ヒンメル、これは一体?
……わからない。少し様子を伺ってみようか。
時間の無駄だね。早く殺してしまおう。
待て、フリーレン。まずは対話からだ。どのような意図があるかはさておき現状庇護しようという意思があることに変わりはないだろう?
時間の無駄だと思うけどね。アレに意味なんてないよ。もうそろそろヒンメルもわかってきたんじゃないの?庇護しようという意思、というより単に気まぐれだろうね。いつ翻意するかわかったものじゃない。そのときがあの子の最後だ。
そう言うなって。相手はまだ僕たちに気づいていない。それを踏まえれば、可能性はあるかもしれないだろう?
茂みの中に隠れて、奥にいる存在に気づかれてしまわないように様子を窺っていた勇者一行だったが、リーダー・ヒンメルの提案で草を掻き分けて正体を見せることに決めた。アイゼンとフリーレンは承服しかねるという態度を見せていたが、ヒンメルに対する信頼は厚い。なんにせよ上手くやってくれるだろうという期待を込めつつ、その内心をため息として体外に吐き出して、4人はかの存在の前に身を曝け出した。
「そこの魔族、怪しい動きを少しでもしたら殺す。手を挙げろ」
「ちょっと、フリーレン」
そして真っ先にフリーレンは、すぐに杖をその魔族に対して向けて、魔力を行き渡らせていく。フリーレンの纏う魔力に一分の乱れも感じられない。
額の少し上、薄紫の髪の毛を掻き分けるように屹立する二つの丈夫そうなツノを持つ、少女の姿をした白いワンピース姿の魔族は、地面に崩した正座のような形で座り込みつつ、腕の中にすやすやと眠る赤ん坊を抱えていた。彼女は、ぼんやりとした、言い様によってはやる気のなさそうな形に眉の形を歪めて、勇者パーティーを睥睨した。
見つめるだけで、何か言葉を返そうという意思は見られなかった。
「今そこで何をしているんだ?まずはその子どもを地面に置いて、そこから離れろ」
威圧するように、さらにフリーレンが杖に魔力を込めた。なおも反応の悪い魔族に対して、多少痺れを切らしたのか、杖から放出する炎を高圧縮にして、脅しとして、当たらないギリギリの距離を掠めてやろうかと本格的な準備を始めた。
さすがにこれ以上はまずいと、後ろから見ていただけのハイターが軽めのチョップをフリーレンに振り下ろした。フリーレンは視線を魔族から離すことなく、ハイターに苦言を呈した。
「痛いな。……なに?」
「そんなに怒らないでください。フリーレン、いったんヒンメルに預けてみるというのはどうでしょうか?」
「この前そんな悠長なことを言って失敗したばっかりだよね。アイゼンもわかるでしょう?魔族ってやつの狡猾さと残忍さが」
「まあ、な。だが、フリーレン。いったんヒンメルに預けてみないか」
「アイゼンもそういうこと言うんだ。……まあ、いいよ。後悔しないようにね」
「もう、ああ言うことは二度は起こさないから、僕を信じてくれ。ダメそうだって感じたらすぐに」
「そう」
急激に萎んでいく魔力はどこかへと発散されてしまい、杖はいまやただの棒切れと化した。フリーレンは背を向け、少しだけ歩いて木に背中をもたれるようにした。ヒンメルにやれるもんならやってみろと言うような態度だった。ヒンメルは安堵しつつ、フリーレンの肩をぽんぽんと軽く叩きながら、入れ替わった。
「やあ、こんばんは」
「……」
返事はない。困ったように少しだけ指で顔を掻いたヒンメルは、いつでも鞘から剣が抜き取れるように準備をしつつ、少し前へ歩き出した。なおも魔族からの反応はない。まばたきはしている。物言わぬ銅像ということはあるまい。生きていることに違いない。
赤子は呑気にすやすや眠っている。ほほえみそうになるが、今はそのような時間ではない。場合によってはこの一帯戦場となり、赤子は人質扱いになりかねない。緊迫した状況だ。
それでも、まるで母親が赤子を抱くようにして魔族が赤子を抱えているものだから、そうあってほしいと願ってしまうヒンメルは一縷に賭けたかった。
魔族が現在赤ん坊のことをどのように感じているのかさえ掴めれば今後やりやすくなるんだけどなと思い、それを探るべく、ほんの一歩分近寄る動作を見せてみる。まるで反応がない。
(こう言うときが一番困るなあ)
背後のフリーレンが再び魔力の準備をしそうな雰囲気を何となく感じながら、ヒンメルは少しずつ少しずつ、距離を寄せていく。そんなヒンメルのことをじいっと観察しながら、魔族は優しく赤子を撫でた。その母子のような態度に、ヒンメルは気を緩め、フリーレンは逆に警戒を高めた。
(あの動きを学習するまでに、おそらくは何人、いや何組かの母子たちを観察しているはず。さらにその光景を見せることが人間には致命的な隙になり得ることもすでに学習しているとしたら、あいつ厄介かもしれない)
そう冷静に分析する。傍ら、アイゼンとハイターは完全にヒンメルに任せるといったスタンスで見守っている。彼らももちろんフリーレンの様子には気づいているが、何も言わずにヒンメルと魔族の邂逅を見守った。
じりじりと距離を詰めるヒンメル。そして魔族の目の前に辿り着く。
「ごめんね。赤ちゃんを僕に渡してもらってもいいかな?」
しゃがみこみ、魔族と目線を合わせたヒンメルは、両手を広げるジェスチャーをして赤子を渡すように軽く催促した。ヒンメルにとって隙とも言える瞬間だった。さすがに看過できないと、ハイターもアイゼンも少しばかり構えをとり、フリーレンに至ってはいつでも放てる状況だった。
魔族は何憚ることなく、赤子をヒンメルに手渡した。こんなにすっと渡されると想定していなかったヒンメルは驚愕し、そんな勇者の様子を魔族はきょとんとした表情で見ていた。
ヒンメルは立ち上がり、少し距離を取ろうとした瞬間に
「びえええぇええぇぇぇぇえええぇえ!!!!」
赤ん坊の鳴き声が響いた。
「えっ、わ、わわ、どうすればいいんだ?!」
慌てるヒンメルの腕の中で暴れ始める赤ん坊を、魔族がヒンメルから奪い返して、それから腕でつくったゆりかごで揺らしてやると少しずつ少しずつ鳴き声は収まっていった。赤子は魔族に顔を向けるときゃっきゃっと笑うと、また少しして微睡み始めた。
魔族はそんな赤ん坊の姿に微笑を浮かべていた。
「驚いたな……」
ヒンメルが本人も無意識のうちにに大きめな声でそう呟くと、立ち上がった魔族がいきなりヒンメルを蹴飛ばした。幸いギリギリ受け身を取ることはできたため怪我はないが、不意を突かれたことに変わりはない。
(フリーレンの言う通り、敵対的な魔族だったのか?)
ヒンメルが体勢を整える間にヒンメルは斧を構え、ハイターもまたパーティーへ加護を与えるための準備を始めた。敵対的で確定だとすれば、赤ん坊を盾に使われるとまずい。もはやお互いがお互いに敵意を向けているということが割れてしまっている以上、不意打ちで倒せる段階は過ぎてしまった。
(だから対話なんて無駄だって口を酸っぱくしてきたんだ)
フリーレンは内心愚痴る。しかし過ぎたことは仕方がない。赤ん坊をなんとか助けて、ヒンメルやアイゼン、ハイターにとって勉強になったと言える形になればベストだろう。さて赤ん坊と魔族をどう離したものかなと思考を巡らせていると、魔族が自分から地面に赤ん坊を横たわらせた。それから立ち上がって距離を取り、魔族は秘めていた魔力を解放した。
「魔族が、自分の魔力を隠匿するなんて……」
もちろん珍しいことではない。しかし魔力の強さこそが自分の位階を明確に表すという魔族の世界で、目的もないのに内蔵魔力を隠すなどということは考えられなかった。
フリーレンはその点に驚きつつ、また、溢れ出した魔力量がハイターにも比肩し得るほどのものであることに驚いた。そしてその魔力は一つの乱れなく、滑らかに身体を覆っていた。大魔族とは言える程ではないにしても、十分魔族の中でも上位を張れると考えて差し支えない領域だ。しかしもう一点気になることがあった。
(なんで人質として使えるだろう赤ん坊から距離を取ったんだ?)
そうした方が有利に使える術を持っているのか、それとも単純に、戦いに巻き込みたくなかったからか。真偽はどうあれ、いくら時間感覚のルーズなエルフとはいえ、いつ爆発するか分からなう火薬庫をそのままにして置けるほどフリーレンは呑気ではなかった。
他3人が赤子をいたわる態度に攻めを躊躇している中、フリーレンは迷わず魔法を放った。炎が魔族の上半身を覆い尽くした。フリーレンの絶妙な出力コントロールによって、赤ん坊に影響が出ることはない。
炎の通過し終わったあと、焦げてしまって所々黒く炭化して、それどころか白のワンピースの肩掛けの片部分が燃えて落ちてしまった。肝心の魔族にはろくにダメージが通っていなさそうだった。
ゆらりと幽鬼のごとく立ち上がる魔族は、にいっと糸を引くような形で口を歪めた。わずかに開かれた口からは特徴的なギザギザとした歯が見え隠れしている。静かに相対するフリーレンと魔族。
そして地面に置かれたことを契機に再び泣き始める赤ん坊。瞬間、魔族の注意が勇者パーティーから逸れた。それを逃さぬべく、フリーレンは杖から射出しようとして、いつの間にか側に忍び寄っていったヒンメルにとんと、肩を叩かれていた。
「なに?」
「もう少し様子を見よう。そんなに答えを急ぐ必要なないように見える」
「ヒンメル、お優しいのもいい加減にしないと。犠牲が出てからでは遅いんだから」
「そう、だな」
「それとも、根拠でもあるの?」
「勘だ」
黙り込むフリーレン。それまで黙り込んで2人のやり取りに耳を傾けていたハイターは
「ヒンメルの勘、ですか。それはまあなんというか……」
少し間を置いて。
「信じてもいいかもしれませんね」
そう言った。
「この魔族が安全かどうか、しっかりと見極める。もう同じ轍は踏まないさ」
「同じ轍を踏まないって言うならさっさと殺しちゃえばいいんだけどね」
この甘ちゃんはどうやったら治るんだろうかと、フリーレンは本気で心配した。
「で、ヒンメル。いつ何時も魔族を抑え込めるだけの策があるんだろうね?」
「この前ダンジョンを探索したときに拾っただろう?アレを使おう」
「……。そんなのあったね。条件はしっかりと選ばないといけないよ」
「わかってる」
神代、賢者エーヴィヒによって生み出された支配の石環。いくつ造られたのかも判然としない遺物。ダンジョン捜索中にフリーレンがミークハイトを使った宝箱の奇跡的に引いた1%の産物だった。
「しかしヒンメル」
「なんだアイゼン」
「実際にヤツにその腕輪を付けられる余裕はあるのか?」
「油断はしないさ」
「やれやれ、いつも通りというわけだ」
ヒンメルの突発的な思いつきによる寄り道とそれに伴った命からがらの冒険譚。ときには藪を突いて蛇を引き当て、4人揃って一目散に逃げ出したこともあった。それもまたよくある冒険の一ページか。
「ヒンメル、わかってるとは思うけど」
「ああ、石環は二の次で、最重要なのは赤ん坊の保護だ。じゃあみんな、よろしく頼むよ」
こうして魔族との闘いは、
ーー始まらなかった。
あっさりと腕輪を取り付けられてしまった魔族は上の空のまま。赤子を抱きかかえるハイターとそれを守るように立つアイゼン、杖を魔族に押し付けるフリーレン、そして石環を取り付けたヒンメル。
いったいこの魔族はなんなのか。一同の頭を悩ませる。一つ言えることがあるとすれば、
「やっぱり魔族の考えていることはわからないね」
この一言に尽きるだろう。
「それで、条件はどうする?」
「人間に危害を加えないでいいんじゃないかな」
「危害っていう解釈を魔族がどうするのかについては?」
「……よく分からないな。とりあえず、対話することから始めようか。君、名前は?」
ヒンメルの問いかけにも、魔族は応じなかった。ただただきょとんとこちらを見返すだけ。おちょくられているんだろうか?と考えたフリーレンは、
「とりあえずさ、こちら側から質問した場合には嘘偽りなく、確実に返すこと、っていう条件を一つ付けておこうか」
「うーん。まあ、いいか。『ヒンメル、ハイター、アイゼン、フリーレンからの質問に対しては嘘偽ることなく確実に答えること』。これでいいかな」
「じゃあもう一度聞いてみてよ」
「うん。君の名前を教えてもらっていいかな?」
「……?」
しかし相変わらずぼんやりとした表情を貫く魔族に、何かおかしいのではないかという発想にようやく行き着く。
「ヒンメル、もしかすると喋れないのでは。つまり、言葉を理解できていない」
「その場合、フランメの定義上魔族ではないってことになるかな」
「こんなにしっかり人型なのにか?」
「クヴァールだって魔族だ」
「そりゃそうか」
ヒンメルの後ろでガヤガヤと3人が話をしている。
「言葉が理解できない、とすると困ったな」
当のヒンメルは腕を組みながら悩んでいた。安全を保障できる術がなくなってしまった。このような契約では法律のように人によって解釈の分かれる条文とならないような工夫が必要なのだが、果たして言葉を解さない存在と契約を結ぼうというとき、いったいどのような条文を作成すればいいのか。皆目検討がつかない。
それこそ、今から目の前の存在が急速に言語を学習してくれれば話は違うのだが。
「いや、そうか。みんなどうすればいいのかわかったよ」
「なんですか、それは」
「この子に言葉を教えよう」
「ヒンメル、正気?今からヒンメルがしようとしていることはこの人型の魔物を魔族にする手伝いをしようってことだ。自ら脅威をつくる理由があるの?それに契約を結ぶことができるようになるまでの安全をどうやって確保するのかとか、思いつく?」
「思いつかない。けど。少なくとも赤ん坊を渡してもらうときにジェスチャーは通じることがわかったんだ。もちろん、僕たちのジェスチャーと彼女の解釈するジェスチャーがすべて一致するってわけじゃないだろう。不具合が起こる可能性もある。ただ、コミュニケーションの可能性は現状でもあるってことはわかっているんだ」
「……。ここから近くの街まで2週間だ。赤ん坊の保護者を探す必要はあるし、それまでにこの魔物を魔族にして腕輪の効力を出せるようにしよう。できなければ殺す。それと常時拘束用の魔法をかけておくから。こうでもしなきゃ安全を確保できない。……これ以上の譲歩は私にはできない。いい、ヒンメル?」
「ありがとうフリーレン」
ヒンメルにとって、ここが分水嶺だった。つまり、自分にとって魔族という存在はどのように捉えるべきなのかを見極める試金石。フリーレンのように割り切って対応するべきなのか、何かを信じて相対するべきなのか。
「魔族」という全体が、人を騙すために言語を扱う傾向を持つというのはようやく飲み込めてきた。それでも、個々で見れば例外など存在していて、傾向は傾向に過ぎないのではないか。偶然人の姿をとるだけの化け物に対して人間の常識を当てはめようとするのは間違っているのだとしても、ヒンメルには諦めきれないことだった。