男子生徒が一人、朝早く教室の見回りをしている。
教壇近くの太いコードをコンセントに差し込んだ後、モニターの挙動を確認。並べられた教科書に不備がないかをざっと眺め、ついでにゴミが落ちていないか、床に目配せをする。
備品用の箱の蓋を開け、足りていないものがないか目視で把握していく。クラスの生徒の人数分あれば問題無し。
流れるような、鮮やかな手つきで一通りを終えたら次の教室へ。足早に移動をしているが、足音やドアを閉める音はとても静かだ。
「そうだ、今日は美術室使う日だっけ。キャンバス足りてるかな…」
全ての教室の点検が終わった後、彼は目的地へと急いだ。ポケットから特別教室専用の鍵束を取り出し、美術室の扉を開ける。驚いたことに教室内は、無造作に置かれたキャンバススタンドであふれかえっていた。
「…うーん、言っても伝わらないなら、張り紙を作ろうかな。プリントで配っても捨てられちゃうし」
目の前の惨状はどうやら、今に始まったものではないらしい。きびきびと彼はスタンドを畳んで、教室の端にきれいに並べた。立ち止まらずに隣の用具室に入り、お目当ての品を数え始める。
「20枚あるね、OK。これなら足りるでしょ。予備にあと5枚くらい…しまった、そろそろ発注しないと」
発注書を取り出そうと引き出しを開ける。すると中には、まん丸でふわふわとした触り心地の、ポンポンのついたストラップが入っていた。
可愛らしくリボンまで結んである上に、タイプ属性のマークのチャームいくつかじゃらじゃらとついている。肝心の紐が切れてしまっているのを見て、彼は顔をしかめた。この紐の代わりが必要だと感じたのだ。
「切れにくくするなら点より面…ちょっと失礼して…」
彼は手先が器用なのか、おもむろに道具箱に入っていた、細く平らな革紐を取り出した。
長さを目分量よりやや多めにカットし、ちぎれた紐が外れないようゆっくりとリングに通す。端同士を束ねて固く結び、飛び出ないように切りそろえ、ほんの少しだけ結び目に接着剤を垂らした。形が変わらないようにそっとストラップを机に置くと、その場から去り、美術室の点検をし始めた。
…10分ほど経っただろうか。一通り室内を見終わったのか、彼は用具室に戻ってきた。
修理をしたストラップを手に取り、彼は部屋をあとにした。
「先生に渡せばなんとかなるよね。…革紐も、追加で発注しておこうっと」
アカデミー中に鐘が鳴り響く。
生徒たちの挨拶が飛び交い始める。
彼はそれを聞きながら、職員室に向かっていた。
それは朝礼前の出来事。
生徒が一人、教室に入ってゆく。
「みんな、おはよう」
彼の挨拶で、クラスは途端に静まり返る。
机に座っていた男子生徒が、ふざけたように走って近づいてきた。
「おはよう、生徒会長。今日も、うざいねー!」
「…挨拶は、最低限の礼儀だから」
「じゃあ俺のこと最低って思ってんだ?生徒会長様…いや、ピーニャくん?」
悪い笑顔を横に、彼…ピーニャは自席につき、授業のための教科書を取り出した。辺りにはひそひそとした、聞こえそうで聞こえない話し声が溢れている。
「なんで挨拶、やめないんだろうね」
「絡まれるってわかっててやってるよね、あれ…
巻き込まれる方の気持ちにもなってほしいんですけど」
「真面目なんじゃない?馬鹿がつくほどの、ってやつ」
「毎朝教室見回ってるらしいよ。生徒会長だからって。
誰も、あんなやつ生徒会長になってほしいとか思ってないもんね」
「そうそう。変な校則ばっかり作ってさ!窮屈すぎだし、マジダルすぎ…」
苦い虫を噛み潰したような感情が彼の心を呑んでいく。
頭の中が「違う」という文字で埋め尽くされる。
冷や汗が少しずつ背中に這いよってきた頃、担任の先生が入ってきた。
「静かに!そこ、早く席へ戻って。朝礼を始めます」
授業を受けている間だけは、嫌なことを忘れられる。勉強のことだけを考えていればいい時間だからだ。ピーニャは昼食のときですら、参考書を手放さなかった。ただひたすらに問題を解いては、自分の世界に戻れる放課後を待った。ひたすらに頭の中の「違う」の文字を消しゴムで消して、回答を書きなぐっていた。
「ピーニャくん。今、いいかしら。職員室へ来てほしいの。話したいことがあるのだけど…」
帰り支度をしていたところに、担任の先生に呼び止められてしまった。仕方ないので先生の後をついていく。
誰のものかもわからない視線に囲まれている。クスクスと笑う声も聞こえる。その中には朝、ピーニャに暴言を吐いた男子生徒も混ざっていた。
なんとか冷や汗に耐え切り、やっとの思いで職員室に着いた。先生は用意していた椅子に、ピーニャにかけるようにと仕草で促す。先生もゆっくりと腰を下ろしたが、気まずそうな顔でこちらを見ている。
「あの…先生?」
「…ああ、ごめんなさいね。考え事をしていたものだから」
「話って、なんですか?もしかして今朝の…」
「そう、今朝の落とし物なんだけど、あの後すぐに持ち主が見つかったのよ。ありがとうね。落とし物届が出されていたのを、別の先生が気づいてくださったの」
「それはよかったです。…ということは、発注書の方に問題が?すぐに直します」
「そ、そのことなんだけれど…」
先生の取り繕ったような笑顔が歪んでいくのを、ピーニャは見てしまった。
「もう、やらなくていいわ」
その言葉に、彼は呆然とした。
生徒が真っ白な顔をしている事に先生は気づいているだろうに、強引に話を進める。
「やらなくていいのよ。
あなたには、生徒会長を降りてもらうことになったから」
「……どういうこと、ですか…」
「あなたの作った校則が細かすぎるって、苦情がやまなくて…
他のクラスの子からも、文句を言われたりしたの。どうしてあんなに厳しい決まりを作ったの?もっと優しいものにしていたら、あなたに向けられる目も変わっていたはずだわ。あなたはいつも成績優秀で、クラスの自慢だったのに…」
重たく沈んだ気持ちのまま、彼は職員室を出た。
空が呼応するように、外では雨が降り始めた。
廊下が見る間に暗くなってゆく。暗がりから腕が伸び、乱暴に背中を叩いた。
「ピーニャくん♫」
ばっと振り返ると、今朝の男子生徒がいた。仲間なのか、他の生徒も複数集まってきている。
「憂さ晴らし、付き合ってよ。テメェの作った校則がウザすぎてさ、ストレス溜まってんの。責任取れよ」
「俺等は楽しく学校生活を過ごしたいわけ。だから、お前を排除して、正義のヒーロー?ってやつになっちゃおうかな、なんて!」
ピーニャの口から、言葉がこぼれた。
「誰かを踏みにじって…それが正義だって?」
「踏みにじったのはお前だよ?アホなの?勉強しかできない系のコミュ症なの?」
「みんなうんざりしてる。そう、みんな!このままじゃお前以外誰一人、マトモな学校生活なんて遅れるわけ…」
次の瞬間、大きな雷が落ちる音がした。
そして廊下の電気がいっせいに消えた。
耳がひりつくような警告音が鳴り響いている。
「何だこの音!?…スマホロトムから!?」
男子生徒が慌ててポケットから、スマホロトムを取り出した。その画面には赤い文字が浮かび上がっていた。
「ケ イ コ ク
ウ イ ル ス シ ン ニ ュ ウ
メ モ リ ー ハ カ イ マ デ ア ト 3...」
パニックになった男子生徒達は大声で叫び始めた。全員慌てふためいているため、誰一人走り出したピーニャに気づかなかった。
「なんだ、これ…」
ピーニャはスマホロトムを見ながら、校舎端まで移動した。画面には緑色の文字が綴られている。
「30 m ひ だ り に は し っ て
そ こ か ら み ぎ に ま が っ て い く と
つ き あ た り に と び ら が あ る
か ぎ は あ い て い る か ら な か へ」
このメッセージは誰からなのか、彼には検討もつかなかった。
目の前の古ぼけた扉をそっと開けると、中はガラクタのようなものが置かれた狭い部屋だった。部屋の全貌を確認したいがあたりが暗いためよくわからない。扉を閉め、指で壁をなぞるとスイッチらしきものがあった。押してみると音は鳴るが、明かりはつかないので反応していないようだ。
画面から音がピコンとなったので目をやると、メッセージが変わっている。
「ア カ デ ミ ー の な か す こ し だ け
て い で ん お き て る っ ぽ い
も う し わ け な い け ど い ま き み の
ス マ ホ ロ ト ム の シ ス テ ム を
い じ ら せ て も ら っ て る」
「停電?システムをいじる?それって、どうやって…」
言葉に出して、ピーニャははっとした。メッセージに答えるにはこちらから文字を打ち返さなければならないと感じたのだ。だが画面をタップしても、何も変わらない。
またしても通知音とともに、画面のメッセージが変わった。
「こ っ ち か ら は き み の す が た も
こ え も か く に ん で き て る
わ が ま ま だ け ど そ の ま ま
き い て ほ し い こ と が あ る」
「聞いてほしいこと?」
相槌を返したのだが、メッセージは変化しなかった。真っ黒い画面になった直後にフリーズを起こしたのか、スマホロトムは動かなくなった。画面を突っついてみたが反応がない。通信が途切れてしまったのだろうか。
しばらく経った後、突如画面に光が戻る。マイクのアイコンが現れ、向こうの「誰か」が話し始めた。
「…あ、…あり…がと…
ストラップ、拾ってくれて…なおしてくれて…」
声だ。しかも女の子の。
「…うまく言えない、けど…自分で、ちゃんと伝えなきゃって思ったし…
ひ、人と話すの苦手なん…ごめん…」
「…それを伝えるためだけに、ボクを助けたってわけ…?」
「た!?!?……う、うち、そんなすごいこと…しとらん…
……ちょっと、人を、脅かすようなこと、しただけ…」
「…ううん、ボクにとっては、キミがしてくれたことは、間違いなく『助け』だったんだよ。だって、ボクは…」
ピーニャはゆっくりと、床に座り込みながらつぶやくように言った。
「あの場所から…いなくなりたかったんだから…」