夢の世界での邂逅
「……つまるところ。エデン条約というのは、『憎み合うのはもうやめよう』という約束」
ふと、目が覚めた時には見慣れない場所にいた。
それなりの高さの建物の一室のようだ。バルコニーなのか手すりの外は建物の高層部分が見えている。空はまだ暗く、星々が雲から出たり入ったりしてかくれんぼを楽しんでいるようだった。
そんなだだっ広い部屋の中央に、城のダイニングルームに置かれてそうな長テーブルがある。
そのテーブルの端の席に用意された椅子に、ジャック・オーは座っていた。
ジャック・オーは何とも懐かしい感覚に見舞われた。この部屋にではない。
この空間そのものが、懐かしいものだった。
「トリニティとゲヘナの間で、長きにわたって存在してきた、確執にも近い敵対関係。そこに終止符を打たんとするもの」
テーブルの反対側に座っている誰かが、ジャック・オーに向けて話し続けている。
大きな獣耳が特徴的な、小柄な少女だ。
「互いが互いを信じられないがゆえに、
ジャック・オーに話しかけているのか、それとも自分の中の情報を整理するための独り言なのか。少女は語ることをとにかく止めない。
「『エデン』……それは太古の経典に出てくる楽園の名だ。時に先生。キヴォトスの、『七つの古則』はご存じかい? その五つ目は、まさに『楽園』に関する質問だったね。『楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか』」
少女は語りながら星が見え隠れする夜空を見つめる。どこか遠くにあるという楽園を、探すような横顔だった。
「他の古則もまたそうであるように、少々理解に困る言葉の羅列だ。ただ、一つの解釈としては、これを『楽園の存在証明に対するパラドックス』であると見ることが出来る。もし楽園というものが存在するのならば、そこに辿り着いた者は、至上の満足と喜びを抱くがゆえに、永遠に楽園の外に出ることはない。もし楽園の外に出たのであれば、つまりそこは真の快楽を得られるような『本当の楽園』ではなかったということだ。であるならば、楽園に到達したものが、楽園の外で観測されることはない。存在を捕捉されうるはずがない」
世界が変わる。どこかのバルコニーだった部屋が、いつの間にか美しい花々が咲く野原へと変化する。
本来なら何十年と時をかけて育つ木がビデオテープを早送りしているみたいにみるみると成長していき、また美しい花を咲かせる。
野原に生えた木々の中には、美しくみずみずしい果実を実らせるものもあった。
いつの間にか、彼女たちのテーブルのすぐ横を澄んだ水が流れる小川が出来ていた。
心を落ち着かせる川の音。風が吹き、木々の葉がこすれる音。そして果実や花の華やかな香りがジャック・オーの鼻をくすぐる。
人工物など、今ジャック・オーと少女が座っている椅子と彼女達を隔てる長テーブルだけだ。
古い経典などに触れた経験があるものならば、まさに”楽園”と呼ぶに足る世界だろう。
だというのに、世界は変わらず夜のままだ。
肌を撫でる風は強くはないが、冷たく思わず身震いをしてしまいそうになる。
木々や小川、花、果実とこれだけ華やかなものが揃っていながら、小鳥のさえずり一つ聞こえてこない。
この世界にいる生き物が、まるで少女とジャック・オーの二人しかいないかのような。そんな感覚すらする。
それを少女も分かっているのだろうか。どこか悲しそうに眉尻を下げながら、傍に生えてきた木に生っているリンゴに触れる。
その瞬間、少女が触れたリンゴは光の粒子となって消えていった。まるで、最初からそんなものはそこになかったかのように。
「……存在しないものの真実を証明することはできるのか? つまるところ……この五つ目の古則は、初めから証明することが出来ないことに関する『不可解な問い』なのだよ」
消えてしまったリンゴがあった場所をなおも焦がれるような、それでいて諦めた様な何とも言えない横顔で楽園について語る少女の言葉に、ジャック・オーは彼女が年相応の子供なのだということを実感した。
「しかしここで同時に、思うことがある。証明できない真実は無価値だろうか? この冷笑にも近い文章を通じて、何か真に問いたいことがあるのではないだろうか? エデン……経典に出てくる
そこで言葉を切った少女は、フッと小さく笑って肩をすくめる。夢を見ることを諦めた、大人になりかけの子供がよくそうするように。
「どうだい? そう聞いてみると、この『エデン条約』そのものが、正しくそんなもののように思えてこないかい?」
少女の言葉と同時に世界が暗闇に包まれる。真っ黒な空間にテーブルとジャック・オーと少女、そして二人が座る椅子だけが浮かんでいる。
だがそれもすぐに元のどこかのバルコニーに戻った。それはまるで夢から覚めたかのような感覚を見るものに与えるだろう。
けれど、ジャック・オーはむしろようやく納得がいった。
「……夢の世界なのね、ここは」
「驚いた。それをそこまではっきり認識するのが、ここまで早いとは」
テーブルの反対側の少女の声は平坦なものではあったが、それでもその声には驚きの色が含まれているのが分かった。
「私もこういうところに来ることが初めてじゃないからね。……何ならあなたも一緒にどう?」
目を閉じ、ほんのわずかに口角をあげてどこか挑発的な声色で虚空に問うてみればジャック・オーのすぐ後ろからよく通る高い声が部屋に響き渡った。
「こうして二人になるのもなんだか久しぶりだねー!」
「なっ……」
対面の少女は、今度こそ驚きに目を見開いて言葉を失った。ジャック・オーの背後に、もう一人のジャック・オーともいうべき外見の女性が現れた。
だが、そんな彼女から飛び出す声はどちらかと言えば子供のソレであり、小さくぴょんぴょんとその場で弾む仕草などまさに子供そのものだった。
そんな突然の招かれざる客の登場に驚きを隠せない様子の少女を見て、ジャック・オーはクスクスと笑いながら座っている椅子の背もたれに体を預ける。
「人が寝る時に見る夢の世界、っていうのはバックヤードと繫がっているの。そこが夢だと気づいていれば、人はある程度その世界をコントロールできる。こんなふうにね」
ジャック・オーがそう言いながら指を鳴らせば、世界は再び目まぐるしく変化を始めた。
何処かのバルコニーは消え去り、真っ青な青空の只中にジャック・オー達は浮かんでいた。勿論、テーブルや椅子はそのままで。
そんな彼女達の傍を、渡り鳥達が気持ちよさそうに飛んでいる。視線を足元に向けてみれば、本来なら見える距離ではないはずなのに大小さまざまな魚が思い思いに海の中を泳いでいるのが見えた。
そして、ジャック・オーが軽く視線をあげればそこには夜ではないはずなのに煌々と輝く紅い星がそこにあった。この広く目印もない空の世界で、それだけを目指せば良いのだと理屈などではなくハッキリと分かる。
その星が何を示しているか気づいて、ジャック・オーは自分で少し恥ずかしくなった。
そんな彼女の後ろで”ジャック・オー”が話を続けてくれた。
「キミが私達を……うーん、この場合はバックヤード内の情報を
”ジャック・オー”がパンパン!とこ気味良い音で二回手を叩けば、今度は地面がビスケットに変わり、傍には山と見まがうほどの大きさのピースケーキやシュークリーム、ゼリーなどが現れた。
だがジャック・オーという女性の本音ともいえる彼女がこの世界を出したということは、すなわちジャック・オー自身が甘い物づくしな快楽を求めている節があるということだ。
それがなんだか恥ずかしくて、ジャック・オーは”ジャック・オー”に抗議の声をあげた。
「ちょっと。別に私そこまで我慢なんかしてないわよ?」
「えー? でもこないだフレデリックに連れてってもらったカフェのスイーツ、もっと食べたいって思ってたじゃん。美味しかったよねー、あそこのケーキもゼリーも。次は何頼む? プリンも良さそうだったよねー!」
「そ、そういうのは後で決めましょ!」
わざとらしい咳ばらいを一つして、ジャック・オーは再び指を鳴らす。
世界は、初めに来たあのバルコニーに戻っていた。
そんな目まぐるしい変化についてこれていないのか、驚きで声を失ったまま固まっている少女にジャック・オーは足を組みながら微笑みかける。
「それで、あなたは私達に何を望むのかしら」
ジャック・オーの優し気な声に問いかけられ、少女はようやくそこでハッと我に返ったようだった。
「……すまない。この世界で、私に……いや、これほどまで世界そのものに干渉できる存在などいなかったものだから」
「普通の人には無理でしょうね。……正直、あなたの身の安全が気にかかるわ」
「私達みたいな特例はともかく、キミみたいな普通の子がやるのは危ないしねー」
”ジャック・オー”の指摘に少女の視線が一瞬逸らされたのを
不意にバルコニーの外に広がる夜空に明るみが差し始める。
「……どうやら時間がないようだね。単刀直入に行こう。先生に、見届けて欲しいのだよ。これから起こる不快で、不愉快で、忌まわしく、眉をひそめるような……」
空はどんどんと明るくなり、ジャック・オーの視界も徐々にぼやけたものになっていく。どうやら、目覚めの時が近いということなのだろう。
それでも、いやだからこそだろう。少女は語りを止めない。
「相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑うような……悲しくて、苦しくて、憂鬱になるような……それでいて、ただただ後味だけが苦い……けれども、紛れもない真実の話を。それが先生……『この先』を選んだ、君の義務なのだから」
到底ハイティーンの子供の口から飛び出してくるとは思えないような悲観的な言葉の数々に、それでもジャック・オーは確かに感じ取ることが出来た。
この一見難解で現実的で悲観的な少女の言葉の裏に隠された、SOSを。
その願いが、決して大それたものなどではないのであろうということを。
だからジャック・オー達は互いに顔を見合わせて笑う。
「「バッチグー! 任せてちょんまげ!」」
「ばっち……ちょんま……?」
そうして視界は真っ白に染まり、ジャック・オー達の返しに困惑する少女を置き去りにして二人は夢の世界から現実へと帰還するのだった。
「ん……」
ゆっくりとジャック・オーが目を開けると、そこはいつも寝泊まりしているシャーレの宿舎だった。
横になったまま隣を見ると、そこにフレデリックの姿は既になかった。どうやら、彼はとっくに起きているらしい。
ふと、ジャック・オーの鼻孔をコーヒーの香りがくすぐった。そういえば、何日か前にフレデリックが良い豆が手に入ったと言っていたのを記憶している。
ともかく、このまま寝ているわけにはいかない。今日はまだ平日だ。早く起きてオフィスに出勤しなくてはならない。
ぼんやりとする頭のまま、のそのそとブランケットから抜け出してベットから降りる。
ブランケットがしっかり胸元までかかっていたところを見るに、フレデリックが起きる時にかけなおしてくれたのだろう。
相変わらず、彼は分かりやすい言葉や態度で表してはくれないものだとジャック・オーは思わず苦笑した。
それでも、確かに彼の想いは伝わってくる。それがどうにもくすぐったくて、温かい。そのことに、今度は自然と頬が緩んでしまうのをジャック・オーは自覚した。
そう。見方を変えれば、視野を広げれば。見えるものを、見たいものを肯定する勇気を持てば。
──世界はこんなにも幸せなことに満ちている。
決して不快で、不愉快で、忌まわしいものばかりにあふれていることが真実という訳ではない。
もちろん、相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑うような……悲しくて、苦しくて、憂鬱になるようなシーンだってあるだろう。
けれど、明けない夜はない。あの少女は『この先』といった。因果律干渉体ではなさそうだが、未来を垣間見る力をもしかしたら持っているのかもしれない。
その垣間見た未来は、どうしようもない位に悲惨だったのかもしれない。
だが、それを識った彼女がそのことを意識か、はたまた無意識か。そのことをジャック・オーに伝えた。
ならばそんな未来など覆して見せよう。日の光を遮る
「よし、頑張るぞ」
ぼやけた思考に活を入れるように頬を軽く叩く。
新しい一日が始まる。きっと、これから忙しくなる。
そんな予感を胸に抱きながら、ジャック・オーは朝食を用意して待ってくれているであろうフレデリックの元へと向かった。