キヴォトスの某所。
都市部に存在する一つのビルの前で、フレデリックはバイクを止めた。
バイクから降りてそびえ立つビルを見上げる。
それなりの高さに管理の行き届いた外観から、ここにオフィスを構えられるのが並以上のものであることが伺い知れる。
眉間に深い皺を刻みながら、フレデリックはそのビルの中へ入っていく。
エントランスには受付係はおろか、警備スタッフの一人すら見当たらない。
警備システムに余程の自信があるのか、あるいは自分は絶対に襲われることがないと過信したバカなのか。
どちらでもよいことだ、とフレデリックは鼻を鳴らして奥へと進んでいく。
やがて、稼働しているエレベータ―を見つけた。
ボタンを押し、エレベーターを呼んで乗り込む。
ご丁寧に、行き先であろうフロア以外のボタンは押せないようになっていた。
エレベーターがゆっくりと上昇していき、やがて止まる。
フレデリックはエレベーターを降り、エレベーターホールの突き当りにある扉へ向かって歩いて行った。
そのままノックもせずに乱暴に扉を開ける。
扉の先、それなりに高級そうな机に両肘をついて胸の前で手を組んだ異形がそこにはいた。
その異形は、
「……お待ちしておりました。フレデリック=バルサラ先生。あなたとは一度こうして、顔を合わせてお話ししてみたかったのですよ」
「御託はいい。ホシノの居場所を教えろ」
異形の言葉をフレデリックはにべもなく
そんなフレデリックを前に、異形は小さく肩をすくめる。
「そう気を昂らさずに。コーヒーでもいかがですか? 中々良い豆が手に入りまして」
「ソイツは驚きだ。テメェとコーヒーブレイクをする相手がいたとはな」
「今初めて出来ましたとも。用意しておいて良かったというものです」
声を弾ませながら異形の男は部屋の隅にあるコーヒーメーカーに瓶詰されたコーヒー豆を入れていく。
異形がスイッチを押すと騒がしい機械音と共にセットした豆が挽かれる音が静かな部屋の中を跳ね回る。
その間も異形は二人分のカップやソーサー、スプーンやスティックシュガーなどいそいそと用意する為に歩き回るその様を、フレデリックは冷めた目で見つめていた。
やがてコーヒーメーカーの機械音も落ち着きだした頃、異形がそれぞれのコーヒーカップにコーヒーを注ぐ。
「フレデリック先生、いかがですか? あいにくミルクは用意できませんでしたので、スティックシュガーだけとなりますが」
「…………」
異形の誘いに、フレデリックは特に返事をすることもなく差し出されたコーヒーカップを手に取る。
「では、私と先生の出会いに乾杯を──とでも言っておきましょうか」
クックック、と喉を鳴らすように笑ってから異形はコーヒーカップを傾ける。
一体どこにそんな空間があるのか、まともな口もないように見える異形は、けれど一滴たりともこぼすことなくコーヒーを飲み下す。
それを見てからフレデリックはまだ熱いコーヒーでやけどをしないように少しずつカップを傾ける。
濃厚な香りに深みのある味。確かに良い豆というのは嘘ではなかったらしい。
そうしてお互いに静かにカップを傾け始めてどのくらい経っただろうか。
「……さて。そろそろ本題に入りましょう。あなたのことは知っています。いえ、あなた方、というべきでしょうか。連邦生徒会長が呼び出した、不可解な存在。あのオーパーツ【シッテムの箱】の力を使える者の一人であり、連邦捜査部【シャーレ】の先生の一人でもある」
シッテムの箱という名前が目の前の異形から出て来たことで、フレデリックの眉がわずかに動く。
誰にもアロナのことを話していないのだが、それを知り得ているということはケイオスに入れ知恵をされたか、あるいは何らかの手段でそれを感知できる技術か能力を持っているのか……。
どちらにしても厳重警戒するに値する相手であるというのは間違いなかった。
そして、それはどうやら相手も同じだったらしい。
「あなた方を過小評価するものもいるようですが、私達は違います。……まず、はっきりさせておきましょう。私達は、あなたと敵対するつもりはありません」
異形の言葉に、フレデリックは思わず耳を疑った。
今、コイツは敵対するつもりはないと言ったか? ホシノをあんな手段でさらっておいて?
フレデリックの脳裏に数時間前、ジャック・オーから聞いた話を思い出す。
フレデリックがアビドスを離れている間、ホシノがカイザーにアヤネを人質に取られて退学手続きをさせられたとのことだった。
不幸中の幸いだったのは、ホシノがとっさに機転を利かせてその時の会話をスマホで録音し、それを部室に置いて行ったことだ。
この数日でフレデリックが集めたカイザーPMCの違法取引の証拠と合わせれば、あの不当な金利の引き上げと賠償金をなかったことに出来るだろう。
「何かの聞き間違いか? 生徒一人、誘拐しておいて敵対するつもりはないと聞こえたが」
ドスの聞いた声で切り返したフレデリックだったが、異形はケロリとした様子で答えた。
「聞き間違いではございませんよ。それどころか、私達はあなた方と協力したいと考えています。私達の計画において、一番の障害になりうるのはあなた方だと考えているのです」
状況を理解していないのか、理解した上で言っているのか。
いずれにせよとてもまともとは言えないような話をしてくる異形を相手に、フレデリックの眉間にみるみる皺が寄っていく。
それに気づいているのかいないのか、異形はすらすらと話し続けた。
「私達に取ってアビドスなんて小さな学校は、全くもって大した問題ではありません。ですがあなた方……少なくともフレデリック先生。あなたの存在は決して些事とは言えない。敵対することは避けたいのです」
「お前達は一体何者だ?」
フレデリックの問いかけに、異形は本当に忘れていたと言った態度でスッと背筋を伸ばした。
「おっと、そう言えば自己紹介をしていませんでしたか? 私達はあなた方と同じ、キヴォトスの外部の者……ですが、あなたとはまた違った領域の存在です」
「………………」
「適切な名前がありましたので、今はそれを拝借して使っております。私達のことは【ゲマトリア】、とお呼びください。そして私のことは、【黒服】とでも。この名前が気に入ってましてね」
愉快そうに肩を震わせて黒服はなおも語り続ける。
「
「寝言は寝てから言え。それとも、ぶっ飛ぶような爆音の目覚ましをお望みか?」
黒服の言葉に静かな怒りを滲ませながら、フレデリックは手元にジャンクヤード・ドッグを転送して構える。
フレデリックの明確な拒絶の意志に、黒服は心底残念そうに肩を落とした。
「……左様ですか。真理と秘儀を手に入れられるこの提案を断ってまで、あなたはキヴォトスで何を追求するおつもりなのですか?」
黒服の問いかけに、フレデリックはただ鼻を鳴らすだけだった。
「最初からテメェとの問答に興味なんてねェ。ホシノを返せ。アイツは天国のゴシップなんて知らねぇ。黙って返せば見逃してやる」
フレデリックの強気の態度に、しかし黒服もまた怯むどころか喉を鳴らして笑いだした。
「あなたの行動に正当性がないことにお気づきですか、先生? 今のあなたに一体何の権利があって、そんな要求をされているのでしょう? ホシノはもうアビドスの生徒ではありません。届け出を確認されていないですか?」
「届け出っていうのは、退部届とか言う紙切れのことか? 確かに、受け取りはしたな」
「ではお分かりになるでしょう。彼女はもう──」
「だが
「……ほう?」
フレデリックは畳みかけるように続ける。
「めんどくせぇが、今の俺はアビドス廃校対策委員会の【顧問】でな。生徒の入退部の承認は俺がやらなきゃならねぇ」
「…………」
「このところはアビドスにちょっかいをかける馬鹿どものせいで忙しくてな。退部届を受け取ったはいいがサインをしてねぇんだ」
黒服がフレデリックの意図を察したのか、組んだ両手で口元を隠すように体を沈み込ませた。
それを見てフレデリックはニヒルな笑みを浮かべて言い放つ。
「だから、ホシノはまだ対策委員会の所属だし、今でも俺達の生徒ってことになっている」
「なるほど……」
フレデリックの言葉に納得をしたのか、黒服はそれだけ言って深呼吸をし背筋を再び正した。
「あなたが【先生】である以上、担当生徒の
先程までの愉快そうな雰囲気は鳴りを潜め、大きな問題を前にため息を堪えた様な声でつぶやく黒服にフレデリックは笑った。
「は。何を馬鹿なことを言ってやがる。テメェらの大好きな契約とやってることは何も変わらねぇ。ただ契約の内容が、少しビジネスのソレとは違うだけだ」
「ふむ。つまり、契約を結びあなたの保護下に入った以上はあなたが彼女達を守る、と。そして彼女達がその契約を終わらせたいと申し出た時、あなたがそれを承認すれば彼女達は晴れて自由の身。その代わり、あなたの庇護は得られなくなる。そういうことですか」
「まあ、そういうことになるな」
フレデリックの答えに、黒服は納得がいかないと言わんばかりに小さく唸った。
「フレデリック先生。失礼ですが、契約というのは双方が対等であること、そして双方に利益があることが大前提です。あなたのその契約は、あなたの方がずっと優位に立っている。あなたの意志一つで生徒の意志などなかったことにしてしまえる。今が正にそうだ。もっともらしい理由をつけてはいますが、事実あなたはホシノの意志を踏みにじって退部を認めずにいる。それに、この契約はあなたへのメリットがあまりにもない。こんなもの、とてもじゃありませんが契約とは呼べません。あなたの奴隷宣言ようなものです」
黒服の指摘に、けれどフレデリックはそれを鼻で嗤い飛ばした。
「それの何が問題なんだ?」
「……は?」
フレデリックの開き直った態度に黒服は呆気にとられた。
「卑怯だろうが利益がなかろうが何だろうが、サインをさせたらこっちのもんだ。その時点で契約は成立するんだからな。そして、知識も力もないヤツの言い分なんざいくらでも煙に巻いて誤魔化して自分の都合の良いように話を進める。よくある話だ。……そうだろう?」
「…………」
「それに俺がやってるのはルールの範疇だ。確かに俺は退部届を出された。だが、いつまでにサインをしろとは誰からも言われていない。ホシノからもな。だから俺はこの件を重要なものだとは判断しねぇし、重要なものじゃねぇから対応は後回しだ。それよりもホシノの進路相談がまだ済んでねぇんでな、俺はそっちをやらなきゃならん」
「持つ者が、持たざる者から搾取する。知識の多いものが、そうでないものから搾取する……あなたはそうおっしゃるおつもりですか」
黒服の言葉に、フレデリックは再び嗤った。
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺のは立派にWin-Winな契約だ。テメェらとは違う」
「どうあってもホシノを諦めるつもりはないと? 彼女さえ諦めれば、アビドス高校も、カイザーPMCとのいざこざも、全て私達の方で解決すると言っても?」
「何度も言わせるなよ。ホシノは返してもらう」
フレデリックの
それはまるで、会話の成立しない顧客とのやり取りに疲れ始めた受付窓口のようですらあった。
「どうあっても、私達と敵対するおつもりだと? 確かにあなた方は強い。神秘の代わりに、神の力ともいえる……ハッピーケイオスは”法力”と言っていましたね。それを使えるのであれば、確かにキヴォトスではどんな相手が来ようとそれなり以上に戦うことが可能でしょう」
ケイオスの名前を同時に法力という単語まで出されたことに、フレデリックの表情から笑みが消える。
ゲマトリアに法力技術が渡るとなると、かなりマズい状況だからだ。
しかし、そんなフレデリックの内心を勘違いしたのか黒服は首を小さく横に振った。
「ああ、勘違いなさらぬよう。確かに私達は一時的にハッピーケイオスと名乗る男と協力関係ではありますが、仲間と言う訳ではありません。彼は少し……危険すぎます」
「ほう。未知と真理を探究するお前等が、あのイカレ野郎を取り込もうとしねぇとはな」
「おっしゃる通り、彼の持つ知識や技術は喉から手が出るほど欲しいですよ。ですが、そう……これは私の勘とでも言いましょうか。だからこそ深入りは危険だと、私は判断しました。もっとも、私とは違う考えの者もゲマトリアにはいるようでしたが」
黒服の言葉にフレデリックは内心で舌打ちをした。
目の前の異形はともかく、ゲマトリアという集団にはケイオスを求める存在がいる。
全員ではないだけマシだが、それでも安心して良いとは言えないだろう。
「話を戻しましょう。何故、あなたはあのちっぽけな学校の生徒にそこまで入れ込むのですか? それだけの力を持ち、あまつさえシッテムの箱の権限を手にした時点であなた方はキヴォトスを支配できるだけの権力をも手にしていた。なのに、あなた方はそれを迷わず手放した。理解が出来ません」
黒服の疑問にフレデリックは目を閉じてキヴォトスに来てからの短くも濃密な時間を思い出す。
自分との──”大人”との初対面で銃口を突きつけてきたホシノの独りであることに努めようとした目。
信用できない大人を、それでも傷つくところなど見たくないと引き留めたセリカ。
”大人”に利用され続け、未来を悲観しそれでも足搔いていたヘルメット団達。
欲しいものの為に、苦難を前にしても俯くことなく前に進むと宣言した便利屋68。
ひょんなことから共闘し、対策委員会達と確かな絆を築いたヒフミ。
たった独りで戦うヒナを支えようと、彼女の傍にいたゲヘナ風紀委員会のメンバー。
そんなホシノを繋ぎ留めた対策委員会の生徒達。
色々なことがあった。色々な想いを持った生徒達がいた。
それはまさに色とりどりの花火だ。
「……花火は好きか?」
「はい?」
唐突なフレデリックの問いかけに、黒服は首を大きく傾げた。
そんな黒服に構わずフレデリックは語り続ける。
「俺は昔、独りであることに努めてきた。俺が望んだ、俺の世界だ。ところが、そんな自分の世界を持った奴らが、あちこちぶつかってきやがった。惚れただの、守りたいだの、成り上りたい、取り戻したい、やり直したい。そりゃもう、ガンガンと鬱陶しくな」
「…………」
「まるで花火さ。だがまあ、おかげで色々と気づくこともあった。そういう花火とぶつかるのも、悪いもんじゃねえってこともな。俺にとっちゃあ、アビドスは今花火を見るのにいい時期なんだよ。その楽しみを、テメェらみたいな
「……何を言っているのかさっぱり分かりませんね」
黒服が困惑した声でカップに残っていたらしいコーヒーをすする。
それだけでは気分が落ち着かないのか、ゆっくりと深呼吸のような動作をしてからゆっくりとカップをソーサーへと置いた。
「あなたのその楽しみ……それは真理と秘儀、権力、お金、力……その全てを捨てることよりも価値があるとおっしゃるのですか?」
「隠居生活にテメェの言うもんは欠片も役に立たないんでな」
「……そうですか。残念です。私はあなたのことを結構気に入り始めていたのですが……」
「悪いが、付き合う相手は選ぶ主義でな」
「……クックック。先生、ホシノを助けたいですか?」
黒服の言葉にフレデリックの視線が鋭くなる。
そんなフレデリックに黒服はやや愉快そうな声色で続けた。
「ホシノは、アビドス砂漠のPMC基地の中央にある、実験室にいます。【ミメシス】で観測した神秘の裏側、つまり恐怖。それを、生きている生徒に適用することが出来るか──そんな実験を──」
黒服は己の計画を話し終わるその前に、凄まじい悪寒を感じた。
濃厚な死の気配、とでもいうべきだろうか。そんな凄まじい圧力を前に、とっさに座っていた椅子を後ろに蹴り飛ばして机の下に体を隠す。
直後、机が粉みじんに吹き飛びその破片が黒服へと幾つも突き刺さる。
黒服を襲った圧倒的な暴を伴った嵐が収まって彼が顔を上げた時、既にそこにはフレデリックの姿はなかった。
「荒っぽい人、とは聞いていましたが。なるほど……【シャーレの暴力教師】の名前は伊達ではありませんでしたね」
黒服以外に誰もいなくなった荒れ果てた部屋で、黒服はまた喉を鳴らして笑う。
「正直、私はあなたがまだ理解できておりません。何故ホシノがあなたにあれほどの信頼を置くようになったのかも。……ですので、フレデリック=バルサラ先生」
黒服はふと床に視線を落とす。フレデリックが飲んだコーヒーが入っていたカップが粉々に砕け、中のコーヒーが床にこげ茶色の水たまりを作っていた。
その水たまり越しに黒服は自分の異形な頭を映しながら小さく笑う。
「……ゲマトリアは、あなたのことをずっと見ていますよ」
その小さく不気味な笑い声は、荒れ果てた部屋の中にしばらく響いていた。
残すイベントはあと一つ。
ホシノ奪還戦のみとなりました。
アビドス編もいよいよ一旦の終わりが近づいております。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。