ハナコは自己嫌悪感で顔が歪みそうになるのを必死で抑えながら皆の後ろを歩いていた。
その視線は前を歩くダークブラウンの髪をセミロングにした生徒──金田メトへ向けられていた。
今日、急にハナコたちの前に現れた転入生候補。その立ち振る舞いやジャック・オー先生とのやり取りから、補習授業部に入るには少々頭が良すぎるような気もする生徒。
いやこの際、彼女の頭の良さはどうでも良かった。
何より気に入らないのは、ハナコがそれなりに時間をかけて少しずつ距離を詰めていたコハルの懐に一瞬で入り込んだことだ。
コハルがえっちなことに興味津々なのは分かっていた。それを必死に隠そうとしたりするところも好ましいけれど、何より好ましいのはハナコのことを真っすぐに見てくれることだった。
ハナコが教室で水着になった時、顔を真っ赤にしながらも怒ってくれる。えっちなことを想像させるような言葉でささやきかければ、きっとそれを想像したのだと分かるくらいに顔を真っ赤にして怒鳴ってくれる。
もちろんハナコも行き過ぎないように、しつこくなりすぎないように調節はしているつもりだ。
それでも、何度からかってもその度にハナコを突き離さないコハルをハナコは好ましく思っていた。
コハルはハナコがトリニティでどんな風に見られていたのか、詳しく知らないだけかもしれない。
そうだとしても、ハナコにとってコハルの真っすぐさはとても手放しがたく感じるものだった。
それを、メトはほんの一瞬でかすめ取って行った。
いや、本人にそんなつもりはきっとないんだろう。彼女はハナコとはまた違った方向でとても苦労していたのは話で聞いている。
自分が異物であることを認識もしているみたいだったし、だからこそ少しでも補習授業部に馴染もうとしているだけなのだ。
頼れる友達が誰もいないところに一人でやってきて、きっと心細いのもあるだろう。
そんな正論を次から次へと頭の中に浮かべる。
けれど、そんな正論はコハルを盗られた、と感じたあの瞬間の感情によって頭の奥まで沈められていく。
そんな自分が、どうしようもなく醜く思えてハナコは気分が悪くて仕方がなかった。
教室を出てから、そんなことを何度も繰り返しただろう。
「じゃ、じゃあ私先生と押収品返してくるから!」
コハルの声でハナコはハッと我に返る。どうやら、随分と長いことぼーっとしていたようだ。
「はい。私たちはどうしましょうか……?」
コハルとジャック・オー先生を見送ったヒフミがこちらに振り返る。
その視線はハナコに向けられていた。その信頼を感じさせる視線が、少し痛い。
そんな内心を表情に出すわけにもいかなくて、いつも通りの微笑みを浮かべながらハナコはヒフミに答えた。
「そうですねえ、メトさんが行ってみたい場所があれば一か所くらいは案内できると思います」
「図書館、図書館がいいです!」
ハナコの言葉にメトが食い気味に声を上げる。余りの勢いに、ハナコはちょっとだけ仰け反ってしまった。
「と、図書館ですか……? 構いませんが、今行ってもあんまり時間取れないですよ……?」
「いいんです! どうせ明日からも勉強漬けで行くタイミングもなさそうですし、せめて今のうちに一目だけでも見ておきたいなって!」
「そ、そうですか……では、案内しますね」
まあ、メトが良いというのなら良いのだろう。とりあえずハナコは自分でそう納得することにして、中央図書館の方へと歩き出す。
図書館までの道のりは特に何もなかった。まあ、コハルたちと分かれたのはトリニティスクエアだから中央図書館まで数分とかからないのだから当然だが。
「わあ……ここが、トリニティの中央図書館……!」
図書館を前にしたメトの目は
中央図書館はかなりの広さを誇っている。そして、当然広さに見合うだけの蔵書も揃っているのだ。
そこにこれほど行きたがるということは、きっと彼女は本が好きなのだろう。
案外、彼女がトリニティを選んだ理由はそのくらいのものだったのかもしれない。
そんな理由、と笑うのは簡単だ。でも、そんな理由の為にメトは必死で勉強をしてここに来た。
少なくとも、補習授業部で結果を出せば編入が認められる程度の学力までつけて。
それも普通の生徒とは違って、学校に通えなかった時期の分の遅れを取り戻すという不利を背負ってだ。
果たして自分は、それほどまでに必死に何かを努力したことがあっただろうか。
そんな考えが首をもたげ始めたこと気づいて、ハナコはとっさに首を振りそうになる。でも、この場でそんなことをしたら不自然だと思って必死に抑えた。
あふれ出そうになる自己嫌悪から目を逸らすように、ハナコはメトへと声を掛けた。
「金田さん、中にも入りますか? 入るならちょっとにはなりますが案内しますよ」
「ホントですか!? じゃあ……」
ハナコの提案にメトが喜びいっぱいの笑顔を浮かべたのも一瞬のことだった。
さっきまであんなに喜んでいたメトは、けれども突然どこか悲しそうにうつむいてしまった。
「いえ、ごめんなさい。大丈夫です。ここから見るだけで……」
「……? どうしてだ? メトは図書館に入りたいんじゃなかったのか?」
メトの異変に真っすぐと問いかけたのはアズサだった。
そんなアズサに、メトは眉をハの字にしながらうっすらと笑う。ハナコには、随分と見覚えのあるような笑顔だった。
それは何かに期待したくて……でも、現実を前に諦めようと思った時に浮かべる笑顔だ。
「確かに今すぐ飛び込みたいですけど……入ったら、きっと出たくなくなっちゃいます。だって、次はもう無いかもしれないんだから」
「そ、そんなことないですよ! 皆で頑張って、試験に受かっちゃえばまた何度だって来られるんですから!」
ヒフミが慌ててメトを励ますものの、メトの表情が晴れることはない。
意外にも、そんなメトに同調したのはアズサだった。
「いや、メトの気持ちは……少しわかる。自分が元居た環境よりもずっと恵まれた場所に、いつまでいられるかも分からない……そんな状況になったら、いられなくなった時のことを考えてしまう。楽園のことを知らなければ知らない程、そこから離れる時の苦しみも少なくて済むから」
「そんな……」
アズサの言葉にヒフミはどうした良いのか分からない、といった風に俯いてしまった。
あまり良くない雰囲気だ。でも、ハナコもなんて声を掛けたら良いのか分からなかった。
大丈夫、と勇気づけるような言葉を吐くだけなら簡単だ。その言葉に理屈を添えて説得力を持たせるのだって。
けれど、テストを真面目に受けていない自分にそんな言葉を吐く資格などない。
それに、今更そんなことを言えば万が一自分が本当は勉強できるということがバレてしまうかもしれない。
そうなった時、補習授業部の皆から向けられる視線が変わってしまうかもしれない。ハナコは、それが何より恐ろしかった。
「でも、うん。メト、やっぱり図書館へ行こう」
「へっ!? あ、ちょっと白洲さん……!?」
アズサが何かを決意したかのように頷いたと思ったら、突然メトの手を引いて図書館の方へ歩き出す。
メトはそれに反応できず、つんのめるような姿勢で引っ張られていった。
「あ、アズサちゃん!? ちょ、ちょっと待ってください!!」
ヒフミとハナコもそれに一拍遅れて慌てて前を行く二人についていく。
「白洲さん、どうしたの突然!?」
突然のアズサの行動に困惑を隠せないメトがアズサに問いかける。
そんなメトに、アズサは振り返ることなく答える。
「確かに試験に受からなかったら私たちはおしまいだ。そうなったら全ては虚しいものかもしれない。でも──」
図書館の正面入り口前に着く。電気はまだついているし、何人かの生徒が書架と読書スペースを往復したりしているのがここからでも小さく見えた。
そして入り口をくぐる前にアズサは足を止め、振り返った。それから彼女はメトの両手を、自分の両手で握る。
「でもやっぱり、それでも何かを諦めるようなことはしちゃダメだと思う。やりたいことや出来ることは精一杯やった方がいい。後悔するのは……きっとその後でも遅くないから」
そう言ってから、アズサは小さく微笑んだ。
それはハナコをしても思わず見とれてしまうような、美しい微笑みだった。
「……そうですね。うん、今回ダメだったら最悪また編入試験受ければいいんだし! なんとかなるなる!」
アズサの言葉に勇気づけられたのか、メトは胸の前で拳を握って気合を入れるようなポーズをしてから笑顔を浮かべた。
立ち直ったらしいメトに、アズサも満足げに頷く。
「その意気だ。……そういえば、退学になった後で編入試験でもう一回入るって出来るんだろうか」
純粋に気になった、という表情で小さく首をかしげるアズサにヒフミがちょっと困ったように笑いながら答える。
「えぇっとぉ……流石に無理じゃないでしょうか。そしたら退学の意味なくなっちゃうと思います」
「む……そうか、それは残念だな。まあ、その時のことはその時考えよう」
「では、入りましょうか。ここにいたら他の人たちの迷惑になってしまいますし」
話がまとまったところでハナコは皆を図書館の中に入るように誘導する。流石に入り口前でたむろしているのは、通行の邪魔だろうし。
そうして皆と一緒に図書館へ入りながら、ハナコはアズサの言葉について考えていた。
(やりたいことや出来ることは精一杯やった方がいい。後悔するのは……きっとその後でも遅くないから)
果たして、自分は精一杯何かを為したことはあっただろうか。
メトは勿論、ヒフミは合宿が始まってから模試を作ったりと目に見えて頑張っているのが分かる。
アズサやコハルもまた、試験勉強には真面目に取り組んでいるのは彼女たちに勉強を教えているハナコには分かっていた。
ジャック・オー先生は……よく分からない。でも、採点の傍らで苦手分野の傾向を出したりなんてことをしてくるくらいには自分たちの為に頑張ってくれている。
では、ハナコ自身は?
後ろで組んだ手に反対の手の爪が突き刺さって痛い。それが、何よりの答えだった。
果たして、自分は出来るだろうか。
これから、彼女たちのように精一杯何かに頑張るということが。
そんな漠然とした不安が、ハナコの胸の内を覆いつくしていた。
拙作ではハナコとナギサの負担がすごいことになってる気がします。
許してほしい。決して嫌いだからという訳ではないんです。信じて。
後、前話で乗せ忘れましたがメトちゃんのイメージはこんな感じです。
画像メーカーの都合上、ちょっと髪色が地の文より明るいけどまあその辺はご容赦を……
【挿絵表示】