浦和ハナコは補習授業部の合宿が始まってからもジャック・オーという大人への苦手意識をぬぐえずにいた。
初めて見た時は単純に得体が知れなくて怖かった。まるで自分の中に押しとどめている何もかもを見透かされそうな気がしたから。
だから、補習授業部の活動が始まってすぐハナコたちのサポートをしようとした彼女を牽制したのだ。どうしようもない時だけ、手を貸してほしい。それ以外では口を出さないでくれ、と。
それからしばらくの間、ジャック・オー先生は大人しかった。ハナコの拒絶の意志が響いているのは明確で、初めて会った時に比べれば幾分かはその瞳からハナコが向けられたくない真っすぐさが消えていたから。
なのに、合宿初日の今日改めて話してみればどうだ。初めて会った時以上の真っすぐさを、彼女から感じるではないか。
ジャック・オー=バルサラ。
明るく、フレンドリー。その上で優しく、仕事も出来る。生徒や街の人たちからも信頼される超が付くほどの美人な大人の女性。
砂漠化に苦しむアビドスで学校にも通えなかった生徒達を復学させるために奔走するほどのお人好し。
それでいて、好き放題していたらしい他の二人のシャーレの先生を一喝して黙らせるくらいの胆力も持っている。
後ろ暗い所など、欠片も見つからない大人だった。
流れてくる噂を聞けば聞くほど、苦手意識がとめどなく湧いて出そうなくらいに非の打ち所がない人だ。
それでも苦手意識程度で収まっているのは、その人となりを知れたからか。
あるいは、ハナコ自身が繰り出すトリニティの生徒としては下品にも取られかねないやり取りにも笑顔で応じてくれたからだろうか。
後者だとしたら、我ながらなんて単純だと呆れて笑えて来てしまう気もするけれど、それでもあの不気味なまでの真っすぐさはどうしても好きになれなさそうだった。
「あっはは! 見て見て皆、掃除してたらこんなものを見つけたんだけど、どう!?」
シャツの肩あたりや指先が埃まみれになっているのも気に留めず、笑いながらハナコたちの方に駆け寄ってきたのは大きなゴム製の何かだった。
「ちょっ!? 先生何を持ってきてるの!? ていうかそこさっき私達が雑巾がけしたばっかりなのに何でそんな埃まみれなもの持ってきてるのよ!!」
「あっ、ごめんね。……サーヴァント!」
「いや……サーヴァントちゃん達使えばいいってもんじゃないと思うんだけど……」
最早見慣れた2頭身の小さな使い魔を指を鳴らして呼び出すジャック・オー先生に、コハルがポツリと漏らす。全く持ってハナコも同感だった。魔法が使えるからって好き放題し過ぎである。
「それで先生、それは一体何だ? 見たところゴム製の何かということしか分からないけど」
「ほらここ見て。空気入れる穴っぽくない?」
「なるほど。つまり、これからジャック・オー先生が顔を赤らめて、必死に息を吹き込むんですね。まるでそう、新たな生命を生み出すときの様な──」
「わ、わ、わー!? 何ヘンなこと言いだしてんのよハナコ!? えっちなのはダメ、死刑!」
「あはは……でも、それってつまり浮き輪か何かでしょうか……? それにしては随分大きいような気もしますけれど」
ヒフミの言葉にジャック・オー先生が大きく頷く。
「そう! 多分これ浮き輪なのよ。それも数人くらいで乗れるくらいの大きなやつ。この別館、さっき窓からみたら裏手にプールもあったから、そこで使えたらいいかなって思ってね」
まさに自由奔放という言葉が服を着て歩いているかのような言動だった。自分達が何故ここに集められ、掃除をしているのかをこの場の誰よりも正しく理解しているのはジャック・オー先生のはずなのに。
そのことが、ハナコは無性にモヤモヤしてたまらなかった。
だから、そう。ちょっとした対抗心とでもいうべき何かが湧いてきたのも仕方がない。
「あら、学校を抜け出して遊ぶにはピッタリの場所ですね♪ ゆらゆらと揺れる浮き輪、バランスを崩して落ちてしまう誰か。水にぬれてぴっちりと張り付くシャツ……そしてその下に透ける──」
「ハナコッ!! エッチなのはダメだって言ったじゃない!!」
「そもそも、浮き輪の上に乗るときは水着になるものじゃないのか? それ以前に、プールがあるのは初めて知った。浮き輪を浮かべる前に危険がないか調べておく必要がある」
「アズサちゃんの言う危険なものはないと思いますが……まあ、別館の中や周辺の雑草もだいたい片づけ終わりましたし、ちょっと見に行ってみるのもいいかもしれませんね」
部長であるヒフミの鶴の一声で、皆はその場の掃除もそこそこにプールへ行くことにした。
だが、現実というのは上手くいかないものである。
補習授業部の前に広がっていたのは、プールサイドからプールの中に至るまで埃や砂などで真っ黒になった大きな屋外プールだった。
「これは……」
「だいぶ大きいな、どこから取り掛かればいいのか……いやそもそも、よくよく考えれば補習授業に水泳の科目はなかったはずだけど?」
「試験に関係ないなら、別にこのままでもいいじゃん。掃除する必要ある?」
困惑するヒフミに、真っ当な意見を述べるアズサとコハル。
けれど、ハナコはあえてそこに待ったをかけた。
「いえいえ、よく考えてみてください、コハルちゃん」
そうしてハナコは目を閉じながら語る。
「キラキラと輝く水で満たされたプール、楽しい合宿、はしゃぎまわる生徒たち……」
そう。それはハナコがいつの日か思い描いていた──。
そこまで考えてハッとなる。今、いったい自分は何を考えていたのか。
けれど、そう。そんな光景はきっと……。
「……楽しくなってきませんか?」
「……!? え、何!? 分かんない、何か私に分からない高度な話してる!?」
突然同意を求められるも、何が何だか分からずワタワタとするコハルを微笑ましく思っていると、隣のヒフミがポツリとこぼした。
「ですが確かに、こうして放置されてしまったプールを見ていると……なんだか寂しい気持ちになりますね」
「このサイズだったし、昔はきっと使われていた時期もあったんだろう。元々は、にぎやかな声が響き渡っていた場所なのかもしれない」
ヒフミの言葉に同調するように、アズサがしみじみとした声色で語る。
「それでも、こんな風に変わってしまう。『vanitas vanitatum』……それが、この世界の真実」
語りながら古代語を口にするアズサに、ハナコは思わず眉をひそめる。アズサの瞳からは、ハナコをして年齢に見合わない諦観のような物が感じられた。
けれど、ヒフミとコハルが古代語が分からずに視線をさまよわせていることに気が付いたハナコはいつものように表情を取り繕って言葉を繋げた。
「古代の言葉ですね、『全ては虚しいものである』……確かに、そうなのかもしれません」
変わらないものなんてない。永遠不滅の愛も、友情も、絆も存在なんてしないのだ。終わってしまえば、全ては過去に起きた事実でしかない。それに、一体どれだけの価値があるのだろう。
……本当に?
そんなしんみりした雰囲気をぶち壊す人物がいた。
「じゃあなおのこと、今から皆でプール開きでもやりましょう!」
「へ?」
ジャック・オー先生の突拍子もない言葉に、素っ頓狂な声をあげてしまったのは一体誰だったのか。もしかしたら、ハナコだったのかもしれない。
「どんなに頑張ったって、時間はどんどん過ぎていくわ。それが楽しい時間であっても、苦しい時間であってもね。それを巻き戻すことなんて出来っこない。過ぎ去った時間ばかり見てても、もったいないわ」
キョトンとするハナコたちに、ジャック・オーはウィンクして続ける。
「だったら! 今日を、明日を楽しく過ごせるように頑張った方が、お得じゃない?」
「で、でも先生! 私達は補習授業の合宿に来たのよ! こんなとこまで遊びに来たんじゃ──」
「まあまあコハルちゃん、いいじゃないですか♪」
ジャック・オー先生に異を唱えようとするコハルの言葉を遮って、ハナコは彼女に微笑みかけた。
先生の口車に乗せられているようでなんだか気に入らないけれど、それでもここで思い切り遊んでみたいというのはハナコの嘘偽りない気持ちでもあった。
だって、きっとこの機会を逃せばこんな出来事には──
「今のうちにここで楽しく遊んでおかないと! 途中からはまた別のことで、色々と疲れてしまうかもしれませんし……!」
ハナコの言葉にコハルとヒフミはどこか呆気にとられたような表情をする。
そんな中、アズサは真面目な表情で小さく頷いた。
「……うん。たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。問題ない、ちゃんと水着も持ってきている。待ってて」
言うや否や、アズサは荷物を置いた別館の中へと駆け出して行った。
最早この機を逃す手はない。
「さあヒフミちゃんも! コハルちゃんも早く水着……いえ、何でも良いので濡れても良い格好に!」
まくしたてるように続けたハナコに、ヒフミは改めて辺りを見回した。
「うーん、でも確かにここだけ掃除しないのもなんだか気持ち悪いですし……私も、着替えてきます!」
「え、えぇっ!? 補習授業とは全然関係ないじゃん……うぅ、何で……」
そんなヒフミの肯定的な意見にコハルは往生際悪くぶつぶつと呟いてその場から動こうとしない。
ならば。
「ふふっ、コハルちゃん♡」
露骨なハイトーンのハナコの声に、コハルが若干身構える。
それに構わず、ハナコは笑みを浮かべながら一歩、また一歩とコハルの方へと歩み寄って行った。
「わっ、分かった! 分かったから!! 無言で近寄らないで!」
ついにハナコの無言の圧に屈したコハルは、顔を真っ赤にしてその場から逃げ出すようにヒフミたちの後を追いかけていく。
「……さて、それじゃあジャック・オー先生? もちろん、先生も着替えて来てくれるんですよね?」
「もちろん。こんなこともあろうかと、バッチリ水着は用意してきたわ!」
「あら♪ それは楽しみですね」
完璧なサムズアップと笑顔を返されて、ハナコはやっぱりちょっとこの
人を振り回すような自由な振る舞いは、自分の専売特許だと思っていたのに。
この合宿が始まってから、ハナコが完全に主導権を握れたことなんてない。ずっとジャック・オー先生がイニシアチブをとっていて、ハナコはそれに便乗してばかりだ。
それがなんだか、無性に気に入らなかった。
「ほら、ハナコも着替えに行きましょう?」
「……はい♪」
どうしてこんなに気に入らないのか。その理由には目を向けないように、ハナコはいつものように表情を取り繕って別館へと戻る途中で降り返ったジャック・オー先生へと駆け寄るのだった。