「あら、もしかしていいところで邪魔しちゃいましたか?」
ハナコが部屋に入ってきた瞬間、辺りに緊張が走った。特に、メトのハナコを見る視線が鋭くなっている。
もしかしたら少し不味いかもしれない。メトを止めるべきか。
その悩んだ一瞬のうちに、メトが口を開く。
「ねえ、浦和さん。今日の模試……合格点行ってなかったよね。……どうして手を抜いたの?」
ヒフミが息を呑んだのが見えた。いつから気づいていたのかと言わんばかりに驚いた表情でメトを見ている。
「うふふ……金田さんは少し私を買いかぶりすぎですよ。それに、そんな言い方されたら私傷ついちゃいます」
けれど、ハナコの方は穏やかな笑みを崩さずにメトの問いに対してそう返した。あくまでハナコはそういう体で行くつもりのようだ。
だが、メトはそれを許す気はなかった。
「違う。買いかぶりなわけない。あんな風にコハルちゃんやアズサちゃんに綺麗に勉強を教えられる人が、あの程度のテストで合格点取れない訳がないよ」
「それは、二人が一年生のテストを受けているからです。私、二年生になってからはどうしても勉強についていけなくて……」
あくまでたおやかにいなそうとするハナコに、それでもメトは食い下がる。
「それも嘘。私が分かんなかったところ、ヒフミちゃんに教えてたでしょ。私だってシャーレで他の子に勉強を教えてたから分かるんだ。ハナコちゃんの教え方は、ちゃんとどうしてそういう回答になるか全部わかってる人の教え方だよ。そんな教え方、赤点回避する為だけのテスト勉強をやってる程度じゃ絶対身につかない。それだけ頭の良い人がテストで点取れないなんて、あり得ないよ」
「あり得ないことなんてあり得ませんよ。……何にせよ、私はそうなんです」
それは強烈な拒絶の言葉だった。言葉自体はそれほどはっきりしたものではない。
けれども、その場にいる誰もが「これ以上踏み込んでくるな」というハナコの強い意思を感じた。その表情が、穏やかな笑みのままであったにも関わらず。
流石のメトも、ハナコからの拒絶の意思に一瞬怯んだらしい。
しかし、それは一瞬だけだった。
「……ごめん、浦和さん。ホントだったらそう言うことにして引きたいよ。でも、さっき部屋に来た時も……そして今もだよ。そんな様子の浦和さんを見て、私はほっとけない」
これ以上はまずい。ジャック・オーがそう判断するにはもはや十分すぎるほど、場の空気は張りつめていた。
「メト、今は——」
ジャック・オーの静止はほかならぬメトによって遮られた。
「ごめん、先生。酷いことをしようとしてるのは分かってる。でも、私はもう見て見ぬふりはしたくない」
「見て見ぬふり……?」
メトの言葉に、ハナコが僅かに困惑したかのような声を上げる。
そんなハナコの正面に立って、メトは続けた。
「さっき私が部屋に入ってきた時の浦和さん、ちょっと前のウヅキちゃん……私の親友にそっくりだったんだ。本当は辛いのを、必死に隠そうとしてるみたいな、そんな感じ」
「…………」
「今日、ずっと変だなって思ってた。なんであんなに教えるのが上手いのに、テストに落ちようとするのか。でも、さっき少しだけ分かった。きっと、何か悩んでることがあるんだって。それが、人にあんまり言えないような悩みかもしれないってことも」
メトの推理に、ハナコは否定も肯定もしない。ただ、その表情から感情というものが抜け落ちたかのような真顔になっていた。
「私を信じてなんて言わないよ。でも、少なくとも阿慈谷さんは浦和さんが何かに悩んでるかもしれないことは気づいてる。そうでしょ?」
「えぇっ!? え、えと……はい……。この間金田さんが来た時、先生について聞かれた時とか……後、模試を作るとき見つけちゃったんです。去年の、全学年分のテストを満点で突破したハナコちゃんのテストの解答用紙を。それで、何か事情があってそう言うことをしてるのかなって……だから、ちょっとでもハナコちゃんにも明るくなって欲しいなって……思って」
ヒフミの言葉に、ハナコの目が大きく見開かれる。それから、まるで観念したようにため息を吐いた。
「……あのパーティーの提案は、そう言うことだったんですか」
「ハナコちゃん、どうしてですか……」
ヒフミからの問いかけに、ハナコはスッと顔を逸らした。
「……ごめんなさい、言いたくありません」
「なっ!? 浦和さん、どういうつもり!?」
ハナコの態度に目を吊り上げて掴み掛ったのがメトだった。だが、事情を鑑みても明らかにヒートアップしてしまっている。
これ以上は売り言葉に買い言葉になってしまうだろう。
「メト、その辺にしてあげて」
しかし、ジャック・オーの静止はメトには届かない。それどころかさらに過熱してしまった。
「先生は黙ってて!! ねえ浦和さん、阿慈谷さんが今日までどれだけ頑張ったか知らないはずないよね! その上であのパーティーの企画だよ!? 全部、全部私たちのためなんだ!! それが阿慈谷さんのワガママだとしても、それでも私たちに少しでも楽しい思い出をって……頑張ってんだよ!? そもそも、ここまで頑張ってるのだって全員が合格しないと——」
「メト! 止めなさい!」
それはラインを越えた発言だった。補習授業部の裏事情は、いたずらに人に明かすようなものではない。
たとえいずれ話す必要のあることだったとしても、いやだからこそ場はしっかりと整える必要のある話だ。
故にジャック・オーは強めの声でメトを制止した。
幸い、メトも自分が言おうとしたことが何なのか気づいたのだろう。ハッと息を呑んで、それから抑えきれない何かに突き動かされるようにハナコから手を放して走り出す。
「金田さん!」
飛び出すメトを引き留めようとヒフミが声を上げるもすでに遅く、メトは部屋を飛び出した後だった。
誰も何も話せなかった。ジャック・オーもまた、どうしたものかと生徒たちにバレないように奥歯を噛みしめる。
「……先生、金田さんが言いかけたこと。あの続きは何ですか」
初めに口を開いたのはハナコだった。僅かな疑問と、恐れ。それを目に浮かべながら、それでも光は失われていない。
ここで誤魔化しても仕方がないだろうと、ジャック・オーはハナコに補習授業部の裏の事情を全て話すことにした。
少しでも、メトの気持ちを汲んで欲しいという思いがあったのもある。
話を聞いたハナコはフラフラとよろけた。
それを支えながら、ヒフミがハナコと共に傍にあったベッドへ腰を下ろす。
「そんな……ごめんなさい。知らなかったからとは言え……いえ、知らなかったなんて言い訳ですね……」
「ハナコちゃん……」
「ごめんなさいヒフミちゃん……まさか、全員が合格できなければ落第……そして退学になるだなんて……でも、そんなこと普通はあり得ません。……いえ、あり得ないことはあり得ない。……そういうこと、ですか」
落ち込んだようにうつむいていたハナコがぶつぶつと自分の考えを整理するように何かを呟き、やがて顔を上げてジャック・オーの方を見た。
「だから先生が私たち補習授業部の顧問になったんですね。あり得ないをあり得るようにする——つまり、シャーレの超法規的権限を適用させるために」
どうやら、ジャック・オーは浦和ハナコという少女の聡明さを見くびっていたようだ。そう実感せざるを得なかった。
彼女はほんのわずかな情報で真相に辿り着こうとしている。
ここまで来たなら、彼女の答え合わせに付き合う方がいいだろう。
「……ええ、そういうことでしょうね」
「起案したのはミカさん……は無理でしょうし、ナギサさんでしょうか。でも、エデン条約を控えたこのタイミングでなぜこんな大胆な……エデン条約……?」
「は、ハナコちゃん……?」
「だから、あんなに勉強が出来る金田さんが急遽入ってきたんですね。補習授業部は、エデン条約の邪魔しようとしている疑惑のある容疑者たちの集い……違いますか先生」
そしてついに、ハナコは真相に辿り着いた。
ならば、いっそのこと彼女もこちらに巻き込んだ方が良いかもしれない。
「そうよ。……そこまで気づいたのならハナコ、無理を承知でお願い。力を貸してほしいの」
果たしてこんな状況で、こんな自分に力を貸してくれるだろうか。僅かな不安を気取られないよう、ハナコの目を真っすぐと見つめる。
そんなジャック・オーに、ハナコはこくりと小さく頷いてくれた。
「まぁ、もともとパーティーをやりたいとは思っていましたから。それに、テストに落ちていたのもすごく個人的な理由です。それで皆さんが被害を受けてしまうのは……私も望むところではありません」
ハナコの答えにジャック・オーは思わずホッとした。そんな彼女の心の動きに気づいたのだろうか。ハナコはまるでいたずらに成功した子供の様に笑みを浮かべた。
「ふふっ、初めてですね」
「えっ……?」
ハナコの言葉に思わず目を丸くすると、彼女は笑いながら続ける。
「してやったり、ってことですよ♪ 初めて、私の言葉で先生の優位に立てました。……最も、先生から助けを求められてやっとですから、勝ったなんて言えませんけど」
「ハナコ……あなたったら……」
思わず苦笑がこぼせば、釣られてハナコもクスクスと笑う。
「いつもそれくらい隙を晒していてくれると助かるのですが♡」
「ふふ、残念だけど私にも大人の意地はあるのよ」
「それは残念です。では、今度は自力で先生を驚かせないとですね」
そう言って苦笑いを溢しながらハナコが肩をすくめたのを見て、ジャック・オーはようやくほんのちょっとだけ彼女との距離が縮まったような気持ちになった。
「……ありがとう、ハナコ」
それは自然と口から出たものだった。そんなジャック・オーの言葉に、ハナコは面食らったように目を見開く。
けれど、すぐにその表情は挑発的な笑みへと変わった。
「あら、良いのですか? そんな簡単に私に感謝してしまうなんて。……もしかしたら、さっき言ったことが嘘かもしれないですよ?」
挑発的な笑みに、言葉。けれど、ジャック・オーはそれが今のハナコなりの接し方なのだと分かった。
だから、ジャック・オーも負けじと笑みを返す。
「あら、私を負かす為だけに
「出来るかもしれませんし、出来ないかもしれません。……何にせよ、次は勝ちますから。覚悟しててくださいね」
「ええ、楽しみにしてるわ。……だから、メトとの仲直りはちゃんとしてね?」
さりげなくジャック・オーが先手を打てば、ハナコの表情が明確に歪んだ。
「ふふ、また一本ね。言ったでしょう? 私にも大人の意地があるのよ」
ジャック・オーがややいたずらっぽく言えば、ハナコは不機嫌そうに頬を膨らませてこちらを睨みつける。
「さすがにそれはズルくありませんか?」
「あら、大人はズルいのよ? また一つ勉強になったわね」
クスクスと笑うジャック・オーに、ハナコは白旗を上げるように両手を上げながらため息を吐く。
「……この場は先生の勝ちにしましょう。それで、補習授業部の裏事情について知ってるのは……?」
ハナコがジャック・オーとヒフミをそれぞれ見回す。問いにはヒフミが答えてくれた。
「私と先生、後金田さんだけです」
「なるほど……では、アズサちゃんは……」
唐突に出てきたアズサの名前にヒフミは首を傾げた。ジャック・オーもまた同様に疑問に思う。
けれど、その答えはハナコ自らが教えてくれた。
「実はアズサちゃん……毎晩のように、どこかへ出かけては夜明けまで戻ってこないことが続いていて。最初は慣れない場所で眠れないのかと思ってたのですが、そうではないようです」
ハナコの言葉にジャック・オーはやや険しい表情になる。
アズサの過剰とも言えるようなあの何かに抗う精神性。その何かが現在進行形で彼女の身に降りかかっているのだとしたら……?
ジャック・オーの脳裏に昼間、アズサが垣間見せた苦しむような表情がフラッシュバックする。
「どんな事情があるのかは分かりません。でも、アズサちゃんずっと不安そうで……どうにかその不安を少しでも軽減してあげたいって思っていて。……だから、ヒフミちゃんのパーティーの提案は渡りに船でした」
「ハナコちゃん……ありがとうございます」
「いえ、お礼なんて言われるようなことでは……それに、心配なのはヒフミちゃんもです」
ヒフミからのお礼にハナコは困ったようにあいまいな笑みを浮かべ、そして切り返す。
「え、わ、私もですか……?」
「そうですよ。ヒフミちゃんだって模試を作ったりパーティーのこと考えたりであんまり寝てないでしょう? ダメですよ、ちゃんと寝ないと。アズサちゃんだけじゃなく、ヒフミちゃんだって倒れてしまいます」
「そうね。あなたたちはまだまだ育ちざかりなんだし、睡眠はしっかりとらないと。勉強した内容も定着しないし」
ジャック・オーの援護射撃に、けれどハナコはややムスッとした表情でこちらに振り返った。
「他人事のようにおっしゃってますけど、先生だって同じですからね? 先生こそテストの結果を見て私たちの苦手を分析したうえで問題集を作るなんてことやってるんですから、眠れていないでしょう?」
「あら。私のことなら心配ないわ。私のスペック人類を上回ってるから」
ジャック・オーにとってはただの事実だ。多少の戦闘が起こったとして、ジャック・オー一人でもきっとどうにかできるだろう。
けれど、それを聞いたハナコはそうとは思わなかったらしい。
「私たちみたいに撃たれても平気ではないでしょう? 例え魔法が使えたとしても、です。」
「そうですよ! 私だって随分無理を言ってしまっていますし……ちゃんと先生も休んでください!」
ヒフミという思わぬところからの援護射撃にさしものジャック・オーも僅かに言葉に詰まる。
本当は大丈夫なのだが、かといって彼女たちからの気遣いを無駄にするのも気が引けた。
「んー……分かったわ。じゃあ、今日はもう休みましょう? 時間があるわけじゃないけど、続きは明日でもいいし」
「では、明日から私も参加しても良いですか?」
ハナコの問いにジャック・オーは首を縦に振った。
「そうね、そうしてもらえると私も助かるわ」
「分かりました。……では、今日はこの辺りにしましょう」
そうして、その晩は解散となった。
ヒフミとハナコが退室し扉が閉じられた後、コハルの大声が聞こえてくる。
どうやら、また誤解されてしまったらしい。けれど、きっとその方がいいのだ。
そう思ってクスリと笑いながら、ジャック・オーは机の上で開きっぱなしにしていたノートPCを閉じる。
問題集とテストは出来上がっていないが、今日くらいは早めに寝よう。
どうしても気になるなら、早起きをすればいいのだ。アズサのことも気にかかるし。
そう心の中で言い訳をしながら。
別に職場環境悪いはずじゃないのにメンタルがやられるのはなぜなのか……