薄暗闇の中、その男はただ寝台に横たわっていた。
安定した息のリズムは、まるで深い眠りの中にいるようだ。
だが、男は決して眠っているわけではなかった。
その証拠に、その眼は見開かれている。
いや、目の端から裂けそうな程、見開かれ過ぎていた。
眼球はあらぬ方向へ向き、白目しか見えない。
限界以上に見開かれているのにもかかわらず、だ。
端からは涙がとめどなく流れている。
更には、口や鼻から体液が流れ落ち、男の異常な状態を示していた。
その様は、拷問にかけられた罪人を思い起こさせる。
しかし、男の身体には、何の責苦もなされてはいなかった。
男は、ただ寝台に横になっているだけだ。
更に言うならば、その身には今一丈の縄も、身を縛る何物も無かった。
それでもなお、男の表情はこの世のあらゆる責苦を科せられたかのように苦悶の相を浮かべている。
表情のみ自由を与えられてでもいるのか、それ以外は安静に寝ているかのような姿は、あまりに異質で禍々しい。
男は、ガイゼルリッツ皇国フェルン候シュラート配下の衛士分隊長ブリアン、今は臨時の『門』偵察部隊の小隊長だ。
普段は、領主の命の下、港町カーゼルの衛士を取りまとめている分隊長の一人、という事になっている。
だが実体は、領主の威光の下に無数の暴虐を重ねる不徳の輩。
今回こそ領主の命で偵察部隊などを率いてはいるが、普段は無頼の徒が余程まともに見えると言う、いわば人間の屑とでもいうべき者だった。
故に男の今の様を見れば、ブリアンが幅を利かせている地区の住人なら、誰でも手を叩き喜びの声を上げるだろう。
「……で、よかったかしら、ブリアン? ああ、ごめんなさい、今はそれどころではありませんわね。
私ったら、<
涼やかなハスキーボイスは、横たわる男の横に立つ美女からの物だ。
声色はあくまで穏やかに……しかし男へ向ける視線は、全てを凍て付かせる一切の温もりの混ざらぬモノ。
側頭部から延びる羊めいた角。夜の月を思わせる白銀色の髪に褐色の肌。
彼女は、悪魔……その支配者たちに属するモノ。
夜光が此れからの方針を語ったのは先刻の事だ。
『外』を知るために、夜光自身が外へと赴く。
だが現状では外に関して断片的な情報しかなく、また外の細かな風習なども判別しかねる。
何より夜光は最上級の魔王さえ認めた力の大半を失っている。
となれば、単身での道行は困難に過ぎるだろう。
その対策として夜光が考えたのが、この偵察兵達だった。
吸血鬼マリアベルの催眠の視線に囚われた者達は、自由を奪われると同時に暗示にかかりやすくなる。
捕えた兵達には、同行者として魔術師……つまり夜光が居たと思わせることにしたのだ。
また夜光のみでは危険が伴うため、九乃葉が意図的に位階を抑え子狐になり、使い魔に見せかけ護衛する事となっている。
偵察兵達は、当初の予定で後数個の門を巡る。
夜光としても、他の門に興味があるため、とりあえずはその間偵察部隊に同行することにした。
その間別働として、比較的人間に偽装しやすいマリアベルとリムスティアが、旅人として町に先行する手はずになっている。
夜光が留守の間、門の付近の偽装の指揮と万が一外部からの侵入者への対処は、人への偽装が難しいゲーゼルグが担う事となった。
既に、それぞれ出発の準備にとりかかっている。
偵察兵達は、元々数日で予定していた門を回ることとなっていたため、余裕が無いのだ。
部隊の帰還が遅くなれば、領主等に要らぬ刺激を与えかねない。
夜光が偵察兵達と遭遇したのが午前のまだ日が高くない頃だ。
そして、竜の翼でこの万魔殿へとたどり着いたのが昼過ぎ。
この万魔殿から世界の入り口たる転移の魔法陣へは、夜光がアイテム倉庫に保管していた転移の魔法アイテムを使用できる為一瞬で移動できるが、それでも日暮前には『外』へと出る必要があるだろう。
そのため、偵察兵達に急ぎ暗示を仕込む必要があった。
その役を買って出たのがリムスティアだ。
彼女は精神への干渉と能力減衰系の魔法に秀でた、七つの大罪の内の色欲に属する魔王だ。
また、配下も淫魔や夢魔、その他精神に働きかけを行う悪魔がそろっている。
その為、更なる情報収集も含めて、捕えられた全ての偵察兵達は、リムスティアに預けられた。
その結果……
リムスティアは今居る部屋を見回す。
その部屋は、今は主に物置に使用されている部屋だ。
元が魔獣用の住居用であり、頑丈でまた壁が厚く、魔獣特有の大声なども他の部屋に通さないほど防音機能が高い。
今この部屋に居るのは、捕えられた偵察兵達と無数の夢魔達だ。
偵察部隊の有る者は、左右から淫魔に囁かれ忘我の表情を浮かべ、また有る者は馬や羊の姿を持つ夢魔に眠りに誘われ、快楽の夢に囚われる。
果てなき混沌の中、最後に刻み込まれるのは、彼女たちの主人、万魔殿の主への絶対的な隷属だ。
それは、明らかに暗示の域を超えている。
リムスティアの配下たち無数の淫魔や夢魔は、夢や幻覚の魔法を操り、教育……もしくは調教と言えるモノを行っているのだった。
初めに、催眠状態のまま夢に誘い、完全に精神をむき出しにした状態で記憶を探り、知り得る情報を搾り取る。
その後に、深層心理へと、暗示を刻み込む。
正気に還った頃には、無意識に夜光を守る兵と化しているだろう。
全ては、彼女たちの主を守るため。
だが、隊長のブリアンへだけは、その領域をはるかに超えた仕込みが行われている。
ブリアンほどの過酷な『教育』は、他の者にはなされていない。
……当然だ。
何故ならこの男は、魔王リムスティアの主を傷つけたのだから。
……ミロードが昨夜までのお力をお持ちであったなら、このような輩に不覚を取ることもありませんでしたのに……
やっぱり、世界の滅びに巻き込まれて、衰弱されてしまったのかしら……?
リムスティアは夜光を想う。
かつて、魔王たる彼女さえも圧倒した魔力を。その力を。
同時に、同じ時を過ごした時間を。
そういえば、今の夜光様のお力は、初めてお会いした時と同じくらいかしら? 懐かしいわね……
リムスティアの脳裏に浮かんだ夜光との出会いは、ある意味召喚者と使い魔との出会いとしてはありふれた部類に入る。
まだ力も名もない
小悪魔は、召喚魔法の力により、その魔術師の前に呼び出された。
契約自体もありふれたものだった。
術者の
しかし、それからの日々はありふれてなどいなかった。
術者、夜光は筋金入りの召喚魔術師だった。
あらゆるモンスターを仲間にすることこそが冒険の目的だ、と言い切り、無数の冒険を重ねた。
そして、ある夜。
新たな位階を踏みしめた彼女は……主の願いにより、
ふと、リムスティアは己を見下ろす。
扇情的な装束、圧倒的かつ淫蕩なスタイル。
男の欲望を一身に受けるかの如くなこの姿が、主の願いの産物なのだとしたら……
主は、彼女を『求めている』のだろうか?
フルリと、リムスティアは甘いモノが背筋を走るのを感じた。
これは、あの3月前の声を聴いてから感じ続ける心地よさ。
意思を持ってしまったからこそ理解できる、これは悦びだ。
無数の時を同じくし、冒険の中支えあった記憶は、少年の姿を持つ主を心に焼き付けるのに十分過ぎた。
その相手が、自分を求めているのかもしれない。
思うだけで体の芯がじっとりと熱をはらむ。
自身の称号、
故に、だからこそ。
リムスティアは寝台に横たわる男……偵察兵達の隊長、ブリアンを見下ろす。
この男は許せない。
暗示などでは決して済ませない。
主の指示は、5体満足で『外』に帰し、暗示でこの世界の事を忘れさせること。
なら、それに反しない形で報いを受けさせよう。
「ミロードに刃を向けた貴方だけは、許せる訳が無いわよね? マリー達皆も……貴方だけは許せないって言っていたもの……ね?」
おっとりと、それでいて艶然と冷酷に、その美女は苦悶の相を浮かべる男へと囁きかける。
その瞬間、いままでただ息をするばかりだった男の体が、雷を受けたかのようにビクンと脈打つ。
続けて何度も何度も……数瞬前の静けさが嘘であったかのように。
傍らの美女は特に何もしていない。
ただ、一言囁いた後は、男の様子を眺めているだけのように見える。
しかし男は、身体をビクつかせ、異常を示し続ける。
「あら? あまりお気に召さなかった? 不思議ですわ……貴方がいままで行ってきた暴力の痛みを感じてるだけなのに、ねぇ?
特にミロードへの仕打ちは何千倍にも感じるようにしたけれど、構わないですわよね? すべて、貴方がしてきた事ですもの」
実際に男が感じているのは、リムスティアによる精神への攻撃魔法で引き起こされた、巨人の集団に殴打され、鋭い刃で切り刻まれ続けるような激痛だ。
肉体には一切影響を及ばさない代わりに、精神へ直接送り込まれる暴虐に男の心は奥底まで浸食され、蝕まれ、磨り潰される。
それを何度も何度も、延々と、執拗に。
既に男は、あまりに過酷な精神の責め苦に幾度となく発狂し、心を壊された。
だが、その都度、心の欠片を無理やりに寄せ集められ、強制的に正気へと戻される。
彼女からは逃げられない。
魔王リムスティアの悪夢の牢獄からは、逃げられない。
男にとっては既に何百年もたっているかのような時間が過ぎていく。
しかし、実際には、まだ『調教』が始まり半刻もたってはいない。
幻覚の魔法は、それを受けた者の時間の感覚さえ幻に包むのだ。
そして……大した時間を待たずして、その男ブリアンの心は摩耗し切った。まさしく廃人一歩手前という有様だ。
その様子にリムスティアは満足げに頷くと、一体の
「デクセン、いるかしら?」
「御身の傍に」
振り返ると、そこに居たのは、直立した羊と言った姿の悪魔だった。
一見コミカルに見えるが、位階はこう見えても
名は<
『アナザーアース』では、ある国の王に取り付き、悪政を行わせようとするイベントモンスターであり、特定の手順を踏むと召喚魔法で契約できる悪魔の一体だ。
そのデクセンへ向け、魔王リムスティアは命を下す。
「デクセン。貴方は、この男に取り付いて、町で私と合流するまでミロードをお守りしなさい。ただし、決してミロードには正体を悟られないように」
「畏まりまして御座います。……コストはこの男から得ればよろしいので?」
「ええ、好きになさい。この男に関して、ミロードには忠実な部下になるような暗示をかけたと伝えておくわ」
デクセンは、対象の精神に憑りつき、操ることができるモンスターだ。
強い精神の者ならば対抗できるが、弱い精神の持ち主では完全に体を乗っ取ってしまうと言う。
コストも
ミロード、お言葉の通り、5体満足で『外』に帰し、暗示でこの世界の事を忘れさせましたわ♪
デクセンが憑りつき起き上がるブリアンを眺めつつ、リムスティアはまるで小悪魔のように悪戯っぽく微笑むのだった。