ホシノがフレデリックと戦ってから、三日が経った。
あっという間の三日だった。
フレデリックはカイザーの犯罪の証拠を得るためにたった一人で現場を押さえに行き、その間ホシノ達の面倒はジャック・オーが見てくれていた。
勿論、この三日間何もしていなかったわけではない。
フレデリックがいかに強いと言っても、一人でできることには限界がある。
その為、何があってもいいようにと出来るだけカイザーが要求してきた三億円を至って真っ当な手段で用意しようと東奔西走していたのだ。
まあ、当然三日経った今も到底目標の三億円には遠く及ばない額しか集まっていないのだが……。
既に日は暮れかけていて、辺りは薄暗い。
後輩達も皆それぞれの家へと帰った。
自分も今日は家に帰って明日に備えよう。そう思ってカバンを手に持とうとして、半開きになったカバンの中にある一枚の紙が目についた。
それは退部届だった。フレデリックと戦ったあの日、机の上に放り出していたものだ。
もうこんな紙切れに用はない。分かっていても、どうしてだか捨てられなかった。
なんとなく退部届を手に取って、ホシノは困ったような笑顔を浮かべる。
酷い話だ。あれだけフレデリックに奇跡を願っておいて、これを捨てられないなんて自分勝手にもほどがある。
「あら、ホシノちゃん。まだ帰ってなかったの?」
不意に背後から声をかけられて、ホシノの肩がびくりと震える。
別にそんなに後ろめたいことをするわけでもないはずなのに、退部届を慌てて畳んでカバンの中ではなく目の前の机の上にあったノートに挟み込んだ。
「あ、ジャック先生。もう帰るよ」
「そう? じゃあ、一緒に途中まで帰りましょうか」
ジャック・オーの言葉に、ホシノは苦笑いをした。
彼女が来てから、ホシノは毎日途中まで二人で帰るようになっていた。
ジャック・オー曰く、安全の為とのことだったがちょっと過保護が過ぎないだろうかと思わないでもない。
とはいえ、カイザーから身柄を狙われているという現状を考えれば、先生達がその辺りを警戒するのは仕方のないことだろうと一応納得はしている。
帰り道で交わされるのはなんてことのない普通の会話だ。
アレが美味しかったとか、明日はどうしたいとか。
あとはそう。フレデリックのちょっとダメなところとか、どうにも不器用なエピソードをジャック・オーから聞かせてもらったりとか。
過保護な扱いを受けていることがちょっとだけ恥ずかしくもあり、けれどそんな時間がホシノは嫌いではなかった。
何の心配も、警戒をすることもなく大人と話せているこの時間が心地良くて、乱暴だったとはいえ自分の本音を見つめなおすきっかけを作ってくれたフレデリックには本当に感謝してもし切れない。
けれど、そういう時間ほどあっという間に過ぎてしまうもので。
気が付けば、いつもジャック・オーと分かれている分かれ道の場所まで来ていた。
ああ、もう少しだけ。そんな自分の気持ちに蓋をして、ホシノは笑う。
「じゃあジャック先生。
「ええ。寄り道しちゃダメよ?」
「しないよ~。私がそんな風に見える?」
「ん~、なんだかんだお布団より
頬に指を当てて考え込むような仕草を取った後、そう笑ったジャック・オーにホシノは思わず目を見開いた。
なるほど。確かに帰り道にアビドスで悪さする奴らを見たら、きっと自分は見て見ぬ振りなんて出来ないだろう。
「じゃあ、そういう時は先生を呼んでもいい?」
「その為の私よ? 呼ばなかったら後でフレデリックにゲンコツしてもらうわ」
「うへ~……フレデリック先生のは痛いからやだなあ。分かった、ちゃんと呼ぶよ」
小さく手を振りながらホシノは家に続く道の方へと歩き出す。
その足取りは軽く、ホシノは自分でも正直驚いていた。
頼れる大人がいるってこんなにも心強いんだな、と。
自然と頬が緩んで、けれどすぐにホシノの表情は僅かに曇る。
後二年。彼らが早く来てくれていたら。
考えても仕方のないことだけれど、それでもそう思わずにはいられない。
「ダメダメ。こんなこと考えてちゃ……しっかりしないと」
そう独り言ちながら、懐からスマホを取り出してロックを解除する。
対策委員会の皆、それとフレデリックとジャック・オーが写った写真がディスプレイに表示された。
フレデリックと戦った翌日、彼が学校を後にする前にノノミが強引に呼び止めて撮った写真だ。
皆それぞれが笑顔で映っている。フレデリックだけはちょっと固いけれど、それでもいつもに比べたら幾分か和らいだ表情だ。
これの写真には今のホシノが護りたいものが全部詰まっている。
この三日は、何かにつけてこの写真を見ていた。これを見ればどんなことでも乗り越えられそうな気持になれるから。
「よし! 明日からも借金返済、頑張ろう」
「これは驚いた。まだ本気で返すつもりだったとは」
不意に聞こえたその声に、ホシノは冷や水を浴びせられたような心地になった。
声がした方へ顔を向ければ、そこには銃を構えたカイザーPMCの兵士とカイザー理事が佇んでいる。
「……何の用? まだ約束の日じゃなかったと思うけど」
カイザー達にバレないよう、ひらっきっぱなしになっていたスマホに一瞬だけ視線を落としてアプリを起動する。
ボイスレコーダーのアプリだ。もしかしたら、何かこちらに有利になる情報を落としてくれるかもしれない。そう期待してのことだ。
「まあそうなんだがね。正直私達の中には是が非でも君が欲しいという者もいるのだよ。覚えているだろう? あの黒服だ」
「…………」
「彼には既に大分貸しを作っていてね。余裕のある大人である私としては? ここらで利子をつけてキッチリ返しておきたいのだよ。これからも良きビジネスパートナーであるために」
「能書きは良いよ。期限を待たずに今ここで私にアビドスを退学しろって言うんでしょ」
理事のもったいぶった言い方に、ホシノの声色は自然と硬く鋭いものへと変化する。
だが、そんなホシノの態度にも理事はその余裕を隠しはしなかった。
「君のその賢さもまた、我々からすれば実に好ましい。安心したまえ。この間提示した約束は必ず守るとも。あのフレデリックとかいう若造にも書類は送ってあるしな。最も、あんなガサツな男に紙切れの管理が出来るとは思っていないが……」
フレデリックを
だが、それをすぐに引っ込めてホシノは笑った。
「なにそれ。それはフレデリック先生に書類をちゃんと管理されてたら困るってこと? まさか、送った後で都合の悪いことを書いちゃったことにでも気づいちゃった?」
この男に自分の弱いところを見せるのはもうたくさんだ。そんなホシノなりの気持ちの表れだった。
そして同時に最近は大人には向かってばかりだな、ということを思い出してまた笑みを深める。
けれど、カイザー理事の余裕はなおも崩れない。小さく手を上げて背後にいる兵士に何かを合図したのをホシノは見た。
その直後、ホシノの顔から笑みが消えうせる。
黒いショートカットの髪、赤ぶちの眼鏡、尖った耳、綺麗に着こなされたアビドスの制服。
見間違いようもない。アヤネが猿ぐつわを噛まされ、後ろで手を縛られた格好でホシノの前に連れてこられた。
「アヤネちゃん!? アンタら……!!」
「賢い君になら分かるだろう、小鳥遊ホシノ? 奥空アヤネ、だったか。彼女の身柄がこちらにある以上、最早君に選択する自由などないのだよ」
勝ち誇ったカイザー理事の言葉にホシノは奥歯を噛みしめる。
アヤネを人質に取られた以上、理事の言う通りこちらに選択肢などないも同然だった。
それでも、ここでなすがままに成るわけにはいかない。
なんとしても、このクソッタレの計画に傷をつけるくらいのことをしてやらなければならない。
少なくとも、手元のスマホだけでもフレデリックかジャック・オーの元に届くようにしなくては。
そこでホシノはふと退部届のことを思い出した。
「……分かった。ただ、一つだけお願いがある……あります」
死ぬほど嫌だったけれど、ホシノはカイザー理事に向けて頭を下げる。
アヤネが必死にホシノを止めようと唸っている声が聞こえるけれど、心を鬼にして聞かないようにした。
「……まあ、聞くだけは聞いてやろうではないか」
そんなホシノの態度に勝ちを確信したのか、カイザー理事がそう言ってクツクツと喉を鳴らすように笑う。
しめた。ホシノは内心で笑った。
「学校に退部届を取りに行きたいです。アレがないと、正式にアビドスを辞めることが出来ないから」
「んーーーッ!? んんーーーッ!!」
「こら! 大人しくしろ!!」
ホシノの決断を止めようと暴れ出したアヤネをカイザーPMCの兵士が殴りつける。
「なっ!? 私の大事な後輩に何してるんだ!!」
ほとんど頭に血が上り切りながらも、ホシノは握りしめたスマホでこのやり取りを録音していることを悟られない為に銃を握れなかった。
そのことが却ってホシノの頭を無理やりに冷やす。
「すぐに学校に行って戻って来る。だから、アヤネちゃんに手を出すな」
「良かろう。だが、一人で行かせれば何をするか分からんからな。悪いがこちらから一人兵士をつけさせてもらうぞ。それと、学校の前までは送ってやろう」
理事の言葉にホシノは小さく頷いて従うことにした。
PMCの兵士がこちらに近づいてくる。その前に自然な動作でボイスレコーダーを止めて画面ロックをかける。
最低限の会話はこれで録音できたはずだ。後はこれを先生達に渡せれば、それを突破口にして必ず助けに来てくれる。
祈るようにそんなことを考えながら、スマホをスカートのポケットに放り込んでPMCの兵士に促されて軍用車両に乗り込む。
ホシノの対角線には縛られたアヤネが座らされた。
今にも泣きそうな表情でこちらを見つめてくるアヤネに微笑みかける。
「大丈夫だよアヤネちゃん。私がアヤネちゃんを、皆を護るから」
ホシノの言葉に目を見開き、それから心の底から悔いるようにギュッと目を泣くのを我慢するような顔をしたアヤネにホシノは幾分か申し訳なさを覚えた。
それでも、今ホシノに出来るのはこれが精いっぱいだ。
あとは、先生達にバトンが渡るようにすることしか出来ない。
そうして車に揺られていると、徐々に減速をしていることに気が付いた。
車が止まり、ドアを開けられる。
真っ暗な闇の中に外灯がぽつぽつと灯った、なんとも寂しげな雰囲気のアビドス高校が目の前にある。
「では、早急に退部届を提出してきたまえ」
いつの間にか傍に立っていたカイザー理事を
その後ろからPMCの兵士が銃口をこちらに向けながら付いてきた。
昇降口を過ぎて、廊下を歩く。
そうして部室にたどり着くと、ホシノはさっきジャック・オーから隠した退部届を取り出した。
「まさか……こんなすぐに役に立つことになるなんてね」
苦笑いをしながら、チラリと肩越しに背後を振り返る。
お付きの兵士はこちらに銃口を向けてはいるが、かといってこちらの一挙手一投足をつぶさに観察しているという気配は感じない。
ホシノ側に抵抗する意味がないと分かっているからだろうか。
だが好都合だ。これならいけるかもしれない。
ホシノはわざとらしく退部届を持ち上げて、書いてある内容を読み上げる。
「アビドス廃校対策委員会の退部・退会を希望します。理由は……一身上の都合で、退会させてください、と」
そして、ペンを探すふりをしてスカートに手を突っ込む。
「ええっと……ボールペンどこにやったかな」
ペンを探すふりをして、ポケットの中のスマホを机の上に置く。
探してみたけど見つからない、と大げさに肩をすくめてホシノは机の上のペンケースに入ったボールペンを手に取った。
兵士からは特に何も言われないことに、ホシノの口角が僅かに上がる。
「生徒氏名、小鳥遊ホシノ……と」
読み上げながら自分の名前を書き、それから退部届の隅に小さく”0102”と書いてカバンの中に入れっぱなしだった先生と後輩達にあてた手紙を数字を隠すように置く。
今一度机の上のものを確認するふりをして退部届を隠していたノートをスマホの上に置く。
「お待たせ、兵士さん。いこっか」
「さっさとしろ。理事は気が短いんだ」
「まあまあー。って、兵士さんに行っても仕方ないかー」
兵士に促されるまま、ホシノは部室を後にする。
そうして再び校門前まで戻ってきた時、理事の隣にはあの不気味な”黒服”がいた。
「アンタは……」
「先日ぶりです、小鳥遊ホシノさん。こんなところで立ち話もどうかと思いますし、単刀直入に行きましょう。……以前お誘いした件について、契約に同意頂けるとお聞きしまして」
「……契約書にサインしろ、でしょ」
「話が早くて助かります。書類はこちらにありますから、さっそくどうぞ」
黒服が背後の兵士に目配せをして、バインダーに挟まれた書類とペンをホシノに差し出す。
改めて契約書に目を通すが、内容はまあ酷いものだ。
ホシノが持つ生徒としての全権利──アビドス生徒会としてのものも含む──を黒服へ委譲し、代わりにアビドス高校が背負っている借金の全てを黒服が負担する。
バカげた契約だ。冷静な今なら分かる。こんなもので借金を返したところで、アビドスは護れない。
でも、今のホシノはもう
こんな紙切れ一枚の契約なんて、全部燃やし尽くしてくれる頼もしい”大人”を知っている。
だからこれは賭けだ。
自分のこの行動で、先生達が黒服たちの計画を潰す突破口を開いてくれるか。
それともその前にアビドスが無くなってしまうか。
分の悪い賭けだと理性がささやく。それでも、ホシノはこの賭けに勝てると信じていた。
熊からパンダが生まれることもある。それを証明してくれると、フレデリックはホシノに約束してくれたから。
ペンを受け取り、契約書にサインをする。
「……これで良い?」
「……はい、確かに。これで貴方の持つ全ての権利は私の元に委譲されました。では、これから何卒よろしくお願いしますよ小鳥遊ホシノさん」
「…………」
黒服の芝居がかった態度に肩をすくめると、どこから出て来たのかアヤネが黒服の後ろに立っていた。
一体、どうしてそんなところにホシノが視線を鋭くしたその時だ。
アヤネがずっと縮こまっていた体をほぐすように急に伸びをし出した。
まるで、捕まっていたのが演技だったみたいに。
「あ、アヤネ……ちゃん?」
一体どういうつもりなの、とは聞けなかった。
何故なら、ホシノは目の前で信じがたい光景を目の当たりにしたから。
「いやぁ~、僕もなかなかな演技だったでしょ? 主演男優とか狙えちゃったりするかな?」
「種明かしはもう少し後でも、良かったのではないですか?」
「あ~、ここまで来たら誤差だよ黒服君。どのみち小鳥遊ホシノからサインももらったんでしょ?」
「…………そうですね。私の目的はこれで達成です」
聞き馴染んだアヤネの声から、軽薄そうで胡散臭く、そしてどこか気味の悪い男の声へと変化していく。
そして、ずっとアヤネの姿を見ていたはずなのにその姿はいつの間にか青白い不気味な肌、額から伸びる一対の角、×の形をした実用性に欠けるサングラスをかけた大人の男のものへと変貌していた。
その男の姿に、ホシノの口から思わずその名前がついて出る。
「ハッピー……ケイオス……」
ホシノの呟きにケイオスは不気味な笑みを浮かべてこちらを見た。
「んふ、ソル──フレデリックから聞いていたかな? 初めまして。僕がハッピーケイオスだ。よろしくね、小鳥遊ホシノちゃん?」
「アヤネちゃんをどうした」
ホシノの口から漏れ出したのは絶対零度の怒りを込めた唸りにも近い問いかけだ。
けれど、そんなホシノに対してケイオスはへらへらとした態度を崩さない。
「おいおーい、見て分からないかい?」
「……最初からアヤネちゃんなんていなかった。全部お前の変装だった。そういうこと?」
「正解! 君は本当に見ていて飽きないよ。役者としても優秀だしね?」
「……?」
一瞬、ケイオスの言葉の意味が分からなかった。
そんなホシノにケイオスがスッと歩み寄り、彼女にだけ聞こえる大きさでささやきかける。
「さっき脅された時の音声データ、部室に置いてきたんでしょ?」
「ッ!!?!?」
今度こそホシノの背筋は凍り付いた。バレていたとすると、自分の行動は最悪にも近いものになる。
指先の感覚が消えるほどに冷え、呼吸がわずかに乱れ始める。
しかし、そんなホシノにケイオスはささやき続ける。
「安心して? 気が付いているのは僕だけだし、僕はそれを彼らにバラすつもりはないから」
「なん……で?」
「そりゃあ、その方が面白そうだからさ」
ホシノから離れながら、ケイオスは愉快そうに笑ってそう答えた。
「君の願い、叶うといいね?」
「ケイオスさん、もうよろしいですか? では、こちらに来てもらいましょうかホシノさん」
「……先生、後は頼んだからね」
兵士に連れられながら車に乗り込んで、扉が閉められる。
それと同時に、ホシノは今ここにいない”大人”に祈った。
そうして、アビドス高校からホシノを乗せた車は走り去っていった。
感想一杯ありがとうございました。
例によって更新優先で返せていませんが、目は通させてもらってます。
これからもよろしくお願いします。