「ん……?」
空崎ヒナが目を覚ました時、目の前には見慣れない天井が広がっていた。
視界と、体を包む心地良い重さと温かさからベッドに寝かされているようだった。
「…………知らない天井ね」
いつだったか、チラリと流し見たテレビだったかネットだったかで見たセリフがポツリとこぼれた。
「目が覚めたか」
知らない天井に知らない男の声。
朧げに、けれど妙に強烈に脳に蘇ったのはあのケイオスと名乗った男の事だ。
自分に何かしたあの男が傍にいたら。二度も遅れを取るものかとベッドから飛び起きようと体に力をこめる。
「ッ!! 誰ッ……ぐ……!」
けれど、ヒナの心とは裏腹に体は痛みという形で悲鳴を上げて働くことをボイコットした。
「落ち着け。傷が悪化するぞ」
よくよく声を聞いて、そちらの方を見てみれば見覚えのある男がベッドの傍の椅子に腰かけていた。
眼鏡をかけたガタイの良い大人の男性だ。
黒のスラックスに黒いVネックのシャツを着ていて、シャツの襟元からはたくましい胸筋が僅かに見えている。
そこにシャーレの腕章のついた白いコートを羽織っているのだが、どうにもコートだけは似合っておらず、着られている感がどことなく漂っていた。
少なくとも、ケイオスではなさそうだった。
「あなたは、確か……うっ……!」
彼を見たのはケイオスに洗脳されていた時だったせいか、思い出そうとすると頭が痛む。
それでも、せめて名前くらいはと頭痛を無視して思い出そうと眉間に皺を寄せながら、ノイズまみれの記憶を手繰り寄せる。
が、不意に頭に何かが乗せられた感触で全てが霧散した。
「怪我人が無茶をするもんじゃねえ。大人しくしてろ」
頭に乗せられたものが目の前の大人のものであることに気が付いた瞬間だった。
わしゃわしゃとややぶっきらぼうに、けれど髪が乱れすぎないような絶妙な力加減で撫でられた。
「あっ、えっ……? ちょ、ちょっと……!」
ヒナは唐突に頭を撫でられて混乱の極みに陥った。
そもそも、今自分がどこでどうなっているのかすらちゃんと把握できていないのだ。
分からないことばかりで、もうどうしたらいいかも分からない。
分からなかったけれど、不思議とこのぶっきらぼうに撫でられる感触は嫌ではなかった。
そんなことをちらりと考えた時、不意にヒナの頭から手がどけられた。
「あ…………」
撫でられた時間なんてほんの数秒だ。
それなのに、ヒナの口から洩れたのはヒナ自身ですら思いもよらない程に名残惜しさを含んだ吐息だった。
その事を自覚してしまったヒナは言いようもない羞恥心に襲われて、勢いよく目の前の男に背を向ける。
その際、ちょっぴり体のあちこちが痛んで顔をしかめてしまったけれど、そんなことは些細なことだ。
「ご、ごめんなさい」
知らない――いや、見覚えはあるし服装からしてシャーレの先生なのだから一応知り合いではあるのだが――大人に一瞬でも甘えてしまった恥ずかしさと情けなさから思わず謝罪の言葉が口を突いて出た。
それは目の前の先生に向けた物なのか、それともこんな情けない委員長に従ってくれていた風紀委員の皆になのか。
「いや、気にするな。こっちこそいきなり触って悪かったな」
けれど、そんなヒナを気遣ってか目の前の先生はどこか軽い調子でそう言って、それから音を立てて椅子に座った。
それでもいまだ気まずさが抜けきらないヒナは先生に背を向けたまま、目だけ動かして見える範囲へと視線を巡らす。
少なくとも、ヒナの知るゲヘナの光景ではない。日が暮れかけて真っ赤に染まった窓の外はがらんとしたグラウンドだった。
そこかしこに砂が積もっている有様から、きっとここはアビドス高校の保健室か何かなのだろう、とヒナは自分のいる場所にあたりをつけた。
そんなヒナに気づいているのかいないのか、背後から先生の声が聞こえてきた。
「自己紹介が遅れたな。俺はフレデリック。見ての通りシャーレの先生の一人だ」
「……空崎ヒナ。ゲヘナ学園風紀委員。……一応、委員長よ」
ようやくフレデリックの方へ振り返ったヒナは、けれどその目だけは真っすぐと見ることが出来なかった。
落ち着いてきたからこそ彼の方を振り向くことが出来たが、同時に数時間前の自分の失態の記憶も色濃く蘇ってきてしまった。
だから、迷惑をかけてしまったという負い目がいつもの堂々とした風紀委員長と言う仮面を被ることを許さない。
いつもは騒がしい風紀委員の声が聞こえないということは、今この部屋には風紀委員のメンバーは誰もいないのだろう。
それが分かってしまっていたから、余計に風紀委員長と言う仮面を被ることが出来なかった。
誰か一人でもいたのなら、きっとサイズが合わなかろうと仮面の内側が棘だらけだろうと被ることが出来たのに。
「……その様子じゃあ気にするなと言っても無理だろうが。まあ、あんまり気に病むなよ」
「そういうわけにもいかないでしょ。どんな理由があろうとも、組織のトップが他校の生徒を巻き込んでのお家騒動を起こしたなんてお笑い
自分が何をしてしまったのか。今日のことをきっかけに、これからどれだけの迷惑を皆にかけてしまうのか。
そんなことを考えずにはいられなくて、ヒナは洋服の袖を強く握りしめた。
「……奴の名前はハッピーケイオス。俺達と同じところから来た、頭のイカれた野郎だ」
「……?」
今回の騒動の原因となった元凶について語りだしたフレデリックに、ヒナが顔を上げる。
「信じる、信じないは好きにしろと前置きをした上で言うぞ。奴は世界一の大魔導士……言っちまえば、この世で一番の魔法使いだ」
「……えぇ?」
ここに来て魔法と言うオカルト染みた言葉が飛び出してきたことに、流石のヒナも困惑した声を上げてしまった。
しかし、そんなヒナを前にしても腰が引ける様子などみじんも見せず、フレデリックは真剣な表情でヒナをまっすぐ見つめる。
「野郎は自由に自分や、他人の姿を変えられる上に洗脳も出来る。前に野郎に洗脳されたのは世界有数の超大国が誇る精鋭部隊だ」
「…………」
フレデリックの言葉をすんなりと全て受け入れることは出来なかった。
それでも、ヒナには彼の言葉が全くの嘘ではないことがうっすらと分かったのは彼女自身が洗脳をされたという事実を持っていたからだった。
「ま、要するに相手が悪かったってことだ。お前が弱かったとか、油断をしてたからってわけじゃねえ。……こうなる前に止めてやれなくて、悪かったな」
「そ、そんな! 先生が謝ることじゃ……!」
自分の失態に対し、そう謝罪をしてきたフレデリックに思わずヒナは声を上げてそれを遮ろうとした。
けれど、その言葉は徐々に尻すぼみになっていった。
だって、フレデリックの過失ではないと口にしたら、結局ヒナ自身に責任の所在を求めなければならない。それが恐ろしかった。
もちろん全てはこんなことを引き起こしたハッピーケイオスなる男だろう。
けれど、本当にそれだけだろうか。
不意に、ケイオスの言葉が脳裏に蘇ってくる。
【君、中々面白いね。うん、面白いよ。子供で居たいって気持ちと大人にならなきゃって気持ちがずっとせめぎ合ってるように見える。今のところは……後者の方が強いのかな? じゃ、ちょっとワガママになってみよっか? 普段自分を抑えていた子の心の枷を外すとどんな感じになるか興味があるしね】
初めて会った、顔をちらりと見ただけの不審者に誰にも言えずにいた心の内側を言い当てられたヒナはあの瞬間それなりに動揺をしてしまった。
その隙を突かれて、青白い人間味を感じられないケイオスの手が視界いっぱいに広がってから自分はおかしくなったのだ。
言わば、自分の心の弱さが招いた事態だ。
もっと自分がしっかりしていれば。そんな後悔の念が沸き上がって来る。
再び洋服の袖をギュッと握りしめてうつむいた時、急にフレデリックが立ち上がった。
「まあなんだ。とりあえず飯の時間にするぞ。立てるか?」
フレデリックの言葉にヒナは一瞬驚きに目を見開いて、それからすぐに目を伏せて首を横に振った。
「……その、気持ちはありがたいんだけど。余り、お腹は空いてなくて」
嘘を言ったつもりはない。少なくとも、今食事をとるような気分ではないのは間違いないのだ。
しかし、体の方はそうではなかったらしい。
小さな、けれど静かな部屋全体にハッキリと聞こえるくらいの音量のソレがヒナのお腹から響いた。
今日はなんだか、体と心がそっぽを向いているらしい。
そんなヒナを見てフレデリックが小さく笑った。
「ふ。安心しろ、ちゃんと温かい飯を用意する」
「わ、笑わないで……恥ずかしい……」
抗議の意をこめてヒナはフレデリックを睨みつける。
けれど、フレデリックは全く意に介した素振りも見せず笑ったままヒナに背を向けて部屋の外へと歩き出した。
それを見た瞬間、このまま付いて行かずに布団をかぶりなおそうかという欲望が沸き上がって来る。
でも、空腹なのは間違いない。それを自覚してからはなんだか無性に温かい食べ物をゆっくりと食べたい気分になっていた。
一人静かに二度寝をするか、それともフレデリックについて行って食事をするか。
ほんの少しの間悩んで、結局ヒナはのそのそとベッドから起き出してフレデリックの後に続くことにした。
感想とかお気に入りありがとうございます。
とりあえずアビドス編終わるまでは日間ペースで更新を続けていきたいとは思ってます。