を打っているトレーナーの背中には、胸を騒がす苦しさも髪を梳く風の流れもない。アタシがトレーナーによって導かれた世界とは、およそウマ娘の本能が求める速さとはかけ離れた、のんびりとした誰でも辿り着けるような世界だった。

 

「これがアタシを見ている人たちの世界なんだ」

「ど、どうだ?」

 

 ウマ娘の脚にはジョギングにもならないスピードで、ウマ娘の体力なら走ったことにもならない距離を、トレーナーは力の限り走っている。何もかもがゆっくりしていた。

 

 でも。だからこそ、いつもより河川の流れがよく見える。髪を梳く風の音の代わりに草木が揺れる音が聞こえる。世界はくっきりと、どこまでも、ありのままの姿を映していた。

 

 ウマ娘の走りもきっとそうだ。アタシたちが当たり前のように駆け抜けるスピードを、ヒトはこうやって、ありのままでアタシたちの走りを見ているんだ。

 

「……そういえば、小さい時は寝たフリして父さんにおんぶをしてもらったっけ」

 

 彼は当時のお父さんと歳が近いけど、背負われる方のアタシの体はすっかり成長してる。だから懐かしさを覚えるのは少しおかしい気もする。それによくよく考えてみれば、背丈も脚に回されている腕の太さもお父さんとは違う。

 

 でも知っている。私はこの背中を覚えていて、いつかどこかで……アタシはこんな風にトレーナーにくっついっていたような気がする。

 

「ねえ。私たちって、ずっと昔に会っていたりする? なんかこうしてるのが懐かしい……初めてじゃない気がするんだ」

「もしシービーみたいな子に会っていたら、絶対に忘れないさ」

 

 アタシだって、こんなにも身近に感じることのできるトレーナーを忘れるわけがない。

 

「不思議だね。あっ、これはもしかして運命ってやつ?」

 

 回していた腕に力を込めると、ムニムニしててクセになる耳に私の髪が触れた。それがくすぐったかったみたいで、トレーナーは避けようとしている。

 

「ロマンチックな雰囲気に水を差すようで悪いけれど、こうやってシービーを背負うことは初めてじゃない」

「えっ、いつ? アタシは全然記憶にないんだけど」

「デビュー前。風邪引いて倒れたキミを家まで運んだろ?」

「……ああ!!」

「イテェ?!」

「あ、ごめん」

 

 思い切り引っ張ってしまった耳を解放しつつ、アタシは3年前のことを鮮明に思い出していた。

 

 そうだ。気ままに雨の中で走り回ってた翌日に、体調を崩したアタシは商店街で視界が真っ暗になって、たまたま傍にいたトレーナーに家まで運んでもらったことがあった。

 

「すっかり忘れてた……そうか。だからこの景色に見覚えがあったんだ」

 

 微かに視界が上下する。これはきっとアタシだけでは辿り着けなかった光景で、トレーナーの背中だから満たされる心地良さだ。

 

「ちなみにあの時、トレーナーになれるチャンスだと思って近づいたんだ」

 

 思わず鼻で笑ってしまった。

 

「そんなことができる人なら、アタシたちはもっと早くコンビを組んでたよね」

 

 その返事はやはり、同じような小バカにした笑いだった。

 

「違いないな。しかしあの頃は本当に大変だった……専用の蹄鉄はアピールできるはずだと自信があったから」

「そうだったんだ。よく諦めなかったね」

「普通なら折れてたよ。でも雨の中でも最高の走りをするキミの走りが俺を強くしてくれた」

 

 砂利を踏みしめ、トレーナーがずり落ちていたアタシを背負い直す。

 

「キミの背中を見ている俺には、他人のどんな言葉も届かないし、シービーが自由に走ってくれていたのなら他に何もいらないって」

 

 そして頭が熱くなったアタシは体を起こして、できるだけ彼に近づかないようにする。

 

「キミの自由な走りが、ミスターシービーに寄り添うことを教えてくれたんだ。ありがとう、シービー。沢山の夢をもらったお礼に、俺はいつまでもキミの傍にいることを約束する」

 

 アタシは約束はされるのも、するのも嫌いだ。期待を受けるのもかけるのも嫌いだから。でもこれは……あはは、まいったな。

 

「だから、安心して走ってくれ」

 

 自由を求めるウマ娘の本能でもなく。部屋に閉じこもった頃のアタシでもない、何かが。彼の言葉に反応をしているような気がした。

 

 ルドルフは、トレーナー……ヒトにはウマ娘が持ち得ない何かがあると語った。今アタシの胸を染め上げている何かと、彼がくれた何か。合わさりあった欠片が一つの新しいものになって、この胸に溢れているような。

 

 きっと、大事なものだ。守らなければいけないもの。

 

「うん、わかった。アタシは走るよ」

「ああ」

 

 そんな気がしたんだ。

 

「トレーナー」

「おう」

「……今のってさ。約束っていうより告白じゃない?」

「もちろん。ミスターシービーのトレーナーとしての覚悟の告白だ」

「……なんだって?」

「俺は三冠ウマ娘のトレーナーだからなぁ〜。これぐらいのことは言えるようにならないといけないだろう?」

 

 ……一気に体が熱くなった。凄く良い感じだったじゃん。何なのそれ? すごいムカつくんだけど。

 

「ドキドキしたか?」

「少しは、ね!」

「痛ッ?! だから耳を引っ張るなって! 悪かったって!」

 

 体が熱くなったアタシは思い切り、両手を伸ばす。悲鳴をあげるトレーナーの歩みは、ウマ娘の脚に比べるまでもないくらいに遅かった。

 

 けれど、その背中はしっかりと伸びている。気が済んで耳から手を放して、そのまま上へと伸ばせば、こんなにも──

 

「見て! 空が高いよ!」

「そりゃ、まあ……シービーの走りに俺は胸を張って生きているからな」

「へー、アタシのエーキョーリョクもバカにはならない……おっとと」

「しっかり掴まってないと危ないぞ」

 

 バランスを崩した振りをした。狙い通りにトレーナーが慌てたように姿勢を低くしたので、アタシは広い背中に胸を預ける。

 

「わっ?!」

 

 そして、いつもよりずっと近くなった横顔に唇を当てる。冷たくて、柔らかい、不思議な感触がした。

 

 理由は特にない。ただ今、なんとなくそうしたかっただけ。

 

「わっ?! ってことはないでしょ。傷つくなぁ」

「……シービー」

「ごめんごめん、当たっちゃったんだよ。どうも失礼しました」

 

 随分と不満そうな声をしてるけど、今日はトレーナーの色んな表情が見えて、なんだか面白かった。そうなるともっと引き出したくなるのが世の定めだ。彼は無理矢理降ろそうとしてくるけど、アタシはしっかりと四肢でしがみつく。なおもウマ娘相手に無駄な格闘を続けていた彼だけど、やがて諦めたように歩き出した。

 

 そんな諦めの良さも、嫌いじゃないよ。

 

「ねえ、トレーナー。実家までこのままで行ったら、あの二人はどう思うかな」

「……それは、やめておかないか?」

「それは、アタシの気分次第だね」

 

 その気分とやらばかり大切にしていたアタシにはずっと何かが欠けていたらしい。それが大事なものだとはわかってはいたけど、その正体はつい最近まで分からなかった。

 

 トレーナーは欠けたそれを、アタシが未来のため、無意識に道に残してきたものだと言った。

 

 そうだとしたら、この心の中はスカスカになっていることだろう。

 でも、不思議なことに今もまだたっぷりと満たされている。

 

 それはきっと、欠けた部分を刹那のうちにトレーナーが埋めてくれているからで。トレーナー曰く、未来のためにアタシがポイ捨てしたとかいう欠片は、キミが一緒に残したものでもある。

 

 つまりアタシたちは共犯ってことだ。

 

「だったら安心だ。キミはどうせ、トレーナー虐めなんてすぐに飽きるから」

「流石だね。よくわかってる」

 

 共犯なら、一緒にいることに遠慮することはない。

 共犯なら、どこかへ行ってしまうことだってない。

 

 もし相手が怪我をしたのなら。こうして代わりばんこに背負えば良い。痛みも苦しみも、この背中の上ならば、雲すら掴めそうな距離にある青空へ溶け込んでいく。

 

「でも、今回はどうかな?」

「え」

 

 安心して。

 キミの背中で少し休んだら、アタシはまた前を走れるんだ。

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