一人のウマ娘が、ぼんやりとターフを見つめていた。
「どうしたの、おチビちゃん?」
アタシの問いかけに、その子は無言のまま、指を示す。その先にはターフがある。
「キラキラしてる」
「うん、そうだね」
「わかるの?」
「よくわかるよ」
「どうやって、走ればいいかな」
「……みんなに勝ちたい?」
「……わからない」
「ふふ、そうなんだ?」
「だって、誰とも走ったことないもん」
ふふ。
なんだかこの子は大物になりそうだね。いったい誰に似たんだか。
「よし。だったら、ママのオススメの走り方を教えてあげよう」
小さな体を抱きしめて。アタシは両手で彼女の目を隠した。
「ゲートが開く。お日様をたっぷりと浴びたターフはきっと気持ち良くて、脚は前へ前へと進みたくなるはず。でも最初は我慢しよう。一番後ろで待つぐらいにね」
鼓動が変わる。幼くても、ウマ娘の本能はすでに芽生えているのが伝わってくる。
いやそれは間違いかもしれない。幼いからこそ、理性のしがらみはなくて、本能のままに走り出せる。だから今が、彼女が一番ウマ娘として生きている瞬間なのかもしれなかった。
それはさておき。つづきつづき。
「前を走る沢山の背中から、みんなの気持ちが見えてくる。キミと同じように、前に行きたいウズウズを我慢している子。走ることが楽し過ぎて、思わず全力を出してしまう子。みんな違うのに、みんな同じゴールを目指してる」
「どうして同じなの?」
おっと、なかなか鋭い質問だ。
「暖かいのはターフや太陽さんだけじゃないからだよ。みんなの通った足跡は、みんなの気持ちまで浴びているんだ。だから走っていると、キミはもっと気持ち良く感じられるんだよ」
僅かに体が前へと傾いた。ちいちゃな尻尾は落ち着かず揺れて、いつまでも体を捕まえているアタシを拒絶している。
本格化は親離れの瞬間でもあるからだ。だからごめん、もう少しだけ抱きしめさせてね。
「我慢はできた。そうしたらもう一度、前を見てごらん。きっと誰かが、とびきり輝いて見えるはず。そうしたら、その子を目掛けて思いっきり走ろう。風は味方をしてくれるかもしれないし、ちょっと意地悪をしてくるかもしれない。でも大丈夫」
強く抱きしめた。アタシの感じてきた想いを伝えたい。
「そのターフのキラキラだけはね。雨の日も、泥濘んでいる時でも絶対にキミを裏切らない。この場所は誰もが正直にいられる場所」
「ホント?」
「ホントだよ。だから走って、走るんだ。そうしたら──「わかった! 行ってくる!!」」
臆することもなく。彼女は駆けていってしまった。ぽっかりと胸に穴が空いたかのように、肌寒い風が吹きつけてくるみたいだ。
「……行ってらっしゃい」
人混みを避け、周りを道をする。彼は最前席でカメラから一時も目を離さず、もはや横顔には職業病が漏れ出てる。
そんな彼から、アタシははカメラを奪う。
「な、なにするんだ?!」
「アタシが撮っとくよ。あの子の走り、ちゃんとその目で見ておいた方が良いよ」
「シービーだって見たいだろ?」
「いや? 別に?」
「ええっ?! だってあの子の初めてのレースなんだぞ?!」
「だってアタシは知ってるからさ」
「……ああ」
納得がいったらしく、彼はカメラを諦める。
そうアタシは知っている。家にある、お母さんの手書きの「初レースおめでとう」の文字。燦々と降り注ぐ太陽の下、画素の悪い笑顔が一つ。
それが、全ての始まり。
「あっ、出てきた」
「もう?!」
アタシに似てわんぱくなのに、彼に似て忍耐強い。悪さばかりして先生を困らせては、友達を傷つけちゃったと泣いて帰ってくる。そんな不思議な子の前で、もうすぐゲートが開く。
もしもその走りが、才能が無駄になると言われてしまうような、誰からも理解されない走りだったとしても。
アタシは必ずあなたの味方になる。どんな時も母さんはおチビちゃんのそばにいる。
約束する。
だから気の向くまま、思うがまま走って。そうしたらきっと、ターフをもっと輝かせてくれる沢山の友達と出会うことになるから。
そして──
「どうした?」
「……なんでもない。それより、ほら。ゲートが開くよ」
「き、緊張してきた……!」
「ふふ」
だから楽しんで。
神様がくれた、小粋な演出を。