トリニティにいるジャック・オーの元にメトが来た時刻から少しだけさかのぼり、ゲヘナ学園風紀委員会の部室にて。
フレデリックは来客用のソファーに座りながら出されたコーヒーに口をつけていた。
カップに注がれたそれに口をつけた瞬間、フレデリックの眉間に少しだけしわが寄る。
が、それも一瞬のことだった。口に含んだコーヒーを飲み下し、カップをソーサーに置く。
「まあ、初めのころに比べれば大分マシになったな」
肩をすくめながら今飲んだコーヒーを表したフレデリックの言葉に面白くなさそうな表情をしたのは片腕でお盆を抱くように持っていた天雨アコだった。
「こ……のっ! 本っ当にマナーがなってないですね大人の癖に! 大体、こちらが善意で出しているコーヒーになんでここまで口を出されなきゃいけないんですか?!」
「アコ、先生に失礼」
額に青筋すら浮かべたアコをたしなめたのは部室の中でひときわ立派なデスクに座った委員長の空崎ヒナだ。
その表情はフレデリックやアコと比べると幾分か穏やかで、困ったように眉尻が下がってはいるものの微笑みを浮かべていた。
「私は好きよ。元々おいしかったけど、今は前よりずっとおいしいし」
「委員長……! いえ、委員長にそう言わせている時点で以前はコーヒーを入れるのが下手だったことを認めざるを得ませんけどぉ……!」
敬愛するヒナからのフォロー……という形をしたトドメにアコは嬉しさと悔しさの入り混じったような何とも複雑な表情になる。
なぜこんなことをアコが言われているかと言えば、初めてフレデリックがゲヘナ学園にシャーレとしてやってきた日にさかのぼる。
最も、理由は単純だ。風紀委員の部室へ訪れたフレデリックにアコがコーヒーを振舞ったところ、余りのまずさにフレデリックがそう、キレたからである。
が、文句を言うだけでは終わらないのがフレデリックという男だった。
その次に来た時には安価で手に入りやすいコーヒー豆とそれを挽く為のコーヒーミルまで持ち込んだ上で、アコを抱え上げて家庭科室に放り込んだ。
当時を知る風紀委員会の生徒は語る。
「フレデリック先生が来ると行政官はいつも家庭科室に連れていかれるので、分かりやすく不機嫌になって大変だった」
「でも、その度にちょっとずつ行政官の入れるコーヒーが飲むのをためらうような苦いだけの泥水からまあ何とか飲めるようなものに変わっていった」
「罰ゲームが一つ、風紀委員会から減った」
つまるところ、フレデリックは風紀委員会を訪れるたびにアコにコーヒーの淹れ方を教え込んでいたのだ。
アコも未だに口を開けば文句を言うものの、意外と逃げ出したりサボったりということはしていない。
結果、フレデリックとしても文句を言うほどではない出来にはなったのだ。そこに至るまで思ったよりも時間がかかったので、ようやくかという気持ちの方が大きいが。
「はあ……まあいいです。委員長からお褒めの言葉も貰えましたし、今日はこの位にします」
「フン。今度は接客用のマナーブックでも持ってきてやる」
「先生のマナーブックには『出されたコーヒーにいちいち細かく文句をつけて良い』って書かれているんですか!? そんなもの絶版です! 燃えるごみと一緒に出されてしまえばいいんです!!」
「アコ」
フレデリックの軽口にまたもや過剰反応してくるアコをヒナがたしなめると、アコはまたもや表情をぐにゃぐにゃと変化させる。
数秒そんなことをしたアコは、やがて諦めたように大きなため息を吐いた。
「……それで、本日はどのような用件ですか。フレデリック先生」
これで下らない内容だったら絶対に許さない、と言いたそうにこちらを思い切り睨みつけてくるアコをフレデリックは真正面から見返し、次にヒナの方へと視線を向けながら口を開く。
「エデン条約について詳しく聞きたい」
エデン条約、という言葉をフレデリックが口にした瞬間部屋の温度がスッと下がったような感覚が辺りに満ちる。委員会の部室にいたアコ、ヒナ以外のメンバーがギョッとした顔でこちらを見た。
だが、それでもフレデリックは続く言葉を飲み込むことはしない。
「ヒナ、お前はアビドスで会った時言ったな? 『エデン条約は共通の敵が現れたら手を取り合ってその敵を排除しようというもの』だと」
「……ええ、そうね」
「というか、それは以前お呼びした時にお話ししたはずです。ゲヘナとトリニティの中心メンバーが全員出席する、中立的な機構……『
アコの言葉にフレデリックは軽く首を振る。知りたいのはそれよりももっと踏み込んだものだからだ。
「ああ。だがずっとおかしいと思っていた。ETOの説明とヒナの言ったことが、少しズレてんだよ」
「ズレている? どこかですか。ゲヘナ、トリニティはキヴォトスでも最上位と言っていい勢力です。その二つの均衡を崩そうとする存在はどちらにとっても『敵』と言えるでしょう」
「そうだな。普通に聞けばそう捉えられる。だが……本当にソレだけか?」
「……どういうこと?」
フレデリックの問いかけにヒナが訝しげな表情をする。
「そもそもだ。ゲヘナ、トリニティの間で問題が起こったら対処する組織を作るのは良い。だが、それで作られるのは武力組織なのが妙だ」
「ETOを単なる武力組織というのはうがった見方な気もするけれど……まあいいわ。そういう側面もあるわけだし。でも何故? アコが言っていたでしょう。ゲヘナもトリニティもキヴォトスでトップの勢力よ。その両校にとっての脅威に対処するには、相応の力が必要になるわ」
ヒナの反論にフレデリックはすぐさま切り返す。
「そうだな。じゃあ聞くが、仮にエデン条約が締結されたとしてETOでのゲヘナ、トリニティ間のパワーバランスが崩れたらどうなる?」
「そうならないようにするためのETOでしょう」
「出来るのか? ETOに出席するのは両校の中心メンバー……つまり、
フレデリックの言葉にヒナは真剣な表情で首を横に振った。
「あり得ない、とは言い切らないけれど。その可能性はかなり低いと思うわ」
真剣な表情でフレデリックを見つめるヒナが指を二本立てる。
「理由は二つ。ETOの権限は当然、両校のトップ……ゲヘナならマコト、トリニティならナギサが最も大きな権限を持つ。この時点で、片方が暴走してももう片方がそれのカウンターとして反発できる。もう一つは、その他の万魔殿やティーパーティーのメンバーにもある程度の権限が分割されること。誰か一人が暴走しても、ETO全てを好き勝手使うことなんて出来ない。それこそ、ETOのメンバー全員がその人に協力でもしない限りね。まあ、それこそあり得ないでしょうけど」
「どういうことだ?」
フレデリックがヒナに問いかけると、彼女は疲れたようにため息を吐きながらその問いに答えた。
「うちのマコトは、誰かと協力なんてことができるような
「……ああ、まあ確かにアイツの性格じゃあ難しいだろうな」
思い起こされるのは万魔殿の議長を務める
何かと欲望に忠実な言動が目立ち、それは風紀委員のヒナへの嫌がらせという形でも何度か発揮されているのをフレデリックは目の当たりにしていた。その中で、何度彼女に万魔殿と組んで風紀委員会を潰そうと勧誘されたか。
もちろん、すべて断っている。ついでに言えば、何度か拳骨を落としている。
にもかかわらず、折れる気配もなく常に自分が世界の中心だと信じて疑わない言動を繰り返すマコトには、確かに他者との協力は難しいだろう。
「……なるほどな。俺の心配は杞憂だったってことか」
そう口には出してみるが、それでもフレデリックの中には違和感が残っていた。
ヒナの説明通りならETOを誰か一人の権限で十全に運用することは出来ない。従って、ETOを乗っ取っての侵略行為そのものは実行する前にどこかで抵抗が発生することになる。
それを可能とするならば、ゲヘナ、トリニティ両校が満場一致の上でその”誰か”に権限を託すほかない。
では、両陣営が同時に機能不全に陥った場合は?
考え込むフレデリックの耳にヒナの柔らかな声が届いてきた。
「先生が何を心配しているのか分からないけれど……私は、エデン条約のことを武力組織を作るものじゃなくて純粋な平和条約だと思っているわ」
フレデリックが顔を上げれば、ヒナが真っすぐとこちらを見つめていた。その目に迷いや誤魔化しと言ったものはない。彼女が口にした言葉に嘘はないのだろう。
そして、それは祈りにも近い言葉のようにも感じた。
だからこそ、フレデリックは今のトリニティの状況を伝えておく必要があると感じた。向こう側で、エデン条約の締結を阻止しようとする勢力がいるということを。
「ヒナ、少し付き合え。アコ、少しヒナを借りるぞ」
「は!? 何勝手なことを言っているんですか! 委員長は今日だって忙しい──」
フレデリックに異を唱えようと声を上げたアコの言葉を遮ってヒナも席を立つ。
「アコ、私なら大丈夫だから。先生、行きましょう」
「ああ」
そうして二人で部室を出ようと歩きだそうとした、まさにその瞬間だった。
音を立てて部室の扉が開かれる。
「ヒナ! ここにシャーレの先生がいるようだな!」
我こそは世界、という副音声が聞こえてきそうな声色を部室に響かせたのは、やや大きめに見える軍帽に四本の角が特徴的な背の高い生徒だ。
「……マコト」
フレデリックの隣まで歩いてきたヒナが、呆れを隠そうともせずため息を吐きながらで扉の前に立つ生徒の名を呼ぶ。
そう、彼女こそが万魔殿のトップである羽沼マコトその人だった。
一方のマコトはと言えば、小柄なヒナをこれでもかと見下ろすかのように顎を上げて唇を三日月の様にゆがめる。
「マコト様、と呼べ。相変わらず礼儀のなっていない奴だ。だが、今この場で私に対し頭を下げるというのなら許してやらんでもない」
「ハァ……相変わらず調子がよさそうで安心したわ。でも今日は私が先生との先約を取り付けてあるの。割り込みがマナー違反だってことくらい、万魔殿の議長様なら分かるでしょう?」
「やれやれ、相変わらず物覚えが悪いようだな? 良いだろう、何度でも教えてやる。この私、羽沼マコト様は万魔殿の議長だ。そして、万魔殿の議長である私はこのゲヘナで最も偉い! つまり、私が最優先されるというのは当然なんだ。分かるかヒナ? 今、私はルールの話をしているんだ」
そう言い放ちながら自分を見下ろしてくるマコトに一歩も引くことなく、ヒナもまた腕を組みながら彼女を見上げる。
どちらも決して険しい表情をしているとか、敵意を剥き出しにしているという訳ではない。
ただマコトが不敵な笑みを浮かべながらヒナを見下ろし、ヒナが腕を組んで真面目な顔でそれを見上げているだけだ。
それだけのはずなのに、辺り一帯が凄まじい緊張感に包まれていた。
だが、そんなフレデリックにとっては大して気にもならないものだった。別に、命のかかった場面という訳でもない。
「おい、マコト。悪いが今日はヒナが優先だ。俺達はこれからツーリングの約束がある」
ゲヘナのトップであるマコトを袖にするという、その場にいる生徒からすればあまりにも恐ろしいことを平然と言ってのけるフレデリックに何人かがギョッとして彼の方を見た。
しかし、そんな袖にされたマコトはと言えば愉快にクツクツと喉を鳴らして笑いだす。
「それでこそシャーレの先生だ。だが、それでも今日は私の方を優先させてもらおう。何せ、ゲヘナ……いや、キヴォトスに関わる重大なことに関する議題だからな」
「ほう……? テメェはいつだってキヴォトスのことを考えてやがるからな。それで? 今日は何がキヴォトスを危機にさらすんだ? イブキのプリンか?」
「そっ、そのことはもう忘れるという約束だったではないか! あの後のイブキの機嫌を直すのに一体どれだけ苦労したことか……」
フレデリックのツッコミに慌てふためきだすマコトの姿に、場の緊張感が一気に霧散していく。
マコトが何かにつけて誇張した表現を好むのも、誇張したものに見合うように派手な動きをしたがるのも、後輩のイブキにやたらと甘いのも周知の事実だったからだ。
最後の一点においてのみ、マコトはこの場のほとんどの生徒から賛同を得られるのかもしれないが。
何にしても、マコトの言動がほとんどオオカミ少年状態なのは確かだった。だから、突然学園規模の危機だとか、キヴォトスがなどと言い出したところで聞く耳を持つだけ時間の無駄である。
それがフレデリックのマコトに対する評価の全てだった。
「こ、こほん! 過去はともかく、今の話をしようではないかフレデリック先生。実はな、先日とある筋から先生に会いたいというメッセージを貰っているのだ」
「ファンレターは受け付けてねえ。送り返せ」
「くくっ……先生も相変わらずだな。しかし! 差出人の名前を聞けば先生は必ず会いに行きたくなるだろう!」
これほどまでに袖にされてなお、全く崩れそうにないマコトの自信満々な態度にさしものフレデリックも僅かな違和感を感じた。
マコトとはそれ程長い付き合いではないが、今までであればこれほど袖にすれば多少動揺したり何とかしようと焦るそぶりを見せて来ていた。
だが、今回は違う。絶対にフレデリックが自分の言うとおりにするという自信があるように見える。
マコトにそれほどまでの確信を抱かせる差出人とは一体誰なのか。
嫌な予感がした。
「ほう? で、どこのどいつなんだソイツは」
「それは言えない。少なくとも、ここではな」
言いながらマコトはヒナを見て、それから周囲にいる生徒たちを視線だけで見まわしてから再度フレデリックの目を見つめて笑う。
差出人について聞きたければ風紀委員の邪魔が入らないところへ来いと言われているのは明白だった。
どうするべきか。トリニティの現状について、ヒナに伝えておきたい気持ちはある。けれど、それ以上にその”差出人”の存在が気になった。
もしもフレデリックの”嫌な予感”が当たっているのなら、放置するわけにもいかないだろう。
「……いいわ、先生。マコトの方へ行ってあげて」
僅かに考え込んだフレデリックの耳に飛び込んできたのは、こちらを気遣うようなヒナの声だった。
だが、フレデリックは聞き逃さなかった。こちらを気遣う言葉をかけるその直前、どこか堪えた様なため息をヒナが吐いていたのを。
「……マコト。そのファンレター野郎はいつ俺に会いたいと抜かしてるんだ?」
だからフレデリックはマコトに確認することにした。例の差出人が指定した日付がまだ先なら、今日はヒナを優先しようと思ったからだ。
そんなことを考えるフレデリックに、マコトは得意満面で答える。
「今から、だ。もう外に車も待たせてある」
逃げ場などなかった。それ以前に言いたいことが余りにも多すぎる。
その全てをぶちまけたくなり、けれどぶちまけても仕方がないと理解していたフレデリックは人目もはばからずに今日一番の大きなため息を吐くしかなかった。