百合園セイアは目を覚ました。
いや、意識を覚醒させたという方が正しいだろうか。
セイアが辺りを見回すと、そこにあるのは真っ白な部屋に自分が横たわっているベッドだけ。
いつもどおりだ。この光景を見るのは現実の自室を見た回数とどちらが多くなっただろう。
「やあ、おはよう」
そんな空間に、聞きなれない男の声が背後から響いてきた。
「おはよう、という言葉は朝ベッドの上で目覚めた人に向けて使う言葉だ。私がこの場所にいるという事は、少なくとも現実では朝ではないはずだ」
「それも一理あるね。でもここには時間の概念はない。だからおはようでも問題はないんじゃない? 大事なのは挨拶をすることさ。人としての礼儀だよ」
セイアがため息を吐きながら上体を起こす。ちょうどその時、彼女が横たわるベッドのフレームに男が腰かけた。
ボサボサの髪に、×の形をしたサングラス。その奥から覗く瞳は、どこまでも深い色をしていた。
とっさに見てはいけないと目を反らすようにうつむき、セイアは大きく息を吸う。
「私を誘拐したのは君だね? こうして話すのは初めてだったかな、ハッピーケイオス」
「自己紹介の手間が省けるのは良いことだね。ごきげんよう、百合園セイアくん」
自分の夢の世界に干渉してくるのは
だが、セイアはこの目の前の存在がそれだけではないことを知っている。
「君の悪行は夢で何度か見させてもらったよ。アビドスの小鳥遊ホシノ、それからミレニアムのビッグシスターをそそのかして色々と悪趣味なことをやっているようだね」
「悪趣味だなんて人聞きが悪いなあ。僕はいつだって人助けをやってるつもりだよ? 事実、これまでの事件は全て丸く収まっただろ?」
「それはあくまで結果論にすぎないよ。その過程で、彼女たちがどれほど悩み苦しみ、そして傷ついたかは想像に難くない」
「痛みを伴わない経験に意味はない。ただ誰かに導かれるがままに進むシナリオに、ドラマを望むことは出来ないだろ?」
「君が手を出さずともこの世界はいずれ痛みに満ちるのだけれどね。もっとも、その先に経験を活かせる者が残っているかは怪しいが」
何度も
友は狂い、そして斃れ、キヴォトスという世界は滅びを迎える。
たった一人の人間が死に瀕した。それだけで学園という学園が疑心暗鬼に陥り、パラノイアを発症し、互いを攻撃し合う。
融和を訴えるものがいなかったわけではない。ただ、そのような地獄においてそのような生徒たちは真っ先に排除されることとなった。
当然だ。誰が自分たちを脅かすかも分からない状況で、その誰かとの団結を声高に主張するものなど恐ろしく見えて仕方がないだろう。
そうして殺し合うのだ。自分を脅かす何者かを排除する為に。最後の一人がいなくなるまで。
まさしく地獄だ。
そんな光景を、セイアはもう飽きるほど夢で見ていた。
合間に挟まれる、今夢の外で起きているであろう出来事がそんな地獄が起きることを肯定してくる。
そんなセイアが未来を悲観するようになるまで時間はかからなかった。
「じゃあ、そんな未来を変えられると言ったら?」
ハッピーケイオスが口元を三日月状に歪めたのが視界の端に映った。
だが、そんな言葉に既に凍てついたセイアの心は一ミリたりとも動かされることはない。
何故なら世界の崩壊の最初期に、彼女は自身が死ぬことを知っているからだ。
そして今の彼女に能動的に動くだけの力はない。
ただ、夢を観るだけ。
そう。観るだけだ。干渉などできない。
「無駄な提案だね。私はいずれ死ぬ。それは決定事項なんだ。それに、ここに来られるというのなら君も私の体がどういう状態かは理解できるのだろう?」
「んふふ。そうだね。なまじバックヤードと接続が強いせいで、君という情報はバックヤードという膨大な情報の海の中に溶け込んでいっている状態だ。だから仮想世界……うーん、この場合は夢の外の世界というべきかな。そっちで君が活動するのに支障が出ているってところかな」
「バックヤード……彼女も同じ言葉を言っていたね。それから今の言葉を聞くに、私たちが現実だと認識している世界はそのバックヤードによって全て定義されている……ということか」
セイアの言葉にハッピーケイオスは満足げにクツクツと喉を鳴らして笑った。
「物覚えの良い生徒は好きだよ。でも、今の君に足りないのは諦めの悪さだね」
ハッピーケイオスの言葉にセイアはムッとして彼を睨みつける。
諦めの悪さなど、一体何の役に立つというのか。ましてや、彼はセイアの体が現実で活動するには問題があることを見抜いているというのに。
どれだけ今を夢を通して認識できたとて、干渉できなければあり得た未来がそのままやって来るだけの話だ。
「僕の生徒は皆諦めが悪くてね。ま、それでも僕がかき回さないといけない場面はあったんだけど……とにかくだ」
セイアは徐々に嫌な予感が自分の中に芽生えてくるのを自覚した。
聞いてはいけない。この男の言葉は、きっと自分にとってこれ以上ないほど甘美な毒になる。
そんな予感がひしひしとする。
その予感を確信に変えるかのように、ハッピーケイオスはその口元を再び三日月状に歪めながら毒を放った。
「百合園セイアくん。もしも君が、夢の世界にいながら現実の世界に干渉する術を僕が用意する……と言ったら、君はどうする?」
ああ、なんてむごい提案だろう。
何よりも誰よりもセイアが望んでいたものを、この男はさもそれが出来ると信じて疑わせない程の自然な口調で提示してきた。
「そんな……そんなことが、できるはずがない」
セイアの否定の声は震えていた。ティーパーティーのホストとして失格だが、それでもその毒は余りにも強すぎた。
「出来るさ。もちろん、君が自分からやるという意志がなければ僕の手段は成立しないけどね」
「ほう? それはつまり、私が拒否さえすれば君の悪行の片棒を担がずに済む……ということかな」
「もちろん。ま、代償に君の友人の誰かは犠牲になると思うけど」
つまりケイオスはこう言っている。君がこの手を取らなければ、君の見ている悪夢は現実のものとなるだろうと。
そんなことはセイアだって容認できない。出来ないが、この男の手を取るという事が何を招くか……それが一切分からない。
夢に見る世界に、ケイオスは存在しなかった。いたのは
「うーん。ま、誘拐しておいてこんな提案をしてきたらそりゃあ疑うよね。でもあえてさらに魅力的な要素を付け加えてあげよう」
「ほう? 夢を見ながら現実に干渉できるなんて夢物語よりも、魅力的なものなんてあるのかい?」
それはセイアの精一杯の強がりだった。それ以上の魅力なんてあってくれるな、という願いでもあった。
だが、そんな願いはあっさりと打ち砕かれる。
「もちろん。君がこの力を使いこなせば、あのシャーレの先生たちよりもずっと強くなれる。……この意味、分かる?」
「っ!?」
ケイオスの言葉に、セイアは息を呑んだ。
その言葉の意味するところはつまり——
「先生という不確定要素に頼ることなく……私の力で……未来を、変えられる……?」
ぺちぺちぺち、と気の無い拍手が目の前で鳴らされる。その音で、セイアは我に返った。
「だが、それほどの利益があるということはだ。当然それに見合うだけの不利益も存在するのだろう?」
セイアが睨みつけながらケイオスにそう問いかければ、ケイオスはボサボサとした髪の毛の先を弄りながら答えた。
「まあね。最悪の場合、君は夢と現実の境目が分からなくなる。今寝ているのか、起きているのか……分からないまま一生を生きることになるよ」
ケイオスの言葉にセイアは思わず吹き出してしまった。
ああ、なんて安い代償だろうか。
確かに、ケイオスの言う通りになった場合平穏な日常を突然壊す破壊装置に成り下がるのかもしれない。
でも、きっとその頃には頼りになる友人たちが自分を
今、自分は狂気の選択をしようとしている。その自覚がある。
セイアは少なくとも、その自覚があった。いや、自覚があるのだと思い込もうとしていると言った方が正しいかもしれない。
だがそれでも、差し出された提案は余りにも……余りにも毒々しく、そして魅力に満ち溢れていた。
「……分かった。契約はここに成った。これから頼むよ、
「んふ、そう呼ばれるのも久しぶりだけど……悪い気分じゃないね」
ケイオスがスッと手を差し伸べてくる。
その手を、セイアはゆっくりと握り返した。
この行いはまさしく悪魔に魂を売るようなものかもしれない。それでも百合園セイアは手を伸ばさずにはいられないのだ。
それで世界を……
さあ、観客席にいるのはここまで。
ここからは、自分が壇上に立つ番だ。
普通に鬱と診断されてました。
更新ペースは落ちます。
そして気づいた人は気づいたでしょう。
セイアにはベッドマンになってもらいます。