「では、当番の方は清掃後帰宅するように。以上」
その教師は乱暴な足音で、わざと教室を汚すようにして出ていった。
教室内の賑やかさが少しずつうすれてゆく。窓辺から差し込む夕日の光が、生徒たちに帰り支度を促した。
窓際の一番後ろの席の女生徒だけが、動かずにただ目線を真下の机にやっている。教室の中には、もう生徒たちはほぼいない。
一人の男子生徒が少しだけ、笑うように呟いた。
「自分にしかできないことがあるって、いいよねぇ」
その手から、食べかけのお菓子の袋が落とされた。
ドアが閉まる音が強く響いて、女生徒は一人きりになった。
女生徒は重たい腰を持ち上げて、たった一人で掃除を始めようとした。立ち上がった瞬間に、パーカーのポケットからボールが1つこぼれ落ちていく。光に包まれながら姿を表したポケモンは、彼女の相棒だ。
「ニンフィア…なんででてきたん…」
ニンフィアは大好きな相棒、ボタンの机の上に優雅に飛び乗った。精いっぱい触覚を伸ばし、彼女を抱きしめるかのようにぐるぐる巻きにしていく。
「ちょ、くすぐったいって…あっ」
いつの間にかリボンのようなその触覚は、パーカーのポケットを広げていたのだ。更にボールがそこからこぼれだし、彼女の友達が次々と顔を出した。ブースターにシャワーズ、サンダース。ブラッキーとリーフィアも続く。
そして全員が同時に、ボタンに飛び乗ろうとした。
「うわあああああっ!」
重さに耐えきれず倒れかけたが、ブースターとブラッキーが床とボタンの間に回り込んでいた。ニンフィアの顔つきがかなり険しくなっているのを見て、触覚でなんとか支えてくれていることに気づく。
「ごめん、ニンフィア!もういいよ、これぐらいだったら痛くないから、離して!」
触覚が少しずつ緩められ、彼女の身体は徐々にもふもふに沈み込んでいった。首周りにいるブースターが、心なしか得意げな顔をしている。
状況が落ち着いたのがわかると、ポケモンたちは次々にボタンに擦り寄っていった。心地のいい柔らかな暖かさに、心身ともに包まれる。
「うふふ…ブイブイ、ありがとう…こんなんされたら動きたくない…掃除なんてしたくない…」
したくない?
ボタンははっとした。
彼女の中で当たり前になっていることがある。
やりたくないことでもやらなければいけない。
嫌でも我慢しなければならない。
全ては、「普通」に学校に通うために。
自分の大切な友達を、守るために。
これは、彼女の中で一番暗い記憶の断片。
アカデミーに入学した頃は、まだクラスの中に話せる人がいた。
ただ、それはつかの間の出来事に過ぎない。クラス内でいくつかのグループが出来上がる頃には、ボタンはひとりぼっちになってしまった。
かつて話せていた女生徒に勇気をだして声をかけたが、目線すら向けられずにその場を去られた。
クラス担当の教師に、話せる人がいないことを相談したが、「あなたの言葉遣いが悪いから」「あなたが笑わないから」と言われてしまった。
ボタンは考えた。「自分が悪いのだ」と。
だから手伝おうとした。生徒が嫌がる掃除当番を、当番ではない日に買って出た。
そして久しぶりに、クラスメイトに声をかけられた。
「マジ?助かるわぁ、ありがとう!」
その言葉を聞いたとき、こうしていればいつか、みんなのように笑って過ごせる日々が来るのかもしれないと希望を抱いた。
たった一人で残されても、一生懸命に掃除をした。毎日毎日、繰り返した。
声をかけてもらうために。
そのままの状態で3ヶ月ほどが経った。ときには掃除当番だけではなく、宿題をやってほしいだとか、ノートを映させてほしいなどといった要求もあったが、全て受け入れた。
受け入れれば、教室で笑いながら過ごせる日がきっと早く来る。そう信じていた。
だがある日、ボタンが貸したノートは帰ってこなかった。
自分の課題を提出するために、ノートを返してもらおうとクラスメイトを探そうとしたとき、ふとそれらしい人物が窓から見えたので走って追いかけた。
男子生徒が二人、テーブルシティに向かっているようだった。
「…あの、うちのノート、そろそろ返してほしい…
明日、提出期限だし…」
彼らは路地裏にたむろっていた。
暗闇の中からにたにたとしながら彼らはボタンを見ている。
その内の一人が言葉を返した。
「じゃあさ、課題手伝ってくんない?今俺達ポケモンバトルしながら課題を進めてんだよね。いいわざマシンをもらったからさ」
「えっ…そんなんしらんけど…?」
ボタンの言葉に、その場に居合わせた男子生徒二人は顔を見合わせた。互いに目配せをし、そのうちの一人が話を続ける。
「あんたのポケモンと戦わせて、お互いに課題をクリアしない?そしたらウィンウィンだし。
…いいから早く、ニンフィア出せよ」
きつい睨みがボタンに向けられ、彼女は立ちすくむしかなくなってしまった。罪悪感を感じながら、ボールを投げてニンフィアを繰り出した。こうなったら早く終わらせて、ボールに戻して逃げようと思ったのだ。
「…ごめん…」
ボールから姿を表したニンフィアは、感情を察知して相棒を振り返った。
それが仇となってしまった。
「でてこい、アーボ!『どくばり』!」
アーボのしなやかな尻尾から、鋭い針が放たれる。
ニンフィアの後ろ足に刺さったそれは、不意をついたためか毒効果を発揮し始めた。激痛が身体中に走っているのか、ふらふらとし始めている。
「ニンフィア!?」
叫ぶボタンに男子生徒が畳み掛けた。
「今回の課題ってさ、『こうかばつぐん』についてのレポートだろ?だからさあ、こうなるのは当たり前じゃね?何ビビってんだよ」
「待って!き、キズぐすりを…!」
「バトルだろうがよ、まだ俺らのターン終わってねえよ?」
「えっ…」
もう一人の男子生徒が、いつの間にかスカンプーを繰り出していた。
「新しい技も、試さなきゃな」
「まさか…」
「スカンプー!『ベノムショック』!!」
「やめて!!」
この場から逃げなくてはと、ボタンはニンフィアを守るために全力で駆け寄った。
朦朧とした水色の瞳が諦めまいと相手を睨む。そのまま彼女の嘆きに耳を傾け、ボタンを守るように毒の一撃をその身に引き受けた。
「ああっ………」
急いで抱きかかえると、目を閉じて身体を痙攣させながらも、安心させようとしているのか彼女の手に触覚を巻きつけようとしている。腕の中の大切な相棒が、自分のためにこんなにも傷ついて、苦しんでいる理由が理解できない。
…なんで、どうして?
どうしてこの子が…何も悪くないこの子が、こんな目にあわなくちゃならない?
どこから間違えた?一体、なにを間違えた?
思考が、頭が回らない。身体が、心臓が冷たい。
震えるボタンに追い打ちをかけるように、低い声がのしかかる。
「さすが『こうかばつぐん』だな。ようやくレポート完成しそうだわ。だからこれからも、黙って言うこと聞いてろよ。
あーあ、『しらんけど』とか言わなかったら、こんなことしなかったのになあ」
「そうそう。『どくばり』だけでとどめておいてやったのに」
彼らはほんの少し機嫌を損ねたというだけで、ニンフィアを瀕死に追いやったのだ。
ボタンの言葉には、悪意などこもっていなかった。ただ出てきた言葉がそれであっただけだった。
だが、受けた衝撃があまりにも強く、ボタンには正常な判断などできなかった。
「黙って言うこと聞くから…何でもやるから、もう、もう…バトルだけは…」
「なんでもやるんだ…じゃあ今までどおり、掃除とかもこれから全部頼むわ。他にもあんたに頼みたいってやつがいるから、そいつらの分も追加で。やってくれるなら、バトルはもう誘わない。これでどうよ?」
「……わかった…」
「じゃ、明日からもよろしく。えっと、名前なんだっけ。お前、知ってる?」
「うーん…、存在感なさすぎて、忘れたわ」
「そらぁ仕方ないな。おい、ノート置いとくからな」
乱暴に扱われた、破れたノートが地面へと投げられた。
去りゆく2つの影。更に暗さを増していく空。
ボタンは震え続けている手で、身体が冷え始めているニンフィアにキズぐすりを吹きかけた。
「これだけじゃ、だめ…ポケモンセンター行かないと…早く…」
ふらつきながらも、大切な相棒を抱えてボタンはポケモンセンターへと向かった。大好きなブイズについて毎日必死に書いていた、ノートのことなど覚えてはいなかった。
あれ以来、バトルへ誘われることは無くなった。
今日のように掃除を引き受ければ、ニンフィア達を守ることができる。宿題やノートも、自分の分が足りなければ、たくさん書き写して作ればいい。
無視をされてもそれでいい。人との関わりが増えないほうが、ポケモンたちを危険なことに巻き込むリスクは少なくなる。
これでいい。これでいいと思っているのに。
「やりたくない、とか…バカじゃん…」
思わず手で両目を覆う。頬にぴたりと冷たい感覚が走ったので見てみると、それは右脇腹にいるシャワーズの尻尾だった。
シャワーズはそっと頭に近づこうとしたが、サンダースに陣取られている。シャワーズがきりっとした目線をサンダースにやると、察したのか自分から動き、お互いにくっつく位置を交換した。頭の方に来たシャワーズは、座りながら尻尾をそっとボタンの額におろした。ボタンが具合を悪くしたとき、いつもこうして冷やしてくれるのだ。
「大丈夫、熱出したわけじゃないんよ。掃除、やらないと…」
ひんやりとした尻尾とぽんぽんと優しく撫で、ゆっくりと身体を起こす。すると今度はリーフィアが走り出し、先程捨てられたお菓子の袋をくわえて持ってきた。
「ありがとう、手伝ってくれて。みんな、そろそろボールに戻ろ…」
ボタンのその発言を聞くやいなや、さっきまでべったりだったブイズたちは途端に離れていってしまった。
「みんな!?」
散開した全員がアイコンタクトをとり、こくんと頷いた。かと思うと、ブースターやサンダースが自慢のもふもふの身体を使って、床でゴロゴロし始めた。その姿はまるでモップを真似しているようだ。
ブラッキーとリーフィアは力を合わせて、机を少しずつ押しながら運ぼうとしているが、持っていきたいのは黒板側ではない。
シャワーズはバケツを持ってきており、水を汲もうとしているのだがハイドロポンプを打ってしまい、見事にこぼしてしまった。ニンフィアは触覚ではたきをつかもうとするはずが落としてしまい、ほこりまみれになってしまっていた。
「ど、どこからつっこめば…あー、もう!
ブースター!サンダース!そのもふもふは国宝だから汚さんで!
ブラッキー!リーフィア!机はそっちじゃない!でもかわいい!
シャワーズ!バケツのある場所いつ知ったん!天才か!
ニンフィア!ほこりだけどもこもこをまとうその姿!まさに至高!!」
怒涛のつっこみで、ボタンは息切れを起こした。あまりの大声に、みんなポカンとしている。だがすぐに嬉しそうな顔をして、やめろと言われてもやめないのだった。
「はぁ、はぁ……わかった、みんなでやろう…ちょっと待って、やり方を考えないと…
あっ、ニンフィア、動かんで。ほこり、大変なことになっとる。今はらってあげるから…」
もこもこまみれのニンフィアを抱きかかえ、窓際の近くに連れて行く。そっと下ろそうとしたときに、ニンフィアと目があった。
「呼んだでしょう?」
そう言われた気がした。
「かなわないな…」
つぶやきながらほこりを払う。あの日『どくばり』が刺さったところの傷跡は、まだ治りきってはいない。
身体から毒は取り除けたので無事に回復できたが、1歩遅ければ命を落とすところだったとジョーイさんに言われた。そう考えるだけで、全身の血が泡立つほどの怒りと恐怖が脳に流れ込んでくる。
「もう、あんな目には、誰も合わせない…
もう間違えない。なに一つ、間違えたりしない…!」
パタン、と何かが倒れる音がして、ボタンははっと我に帰った。
音のした方に目をやると、ブースターがロッカーの上に飛び写っていた。どうやらシャワーズがこぼした水をうっかり踏んでしまって、驚いたらしい。
「ブースター!怪我しとらん?」
ブースターは水よりも、シャワーズの方をじっと見つめている。「なぜ水がここにあるのか」というメッセージを目線で送っているので、シャワーズは急いでブラッキーの後ろに隠れた。
ブースターの身体を確認したが、足が少し濡れているだけなので、問題はなさそうだ。倒れたのは本のようで、元の場所に戻そうと手に取る。
だが、ボタンの手がぴたりと止まる。本のタイトルはあまりにも彼女の興味を引いたのだ。
「…ハッカー&クラッシャー、情報を味方にせよ?」