「夢の中で生徒と話した?」
朝食後のコーヒーをすすっていたフレデリックの視線が手元のスマホからジャック・オーの方へと向けられた。
「ええ。名前は聞きそびれちゃったけど、身体的な特徴はある程度覚えてるわ。ブロンドの髪に、大きな獣耳の小柄な子よ。獣耳は……狐っぽかったかな」
「制服は着ていたのか?」
フレデリックに問われ、ジャック・オーは夢であった彼女がどんな服装だったかをしっかり見ていなかったことを思い出した。
「えっと……ごめんなさい。そこまで気が回っていなくて……」
言いながら、ついさっきまでいたはずの夢のことを思い出そうと目を閉じてみる。
けれど、そんな夢を見たということがまるで幻だったかのようにあの一時の記憶はもうぼやけてしまっていた。
確かにそこに見えるのに、でも触れることも叶わない。まさに蜃気楼だった。
「まあ、相手が夢の世界でそこそこ自由にやれる相手だってんなら、情報
自分の至らなさに若干の自己嫌悪を感じたジャック・オーを気遣ってか、フレデリックが穏やかに微笑みながらそっと彼女の頬を撫でる。
ゴツゴツとした彼の太い指先が優しくゆっくりと自分の頬をなぞり、その指に見合う大きな手のひらが右頬を包みこむ。
フレデリックの手のひらから伝わってくる温もりが心地良くて、それを逃がしたくなくて、ジャック・オーは自分の右手で伸ばされているフレデリックの手の甲を包み込んだ。
そうして、その温もりをもっと味わおうと目を閉じながら頭を彼の手のひらの方へ預けるように傾けた。
しゃあねえなと言いたげな、けれども愛おしさも多分に含まれた穏やかなため息が正面から聞こえてくるのも、ジャック・オーにとっては嬉しかった。
相変わらずやることは大雑把で、省くべきでない説明も省いてばかりだからすっかりキヴォトスでは『シャーレの暴力教師』だなんて不名誉な通り名が定着してしまった彼だけれど。
ジャック・オーにとっては世界よりもずっともっと大切で、愛おしい将来を誓った伴侶であることには変わりない。
決して器用な男だとは言えない。でもそれは自分だって同じことだし、何よりこうして言葉にしなくとも愛情を伝えてくれる。
ジャック・オーにとっては、それで十分だった。
そんなことを考えながらフレデリックの温もりに浸っていると、フレデリックが不意に問いかけてきた。
「俺の手を枕にする前に、そろそろ身支度を整えておけ。今日はトリニティの生徒会に呼ばれてたんだろ?」
言われてジャック・オーは今日の業務について思い出した。
確か、トリニティ総合学園の生徒会──通称ティーパーティーのホストである
先方が指定した日程は今日だ。時刻は午後3時ごろだったはずだが……。
「フレデリック、今って何時?」
「あ? 今は朝の9時ってところだな」
フレデリックの答えにジャック・オーの頭がフル回転し始める。
まず、身支度に1時間はかかる。
そしてトリニティの自治区へは電車を使うが、最低でも1時間はかかる。
自治区についたらせっかくなのでちょっと観光をしつつ良さげなお店を見つけよう。トリニティはキヴォトス内でもいわゆるお嬢様校が集まった地区だ。
客層が富裕層となれば、自然と店のレベルもそこそこ以上のものが揃っているだろう。どんな店があるか眺めながら歩くのも楽しそうである。
食べる量だけは気を付けなければなるまい。なんせナギサとの会合は午後3時だ。間違いなくティータイムも兼ねているはず。
そこに満腹のお腹を抱えていこうものなら、ジャック・オーの細いお腹からキャンディだのポップコーンが弾けて飛び出しかねない。
とにかく、そうと決まれば善は急げである。
「ん。それじゃあ支度するわ。フレデリックは今日はどうするの?」
フレデリックの手から頬を離し、席を立ちながらフレデリックに問いかける。
「俺はゲヘナの風紀委員に呼び出されてる。あの口うるさい行政官が来いとやかましくてな」
「アコちゃんが? 今度は何やって怒らせたの?」
クスクスと笑いながら着ていたシャツを脱ぎながら脱衣所へ向かう。フレデリックとアコはすこぶる相性が悪いようで、彼がゲヘナに行くたびに揉めているという話をよく聞くのだ。
そう話をしているのはフレデリックで、ガキが
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえ。……エデン条約の件について話があるらしい」
脱衣所の扉を閉めて、ショーツを下ろし裸になりながらジャック・オーはエデン条約、という単語に思わず眉をひそめた。
扉を閉めてしまったことで肉声でのやりとりが難しくなったため、さも当然のようにジャック・オーは法力通信を起動してフレデリックにつなぐ。
「……実はねフレデリック。さっき話した夢の中であった子もエデン条約について話していたの」
『……なら、そいつはゲヘナかトリニティの生徒の可能性がありそうだな』
フレデリックの言葉にジャック・オーは夢の記憶を掘り起こそうと再びその時のことを思い返す。
「……多分、トリニティの子だと思う。お城のダイニングに置かれてそうな長テーブルとかもあったし、話してた内容もエデンの語源とか、七つの古則についてとかだったかな。こむつかしい言い回しが癖の子だったわ」
『なら、トリニティだろ。ゲヘナにはそんな気取った奴はいねぇ。……いや、一人だけいるにはいるが、どちらかと言えばもっと派手で分かりやすい言い回しをしようとする奴だけだ』
「確かに、ゲヘナっぽくはなさそうだったわね。……今日行けば会えるのかしら」
シャワーから出るちょうどよい温度のお湯で丁寧に髪を濡らし、傷めないようにシャンプーで優しく洗っていく。手入れは面倒ではあるが、ジャック・オーは自分のこの赤髪が気に入っている。
白い髪もインナーカラーのように生えているけれど、それももちろん気に入っている。この二つの色が、ジャック・オーという存在を象徴しているとも言えるからだ。
『案外、その夢に見た景色が実在するかもしれん。夢ってのは本来人間の脳が記憶や情報を整理するための働きだからな』
「確かに。あの夢の……そうね、ホストと呼べるのは私じゃなくてあの子だったわけだし。もしトリニティの子だったら十分あり得そうだわ」
フレデリックの言葉に肯定の意を返しながら、髪についたシャンプーの泡を優しく手ですいて洗い流していく。
まだ自分の”役割”に固執していた頃は、この髪色がそれほど好きではなかった。自分がアリアではない、という事実を突きつけてくるものだったから。
最も、当時はそんなことすら意識できていなかったのだが。
それでも、当時を振り返ってみればきっとこの髪色に対して当時は好ましく思えていなかったのだな、と自己分析できるようになったのは彼に代理人格AIから人間にして貰えたからなのだろう。
『まあ俺がエデン条約がらみで呼び出されたってことは、時期的に考えて恐らくお前の方も似たり寄ったりな理由かもしれねえな。相手は生徒会なんだろ?』
「ええ。……ゲヘナとトリニティの平和条約、か」
『正直、上手くいくとは思えねえな』
泡を洗い流し切り、水分を多分に含んだ髪を手で挟んで傷めないようにしながら、できる限り水気を絞っているとフレデリックの余りにも正直すぎる感想に思わず吹き出してしまった。
「ちょっと。もう少し生徒達を信じてあげたら?」
『信じる信じない以前の状況なんだよ。ゲヘナの連中はトリニティの名前を聞くだけで顔をしかめるし、学区の境目で鉢合わせようもんなら口喧嘩の果てに銃撃戦だ。規模は違うが、お互いがお互いをギアだと決めつけあった反ギア派がぶつかり合ってるようなもんだ』
フレデリックのたとえ話に、ジャック・オーは黙り込むしかなかった。
確かに、夢であった生徒もエデン条約のことを「憎しみあうはもう止めよう、という約束」だと要約していた。
憎しみは、そう簡単に収められるものではない。たとえきっかけがどんなささいな物であっても、徐々に話に尾ひれがつきその度に憎しみは膨れ上がり、膨れ上がった憎しみは新たな憎しみの温床となる。
それを、たった一つの条約が締結されたくらいで綺麗に消し切ることなど出来はしない。それが出来るのならば、ギアが戦争の道具に使われることはなかったはずだ。
そして、ジャック・オーがフレデリックに出会うことも。
いったい自分は何を考えているのだ。なんだか今日はやけに浮ついているような気がする。
なんて、緩みかかっている自分の思考を振り払いながら髪をまとめてバレッタで止めているとフレデリックが再び口を開いた。
『だが、やらないよりはマシだ。たとえ口約束でも、すぐに効果が出なかろうとも。公的な場でそうするんだと組織のトップ同士が宣言をしちまえば、組織としてはそれを
「そうね。なら、その約束を皆が守れるようになるかどうかは私達の腕の見せ所ってことかしら」
『ったく、全身複雑骨折でもしそうだぜ……』
フレデリックが心底うんざりとしているのが見なくても分かるくらいには、そんな感情が声に乗っているのが分かった。
けれど、それでも彼は『やりたくない』とは言わなかった。相変わらず素直じゃない男である。
「まあ、あなたの骨が折れそうになったら私が支えてあげるわ」
だからそんな風にジャック・オーが笑ってみれば、通話越しにフレデリックもまた穏やかに鼻を鳴らした。きっと、今の彼は穏やかに微笑んでいるのだろう。
『ふっ。サーヴァントのやつらにバケツリレーで運ばれるなんてのはごめんだぞ?』
「安心して。もっと刺激的なヤツにしといてあげるから」
『おい……それはミサイルより乗り心地良い*1んだろうな?』
露骨にげんなりしたフレデリックに、ジャック・オーは声をあげて笑った。
「あはははは! 大丈夫よ。飛鳥君にも協力してもらうから」
『おい待て。野郎まで絡んだら間違いなくロクなことにならねえだろうが。普通に運べ普通に』
そんなくだらないやり取りに改めて幸せを噛みしめながら、ジャック・オーは一つの結論を出した。
少なくとも自分にとっての
別に理屈などじゃない。それでも、心からそう信じることが出来る。
この感覚が、あの夢の生徒に──皆に伝わるかは分からない。
それでも、ジャック・オーはこの胸に宿る温もりを信じて頑張ろう。そう思えたのだった。