天衣無縫のプロポーズ
「ただいまー」
数日間空けた自室は、ひどく狭く感じるものである。草臥れた体でリビングまで歩みを進めれば、
「ふう……」
ミスターシービーには、いつだってお気に入りのハンモックが待っている。現役時代から愛用しているそれが与えてくれる、包み込まれる安心感というものは、友人の家の布団やホテルのベッドでは決して味わえないものだった。
揺れる視線の先には、少し元気のない観葉植物が飾られていた。シービーはムクリと起き上がると、
「お水くれる?」
彼女に続いて部屋に入ってきたばかり、大きなボストンバッグを下ろしたばかりの男性へと無慈悲に手を伸ばした。ハンモックの上で器用に胡座をかいている家主をしばらく見つめていた彼は、バッグの外ポケットに収まるペットボトルで観葉植物に水を与えてくれた。
「おお。よく分かったねー」
「よしよし、ただいま帰ったぞー」
葉っぱ一枚一枚に優しく触れているその人は、史上二人目のクラシック三冠を果たした、ターフの演出家、ミスターシービーの元トレーナーだ。現在は彼女の輝かしい戦績と自由な走りに惹かれたウマ娘たちを率いる名チームのチーフトレーナーで、教え子たちが毎度のこと劇的なレースを魅せるため「レースの脚本家」と称されるほどの実力者となっている。
演出家と脚本家。そんな二人が東京を離れた三泊四日の国内旅行は、ミスターシービーが友人の結婚式に招待されたため立案された。彼女が携帯電話を操作して、トレーナーから送られてきた旅行中の写真に目を通すと、いつも通りの格好の自分とウェディングドレスを着た力強い眼差しが印象的なウマ娘が並んでいる一枚を選択する。
「何度見ても良いなぁ」
「綺麗だったな、エース」
「ね。素敵だった」
ミスターシービーにとって同じ時代を駆けた友であり永遠のライバルであるカツラギエースが、学生時代からすっかり変わってしまった綺麗な姿で、しかし変わらない人懐こい笑顔を見せている。
古くはマルゼンスキー、そしてトウカイテイオーやドゥラメンテなど。URAの規約や怪我、あるいはコンディションにより、レースというものは観客、プレイヤーの誰もが望む戦いにならないことが多い。そんな中で、ミスターシービーとカツラギエースはクラシック三冠を賭けて走りきり、その後も何度もゲートで顔を合わせた永遠のライバルとなったことは、まさに奇跡と言える所業だ。
そのような間柄で、ミスターシービーがカツラギエースの結婚式で果たす役割は自然と大きくなる。
「シービーのスピーチも素敵だった。披露宴直前まで、ちょっとしたサイン会みたいになってたし、その場で考えたんだろ?」
「まあね」
ちなみに卒業後、ミスターシービーは写真家兼エッセイストとして国内外を転々と旅行している。代表作の『シビさんぽ』はシリーズ累計1000万部の売れっ子で、天才はどこへいっても一流……というよりも、人々を惹きつける彼女が生き方を明文化することは、それだけで大衆には価値があると言うべきだろう。当の本人も、自分が面白いと思ったものを忘れずに写真に収め、少し感想を書けば学生時代と変わらずにいられるのならば、という理由でこれまで続けてきたわけだ。
ふと、写真の中に動画が紛れ込んでいることにシービーは気づいた。暗転しているため詳細はわからないが、結婚式の写真に挟まれているのだからそういうことだ。
「何これ?」
どうやら音声だけを目的に録画したもので、聞こえてきたのは彼女自身の声だ。
「こっそり録画してたんだ?」
「本当にこっそりなら送ってないよ」
馴れ初めもそこそこに、自分がクラシック路線を全力で戦えたのはカツラギエースのお陰であること、そしてレースの思い出を実に嬉しそうに語る自分の声に、彼女は思わず笑ってしまう。
『エースは逃げで、アタシは追込。勝った時も負けた時も、誰よりも彼女の背中に近かかったのはアタシです』
『そんなアタシから新郎のあなたに。カツラギエースの眩しい背中を託したいと思います。油断すると彼女はすぐに離れてしまうので、気をつけて』
『そしてエースへ……はは、何泣いてるの? キミはこの先の人生も、全力で駆けてね』
動画の終わり際の大きい拍手は、当然ながら撮影者のものだろう。
「酔っ払ってた時にも何度も言ってたろうけど、本当に良いスピーチだった」
「席に戻ったらキミまで泣いててビックリしたけどね」
「二人の姿を何度も見てきたからな。昔を思い出して胸にジーンときちゃったんだ」
「歳じゃない?」
歳と思われるトレーナーはテキパキと荷物の整理している。ジッと見つめていると、古びたぬいぐるみをテーブルに置いた。かつてはキーホルダーだったそれは、金属部分が壊れてしまい、もはや役割をなくしている。おまけに綿が足りないらしく、コロンと横に転がってしまった。
「持って行ってたんだ?」
「お守りみたいなものだからな。お尻の部分とか破れたりしたけど何度か自分で直してるし」
「はは、相変わらず器用だね」
現役時代にトレーナーへのクリスマスプレゼントとして贈った自分自身の存在をすっかり忘れていたが、どうやら肌色がくすみきったそれを今も肌身離さず持ち歩いているようだ。
「作りがいいから」
「ふぅん……」
シービーの興味は、すでに携帯電話の方へと移っている。画像を辿る指が止まったのは、披露宴の最後、エースと新郎による、自身の両親への感謝の場面が写り込んだからだった。
結婚とは結ばれる二人だけのものではない。他者であった家系が一つとなり、その子孫を残していく。それを今回の結婚式で彼女は大いに感じ取った。
そうなると、一つの疑問が浮かんでくる。
「アタシの両親の結婚式って、どうだったのかな」
「どうした急に」
「いやそもそも、駆け落ちした身だったろうから、挙式してないのかも」
「それは……」
晴れ姿のエースと新郎を瞼の裏で若き日の両親に置き換えてみる。そして二人が両親へと感謝を伝える光景に、やはりシービーは眉を顰めた。
「挙げてたとしても、きっと母さんには感謝を伝える相手がいなかった。二人はそれを、どんな風に受け止めたのかな」
荷物を漁る音だけが響く。自らの呼吸が、胸に乗せた両手へと伝わること数分。
「案外、気にしてなかったかもな」
トレーナーの淡々とした声に、シービーはハンモックの縁から彼の背中を見つめる。
「そう思う?」
「ひたすらお互いに夢中になっていないと、きっと駆け落ちなんてできないだろう」
「なるほど、ね」
速度の変わらないトレーナーの手の動きを観察していると、長い付き合いのシービーはそれが異様な光景だということがわかる。
動揺、というわけではない。ただ彼の頭の中には全く別の考えが浮かんでいるのだろう。例えばそれは、自分の、自分たちの将来だ。
「ちなみにアタシは結婚したいとは思わないよ。家族になるってことは、何も自分たちが望むだけじゃない。それがエースのおかげでよくわかったから、尚更ね。最近アタシの両親はなんとなく急かしてくるし、キミのお父さんとお母さんもきっとそうでしょ? 挨拶した時、なんとなく二人とも真面目そうな感じだったからさ」
「そんなの気にしなくていいよ」
「気にするよ。キミはもう、特別な人なんだから」
「……だったら、まあ。難儀だな」
「うん。詰まらないことだけど、でもこういうことはキミには伝えなくちゃいけないかなって思った。万が一、アタシが誰かと結婚したとして。それでもアタシは行きたいところに行くし、その時にしたいことをする。そんなアタシと結婚したら、誰かさんには後悔させるかもしれない」
シービーにしてはかなり真面目な顔をしているつもりだったが、トレーナーはさして気にした様子もなく、大きく伸びをして首を振る。
「そんな深く考えなくて良いよ。お互い忙しいし」
長い付き合いだ。同じ姿勢で凝ったらしい回している腕が、わずかに震えているのがシービーにはわかった。痩せ我慢をしてまで、彼は自分の気持ちを優先してくれる。
(それは嬉しい……けど)
「他人の命が関わるんだから考えるよ」
眉を顰め、見上げてくるトレーナーに向けて、ハンモックの縁に器用に頬肘をついたシービーはニッコリと笑った。
「エースね。赤ちゃんできたんだって」
「……へ?」
「妊娠3か月。旦那さんには披露宴の後に伝えるって言ってたよ」
それまでの会話を忘れたトレーナーのポカンとした表情が愛らしく、シービーはクスクス笑い、記念に写真に収める。そしてシャッター音に弾かれたように笑顔を作ったトレーナーは拍手をした。
「お、おめでとう!!」
「アタシに言ってもしょうがないよ?」
「そうだな……でも、旦那さんはビックリするだろうな!」
「無事に産まれて欲しいよね」
「そうだな……!」
一通り整理を終えたらしいトレーナーは手を後ろにつけて、痺れているらしい脚を伸ばしている。くつろぎながらも「あのエースが、お母さんかぁ」と嬉しそうに笑っている姿に、シービーは目を細める。
「ねえ、なんの話だったか忘れてるでしょ。他人の命に関わることって話。簡単に言うとさ……アタシは子どもが欲しいと思わない。結婚する以上にね」
未来の否定。それに対してトレーナーはどんな反応をするのかを見逃さないようにシービーは彼の顔を見つめ、内心で大いに驚きを抱く。先程の結婚の否定の時には揺れていたように見えた彼の意思が、こと子どもの件については微塵の不満も疑念も、少なくとも表情からは伝わってこなかったからだ。
そこにあるのは、紛うことのない、自分と生きていく覚悟だった。
「別に平気だろ。俺も両親には、孫の顔は見せられないかもしれないと伝えてある」
「……それって納得してもらえたの?」
「納得も何もない。家族の問題じゃなくて、これは俺個人の問題だ。理由を説明して、そうすることを伝えるだけでいい」
「そんな、アタシじゃないんだからさ」
「くっくっ……まあ、心配しないでくれ。ちゃんと納得はしてもらったよ」
「信じられないけど?」
「俺にはトレーナーとして担当するウマ娘がいる。もしも俺が、誰かと生きていくと決めたのなら。その時は教え子こそが、あなたたちの孫なんだと言った。毎週のレースを楽しみにしてくれって」
「……なるほどね。そこまで考えてたんだ」
「絶対、周りを納得させたかったからな。現役時代からのなし崩しとか、家族になる責任がないとか。そんなこと言わせたくないよ」
「ふふ……気がきくね」
しかしそれらはあくまで"誰かと生きていく"ということが前提であり、その相手はシービーであるとは限らない。彼女の気持ちを汲んでいるからこそ、トレーナーは言葉を揃えてあえて濁したのだろう。
「けど、もしかしたらアタシは旅先でキミより素敵な人と巡り逢うかもしれない」
その優しさをミスターシービーは容易く踏み躙る。明らかな挑発であったが、トレーナーの表情は変わらない。
「それでもシービーが選んだ相手なら、きっと大丈夫だろう」
その誰かとはお互いに別の人かもしれないと言い始めたのは彼女の方だった。しかしシービーはハンモックから飛び降りていた。動き出したくなるほど心が浮ついているけれど、それは走りたくなるような高揚感ではない。
「なに、それ」
苛立ち。日本ダービーの後、カツラギエースが彼女をミスターシービーとして見てくれなくなった時に見せたような、自分が認めた相手を叱咤する力強い瞳がトレーナーを射抜いていた。
なぜならトレーナーと別れる未来は──それは、彼女が自分自身に危惧している未来でもあった。
感情の抑えが効かないミスターシービーは握り拳を作り、太ももへと打ちつけた。
「本気?」
「もし今から突然別れたいと言われても、納得しようと努力する」
「今までそんな気持ちでいたんだ?」
「勝手ながら、心にいくつかの保険はかけているよ」
つまりは、シービーは自分と別れないという自信だ。トレーナーがこと自分との関係において、そんなにも強い縛りつけるような言葉を使った記憶がなかった彼女は、怒りもどこへやらキョトンと首を傾げるしかない。
「それって、どんな?」
「キミの背中を一番見ているのは、エースでも他のウマ娘でもなく、俺だということ。俺が一番側にいた自信があるよ」
確かにレースを最後尾から眺めるのが好きなシービーにとって、他のウマ娘に背中を見せる時間は極めて少ない。
「あとキミは次々に誰かを好きになるほど器用じゃない。口先だけでトレーナーを決められない、そんな不器用な子だったから、俺はキミと担当契約できたんだ」
言われてみて、シービーはこれまで素敵な人だと思った異性を思い浮かべる。
例えばそれは、皇帝シンボリルドルフを支えたトレーナー。遠大で途方もない彼女の覚悟を支えた、まさにトレーナーの中のトレーナーと言えるだろう。
あるいはカツラギエースのトレーナーも、時にはシービーですら離されてしまう不動のエースへの熱い想いに応え、そして結婚式では人目も憚らずに気持ち良いほど泣いていた。
そして何よりも父親だ。母親と結ばれるためにトレーナーという仕事のすべてをかなぐり捨て、幼いシービーには彼女のわからないこと、知りたいことに全力で向き合ってくれた。
どんな相手にも「シービーはシービーなんです」と、彼女の心を守り切った、強くて優しい人だ。
そんな、これまで出会った「少し良いな」と思った人々には、共通して教え子や娘を包み込んでくれるような愛情を感じさせられたものだった。
肝心のシービーのトレーナーは、彼らとはどこか違った。彼には自分の心の欠けた他者への共感部分にピタリとハマるような繋ぎ目があった。いわばシービーにだけ合うパズルのピースで、だからこそ彼女はトレーナーを特別だと想うようになったのである。
しかしこっそりと両親の仲睦まじい姿を見かけても、自分たちも同じだとは思えない。現在に至るまでのトレーナーとの交際も、好きな時に寄り添い、かと思えば突然彼女は旅に出るような時間を過ごしてきた。
「……ずいぶん信じられてるんだ、アタシ。側から見たら酷い恋人なのに」
「信じているわけじゃない」
「そうは聞こえなかったけど?」
「風の息吹くままに。太陽の輝きに導かれるように。キミは笑ってしまうくらい、本当に気まぐれな女の子だ」
契約したばかりの頃に、フリースタイルレースに夢中になるあまり、トレーニングを忘れてしまったり。
反骨心を失ったカツラギエースを完膚無きまで叩きのめすため、菊花賞に向けた無茶なトレーニングを実践してみたり。
お互いに惹かれていることを薄々感じていた癖に、一緒にはいられないと拒絶してみたり。
常人では隣にいることが耐えられないような、気まぐれな人生を彼女は送ってきた自覚がある。
「それがキミだから」
いつか、トレーナーは彼女が走ってきた道を決して曲がりくねってはいなかったと称した。例え王道ではない裏道でも、道のりは真っ直ぐだったと。
(そんなわけがない。いったりきたり、目的地だってアタシは決められないんだから)
そう伝えれば、トレーナーはきっと「散歩とターフの上は別」と否定してくれる。自由に、天衣無縫に。大地を弾ませる姿を言っているのだと。
その前に忘れられていることがあったとしても、彼は平気な顔でそう言うのだ。
「アタシをミスターシービーでいさせてくれたのはキミだよ」
シンボリルドルフの才能に適した己の在り方。マルゼンスキーの自由な走りを求め、そしてその素晴らしさを伝えたいと願う姿を見て。
もしかしたら、自由には走ってはいけないのかもしれないと、一度だけ心が折れかけたことがある。
そんな時トレーナーは自分に夢を見ていると教えてくれた。心が欠けていて自分は誰かに対して何もできないと思い込んでいた彼女にとって、それは奇跡のような言葉だったが、もう一つ、トレーナーも知らない大切な言葉がシービーの胸には宿っている。
トレーナーと交際を始める前。シービーは実家に帰り、長くかかってしまった幼い頃の母親との約束を果たそうとした。
『たぶん……特別な人ができたんだけどさ。母さんは父さんと出会った時、どう思ったの?』
確たる気持ちはあって、隣にいることを選んだ。けれど、これからどうすれば良いのかはわからない。そんなふわふわとした立場にいたシービーは母親にこう伝えたのだ。
台所にいた母親は、いつもと変わらない笑顔で、いつもと変わらずに振り返る。そして──
「あるがままのキミが俺の理想のミスターシービーだよ」
シービーはペタンと座り込んでしまった。項垂れているその下で、尻尾が規則的に揺れ動いている。
「……さすがに、臭すぎた?」
「……うん」
「申し訳ない」
「…………うん」
「ご、ごめんって」
「………………だから、決めたよ」
両手を伸ばして、トレーナーの頬を挟み込む。
「ねえ、結婚しよう」
ジッと見つめると、黒い瞳が忙しなく動いている。笑顔を捨て、冗談ではないことを彼女が伝えると、トレーナーはついに慌て出す。
「いやいや、待ってくれ。そんな……」
「気まぐれだけど、テキトーじゃない。だってアタシ、キミのことずっと愛してる」
「あ、えっと……それは俺もだけど」
「なら、いいよね?」
あまりにも唐突。そしてあっけからんとした自由すぎるプロポーズに、しばし口を開け閉めしていたトレーナーは硬直を続けていたが、淀の坂は越えたのだろう。ようやく深いため息をついた。
その間ずっと両手で頬を挟んだままだったシービーから距離を取り、
「ハサミ。借りる」
そう言ってから不意に寝転ぶシービーぬいぐるみを手にとると、なんと切れ味の良くないハサミでシルクハットを繋ぐ糸を切ってしまった。
突然のプロポーズに比べれば内容は天と地の差があれども、それを受けて行ったという点を考慮すれば、それは同じくらいの奇行だ。さすがのシービーも面食らっていると、彼は手を差し出した。
「手、貸して」
「へ? うん……」
肌刺すような冷たい感覚が指先に生まれた。手の甲を軽く撫でられたので引き抜いてみると、そこには──三つの宝石が嵌められた指輪が収まっていた。
「あっ……これ……!」
「俺の答えだよ」
「あ、え……っと、だけどさ。どっからでしてるのさ」
今度はミスターシービーの頭が追いついていなかった。鼓動を掻き立てる驚きの影で、シービーは、トレーナーがどこへ行っても小さなぬいぐるみを大切に持ち歩いていた理由はミスターシービーが好きすぎるから──いやある意味ではそうなのだが──というわけではなかったことを悟る。
渡せるかもわからない誓いの指輪。それが自分の自由を求める心がいつかトレーナーも傷つけるような気がして、ずっとそばにいる約束はできないからと贈ったぬいぐるみに隠されていたとは、いかな勘の鋭いシービーにも気づくことはできなかった。
「こんなの、皮肉がききすぎてる。いったいいつから隠してあったの?」
「用意したのは一年前。この方法を決めたのはシービーが菊花賞で勝った、少し後だ」
「それって現役……しかもまだ学生だよ?」
「考え方も行動も発言も今と変わらないだろ、キミの場合。だったら未成年だったのは肉体だから、俺は自分の意思を貫くことにしたんだ」
「じゃあ……ずっと、待ってたんだ?」
「待ってたわけじゃない。もしかしたら、そんなことがあるかもしれない。せいぜい、そんな気持ちだよ」
未来を期待をするわけでも、願うわけでもない。それはまるでトレーニングを終えたばかりのシービーに、用意していた飲み物を渡すかのように。
もしかしたらシービーはここにいるかもしれないら、トレーナーがいつも彼女の居場所を的中してきたように、今回のプロポーズすら的中させたのである。
「酷いなぁ、キミは」
「心配しないで。この子の帽子はちゃんと縫い直すよ」
「そういうことじゃ、ないから」
高揚感に勝り、なぜだか涙が流れてくる。シービーは必死に頬を擦って誤魔化そうとするが、とてもではないが追いつきはしない。
だったら、と。シービーはトレーナーの胸へと顔を埋める。優しく抱きしめられると、頭の中に彼の鼓動が聞こえてくるようだった。
「風邪を引いた時とか……なんだか生きづらい時とか……なんで、キミはいつも隣にいるんだろうね。もしかしてストーカー?」
「担当契約を結んでもらうまでは、確かにそうだったかも」
「ああ、思い出した。勝手に蹄鉄を用意したりしてたよね」
「はっ……その後も俺はキミの散歩に一緒に行こうとしたり……?」
「うるさい。空気読んでよ、もう」
「俺もシービーの天衣無縫のプロポーズのショックから、ようやく体がほぐれてきたから……あんまり余裕がないんだよ」
「それって……誰のせい?」
見つめ合った先、動き出したのはトレーナーの方だった。ミスターシービーは夢心地の中で薄目を開けて、彼の首へ回した手に見える三つの輝きに見惚れていた。
心臓がトレーナーともっと触れ合いたいと訴えかけてくるので、レースとは異なる高揚感を不思議に思いながら、彼女は背中に回されている腕に尻尾を巻きつける。
ウマ娘は不思議な生き物だ。ヒトにはオスとメスが揃っているのに、ヒトのような見た目で、性質で、知性で、この世に生まれてくる。
ただ速さを求めるならば、チーターのように四つ足であれば良い。
ウマ娘がヒトのように生まれてきた理由。それは。
(なんとなく、わかった気がするよ。たぶん、アタシの得意な気まぐれだ)
進化の過程でたまたまヒトのメスのような形態をしているだけだ。
(でも、だからこそ。アタシが自由を求めたような譲れないものがある)
それは誰かへのとびきりの感謝かもしれない。
それはライバルへ、運命へと挑む、不屈の闘志かもしれない。
気まぐれだからこそ、答えは一つではない。それはきっと、これからも生きていかなければわからないことだ。
「……長い」
「……キミのせいで、キミのおかげだ」
トレーナーは穏やかな笑みを見せている。シービーは側に落ちていた小さな小さなシルクハットを頭に乗せて。
「しょうがないよ。だってアタシはミスターシービーなんだから」
いつものように、とびきりのキスを投げてみせた。